ゼロの影-10

第五話 虚無の影

 礼拝堂には恐ろしい殺気が立ち込めていた。それを発する者はただ一人。主を侮辱され、怒りをみなぎらせている青年だ。
 あまりの恐怖にルイズの精神の糸はぷつりと切れ、気を失っていた。
 ワルドの本能が全力で叫んでいる。早く逃げろと。
 とにかく呪文を唱えるしかない――詠唱しかけた瞬間、予想を遥かに超える速度でミストバーンが突進してきた。
 咄嗟に後方へ跳んだが左腕を掴まれ、その瞬間凄まじい力に骨が砕けた。そのまま花でも摘むようにねじ切られる。
「ぐああッ!!」
 激痛に叫んだが、罰はまだこれからだと苛烈な眼光が告げている。引き千切った腕を床に叩きつけ、踏み躙る。
 ワルドはその隙にフライを唱え、礼拝堂の天窓を破って飛び去っていく。城壁を越え、敵の軍勢の上を飛んで逃げるつもりだ。
 このまま走っていては追いつけない。
 即座に答えを弾き出した彼はデルフリンガーを手に取り強く握り締めた。ルーンが光ると同時に走り出す。
 その速度は生物が出せる範囲を超越していた。デルフリンガーがその身を光らせ叫ぶ。
「『ガンダールヴ』の強さは心の震えで決まる! とにかく心を震わせな!」
 彼が今までガンダールヴを使わなかったのは不確定要素が多いため。
 彼なりの誇りや戦い方に加え、主の身体である以上無茶な戦い方をして器を破壊するような事態を避けようとしていた。
 しかし今、彼はリスクだけでなく手に入る力も理解した。感情のうねりによって強くなるならば暗黒闘気と同じ。
 ならば――使える。どうすれば力を引き出せるか知っている。

 城壁へ走りよるとわずかな窪みに爪先を引っ掛け、重力を無視した動きで一気に駆け上る。
 ひらりと飛び越え勢いを殺そうともせずに地に降り立ち、その勢いで数人をまとめて叩き斬った。
 そのまま凄まじい速度で周囲の敵兵を薙ぎ倒し、遠ざかるワルドの姿を追う。突如戦場に乱入した異質な存在に兵士が向かい、切り倒されていく。
 白銀の髪をなびかせ、音もなく疾走し、無造作に命を刈り取っていく彼の眼にはワルドだけが映っている。
 立ちはだかる人間達など蟻の群れ程度にしか思っていない。彼の前には反乱軍しかいないが、どちらの兵でも容赦なく切り殺すだろう。
 力任せに剣を振るうだけだが訓練と純粋な怒りによって無駄な動きが削ぎ落され、刃は的確に人間を切り裂いていく。
 恐るべき憎悪の化身に兵達は怯え、浮き足立った。
 雷のごとき速度で一直線に戦場を駆け抜けていく彼へ魔法が放たれるが、大半はデルフリンガーが吸収し、残りは片手で弾き返した。
 ワルドはグリフォンに乗って逃亡していたが、戦場を切り裂く影の姿をみとめ、身を震わせた。
 彼を殺すためだけに、周囲の者を見境なく殺し、追ってくる。
 全身を自身の血と返り血で真紅に染め、氷の面に怒りと殺意のみ浮かべて。
「ば……化物……め!」
 ワルドは己の過ちを悟った。彼の主を侮辱し、恐るべき災厄を解き放ってしまった――。
 絶対的な恐怖と共にその姿が深く深く心に刻み込まれていく。
 グリフォンが速度を上げるのを見たミストバーンは敵兵の手から投槍をもぎ取り、全ての力を込めて投擲した。
 咄嗟にグリフォンを操ってかわしたが、もし直撃していたらグリフォンごと串刺しにされていたであろう威力と速度だった。
 逃げられたことを悟った彼は次に何をすべきかすぐさま結論を出した。
 手がかり(ルイズ)の確保。
 身を翻し、来た方へ駆け戻る。
 すでに敵兵の士気はズタズタだったが、災厄の再来に極度の混乱に陥った。ただ一人の若者の姿に歴戦の兵達が怯え、叫び、逃げ惑う。
 ミストバーンは今度は城壁を駆け上がらず、ただの跳躍で飛び越えて城内に戻った。
 ルイズの元へ辿り着いた彼の手から剣が滑り落ち、甲高い音を立てて床に転がった。
 激しく動いたため傷はまだふさがっておらず血を流し続けている。口からも鮮血がこぼれ、床に赤い染みが広がった。
 体がろくに動かない。激怒に任せガンダールヴの力を全開にした反動がその身を食らい始めている。
「おでれーた……心臓に穴開けられたまま暴れ回るなんてよ。相棒、氷みてーな面して熱い魂持ってんだな」
 返事はない。ルイズが生きていることを確認し、呼吸を整え、少しでも体力を回復させようとしている。
 時間は稼げただろうが、敵兵がいずれやってくるだろう。
「……どうする?」
「戦い抜き、バーン様の元へ戻る」
 答えに迷いはない。デルフリンガーは満足そうに笑った。
「それでこそ相棒」
 主の元へ帰るまで諦めるわけにはいかない。このままでは死んでも死に切れない。
 ルイズが唯一の手がかりならば、なんとしてでも守り通し敵を打ち破るだけだ。
 瞼を閉ざし静かに佇んでいると、礼拝堂の床が盛り上がりギーシュが姿を現した。
「どうやって来たんだ?」
 デルフリンガーの呆れた声に、ギーシュは胸を張った。
「シルフィードでアルビオンに着いたはいいが、勝手がわからなくてね。困っていたら僕のヴェルダンデが穴を掘ってきたんだよ」
 どうやら水のルビーのにおいに惹かれたらしい。
 キュルケは敵と自身の血にまみれたミストバーンの姿に驚いたようだったが、深く追求せずに状況を尋ねた。
 答えずに脱出するよう促し、ウェールズ達が戦っている方へ顔を向け、一瞬だけ動きを止めた。そしてルイズを抱え、穴に飛び込み城を後にした。
 次にワルドに会った時は、必ず殺すことを心に誓いながら。


