六 絶望への序曲
棺を開けて椅子に腰かけていたウェールズは二人を見ると立ち上がり、両手を広げた。
その髪はかつて陽光のようだったが、今はやや陰りを帯びている。目も青空ではなく曇天を思わせる色だ。
それでも、生きている姿を見るだけでルイズは胸がいっぱいになった。眼に美しい涙が盛り上がり、頬を伝う。
「ありがとう。どれほど感謝しても足りない」
ウェールズは今にもアンリエッタに知らせようとする彼女を押しとどめ、穏やかに微笑み、少し席を外すよう頼んだ。
命の恩人にゆっくりお礼を言いたいのだろうと思ったルイズは出ていった。
ミストバーンは冷静にウェールズを観察している。
生命をつなぐ暗黒闘気がなじんでいないのか傷が癒えきっておらず、死へ向かうのをかろうじて食い止めている不安定な状態のままだ。精神にも影響を及ぼしている。
死から蘇らせたわけではないため偽りの生命とは言えないが、異質なものが体内に存在することに本人も気づいたらしい。
掌を眺める眼は疑惑と嫌悪、恐怖――それらの芽が覗いている。
「何故生かした」
温和な笑みは拭い去られ、感謝と言うには冷ややかなものが視線に混じっている。命を救われたというのに表情は険しい。
答えないのは彼自身も理解しきれていなかったからだ。
彼にはウェールズを救う気はなかった。共に戦ったのも近くで華々しく散るのを見届けるため。譲れぬもののために戦い死んでいく覚悟を汚すつもりはなかった。
だが――生かしてしまった。
尊敬する者に生き延びてほしい気持ちはあったが、それ以上に大きかったのは自分でも理解できない衝動だった。
それに流されたとはいえ結局は自らの行動なのだから、生じたものも責任も己に返ってくる。
そう思っている彼はあの時ルーンが輝いていたことに気づいていない。
あの時ウェールズはアルビオンの王族として死ぬはずだった。しかし、部下は全員討ち死にしたというのに彼はこうして生き長らえている。
眠っている間、ルイズ達が勝手に生存を明らかにしなかったことだけは感謝している。
目覚めた時には全てが終わっていた。
レコン・キスタと戦うという選択肢もあったがその気はない。愛する者の治める国に争いの火種を持ちこみたくないためだ。
もし選ぶとしても――時間が必要だった。
ハルケギニアの者達は彼が死んだと思っている。
ある意味それは正しいのだろう。
ここにいるのはウェールズであってウェールズでない。
覚悟を尊重しようとしたミストバーンに悪意がないことは彼も知っている。
それでも素直に受け入れるには、生き直すには、彼の背負うものは重すぎた。
高潔な人格がいっそう彼を苦しめている。
命を救ったことに感謝すべきだと思っていても、やり場のない感情をぶつける相手は一人しかいない。
王族としての死に場所を奪われ、皇太子としての自分を否定されたような気がした。
覚悟を理解していたはずの相手から生かされ、裏切られたような心境だ。
手をかざし、呟く。
「“これ”は、何だ?」
闇の力を体内に注がれたことに動揺せずにはいられない。
単に『水』系統の魔法で治療されたならば抵抗は無かっただろうが、未知の力でかろうじて命が保たれているのは受け入れがたい状況だ。
自分から進んで受け入れたのではなく、いつの間にか入り込んだ力によって心と体の均衡が崩される――そんな予感がする。
己が身に降りかかることで初めて、相手が越えられぬ淵の向こうにいる存在だと思い知らされた。
「正義の光の力ならば受け入れたか?」
「……そうかもしれぬ」
断定を避けた言葉とは反対に、表情がはっきりと答えを物語っていた。
――滅びから遠い忌まわしい体の持ち主に、痛みや苦しみを感じながら死んでいく者の気持ちなどわかるはずがない、と。
ウェールズの苦しみを悟ったミストバーンは反論せず、ある感情のこもった眼差しを受け止めている。
それはあらゆる時代、あらゆる場所で戦いの火種となるもの。意思持つ者が必ず抱き、永遠に持ち続けるもの。
その感情の名を憎悪と言う。
今のウェールズを支えているものは、ミストバーンへの憎しみだ。
結果的に彼が彼として死ぬ機会を奪った者は、氷の声で告げた。
「怒れ。憎め」
言葉に応じるようにウェールズの眼に暗い輝きが宿る。
宴や礼拝堂での会話が、戦場での共闘が嘘のような空気が二人の間に立ちこめている。
短い間とはいえ共に歩んだ道は完全に隔たっていた。
この先交わることがあるのか、わからない。
やがてウェールズは視線を外し、疲れたように呟いた。
しばらく一人にさせてくれと。
その場を去ったミストバーンは、室内に残ったウェールズの目がいっそう暗くなったことも、妙な気配がしたことも、気付かないままだった。
戻ってきた時にはウェールズは再び深い深い眠りに落ちていた。
今は棺の中で憔悴しきった表情を浮かべている。
ミストバーンは何も言わず赤く燃える太陽を眺めていた。
尊敬し、認めあった者との距離は今や遠く隔たっていた。
何のために共に戦ったのか。自らの行動が正しかったのか。意味があったのか。
何もわからない。
命を救った相手からの馴染み深い感情――憎悪も彼は静かに受け止めていた。
疎まれ嫌悪されることには慣れている。魔界では、主を除き周囲は全て敵と言ってもよかったのだから。
数千数万の他者の憎悪より主一人の失望の方がよほど耐えがたい。
主以外の者との関わりは、しょせんうたかたの夢。
彼はただ拳を握り締めた。
報告するために思念を飛ばし、主を呼ぶ。今までと同じように。
しかし、反応は無い。
声が届かない。気配も感じない。
(バーン様……!)
