九 訣別の時 後編~暗黒の力~
ウェールズの視界が光に包まれ、さあっと色が塗り替えられていく。
これがあの世に行くということなのか――そう考えた彼に、遠いところからにじむように声が響いてくる。
『お許しください、殿下。そのお言葉には従えませんわ』
ウェールズは戸惑ったように周囲を見回した。
彼が今立っているのはトリステインの王宮――それもアンリエッタのいる謁見室だ。幻覚ではなく直接入り込んでいるような感覚が伝わってくる。
状況が把握できないためそのまま物陰に隠れ、様子を窺う。
ふと拳の中の硬い感触に気づいて手を開くと、水のルビーが握られていた。
かつてアンリエッタが、そしてルイズが指にはめていたもの。先ほど危険を冒して飛び込んだのは指輪に触れさせるためだったのだろう。
『この魔法は記録(リコード)。対象物に込められた強い記憶を引き出します』
過去の光景の中へと入り込んだらしい。
ルイズ、ワルド、ミストバーンがアンリエッタに任務の報告を終えると可憐な花のような彼女の顔が暗く沈んだ。
それを見たウェールズの心がズキリと痛む。
『ウェールズは勇敢に戦った』
そう告げるミストバーンの姿に俯くしかない。本心から放たれた偽りのない言葉が、胸を深く刺し貫いたのだ。
自分は憎んでいるのに、敵となったはずなのに、おそらく彼は今でも変わらぬ敬意を抱いている。その想いは、剥き出しの殺意や憎悪をぶつける時と同様、どこまでも純粋だ。
言葉を失ったウェールズに真っ直ぐな声が届く。まるで彼の進む道を指し示し、照らし出すように。
『私の知るウェールズは勇敢な戦士だ。……これからも』
今の自分は、彼の言葉に応えているだろうか。
勇敢に生きているだろうか。
太陽に顔を向けて、真っ直ぐに立っているだろうか。
ワルドも頷いて真摯な口調で告げる。
『そのお心に応えてくださいませ。殿下』
アンリエッタは二人の言葉を聞いて瞳に輝きを宿し、誇り高く顔を上げた。
『ならば、私も勇敢に生きようと思います』
異質な力に引きずられ歩みを止めている彼と違って、彼女は歩き出そうとしている。
アンリエッタは信じている。
ウェールズが勇敢に戦う男であると。
ミストバーンも。ワルドやルイズも。
(僕は……僕は……ッ!)
自分を信じていないのは、自分だけだった。
内憂を払えず一人だけ生き延びた苦悩ゆえに、自分を信じられなくなっていた。
国を守りきることはできなかったが、それでもまだ守るべきものが――譲れぬものが残っている。
気づくと彼は闇に包まれていた。その色は、彼の中に存在し、侵食する力を思わせる。
だが、もう恐怖も嫌悪も感じなかった。
彼はそこにある闇をただ静かに見つめ――手を広げて足を踏み出した。
すると、今まで荒れ狂う海のようだった力が収まっていくのを感じた。
暗闇がスッと消えていくと、草原に立っていた。目の前に立つルイズが歓喜に満ちた表情を浮かべている。
ウェールズの髪は金の輝きを取り戻し、目も晴れている。
「……ありがとう」
倒れそうな体を叱咤して水のルビーを返した彼は微笑んだ。
二人はミストバーンを捕らえる罠に目を向けた。
柱はすでに崩れ、彼は金と銀の炎の中に倒れている。ピクリとも動かず、生きているのか死んでいるのかわからない。
風や水の魔法を叩き込んでも効果は無く、他の魔法で救出しようとしても無駄だ。ミストバーンの特殊な体を焼くことができるのなら、闘気に近い性質なのだろう。
ルイズの『解呪』を解き放っては中心にいる彼をも滅ぼしてしまう。範囲を狭めることで炎の勢いをある程度弱めることはできたが、消すには至らない。
「このままじゃ……!」
不死身に近い体とはいえ、もう限界だろう。
唇を噛んだルイズを見てウェールズは瞼を閉ざした。
決意したように目を開けて、足を踏み出す。
「僕が行こう」
全身から黒い霧のようなものが立ち上っている。暗黒闘気をその身にまとわせ、炎を突破するつもりだ。
ルイズが首を振って止めた。
いくら闘気を集中させて相殺しようと無事で済むはずがない。命を落とす可能性もある。
これ以上暗黒闘気を使えば、先ほどのように闇に飲み込まれるかもしれない。そうなった場合、再び元に戻れる保証は無いのだ。
今度こそ、自分が自分でなくなってしまうかもしれない。
必死で止める彼女に、ウェールズは澄み切った青空を思わせる笑みを浮かべた。
「それでも守るべきものがある。……そうだろう?」
その言葉は、ルイズではない誰かに言っている。
もし己を見失い、戻れなくなった場合は自分で命を絶つつもりだ。
「今通じるのは暗黒闘気だけだ。闇の力であろうと、誰かのためになるのなら使いこなしてみせるさ。……そのぐらいしないと格好がつかないからね」
いたずらっぽくウィンクしたウェールズは炎の中に足を踏み入れた。
凄まじい熱と苦痛にウェールズの端正な顔がゆがんだ。
肌が炎に焙られ、頬や手に惨い火傷が広がっていく。焼かれ続ける足が今にも動かなくなりそうだ。
歯を食いしばり、苦痛の呻きをかみ殺して語りかける。
(君の味わっている痛みは……こんなものではないだろう?)
