ゼロの影-15

最終章 太陽と影

第零話 ゼロ


 ルイズは誰かの意識の中にいた。
 周囲には無限の闇が広がり“それ”は最初漂うだけだった。暗黒と融け合っては分離することを繰り返し、どこまでが己かわからぬままだった。
 やがて闇が薄れ、次々と光景が映し出されていった。延々と繰り広げられる血生臭い戦い、無数に連なる憎悪と怨嗟の声。
 “それ”は、己が魔界の深淵から――戦場の残留思念から生まれた闇の存在であることを知った。
 やがて“それ”は他者を乗っ取ることを覚えた。器を替えるにつれて意識が明確になり、言語を操り、体らしきものを形成していった。
 傷つかず痛みも感じない、滅びからは最も遠い体。苦労せず簡単に強くなれる体。
 だが、できることは憑依のみ。
 蔑視と嘲笑が降り注ぎ、彼女の心に同じ言葉が何度も響き渡った。
『寄生虫』
『偽りの生命』
 “それ”は否定できず、ただただ魂を握り潰した。
 いくら強い器を手に入れても、抜け出して次の器へ移るまでの間その力はゼロになる。
 自身は何の力も持たず何もできない。ゼロのままだ。
 己の体を嫌悪すればするほど、能力を忌避すればするほど、鍛え強くなれる者は輝いて見えた。
 意識が羨望に染まる。
(わたしと……同じ事を……!)
 他者に認められたい。ゼロのままで在りたくはない。
 満たされぬ心を抱えたまま暗闇の中をさまよっていた影は、永い時の果てに“天命”に出会うこととなる。

 ある時影は年若く覇気溢れる魔族に戦いを挑んだ。宿主の剣技や闘気を使い攻撃したが、一蹴される。痛みを感じぬ影は戦い続けるが全く通じない。
 その力は今まで出会った何者よりも強大だった。『最強の存在』――そんな言葉が脳裏をよぎるほどに。
 やがて不敵な笑みと共に相手が優雅に構えた。片手は天に、もう片方は地に。全身から魔力が陽炎の如く立ち上る。
 不動の構えに斬りかかったが掌撃であっさり弾かれ、手刀で深々と体を切り裂かれた。さらに火球呪文が不死鳥となって全身を焼く。
 器を完全に破壊された影は相手の体へと潜り込み、魂の回廊へ侵入した。
 進むうちに影は感嘆を覚えた。その肉体が極限まで鍛え抜かれ、膨大な魔力を有し、暗黒闘気も存分に振るえる最高の器であることを悟る。
 奥へ奥へと進む影へ周囲から言葉が滲んだ。
「お前は……いかなる器も操ることができるのか」
 声の中に侮蔑や嘲笑は含まれていなかった。今まで乗っ取ってきた連中と違い、寄生虫と罵るつもりはないようだ。
「素晴らしい能力だ」
 初めて聞いた肯定の言葉に戸惑い、尊敬の念をにじませながらも影は魂を砕こうとした。
 だが、内側から勢いよく灼熱の炎が噴き上がり影の全身を焼いた。
 温度を持たぬ偽りの光でも安らかな闇でもない、目映い輝きと激しい熱を持つ業火。
 地上を焼き尽くし、魔界の深い闇をも照らすような。
 苦痛に打ちのめされ、体外へかろうじて脱出した影に言葉が降り注ぐ。神託のように。
「お前はこれより余のために生きる。お前の生涯は余の物だ」
 忌わしい身体も、闇の中を彷徨った年月も、全てはこの時のため。
「お前は余に仕える天命をもって生まれてきた」
 その言葉は影の心に染み込み、光となって照らした。一言一句が魂の最も深き場所に刻まれた。
「余の……大魔王バーンの真の姿を覆い隠す霧となれ。ミストよ」
 忌み嫌っていた能力を認め、必要としてくれた主。
 求めていたものが与えられた影――ミストは跪き、忠誠を誓ったのだった。


 それから彼はずっと主に仕え続けてきた。永遠に近い年月の間、ずっとその傍らで。
『私は……幾千年も前から元々一人だった! 一人でバーン様を守り抜いてきたのだ!』
 魂の叫びを聴き、彼女の心がズキリと痛む。
 彼の心の中心に位置するのは大魔王バーンただ一人。
 主から引き離され、帰る手段は無いと知らされた時の絶望と悲嘆は心を切り裂かれるようだった。
 罪悪感が膨れ上がり弾ける刹那、光景は別のものへ切り替わった。

