其の十五 罰
ルイズは怯えていた。
本物の怒りに。純然たる殺意に。今まで彼を恐ろしいと思ったことは何度もあったが、全く比べ物にならない。
共に戦い強さを実感したウェールズでさえ目を見開き凍りついている。
ルイズを庇おうと足を踏み出しかけたが、彼女自身が拒否してミストバーンの前に進み出た。
覚悟を遥かに上回る剥き出しの殺意と憎悪が心を切り裂いていく。
彼をここまで怒らせたのは自分だという事実が何よりも悲しかった。
それでも憎悪の化身から目を逸らすことはできない。自らの行いが招いた結果から逃げるわけにはいかない。
(わたし、死ぬのね)
フーケとの戦いで彼に殺されるかもしれないと恐怖した。今、その予感が現実になろうとしている。
「……ごめんなさい」
別れが近いと思うと素直に言える。
同じ目に遭えば自分も相手を許せないだろう。わざとではなかった、で済むような過ちでも相手でもない。
使い魔からこれほど真剣に見つめられるのは初めてだという想いが、不思議な安らかさをもたらした。
杖を構えたものの抵抗は無意味だとわかっている。いかにルーンが力を発揮しようと、こうなった彼を止めることはできない。
彼女は激痛の後に訪れる死を覚悟した。
だが――何も起こらない。
彼は腕を握りつぶさんばかりに掴み、自分を抑えるのに全力を傾けているようだ。全身が凶暴な衝動を訴えているのに。
「わたしを……殺さないの?」
眼光は彼女を射殺さんばかりだ。灼熱の怒りが草原をも焼き尽くすほどに迸っている。それなのに最大限に自制心を働かせ、攻撃を押しとどめている。
答えは血を吐くようだった。
「大魔王さまのお言葉は全てに優先する……!」
どれほど殺したくない相手でも大魔王のためならば容赦なく殺す。その逆もまた然り。
『お前はその娘を守り抜け。騎士……シュヴァリエのごとくな』
明言されていなければ、あるいは単に協力しろというだけならば殺しただろうが、下された命令に逆らうことはできない。
主への忠誠こそが、彼にとって譲れぬものなのだから。
「バーン様は言われた! 貴様を守り抜けと!」
――ああ、やっぱり。
彼女の心を静かな諦めが包んでいった。
『私が守るからだ』
(守るって言ったのも命令でしかなかったんだわ)
それ以外無い。そこに少しでも彼自身の意志があると思ったのは勘違いにすぎなかった。
彼は力にしか興味がないとわかっていたはずなのに、何を期待していたのだろう。
大魔王のために『虚無』を手に入れようとしているだけだ。ルイズ自身は必要とされていない。
ワルドはありもしない力を求め、ミストバーンは目覚めた力を求めた。違いは甘い幻想に包んだか否かということだけだ。
努力する姿勢を認められたと思ったのも、ゼロではないと言われた気がしたのも、きっと――。
認められたと思って喜んでいた自分がひどく馬鹿らしく、こっけいな道化に思えた。
(なんだ……わたしのやってきたことって、結局――)
少しずつ築き上げてきたものが、自分を支えてきたものが、ガラガラと崩れ落ちる音が聞こえた。ゼロになるのを実感した。
彼を召喚できたのは何かの間違いだと――今までやってきたことに何の意味もなかったと思い知らされることが罰なのかもしれない。
残ったものは、彼からの深い憎悪だけ。
心を虚無が蝕み力を削ぎ落していく。今彼女はウェールズがぞっとするような虚ろな表情を浮かべている。
唯一の救いは、彼女への怒りが大きいあまり他の者達に危害を加える様子は無いことだ。
ひどく空虚な気分になったが、それこそがふさわしい気がした。
一方ミストバーンは、ルイズだけでなく自分自身に腹を立てていた。
いくら『虚無』が強力でも全力で立ち向かえば耐えられたかもしれない。ルーンの働きもあったとはいえ抵抗できず、こんな事態を招いてしまった。
完全でなくても使命を見失い、守るべきものを守りきれなかったことが許せなかった。
ほんの一瞬とはいえ偽りの安らぎの中に浸ってしまった。
(何が……何が“バーン様の部下”だッ!)