崩れ落ちそうになるのをこらえ、一歩、また一歩と進んでいく。
己から切り離せぬ忌避する力を他者のために使えることが、ほんの少し嬉しかった。
「待たせたね。今度は、僕が君を助ける」
倒れ伏すミストバーンの傍らまで来たウェールズが、笑みを浮かべて告げた。
その髪は二色の炎によって銀色に見えた。
しゃがんで体を抱え、引き返す。激痛に意識が引き千切られそうになるのをこらえながら。
ようやく炎の輪の外に出たウェールズは膝をつき、そのまま倒れこんだ。
「ウェールズ様!」
少女の叫びを聞き、かろうじて意識をつなぎとめたウェールズは切れ切れの声で尋ねた。視界が明滅し、自分で確かめることができない。
「彼、は?」
ルイズが体をゆすって呼びかけるが反応は無い。
「ミストバーン!」
叫びながらルイズは暗い思いにとらわれていた。
救出したところで、今の彼には戦う理由がないのだ。記憶を取り戻したとしても限界まで痛めつけられた状態だ。
立ち上がることなどできはしない。
「君は僕を生かしたではないか。戦い続けろと言うように……。ならば君も戦うべきだろう!」
ウェールズの声が虚しく暗闇に吸い込まれていった。
その頃、ワルドは遍在を倒されながらもキルバーンを追い詰めていた。
全身に傷を負いながらも敵の動きを上回っている。実質的には勝利を手にしていると言っていい。
ついに胴体を深々と切り裂いたとき、彼はルイズの悲愴な叫びを聞いて一瞬注意を向けた。
(初めて、彼の名を――)
愛する少女の血を吐くような声にワルドの胸が痛んだ。
致命傷を与えた手応えがあったとはいえ、決して油断したわけではなかった。相手の正体が謎に包まれており、死ににくい体の持ち主であることから十分警戒していた。
だが、隙とも呼べぬわずかな空白を死神は見逃さなかった。
キルバーンは剣を繰り出しワルドの腹部を刺し貫いた。
口から鮮血がこぼれ、体がぐらりとかしぐ。
「ぐああ……ッ!」
ワルドが膝をつくのをルイズは絶望とともに見た。
さらに動きを封じるために大腿も貫き、刃を乱暴に引き抜き、切り裂く。
腹部と脚を赤く染めながら倒れた敵の姿にキルバーンは耳障りな笑い声をあげた。
腕を蹴って杖を弾き飛ばし、手に剣を突き立て、地に縫いとめる。
その後キルバーンはウェールズに視線を向けて首をかしげた。
「あれれ? 殿下、ミストを憎んでたはずですよね?」
「……憎かったさ」
ウェールズは身を起こしながら呟いた。
どんなに高潔な人格者であっても恐れや怒りを――暗い感情を抱かぬ人間はない。
死に場所を奪われることで、“王家としての自分”が奪われたと思い込んだ。
異質な力で生かされることで、“人間としての自分”までも奪われるのではないかと疑い、それが根を広げ芽吹いてこうなった。
自分の心の弱さが招いた事態だということをウェールズは知っている。
彼は満身創痍ながらも顔を上げ、壮絶な眼光で死神をねめつける。
「だが、心は怒りや憎しみばかりではないと知っているはずだ。彼の友ならば」
魂から絞り出された言葉にキルバーンは肩をすくめただけだった。
ワルドが血を吐きながら、切れ切れに言葉を発した。
「魔界とやらに帰っても、彼の主を殺せるとは、思えんな……!」
挑発に対しキルバーンは傷口を踏みつけた。激痛にワルドが歯を食いしばる。
「実は、戻る方法も無いわけじゃないんだ。魔界の異変にバーン様が意識を向けている間にヴェルザー様は行動を開始した。その隙を――」
「無理よ。こいつがいるもの」
遮ったのはルイズだった。
鳶色の瞳を爛々と燃えたたせ、不敵な笑みを浮かべている。地に膝をつき、口の端から血を滴らせながら。
彼女は体をかがめ、倒れ伏すミストバーンに語りかけた。
「ミストバーン。訊きたいことがあるわ。とっても単純なことよ」
顔を近づけて囁く。
「大魔王を守るのは誰の仕事?」
沈黙が流れてから、もう一度尋ねる。
「わたしたちの役目じゃ、ないわよねえ?」
伝説の『虚無』の使い手ルイズも、メイジの中で有数の実力の持ち主であるワルドも、大魔王を守るという使命には似つかわしくない。
『バーン様をお守りするのが、私の使命なのだ!』
かつてそう言った彼の姿がルイズの心に刻まれているのだから。