 視界に鉄と血の色が広がった。
 丘が見える街道で青年が無数の敵と戦っている。息は荒く、全身を鮮血に染めながら。
 人間ならばすでに絶命している傷をいくつも刻まれながらも彼はひたすら拳と剣を振るっている。
 やがてその表情が陰り――地に倒れ伏した。絶望に囚われ、闘志を虚無に喰われて。
「――ッ!」
 ルイズは跳ね起き息を切らした。夢とは思えぬほど克明で鮮烈な光景。白い髪と衣が血に染まり、最後に彼は倒れた。
 次第にその身体を闇が包んでいく様まで、目を背けることも許されず見てしまった。
 傍らに眠る青年を眺める。夢と違って血に塗れていない端正な面は、差し込む月明かりを浴びて輝くようだ。
「……はあ」
 彼が死ぬなどあり得ない。別に戦闘に快楽を感じているわけではないのだ。
 主や己を侮辱した者には容赦しないが、ハルケギニアの問題に干渉するつもりはない。
「あんたのせいで目が冴えたじゃないのよ」
 安らかに眠る青年を殴りたくなったが睨みつけるにとどめた。
 胸の内に得体の知れない感覚が湧きあがる。
 いずれ彼と永遠に別れることになる――それは確信に近い予感だった。



第一話 届かぬ翼

 ミストバーンは過去の世界をたゆたっていた。
 闇の中を彷徨っていた時代、主と出会った忘れがたい瞬間、そして仕えてきた数千年間。それらが万華鏡のように無数の色と形をとっては消えていく。
 彼は考える。自分は主から何を与えられただろうと。
 重要な、他の誰にも任せられない役目か。
 他者を近づけてはならぬ秘密か。
 最強の器を預かる機会か。
(――全てだ)
 名も、生きる理由も、主から与えられた。何より、認められたことで誇りを持てるようになった。
(私はまだまだバーン様のために働かねばならん……!)
 それなのに異世界に呼び出され、主を守ることができない――感情が膨れかけたが、目の前に光の扉が現れた。周囲を見回すといつのまにか小高い丘の上に立っている。
 この扉をくぐれば魔界に、主の元に戻れる。歓喜に身を震わせつつ歩み寄る彼の前に桃色の髪の少女が現れた。
 扉は長くはもたない。彼女の問う声を無視して前進したところで彼は目を覚ました。
 さっそく図書室に直行し、書物にかじりついて貪るように読む。砂漠に落ちた一本の針を探すような行為を、彼はやめようとはしない。
「どうしてそこまでするのよ」
「私がお傍を離れている間に、万一のことがあれば――」
 絶対に己を許せないだろう。
 答えには感情が揺れていた。人間ではない彼が見せる、人間のような一面だった。
 ルイズには何も言えない。彼女が呼び出してしまったのだから。
 せっかく夏季休暇中の清々しい朝だというのにルイズの気分は最悪だった。

 日に日に焦りと苛立ちが募るのが彼自身にもわかる。
 周囲の環境に慣れるまではそちらに注意を向けていればよかったが、立ち止まると暗い感情に飲みこまれそうになってしまう。
 行動しているという実感が欲しいだけ――現実から目をそむけた自己満足に過ぎない。
 偽りの安らぎの中に逃げ込もうとしたアンリエッタを笑ったが、現在の彼も似たようなものだ。
 訓練の時間になったため苦い想いを噛みしめつつ書物を置いて立ち上がる。
 訓練は毎日欠かさず続けている。
 だが、いくら拳を振るおうと良くて現状維持、召喚直後より確実に“レベルダウン”している。
 膂力や敏捷性だけでなく身体の強靭さ、再生能力まで大幅に減退している。もしかするとルーンによる反発以外にも原因があるのかもしれない。
 見かねたデルフリンガーが声を上げた。
「もうちょい力抜けって。十分強いんだから――」
「バーン様の体について誰よりもよく知っているのはこの私だ……!」
「そ、そうなのか?」
 力の低下を実感してしまうという意味だがデルフリンガーには理解できなかったようだ。
 それでも周囲に弱みを見せるような真似はプライドが許さなかった。
 数千年かけて培った忍耐力であらゆる感情を心の奥底に封じ込め、鍵をかけ、無表情の仮面で隠している。


