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無題(by 花咲雷鳴)


ガラスの天蓋が降り注ぎ、少女が疾駆し、奇怪な銃弾が飛び交ったのも今は昔。

月も、星も無い、黒インキをぶちまけたようにのっぺりと広がる漆黒の空の下、
月面もかくやという荒涼たる岩肌の谷間に、
さながらコンチングされるチョコレートの如くなみなみと揺れる血の池地獄は、
その粘り気あるうねりの中に亡者の嘆きを呑み込み、静かに朱をたたえていた。

不意に――そんな池の畔に、陽気な笑い声が響く。

焦げ茶と朱色が交わる血の池の縁に目をやれば、
地獄には到底似合わない、ほがらかな笑顔を向け合うふたりの少女がいた。

一方は池の縁に腰掛け、太腿の半ばまでを血に浸し、相方の肩を支えながら、笑う。
他方は身体を血の池に浮かべ、頭だけを相方の膝に乗せ、その笑顔を見返して、笑う。

今回のトーナメント参加者である千坂ちづなの姉、千坂らちかと、
その伴侶、咲ノ倉ほづみであった。



***



「ねえ?花咲雷鳴って男の子、知ってる?」
「花咲雷鳴?……聞いたことないけど?」
「そっか。らちかちゃんとは入れ違いになったんだね」
「なぁに?ほづみちゃん、隠し事?」
「違うよ、ふふっ。ねえ、そういえば聞きたい事があるんだけど」
「んんー?」
「あふ……くすぐったい!」
「ふふっ」
「それでね――裸繰埜一族って、どうやってなるものなの?」
「……聞いて、どうするの?」
「ひゃっ!あの、ね!平行世界の私が、ちょっとね!あっちでもらちかちゃんと色々!」
「平行世界って……あの、『迫る』って漢字の方の?」
「そうそう。なんだか凄くらちかちゃんと仲良くしてて、負けてられないなーって」
「ふーん?どんなことになっているの?」
「私もらちかちゃんもまだ死んじゃってなかった頃に、ちょっと同棲したでしょ?」
「私がほづみちゃんに初めて能力を使った時のこと?」
「うん、それ。あの時は師匠が私を助けに来たけれど、お隣ではちょっと違ったみたい」
「へぇ……」
「えーっとね――」



***

ベッドの上、両手両足首をベルトで固定され、十字型に拘束された夢迫に寄り添い、
半ば覆い被さるような姿勢で、その胸に耳を当てるらちかは恍惚とした表情で呟いた。

「……ねぇ?かなめちゃん」

「なぁに?らちかちゃん」

「かなめちゃんは人を殺したことってある?」

らちかは夢迫の胸の上で笑い、己の脚を夢迫のそれに強く絡ませ、
目の前にある穏やかな白い丘陵に浮かぶ血管を愛おしそうに指でなぞった。

夢迫は小さく息を漏らし、くすぐったそうにその身を捩りながら、
大人しく、らちかの問いかけに返答した。

「何度かは……。結構、魔人同士の抗争に参加してますから」

「……日常的に人を殺したいなんて、思うことはないかな?」

「あー……出来るだけ他人の夢を叶えるチャンスは妨害したくないと思ってるんで、
 殺さずに済むならなるべく人は殺したくないですねぇ……」

夢迫の返答に、何かが可笑しかったのか、らちかはくすりと小さく笑った。

「そっか……」

「うん……」

らちかは胸を弄っていた手を首筋に廻し、伸び上がるようにして互いの顔を寄せると、
夢迫の耳に己の長い舌を這わせてから、でもさ――と、言葉を続けた。

さらりと重なり合う髪の毛の感触と、耳を這う濡れた舌の感触にぶるりと体を震わせながら、
夢迫は、なんですか――と、言葉を返した。

「魔人能力の中には、その人が死んだ時に初めて効果が発揮されるものもあるじゃない?
 かなめちゃんは、そんな能力には惹かれないの?見たいって思わないの?」




――――――




この問いかけが、向き合うふたりの未来を変える。
それは、ありえたかもしれない、もうひとつの物語。



――――――




「……殺してでもって……思わないの?」

視界を覆う黒髪に鼻先を埋め、自身の金髪よりも長いその流れに指を泳がせながら、
らちかは、これまで夢迫に触れ合ってきて得た、ひとつの確信を持って問うた。

「……思うことは……まあ……でも……やっぱり……ううん……
 言葉に出来ないんですけど……あまり実行に移したくはないですねぇ……」

夢迫は視線を中空に漂わせ、ぼんやりとした表情で答えた。
らちかは、堪え切れぬ欣喜によって、己の口の端が吊り上るのを感じた。

それは、らちかにとって想定通りの答えであった。
恐らくは、それこそが、夢迫が人間として生活するための最後の防壁。
16年という歳月の中で獲得した、生きてゆくための最後の引き際。
欲望と、理性との、最後の一線。
ほとんどの人間が踏み出すことの出来ない境界線。
ほとんどの人間が踏み越えることの出来ない稜線。
決して、引き千切ることの出来ない、足枷。

「そっか……」

「うん……」

しかし、夢迫ならば。らちかには確信があった。
掻き抱くその首から伝わる脈動と同じくらいに、はっきりとした確信が。

一頻り髪を梳いた後、その爛と燃える瞳を夢迫の眼前に運び、らちかは笑いかけた。夢迫もまた、微笑み返す。
額と額がぶつかり、鼻先同士がくっつきそうな距離で、らちかは夢迫の瞳を覗き込む。

「……ねぇ?かなめちゃん」

「なぁに?らちかちゃん」

らちかは、そっと口を寄せる。

「私、いいことを思いついちゃった。かなめちゃんにプレゼントをあげる。
 それも、とっておきのやつを……ふふっ」

「んっ……」

深まる笑みと、狂気と、愛と。無機質な、白一色の部屋に狂喜が満ちる。
壁に設えられた鏡には、ひとつに重なり合った影が揺れ動く幻燈がいつまでも映し出されていた。

――

――――

――――――





お墓参りに――そう、咲ノ倉ほづみは答えた。
そりゃあ律儀なことで――そう、鈴宮逆音は返した。

珍しく外出をした逆音が、通りを歩く人々に胡乱な視線を送りつつ、オープンカフェで一服をしていた昼下がり。
そこへ、偶々、通りかかったのがほづみであった。
何処へ行くんだい――何の気もなしに尋ねた逆音に対するほづみの返答が、墓参りに、であった。

「あいつにもよろしく言っておいておくれよ」

「わかりました……それじゃあ」

おざなりな風に言葉を投げる逆音に儀礼的な挨拶を返すと、
ほづみは何処かへと足早に去っていった。

遠ざかる背中を見送ることなく、逆音は気だるげに腕時計へと目を落とした。
ほづみに声をかけてから、秒針は一周もしていないだろう。

時節はそろそろ外套も必要なくなるかと思わせる頃。
オープンカフェの座席は大抵が人で埋まり、周囲はがやがやとした喧騒に包まれていた。

逆音は手に持っていた煙草を灰皿に押し付けると、
申し訳程度に装飾されたパイプ椅子の背もたれに体を預け、両の手を頭の後ろで組み、ひとりごちた。

「全く……贅沢な話だ」

灰皿から白い煙がゆらりと立ち昇り、
どこか暖かく、穏やかな風の吹く、もうすぐ春を迎えようという季節の空気に溶けて消えた。





――――――

――――

――

床も壁も天井も白い、無機質な空間。
夢迫中が千坂らちかの能力『エヴァーブルー』によってこの部屋へ監禁されてから、幾日が過ぎたことか。

夢迫がらちかの能力を褒めてから、
夢迫がらちかの衝動を受け入れてから、
夢迫がらちかの言葉を聴き、行動を見て、それでもらちかに笑顔を向け続けたその時から、
この部屋は、只々、只管に愛を囁き合う、夢迫とらちかと、ふたりだけを見守り続けていた。

しかし、そんな部屋に、その日はひとりの来客があった。
それは、透き通るような、輝くような、白い肌を持った少女であった。

何故、少女がこの部屋へと訪れたか。
それは、夢迫と同じように、らちかによって略取されたからである。
その白い肌と、整った容姿故に。

その少女はらちかの新たな獲物であった。
そしてまた、夢迫への贄でもあった。

少女はらちかの衝動をその身に受けるため、
また、らちかが確信する、夢迫の胸奥の衝動を開放するための贈物として、
この部屋へと、やってきた。

極短い時間の後に命を散らすことを運命付けられて。

そして、少女の運命の帰結が、夢迫に知らしめる。
己の儘ならぬ心と、身体と、衝動を。



***



「かなめちゃん!プレゼントを持ってきたよ!」

その日、らちかが、仕掛けた悪戯の成功を想像する子供のような、
愉しくて堪らないといった笑顔で、夢迫の前へと運んできたもの。

それは、キャスター付きベッドに四肢を拘束され、
その顔に恐怖の表情を貼り付けた少女であった。

「その子は……?」

少女と同じように四肢を拘束され、床と垂直に立てられた駆動式ベッドに磔られた夢迫が、
少女の歪んだ表情に目を落とし、小首を傾げた。

らちかの手によって押されるベッドの上、少女は一糸纏わぬ姿で、
その白く透き通るような肌を飾る、金属と革とで出来た手足の拘束具を、かちゃりと弱々しく鳴らした。

らちかは夢迫のベッドから数歩離れた場所に、新たに持ち込んだベッドを固定すると、
歯をかちかちと鳴らし、蒼白の顔を、懇願の眼差しを必死に向けてくる新たな獲物の頬を撫で、
にっこりと夢迫に笑いかけた。

「かなめちゃんへのプレゼントだよ!」

「プレゼント、と、言われましても……」

らちかの笑顔に、緩く眉根を寄せ、夢迫は改めて来客の顔を、体を見直した。
恐怖に歪んでしまっているが、平時は愛らしく人を惹きつけるであろう顔立ち。らちかの好みであろう白い肌。

