銀河に願いを(by 雨竜院雨雫)


「ゆめおい……ちゅう……ちゃん?」

雨竜院雨弓は「報道部員佐倉光素」の名刺に共に印刷された「夢追中」の字をそのように誤読した。

魔人警官である彼は最近十束学園からの集団魔人脱走事件の捜査に忙しく、
久々の休みに家にいたら妹の畢が友人を連れてきて互いを紹介すると言う。
筋骨隆々とした2m超の体躯にたてがみのような蓬髪という雨弓の外見のために
初見の相手は恐怖の混じった目で彼を見るのだが、その少女――夢追中は
恐怖どころか妙な期待を宿した目で彼を見上げる。
そして懐から名刺を取り出し、彼に差し出した。それを雨弓は無礼にも冒頭のように誤読したのだ。

「お兄ちゃんボクとおんなじ間違い方してる~~」

雨弓の誤読を畢がキャッキャと笑いながら指摘する。
どうも「夢追中」自身この間違いは予想していたらしく、どことなく嬉しそうにさえ見える。
そして彼女はその薄い唇を開き、名乗った。

「『ゆめさこ かなめ』です」

「へえ……下の妹と一緒の名前だなあ……悪いねえ夢追ちゃん」

「悪いと思うならお兄さん、間違ったお詫びに貴方の『魔人能力』見せてください」

ぬっと背伸びをして、瞳を星のように輝かせ雨弓に迫る。
最初はどことなく清楚そうな少女という印象を夢追に持った雨弓であるが、それは見事に打ち砕かれた。
理由は雨弓にはわからないが魔人能力に異様な興味を示す彼女は、少なくともそのことに関しては
謙虚さや奥ゆかしさなど持っておらず、一度拒否してもぐいぐいと迫ってくる。

 雨弓がちらりと畢を見るとすまなそうに苦笑する。たくさんの魔人能力を見たがる夢追に対して、
彼女は自慢の兄を紹介するがてら彼が魔人であることも明かし、能力も見せてあげようと考えたのだ。
ただ、それが如何な能力であるかということについては夢追自身が「楽しみが減る」と聞くことを拒否した。

「俺の魔人能力なんて、見ても嬉しいようなもんじゃあ無いぜ」

「そんなことないよ。ボクお兄ちゃんの能力すっごく好き!」

「そうです! さきっちょだけでいいですから!」

「能力のさきっちょってなんだよ」

さきっちょで済ますつもりは全く無いだろうと確信させる勢いの夢追に
「まあ見せてもいいか」と思いかけた雨弓だったが、
その前に1つ確認しておこうと考え、夢追に尋ねた。

「なんでそんなに魔人能力を見たがるんだい?」

「私、『奇跡』が好きなんです。だから、色んな不思議なことや魔人能力を見たいんです」

瞳の星はますます強く輝き、彼女の「奇跡」への思いが強く感じられた。
奇跡に恋をしたようなその様に多くの魔人は見惚れそうなものだが、
雨弓は逆に表情を曇らせ、そして暫しの沈黙の後にこう答えた。

「……悪いが、見せらんねえな……魔人能力は『奇跡』なんかじゃあ無い。少なくとも俺のは」

†††††


「せいりゃっ」

夢追が繰り出す上段蹴りは攻撃力14だけあり人体が容易くちぎれ飛ぶ威力を秘めていたが、
彼はその蹴り足を掴むと彼女の重心を支配し、その足を軸に身体をぐるりと一回転させて落とした。
羽毛のように静かに夢追は尻もちをつくが、すぐさま立ち上がって更に蹴り技を連続で繰り出していく。
全ては雨弓を追い込んで、魔人能力を使わせるため。

当たれば頑丈な自分でもただでは済まないそれらの攻撃を、雨弓は全て無手のままあしらってみせる。
戦乱の世に生まれた古流剣術には当身や投げなど無手での技を含むものも多いが、
剣術を基にした傘術にもそのような技法は存在した。巌を思わす体躯に似合わない流麗さで夢追の打撃を流し、捌いていく。
奥義「狐の嫁入り」こそ体得していないが、業前は現当主である伯父を遥かに凌ぎ、自他共に認める最強の傘術家である。


「彼も流石だけれど、かなめはいつにもまして気が逸りすぎね」

「――『篠突く雨』ッ!」

それを横目で見ながら呟くのは夢追の師匠、“PROFESSOR”夢見ヶ崎さがみ。
彼女は余所見をしていると言うのに正面から襲い来る畢の傘による連撃を事も無げに全弾払い落としてみせる。
技が通用せずムキになる畢を今度は真っ直ぐ見据えて、どうも互いの弟子は似た者同士らしいと薄く笑った。


