「――娘はこの薬で助かるんだな」
こんなに、たかがアンプル程度を大事に握り締めた事があっただろうか。
私は乾ききった喉から、搾り出すようにそう呟いた。
何かを恨んでいるような、疲れているような声は、初めて聞いたような気がした。
「はい。 間違いなく」
眼鏡に黒髪の男は、僅かに笑みを湛えながら私にそう返してきた。
初対面の印象は、「底知れない」。――優しげなようで、冷たい男だ。或いは水の中に差し込む陽の光のように、ゆらゆらとその印象は変わっていた。そこが、底知れぬという。
「臨床実験も何度したことか覚えてないぐらいだな! さっすがわたし!天才!」
「流石っすねリーダー!そんな回数も覚えられないんですね!」
「減給だばーか!」
……私は、世界的、とは言えないかもしれないが――曲がりなりにも国内有数、大企業のCEOを努めている。
責任ある立場。奮う権力。社会的な責務と権威は、紙一重に私の栄光を飾っていたのに、
何でこんな、「こんな連中」と会話をなければならないのか。
私が求めていたのは理性的で高尚な会話だったし、こんなバカどものコンタクトなど、気にも止めずにいれる筈だったのに。
「とにかくさぁー、 ん、 あかないー。ぐぬぬぬぬ……っ」
眼の前の少女と男はいつのまにか言い争いを辞め、少女の方はといえば、何処からか取り出したスナック菓子の袋を開けようと悪戦苦闘しながら、
「娘を助けたいんだろー?」
ぱりっ。びりびり、ぱりっぽり。
暗い私室の空気が重く、永遠のように感じられた。
「――その為に、お前らの様な連中と会っているんだろうがッ!」
ガキャンッ。
鋭い音を立てて、机の上にあったガラスの写真立てが落ちた。
怒りに任せて叩き付けた拳は鈍く痛む。
「この、下劣で、底辺の、反社会者の、テロリスト風情が!」
ガラスは割れていた。割れたガラスの向こうには、微笑む私と私の家族の写真があった。
…これを取り戻せさえ、すれば。
「貴方のご息女は、レネゲードウィルスの過剰活性状態――ジャーム化のモラトリアムを抜けました。 そして」
「やめろ」
ぽりっ、ぽりっ。
「途端に母親と兄貴を食い殺しちまった。あーあー」
「― やめろッッ!!」
「うわー……リーダー、こいつマジで怒ってますよ、いやそりゃ辞めといた方が良いですって。鈴木さんもそこまで煽らなくたってー」
「えー、わたし、時間かけるの嫌いなんだよ。 いいかあ?このばか。」
ぱりっ。小気味善い音を立ててスナック菓子を齧る少女は続けた。
その海苔塩に塗れた指を指揮棒の様に悠々と揺らしながら、
「お前の娘はバケモノだ。 お前の娘は”バケモノどもの組織A”によって抹殺対象としてターゲットされた。」
ぱり。
「ん゛ーらから、ぱりぼり、んがぐぐ…」
「リーダーリーダー、はい桃天然水」
「んがぶはー。 ふぅ~…。」
無理やりにスナック菓子を甘いジュースで流し込んだ幸せに、つやつやとご機嫌な様子で、その少女は続けた。
「お前の娘では組織Aには逆立ちしたってかてーん。ターゲットを解除させる事もふかのー。で、お前は、それでも。バケモノの娘を助けたい。」
ぱりっ。
「ごきゅごきゅごきゅ…。 …だから私達組織Bが娘を助けてやる。代わりにパトロンになってもらう。これで文句なしでみーんなへーわだな!いっけんらくちゃーーく。」
不愉快な物言いにまた頭に血が上った私は、思わず拳を振り上げかけたのだが、
「断るなよ?」
止まった。
「お前もあの娘も死ぬ。誰もお前たちの事なんて気に止めない。冷たい石にお情けで名前を書いてもらうだけで、マスコミどもは大企業の社長一家の最期を好きにに書き立てるだろーな。お前たちがどんなに猟奇的な家庭だったかを、貧乏人どもは妬みで信じ込む。後お前たちの事なんて私にとっては路傍の砂金ぐらいにしか、考えてないぞ。掬う手間を省かせろよ。私の腕に飛び込んで見せろ。さもなきゃ蹴散らすぞ?」
少女は笑ったまま、ぼふり、と、客用のもっふりとしたソファーに飛び込んだ。
くすくすくすと笑いながら、
「そんなの、やだろー?」
もうスナック菓子を齧る音は、聞こえない。
もうからっぽだった。
アンプルの碧が、手の中で揺れた。
少女の部下が運転する車内。
どうせ一瞬で移動できるのにしないのは、ちょっとした買出しも兼ねてである。
K市へと高速を急ぎながら、運転手――田中は上機嫌で、後部座席に話し掛けた。
「いやーリーダー、これでバッチシ資金源確保っすねー」
「おうよ! にしても、なあんでこんなC町くんだりまで来なきゃならんのだああ。これもあのK市のアホバカUGNどもが強過ぎるからだこんちくしょーパリパリッ…」
「あぁー!車内でポテチはやめてっつったじゃないですかー!掃除大変なんすよー!」
「るせーなあぁ」
それでも少女はぱりぱりと菓子を食うのをやめない。欠片が紺の座席や足元に零れまくる。
和気藹々とした車内で、これはテロリスト――FH、オルフェウス一味の一幕である。
正義の味方からすると、多分「何時もどおりの光景」である。
「にしても、」
田中がふと喚くのをやめ――少女の説得なんてどうせ無理だから。
「こんなにちょろくていいんすかねー」
「 あの薬、どうせただの鎮静剤なんだけどな。定期的にやりゃあ無力化はできるだろー。娘が過剰摂取で死ぬか、薬が切れて暴れまわるかもしれねーけどなー」
「…やー…。人の絆ってのは馬鹿にできないっすね。あんなもんに大金積むなんて、よっぽど追い詰められてたんすかね」
「そりゃな?。幾らでも払うだろー?」
ぽり。 ふと菓子を食う手を止める。
「――家族の為なんだから。」
少女の笑みが少し意味ありげなものになったが、
「そうっすねぇぇぇ! 俺もハードディスクの中身保護の為なら10か20は出せますし!あははははは」
運転手の男は気付かない。
少し溜息のようなものを少女はついて――いつも通りに笑う。
気付かれないがこれでいい。これでプラン通り。いつもの日常。
「大切なもののためなら、人は何をしたっていとわないもの。私達はそれを食い物にするくそ外道さ」
少女の隣席の男――鈴木はいつもただ、薄笑みを浮かべてその喧騒を見守るだけなのだが――一言。
「……お優しいのですね。」
続ける。
「存外、驚愕致しました。」
「………」
隣の男の反応に、少女は少し驚いたような、怪訝そうな表情を浮かべた。
その後、いつも通りの表情で。
「…あァ!? 人の話きいてたのかてめー!」
「うっわーーー、鈴木さんが喋ってるー! こらお赤飯だわ」
「赤飯…あっ、そういや豆食べたいな。帰りおはぎ買ってこうぜー」
「いいっすねー!うひょー」
「では久しぶりに、私にお任せ頂けませんか?」
「まままマジかー!?」
「あの三次元の海原雄山、丁寧な鉄鍋のジャンと言われた鈴木さんの手作りなんて!うひょーー!そのまま美少女になってくれたら最高っすよ!」
このテンションの火の付き具合も、このセルの日常。
鈴木は薄く笑って、
「考えておきます。」
そう呟いた。
最終更新:2011年04月28日 13:49