何をするためにらちかが少女をこの部屋へと連れ込んだのか、夢迫には簡単に理解出来た。
これから直ぐにでも行われるであろう行為と、己がそれを止める術を持たないということも。

夢迫と少女の視線が一瞬、かち合った。
しかし、少女の瞳は絶望に塗り潰されていたのか、
夢迫の姿を捉えることなく、その視線をらちかへと戻した。

ずきり、と夢迫の胸が鳴り、目に涙が浮いた。

脱力した手足や、まともに言葉を発せぬ状態を見るに、
少女は既に何かしら、らちかからの“愛”を受け止めたのであろう。
残すところはきっと少ない。恐らく、少女に残された時間と同じく。

「ふふっ……まあ、このままじゃあかなめちゃんも困っちゃうよね。
 でも、安心して。きっと、すぐに気に入ってもらえると思うから」

らちかのうきうきとした声を聞き、夢迫は我に返った。
そうだ、らちかが少女を連れ込んだ理由、そして少女が辿る道筋、それらは全て分かる。
しかし、プレゼント、とは。

困惑する夢迫へもう一度笑いかけた後、らちかは顔を“プレゼント”の方へと向けなおすと、
徐に上着のポケットからメスを取り出した。
極々、自然に。

そして、少女の耳へと口を近付け、二言、三言、
夢迫には聞こえぬ小声で少女への別れの言葉を告げると、
迷いない手つきでその刃を目の前に広がる少女の白い胸へと送り込んだ。

それは夢迫が何か言葉を挟む暇もない、流れるような動作であった。
純白のプレゼントが、ふたりの門出を祝う紅白の模様に染まった。



***

らちかは躊躇なく手に持つメスを走らせた。

うう、とも、ぐう、ともつかない呻き声が、メスを胸に受けた少女の反り返る白い喉から漏れた。
ああ、という弱弱しい溜息が、それを見つめる夢迫の口から零れた。

「ああ、安心してね。局所麻酔で痛みはないから。
 くくっ……綺麗な肌でしょ?私の学校のお友達でね。前からずっと、気になっていたんだ」

らちかは語りながら手馴れた動きで少女の左胸を四角く切り裂くと、やんわりと四角形の中、乳房を掴み、引き剥がした。
ぱりぱりと、肉と骨が剥がれる手応えと振動がベッドを軋ませ、大きく見開かれた少女の目からは涙がぽろぽろと零れた。
肉を剥がし終えた少女の左胸はぽっかりと四角い穴が開き、赤黒いその穴からは肋骨と、その内側で蠢く心臓が覗いた。

「私の学校って、お嬢様学校だから、右を見ても左を見てもどこかずれちゃってる子が多くってさ。
 その上、例の事件があってから、頻繁に生徒が殺されるようになって、更には学校の侵入、外出禁止措置。
 元々ちょっとおかしかった子たちがどんどん魔人になっちゃったの」

ベッドに備え付けの器具置きから庭木の剪定に使うような鋏を手に取ったらちかは、
注意深く、しかし手早く、少女の胸に空いた穴に鋏を差し込み、肋骨に宛がい、バチン、バチンと骨を断った。
少女が拘束具の下で、動かぬ体をびくりびくりと震わせ、再び力なく全身を弛緩させた。

「夢見がちだった女の子が厭世的な世界の中で望むことって何だと思う?
 ……ふふっ、もう大体分かっちゃったかな?そうそう、“綺麗に死にたい”って。
 そんな思いで魔人に覚醒する子が凄く多いんだよ」

赤く染まったベッドの上、既に何処を見るでもない、焦点の合わない瞳を虚空に彷徨わせ、
悲鳴すら漏れることのなくなった半開きの口を僅かにぱくぱくと動かす、そんな少女の顔を愛しそうに眺め、
その首筋にひとつ唇を落とすと、らちかは鋏と切り落とした肋骨を器具置きに乗せ、
空いた両手を少女の胸の穴に差し込んだ。

「この子もそんな中のひとり。私、誰とでも仲良くなれるから、そんな魔人能力を持った子達とも仲良くしてるんだ。
 それでね、そんな子達と仲良くしてて、自分の衝動が強くなってきた時に気付いたんだ。
 この子達じゃあ私の“仲間”にすることが出来ない、って。死んじゃったら、能力が発動しちゃうからね」

未だ止まることなく、どくどくと鼓動する少女の心臓を包み込むように、
らちかはそっと少女の最期の拍動に触れ、舌を伸ばし、優しく愛撫した。

「だから、気にはなっていても、ずっと黙って見守ってきたんだけどね。
 かなめちゃんと会って、気付いたんだ。かなめちゃんとなら、一緒に楽しめるって。
 一緒に、同じ子を、愛せるって。一緒に、愛しながら……ふふっ」

らちかは少女の胸から顔を離すと、真っ直ぐに夢迫を見つめた。
夢迫は目尻に涙を浮かべ、ふるふると力なく首を振り、駄目ですよ――幽かに、呟いた。
その呟きに、らちかはくすりと微笑み返した。

「でも、かなめちゃんは私の趣味を止められないんでしょ?
 それなら、折角なんだし、一緒に愉しもうよ」

らちかは少女の心臓をしっかりと掴むと、胸の中から引き摺り上げた。その決断に一滴の澱みもなく。
少女は胸を反らし、足先を震わせ、喉の奥から、くっ、というくぐもった声を発し、それを最期に心臓の鼓動を止めた。

少女の胸から、鮮血を滴らせる、かつての生命の象徴が、
らちかの手によって掬い上げられ、床も壁も天井も白い、無機質な空間の中心に、
赤く、紅く、花咲いていた。



***

ああ、と、声にならない声を漏らし、頬に涙を伝わらせた夢迫の眼前で、
少女だったものの身体に変化が起こった。

パキパキと、薪が弾けるような、木の床板が軋むような音をたて、
赤と白に彩られた少女の身体が緑色に変じていった。

その手先から、足先から、緑に茂る蔦が生え、全身を荒々しい茨が覆った。
その身体は直ぐに手も足も、腹も胸も顔もなく、蔦の塊となった。

身体中がすっかりと緑に覆われると、最後にらちかの手に収まった心臓が、
まるで固く閉じていた蕾が花開くように、ふわりと広がった。

滴る鮮血が真っ赤な花弁となり、茨に覆われたベッドの上に散り、
気付けば、らちかの手の中には、大輪の紅い薔薇が残されていた。

「この子はね、死んだら綺麗な花になりたい――そう願ったんだよ。
 ねえ?こんなに立派な薔薇の花。綺麗だよね?」

花をその手に摘み取り、らちかは笑いながら夢迫へと歩み寄った。
夢迫は涙に濡れた瞳で、その鮮やかな紅を見つめた。

「はい、かなめちゃんにプレゼント。綺麗でしょ?気に入ってくれたかな?」

拘束された夢迫の顔の前へ花をかざし、らちかは妖しく微笑んだ。
夢迫は頬を紅く染め、潤んだ眼差しをその花へと注ぎながら、でも駄目ですよ――か細く、言った。

しかし、そんな夢迫の言葉を意に解さず、らちかは花を持たない手で夢迫の体を撫でた。
ああっ、と、押し殺し切れない夢迫の高い声が溢れ出た。

「かなめちゃん?分かっているよ。頭がどれだけ拒んでも、身体は求めているんだよね。
 どんなに嫌がっても、吐いちゃうくらい嫌がっても、ね?
 ――あの時から、ちゃんと分かっているから。安心して。かなめちゃん」

夢迫の体に己の身を寄せると、体に這わしていた手をそっとその首筋に廻し、
軽く背伸びをして、らちかは、夢迫へと顔を寄せ、口付けた。

――安心して、その身を、その心を、私と、その感覚に任せて。



***



目の前で広がった幻想的で、幻惑的な光景に、知らず、身体が熱くなり、
呼吸も浅く、短く、心模様と同じように千々に乱れた。

艶やかで、鮮やかで、美しい紅色が視界を染めた。

じっとりと、じんわりと、全身が濡れていることを感じた。

不意に訪れた、身体の熱を加速させるような刺激。
何かを言葉にしようとして、しかし、舌が熱に絡め取られ、動かなかった。

滲み、揺れる視界の中で、夢迫は窒息しそうになる心を救おうと、
必死で空気を肺に送り込んだ。

大輪の薔薇の、甘く、蠱惑的な香りが、その胸と、頭に満ちた。

――

――――

――――――





ざあっ――と、春めく風が辺りを吹き抜けた。さらさらと黒髪が流され、踊る。
そんな季節の狭間を感じさせる空気を、ほづみは楽しんでいた。

相対する田中さくらは、やはりその艶のある黒髪を靡かせながら、警戒の意思を色濃く映した瞳で、
五歩程引いた間合いを保ち、ほづみの微笑を睨み付けていた。

私立妃芽薗学園の裏庭。
依然として魔人による凶行が起こるこの学園を、SLGの会会員として見回りしていたさくらが、
見覚えのない顔、つまり外部の人間であると分かるほづみを見つけ、声をかけたのであった。

「何でこの学園へ忍び込んだのか、正直に答えて」

「何で、と言われましても……」

表向きは外部との接点が一切排除されている、閉鎖空間である妃芽薗学園。
さくらがほづみに対して強く警戒するのも無理からぬ話であった。

「怪しい動きをしたら容赦しないからね」

警句を口にすると同時に、さくらの上着の袖口から桜の花弁がぶわりと舞い出でた。
桜の花弁で周囲の全てを削り取る、さくらの魔人能力『さくらまつり』。
一挙手一投足、日常の所作を日本舞踊の稽古と為し、
舞踊を成功させた際に使用可能となるこの強力な能力を、さくらは既に発動させていた。

