細木綾乃 プロローグSS

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<細木綾乃 プロローグSS>


 自分が何者かわからない。

 わたしには記憶がない。
 だから思い出がない。出自がない。歴史がない。
 つまり、自分がない。

 自分とは過去からつくられる。わたしにはそれがない。

 過去がない。未来もない。
 自我というものがない。
 どうすればいいか、わからない。

 わたしはここに、ただ立っている事しかできないのだ――。

 ◆

 自分が何者かわからない。
 ――なんて、ありふれた悩みだと思うけども。

 自分はどういう人間なのか。自分には何ができるのか。
 時折、そんな疑問が頭のスミにこびりついて離れなくなる。

 滝沢ユリカは下を向いて落ち葉を蹴飛ばしながら、下校の道のりを歩いていた。
 少し寄り道して、普段は行かない公園のほうを通ってみたりする。
 なんとなく、いつもと違う景色が見たい気分だった。そんな日もある。

 いつも通りの道のりを通り過ぎるだけだと、自分の日常は、この陳腐な景色に埋もれて、なかった事になってしまう。そんな気がして。

 ――「何者でもない」。
 きっとそれが答えだ。自分以外の何万人もが、すでに通った答え。

 それが事実。それが正解。
 もう高校生なのだ、ユリカにだってそれはわかっている。
 認めたくないだけだ。この葛藤すら、何万人もがすでに通っているのだろうけど。

 決まった枠からはみ出したくて、制服を着崩して、スカートを折り曲げて、アクセサリーをつけて。それすら「ちょっとガラの悪い女子高生」という枠の範囲内で。

 結局その程度が、滝沢ユリカの限界。何万人もの少年少女と同じ場所に自分はいる。ああ、でも。やっぱりそれを受け入れたくなくて、


 ――細木 綾乃。


 ユリカの思考はそこで中断された。聞いたことのない名前が突然、脳内に現れた。はじかれたように公園のほうを見る。
 そこには少女が立っていた。それが「細木綾乃」だと、ユリカにはわかった。なぜか理解できた。

「…………!?」

 細木綾乃は虚ろな目をして、ただ立っていた。ふわっ、と風がそよぎ、彼女の長い黒髪と白いワンピースの裾をなびかせる。

 ユリカは息を呑んだ。
 とても、美しい少女だった。
 綾乃が何かに気づいたように顔を上げる。視線がこちらを向く。

 目が、合った。

 何が面白いのか、にこり、と綾乃はほほ笑んだ。
 美しい真顔が一転して可愛らしい笑顔に変わり、ユリカは思わず立ち止まった。
 それから三秒ほど、二人は見つめ合い。

「なに? そんなに私に、興味があるの?」

 いつまでも目をそらさない綾乃に対し、ユリカは息をひとつつき、言った。
 そして街灯の下で立ったまま動かない細木綾乃に引き寄せられるように、公園に近づいて行った。

 ◆

「……はじめまして、だよね? 私は滝沢ユリカ」
「そう。……ねえ、私は?」

 自己紹介をしたユリカに、綾乃はおかしな質問をした。

「え?」
「わたしの名前。あなたには、わかるでしょう?」

 聞かれたユリカは少々混乱した。だが、彼女の質問に答えることはできる。
 知っているからだ。

「……細木、綾乃?」
「そう! 綾乃っていうのね! わたしは綾乃。よろしく、ユリカ」
「……ええー」

 なんとも奇妙な自己紹介だった。
 だが、どことなくおかしい会話はこのまま進む。

「え? だって、自分の名前だよね?」
「わたしには、わからないから」
「いやいや。何でそんなポンコツな事になんの? だってあんた、二年前には全国模試で一位とって周囲を騒がせたんでしょう!?」

 それを口にした瞬間、ユリカは強烈な違和感を感じた。

「……え?」
「あはは。わたし、そんな事してたんだ」

 だが、ユリカは今それを「知っていた」。情報がいつのまに、頭の中に現れていた。そして、当の綾乃本人はそれを知らないようだった。

「そう。……わたしは、過去を知らない」

 綾乃が語り出す。だがそれを待つまでもなく、ユリカは理解していた。
 目の前の少女、細木綾乃。十八歳。高校生。特殊能力を持つ「魔人」。
 彼女は……記憶を失っている。自分の過去を知らない。つまり、

「わたしは……『自分が何者かわからない』の」

 ユリカは思わず綾乃のほうを見た。綾乃は変わらず笑っていた。
 その笑みは弱弱しく、儚げな彼女の雰囲気と合わさって、今にも消えてしまいそうだった。彼女は続けた。

「わたしには、わたしがわからない」
「あなたは鏡。あなたは、わたしを教えてくれる。あなたを見れば、わたしがわかる」
「ねえ、少し、わたしとお話してくれる……?」

 消え入りそうな笑みの隙間から除く、深淵のような黒々とした瞳。
 それに見つめられ、ユリカはぐっと息を呑んだ。断れる気はしなかった。

「……うん」

 気が付けば頷いていた。こうしている間にも、細木綾乃の情報は少しづつ、頭の中に流れ込んできていた。

 ◆

 それから、ユリカは綾乃と少し、話をした。
 意外にも綾乃と話すのは楽しかった。流石、高校生ながら落語家として高座に上がった経験を持つ人間は違うな、と思う。

「そっか。じゃあわたし、楽器の経験はないんだね……」
「うん。今の感じだと、なさそう」

「あーあ。『記憶喪失の人間に楽器を渡したらサラリとこなした』なんて、ちょっとロマンチックじゃない」
「そ、そんな事考えてたんだ……あ、でも」

「ん?」
「歌は上手かったみたい。え、レコード会社からスカウト受けた事もあるって……マジで……?」

 ユリカは少し、綾乃がうらやましい、と思った。
 知れば知るほど、彼女はトクベツだった。彼女は明らかに「何者か」だった。
 たまたま今、記憶喪失で「何者でもなく」なっているだけで、彼女自身はしっかりとその素質を持っているのだ。