 結局大した成果もないまま夏休みが終わり、生徒たちは学院に戻った。
 今までと同じ日々が始まると思った彼らにもたらされたのはアルビオンへの侵攻作戦発布だった。ルイズも従軍することとなる。
 ミストバーンにとって人間達の争いなど関心の外に在ったが、学院とルイズが巻き込まれるとなれば話は別だ。
「あ、あんたはどうするの?」
 以前の彼女ならば「あんたも来るのよ」で済ませただろうが、帰還の意志が何よりも強いことを知っている。
 彼にはトリステインのために戦う義理も義務もない。だからこそ、行くと告げられたのは予想外だった。
「残って本を読んでいてもいいじゃない」
「お前を守らねばならない……」
 ルイズが死ねばわずかな可能性が限りなくゼロに近くなる。
 そのため彼は無関係の戦いに赴き、主ではない人間を守り抜かねばならない。
 ルイズの胸にどうしようもなく苦いものが広がった。

 総司令部にて行われた軍議ではルイズはすっかり駒扱いだった。
 戦争では当然のことだが、釈然としないルイズの脳裏にはミストバーンとの会話が蘇っていた。
(私はあの御方の道具……お役に立てるならばそれでいい)
 あの時彼女は“ルイズ”として認めてほしいと思ったが、評価されるのは『虚無』だ。戦いのための道具。
 同じ道具扱いのはずなのに彼のように誇らしげに言い切ることはできない。
(何が違うのかしら)
 ぼんやりと輪郭は見える。ド・ポワチエとの間には信頼も何もなく、引き離すことのできぬ影ではない。
 彼のために戦う気にはなれないが、アンリエッタやトリステインの皆のため――そう思うと少し力が湧いた。


 犠牲を出しながらもロサイスに上陸した六万の軍は陣を構えたが、予想に反してアルビオンの反撃は行われなかった。
 短期決戦を計画していたのだが敵は首都に立てこもったまま動かない。敵地で長期戦となると補給の問題が発生する。
 軍議を開いたはいいが頭の痛い事態であった。
 一気に首都まで攻め込むのは無謀であり、一つ一つ拠点を潰していては時間がかかりすぎる。
 シティオブサウスゴータを落とすことをド・ポワチエが発案すると、侯爵と参謀総長が同意を示した。
 ルイズとミストバーンも軍議に参加していたが発言することもなく立っている。
 やがてド・ポワチエはミストバーンに視線を向けた。影のように佇む青年からは気配が感じられず、彫像のようだ。
 どう扱うべきかわからず言葉を捜しているとルイズが代わりに答えた。
「彼はわたしの『騎士のようなもの』で、異世界から訪れたのですわ」
 ルイズは召喚について大雑把に説明を行い、こう締めくくった。
「元の世界に戻るための手がかりを探していますから、何か情報があれば教えていただけないでしょうか」
 ルイズは彼を戦いに巻き込みたくなかった。戦う理由がある自分はともかくとして、ハルケギニアの住人ではない彼まで危険な任務に投入されるのはおかしい気がする。
 本来ならばそういった思いを封殺し、駒として扱うのが正しいのだろうが、そこまで割り切れなかった。
 それを読み取ったド・ポワチエが渋面を作る。
「彼は五万の兵に突撃し、甚大な被害を与えた『虚無の影』だと言うではないか。その力、我が軍のためにふるっていただきたい」
「しかし――」
「戦場に来ておいて戦いたくないなどと言うつもりはない」
 情報と戦力の交換を条件にするつもりだ。
 ミストバーンの答えにド・ポワチエらはどこか作り物めいた笑みを浮かべ、その勇気を称えた。
 ルイズ達が出て行った後、ド・ポワチエはウィンプフェンに向き直り弾んだ声で言った。
「元の世界に戻りたがっている、か。もしかすると彼が鍵を握るかもしれんな」