「わあ……」

さくらの能力を前に、ほづみの口から感嘆の溜息が漏れた。
周囲を巡るように舞う桜色の風に包まれ、その風に確かな攻撃の意志と威力を感じ、
それでもほづみは微笑を浮かべたままであった。
いや、一層その笑みを深く、その頬を巡る風に浸したかのような桜色に染めていた。

暖かみの篭った風に、桜吹雪がくるくると渦を巻く。
桜色の風の切れ目から、向き合うふたりの少女の黒髪が、風に巻いてふわりと棚引く様子が窺える。
さくらの視線と、ほづみの視線が交わり、一時、その景色は一枚の油彩画のように、色濃く、時間の流れを留めた。

「こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき――花に誘われて、ですよ」

そんな景色の彩の中、花が綻ぶように、ふわりと微笑み、ほづみが静かに言った。
相手が何と言ったか、咄嗟に聞き取れなかったさくらが、睨み付ける瞳をそのままに眉根を寄せた。
その次の瞬間――さくらの真横を、まるで風のように、ほづみは駆け抜け、去っていた。

慌てて振り返ったさくらであったが、そこには既にほづみの影も形も残ってはいなかった。
『さくらまつり』によって厚く降り積もった桜の花弁の上、裏庭に佇むのは己のみ。

今のは一体何だったのか――何か狐につままれたような気分で、さくらは辺りを見て回ったが、
何処にも先程の少女の姿は見つからず、ひとり、ぽかんとその場に立ち尽くすしかなかった。

微かに甘く、淡い、桜の香りを乗せた一陣の風が、春色に彩られた裏庭を撫でていった。





――――――

――――

――

らちかが夢迫にプレゼントを贈るようになってから幾日か。
時にうず高く積みあがるほどの桜の花弁を、時に可憐な白百合を、らちかは夢迫へと贈った。
夢迫は花に囲まれるように、溺れるように、心と身体を縛る鎖を軋らせながら、その愛を受け取った。

らちかの確信通り、夢迫は、その愛を拒絶することはなかった。
時に涙で顔を濡らし、時に肩を打ち震わせて嘔吐き、それでも、夢迫は、その愛を受け取った。
受け容れ難くとも、逃れられぬ衝動が、夢迫の両の手を、らちかと、らちかの持つプレゼントへと差し伸べさせた。

心と、身体が、溶かされ、染められる。

夢迫の身体を縛る鎖が次第に緩められる日々。
夢迫の心を縛る鎖も、正に解かれんと、高い悲鳴をあげていたであろうか。

その日、らちかはいよいよ決心をしていた。
夢迫の身体を縛る鎖を解くための、最後の一線を、夢迫自身に超えさせようと。
夢迫の心を縛る鎖を、ぼろぼろに錆びて、歪み、垂れ落ちたそれを、引き千切らせようと。

告白をする前の、お決まりの贈物を携えて――



***



「見て、かなめちゃん。綺麗でしょう?」

「……うん……綺麗、です……けど」

かちゃり、と金属の鎖が鳴る。

「はい!かなめちゃんにあげるね!」

「う……その……」

ちゃりちゃり、と鎖が擦れる。

「ふふっ……嫌なの?でもその手は何かなー?」

「うぅ……だ、だって……“それ”も、何か凄いことが……起こるんです……よね」

じゃらり、と鎖が垂れる。

「はい!……ね?こんなに透き通って……」

「……きらきら……してますねぇ」

「……ふふっ」

「な、なんですか?」

「もうプレゼントと“目を合わせられる”ようになったんだなーってね」

「それは、その……だって――」

ちゃり――ちゃり――と鎖の鳴る音が遠ざかる。

「この子はね、とっても綺麗な目をしているって皆から言われて――
 死んだら綺麗な宝石になりたいって――ほら、そろそろ――」

「あ――凄い――綺麗――」

ふたりの声も遠ざかる。
鎖の音はもう聞こえない。
闇の中に、総てが溶けて――消える――



***

桜の花弁で満たされた湯船から半身を乗り出し、夢迫は、鎖に繋がれた手の上で一対の宝石を弄んだ。
人の体温を感じさせる温かなその石は、飾り気のない白の蛍光灯の光の中で、様々な色に煌いた。

「温かくて……中で虹色の炎が燃えているみたい……」

熱の篭った吐息と共に、うわ言のように夢迫が呟いた。
夢迫の様子を満足気に、嬉しそうに眺めていたらちかは、不意に湯船の中に手を差し込み、
夢迫の手足を拘束している鎖の端を取り外すと、改めてすぐ脇に置かれているベッドへと繋げた。

「枯れない花弁も気に入ってくれて嬉しいけど……今度は、ほら」

そして、ベッドの上に積もる水晶の砂を掌で掬い、さらさらとその透明な流れを夢迫へと見せた。
誘われるままに、夢迫はふらふらと花弁の湯船から裸体を脱し、らちかを真似るようにベッドの上へと手を伸ばした。
じゃらり、と、夢迫の動きに併せて、鎖が冷たい響きをたてた。

「あ……あったかい……」

水晶の粒に手を泳がせ、慈しむようにその温度を撫でる。
そんな夢迫の背後にらちかは回り込み、かなめちゃん、と声をかけた。

「ん……っ」

振り向いた夢迫の腰を引き、上体に覆いかぶさるように、らちかは夢迫をそのままベッドの上に押し倒した。
きゅっと、夢迫の背中の下で、透明な砂が高く鳴いた。
キンッと、夢迫の掌の中で、一対の宝石が淡く響いた。

「気に入ってくれたかな?」

「……うん」

らちかの燃えるような瞳と、夢迫の揺らぐ瞳が交わり、夢迫はそっと目を伏せた。
らちかは、上気し、桜色に染まった夢迫の肌へと細い指を走らせながら、
目の前に流れる艶やかな黒い髪の流れの中へ鼻先を潜らせ、夢迫の耳元に口を寄せ、囁きかけた。

「ねえ、かなめちゃん……」

夢迫の白い肌にきらきらと貼りついた砂粒を撫で落としながら、らちかは言葉を続けた。

「かなめちゃんのために、とっておきがあるんだ。今までで一番の……一番凄い、魔法みたいなプレゼント」

濡れた瞳で見返してきた夢迫に、らちかは喜色と、興奮を混ぜ合わせた、眩いばかりの笑顔で笑いかけた。
夢迫もまた、笑い返そうとして、しかしすぐに切なげな表情で声を詰まらせた。

「ねえ……見てみたい?」

「……っ」

「見たいよね?」

「……うん」

「ねえ……かなめちゃん」

「……あ」

そっと、らちかが口付けた。
夢迫もまた、そっと、応えた。

「プレゼント……今度持ってきたとき」

「……んっ」

「“開けて”みる?」

「……ぁ」

「ねえ……ふふっ」



***





何度も“花”を贈られた。
何種類もの“花”を贈られた。
幾日も、幾日も、悦びを与えてくれた。
嬉しくて、悲しくて、それでも抑えきれないくらいに身体が熱くなって、それがまた悲しくて――
夢迫は熱く蕩け切った思考で、らちかの言葉が示す意味を思い、己の意志を思い、過去を思った。

夢迫の手の中で、ふたつの宝石が燃えるように熱く、キンッとぶつかり合い、震えた。

その音に共鳴するかのように、夢迫もまた、喉を震わせた。




――――――




「……うん」




――――――




水晶の砂が擦れ、高い音を鳴らした。
その音に、鎖の擦れ合う音と、夢迫の高い声が混じりあった。

――

――――

――――――





妃芽薗学園の学生寮の中、廊下を歩いていた歌琴みらいは、ほづみの姿を見かけて足を止めた。

「あれ?ほづみちゃん、また来たんだ」

「こんにちは、歌琴さん。今日もこっそり……えへへ」

みらいの挨拶に、ほづみは腕を背中で組み、笑いながら応えた。
みらいとほづみは、以前から面識があった。
アイドル業のために、閉鎖された学園から――黙認という形で半ば認められているとはいえ――外出するみらいと、
この学園の学生寮の、とある一室に訪れるために、閉鎖された学園へと侵入するほづみ。
互いの環境が似ていたためか、学園の裏口で偶然に鉢合わせて、その際に言葉を交わして以来、
ふたりはこうして挨拶をする程度には仲良くなっていた。

「またあの部屋?鍵はいつもの場所に置いてあるよ」

「ありがとうございます。いつも助かってます」

「いーよいーよ。元々、生徒会の後輩が使っていた部屋だし、今は空き部屋だし」

「いえいえ、中をそのままにしてもらっているのも、ありがたいことですし」

軽く言葉を交わした後、それじゃあと挨拶をし、ほづみは早足でその場を去っていった。
向かう先はいつもと同じ、かつて生徒会に所属していた少女、千坂らちかが使っていた部屋。

みらいはほづみの背中をゆっくりと見送っていたが、私もレッスンに行かないと、
と、自分の予定を思い出し、慌てて寮の出口へと向かった。

寮から出たみらいを、周囲に植えられた桜の枝をざわざわと揺らす風が出迎えた。
揺れる枝につく蕾も柔らかくなり、そろそろ花開くと思われる。本格的な春の到来を予感させる景色であった。

みらいは、満開の桜に囲まれた寮の姿を思い描きつつ、ふと、ほづみの黒髪に桜の花弁が付いていたことを思い出した。
もう何処かの桜は咲いているのだろうか――ざわめく薄紅の海に泳ぐ黒髪の流れを、桜の下を歩くほづみの姿を連想し、

「そういえばほづみちゃんってあの部屋で何してるんだろ?ひとりで……」

深く立ち入らないでいた事柄、疑問を、小さく呟いた。
近頃、何かと物騒な状態にあるこの学園で、一体何をしているというのか。
ひとりでは危なくないのだろうか。危険な目になど遭ったこともなさそうなお嬢様っぽいし――

呟きに答える代わりに、強い風がヒュウとみらいの耳元の空気を鳴らして通り過ぎた。
その音に、そうだ急がなきゃと我に返ったみらいは、再び歩調を速め、学園の裏口へと小走りに駆けていった。





