ゼロの影-17

第三話 陰りゆく太陽



 状況を確認しようと現実の景色に意識を集中させたミストバーンは、丘の頂に登り視界が開けた瞬間息を呑んだ。
 眼前に広がり草原を埋め尽くすのは、完璧に布陣し、攻撃態勢を整えたアルビオン軍だった。
 彼の姿を視認した瞬間、集団はまるで一つの生物のように行動を開始した。
 咄嗟に馬の背を蹴って宙に身を躍らせたが、点や線ではなく空間ごと押しつぶすような攻撃を回避するのは不可能だった。
 無数の風の刃が、氷の槍が、弾丸が、飛来する。
 空中で剣を抜いて振るうが体中に痛みが走り鮮血が滴った。かろうじて体勢を立て直し着地する。
「く……!」
 いきなり攻撃を食らってしまったのは致命的だ。万全の状態ならばともかく、あらゆる力が低下している今の彼だと大きな痛手となってしまう。
「何だァ!? いくらなんでも準備よすぎだろ!」
 敵が現れる時刻や方向を把握し殺意をみなぎらせて備えていた集団と、情報や戦意の少ない個人との差はあまりにも大きすぎた。
 気配を感じなかったのは身体の深刻な異変に加え、敵軍が魔法をかけていたためかもしれない。
「相棒、キメラの翼を使え!」
 言われるまでもなく使おうとした。だが、不思議な力にかき消され翼はそのまま残っている。
 彼が危惧していた通りになってしまった。大魔宮など逃亡を許さぬ場所が世界には存在する。
 アルビオン軍の力か地理的な要因かはわからないが、撤退という選択肢は消えた。
 彼に残されたのは、戦い抜き、生き延びる道だけだ。
「『虚無の影』だ! 殺せ!」
「正義は我らにある! 化物の息の根を止めろッ!!」
 今ここで絶対に滅ぼすという意志と共に殺到する。
 たった一人に向けて、七万の大軍が。

 拳と剣で立ち向かう彼にデルフリンガーが悲しげに呟く。
「ダメだぜ相棒……心を震わせなきゃガンダールヴの力は出せねえ」
 左手のルーンの光は今にも消えてしまいそうだ。ほとんど身体能力は向上しておらず、ワルドを追った時に比べるとあまりにも違いすぎる。
 原因は彼の心に在った。
 ウィンプフェンの情報に従って丘に向かったのは鮮明な夢を信じたためだ。いずれこの世界から去るという予感を抱いていたためでもある。
 それが裏切られ、限界まで張り詰めていた心の糸が切れてしまった。以前からあらゆる感情を無理矢理抑え込んでいた分反動も大きい。
 アルビオン軍は動きに精彩を欠く敵の姿に、好都合とばかりに襲いかかる。
「騙されて悔しくないのか!? 怒れよ!」
 デルフリンガーの必死の叫びも心の表面を滑り落ちていくばかりだ。
 垂らされた餌に食いついたのは焦りに目がくらんだ己の責任だ。
 騙されたなどと言うつもりはない。最初から信じていないためだ。
 どれほど信憑性の薄い情報でもわずかな可能性にかけて確かめずにはいられない。
 あのまま無視して船に乗っていても後悔に苛まれるだけだとわかりきっている。
 それに――力があれば跳ね返せる。ただそれだけの話だ。


 雨の如く氷の矢が降り注ぎ、風の刃が乱れ飛ぶ。炎の球が続けざまに打ち込まれる。
 吸収しきれず吹き飛ばされかけたところに背後から無数の武器が突き出される。刃の冷たさが熱、次いで痛みに変わり背中一面に広がった。
 体を捻って串刺しになるのは免れたが、傷は深く血が流れ出て行く。
 だがすぐに止まった。炎球が背中に直撃したためだ。
 傷が炎に焙られる激痛に呼吸が一瞬止まりかけたが、攻め寄せる敵に鉄拳を食らわせ数人まとめて吹き飛ばす。
 氷の矢が降り注ぐのを敵兵の体を掴み盾代わりにして防いだ。だが、その陰から次々に空気の槌や刃を撃ち込まれよろめく。
 倒れかけた所に槍が繰り出され、腹部を貫き標本のように地に縫い止めた。動きを止められた彼にあらゆる方向から氷の杭が迫る。
 槍を引き抜き振り払った彼の全身に氷柱が突き刺さり、鈍い音が連続して響いた。
 そこへ再度巨大な炎球が叩きこまれ氷を溶かし尽くす。腹部の傷口から炎が流れ込み、体内に熱が弾けた。
「ぐあぁ……ッ!」
 身を震わせながらも踏みとどまり、地を蹴って複数の敵を一気に切り裂き殴り飛ばす。
 追撃を跳躍して回避し、魔法が飛来するのを剣と掌で弾くが完全には防ぎきれない。
 体勢を崩し落下したところに襲い来る攻撃は嵐そのもの。
 ――死なないならば、徹底的に殺す。
 脅威を排除するという意志で彼らは一つになっている。
「このままじゃまずいぜ……相棒」
 デルフリンガーの囁きは戦場の喧騒の中に消えた。


