第二章 影に吹く風
第一話 依頼、そして港町へ
清冽な朝の空気を吸いながら一人の男が剣を握り舞っていた。
人気のない庭の一角で黙々と剣を振り続けるだけなのに舞踏さながらの美を漂わせている。洗練された動きに一切遅滞は無い。
やがて剣を地に突き刺し、軽やかな足捌きと共に拳を突き出す。
ミストバーンはフーケ討伐後、早朝や空いた時間に訓練を行っていた。
彼は最強と謳われる肉体を預かり、秘法によってあらゆる攻撃を無効化する無敵の存在だった。
力任せに攻撃し、防御もせずに突っ立っているだけでどんな敵にも負けることは無かった。
しかし今、秘法は解け、力も落ちている。今までの戦い方では駄目なのだ。
召喚直後のように突然体が動かなくなるということは今のところないが、油断は禁物だ。ルーンの働きによって痛みを感じるようにもなった。
武器を握れば身体能力が向上するのがガンダールヴの特性だが、安易に使う気にはなれない。
怪しげな力に頼って主の体を内側から破壊するような事態は避けなければならない。
一通り剣を振るってみたが、やはり格闘主体で戦うことになりそうだ。
力を取り戻すべく彼はひたすら拳を振り続けた。
ルイズは夢の庭を走っていた。彼女は叱られるたびに人の訪れぬ池とそこに浮かぶ小舟へと逃げこむのだった。
やがて霧の中からマントを羽織った貴族が現れた。誰かはすぐにわかる。憧れの――。
その時、周囲が暗くなったと思いきや明るさを取り戻し、彼女は困惑した。
いつの間にか見たことも無い丘の上にいる。憧れの貴族の姿は無い。
背を向けて立っているミストバーンが、振り返りつつ言葉を発した。その口元に浮かんでいるのは微かな笑み。
「お前は私の――」
「何、言って……?」
問いかけると同時に目が覚めた。頭痛をこらえながら庭まで行く。
ルイズの姿をみとめると彼は来い、というように手を上げて挑発してみせた。ルイズが地を蹴って正拳突きを繰り出す。
最初の戦いのような不完全なものではなくまともな一撃を入れたいと彼女が言ったところ、指導を受けることとなった。
メイジなのだから魔法での訓練を要求したのだが却下された。それに、いざという時のために体力をつけておいて損は無い。
このまま続けていれば魔法を使わずに肉弾戦で活躍できるのではないか――そんな気さえしてしまう。
ひとしきり爽やかな汗を流した後授業を受けに行く。
授業を受けているとコルベールが飛び込み、授業中止を知らせたため生徒達が歓声を上げた。
アンリエッタ王女が魔法学院を訪れると聞いて全員緊張と喜びに顔を染めている
実際に王女の姿を見ると皆一層興奮したようだ。反対にルイズは魂を抜かれたようにぼんやりしている。視線の先には凛々しい貴族の姿があった。
(あの男――)
立ち居振る舞いに隙が無い。記憶の片隅に残しつつ部屋に戻るがルイズの様子はおかしいままだ。
何事か尋ねるはずもなく控えているとドアが長く二回、短く三回ノックされた。
ルイズが慌てたように立ち上がりドアを開くと、そこには真っ黒な頭巾をかぶった少女がいた。杖を取り出すと軽く振り、ルーンを唱える。
「どこに目が光っているかわかりませんからね」
ルイズの顔色が変わる。
「あなたは……姫殿下!」
慌てて膝を付くルイズとは対照的にミストバーンは落ち着き払って突っ立っている。
幼い頃の思い出を語り合っていた二人だが、やがてアンリエッタが憂いを含んだ笑みを浮かべた。
「結婚するのよ、わたくし」
「……おめでとうございます」
悲しい声に応じてルイズも沈んだ声音になっている。そこでアンリエッタは壁際に立っているミストバーンに気づいた。
「ごめんなさい、お邪魔だったかしら。そこの彼、あなたの恋人なのでしょう?」
「はい? 恋人? あれはただのつか……騎士っぽいものです」
アンリエッタはきょとんとしている。
「騎士……ですか?」
「その通りです。姫様」
アンリエッタの頭の出来では二人の複雑な間柄を説明したところで理解できまいと思い、中途半端な言葉で済ませた。