「いーなぁ。私も記憶喪失になったら、実はインスタのカリスマだったりしないかなぁ……」

 やや不謹慎だとは思いつつ、ついついそんな事を考えてしまう。
 ――それが、いけなかったのだろう。
 ユリカは思考に気を取られていた。


 そのせいで、ブレーキ音に気付くのが一秒遅れた。


「――ユリカ!!」

 彼女を現実に引き戻したのは綾乃の声だった。続けて地面が大きく振動し、キキキキキ、という大げさなブレーキ音が耳に入った。風圧を受け、髪がなびく。
 そして視界をいっぱいに埋めるような、鉄の塊が現れる。

「――え?」

 突然すぎて、リアクションすらまともに取れなかった。
 公園の隣の道路を大きくそれて、トラックがこちらへ接近していた。
 猛烈な速度で近づく車両を前に、無力なユリカができる事は、ぎゅっと目を閉じるくらいだった。
 いよいよ轟音が間近に迫ったその時。腕をぐいっと引かれる感覚があった。

「…………綾乃」

 綾乃が、動いた。その瞬間、ユリカは理解した。


 彼女が動いたならば、もう大丈夫だ。


 人間ひとりを軽々と振り回し、綾乃はユリカをその場から離脱させた。
 しかし逆に、トラックの進路には綾乃が残る事になる。
 時間的にも、彼女が避けるのは間に合わない……そして。

 ――メキィ、と、嫌な音がした。

 目を開けたユリカが見たものは。
 見るも無残にひしゃげた……
 ……トラックのバンパーだった。

「……うそ。止まった……」

 自分自身の力にびっくりするように、綾乃は言った。
 トラックに向かって突き出された彼女の細腕は、片腕でトラックを悠々と受け止めていた。

「こんな力が、わたしに……」
「いやいや」

 そこで、ユリカが口を挟んだ。
 あまりの事態に驚きはしたが、綾乃ならば大丈夫だ。彼女にはそれが理解できていた。

「流石だね」
「……わたしの力が、怖くないの……? わたしは、我ながら、ちょっと怖い」
「ああ。まあ、びっくりはしたけど……」

 不安げに視線をさまよわせる綾乃に、ユリカは笑ってみせた。

「知ってたからね」

 ◆

 警察や野次馬でにぎやかになりつつある公園から、逃げるように離れながら二人は話を続けていた。

「この力を見ても、怯えないなんて……そんな人と会うの、初めて」
「そう?」
「……記憶にある中では、初めて」
「記憶ないんでしょ!?」

 ツッコまれるのと同時、「あはは」と綾乃は笑った。つられてユリカも笑った。
 記憶がなくても、過去がわからなくても、今、この時の感情だけは本物だった。

「……よかった」

 どこか安心したように、綾乃は下を向いて言った。

「何が?」
「わたしは、目の前の人の危機に、ちゃんと動ける人だった。特別な人を、守れる人だった」

 彼女は少し嬉しそうにはにかみ、

「わたしには、わたしの性格もわからない。でも……わたしが悪い人じゃなさそうで、よかった」
「……うん。助けてくれて、ありがとう……ていうか」

 そこで何かに気づいたように、ユリカは綾乃のほうを向いた。

「特別、な人……?」
「うん」

「記憶にある限り、わたしの唯一の友達」
「…………だから、その記憶がないんじゃん」

「……あはははは」
「……あはははは」

 二人は笑い合った。

 ――自分が何者かわからない。
 同じようで違う、違うようで同じ悩みを持った二人。
 ほんの少しだけ、ちょっとだけだけど……答えが貰えた気がした。

「わたしは、あなたの友達」
「うん、私も、あなたの友達だよ」

 ◆

 ひとしきり笑ってから、夕日を背に二人は握手した。
 それは今日の、別れの合図。
 ただし、今日だけの。

 また会おう、と二人は約束した。
 今日の公園に行けば、基本的に綾乃はそこにいるのだという。

「じゃあ、またね」
「うん。また……」

 ばいばい、と手を振って綾乃は去っていった。
 どこか帰る場所でもあるのだろうか?
 まあ、きっと彼女ならなんとかするだろう。

「さ。私も帰るか。遅くなっちゃったな――」

 そうしてユリカもくるりと踵を返した、その時。

「――!?」

 頭の中に流れこんでくる情報があった。
 もちろんそれは、細木綾乃の情報。彼女の過去に、関わる話。

『近く、わたしは戦いに巻き込まれるだろう』
『それが何の戦いなのかはわからない。巻き込まれるのかもしれないし、自ら足を踏み入れるのかもしれない』
『ただ、それは――命を懸けた戦いになる』
『生きて帰れるかはわからない。でも、わたしは――』

 ズキン、と、頭痛をともなう衝撃がユリカの頭に走った。
 なんだろう、この記憶は。綾乃は大丈夫なのか?
 慌てて本人に伝えようかとも思ったが、彼女は既に見えなくなっていた。

 綾乃の去っていったほうに振り向き、ユリカは胸に手を当てて、言葉を風に流した。

「何の戦いか知らないけど……生きて、帰って来てよ?」

 大丈夫。細木綾乃なら、大丈夫なはずだ。
 やたら仰々しい実績ばかりを持ち、破天荒な怪力を持つ彼女なら。

 きっと届かない言葉は、街の喧騒に紛れて消えていった。

「また会おうね。あなたは……私にとっては、ちゃんと『何者か』だよ」


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