ゼロの影~The Other Story~-14


其の十四 誰かが誰かであるために

 彼はどことも知れぬ空間で、瓦礫にもたれかかるようにして身を横たえていた。冷たい地面は彼の身体を捕らえ、放そうとしない。
 その前には巨大な扉があった。神の金属に似た神秘的な煌めきと岩山を思わせる重厚さがある。
 それを開ければ大切なものが取り戻せる気がしたが、体に力が入らない。
 どうしようもない深い疲労が全身を包んでいる。限界まで光の闘気で火あぶりにされたような気分だった。
 力という力を根こそぎ奪われ、立ち上がることができない彼の足元に見えない手が忍び寄る。
 どこまでも深い虚無が彼を引きずりこもうとしている。それに身をゆだねればもう苦しまなくてすむ気がした。
(――様)
 呟きかけた名に首をかしげる。
 じわりと力がにじんだが、すぐに手の中をすり抜けていった。

 ルイズが自分の部屋に戻ると眠りから覚めたウェールズが困惑した様子で訊ねてきた。
「いったいどうしてしまったんだ? いくら話しかけても返事どころか反応すらしない」
 記憶を闇に沈められた結果心が砕けたと告げると、ウェールズの顔に浮かんだのは憂慮ではなくまぎれもない怒りだった。
 ルイズが意外そうに見つめるとすぐに消えてしまったものの、見間違いではない。ウェールズは視線を避けるように部屋の中を歩き回る。
「今のあいつ……彼は燃え尽きた灰のようですわ」
 立ち上がるためのきっかけは何もない――そう悲観的な言葉を漏らすルイズにウェールズは穏やかに問いかけた。
「心当たりはないかい? 彼の記憶や心を取り戻すための何かに」
 もちろんある。彼の主だ。だが、今大魔王からの声は届かなくなっている。
 最大の望みが潰えた今、道しるべは無い。
 ただ単に主のことを語って聞かせても心には届かないだろう。
 ルイズは考えた。頭が痛くなるほど考えた。
 そして結論を出した。

 ルイズは草を踏みしめ、風を吸いこんだ。
 タルブの村の草原に立った彼女らは夕焼けを待っていた。
 壮絶なまでの美しさを誇る草原ならば彼の心をも蘇らせるのではないか。名を冠する通り“奇跡”が起きるのではないか。
 そんな一縷の希望にすがったのだ。
 キュルケとタバサも結果を見届けることを申し出たが今回ばかりは断った。もし成功した場合、直接的な関わりが薄い彼女達まで巻き込む可能性がある。
『からかう相手がいなくなっちゃつまんないから戻ってきなさいよ?』
『はしばみ草のジュース、完成させて待ってる』
 まるでルイズの運命を見透かしたような言葉に対し、彼女は約束した。
 必ず帰ると。
 ゆっくりと太陽が沈みゆく中ルイズは待った。
 草原が血のような赤に染まる。視界いっぱいに炎に焼き尽くされたような景色が広がる。
 ルイズは期待に満ちた眼差しで彼を眺め――悲しげに笑った。
 何の反応も無い。
「そう……よね」
 奇跡が簡単に起これば誰も苦労しない。
 彼自身奇跡を全く信じていないのだ。苦しい時だけ頼みにするつもりもないだろう。

 日が沈んでも立ち去ることができないルイズは柔らかい草の中に座り込み、召喚してからの出来事を振り返った。
 召喚直後、いきなり蜂の巣にされかけた。
「あの時は死ぬかと思ったわ……」
 あれから何度命の縮む思いを味わっただろう。
 授業で爆発を起こし、落ち込んでいた時にかけられた言葉は今でも覚えている。
「ゼロじゃないって信じることが出来た」
 この時の会話がきっかけで爆発を肯定的にとらえられるようになり、練習を始めた。
 望めば高みに上ることができると言っていたが、少しは上にいくことができただろうか。
 フーケのゴーレムに苦戦していたのを助けられた。同時に底知れぬ恐ろしさを覚えたけれど。
 舞踏会では魔界の主従の一面を垣間見ることが出来た。見た目通りの存在ではないと知って内面に興味が湧いたのもこの時だ。
 特別授業では“心の力”を教わったが――。
「前向きなものじゃないけどね。憎悪とか憎悪とか……やっぱり憎悪とか」
 無理矢理精神力を絞り出したため疲れ果てたことを覚えている。
 高ぶる感情を抑制した結果、ルーンの光につながれ共鳴するような不思議な感覚も味わった。
 どうやら『虚無』は怒りを源に発動するらしく、感情を増幅させるすべは役に立ちそうだ。
 アルビオン行で忘れられないのはワルドの裏切り。ほのかに憧れを抱いていた相手の本性を知り、杖を向けた。
 彼はウェールズと共闘し、命を救った。その戦いぶりを見られなかったのは残念な気もするがきっと恐ろしいものだったに違いない。
「いきなり空中に放り出すなんて……っていまさらか」
 今立っているこの場所で、奇跡としか言いようのない美しい夕焼けを見て同じ想いを共有できた。太陽のない世界に住む者達と。
 そしてとうとう、『虚無』に目覚めた。
『見事だ……ルイズ』
 今までずっと“ゼロのルイズ”と呼ばれてきた。彼が、彼こそが、初めて“ルイズ”と呼んでくれたのに。
 もう彼女の名を呼ぶことも無い。誰かを認めるだけの意思も無いのだから。
 鳶色の目から涙がこぼれ落ちた。
 認められ、救われた。今まで戦ってくれた。それに自分は応えることができたか。
 ――否。何もない。何もしていない。
 それどころか最も大切なものを奪い、苦しませている。
 主人である自分を尊重しろと思っていながら、相手にしたことがそれだ。
 ゼロと呼ばれることに苦しんでいたのに、使い魔をゼロにしてしまった。心に虚無の穴をあけてしまった。
 何のために召喚したのか。自分が召喚しなければ良かったのではないか。キュルケやタバサなら彼からもっと認められたのでは。
 もしかすると彼女達なら絆を結べたかもしれない。主の記憶を奪われても、心を壊されぬほどに深い絆を。
 一度疑い出すと止まらない。嗚咽が漏れ、後から後から涙が転がり落ちていく。
 彼の傍らに立つウェールズが苛立ったように言葉を紡ぐ。
「君は僕を生かしたではないか。それなのに、君がこんな状態では憎むこともできん」
 やはり反応はない。なおも挑発するように言葉を重ねる。
「逃げる気か? 君を必要とする者から」
 その時、彼の中で否定の声が響いた。