ゲルマニアと同盟を結ぶため嫁ぐことになったと聞いて、ルイズが野蛮な成り上がりの国だと忌々しそうに吐き捨てる。
アルビオンの貴族が反乱を起こし、勝利をおさめたら次にトリステインに侵攻してくるであろうことを説明すると腹を立てたようだ。
「恥知らずな!」
「ええ、反乱なんて愚かな……!?」
彼女達は佇む青年から鬼気が噴き上がるのを感じて唾を呑んだ。きっと瞼の下の眼は炯々と輝いているだろう。
彼は貴族達の言い分もハルケギニアの国際情勢も知らない。ただ、現状を力で変えようとするのを愚かだと決めつける態度に腹が立った。
弱さゆえに奪われたものを力によって取り戻す。力こそが全てを支配する。
魔界に君臨する主の信念は、どのような強敵に追い詰められたとしても変わらないだろう。自分より強い者が現れても、全てを捨ててでも強くなり、跳ね返そうとするに違いない。
それを、何も知らない彼女達が簡単に否定する権利などない。
二人が喉をおさえた。あまりの恐怖に息苦しさすら覚えている。
彼が足を踏み出しかけた時、ドアが勢いよく開いた。
入ってきたのはギーシュ・ド・グラモン。盗み聞きしようとしていたのだが、室内の空気が変わるのを感じて反射的に飛び込んでしまった。
彼が見たのは――可憐な少女二名が蒼白な顔をして震えている光景だった。
「ゲエッ!? ぶ、無事ですか姫殿下!」
ギーシュの鼻水を垂らした顔を見て著しく戦意が削がれたため彼は殺気を抑えた。
沈黙が立ち込める中、アンリエッタが震えながら語り出す。
アルビオンの貴族はゲルマニアとの婚姻を妨げる材料を探している。
ウェールズ皇太子が問題となる手紙を所持しているとアンリエッタが告げ、やはり頼めるわけがないと自分で否定するのを彼は冷ややかに見下している。
主と己ならば「行け」の一言で――いや、それすらいらない――全てが事足りる。己の不幸に酔い、同情を誘うような言い方で頼みこむ様は滑稽に思えた。
友情に燃えるルイズは輝く瞳で承諾し、ミストバーンに言い放とうとして言い淀む。先ほどの心臓を握り潰されそうな恐怖が蘇る。
「これはわたしに任された重大な任務だから、行かなくちゃ。あんたも……来てくれる?」
人の心に疎いミストバーンとてこの任務がルイズにとって譲れないものであることはわかる。他でもない、ルイズが必要とされている。
手がかりが殺されては困るため彼は沈黙と共に頷いた。
「姫殿下! その困難な任務、是非ともこのギーシュ・ド・グラモンに仰せつけますよう」
「あのグラモン元帥の? ……お願いしますわギーシュさん」
名前を呼ばれ微笑まれたことに感動し、ギーシュはわけのわからぬ叫びを吐き散らして気絶した。
ルイズはそんなものに目もくれず真剣な面持ちで姫と話している。
アンリエッタはさらさらと手紙をしたため、苦しそうな顔をして末尾に一行付け加えた。さらに指輪――水のルビーを引き抜き手紙と共にルイズに渡した。
出発の朝、ギーシュは顔をとろかしながら巨大なモグラに抱きついていた。彼の使い魔は地面を掘ってついていくつもりらしい。
ミストバーン自身は少しもギーシュを認めていないのだが、仕事上の付き合いだと割り切るしかない。
ふと薔薇の杖に視線を向けるとギーシュは胸を張った。
「ふっふっふっ……僕の杖はただの薔薇よりよっぽど美しくてね」
ミストバーンが手に取って観察していると、懐からスペアを出して見せた。妙なこだわりがあるものだ。
とりあえず戦力として計算しないことに決めた。
ギーシュは再び使い魔と暑苦しい抱擁を交わしている。
「ああ僕の可愛いヴェルダンデ! どばどばミミズはいっぱい食べたかい?」
いっそモグラと結婚すれば――ルイズの視線がそう語っているのにも気づいていない。
突然ヴェルダンデが鼻を動かしルイズに突進した。押し倒し、鼻で全身を嗅ぎ回す。
宝石が大好きなヴェルダンデは水のルビーに反応しているらしい。危険はないためミストバーンは放置していたが、一陣の風がモグラを吹き飛ばした。
颯爽と現れたのは羽根帽子をかぶり口ひげを生やした男だ。