醜態を晒し、主の信頼を裏切ってしまった悔しさのあまり体が震える。
主が知れば厳しい罰を与えるだろう。それでも許されるかどうかわからず、任を解かれ処刑されるかもしれない。
ルイズと自分自身への怒りが極限にまで達し、それを無理に抑え込もうとした時――それは起こった。
授業の時と同じようにルーンが輝き、伸びた光がルイズと彼をつなぐ。前回は感情の高まりと抑制に呼応して共鳴するだけだったが、今回は違った。
ルーンを媒介として彼の膨大な感情――怒りがルイズに流れ込んでいく。
無意識のうちに『始祖の祈祷書』を開いた彼女はページをめくり、浮かんだ文字を朗々と詠唱する。
――ユル・イル・ナウシズ・ゲーボ・シル・マリ
からっぽだったルイズの中に入った感情はうねり、高まり、『虚無』の力へ変換されていく。
――ハガス・エオルー・ペオース
詠唱をなおも続ける。彼女が唱えている呪文の名は世界扉(ワールド・ドア)。
やがて杖を振り下ろすと水晶のようにキラキラ光る小さな粒が空中に現れ、鏡のように光景を映し出した。しかしそこに映っているのはルイズが見たこともない暗黒の世界だ。
人が通れるほどの大きさまで膨らんだ扉を見て彼女は痺れた脳の片隅でぼんやりと考えた。
タルブの村で大半の力を使ってしまったはずなのに、これほどの大きさの扉を作り出すことが出来たのは彼の感情とルーンの働きだ。
特に、流れ込んできたものの中の一部は莫大な力へと換わった。まるで圧縮されたエネルギーの塊が解き放たれたように。
疑問を解決するより先につながった先が魔界だと知ったミストバーンはためらわず歩いて行く。共に来いとも言わないまま。
ウェールズは約束を果たすために従い、ルイズは立ち尽くした。
扉の先に何が待っているのか分からない。行けば戻れないかもしれない。
それでも――このままでは終われない。
「わたしも、行かなくちゃ」
ルイズは力を振り絞り、彼らを追った。
彼を召喚したことの意味を確かめるために。
魔界に到着した途端ルイズ達を襲ったのは魔物の群れだった。
咄嗟に杖を向けて爆発を起こそうとしたが何事も起こらない。完全に精神力を使いきってしまったようだ。
ルイズを守ろうとしたウェールズは複数の敵に囲まれてしまった。無力な彼女に鋭い爪が迫り――銀の光が次々と敵を穿ち引き裂いていく。
ミストバーンが、彼女を守っている。本心はどうあれ指一本触れさせまいと力を尽くしている。
共に戦っているウェールズがふと訝しげな顔でミストバーンを見つめた。戦いぶりにどこか違和感を覚えているようだ。
『バーン様は言われた! 貴様を守り抜けと!』
心にどうしようもなく苦いものが広がるのを感じながらルイズは空を見上げた。
何が足りないのか、千の言葉より雄弁に語る暗黒の空を。
敵の集団を片付けたミストバーンはルーラを唱え大魔王の居城へ向かった。
真っ先に主の無事を確認して安堵したのも束の間、合わせる顔が無いというように俯く。
客人に歓迎の意を見せた大魔王が反応に目をとめ何があったのか問うと、言葉もなく身を震わせる。
ルイズは戸惑ったように彼を凝視した。
(怯えてる? こいつが?)