 ルイズが目を覚ますと従軍していたクラスメートらが覗きこんできた。
「ここは?」
「出航準備中の船さ。アルビオン軍は遅れているらしいよ」
 アルビオン軍は進撃の速度を落としたらしい。それを聞いて虚ろな風が心をかけぬけて行く。何か大切なことを忘れている気がする。
 夢の世界で彼女はウィンプフェンと会話し、次に丘の見える街道で数多の兵を相手にしていた。
 ようやく使い魔と感覚を共有することができたのかもしれない。視線を巡らすが青年の姿は見えない。
「ミストバーンは……?」
「司令官から知らされたんだ。僕達を逃がすために一人だけ残ったって」
「――嘘よ」
 彼は人間が何人殺されようが眉一本動かさない。
 夢の断片がつながり、真実を知らせる。
 ウィンプフェンは彼の帰還への執着を、主への忠誠心を利用した。
 彼とて急に降ってわいた情報を怪しまないはずがない。簡単に帰る手段が出てくることはないとわかっている。それでも行かざるを得ないのだ。
(わたしの――わたしのせいで)
 限界まで追い詰められ、判断を誤った。巻き込みたくない一心で話したことが彼を死地へと追いやった。
 自分ならばまだいい。名誉のため、アンリエッタのため、トリステインのため、皆のため――戦う理由がある。
 しかし、彼には何も無い。主のためという正義すら持たずに戦い、死んでいく。
「行かなくちゃ……! 行って――」
 どうする。もう一人の彼女が囁いた。
 消耗しているためタルブの時のような規模の『虚無』は使えない。わざわざ殺されに行くようなものだ。
 何も言わずに気絶させ、勝手に行ってしまった相手のために命をかける必要などあるのか。
 どうせ化物――人間とは相容れぬ者だ。将来、彼女を含め学院の者達を殺そうとする可能性は十分にある。
 人間は異質な存在を受け入れられないと彼も言っていた。行動しなくても彼女を責めはしないだろう。
 何もしないことこそが最善なのだ。


「……でも」

『お前は努力して力を手に入れようとしているのだろう?』

「それでも、ねえ……!」

『ルイズ!』

「放っておけるわけないじゃない!」

 命を救われた。共に戦ってくれた。力になってくれた。何より――認めてくれた。
 今まで他者からずっと“ゼロのルイズ”と呼ばれ蔑まれてきた。彼が、彼こそが、初めて“ルイズ”と呼んでくれたのだ。
 彼に勇気を与えられた。それは誰にも否定できない真実だ。
(退かない……退くわけにはいかない! わたしはルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールなんだから!)
 もし彼がトリステインの者達に害を加えるというならば、その時は――
「全力で戦うだけよっ!」
 早速残された荷物をあさり、口元をゆがめる。
「甘いわね。まだキメラの翼が残っているじゃない」
 一枚しかないため、行けばトリステインに戻れない可能性が高い。
 だが、命を賭けるだけの、全てを捨てるだけの価値がある相手だと気づいたのだ。
「少しは報いなきゃ……死んでも死にきれないわ!」
 ルイズは立ち向かう覚悟を決めた。――彼女が彼女であるために。
 共有した感覚を思い出しながらキメラの翼を上空へ投げ上げると加速が全身を包んだ。
 空を翔ける間、彼女は戸惑っていた。
 今まで自分の気持ちにこれほど正直に行動したことがあっただろうか。
 認めさせたいという一念が作り上げた鎧は強固なもので、内心とは正反対の言動を導いたことも多々あった。
(あいつの影響かしら?)
 かつて見た夢が少しずつ蘇る。どす黒い思念から生まれ、体を持たぬ己を“ゼロ”だと感じていた。
 だが、その心には憎悪や羨望だけが巣食っているのではない。元は暗く濁った感情も忠誠心や敬意へと昇華されている。
 彼と過ごすうちに蔑視を跳ね返すための心の枷は少しずつ砕けていった。
(あいつが死ぬわけないわ)
 彼の強さの源は恐ろしいまでの膂力か、驚異的な身のこなしか。それとも常識を超えた生命力か。
 否。彼の最大の武器は――。
「きゃああっ!」
 ルイズは凄まじい衝撃とともに不可視の壁に激突し、地面に叩きつけられた。
 全身に激痛が走り、呻く。額が切れ、左眼から頬にかけて血が滴り痣のような模様を描いた。
「うう……!」
 骨が砕けそうな痛みだった。このまま意識を手放してしまえたらどれほど楽だろう。
「でも、あいつの味わった痛みに比べれば、こんなもの……っ!」
 丘はまだ遠い。泥にまみれながらも彼女は立ち上がり、走り出した。