 ――からは逃げられない。

 逃げるつもりもない。
 永遠に仕えると誓ったのだから。
 空が白み始めると心の中で何かが動き、体を持たぬ彼が心臓が脈打つような感覚を抱く。
 決定的になったのは山の稜線から現れた日輪を目にした瞬間だった。その姿は誰かによく似ていた。
 優しく照らすだけでなく、弱き者を容赦なく焼くようにも見える輝きが、ある語を浮上させる。
 ――焼き尽くすもの(バーン)。
 それをきっかけとして生涯を決定づけた言葉が闇の中から現れた。
『お前は余に仕える天命をもって生まれてきた』
 全てはそこから始まった。
 忌み嫌っていた力を認め必要とした主の言葉は、どれほど月日が流れても、何があろうと、忘れることはない。
 彼の内に灯がともる。
『あの太陽は魔界を照らすために昇る』
 太陽は昇る。
 生きとし生ける者を照らすために。
 たとえそれが異世界の住人であっても。
 心の欠片が、闇の中から浮上した記憶の鎖の切れ端で少しずつつながっていく。主の象徴たる不死鳥が灰の中から蘇るように。
 炎が司るものは浄化と再生。
 ゼロからの再生。
「バーン……様……!」
 厳かに、恭しく名を呟く。神聖なものに触れるかのように、畏敬の念に震えながら。
 それ以上思い出しては苦しむことになる、忘れたままでいろという声がどこかで聞こえる。
 逃げれば苦しまずに済む――囁きを彼は冷たい手で払いのけた。
「逃げ出した先に……安楽などあるものか!」
 この先さらなる苦難が待ち受けていようと退かない。退くわけにはいかない。
 大魔王の名を守り通すためならば、主はどんな強敵が相手だろうと逃げずに戦うに違いない。全てを捨ててでも強くなり、拳を握りしめ、地を蹴り、立ち向かうだろう。
 それは彼も同じこと。
 主を守るためならば、神が相手だろうと戦う覚悟は何千年も前からできていた。どれほど時間が経とうとその覚悟が錆びることはない。
 このままでは終われない。
 彼が彼であるために、今まで歩んできた意味がゼロではないと証明するために、立ち上がる。
 主の存在がある限り、何度でも。
 かすかに開きかけた扉はそれ以上動かない。ならばどうするか――決まっている。
 掌に全ての力を込める。
 暗黒闘気から成る彼の最強の技。名に主の肩書の一字を持つ技の中で最後の、神の金属をも容易く砕く掌圧。
「闘魔最終掌!」
 切り札を叩きつけると扉は粉々に砕けた。その向こうから陽光のような金色の閃光が溢れ全身を包みこむ。
 数千年にわたる記憶の奔流が彼の中に流れ込み、無数の光と音が駆け巡る。
 聞こえてきた一言が翻弄される彼の意識をつなぎ止めた。
「ミストバーン!」
 彼の背から放たれる力を感じ、立ち上がった少女が叫んだ。初めて名を呼ばれたと彼が意識したかどうかわからない。
 その叫びが一瞬にして完全に悟らせる。自分が何者か。何をすべきか。
 大魔王の影。主を守り抜き、戦い続ける者。
「バーン様……!」
 かすれた、しかし力強い声を聞いたルイズが嬉しそうに微笑み、その顔が凍りつく。
 まるで再び夜が訪れたかのような錯覚に襲われたためだ。
 心臓が握り潰されるような痛みが胸に走り、顔が歪む。
「あ……ああ……!」
 呼吸ができない。かすれた声を絞り出すことさえままならない。
 全身を鎖で締め付けられていくような凄まじい圧力を感じる。
 憎悪は予想していた。
 ティファニアに続行を命じ、苦しませた責任を担った。抵抗できないのをいいことに言うことを聞かせ、爆発を食らわせまでした。
 誇りを傷つけられたのに屈辱を感じることすら許されなかったのだ。怒らないはずがない。
 いざとなれば戦う覚悟も固めていたはずだった。
 それを容易く打ち砕く絶対的な恐怖。

 これが、魔界の王の半身の殺気。
 これが、最も踏み込まれたくない領域を汚された者の激怒。

 本気の怒りを放つ影が、ゆらりと振り返った。

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最終更新:2008年09月27日 15:19
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