「私と一戦、どう?」

夢追が「まだ諦めませんからね」と宣言しながらも稽古めいた戦いは一時休止となり、
少女たちがシャワーを浴びに出ると道場に残った2人の一方、さがみが雨弓を誘う。

「“PROFESSOR”との手合わせなんて願ってもないスけど、能力見せるつもりは無いですよ」

「安心して、かなめに教えるつもりなんて無いから。そんなことしたら一番怒るのはあの子だもの」

その言葉に嘘が無いことを感じ取った雨弓は壁に立て掛けられていた武傘「九頭龍」(クトゥルー)を手にする。
雨弓の身の丈程もある最大級の武傘だが、扱う雨弓の振る舞いはその重量を感じさせない。

 雨弓に答えるように、さがみもまた得物を手にする。
彼女の身を包んでいた美麗な羽織は脱ぎ捨てられたかと思うと直後空中でその姿を一振りの刀へと変えた。

「魔人能力?」

「いいえ、ただの手品よ。あの子がこういうの好きだから。私の能力を見られるかどうかは――」

「貴方次第よ」と切れ長の眼が物語っている。
雨弓は是非とも見たいと感じた。夢追のように「奇跡」が見たいなどという理由では無い。
“PROFESSOR”の技を、力を余すところ無く味わいたい、と。

両者はゆらりゆらりと互いに間合いを詰めると、抱擁する恋人同士のように切り結んだ。



「お兄ちゃん、さがみさん、ご飯出来たっ……」

道場の扉を開けた畢の目に飛び込んだのは、繰り出さんとしたさがみへの一撃をピタリと止める雨弓の姿であった。
明らかにまだモーションの途中で「寸止め」というには止めるのが早過ぎる。
止めた雨弓自身そのことに驚いた様子である。

「今のが、アンタの……?」

魔人能力「睫毛の虹」で空気中に飛んだ互いの汗に光を乱反射させて幻影を生み出しさがみを翻弄。
出来た隙を狙って技を放たんとする瞬間、腕は脳の命令を無視してその動きを止めた。
「魔人能力か」という問にさがみは小さく頷く。

「ええ、魔人能力『Mighty Guard』。真正面から発動させるなんて、大したものね」

強敵を見上げ、さがみは称賛の言葉を送る。畢が呼びに来なければもっと続けていたかった。
「血湧き肉踊る」という感覚を彼女は久々に味わっていた。

 道場の壁と床を穴だらけにしたことで雨弓は道場主で師匠である伯父に数年ぶりに説教を食らうことになる。



「いつもより多めに回しております」

「わあっすごーいあめふりちゃん」

「お姉ちゃん、ウパちゃん無理してるけど」

少女らの楽しそうな声を襖越しに聴きながら、さがみと雨弓は縁側に腰を下ろし、庭を眺めていた。
降りしきる雨粒が池の水面を叩き、雲の間から覗く月の光に金波銀波が美しく煌めく。

「どうして、魔人能力を『奇跡』じゃないと貴方は考えるの」

「……半分師匠の受け売りなんすけどね……」

問われた雨弓は手にしたお猪口の酒を呑み干すと一呼吸おいて、夢追の願いを拒んだ理由を語りはじめた。

「魔人能力を魔法か何かのように思ってはいけない。奇跡を起こせるなどと思ってはいけない」

傘術の師匠は5歳の雨弓にそう言った。
それは当時魔人になったばかりの雨弓に対し、魔人特有の全能感を戒めるための言葉だった。

 曰く、魔人は出来ることが常人より多い、ただそれだけだと。
如何に科学の法則を無視した業を成してもそれは「そういうことが出来るだけ」。
変わった特技を持っている人間となんら変わらない。
魔人能力が奇跡なのは覚醒前の自分にとってだけであり、なってしまえば限定された力に過ぎぬと自覚した上で活かすべきであると。

 5歳の雨弓にとってそれはあまりに難解だったのだが、傘術家として習熟するにつれ、それを理解するようになった。
術というものは限界のある力を限界の内で最大限活かすためにある。無限の膂力と頑強さを持つ人間がいたら、武術など必要ない。
武術を極めるということは限界に限りなく近づこうとすることであると。

「……」

無言のさがみであるが、心中では雨弓の口を通して語られる彼の師の言葉に成る程と頷いていた。
確かに、魔人能力を「奇跡」などと捉えるのは驕りなのかも知れない。
しかし同意には至らないのは「奇跡」を追いかける弟子の姿を見てきたからということとは別に、
彼女自身の魔人に覚醒した経緯にも理由があった。
武術を極め、そしてその限界も悟った少女の頃の自分。そのとき、魔人へと覚醒した。
限界の内にあった彼らの魔人能力と、限界を超えるために生まれた彼女の魔人能力。
そうした差が、自身の能力への認識の差として現れている。