 ミストバーンは数えきれぬほどの魔法と刃をその身に受けながら戦い続けていた。
 魔族の体はすぐに死ぬことを許さない。生命が削ぎ落される間も戦うしかなく、その姿が人間達の恐怖を煽り攻撃を苛烈にする。
 荒い息の中、少しずつ動きが鈍り表情も陰っていく。
 辺りが暗くなり彼の動きが止まった瞬間、槍が胸の中央――心臓を貫いた。引き抜くより先に乱暴に捻られ、穂先が体内で回転する。
「が……!」
 血塊が口から溢れ体が痙攣した。それでも柄を掴んで引き抜き、相手に突き立てる。
 が、今度は背から灼熱の塊が突き抜け、剣の切っ先となって姿を現した。深々と胸を抉られ血の花が周囲を彩った。
(バーン……様……!)
 破壊された心臓はこれで二つ。
 背に剣を生やしたまま、力を振り絞り裏拳を叩きこむ。その弾みで剣が抜け、乾いた音と共に地面に転がった。
 心臓を抉られても動く化物じみた生命力に周囲の兵士達は恐慌に陥り、絶叫しながら武器を振りかざす。糸が切れたように崩れ落ちた彼へと。
 しかし突然彼の体が跳ね上がり、獣のように俊敏な動きで兵達の少ない方向へ走り、丘の上へと駆け戻ってしまった。
 各隊の隊長は怯える兵士達をまとめ直すのに必死で追う余裕が無い。
 時間はかかっても隊列を整え、改めて殺すしかない。深手を負わせたことに違いは無いのだ。丘の上を睨み、己に言い聞かせる。

「はあ……使い手を動かすのは久しぶりだ。……どうしたんだよ、まだ戦いは終わってないぞ」
 デルフリンガーの言葉は心の奥に届くことなく滑り落ちていった。仰向けに倒れた彼の視線の先には――少しずつ陰りゆく太陽。
 日食が起こっている。
「立つんだ」
 何のために。
「戦え」
 その先に何がある。
「生き延びるんだよ!」
 主の元に戻れぬのならば、今死のうと後で死のうと同じこと。
 主の体を守り切れなかったという事実が意識を責め苛んでいるものの、力の源たる憎悪も湧かない。
 生きる理由そのものである主はこの世界には存在せず、戦い抜いても状況が変わるわけではない。
(戦う意味など……どこにもありはしなかった……)
 元の世界へ戻れぬならば何もかも無意味だという諦めが彼の心を支配していた。
 戦いしか知らないと語る彼が戦う理由を見失った時、力はゼロへ近づいていく。
 ルーンによって同化した今ならば、器が破壊されると同時に本体も滅ぶだろう。
 ハルケギニアを去るという予感の正体がようやくわかった気がした。
 ――人間に倒されて、この世界を去る。
 握りしめられた拳は震えている。本来ならば神の金属をも易々と砕き疾風のように駆けられるはずなのに、体を起こすことすらできない。
「勝利のために……何かを捨てることさえできん……!」
 かすれた声には悲痛なものがにじんでいた。言葉に合わせて血が口から吐き出される。
 生命が縮もうと魔獣になろうと、どんな手段を使ってでも強くなり敵を倒す――それも彼には許されない。
(何千年も仕えてきて……その最後が、これか)
 主のいない世界で、主とは関係のない戦いの中、認めてもいない人間達に殺される。
 偽りの希望に縋って死んでいくのも、偽りの存在には相応しいかもしれない。
 太陽が黒に喰われるにつれて、心も虚無に喰われていく。血潮が流れ出るにつれて、生命の火も弱まっていく。
 完全に太陽が隠れる時――命が絶えてしまう気がした。

 彼は静かに、そして深く、絶望していた――。



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最終更新:2008年08月09日 15:42
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