 彼は反乱軍の兵士達から死神のごとく恐れられた。
 影のように静かに、確実に、あらゆる命を刈り取り飲みこむ様から彼はこう呼ばれることとなった。
 ――『虚無の影』と。


 ルイズは夢の中を彷徨っていた。忘れられた池の小船の上で揺られている。もうワルドはここには来ない。憧れた貴族はいない。
 彼女が泣いていると誰かがやってきた。現れたのは、白い衣に身を包んだ青年。
 一瞬視界が暗くなり、明度を取り戻すといつの間にか二人は丘の上に立っている。
「わたしはあんたの――」
 問いかけた瞬間彼女は目を覚ました。
 風竜の上にいること、キュルケ、ギーシュ、タバサが前に腰掛けていること、そしてミストバーンの手当てをしていることに気づく。
 彼女は気を失う直前の光景を思い出し、暗い気持ちになった。
 彼は確かに心臓を貫かれたのだ。立ち上がった姿はただの幻、願望に過ぎない。
「ミストバーンは……?」
 答えを聞くのが怖くて恐る恐るキュルケに問いかける。
「生きてるわ」
「そう……って、ええ!?」
 慌てて身を乗り出すと心臓の位置に惨い傷が刻まれているのが見えた。だが、うっすらとではあるがふさがっている。
「背中にもあったから貫通してたんでしょうね。生命力溢れてて素敵だわ」
「生きているのが不思議だよ、まったく」
「不死身」
 彼らの言葉を信じられずルイズは泣きそうな顔をした。
「でも、わたしのせいで――」
「確認してみればいいじゃない」
 ルイズが胸に耳を当てると、規則正しい鼓動が聞こえた。ほっと胸をなでおろし、そのまま脈動を聞いているとキュルケが頬を膨らませる。
「ちょっと、いい加減離れなさいよ」
「何ですってえ!?」
 喧嘩を買いかけたルイズだが、状況を確認すると顔を赤らめ、次に蒼白になった。
 手当てするため胸がはだけられており、肌に直接頭を押し当てる格好になっていた。両手も素肌に直に触れている。
 暴れた反動か同化がさらに進んだのか完全に意識が途絶えているため気づいていないが、もしばれたら素手でバラバラに引き千切られるだろう。
 慌てて服を元に戻し、一息つく。動揺していたため脈をとればいいことに気づかなかった。
「血の雨が降るところだったわ……!」
 ガタガタ震えるルイズに対し、キュルケはどこまでも楽観的だ。
「あーらシャイなのね、それでこそ――」
「今回はこの僕が役に立ったね! 少しは見直してくれたかい?」
 キュルケの言葉を遮りギーシュが気取る。ルイズは肩をすくめ、わざとらしく頷いた。
「ええ、可愛いヴェルダンデと杖はね」
 肩を落とすギーシュ、にらみ合うキュルケとルイズに対しタバサは唇の前に指を立て、静かにするよう指示した。
 怪我人が乗っていることを思い出し、慌てて口を押さえる。

 風が頬をなでる。人間ではない存在から吹く、全てを変えていく風が。
 ルイズはミストバーンの安らかな寝顔を見つめていた。常に目を閉じているため同じように見えるが威圧感は無い。
(優しく笑ってれば――)
 軽蔑や嘲りではない笑みを浮かべたら――そう考えかけた彼女は慌てて首を振った。彼が慈愛に目覚めようものならば、間違いなく世界が滅びる。
 ルイズはふと風の中に不吉なものが混じっているのを感じた。
 召喚直後に戦っただけのキュルケやギーシュは彼が人間ではないと知っても特に気に留めてはいない。
 だが、その殺気を幾度も浴びた彼女にはわかる。単に種族が違うだけではなく、今まで歩んできた道も価値観も全く異なることが。
 彼には殺人の禁忌など存在しない。数えきれぬ戦いと屍の上に立っている。どこかで歯車が狂っていれば殺されてもおかしくはなかった。
(……でも)
 青年に得体の知れない感情を抱きながらも、彼女は首を振ってそれを追い出そうと努めた。
 手がかりを守るためとはいえ命を救われたのは事実だ。主でもない人間のために、凄惨な傷を負ってまで戦った。
 今は――今はただ、この風を感じていようとルイズは思った。

 ようやく暗い淵から意識を引きずり上げたミストバーンは、身体が動かないことに気づき力無い声で主に詫びた。
「申し訳ありません……バーン様」
 すると、ルイズが呆れたように息を吐いた。
「いっつも謝ってるのね。怪我したけど戦ったのはあんたの力じゃない」
 本当は、命を救われた礼を言いたかった。だがどうしても言葉は出てこない。ぎこちない笑顔を向けるだけで精一杯だった。
 一方彼は、そういう問題ではないと思いながらも頬に風を感じた。
 それは虚ろな音を立てるのではなく、静かに心を吹き抜けていった――。

第二章 影に吹く風 完


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最終更新:2008年07月24日 14:03
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