 それからルイズ達はいくつもの任務をこなしシティオブサウスゴータを制圧したものの、短期決戦というわけにはいかなかった。
 アルビオンは降臨祭の間の休戦を要求したのだ。結局受け入れざるを得ず、アンリエッタなどは苛立ちも露にマザリーニに詰め寄っていた。
 浮遊大陸アルビオンの冬は早く、厳しい。ルイズは暖炉の前で震え、知らぬうちに溜息を吐いた。
 彼は何もせず壁にもたれ、腕を組んで立っているだけだ。だが立ち上るものは重く、触れると押し潰されそうだ。
(顔青いわよ、大丈夫なの?)
 鈍感な彼女ですらそう言いたくなる顔色だが、気遣いの言葉は飲みこんだ。
 素直に言えないということもあるが、それ以上に人間の小娘に心配されたとあっては彼のプライドが傷つくだけだと知っている。
 認めたくない現実を突きつけられる苦しみは彼女も散々味わった。
 代わりに吐き出したのは、彼から感じる不吉なものを払拭するための問いだった。
「……ねえ、あんたは何者なの? 正体は――」
 言いながら彼女の心には夢の断片が浮かび上がっていた。
 霧に紛れはっきりと捉えることはできないが、ほんの少しだけ覚えている。実体を持たぬ不気味な姿を。過ごしてきた年月の重さと孤独を。
 しばらく待ったが自分のことを語ろうとはしないため、別方向から攻めることにした。
「あんたが忠誠を誓うバーン様って?」
 今度の沈黙は性質が違っていた。どんな言葉を使えばよいのかなかなか辿り着けないようだ。
「……地上を焼き尽くす炎のような御方だ」
 手の平を眺めながら紡がれる声には、言葉では表現できない想いが揺れていた。
「そして――太陽をも手中に収めようとしておられる」
「どういうこと? 太陽はみんなを照らすものじゃないの?」
 わけがわからず混乱している彼女に聞かされたのは信じられない話だった。
 かつて世界は一つであり、人間と魔族と竜族が血で血を洗う戦いを繰り広げていた。
 延々と続く争い憂いた神々は世界を分け、別々に住まわせることにした。脆弱な人間は地上に。強靭な体を持つ魔族と竜族は魔界に。
 魔界にはあらゆる生物の源である太陽がなく、荒れ果てた大地が広がっているだけである。
「あんたのご主人様は地上を征服して太陽の恵みを手に入れようとしてるのね」
 真の目的は征服ではなく消滅だが、それは明かされないままだった。
 消滅を確実にする下地作りや後の世に通用する軍の編成を考えれば、征服も目的の一つと言えるためだ。
 彼女は人間と対立する立場の青年に何と言葉を返せばよいのかわからなかった。


「太陽の下で、皆で一緒に暮らすことはできないの?」
「不可能だ」
 答えは簡潔にして完全な拒絶だった。
 仮に人間が居住地を提供しても魔界の住人は従わず、力こそ正義という信念に則り攻撃するだろう。
 逆に、魔界の住人が大人しくしても人間は受け入れようとはしないだろう。
 人間同士でさえ争い続けてきたのだ。異種族相手ならばなおさら戦いは避けられない。
 ルイズには魔族を非難することも、地上の人間を批判することもできない。
 爆発しか起こせず力を持たなかったも同然の彼女は蔑まれてきた。手に入れた力で嘲った者を圧倒したら気持ちいいだろう。
 目の前の青年が人間ではないと知った時、得体の知れぬ感情が湧き上がったのも事実だ。
「人間が異質な存在を受け入れることはできん。バーン様も私も強者は種族を問わず認めるがな」
 では、自分は認められていないのか。踏めば潰れる虫けらとしか認識されていないのか。
 悲しさと悔しさがこみ上げて唇を噛んだ彼女へ声が響く。
「私の世界でもその魔法が使えるならば、お前は紛れもない強者だ。部下になればバーン様もお喜びになるだろう」
 強者だと言われて喜ぶべきなのにルイズは力無く首を振った。
 彼は単に種族や価値観が違うだけではない。今は利害の一致で大人しくしていても、いつ殺し合うことになるかわからない存在だ。
(どうすればいいのよ……)
 人間ではない。化物。異質な存在。受け入れられない。
 言葉が浮かんでは消えていく。少し近づいたと思った距離が遠く遠く隔たっているのがわかった。
「わ、わたしはあんたの――」
 尋ねようとした声は「反乱だ!」という叫びによって乱暴に遮られた。
 何の前兆もなく、原因すらわからぬ反乱はあっという間に連合軍を打ち破った。
 さらに、首都のアルビオン軍主力がシティオブサウスゴータ目指して動き出したという知らせがもたらされる。
 死神が見たら喜びそうな絶望の色が、王軍を染め上げていた。


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最終更新:2008年08月09日 15:39
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