「それに、ね……」

再び口を開いた雨弓の横顔へ、しばし虚空に向けられていたさがみの視線が戻る。
彼は酔のせいもあってかゆったりとした口調で「もう半分」の理由を語った。


†††††

数日後、希望崎の森の上空を大きな猛禽が飛んでいた。その名を「オウワシ」。
学術上はタカに分類すべきサイズであるが、親友に貰った誇るべき名であるから、彼女はオウワシである。
大きな翼を広げ、悠々と空を舞う。
その背に、ゴッドファーザーにして親友の夢追中ともう1人、夢追の友人雨竜院畢を乗せて。

「夢追ちゃん、オウワシちゃん。乗せてくれてありがとうね」

畢はキョロキョロと眼下に広がる森を見回している。
雨の日は傘部のメンバーを率いて何度も歩き回った森であるが、
上空から見下ろすのは初めてで新鮮な気持ちだった。少し怖いが。

「あめふりちゃんには何度も取材させて貰っているし、ね」

「お嬢様のお友達ですから。これくらいは」

「佐倉光素」として傘部の取材に来たのが2人の出会いのきっかけであった。
 天真爛漫な2人は意気投合し、畢の願いで先輩後輩だというのにくだけた口調で話す友人同士になる。

「それに今も素敵な魔人能力を見せて貰っているんだから」

空を舞うオウワシの遥か上空を覆う厚い雲。そこからパラパラと降り注ぐ、ゆとり粒子のまざった雨。
畢の魔人能力「あまんちゅ!」は彼女の楽しい気持ちを、雨を通じて様々な人に分け与えるものであった。

「そういえばごめんねお兄ちゃんのこと」

家に招かれた日に断られ、その後の道場でも能力を力づくで使わせることはかなわず、
結局今日まで数日夢追は雨弓の能力の件でモヤモヤした思いを抱えているわけだが、それを察して畢は詫びる。

「ううん、魔人能力を見るのに苦労はつきものだもん」

そう明るく答える夢追。命の危険などなんのそので今まで魔人能力を追いかけてきたのである。
相手が拒否するくらいなんだ、と思うが、しかし一方ではむしろ拒否しているからこそ難題なのかも知れぬとも思っていた。
雨弓は都合が悪いから能力を見せないというわけでは無く、単純に見せたくないのだと彼の言葉からはっきりと伝わってきた。
そしてその意志はかなり固いようだ。

「……じゃあ、見せられないな。魔人能力が『奇跡』だと思うなら……」

あのときの彼の言葉からして、彼は魔人能力を奇跡だとは思っていない。
或いは自分の能力を奇跡と思っていないのか。
自分の能力を嫌う魔人も中にはいるが、畢は雨弓の能力を贔屓目なしにもとても好いているらしい。

「どうしましょうか……」

煌めくペン先を顎に当て眉間に皺を寄せ、神妙な顔つきで夢追は考え込んだ。

「あっ……あそこにちょっと降りてみない?」

自分が振った話がきっかけではあるが、重くなってしまった雰囲気を変えようと畢は眼下を指差し言った。
森が開け下草が生い茂るのみの、一般的な空き地程度の面積の場所。
それだけなら特にどうということは無いが、目を引くのはそこにある直径1m程の穴であった。


 穴の近くへとオオワシは2人を降ろす。2人で穴を覗きこんでみるが、穴の中はごく浅い部分さえ真っ暗でまるで黒い幕が張られているかのようだ。

「何これ? どうなってるの?」

狂頭の試練場なるダンジョンへ繋がる洞穴が希望崎には存在するが、
それとはまた別種の不思議が目の前に存在することに夢追は興奮を抑えられない。
興味津々といった様子でその暗闇を覗き込むも、やはり何も見えぬ。

「私飛び込みます。あ、あめふりちゃんも一緒に来る?」

夢追は興奮気味にそう宣言し、またオウワシと社をハラハラさせる。
それに対して戸惑いながら畢が答えようとしたそのとき、事は起こった。
「穴」が突然音も無く消失し、そこが周囲と同じく草に覆われた地面に戻ったかと思うと、
今度は畢の足下へと出現したのである。

「……へっ……?」

「あめふりちゃん!?」

今日びギャグ漫画でも見ないような見事さで手にしたウパナンダと共にスッと「穴」へと消える畢。
そして夢追が呆気に取られる一瞬の内に再び穴は消失し、そしてもう現れることは無かった。

「……何これ……すっごーーい!!」

瞳を輝かせ、咆哮する夢追。想像以上の不思議が、奇跡が目の前で起こったのだ。
魔人能力だろうか。或いは何か別の怪異か。鉄のメモ帳を取り出し、ギャリギャリと火花を散らしながら今の出来事を書き記す。