アルビオンで戦いに赴く直前に反応がなかったことを疑うべきだった。主の性格からして観戦しないはずがない。部下に一言ぐらい指示を与えるはずだ。
おそらくあの時、一時的につながりが消えていた。いつからかはわからないが少しずつ弱まっていたのだろう。
復活するかもしれず、主も結び直すよう手を打っているはずだが、連絡がとれないままの可能性もある。
タルブの村から帰る前に主は帰る手段は見つかったのか訊いてきた。それはこうなる事態を予測してのことか、それとも魔界で何らかの動きがあったのか。
否定の言葉の前にあった一瞬の間が気にかかる。長く仕えてきた経験が、問題が生じたことを告げていた。
己の叡智と力に絶大な自信を持つ大魔王が部下に軽々しく相談をもちかけるはずもない。大抵の事態ならば簡単に解決できるだろうし、そこまで差し迫ってはいないようだった。
だが、万一のことがあれば悔やんでも悔やみきれない。
今まで主の存在があったため異世界でも動揺することなく行動できていた。
もし魔界に戻れなければ、戻ったとしても主がいなければ、ハルケギニアでの行動が――否、今まで仕えてきた数千年が無意味になる。
彼は主との連絡が取れなくなったことを淡々とルイズに告げた。
何か異変があればすぐ知らせるよう言われていたルイズは、早速ワルドに事情を説明した。
二人は顔を見合わせて溜息を吐いた。暗雲が立ち込めてきたことを認めないわけにはいかない。
魔界で異変が生じたらしく、確認のため帰りたいと思っている。最近は探すのも役立つ道具や魔法ではなく、『虚無』や異世界についてが大半だ。
今は主の言葉が効いているのか大人しくしている。つながりが消える直前の様子がそこまで緊迫したものではなかったのも大きい。
だが、日を追うごとに焦りと苛立ちがほんの少しずつ募っていくのが分かる。
もしそれが最悪の形で爆発したら学院――いや、トリステインで止められる者などいないだろう。
理由も無く殺しはしないだろうが、暴力によって異世界についての情報や帰る手段を探させるかもしれない。
誇り高い貴族が屈するはずもなく、戦いが始まればどれほどの血が流れるか未知数だ。
助力を約束したワルドに感謝したものの、そう簡単に見つかるとは思えない。
(気晴らしになるものがあれば――)
そう考えたルイズはほっと胸をなでおろした。
彼の友人、キルバーンが訪ねてきたのである。ミストバーンは当初混乱し、焦りも覚えたが、友の来訪でいくらか気分が楽になったようだった。
「ミスト、ボクの笛の音を聞くかい?」
死神は鎌を手に笑いかけた。彼の得物は死神の笛と言い、音を奏でることができる。頷いた彼は優雅な調べに聴き惚れているようだ。
楽観的な態度を崩さぬ饒舌なキルバーンと、忠誠心篤く生真面目で寡黙なミストバーン。
彼らは対極の性格だというのに、妙に気が合っている。
正直なところ信用できないが、少しでも精神的な負担が減るのなら歓迎すべきだ。
キルバーンは帰還に執着しているわけではなく、「まだこっちで過ごしたいんだけどなァ」などと呟き、ピロロも同意している。
正反対の二人を見ていると、ルイズはあるものを連想してしまう。
(お互い『鏡』みたいな感じがするわ。何でかしら?)
