「◎わたしの信仰」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

◎わたしの信仰 - (2005/07/12 (火) 12:21:13) のソース

*わたしの信仰 ラインナップ
+父の信仰

コメント
#comment(vsize=2,nsize=20,size=40)
   ↑ご自由にコメントをお書き下さい。

*父の信仰
ぜんぜん授業に出ない、不真面目な学生であった僕は、成績「優」をとったことがほとんどなかった(四半世紀前のことです)。特に、教養時代は、たぶん、ひとつしか取れなかった。そのたった一つの「優」は、社会学の講座でもらったものだ。その講座は試験ではなくレポートのみで評価された。僕の提出したレポートの題名は、「創価学会の倫理と復興期の精神」というものだった。
もちろん、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を下敷きにしたもので、加えて、日本思想史の丸山学派の重鎮・神島二郎の『近代日本の精神構造』の影響のもとに書いたものだ。
その原稿は、もう手元にはないが、思い返してみるに、それは自分の父と信仰との関わりを考察したものだった。
父は、和歌山で最初期に創価学会に入信した一人だ。シベリアに抑留されている間に、たった一人の肉親である父親を亡くしていた彼の故郷は、高野山のお膝元。遠い親戚を頼って和歌山市に一人出てきて、商売を始めた。学会員から、日蓮が言った「真言亡国」という一言を聞いてぴんと来て、即座に入信した。「真言亡国」とは、真言宗を信仰すると、国を滅ぼす、お家が立たない、という意味だ。彼は、若くして、亡国と喪家の危機を経験していた。彼の最大唯一の願いは、先祖に最高の追善供養をすることと、自分の子孫の繁栄だった。健康には恵まれ、貧乏や世間体を気にする人ではなかったから、ただひたすら、家族のために働き、信仰に励んだ。
神島二郎によると、近代日本人の宗教的エートスは先祖崇拝だ。それが世俗化して家族主義・立身出世主義になり、日本の近代化・資本主義化を支えた。父の場合は、学会に改宗しても、根本のエートスとして祖先・家を大切に思う気持ちは変ることがなかった。改宗によってそれがかえって励起され、「最高の先祖供養」が学会活動である、という形で持続し、それが結果的に、家の再興=現世的がんばりに結びついたのであった。

とまあ、こんなことを書き飛ばしたと記憶する。
子供5人は健康に育ち、教育もつけさせた。自分の家の名前を継ぐ男子も二人(男の子がほしかったので、子供がんばって5人もつくっちゃった。上3人が女だったので)。父にとっては、それで大願成就・所願満足だった。
父は、地区部長だったある時期に、学会の財務と選挙活動のことで不審を持ち、組織活動をぴたりをしなくなった。週刊誌などの学会批判記事をよく読み、「このなかの半分くらいは事実だよ」と家族に語っていた。家庭指導に来る学会員とは、にこにこしながら論争していた。
学会が宗門から破門されたとき、父よりほんの先に入信した草創の同志(まさに和歌山の二つ種!)が、宗門につけと、誘いに来た。すると父は、言下に、「わしは、学会につく」と言ったという。
不思議な人だ。その理由を聞き出すことももう今は、無理だと思う。
目安箱バナー