「……ねえかなめ……あの子はいいの……?」

「あっいけない! あめふりちゃん!」

そこにオウワシの言葉でハッとした。時々忘れそうになるが、自分の命は奇跡のために危険に晒しても、
友達の命まで晒してはいけないのである。
とりあえず、畢の携帯に電話をかけてみるが応答は無かった。メールも出したが、数分しても返信は来ない。

 夢追は社に転送してもらったスコップでザクザクと辺りの地面を掘り始めた。
しかし、半ば予想してはいたことだが、浅く掘った限りではあの穴のような空洞にはあたらない。
どうも、あの穴はただの落とし穴では無く、異界、或いはどこか全く別の場所へと通じるトンネルのようなモノであるらしい。
まるで、地下迷宮にあったワープゾーンのように。

「う~~ん……社……あめふりちゃんを転送することって出来る……?」

再びオウワシの上から森を見渡せども先程のような穴は見当たらなかったため、夢追は言った。

夢追中3大ボディガードの1つである付喪神、社の能力の1つ――自身の一部を身につけた対象を自身の本体(普段夢追が住む日本家屋)へと転送する――を
畢に対して使用させようというのがその心である。
本来は夢追の安全確保のための能力で、彼女が身につけるマフラーやアクセサリーなどが「社の一部」であるのだが、
それらを身につけた夢追と長時間接触した者にはそれらの繊維などごく微量な断片が付着しており、社はそれに対しても能力を行使出来るのだ。
畢の身体や衣服、傘にも恐らくそれらは付着しており、能力の対象となることが期待できた。が

「駄目……みたいですね」

夢追にしか聴こえない声で社は返答する。
曰く今の畢の周囲には高二力フィールドのような魔人能力を減衰させるフィールドが張られていて、
本体では無く端末の、それもごく微量の「一部」に宿った神力ではその用を果たさないと――。

「そんなぁ……あめふりちゃん」

表情を曇らせる夢追だったが、しかしすぐに思い直す。こんなときこそ、奇跡を起こさなくてはいけない。
諦めた者に奇跡は起こらない。

†††††

「わっ!!」

真っ暗な穴へと落ちた畢だが、直後穴の底が見えたために宙返りし猫のように軽やかに着地する。
落とし穴の底とは思えぬ白いリノリウムの床。
着地するとすぐに真上を見るが、そこに自分が落ちてきたもはや穴は見られず、床と同じ真白い天井が覆っていた。
また前方に視線を移せば、すぐそこに同じく白い壁がある。

「ここ、地面の下じゃあ無いの……? 夢追ちゃん達は?」

不安からウパナンダを握る手に力がこもり、冷や汗が伝う。周囲を見回そうとしたそのときであった。

「友人たちはここには来られないよ……僕と君たちだけだ」

背後からの声に畢は反射的に振り向く。声の主は少年であった。部屋の中央に立ち周囲と調和した白の服に身を包んでいる。
彼らのいる部屋は学校の教室ほどの大きさだが家具も目に付く物品も無く、白さがこの空間の空虚さを際立たせている。

「君は……」

自分と同じ年頃――畢は17歳――に思われる美しい顔。畢はその顔に見覚えがあった。
かといって「知っている」と思えるほどでは無い朧気な記憶に畢は首を傾げる。
その様子を察して、少年はやや残念そうに笑みを浮かべる。

「うん、無理も無いよね……。君は『彼女』に会うために『学園』に来ていたんだから。勇気の無い僕は、君を見ているだけだった」

「あっ……!」

少年の言葉に畢は合点がいき、朧気であった少年の記憶がはっきりと甦る。
従姉妹に会いに時折訪れた「十束学園」にいた少年。
言葉を交わすこともなく、名前も知らなかったがゆえ、十束学園を従姉妹が出て自分が訪れることが無くなって以来すっかり記憶の底に埋もれていた。

「僕は学園で生まれた人造魔人で、外の世界を知らなかった。外からやって来る君は、僕の乾いた心に降る慈雨のようだった」

「君を見て、外の世界にはこんなに素敵な女の子がいるのかって思ったんだ」

「そ、そうなんだ……」

あまりに大げさに思えるその言葉に畢は顔を赤くするが、
ほとんど憶えていなかった面と向かってそんなことを言われて
「気持ち悪い」より「嬉しい」と感じるくらいに、畢は幼かった。