首を傾げたが、二人がトランプに興じる姿に抱いた疑問も吹き飛んだ。
「はい、またボクの勝ちっと」
仲の良い友人とカードで遊ぶという、実に心温まる和やかな微笑ましい光景のはずだが――。
「不吉な予感しかしないのはどうして……?」
当然、答えは返ってこなかった。
ワルドも忙しい合間を縫って帰還に関する情報を探っている。
また、彼が訪れたときなどに手合わせを申し込む。彼の気晴らしになればという思いと、少しでも強くなりたいという意志の表れだ。
“爆発的な勢いの驚異的な成長”とまでは言えないかもしれないが、体力、膂力や身のこなし、杖捌きや動きを捉える目など総合的な強さが上昇している。
ワルドいわく「もう少しで次の段階に進める気がする」らしい。さらに風の最強たるゆえん云々について語っていたが、ルイズはあまり身を入れて聞いていなかった。
高みを目指すワルドの意気込みをかっているのか、ミストバーンも鍛練には集中して付き合っている。
体を動かすことでいくらか気も紛れるようだ。
さらなる可能性を見せたのは、土くれのフーケだった。
フーケの脱獄を知った時、ルイズは真っ先に使い魔を問い詰めた。
魔法衛士隊の者達をはじめ、皆、名門ヴァリエール家の令嬢ルイズやその使い魔を疑いはしない。
ルイズには捕らえた盗賊――それも一度は命を落としかけた――をわざわざ逃す理由など無く、主の意思を無視して使い魔が勝手な行動を取るなど想像できるはずもない。
逃走後に出された声明から様々な憶測が飛び交ったものの、おそらくスクウェアクラスの優れたメイジが固定化のかけられた鉄格子も壁もまとめて破壊したのだと言われている。
だがルイズにはわかる。彼がその気になればどんな強固な牢獄だろうと簡単に砕けることを。
疑念が肯定され、ルイズは頭を抱えた。
金銭を渡し、ハルケギニアの品――たとえば水の秘薬など――や情報を入手させているのだと言う。
名門中の名門ヴァリエール家の令嬢の使い魔が盗賊とつながっているとバレたらどんなことになるか、考えたくもない。
もちろん必死に止めたがきくような性格ではないため、取引について知らせることなどを条件に許可し、直接関わらずにいた。
だが、今こそ彼女の力が必要だと思ったルイズ達はフーケとの面会を取り付けたのである。
事情を聴いたフーケは腕を組んで息を吐き出した。ルイズもそれに負けじと肺の奥底から絞り出すような溜息を吐く。
「帰りたい気持ちを軽くすることができればいいんだけど」
そうすれば今まで通りの生活を送るだろう。元の世界の友人もいるため暴走の時期をかなり遅らせることができるはずだ。
「……あるよ、方法」
「えっ!?」
フーケは複雑な表情で笑った。
「気が進まないけど、あんたの使い魔に殺されかけたのをよりによってあんたに救われたからね」
殺すつもりで攻撃していたのだから命を奪われても文句は言えなかったのに、その相手から救われた。
ミストバーンのせいで捕まったと思ったら脱獄でき、結果残ったのはかなりの額の報酬である。悪くない取引は今後とも続けたいところだ。
そもそも彼が暴れ出せば盗賊稼業どころではなくなる。その時が来てからでは手遅れだ。
フーケに案内されてルイズとミストバーン、おまけにキルバーンがやってきたのはアルビオンにあるウエストウッド村だった。
そこに住む少女が記憶に関する魔法を操ると知ってルイズは最初ためらった。踏み込んではならぬ領域を汚すことになりはしないかと恐れたのである。
だが、キルバーンの方が乗り気で強く勧めたため、ミストバーンもあっさり了承した。
もっとも、帰りたい想いを軽くすると説明するのではなく、おそらくは『虚無』であること、特殊な系統ゆえに帰還について掴めるかもしれないことを理由に挙げた。
ルイズの目には、友人の心労を減らすためではなく好奇心を満たすことを優先しているように映ったが、結局押し通され言い出せなくなってしまった。
森の中に建てられた素朴な家々。その中の一軒に入ったルイズは硬直した。
彼女が見たものは、妖精という言葉が相応しい神々しいまでの美少女だった。
草色のワンピースが清楚さを演出し、素朴な格好も美しさを損ねるのではなく親しみやすい雰囲気を与えていた。
(そんなことより!!)