あれほど強く冷酷な彼が、威厳は感じるものの外見は普通の老人に恐怖するなど信じられない。
釈然としないままルイズが代わりに経緯を説明すると、部下の味わった苦しみを誰よりも理解しているはずの大魔王は冷然と告げた。
「罰を与えねばなるまい」
「でも……!」
ルイズが言い募ろうとするのを制し、罰を受けるのは当然だというようにミストバーンが進み出る。
その体がわずかに宙に浮き、両手が上がる。見えない十字架に磔にされているように。
大魔王が手を差し伸べると黒い波動が走り、彼の身体に突き刺さった。圧縮された暗黒闘気が撃ち込まれたのだ。
空中に固定されていなければ今の一撃で吹き飛び壁に叩きつけられただろう。
「ぐああ……ッ!」
彼女の顔から血の気がさっと引き、拳に力がこもる。自分が目の前の光景を作り出してしまった――その一念が心を押し潰そうとする。
彼は苦痛の声を押し殺し、続く攻撃に耐える。
二度。三度。
鈍い音が空気を震わせるたびに体がわずかにはねる。
大魔王の面には冷ややかな怒りがわずかに浮かんでいるだけで表情は無に近い。チェスの駒を動かすような態度だ。
彼の前に飛び出しかけたルイズをウェールズが止める。手加減の有無にかかわらず彼女が食らえば一撃で死んでしまう。
「放して! あいつは悪くないもの、代わりにわたしが――!」
ふりほどこうと必死にもがくルイズを痛ましげに見やり、言葉を絞り出す。
「罰を受けなければ、彼は自責の念に苛まれることになる……! 庇ったところで苦しむだけだ!」
そんな精神状態では力を発揮することもできない。
実際、到着直後の魔物との戦闘では力を出し切れていないようだった。共に戦ったことのあるウェールズだからこそわかる。
残酷だが前に進むためには必要なことなのだろう。
庇うことでルイズの気は済んでも、本人には逆効果になる。
認識の甘さを悟ったルイズの動きがピタリと止まる。しばらく俯いていたが、やがて顔を上げた彼女の眼は悲痛な色に染まっていた。
「見てることしか……できないなんて……」
しょせんできることなど何もない、彼との関係はそんなものだと言われているような気がした。
奮い起こした勇気を深い絶望があっけなく飲み込んでいく。
ワルドが最期に告げた言葉が心を支配していく。
何も出来ないのも当然だ。
なぜなら自分は“ゼロ”だから。
避けることも、防ぐことも、倒れることすら許されない無慈悲な攻撃。人間にたとえるならば銃弾を撃ち込まれ続けるようなものだろう。
(これが魔界の――大魔王の流儀ってわけ?)
肩書からは想像できないほど理知的で知らぬうちに安堵したのだが、魔界に君臨する王が穏やかなだけであるはずがない。
惨い光景から目をそむけそうになるのを必死でこらえる。本来ならば自分が味わうべき苦痛なのだから。
その顔色は蒼く、きつく噛み締めた唇から血が滴り落ちる。
無力さを思い知らされる――これこそが本当の罰なのかもしれない。
今にも切れそうな精神の糸をかろうじてつないでいるのは傍らのウェールズの存在だった。
力が抜けそうになる彼女の体を支え、万一危険が迫ればすぐさま守れるように張りつめた空気を身にまとっている。
同じ貴族。同じハルケギニアの住人。同じ――人間。
一人だけならば耐えられなかった。
どれほどの間攻撃が続いたのかわからない。
「あ……」
不可視の戒めを解かれた彼の体が落下し床に膝をついた。
倒れそうなのをこらえ、立ち上がる。それだけの動作も辛いようだ。
先ほどまでの無表情が嘘のように大魔王は客人に笑いかけた。今度は自分の番かと身構えるルイズに否定するように手を振ってみせる。
「安心せい、そなたに同じことをするつもりはない」
「でも、あいつがあんなことになったのも、全部わたしが――」
痛い目になどもちろんあいたくないが、自分だけ逃げるのはもっと嫌だ。
恐怖をこらえ気丈さを見せるルイズに大魔王は面白いと言うように笑った。
「代わりと言ってはなんだが少々力を貸してもらう」
「え?」
大魔王がすっと笑みを消して呟いた。
「困った事態になったのでな」
最終更新:2008年09月27日 15:24