「だから、僕は君と会いたくて仲間と学園を逃げ出したんだ」

その言葉に、「あっ」と畢は声を漏らす。兄が追っていた十束学園魔人集団脱走事件、この少年はその犯人の1人、犯罪者なのだ。

「仲間たちも次々捕まっているらしい。僕も近いうちに捕まるだろう」

「でもせめてその前に君に言いたいことがある」

自分を見つめる少年の瞳に、畢は夢追の魔人能力へのそれを思い出していた。
心底好きな対象に向けられる、純粋で危うい輝き。

「えへへ……どんなこと?」

そんな瞳で見つめられて、畢はだらしなく頬を緩める。
目の前の少年は犯罪者で警察官の妹としてはすぐに通報しなくてはいけないのだろうし、あの穴やこの空間が何なのか気になるが、
でも自分のために法まで犯した少年が、恐らく自分に愛の告白をしようとしているのだ。聞かぬわけにはいくまい。

「じゃあ、言うよ……」

「うん」


「いただきます」


瞬間、少年の双腕は骨など無い触手のように畢へとギュンっと伸び、彼女を掴まえようとする。

「……?……」

「畢ッ!!」

あまりの出来事に呆然となる畢だったが、ウパナンダの叫びを受けて我に返ると魔手が届く直前「蛟」でツツーと横に滑り、
そして少年の後ろ、大きく広がる空間へと回りこむ。

「へえ……けっこう素早いね」

背後を取られ、すぐさま振り返った少年のその顔は、蛇、否、ドラゴンを思わせるものへと変貌している。
肌は鱗に覆われた緑色、口は裂けて鋭く伸びた牙が覗き、鼻孔は平べったく広がっている。
だと言うのに、ぎょろりとしたその瞳には先程までと変わらず星のような輝きがあるのだ。

「君は……ボクを食べるの……?」

畢が問いかける。声の震えのみならず、足元に広がってゆく金の水たまりが芽生えた恐怖を表していた。

「ああ……君はボクの血肉になって、ボクの中に生き続けるんだ」

少年の魔人能力は「謝肉祭」(カーニバル)。食い尽くした生物の能力を、その肉体に再現することが出来る能力である。

†††††

 雨竜院雨弓は愛傘「九頭龍」についた無数の血の雫を丹念に拭き取った。
流石は最強の傘使いだけあり、血の雨の降る戦場にあってもその衣服や身体には一滴の血もついていない。
とはいえその血の雨を降らせたのも雨弓本人なのであるが。

「……」

雨弓の見下ろす先、脳天を貫かれ、カッと目を見開いた少年の亡骸が仰向けに倒れている。
十束学園から集団脱走した魔人の1人である。
戦闘用の人造魔人だけあり、魔人警官3人を殺害し、10発以上の銃弾を食らっても生きて逃げ続ける生命力を見せたが、
つい数分前に雨弓がとどめを刺したところである。

「これであと1人、か……ご苦労だったな雨竜院」

上司にあたる中年の魔人警官が雨弓に労いの言葉をかける。
しかし雨弓は無反応のまま光を失った少年の瞳を見下ろしている。
少年が脱走してきた十束学園には雨弓の従姉妹にあたる少女もかつて在籍しており、
彼は時折そこを訪れていたという。
もしかしたら、自分で殺した少年とも顔見知りであったのやも知れぬ。
普段センチメンタルな様子など見せぬ部下のそんな一面に、男はたった今の無礼を見逃すことにした。

「(こいつは……どんなつもりで魔人能力を使ってたんだろうなあ……)」

最期、絶叫しながら少年が放った水弾は「雨流」の前に飛沫と化して飛び散った。
彼は如何にして魔人となったのか、自分の魔人能力をどう思っていたのか、雨弓には預かり知らぬところである。
ただ、確実なのは彼の能力は「奇跡」を起こせなかった。「奇跡」たりえなかった。

 こんなことを考えるのは、数日前の夢追の言葉も一因であろう。
しかし、最大の要因は恐らく2年前、恋人を救えなかった自分。
「奇跡」で無くては救えなかったのか。自分が真に最善を尽くせば救える可能性はあったのでは無いか。
どちらにしても確実なのは、自分では「奇跡」を起こせないということ。

「……ふぅ……あっ、ご苦労さまです」

ため息を1つ吐いて顔を上げたとき、隣に立つ上司に気づき慌てて挨拶する。

 現場の後始末を別な者に任せ、建物の外に出るとパラパラと雨が降り注いでいる。
差し出した手の甲に零れた雨粒から伝わるゆとり感に、「ああ畢か」と心中で呟いた。
きっと部活か、或いは友達と遊んでいるのか。妹の楽しげな様子が目に浮かんでフッと笑みが零れる。
雨弓は待機していたパトカーの運転手の警官に無理を言い、歩いて署に戻らせてもらうことにした。

 雨の中、巨大な傘を持った大男がそれを差すことも無く濡れるままで歩いている。
異様な姿に通行人はチラチラと見てくるが、男自身特に気にする様子は無い。

「……畢……?」

雨に混じるゆとり粒子に、沈んでいた気持ちもその足取りの如く些か軽くなってきた雨弓であるが、
署への道のりの中ほどまで来たところで雨に違和感を覚える。
雨から伝わってくる感情が、到底ゆとりとは呼べぬモノになっている。
言葉より鮮明に、テレパシーのように脳に訴えかけてくる感覚。恐怖であった。

