#1
その時彼女は夢の中、今よりもっと小さな体を震わせて泣いていた。
ここは彼女の秘密の場所。
中庭の湖面に浮かべた、舟の中。
魔法を失敗させて叱られると、いつも彼女はここに逃げ込んで、隠れて泣いていた。
「……ィズ、ルイズ」
どこからか、自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
しかし今の少女には、その呼び声に応える元気もなかった。
――わたしはいらない子なんじゃないか?
そんな不安と焦燥感が、幼い心を満たしていた。
「……ィズ、ルイズ」
呼び声はまだ続いている。
その声が誰のものなのか、ルイズにはうまく思い出せなかった。
大好きなちいねえさまのものとも、憧れの人のものとも、その声は違って聞こえた。
――あなたは誰? わたしを叱りにきたの?
ルイズはおそるおそる顔をあげ、涙で曇った目を見開いた。
「起きろ。朝だぞ」
「……アンタ誰?」
しょぼしょぼと目を開けたそこには、銀髪の青年が立っていた。
まず最初に目を引くのは細身ながらがっしりした体躯と、腰に下げられた抜き身の長剣。
正直、あまり穏やかな印象を与えるものではなく、ルイズはその身を少し竦ませた。
(わたしを夜這いしにきた変態かしら?)
キュルケが聞いたら身の程知らずだと笑いそうなことを思うルイズを余所に、青年は重々しく口を開いた。
「俺の名はヒュンケル。君に召喚された使い魔……らしい」
言われてみればなるほど、寝ぼけまなこをこすり、改めて顔を見てみると、たしかに男は昨日召喚した平民だった。
男の左手を見てみると、コルベールが珍しがっていたルーンもたしかにある。
ルイズは「ああ、そうだったわ。瀕死の平民を呼んでしまうなんて……」と
再び鬱モードに突入しかけたが、そこではたと重大なことに気がついた。
(なんでコイツ、平気そうな顔で突っ立っているの?)
「アンタ、体は平気なの? 普通なら死ぬほどの怪我だったんだけど」
袖口から見える包帯が痛々しかったが、
男――ヒュンケルは特に気にした風もなく、「大丈夫だ。ありがとう」とだけ応えた。
――大丈夫なはずがない。
半ば茫然としながらも、治療の一部始終を見ていたルイズには分かっていた。
水の秘薬まで使ったとはいえ、あと半月は寝込んでいてもおかしくない傷だったはず……なのだが、
実際に支障なさそうに動くヒュンケルを見ると何も言えないのもまた事実だ。
自分の認識と現実との隔たりに、ルイズはなんだかわけがわからなくなってきた。
「ま、まあいいわ……。
私はルイズ・ド・ラ・ヴァリエール! アンタのご主人様よ!」
昨夜までの落ち込みと、現在進行形の困惑と、身にしみついた貴族としてのプライド。
三者の争いは最後の者がかろうじて勝利し、ルイズはともかくも名乗りを上げた。
――ネグリジェ姿で目ヤニをつけたままという、いささか間の抜けた格好ではあったがともかく。
#2
結局のところ、会話の主導権を握ろうとするルイズの努力はことごとく徒労に終わった。
「アンタは知らないでしょうけど」という前置きと共にありがたくもルイズが教えてやろうとしたことの殆どは、
「シエスタから大体のことは聞いた」の一言で封殺されてしまった。
聞くにはヒュンケルは、学院のメイドから事情を既に聞いていたらしい。
「ご主人様より先にメイドと口を聞くなんて!」と文句を言ったのも束の間、
「ご主人様は気持ちよさそうに寝てたんでな」と真顔で返されると、ルイズは口をもぐもぐさせるしかなくなった。
(なんかコイツ、やけに堂々としているわね……)
ヒュンケルがルイズに対して持つ敬意は、平民が貴族に対して持つそれではなく、一個人が恩人に対して持つものでしかない。
はっきり言葉にして理解したわけではなかったが、感覚的にルイズはそれを察した。
なんとなく見過ごしていたが、貴族である自分に対してタメ口をきいていること自体その証でもある。
(ご主人様としてナメられちゃいけないわ!)
そこで彼女は貴族と平民の差を思い知らせるべく、新たな作戦に出る。
「着替えるから手伝いなさい」
『所詮,平民など貴族の小間使いにすぎないのよ』とアピールする作戦である。
この作戦は当初、ヒュンケルが思いのほか従順にルイズの言うことに従ったことで成功を納めたかに見えたが、
着替え終わって最後に彼が、「大きくなったら一人でするんだぞ」と告げたことで台無しにあいなった。
言ったヒュンケルはさっさと部屋を出て行ってしまい、後に残るは怒りに震える小ルイズ。
彼女は使い魔のその発言を皮肉と捉えるか、本心と捉えるかという難しい問題に迫られたが、
結局「あいつは瀕死だから」というよく分からない結論を採用してぺったんこな我が身を慰めた。
実際のところ、もはや「使い魔瀕死説」は迷信の類にも思えてきたけれど……。
魔法成功率ゼロの地位を取り戻した杖を懐にしまった時、ルイズはふと、ヒュンケルの言葉を思い出した。
「元の場所に俺を帰すことができるか?」
どこか覇気のない様子だったヒュンケルだが、その質問にルイズが否と答えると、「そうか」とだけ言って少し目を落としていた。
――彼はやはり、元いた場所に帰りたいのだろうか?