ルイズは心の中で絶叫した。その視線は少女――ティファニアの胸らしき位置に釘付けである。
こんな胸があってたまるものか。こんなものが許されるはずがない。
思わず自分の胸があるはずの部分に手を当てたルイズはわなわなと震え出した。
「ああああれ何よ、ありえないわあんなもの。冒涜だわ、冒涜よ」
隣のミストバーンを見ると彼も固まっている。が、その理由は全く別のところにあった。口から驚愕の言葉が転がり落ちる。
「く……黒の核晶!?」
「何か知らないけどたぶん違うと思うわよそれ」
ルイズの疑問にキルバーンはわざわざ親切に説明した。
「黒の核晶っていうのは魔界でも有名な爆弾だよ。大きさにもよるけど、国を簡単に滅ぼせる力を持っているんだ」
どこからともなく現れた使い魔のピロロが、怯えたようにひゃあっと叫んで身を震わせた。
「とんでもない威力じゃない……!」
ルイズもぞっとした顔で囁いた。
「そうだね。そんな恐ろしいものには近寄りたくないよねェ」
キルバーンはうんうんと頷いて同意を示し、ティファニアを眺めた。友人の壮絶な誤解を解く気は無いらしい。
彼女はフーケの姿に嬉しそうに顔をほころばせた。
「『虚無』について知りたがってたよね、あんた。見るだろ?」
彼が頷くと、あらかじめ事情を知らされていたティファニアが詠唱を始めた。
――ナウシド・イサ・エイワーズ
室内の空気が歪んでいくが、一片の害意も感じられないため彼は黙って聴いていた。
ティファニアには純粋な善意があった。ただ彼の苦痛を少し取り除こうとしているだけ。フーケはともかく、ルイズもキルバーンも似たようなもの――のはずだった。
――ハガラズ・ユル・ベオグ
ふとティファニアの視線が困惑したように彷徨った。ルイズに一瞬だけ向いた目はこのまま続けていいのか尋ねている気がした。
『虚無』をかけられている最中の彼は半ば意識を手放しかけているようだ。
(どうしよう?)
ここで止めるべきではないか。心に踏み込むことになるがいいのか。
『バーン様の大望の花が――』
主に絶対の忠誠を誓う姿が蘇る。
ルイズがためらっているとキルバーンが笑いながら頷いた。
「試しにやっちゃって」
ティファニアに不可視の力が集まっていく。
――ニード・イス・アルジーズ
まるでどこか遠い世界に身体が運ばれていくような感覚が彼を襲う。
全身が少しずつ分解され力が抜け落ちていくような気がしたが、移動に似た感覚を見極めようと精神を集中させる。
立っている地面が崩れていくように体が揺れた。
――ベルカナ・マン・ラグー……
警告が心の片隅で響き、止めるべきだと声がした。だが、ルーンが輝いて手を動かすのが遅れたところで光が弾ける。
(――様……!)
空気の歪みが消えると同時にティファニアが崩れ落ちた。
フーケが慌てて抱き起こすと寝息が聞こえてきた。消耗しきって眠ってしまったようだ。
「おかしいね。今までこんなことなかったのに」
首をかしげるフーケの言葉を聞き流しつつ彼を観察するが、特に目立った反応は無い。どうやら成功したようだ。
大きく息を吐き出したルイズは心の重荷がとれたように笑い、フーケとティファニアに礼を述べてトリステインに帰っていった。
自室に戻ったルイズは己の使い魔をしげしげと眺めた。
『忘却』をかけられた後、ルイズやキルバーンが何を言おうと彼は全く喋らない。
恐る恐る腫れ物に触るように尋ねる。
「そ、その……帰りたい?」
反応は無い。帰る理由が思い当たらないというように。
安堵しかけたルイズは凍りついた。
(まさか……)
彼が帰りたがっていたのは、主のためだけだ。
数千年にわたって仕えてきたと語る彼の誇らしげな様子をよく覚えている。
帰る理由がわからないということは、つまり――。
「おやおや。こりゃ大変だ」
キルバーンが呑気に呟いた。
彼の心には穴が開いてしまった。
大きな大きな、埋めることのできない虚無の穴が。
ここにいるのは“ミストバーン”ではない。“ミスト”とさえ呼べないかもしれない。
戦う意味も、闘志も、生きる理由も、信念も、何もかも――全てを失った抜け殻、“
ゼロの影”がそこに立っていた。
最終更新:2008年12月21日 21:54