「『あまんちゅ!』じゃ無いのか……?」

畢の魔人能力「あまんちゅ!」は彼女の機嫌がいいときゆとり粒子の混じった雨を降らせることが出来るのだが、
その最中に彼女の機嫌が悪くなるなど感情のベクトルが大きくずれたとき、雨は止むか、或いはゆとり粒子の混じらないただの雨になってしまう。

 しかし、今この雨は恐怖の感覚を自身に訴えかけてくる。
周囲を見回せば、道行く人々も理由もなく何かに怯えるような、どこか不安げな様子に映った。

「どういうことだ……畢に何か」

「あったのか」と続けようとした瞬間、視界が暗転する。

「へっ……え?」

雨弓は気づくと街中を歩いていたはずが、見たことの無い部屋に敷かれた布団の中に寝ていた。


巨体のために雨弓の身体は布団から半分ほどはみ出していたが、布団に残されたスペースを埋めるのは畢の友人・夢追中である。
まるで恋人同士のように添い寝する形となるが、その瞬間大きな地震のように部屋がグラグラと揺れる。
夢追が「社、今は緊急だから」と叫ぶとややあって揺れは収まった。

「夢追ちゃん? いったいどうなってんだ……」

あまりの事態に困惑する雨弓であるが、夢追は社という付喪神云々の事情の説明は省き、
畢がどこかわからないところへ飛ばされてしまったらしいこと、
この家に物体を転送する力があり、こちらから畢のところへ自分たちを転送して助けに行けるかも知れないということを伝える。
(因みに、何故接触してから数日を経た雨弓にまだ社の一部が付着しているかと言えば、夢追がいつでも彼を補足できるよう、そうさせていかからである。社は相当渋ったが)

「そんなことが出来るのか……」

「普段なら出来ないと思います。でも『奇跡』が起これば」

「私は『奇跡』を起こす魔人です。『奇跡』を願う心を集めて、起こらないことを起こすんです」

以前に雨弓が拒絶した言葉を、夢追は躊躇いなく口にした。
夢追は自分の能力がどのように作用するかもよくわかっていないし、
受信装置である畢側の神力が遮断されてしまっているのに、
発信装置である社本体をブーストしたところで上手く転送できるのかはわからない。

 それでも、きっと出来ると信じた。精緻な計算による予測ではなく、無茶なことをこそ信じなければ。
奇跡を信じるとはそういうことである。

「『奇跡』が起きなきゃ、助けらんねえか……」

「わかった、起こるって信じるさ、お前さんの言う『奇跡』」

それは願望混じりであったのかも知れないが、夢追中という少女が言うと不思議と信じられるように思われた。

「社、お願い」

魔人能力「夢追汽車の終着駅」(ギャラクシー・レールロード・ターミナルケア)は奇跡を願う心を集め、奇跡を起こす。
高二力フィールドで減衰されたはずの畢の「あまんちゅ!」は自身の恐怖さえも伝える、より高度な能力へと昇華され、
そして今もまた雨弓の、夢追の、全ての世界のあらゆる人の願いを、社の「夢の寄辺」へと集めた。

――2人は淡い光に包まれ、そして消えた。

†††††

「さあ、『謝肉祭』を始めよう……」

 触手の催淫液によって弛緩した畢の身体を少年はぐいと持ち上げる。
ウパナンダの射出された突剣が肩を切り裂いていたがなんということは無い。

「……」

ロクに身体を動かすことも叶わぬのに、畢の瞳からは光が消えていない。
これでこそだ、と少年は歓喜する。かつての自分に希望をくれた少女。
彼女を食いたいがために、高二力フィールドの発生・制御技術を盗み、十束学園を脱走した。
仲間たちが次々と逮捕或いは処分される中地下迷宮に潜り、ワープゾーンのメカニズムさえも学んだ。
全ては安心して少女を食らうため。

「大丈夫だよ……淫液には麻酔作用もある。痛みは感じないさ」

少女の肉体――髪の毛、血肉、骨、糞便に至るまで――その全てを喰らい尽くして、彼女を自身の内に取り込む。
この後、すぐに自分が死ぬとしても悔いは無い。顎関節を外し、ワニのように大きく口を開く。
少女の愛らしい頭部を一口に齧り取ろうとした。

「いただき……」

びっしりと牙の生え揃った顎に呑み込まれようとするとき、畢は思った。
もしも夢追の言うような「奇跡」が起こるなら、自分が願うそれは、
夢追にとってのさがみのような物心ついた頃からのヒーローが颯爽と助けに来てくれること。
だから、叫ぶ。