――――――

――――

――

果たしてこの日の結末は、何が原因であったろうか。
らちかは確かに夢迫の心を捉え、身体を捕え、新たな道を拓いて見せた。
夢迫もまた、確かに心を啓かれ、身体を拓かれ、新たな道をその目に見出した。

望む方向へ、共に。
そうなるはずであった。

そうならなかった、原因は何であったろうか。
それは、ただひとつ、らちかが見落としていたこと。見ぬふりをしていたこと。

夢迫の心を縛る、最後の鎖――それが、ふたりを、この結末へと導いたのか。



***

窓ひとつなく、天井に嵌め込まれた蛍光灯の白い光にのっぺりと照らされる室内。
その中央で、荒く、また熱い吐息を吐き出し、ベッドの端に腰掛け身を震わせる夢迫を、
恍惚の表情でらちかは背後から掻き抱いていた。
その小振りな掌から伸びる白く細い指が、夢迫の全身の柔らかさと、熱と、鼓動をより一層求めて、這い動く。

夢迫とふたり、互いの体温を共有する一時。
その時間の中で、恋する少女は笑う。
今日は運命の日だ。

らちかは、掌に伝わる、吸い付くような肌の感触と、肉の弾力と、血の流れに高揚しつつ、
夢迫の肩越しに向こうを見やった。
ひしと抱き締め、また抱き締められ、ひとつになったふたりの正面には、
もうひとつのベッドに横たわり、全身を固定された少女が居た。
夢迫に捧げる正真正銘のとっておき――最高のプレゼント。

らちかはこれまでの夢迫との蜜月を思い返した。
これまで、色鮮やかな花々を贈り、色付き輝く宝石を贈り、その白い肌を悦びで染め上げてきた。
見届けるだけだったものが、身を寄せるようになり、手を差し出すようになり……肌から染み込んだ喜悦は、
夢迫の胸の底へ届いた。

緩やかに、しかし確実に、夢迫の心を縛る鎖はその拘束を弛めている。
今ならば、きっと心から悦ぶことが出来るはず。
初めて会ったその日から垣間見せていた胸奥の狂気を、開放させることが出来るはず。

らちかは夢迫の丸みを帯びた肩のラインに顎を乗せ、
肩から伝わる筋肉の震えと、耳元で聞こえる熱の篭った息遣いへと意識を移した。
指の動きにあわせて収縮を繰り返す筋肉と、浅く短い呼吸から、夢迫の昂ぶりが伝わってくる。

「もう……我慢出来ないんじゃないかな?」

夢迫の心中を見透かすように、らちかは囁きかけた。
夢迫は声を出すことすらままならない様子で、ただ身を震わせているが、
それが我慢の限界を知らせるサインであることをらちかは理解していた。
今や、らちかには夢迫の情動が手に取るようにわかる。

かつて魔人能力を見ることで心を昂ぶらせてきた夢迫。
らちかはこの監禁生活の中で、夢迫の心が昂ぶった際に、その身体も昂ぶらせてきた。
そしてまた、夢迫の身体を昂ぶらせるたびに、夢迫へとプレゼントを贈り、その心を昂ぶらせてきた。

今の夢迫は、元々その気のあった心の昂ぶりと身体の昂ぶりの同期が、一層強くなっている。
身体を熱く燃え上がらせている現在、夢迫の魔人能力への欲求も激しく燃え上がっているはずである。
そうなるように、らちかが夢迫の身体を作り上げたのだから。

不意に、夢迫が身体を軽く痙攣するかのように震わせ、
喉を詰まらせたように、一瞬、それまで荒く吐き出していた呼吸を止めた。

その瞬間を見計らったかのように、らちかは夢迫の肌へと這わせていた手を離した。
夢迫の喉が、声にならない泣声をあげたのをらちかは耳にした。

「いいんだよ……見たいなら……好きなように見れば……ほら」

予想通りの反応に口の端を吊り上げつつ、らちかは夢迫の耳をくすぐるように、もう一度囁きかけた。
薄っすらと目尻に涙を湛えて見返してきた夢迫に、らちかは頷いてみせた。
先程まで夢迫の肌を撫でていた手を、今度は軽く肩へと乗せ、前へ、プレゼントの方へと、そっと押した。

夢迫はぶるりとひとつ身を震わせると、止めていた呼吸を吐き出し、
再び浅く短い呼吸を繰り返しながらも、肩を押された勢いを借りて、ふらりとベッドから立ち上がった。
その視線は、熱に浮かされ揺らぎながらも、身を焼く炎を向ける先を求めるように、前方のプレゼントへと注がれていた。

じゃらり――夢迫の手足に繋がれた鎖が、冷たい金属音をたてた。

歩みだそうという動きを鎖が引き止め、夢迫はもどかしそうに身を捩った。

「ふふっ……ちょっと待ってて」

その焦燥に目を細めながら、らちかもまたベッドから降り、寄り添うように、夢迫の隣へと立った。
そして、夢迫の手に、己の愛用のメスを握らせる。
力なく丸められていた夢迫の指を、そっと包み込むように握ると、
夢迫も応えるように、手の中のメスをしっかりと握り締めた。

それを確認したらちかは、最後に、拘束具の鍵を取り出した。

「いよいよだよ……ふふっ……くくっ」

いよいよ、この時がやってきた。
らちかは、情動に身を焦がし、懇願の眼差しを向けてくる夢迫の表情に、無上の達成感と愉悦を感じながら、
夢迫の手足に繋がれた鎖をまず右腕、続いて左腕、その次は足を……ひとつずつ、開放した。

夢迫の拘束を解きながら、らちかは強く実感していた。
ついに、夢迫の心を、衝動を、純粋な欲望を解き放つ時が来たのだと。

鎖は解かれ、もう、その心を止めるものはない。そして言い訳もまた、出来ない。
その心は何に縛られることもなく、確かに、己の望むままに、己の望む行為を行う。

しゃん――軽い音をたてて、鎖は床へ散らばり、音をたてることもなくなった。

「さあ……」

鎖を解いたらちかは、おぼつかない夢迫の足取りを支えるように、その身体を支えながら、前を示した。
拘束を解かれているあいだ、泣き出しそうに眉を下げ、らちかを見つめ、身体を震わせていた夢迫が、
うながされ、プレゼントの方へと、改めて情欲に揺れる瞳を向けなおした。

怯える獲物が、見つかった。

夢迫の身体が、意識が、心が惹き寄せられるかのように、揺れた。

いつ以来になるか、久方ぶりに束縛されぬ身となった夢迫は、一歩、前へと足を差し出す。
ひたり、夢迫の素足が、白い床に熱を伝えた。
らちかもそれに併せ、歩を進めた。
らちかと夢迫と、ふたりで同じ方向へと、歩みを揃え、ゆっくりと、進む。

ふたりで並んで歩く、そんな一瞬。

時間が酷く濃縮され、ゆったりと流れているように、らちかには感じられた。

「ああ……」

その時であった。

「懐かしいですねぇ……」

夢迫が思い出したように、呟いた。

「世界はこんなにも、奇跡を見たいと願う思いで溢れている」



***

銀河を走る列車の車窓から、外を見ればこんな気持ちになるだろうか。
近頃はちょっと泣きたくて、膝を抱えて座席でひとり、うつむき続けていたものだから。
久しぶりに見る、瞬く星の輝きは、とても、とても、綺麗に見えた。いつも以上に綺麗に見えた。

木々のざわめく森の中。あるいは寄せる波打ち際。
怯えて耳を塞いでいたから、心を満たすこの音も、聴くのはずいぶん久しぶり。

「かなめちゃん?」

らちかの不思議そうな声が、夢迫の意識を引き戻した。

「ふふっ……この感覚、なんだか酷く懐かしくて」

世界中の、平行世界の、別次元の、奇跡を見たいと願う想いが煌く星となって目に映る。
奇跡よ起これという祈りが、風の音や潮騒となって耳に届く。
『夢追汽車の終着駅』は世界をいつも、こんなにも彩っていた。

「どうかしたの?」

「ああ……いえ、なんだか力が湧いてきたんです。もう、大丈夫」

らちかへと言葉を返し、手の中にあるメスの重さをしっかりと認識する。
続けて視線を前方へ。ベッドの上に横たわる、光り輝く宝物。
思わず身体が熱くなり、堪らず笑みが零れそう。

――もう、大丈夫。

夢迫はしっかりとした足取りで、寄り添うらちかに歩調を併せ、プレゼントの傍へ立った。
見下ろす夢迫の視線の中で、手足、口を拘束され、震えることしか許されない少女が、怯えた目線を返した。

「あなたも助かりたいって思っていますよね」

その目を見据え、夢迫は少女へと言葉を落とす。

「奇跡的に助からないかって、何か奇跡が起こって助からないかって、そう願ってますよね」

少女が微かに首を縦に振った。

「私は奇跡を起こす魔人です」

夢迫は少女に笑いかけた。

二の腕を取っていたらちかの手に、ぎゅっと、力が加わった。
夢迫はちらりとらちかを窺い、影の差すらちかの顔へ、笑って見せた。
ああ、心配をかけさせてしまって、ごめんなさい。らちかちゃん。でも――

「でも、私はあなたが起こす奇跡を見たいんです。奇跡はどうか、あなたが起こして」

夢迫は少女を見下ろし、宣言した。
ああ――らちかの歓喜の声が、夢迫の耳に届いた。

メスを少女の左胸、薄く浮き出た肋骨の隙間、心臓の真上にセットする。
刃先はぶれず、ぴたりと止まる。陶磁のような白い肌。刃を避けるものはなし。

「ありがとう、らちかちゃん」

思わず感謝の声が出る。
ずっと素敵な奇跡を見せてくれて。
奇跡を見る愉しさを教えてくれて。
私が踏み込めなかった場所にある、素敵で凄い、魔法のような、奇跡の花を、咲かせてくれて。