「何やってんのよあんたは! 大事なものは自分の手で守れって言ったのは、あんたじゃない!」
ワルドも苛立ったように叫ぶ。
「その程度で折れる信念ならば遥か昔に捨ててしまえばよかったのだ! ……あの時の言葉、そのまま返すぞ。“その覚悟、今こそ示してみよ”!」
キルバーンは彼らの言葉を吟味するように顎に手を当てて考え込んだが、剣を手に歩き出した。
「似た者夫婦だねェ、キミ達。そんなアツアツのお二人にとびっきりのプレゼントをあげよう」
ルイズに歩み寄る。
「新婚旅行(ハネムーン)なんてどうだい? ……あの世へのね」
ワルドが息を呑み、倒れたまま腕を伸ばすのを心地よさそうに見つめて死神は笑った。
愛する者を目の前で奪われた男の嘆きをじっくり鑑賞するつもりだ。その後でもちろんワルドも殺す。
ルイズは杖を握りしめて顔を上げた。最期まで心は屈さぬように。
剣を振り降ろそうとしたキルバーンの動きが止まった。
山の稜線から太陽が姿を現したためだ。美しい朝日が世界を照らそうとしている。
やや焦ったようにミストバーンを見下ろすが、動かないままだ。
「気づいてないのか。……可哀想に」
息を吐き、最後の望みが絶たれた少女を眺めクスリと笑う。
予想に反し彼は自我らしきものを取り戻していた。闇に沈んだ無数の記憶の断片は浮上の時を待っている。
ワルド達の言葉も聞こえてはいた。
だが、意識は霧のようにぼんやりとしていて実体を持たず、呪縛を断ち切ることはできなかった。
きっかけがあれば失われた記憶が一気に溢れ出すはずだが、『何か』が足りない。
友人の姿に気の毒だと言いたげな溜息を一つ吐いて死神は呟いた。
「“地獄のような世界”は変わらないってコトなのかなァ……」
『今のミストの心は魔界そっくりだろうねえ。暗闇に閉ざされた――地獄のような世界さ』
死神はかつて、心を砕かれた彼の精神状態を魔界に喩えた。
今回も友人の心をそう表現しただけで、同情めいた響きさえにじんでいた。あくまでミストバーンについて語っているだけなのだから。
「太陽があっても無くても、大して違いはないのかもね」
――その時、彼の中で何かが切れた。
否定の叫びが膨れ上がり、弾ける。
(バーン、様――!)
彼は思い出した。
全てを焼き尽くす炎のごとき魔族を。
魔界に太陽をもたらすと決意し、数千年の間太陽を求め焦がれてきた王を。
「そろそろ帰らなくちゃいけないんだよね。暗殺しに行かなきゃならないし」
死神は知らない。
単に友人の心について語ったにすぎない先ほどの言葉は、当人には主の大望への挑戦と映ったことを。
主の危機を知らせたことで一度点いた火に油が注がれ、激しく燃え上がったことを。
他の者が主を殺すと言ったところで鼻で笑いながら踏み潰すだけだろうが、友の力は誰よりもよく知っている。
キルバーンはルイズの首をはねようと剣を振り下ろしたが、止められた。
鋼の指が刃を挟んでいる。
わずかにひねっただけであっけなく刀身が折れた。
ルイズの目が見開かれた。ウェールズが声も無く唇を震わせ、ワルドが苦笑する。
片手で剣を止めた彼は身を起こし、残った刀身を握り潰しながらゆらりと立ち上がった。
キルバーンは飛び退って距離を取り、友人をまじまじと眺めている。
「……ウッソォ? 何で復活するのさ。正義の使者じゃあるまいし、奇跡なんてわけのわからないものが起こるはずないのに」
「奇跡が起こらずとも彼は立ち上がる……それだけの話だろう」
呆れたように呟くキルバーンにワルドがにやりと笑ってみせる。
一方、彼の至近距離にいるルイズとウェールズは蒼い顔になっている。
全身から立ち上る殺気を間近で浴びているのだから無理も無い。氷の手で心臓をわしづかみにされたような感覚に襲われ、動けない。
凄まじい眼光が死神を射抜く。
(……キル)
この日が来るとずっと前からわかっていた。
敵対する陣営に属する者同士、最後に残るものは戦いしかない。
たとえ親友であろうと、主に害なすのなら告げる言葉はただ一つ。
今までも、これからも。
友の次の台詞を予想したキルバーンがクスクスと笑い、手を差し伸べた。
果たして、同じ言葉がミストバーンから告げられた。
「死ね」
最終更新:2009年01月01日 18:09