「助けてお兄ちゃああああああああああん――――!!」


「ま……ッ」

絶叫を聴きながらその頭を噛み砕こうとしたとき、腹部に受けた強烈な蹴りに少年は吹き飛んだ。
叩きつけられた壁が陥没し、激しく血を吐いて床に崩れ落ちる。

「がっ……はあっ……」

「動くな」

青い血だまりを作りながら、なんとか立ち上がろうとしたところに、頭上から声が降ってくる。
顔をあげると、男が自分に鋒を突きつけながら、殺意のこもった目で見下ろしている。

「お前、十束学園から脱走した魔人だな? てめえが最後の1人だ」

声にも顔にも憶えがあった。畢と共に時折学園を訪れていた彼女の兄だという男。
ドラゴン化し、戦闘型魔人以上に頑強な肉体は男の前蹴り一発で大ダメージを受けていた。

「大人しく捕まるならこれで終わりにしてやる。でなければ……」

「殺す」とその目が物語っている。
現行犯で相手が魔人なら何も言わずに殺害する魔人警官も多い中、妹を襲った相手に対して驚くほど優しいとも言える。
上から「できる限り生け捕りにしろ」とお達しが来ているからでもあるが。

生死の選択を迫られた少年だが、答えは決まっていた。視線の先、先程一緒にいた少女に抱かれ、ぐったりとした畢。

 催眠によって強制的に「認識」させられた魔人能力。
それに一片の思いれも抱かなかった彼だが畢に出会い、そして会えなくなったとき、それは変わった。
彼女を食うためにこの能力はあるのだと確信した。

 畢を抱く少女が向ける期待のこもった視線には気づかず、少年は動き出す。
全身の強靭なバネを活かし、背中の翼を思い切りはためかせ、跳ぶ、否飛ぶ。

「いただっ……」

3度目になる言葉は2度目より早く中断された。傘術では珍しい斬撃により首から上が胴と切り離されたのである。
宙を舞う竜人の首。食うことの出来なかった少女を、地に落ち意識の途切れる瞬間まで少年は見つめていた

†††††

 その夜、病院の屋上にて、畢と夢追の2人は相合傘をして空を見上げていた。背の高い夢追が修復されたウパナンダを差している。

「今日はホントありがとうね夢追ちゃんっ!」

「ううん、不謹慎だけど、畢ちゃんがさらわれたおかげで素敵なことが出来たし、今も」

あんなことがあったと言うのに畢の「あまんちゅ!」は今も発動していて、雨に含まれるゆとり粒子は闇の中ほんのりと光って見える。
蛍の光よりもずっと弱々しい輝きではあるが、ほぼ真っ暗なこの屋上では淡い光の雨が降るようだ。

「ゆとり粒子って光るんだね」

「そうみたい。あ、そういえば夢追ちゃん……ボクがお漏らししたことは……」

そんなやり取りをしていると古びた屋上のドアがギィっと鳴り、人の気配が1つ現れる。
気配の主は大きな上背を窮屈そうに縮めてドアを通った。

「よぉ、自分から言っといて、遅れて悪いな」

雨弓はそう詫びながら、自分の愛傘を差す。
壁を壊して脱出し、畢を病院へ連れて行き、警察に戻って事後処理に途中まで加わっていたら約束の時間を少々オーバーする形となった。

「平気!ヒーローはちょっと遅れて来るものだもん」

「ヒーローねえ……むしろ夢追ちゃんこそ今日のヒーローさ。あんな『奇跡』が無ければ助けに行くことも出来なかったもんな」

「ふふん、じゃあヒーローへのお礼に、見せてくれますよね? 魔人能力」

「ああ、そのために約束したんだしな」


雨弓は目を閉じ、精神を集中させる。出来るかどうかはわからない。普段なら恐らく出来ないだろう。ただ、

「夢追ちゃん、祈っててくれよ『奇跡』を」

「はいっ!」

 夢追は雨弓が何をしようとしているのかも知らない。でもきっと、素敵な奇跡なのだろう。
見たい、見せて欲しいという思いをこめて、能力を発動させる。
「夢追汽車の終着駅」(ギャラクシー・レールロード・ターミナルケア)×「睫毛の虹」。
普段の「睫毛の虹」の有効射程はせいぜい半径20m程だが、
今彼は上空数千m、見える限りの空を覆い尽くす巨大な水の塊、「雨雲」全体にその能力を行き渡らせようとしていた。