もう――私は何に対しても、戸惑いなく、ためらいなく、遠慮なく、自分の望むことが出来る。

「さあ……私に見せて、あなたの奇跡を。私を魅せて、あなたの奇跡で」

奇跡を見たいと願う思いは、こんなにも綺麗なのだから。
こんなにも力強さに溢れているのだから。

だから――それを見たいと思っても、仕方のないことなんだよね?
だから――あなたの夢を奪ってでも、私は私の夢を追う。
だから――

「ごめんね。さようなら」

見守るらちかの前で、震える少女の上で、夢迫は別れの言葉を呟いた。

***



夢迫の言葉が部屋の空気を慎ましく震わせ、微かな反響を残し、消えた。
後に続くと思われた赤い水音や、夢迫の歓喜の声は、いつまでも聞こえることがなかった。

部屋に、静寂が溢れていた。

夢迫が別れの言葉を告げてから――
らちかは、時の流れが止まってしまったかのような錯覚に捕らわれていた。

プレゼントの胸にあてがわれたメスの刃先。
メスを持つ手に力を込める夢迫の腕。
刃を落とそうとする夢迫。

目の前の光景がぴたりと静止し、そのまま動き出そうともしない。
白く四角い部屋の中、何者も動かず、無言で過ぎる時間の流れが鼓膜をジンと圧迫した。

何が起こったのかわからない。
ただ、望まないことが起こっている。
心臓が冷えた血液を全身に送り始めたかのように、胸が冷えるのをらちかは感じた。

堪らず、何か言葉を出そうと肺に空気を送り込んだ。その時、

「出来ると思ったんだけどなぁ……」

らちかの不安を汲んだのか、メスを構えたまま、夢迫がぽつりと言った。

「身体はこんなに疼くのに……心はこんなに焼けるのに……」

その声は弱弱しく、語尾は震え、涙に溶けていた。

「かなめちゃん?泣いてるの?」

思わず、らちかは傍らに立つ夢迫の顔を覗き込んだ。

目を強くつむり、まつげを涙で濡らし、嗚咽を堪える少女が、そこに居た。



***




真白い、四角い空間に、佇むふたりの少女。
前へ進むことも、後ろへ戻ることも出来ず、立ち尽くし、肩を震わせる夢迫。
何が起きたのか、何をすれば良いのか、困惑し、ただ夢迫に寄り添うらちか。

宝物を前にして、手を伸ばせず、情動に身を焦がし続ける夢迫の肩へ、
らちかはそっと手を添え、何を言葉にすることもなく、その様子を見守り続けた。

しばし、静寂の時は流れ――やがて、夢迫は口を開いた。

「らちかちゃんは私の能力……知ってますよね」

夢迫の問いに、

「奇跡を起こす能力……だよね?」

らちかは答える。

白一色に統一された四角い空間に、音が帰ってきた。

まるで凍りついたかのように、彫像のようにその身を固めたまま、
嗚咽を堪え、頷くと、夢迫は静かに語り出す。

「奇跡を起こすために、奇跡を想う心を私は集めるんです。
 私には、奇跡を願う心が見えるし、奇跡を祈る心が聞こえるんです。
 それは綺麗で、素敵なものなんです。
 さっき、らちかちゃんに鎖を解いてもらって、久しぶりにそれを感じて、
 ああ、私が今まで見てきたものは、こんなに綺麗で素敵なものだったんだって、改めて実感したんです」

らちかは押し黙り、夢迫の身体に手を添えたまま、聴き続けた。

「その力があれば、私は何でも出来るって、そう感じたんですけれど……
 駄目でした。やっぱり、私にはこんな風に誰かを殺せません。
 こんな風に、助けてって、必死で叫んでいる人を、殺せません」

らちかはプレゼントの口元に目を落とした。
しっかりと拘束され、何かしゃべることなど出来ないプレゼント。

「聴こえるんです。はっきりと聴こえるんですよ。
 助かりたいって、助けてって、奇跡を祈る想いは、こんなにも強いんだって、しっかりわかるくらいに。
 私の奇跡を見たいと願う心に負けないくらい、大きな声で、聴こえるんです。だから――」

私には、出来ません――その夢迫の言葉を聞いて、らちかは初めて気付いた。
夢迫がどうしてこれまで、人の道を、人として生きる最後の瀬戸際を踏み外さなかったのか。

もっと生きたいと願う、助かりたいと祈る相手の声が、自身の能力によってはっきりと聞こえる。
そしてそれは、自身が見たいと願う夢と同じように光り輝いている。
自身が強く焦がれる程に、相手も同じように焦がれている事が伝わる。
夢迫の心を縛る、最後の鎖――それは、夢迫自身がかつて望み、得た力であったのか。



***


夢迫の告白が終わり、しんと静まり返った部屋の中。
夢迫は未だ、立ち尽くし、震えるばかりであった。
らちかもまた、夢迫に寄り添い、佇んでいた。

だが、らちかはただ困惑し、立ち尽くすばかりであった先程までとは違っていた。
らちかは夢迫の告白を聞き、夢迫の煩悶を見て、それまでにない、強い情動の芽生えを感じていた。

夢迫の言葉は、決して自分の望むものではなかった。
けれど、そこには望みもしなかったほどの狂気が、自分と重なり合う夢迫の心が、
それまで見えることのなかった、夢迫の奥の奥、深いところまで、見えた気がした。

らちかは、改めて夢迫の姿を見返した。
情動に焼かれ、衝動に苛まれ、涙に濡れる少女。
その身体に触れている手には、悶える心の震えが伝わってくる。

「かなめちゃん……」

思わず、らちかは愛しい人の名を呼んでいた。

もしかしたら、思っていた以上に夢迫中という少女は自分に近い存在だったのかもしれない。
もしかしたら、夢迫は過去にも相手の死と引き換えに、奇跡を見ようと願ったことがあるのかもしれない。
もしかしたら、夢迫はこれまでもずっと、自身の衝動と能力の狭間で、苦しみ続けていたのかもしれない。

そんな風に思い描いた夢迫と、目の前の夢迫の姿が重なり、らちかは、
凍えるような冷たさに縮こまっていた己の胸に、再び熱が込み上げてくるのを感じていた。

夢迫は、らちかにとって自分の行為を受け入れてくれる存在であった。
心に孤独を抱えたらちかに、安息と、充実と、隣に座る場所を与えてくれた。
それまで与えることしか出来なかったらちかの愛を、受け取り、返してくれた。
自分が望んで止まなかったものを、夢迫は与えてくれたのだ。

そんな人が、目の前で悩み、苦しんでいる。それならば……

「大丈夫だよ」

らちかは、決心を紡ぎだすように口を開いた。
夢迫へと優しく言葉をかけると、その固く握られた手を、再び自身の両手で包み込んだ。
今度はメスを握らせるのではなく、一緒に握るために。

「かなめちゃんなら出来るよ」

たとえ涙を零しても、その手に持ったメスを離すことはなかった。
たとえ弱音を零しても、その切っ先はぶれることなくプレゼントの胸にあてがわれていた。
愛する人は、確かにそれを望んでいる。それならば……

「私と一緒なら、出来るよ。ね?」

それならば――これからは、私もあなたから受け取った愛を返したい。あなたの望みを叶える手助けをしたい。

らちかは夢迫の顔を軽く見上げ、屈託なく微笑んだ。私がその鎖を解いてあげる、と。
その笑顔に照らされ、涙に濡れた睫の奥で、夢迫の瞳もまた和らいだ……気がした。

「らちかちゃん……」

涙にかすれた声で、けれどもそれとはっきりわかる喜色の音を、夢迫が奏でた。
何も怖がることなんかないよ。大丈夫。
らちかは夢迫の涙を指で拭ってやると、そのまますっと踵を浮かせ、キスをした。

強張っていた夢迫の身体が、ふっと、柔らかさを取り戻す。
金縛りの魔法は、解けた。

「ありがとう……らちかちゃん」

「ふふっ……お礼を言うのはまだ早いよ」

ふたりの白く細い指がそっと絡み合うように、一本の刃を握り合った。

もう、身体を縛る鎖はない。
もう、心を縛る鎖も必要ない。
今度こそ、刃を止めるものなどない。

しっかりと握り合ったふたりの両手。
そこから伸びる白銀の刃が、横たわるプレゼントの左胸へと、深く、深く、滑り堕ちた。



***




もう、どちらか迷うこともない。
ひとりじゃずっと選べなかった、ふたつの綺麗な輝きだけど、あなたとふたり、一緒なら。

あなたの愛を受け取って。あなたと共に手をつなぎ。
あなたとふたり、一緒なら、どこまでだって、我侭になれる。

今ならわかる。
私は、初めからあなたと一緒に歩む事が決まっていたって。

私の身体が、あなたの好む色に染まってから。
私が、あなたのプレゼントを受け取ったあの時から。

ううん、もっと前。

あなたの能力が、私に絡まる柵をすべて解いてくれたあの時から。
あなたの心が、太陽のように熱く眩しく輝いている、そんな輝きを見せられた出会いの時から。

私達の出会いは運命だって、いつかあなたは言ったっけ。
本当だね。
なんだ。私は、あなたに最初から、一目惚れしていたんだ。





***



白い肌に突き立つメスの周りから、音もなく真っ赤な飛沫が噴き上がる。
赤い雫が緩い曲線を描き、白い床にさらさらと音をたてて落ちている。

らちかと夢迫はメスから手を離し、一歩身を退いて、目の前で起こる変化を見守っていた。

噴水の根元、かつて人の形をしていたそれは、次第に輪郭がぼやけ、淡い光の塊となっていた。
光の塊に深々と突き刺さるメスの周囲から、迸る血に替わり光の粒が部屋中へと飛び散る。