思えば朝の慌ただしさに紛れて、ルイズはヒュンケル自身の話を殆ど聞いていなかった。
どこで、何をして生きてきたのか。何故あんな怪我をしていたのか。
ルイズはそんなことも聞きそびれた自分がおかしく思えた。
あるいはそれは――彼自身が暗黙のうちに、そう聞かれることを拒んでいたからかもしれない。
ルイズはふと思い、そう思った自分に何故か動揺した。
「……そういえばコレ、あいつのものかしら」
そうつぶやいたルイズの手には、小さな石のペンダントが握られていた。
#3
一方ヒュンケルは、扉の外でルイズを待っていた。
ヒュンケルから見た「ご主人様」の第一印象は、子供っぽいの一言に尽きた。
マァムと同じ色の髪をしたルイズの気性は、マァムのそれよりずっと荒々しかったが、
その威勢の良さが逆にどこか滑稽さを醸し出し、唇をヘの字にした仏頂面も彼女の幼さをかえって強調していた。
「抜き身の剣なんか持ち歩いてたら、貴族への不敬になるわよ?」
講釈を垂れるようにそう言って魔剣を取り上げたルイズの顔を思い返し、ヒュンケルは本日何度目かの溜息をついた。
これに関してはルイズの言うことはもっともなことだったが、見知らぬ世界で丸腰はいささか落ち着かない。
(……それにしても遅いな)
一人手持無沙汰にしていると、おもむろに隣室のドアが開いて、一人の少女が出てきた。
燃えるような赤い髪と、褐色の肌。
ルイズと同じ制服を着た彼女はキュルケと名乗り、下から覗きこむようにしてヒュンケルの顔を見つめた。
意図的なのかどうか知らないが、前かがみになったために豊満な胸がひどく強調された格好である。
「昨日はよく分からなかったけど、いい男じゃない。あなたにキスできたなんて役得ね、ルイズも」
「……キス?」
「召喚した使い魔と契約する時にキスするのよ。まあ、あれはキスというより人工呼吸に見えたけど」
ヒュンケルはさほど社交的なタイプではなかったが、そう言ってクスクスと笑うキュルケとの会話は気を紛らわしてくれた。
彼女は今度は連れていたモンスターの頭を撫で、「使い魔のフレイムよ」と自慢した。
「火竜山脈のサラマンダ―ね。好事家に見せたら値段なんかつかないわよ?」
見たことのない生き物だったが、主人に従順そうなその様子にヒュンケルは感心を覚える。
脳裏にちらりと、獣王と呼ばれた男の姿が瞬いた。
「使い魔は普通……そういうものなのか? 人間が呼ばれるということは?」
「そうねえ、少なくとも私は聞いたことないわ。
あなたが現れた時、先生もすっごく驚いていたし、滅多に起こることじゃないわね」
キュルケはさほど考えることもなく答えると、「あなたも災難ね」と肩をすくめた。
ヒュンケルは再び何かを尋ねようとしたが、そこでまた扉が勢いよく開き、言葉が途切れた。
自称ヒュンケルのご主人様、ルイズの登場である。
「ヒュンケル! ツェルプスト―なんかとなに話してるのよ!」
「あ~らルイズ、遅かったわね。ちょうどダーリンと今夜の約束を取り付けたところよ」
悪戯っぽく目を輝かせると、キュルケはさっそくルイズをからかい始めた。
対するルイズはというとキュルケの思惑通り、顔を真っ赤にして怒っている。
昨夜から落ち込みがちな気分も、キュルケを前にしては条件反射でフルスロットルである。
「ダ、ダ、ダーリンですって!?
こいつは私の使い魔なの! 瀕死なの! ちょっかい出すんじゃないわよ!」
とにかくこのルイズ、キュルケとの会話にはエクスクラメーションマークを欠かせない。
涼しげな顔で瀕死をしているヒュンケルと、その横で番犬のように唸るルイズを見て、
キュルケは「どっちが使い魔なんだか」と笑うと、手を振ってその場を離れて行った。
苛立たしげに喚くルイズには聞こえなかったろうが、ヒュンケルの耳には
去り際のキュルケが「まっ、思ったより元気そうでよかったわ」と呟くのがしっかり入っていた。
(人間はいいぞ、か……)
ヒュンケルはこの世界に来て初めてかすかに微笑むと、ルイズの小言と共に歩き始めた。
最終更新:2010年11月27日 19:28