 そして、2秒3秒と時間が過ぎたとき……

「わあっ!」

夢追が歓声をあげる。今空を埋めるのは、雨雲ではなく宝石を散りばめたような星々。
明るい都会の夜空に、夢追中の、いやそう名乗る以前からの原風景が広がっていた。

「すっごく綺麗……」

星空でありながら、雨は降り続いている。
それも、星空を見せられて興奮した畢の「あまんちゅ!」もまた夢追の能力でブーストされ、降り注ぐ雨粒はよりその輝きを増した。
まるで天から零れ落ちた星屑が降り注ぐようだ。雨を司る雨竜院一族ではあるが、これほど目に鮮やかな雨を降らせたことは過去に例が無いだろう。

 夢追は畢にウパナンダを返し、ペンを高速で走らせている。期待していた以上の奇跡に、興奮が止まらない。
雨弓に学が無いためにこの季節では見えるはずの無い星座があったり見えるはずの星座が無かったりしているが、そんなことは気にならなかった。

 この先わずか2ヶ月強、「奇跡」を見ようと思い立ってから6年で、夢追中は命を落とす。
メモに記された、短い生涯には見合わぬ数多の奇跡の中でもこの日のそれはひときわ強く夢追の中で輝いていた。

「(もしかしたらアイツとまた会えたり話せたり、そんな奇跡もあるかもな……)」

奇跡の夜空を見上げ、雨弓は心中で呟いた。

Side 夢追中&雨竜院雨弓&雨竜院畢 end
Next 雨竜院雨雫 VS 花咲雷鳴~~野試合へ続く~~



幕間零れ話外伝~~あの男が残した花の名前を黒幕もまだ知らない~~(by 雨竜院雨雫)


 無間に続く落下地獄。「地獄に落ちる地獄」とでも言えようか。
その下に待つ地獄へと落下落下の2000年。「彼ら」はまだその万分の一も落ちていない。

「オケケ剃らせろ――! オケケ――!」

カンナonカンナ!舘椅子神奈は頭上に跨り、ふわふわと漂いながら美少女が降ってくるのを待っている。
しかし、恐らくこの状態になって数日は経つように思えるが、落ちてくるのはゴミばかりだ。
爺が2人程降ってきたが、それ以外に人間は落ちてこない。しかし神奈はめげない。
2000年落ち続けると聞いたが、こうしてふわふわしている限り時間は永遠だ。
爺が落ちてきたのだから多分そのうち美少女も落ちてくるに違いない。

「早く来いオケケ――!」

ビッチは強く、逞しかった。


 そんな神奈の遥か下数万km――と言っても全体から見れば大した距離では無いが――を不破原拒は絶賛落下中であった。

「ン~~フフ……あんなクズに敗れたのは口惜しいが……」

「研究に没頭する時間が2000年も手に入ったのは喜ぶべきことデスネ」

不破原もまた別の意味で逞しい。
一度朽ち果てたその偉業は復活したどころか更にグレードアップし、
それだけでなく落ちてくるゴミを収集し、如何なる技術力を以ってしてか、
それらを組み上げて怪しげな装置を作り上げているでは無いか。

「まだ理論も何もあったものじゃあアリませんが、この私に2000年……神になるのも時間の問題だネ」

不気味な笑みを浮かべつつ、ドドメ色の脳細胞からは新たなアイディアを湯水の如く沸き出してくる。
そんな彼の意識がふと別なことへと向いた。

「ああ、そういえば1回戦の地獄にもあれこれ実験の成果を残してきましたネ」

「今頃どうなっていることやら……『あの花』のその後を観察できないのが残念ダ」

「まあ、神になったらあの地獄を訪れるなど容易い……」

そう呟くと再びまた神になるための研究へと、この悪魔の科学者は戻ったのである。


――咲き乱れる色とりどりの花々、薄桃色の空を覆い尽くさんばかりの羽虫に大地を蠢く地虫。
美しく、悍ましいお花畑……虫花地獄である。

 ここで既に現世復活の望みを絶たれた2人の亡者が、雀の涙程の救いを求めて野試合を始めようとしていた。

「私は勝つぞ雨弓君……勝って最期に君と」

雨竜院雨雫は空を見上げる。勝って、恋人ともう一度だけ話をしよう。
そうしたら、本当に彼とはお別れだ。
これから先の永劫の時に比べれば彼との再会など刹那であろう。
それでも、その刹那だけでも、今の彼女には何よりの希望に思われた。

「光素さんにかっこいいところを……見せるんだ!」

花咲雷鳴は佐倉光素に渡された鉄のメモ帳を握りしめた。
彼女を少しでも喜ばせられたなら、地獄行きでも報われるというものだ。

 彼らは知らぬ、勝敗に関わらず、その未来に希望など無いということを。
邪悪な笑みを浮かべる三兄弟と佐倉光素が見つめる中、2人の道化が茶番を演じようとしている。

 そして茶番の主たちも知らぬ。劇場の片隅に蠢く、前の演者が残していった痕跡を――。


最終更新:2012年08月14日 11:31