「わぁ……」

夢迫は、歓声と共に思わず光の粒に手を差し伸べた。
光は夢迫の手をすり抜け、定められたレールを走るように、すいすいと部屋の中を泳ぐ。

「これは……一体何が?」

しばらく、蛍というには規律正しく飛び交う光と戯れていた夢迫が、
目の前を過ぎる光の粒を目で追いながら、らちかへと囁くように訊ねた。
その言葉に、らちかは相好を崩し、くるりと部屋の入り口方面へ向き直った。

「かなめちゃんはベッドに座ってて!」

そこここを白や赤や青の、ただしいずれもごく淡い色彩の光で満たされた四角い部屋を、
夢迫に一声返すと、らちかは軽やかに駆け、入り口脇にある蛍光灯のスイッチ前へと移動した。

「これが――私のとっておきのプレゼントだよ……ふふっ」

夢迫が言われるままベッドに座ったことを確認したらちかは、
夢迫の反応に期待し、笑みを零しながら、部屋の明かりを落とした。

暗転する世界。
無機質で、ただただ白い、四角い部屋が、漆黒に塗られた。



***




「わぁ……あぁぁ……これって……これ……!」

無機質な白い光が落ちた部屋に、夢迫の一層大きな歓声が響いていた。
光の川の中を、らちかは静かに渡り、目を見開いて周囲を見回す夢迫の隣へと腰を下ろした。

「どうかな?気に入ってくれた?」

光の粒にぼうと照らされ、影絵のように浮かび上がる夢迫の身体へともたれかかり、らちかは訊いた。

「……はいっ!……ありがとう……本当に……」

らちかの身体を横から掻き抱き、喉を詰まらせながら、夢迫は礼を述べた。

「この子はね、死んだら星になりたいって望んだんだよ」

「本当に……こんな綺麗な星空は……初めて……ありがとう」

宇宙の果てを思わせる漆黒に満たされた空間の中。
無数の星々が、ふたりだけの観客に向かい、白く、赤く、青く、煌いて見せていた。

らちかのとっておきのプレゼント――それは夢迫が幼いころから憧れ、見上げていた存在、星空であった。

***



「ねぇ、あの星は?」

「あれはケンタウルス座ですよ」

濃密な闇と淡い光の渦に満ち満ちた星空の中で、
影法師となったふたりの少女が寄り添い、睦みあっていた。

「私はずっと、奇跡を求めていたんだよ。だからこんな能力を手に入れられた。
 ……でも、それからずっと、どこか落ち着かなかったんだ。
 出会えた奇跡は本当に奇跡なのかって。自分の能力が約束したものなんじゃないかって。
 ……だからずっと、らちかちゃんに奇跡を見せてもらえて、嬉しかった。
 ……さっきなんて、自分の能力を越えられたって、自分の能力を超えて奇跡を起こせたって、実感できた。
 やっぱり私は我侭だから。誰かが奇跡を願うより、自分が、奇跡を、見ていたい。
 ……ふふっ。あは……こんな素敵な体験ができるなんて……あはは……嬉しいなぁ」

互いに伝えたいことは星の数ほどあり、先に望むこともまた星の数ほどあり、
流れる光を眺め、巡る光を見送り、これまでのことを、これからのことを語り合っていた。

「かなめちゃん。伝えたいことがあるの。
 愛する人にしか教えない、私の大切なこと。私の名前……」

囁きあう言葉と、交しあう想いが、互いの体温が、熱のない静かな光の中を伝わり、流れる。

「ねぇ、それじゃああの星は?」

「あれは南十字座ですね……」

どこまでも、止まることなく流れ続けるかと思っていた。
少なくとも、らちかはそう思っていた。
己の秘匿を語り、今度こそ、本当に、共に並んで同じ方向へ歩んでいけると、そう思っていた。

「これからも一緒に、ずっと一緒にいようね」

「……うん……でも、
 私は私のために、人の夢を摘むような、そんな……我侭だから……きっと大変だよ」

「惚れた相手の我侭を聞くのも甲斐性ってやつ、じゃない?ふふっ」

「……えへへ」

らちかの肩にもたれかかっていた夢迫が、ゆっくりと身体を傾け、体重をらちかへと預ける。
胸元に倒れこんできた夢迫の頭をらちかは受け止め、さらりと揺れる黒髪を手で梳いた。
夢迫は心地よさげに喉を鳴らし、そのまま目を閉じた。

「かなめちゃん?興奮しすぎて疲れちゃったかな?」

「……ぅ……ん」

眠たげな声を出す夢迫をあやすように、らちかはそっとその頭を撫で、瞼にキスを落とした。
投げ出された夢迫の足が、床に散らばっていた鎖に触れ、しゃん、と音を鳴らした。

「ふふっ。おやすみ、かなめちゃん……また明日」

煌く星座に見守られ、
夜空に溶け込むように意識を手放す夢迫を、慈しむようにらちかは撫で続けていた。
夢迫が目を覚ましたら、何をしようか。一緒に、外へ出て。
夢のような日々を夢想しながら。



***



しかし、夢迫が目を覚ますことはなかった。


***



「それで?隣の世界のかなめちゃんはどうなっちゃったの?」
「ふふふ……乗ってきたね、らちかちゃん」
「だって、あの時の続きなんて聞かされたら……」
「そうだね……もしかしたら、私達だって生きているうちに……」

沈むような赤色の中に、長い黒髪をゆらゆら漂わせながら、
ほづみはらちかの顔を見上げる。
らちかは、どこか遠い所を、頭上に広がる一面の黒の先を見つめていた。

「ねえ、その前に、最初に聞いたこと」

ほづみは、努めて明るい声をあげた。
その声に、らちかはうん?と目線をほづみの顔へと戻す。

「裸繰埜一族って、どうやってなるのかなーって」
「ああ。それはね、凄く簡単なことなんだ」
「そうなの?」
「うん。あなた、裸繰埜になりませんか?ってスカウトして、はいって答えれば、OK」
「え?そんなものなの?」
「裸繰埜はね、相手が裸繰埜かどうかって、わかるの」
「へえ」
「だから、ああ、この子は裸繰埜だなって思ったら、そういう子をスカウトするんだ」
「へえー……あ、じゃあ、もしかして、あの時の?」
「ん?」
「私に人を殺したいと思うかって、あれ」
「……んー」
「ひぁっ!」
「ふふっ。ねえ、それで?結局、隣の世界はどうなっちゃったの?」
「あ……ふぅ。え、ええと、ね……」



***

――

――――

――――――





かつて、千坂らちかという名の少女が使っていた部屋は、
今は主もなく、閉じられたカーテンに日差しが遮られ、冷やりとした空気がこもっていた。

電気スタンドや小さな本棚の置かれた勉強机と、部屋の反対側に可愛らしい意匠のベッド。
静まり返った部屋の風景の中、漂う空気をかき混ぜるように、ほづみは進み、勉強机の前へ立った。

机の上、動物を模った小物達に守られるように佇む写真立てをそっと手に取る。
写真の中、らちかと夢迫のふたりが、笑い合い、互いの髪が触れ合うほどに寄り添い、写っている。
名を変える前の自分は、無邪気に笑っている。

ふと、ほづみは写真を持つ自分の手から幾筋か流れている出血に目を留めた。
ここへ来る途中、さくらの『さくらまつり』を強引に突破した際にできた傷だ。

無意識に傷口へ舌を這わせようとして、ほづみは思い止まった。

血を舐めるのは、私のする事ではない。
血を舐めるのは、らちかのする事なのだから。

ほづみは写真を机の上へ戻すと、踵を返し、ベッドの端に腰を下ろした。
キシリ、と日の陰った部屋に、小さな音が響いた。
花の刺繍が施されたシーツに血が落ちないよう気をつけながら、ほづみはひとり、静かに眼を閉じた。


――私の本当の名前は裸繰埜夜見咲らちか。
――綺麗な名前だね。

――かなめちゃんも名前を?
――もう、前までと同じ生き方はできなそうだし、折角だから。

――そう、夜に……見るに……花が咲く。
――咲く……じゃあ、らちかちゃんの名前から一文字もらって……咲ノ倉。

――かなめちゃん……もう寝ちゃったかな?
――………………我侭な子で……ごめんなさい。


愛する人とふたり、夢のような一時を過ごした、かつての記憶を夢想しながら――。





――――――

――――

――





『もう諦めたらどうだい?身体はどこにも異常なんてない。それはあたしが保障するよ。それでも起きないんだ』

「……うるさいわよ」

『でもまあ、愛しの王子様が耳元で甘く囁き続ければいずれは目を覚ますかもねえ。
 ひひっ、そうだね、君がキスしたら“らちかちゃん大好きー”なんて言葉を返すようにくらいなら変えてやろうかい?』

「殺すわよ」

夢のような一時が、幻の如き一時となってから幾日か。
らちかは携帯電話の向こうから聞こえる場当たり的な言葉に殺意を返しながら、傍らのベッドへと視線を投げた。
そこには目を覚ますことのない、夢迫の姿がある。あれから幾日、眠り続けているだろうか。

夢迫がいつまで経っても目を覚まさないことに異常を感じたらちかが、
身近な存在の中で最も腕だけは信頼できる相手、逆音へと連絡を取ったのは、
夢迫が眠り続けて半日が経過した頃であった。

鈴宮逆音――らちかと同じ、裸繰埜一族のひとりにして、闇医者を生業とする魔人であり、
魔人能力と併せた医者としての技量は、常識ではおよそ不可能と思われる手術も可能とする。

そんな逆音が夢迫の診断をして、出した結論が――異常なし、であった。

『いい加減におままごとは止めたらどうだい、お嬢様。
 分かってンだろ?身体にゃどこも異常がないんだ。夢迫ちゃんは起きることを拒絶してんだよ。心でな』

「……アンタから心だなんて言葉を聞くとはね」

『脳味噌だ心臓だ電流だなんて話したってまどろっこしいだろ。
 ま、話題を逸らすなんて、自覚のある証拠だあね。君が言っていたことだろう?心を縛る鎖ってやつさ』

「……フン」

『結局、君は夢迫ちゃんのことをちゃんと理解していなかったってことさ。
 いや、理解したくなくて目をつぶっていたのかな?……まあいい。
 君は夢迫ちゃんの心を縛る鎖を解かずに、強引に身体だけをあたしらの方へ引っ張って来ちまったのさ。
 人を殺したくはない、でも起きたらもう人を殺さずにはいられない、じゃあ起きるわけにはいかない。
 くくっ、健気なもんだねえ。
 ……心を置き去りにしたまま身体だけこっち側へ連れてきた。その結果がソレさ』

