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自然科学とはとどのつまり発見である。
つまり、ノーベル賞ものの論文だろうが、ほんの少しだけ生活を豊かにしてくれる発表だろうが、今そこで彼が見つけられなくてもいづれ誰かがどこかで今でない時間に見つけるものだ。
しかし今そこで彼が見つけたものといづれ誰かが見つけるものは同じであり、同じでないパラドックスが起こる。それはそこに小石があるかどうかで後の世界が大きく変わり得る可能性ほど大きなもので、今現在、人間にかわり、爬虫類の知能を持った生物が地球の上を闊歩している可能性ほど小さな差異ではあるけども。
つまるところ頭の良さなどはその程度のもので、それぐらい大きなものだ。
つまり、ノーベル賞ものの論文だろうが、ほんの少しだけ生活を豊かにしてくれる発表だろうが、今そこで彼が見つけられなくてもいづれ誰かがどこかで今でない時間に見つけるものだ。
しかし今そこで彼が見つけたものといづれ誰かが見つけるものは同じであり、同じでないパラドックスが起こる。それはそこに小石があるかどうかで後の世界が大きく変わり得る可能性ほど大きなもので、今現在、人間にかわり、爬虫類の知能を持った生物が地球の上を闊歩している可能性ほど小さな差異ではあるけども。
つまるところ頭の良さなどはその程度のもので、それぐらい大きなものだ。
スポーツやゲームもしくはスポーツゲームは下位の存在である。限られたものの中で戦うからである。その証拠にプロと呼ばれる人は強い人しか残らない。芸術というのはもう少し上位の存在である。限られる範囲が人間の創作範囲であれば限定されない。そして頭のよさというのはさらに上位である。限られる範囲は創作すら要しない、ただ頭で思えばいい。
では弱者というのはどのフィールドで戦うべきなのであろうか?
限定された空間では殺されることはないが生かされることは決してない。なぜならその限定内でルール内で勝者、敗者を競うものが限定された空間の存在理由であるからである。そしてその中で弱者は敗者の役目を負わされるだろう。
非限定の空間では生かされることはあるかもしれないが殺される。なぜなら非限定の空間ではルールなどはない、人より遅れをとってもだれも助けてはくれないし、遅れは自分の意思で取り戻すしかない。常に遅れるというなら意思はいづれ潰えるだろう。強者ですら潰える意思を弱者が保ちつづける話は寓話の中でしか語られない。
では弱者というのはどのフィールドで戦うべきなのであろうか?
限定された空間では殺されることはないが生かされることは決してない。なぜならその限定内でルール内で勝者、敗者を競うものが限定された空間の存在理由であるからである。そしてその中で弱者は敗者の役目を負わされるだろう。
非限定の空間では生かされることはあるかもしれないが殺される。なぜなら非限定の空間ではルールなどはない、人より遅れをとってもだれも助けてはくれないし、遅れは自分の意思で取り戻すしかない。常に遅れるというなら意思はいづれ潰えるだろう。強者ですら潰える意思を弱者が保ちつづける話は寓話の中でしか語られない。
カテゴリ: [日記] - &trackback() - 2005年07月27日 08:05:29
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