「同行を命じられているグリフォン隊隊長、ワルド子爵だ。婚約者に手を出させるわけにはいかなくてね」
ギーシュと違い、魔法を除いても素晴らしい動きを見せるであろうことが身のこなしからわかる。
「このモグラ男はギーシュ。あの色白が騎士のようなもののミストバーンですわ」
ワルドは白い歯を輝かせながら気さくに笑いかけた。男らしいフェロモンを醸し出しつつ彼に手を差し出す。
「僕の婚約者がお世話になっている。共に力を合わせ、任務を成功させよう」
己の力量に自信を持ち、士気を上げるのも巧みだ。
出発する一行をアンリエッタは祈るように見つめ、オスマンは鼻毛を抜いている。コルベールがフーケの脱獄を知らせても態度は変わらない。
彼はミストバーンが異世界から来た事を、そこから吹く風がいかなる暗雲をも払いのけることを確信していた。
学院から出発して以来ワルドのグリフォンは走りっぱなしだった。一刻も早く港町ラ・ロシェールへ到着したいようだ。
彼はルイズに語り続ける。ルイズへの想いを。父が交わした他愛ない約束を。
ほとんど会うこともなかったため忘れかけていた思い出が、突然形を取って突きつけられたため彼女は困惑していた。
港町の入り口に到着した途端、馬目がけて崖の上から松明が投げ込まれた。馬が暴れ、ミストバーンは宙で体をひねり優雅に着地し、ギーシュが無様に落下するのを放置する。
あなたなら絶対手助けできましたよね、と眼で訴えられるが全く気にしていない。
そこへ無数の矢が放たれるが彼は大半を掴み取り、投げ捨てた。さらに矢が飛来するのをワルドが風魔法で逸らすと同時に崖の上で悲鳴が上がる。
烈風、次いで炎が巻き起こり男たちが転がり落ちてきた。怪我をしたのか動けないようだ。
月を背にして見覚えのある風竜――タバサのシルフィードが地面に降りてくる。
「おまたせ。助けに来てあげたわよ」
馬に乗って出かけようとする一行を目撃し、タバサを叩き起こして後をつけてきたのだ。ゴーレムとの戦いでミストバーンに惚れたらしい。
隠しておきたい任務であるためルイズが邪険に扱うが、キュルケは少しも気に留めず早速ワルドににじりよった。
が、全く動じない。彼女が標的をミストバーンへ変更したところで男達を尋問したギーシュが戻ってきた。
「子爵、あいつらはただの物盗りだと言っています」
ワルドは納得したように頷いたがミストバーンは入れ替わるようにして男達に近づいていく。
拷問か半殺しか皆殺しか。ルイズとギーシュが顔を蒼くして止めようとしたが、悲鳴を押し殺したような呻きが聞こえた後彼はすぐに戻ってきた。
「仮面を被った男と女に雇われたそうだ」
「どうやって訊いたの?」
知りたいか、と目で問われたルイズ達は引きつった笑顔と共に疑問を呑みこんだ。
宿で二人きりになるとワルドは熱っぽい口調と眼差しでルイズに語りかけた。
「君は失敗してばかりだったけど僕にはわかる。特別な力を持っているってね」
ルイズは力無く首を振った。優しい言葉に喜びたいのだが、ゼロのルイズと呼ばれてきた期間があまりにも長すぎる。
ワルドは自分の言葉を裏付けようとますます力を込めて続ける。
「彼が飛んで来た矢を握った時浮かび上がったルーン……あれはガンダールヴだ。君は偉大な力を持っているんだよ」
瞳の炎を燃えあがらせ、ワルドは囁いた。
「この任務が終わったら結婚しよう。もう君は十六だ、ずっとほったらかしにしたことは謝るけど僕には君が必要なんだ」
ルイズの頭に浮かんだのはミストバーンの顔だった。
彼を放り出すことになるが、いいのか。――駄目に決まっている。
彼女が呼び出したせいで仕えるべき主から引き離され、帰るあてもないまま仕方なく従うことになったのだ。無表情の仮面の裏でどれほど苦しんでいるだろう。
「わ、わたしまだ皆に認められていないわ」
「……君の心には誰かが住み始めたようだね。今返事をくれとは言わないが、この旅が終わったら君の気持は僕に傾くはずさ」
ワルドはそう言って唇を重ねようとしたが、ルイズは押し戻し、自分の心に戸惑っていた。
最終更新:2008年07月16日 17:20