電話を握る手を、膝の上に置かれた手を、きつくきつく握り締める。
逆音の声を聞きながら、らちかにはそれしかできなかった。

「……なんで」

『夢迫ちゃんが人を殺さなかった理由が“能力によって自分の思いと相手の思いが等価であると感じてしまうから”?
 馬鹿だね。“等価であるなら自分の我侭を通せない”って、そんなこと誰が決めたんだ?
 現実を見ろよ。お嬢様。夢迫ちゃんにとって、心を縛る最後の鎖はその価値観を与えた奴だ』

「……分かってるわよ……分かってたわよ。
 かなめちゃんから、何度も聞いたから……聞いてたから」

目を閉じたままの夢迫の顔を、らちかは寂しげに見下ろす。
無表情に眠り続けるその顔が、かつて花咲くような笑顔と共に語っていた、ひとりの人物。


電話口から、気だるげな溜息が漏れ聞こえてきた。

『そろそろお人形遊びは止めたらどうだい。
 さっきあたしが言ったことだって大真面目な話だったんだ。
 こういう心と身体が分離したような症状は、患者の好きな奴が声をかけ続けてやりゃ治ることだってある。
 君は、今でも自分が夢迫ちゃんの一番好きな奴だって自信があるのか?
 夢迫ちゃんが目を覚ますまで、面倒見続けることができるのか?』

「それは……」

『君が本当に夢迫ちゃんのことを心配するなら、
 君が今考えている、夢迫ちゃんの一番好きな奴のところへ行って、夢迫ちゃんを置いてくりゃいい。
 そこなら夢迫ちゃんが目を覚ますまで面倒見てくれるだろう。
 今なら大サービスだ。あたしが夢迫ちゃんからあんたの記憶、全部消してやるよ』

「……嫌」

『はっ……だろうね。だから、初めから分かってンだろ?
 君は結局、お人形遊びをしていただけさ。ただ、いつもより熱が入っちまっただけでな。
 君は夢迫ちゃんのことはどうでもいい、自分の欲求を満たしたいだけってことさ。
 分かったなら、つまらない夢なんて見ないことだね。
 近くで寝てるんだろ?いつもみたいに首でも切って、さっさと君のコレクションに加えりゃいい。
 大好きな子を、いつでも身近に置いておける。それで解決、万々歳だ』

はぁという溜息を最後に、逆音の言葉が止んだ。言いたいことは言い切ったのだろう。
静かになった電話の向こう側、微かに、火の揺れる音、続けてジッと何かが焦げる音が聞こえてきた。
聞き覚えのある一連の音……逆音が煙草を一服しているのだろう。
電話越しに、紫煙が漏れ伝わってくるかのように感じ、らちかは思わず咳き込みそうになった。

通話を終えてしばらく、らちかは電話を持つ手をだらりと垂らして、全身を襲う倦怠感に身を埋めていた。
逆音の言葉が、ずしりと、耳底と胸に残っている。

夢迫のことが心配でたまらない。
けれど、夢迫と別れたくはない。

新しい愛を知ってしまったのだ。
かつての自分が発してきた愛だけでは我慢できない。

らちかにとって、かつて愛する対象は血管であり、その他は付属品に過ぎなかった。
しかし、夢迫との出会いが、触れ合いが、その付加価値にもまた、
あるいは一層の、愛を傾けるべき価値があることを教えてくれた。

夢迫――愛する人。
どうすればいいのか。
私は、どうすれば。

「かなめちゃん……目を覚まして……お願い」

らちかは、すがるように、ベッドへと身を寄せ、眠る夢迫へと声をかける。
しかし、その悲痛な声も、夢迫の目を開くことは叶わない。

どうすればいいのか。
もう、夢迫をあの人の下へと還すしかないのか。
夢迫が嬉々として語っていた、あの人……夢迫の心を縛る、最後の鎖。

――師匠……さがみさん……
――師匠は、いつでも、どこでも、なんでも、遠慮せずに頼ってって言ってくれて……

いつかの夢迫の声が、蘇る。

――師匠は物凄く面倒見の良い人で、
――師匠は物すっごくお人好しで、

やはり、夢迫にとって、一番の存在というのは。

――私は、そんな師匠が……

夢迫にとって、己の欲望を吐き出すことよりも、あの人への想いの方が、優先すべきことなのか。
あの人への想い?
そこまで考えて、らちかは突如、はっと顔を上げた。

今からでも、遅くはないのかもしれない。

その時、らちかの胸に、希望と呼べるものが湧き上がった。

それは、広大な砂漠の中に紛れる一粒の砂の如く、小さく、おぼろげなもの。
できるかどうかも分からない。できたとしてその後どうなるかも分からない。
それは、かつてのらちかならば決して踏み出せない、奇跡のような、最後の願いであった。
成功するビジョンなど何一つ見えはしない。
けれど、もしも、それで夢迫と再び一緒に歩めるのならば――

奇跡を願うのも、悪くはない。




***



『はい、夢見ヶ崎です。ご用件を伺いましょう』

「私の大切な人が、目を覚まさないんです。医者に診せても、駄目でした」

『病気の治療を、お望みですか』

「どうか、診て頂けませんか」

『分かりました。それでは――』

診断の場所や時間など、一通りのやり取りを終え、らちかは通話を切った。

ふうっ――緊張で固まった息を吐き出したらちかは、携帯電話をしまうと、傍らで眠る夢迫の髪をそっと撫でた。
夢迫は、今日も静かに眠り続けている。
そんな夢迫の寝顔を見て、少し穏やかな表情に戻ったらちかは、くすりと可笑しそうに笑みをこぼした。

「まさか、私がこんなことをしようなんてね。
 かなめちゃんの夢見がちなところが写っちゃったのかな?」

夢迫を自分の色に染め上げる。
そんな日々を送る中で、自分もまた、夢迫の色に染まっていた。
ふたりは、互いに、互いを分け与えていた。そしてそれが、息づいている。

そう考えると、
消えようとしている自分達の絆がまだ残っている、
これから待ち受ける勝機の見えない戦いにだって挑むことができる、
そう、らちかには強く感じることができた。

これから立ち向かう相手。
夢迫の心を縛る、最後の鎖。
夢迫の、恐らく、最後の未練。想い人――夢見ヶ崎さがみ。

らちかは、服に忍ばせた愛用のメス――長く使い込んだそれの柄を、強く、握り締めた。





***



「はじめまして、夢見ヶ崎さがみです」

「どうか、よろしくお願いします」

やってきたさがみに対し、らちかは静かに頭を下げた。
それはとても穏やかな出会いであった。

らちかは顔を上げると、さがみを真っ直ぐに見上げた。
それが最後の戦いの始まりであった。

それは極々短い、夢のような、幻のような、幕間劇であった。



***


さがみはすぐに夢迫の診断を始めた。

年若い少女が、同年代の目覚めぬ少女を連れて、治療を乞う。
そうそうありはしないだろう事態だが、それでもさがみはらちかの事情を詮索することもなかった。
集めた魔人能力を使って、人助けを行う“何でも屋”――そういった仕事柄、こんな状況にも慣れているという訳だ。

らちかには、その配慮がありがたかった。
らちかの態度を見て、何かを察したのだろう。仕事を仕事として成立させることより、らちかの心情に重きを置いた。
名前を尋ねることすらしなかった、さがみの、そのお人好しさに、救われる思いすらした。

らちかと短い会話のやり取りをしながら、幾つかの魔人能力を併用しながらだろうか、
ベッドの上で眠り続ける夢迫を一通り診断した後、やはり、さがみもまた、異常なしとの判断を下した。
やはり、夢迫が起きない理由は、夢迫が起きることを望んでいないからだと、判断を下した。

逆音の診断を疑っていた訳ではない。
その結果は、らちかにとって今更驚くようなものではなかった。初めから、期待はしていない。

らちかがさがみを呼び寄せた理由、それは、夢迫を診てもらうためではないのだから。

「目覚めさせる魔人能力はあるわ。でも、どれも勧めたいとは言えない。
 できれば、この子が自分から目を覚ましたいと、そう思えるようなきっかけを与えてあげられれば――」

診断を終え、この後の対応についてさがみは話を始めた。
だが、らちかはさがみの話を半ば聞き流していた。

――ただただ、奇跡を願って。

目の前に、向かい合った相手。
断ち切るべき、最後の鎖。
その背中の向こうで、愛する人が静かに眠っている。
私の愛する、奇跡を起こす魔人の少女。

目に映る全ての景色が、一度、ぎゅっと揺れて、後は驚くほど静まり返った。

「ひとつ、訊きたいことがあるんです」

さがみの言葉を遮るように、気付けばらちかの口から言葉が漏れていた。
言葉を発したらちかは、表情が殺され、色白の顔が一層白く染まっていた。
そんな様子を見て、話を中断したさがみは、何かしらとらちかの言葉を待った。

「あなたは――」

蒼白の表情で、らちかは言葉を紡いだ。
言葉と共に、服の下からメスが抜き出された。
もう、止めることはできない。もう、願うことしかできない――どうか、奇跡を。



***



ひとつの物語の幕が下り、新しいもうひとつの物語の幕が上がった。

――

――――

――――――





ふわり、と、冷たく沈んでいた部屋の空気がわずかに揺れた。
ベッドの端に座り、ひとり時間の流れるままに過ごしていたほづみが、風を感じて目を開く。

いつの間にか、ほづみの傍に、もうひとりの少女が立っていた。
ほづみがその少女に笑顔を向けると、少女もまた、笑顔を返した。

「お待たせ、ほづみちゃん」

「待ち焦がれたよ……ふふっ、らちかちゃん」

そこに居たのは、かつてのこの部屋の主、千坂らちか。
ほづみは今日、らちかと会うために、ここまでやってきていたのだ。

「ああ、また怪我しているの?しょうがないね……ふふっ」

「あはっ……くすぐったい」

ほづみの手の怪我に気付いたらちかは、その手を取ると、己の長い舌を伸ばし、
そっと傷口をなぞるように、唾液を肌に染み込ませるように、ゆっくりとほづみの血を舐め取る。

ほづみはその行為を嬉しそうに、くすぐったそうに肩を震わせながら受け入れる。

妃芽薗学園で起きた魔人同士の大規模抗争の際、それまで魔人であることを隠していたらちかの正体がばれ、
らちかはすぐに学園から転校をしたために、本来ならばこの部屋で待ち合わせをする必要などない。
しかし、ほづみはらちかと出会ったこの学園を、いつも待ち合わせの場所に決めていた。
手綱のなくなった私には“いつもの場所”というものがないと何処まで飛んでいくか分からないから、
と、ほづみはその理由を語っていた。

「はい、綺麗になった」

「ありがとう。えへへ……ふふっ」

ほづみの手から舌を離したらちかが、ぺろりと唇を舐め、にこやかに笑った。
先程までの部屋の寒さが嘘のように、とても暖かい、と、ほづみはその笑顔を見て思う。

「じゃあ、行こっか!――社!」

ほづみは中空へ声をかけた。
夢迫の身を護り続けてきた、付喪神の社が、その声を受けて、身を寄せ合うふたりを瞬時に別の場所へと転送させる。
らちかの能力を受けながらも夢迫のことを忘れなかった社は、
夢迫中が咲ノ倉ほづみと名を変えた今となっても変わらず、ほづみを護っている。
時にらちかをほづみの下へと転送し、時にらちかとほづみのふたりを、ふたりだけの秘密の場所へと転送しながら――。

ふたりの姿が消えた後の部屋は、再び、しんと静まり返った。
ただ、その空気の中に、淡く甘い、春の息吹を薫らせていた。



***




社の転送能力によって、暗く、どこまでも広い亜空間の中を落下しながら、
らちかは一緒に闇の先へと落ちているほづみの顔をちらりと見て、あの時のことを思い出していた。
ほづみが目を覚ました……奇跡をらちかに見せてくれた、あの時を。


――あなたは、私達のこと、どういった存在か、理解していますよね。
――何のこと、かしら。

――私は、このメスで沢山の人を殺してきました。
――そうね。そんな印象は確かに受けるわ。その刃物からも、あなたからも。

――この子も、人を殺すことに悦びを感じる子です。
――それが、この子が目を覚まさない原因のひとつなのかしら。

――最初から、分かっていたんですよね。
――感心できない生き方をしている子達だろうってことくらいなら、ね。

――あなたは……それでも私達を助けようって、思ってくれるんですか。
――ええ。そうね。

――それは、どうして。
――本当に心配そうに不安そうにしている子が助けを求めてきたのだもの。それ以上の理由はいらないんじゃないかしら。

――あなたが私達を助けて、それで何処かの誰かが死ぬことになるかもしれないのに。
――そうね……何処かの誰かに頼まれて、助けておいてなんだけれど、あなた達を捕まえることになるかもしれないわね。

――それで、そんなものでいいんですか。
――私にあなた達の生き方を否定することはできないわ。


――昔、自分の命も投げ出して奔放に生きる、そんな子を愛した私だもの。


落ちていく先の暗闇に、目的地への到着を示す薄明かりが見えた。
らちかは隣にいるほづみの身体を、ぎゅっと抱き寄せた。
ほづみもまた、らちかに応え、らちかの背中へ腕を回し、抱きしめ返した。

その感触に、ほづみがこうして傍にいてくれることに、
あの時の賭けが成功したことに、らちかは改めて感謝した。

夢迫から聞いていたさがみの性格ならば、もしかすると、夢迫の生き方を否定しないのではないか。
夢迫が情動に突き動かされ、欲望のままに生きるとしても、その背中を押してくれるのではないか。
夢迫の心を縛る最後の鎖は、むしろ夢迫を開放する、最後の鍵になるのではないか。

らちかが眠る夢迫を見ながら思いついた希望とは、それであった。
さがみから、夢迫を目覚めさせるための言葉を吐かせる。
『エヴァーブルー』によって外部からの柵が断たれた夢迫の、
『エヴァーブルー』によって断つことのできなかった内部からの柵を断つ。

らちかの奇跡を願う思いは、叶った。

さがみの言葉が止んだ瞬間、夢迫は――ほづみは、ベッドから跳ね起きた。
突然の事態に呆然とするらちかに対し、こんなことしている場合じゃない!早く行こう!と、
ほづみは勢い込んでまくし立てた。

さがみとの別れ際、らちかと並んで歩いていたほづみは振り返り、さがみに向かって姿勢を正すと、
ありがとうございました、と、深々と一礼をした。
その後は、らちかの手を取ると、らちかを引っ張らんばかりに、ぐんぐんと駆け出し、止まることはなかった。

その日の夜、ひとりの無垢な少女が血に沈み、その傍らで、らちかとほづみ、ふたりは存分に愛し合った。




***



煌びやかに飾られた机と椅子。豪奢なベッド。
あるいは、静謐さを漂わせる床の間に飾られた、渋くくすんだ壷、巻物。
統一感のない、しかしひとつひとつは見る者の目を惹かずにいられない匂いを放つ物達。

そして、それらを埋めんばかりに飾られた、色とりどりの花々に覆われた部屋。

「ふふっ……今日もみんな綺麗だね」

沢山の花や、宝石や、美しい装飾に彩られたその秘密の部屋に、ほづみの欣喜が漏れる。
ここはほづみの地下墓所である。能力により、死んで姿を変じた者達を、大切に保管する場所である。
また、らちかとほづみのふたりが、愛を語らう場所でもある。

らちかは水槽に溢れる桜の花弁や、ベッドの枕元に置かれた花台に飾られた薔薇の大輪に視線を送った。
ほづみに対する想いとはまた別であるが、それでも確かに自分が愛した人達――それが、大切に飾られている。
それらの花々の、生前の容姿や名前を思い出しながら、ほづみに任せて良かったと、らちかは心から思う。

「らちかちゃん……もちろん今日は泊まっていくよね?」

そして、ほづみを愛して良かったと、愛してくれて良かったと、心から思う。

「ふふっ……もちろん」

こうしてふたり、愛し合うようになったきっかけを、昔日をらちかは思い返す。
数々の障害を越え、燃える恋を成就させたあの日々のことを。

あの日、目覚めたほづみが私を選んでくれて、本当に嬉しかった。
もしもほづみがさがみについていくことを選んだならば……私はそれを受け入れたろうから。
尽きせぬ執着の炎に、諦観の涙を注いで。

けれど、諦めなくてよかった。
奇跡を望んで、本当によかった。

心をすぐに奪えなかったのは、ちょっとだけ悔しくもあったけれど。
あの時はまだ、共に過ごした時間の差で、自分の力が及ばなかったかもしれない。
けれど、今はもう――そしてこれから先はずっと――

部屋中に満ちる花の香りを吸い、早くも頬を上気させ、
浮かれたような、物欲しそうな表情を見せるほづみを抱き寄せると、
らちかはそのままほづみともつれ合うようにベッドへと飛び込んだ。


――今日はどんな夢を見せてあげようか。どんな夢を見せてもらおうか。






――――――

――――

――





何かから逃げるように、夜道を必死で走っていた少年が、小石につまづき、転んだ。
怯える少年はなんとか立ち上がろうと地面をもがくが、足が震えていうことをきかない。

「もう、逃げられませんよ」

夜闇の奥から、少年に声がかけられる。
揺らぐ瞳で少年が声の方へと顔をあげると、そこに、ひとりの少女を見た。

「安心してください――痛くしませんから」

少女は、笑顔で少年に告げる。

「あなたの死に様はどんな素敵なものでしょう」

少年の余命が、もうないことを。

「さようなら。そしてありがとう。
 私の名前は裸繰埜――裸繰埜夜見崎ほづみ。あなたの実り、豊かな穂先、謹み摘ませて頂きます」




***



「ふーん……」

ほづみの話を聞き終えたらちかは、嬉しさと寂しさを混ぜ合わせたような表情で、
ため息をついた。
らちかは死に、地獄へ落ちた。
ほづみは一度死に、そして今は地獄にいるといえ、本来は現世にいる存在。

もしも、あの時、ほづみの……生前の夢追を捕らえることが出来たなら、
こうやって二人で同じ時間を過ごす、身体を重ねる、それらを、生きて――

「まあ、でも」

しかし、らちかの思考を、ほづみの声がさえぎった。

「絶対に、私達の方が、仲が良いって、隣の私達に見せつけてあげようよ!」

そう言って笑うほづみの顔を見て、らちかもまた、笑った。

「……うん、そうだね」

らちかは死に、地獄へ落ちた。
ほづみは今は地獄にいるといえ、本来は現世にいる存在。
二人を隔てる障害は、現世と隠世。動かし難い千引の岩。

――そんな風に、ちょっとでも考えた自分が馬鹿だった。

らちかは膝の上に乗っているほづみの頬をそっと両手ではさみ、顔を寄せた。
地獄に落ちても、愛する相手と離れ離れになっても、
互いを想い合うことが出来れば、そんな奇跡があるとすれば、だけれど――

「さすが、ほづみちゃんは奇跡を起こす魔人だね」

現世と隠世。黄泉比良坂を越えて、愛し合うことも出来るのかもしれない。





Side 千坂らちか&咲ノ倉ほづみ end.
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