※注意事項 元号表記は西暦を補足するが、月日は旧暦のまま。
※注意事項 生年について直接の資料は無いが(没年-死亡年齢+1(数え年の調整))で算出した。
※注意事項 出典は幕府史料>藩史料>地域史料>その他の順で優先する。
※注意事項 兄弟、子息など、改名などで判らず重複する可能性はある。
※注意事項 現代語訳の間違い誤記等の存在は否定できない。



石谷清定 (五郎大夫)(いしがや きよさだ)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】五郎大夫(新訂寛政重修諸家譜)、五郎太夫(石ヶ谷家家系図
【生年】天文16年(1547年)(逆算)
【没年】慶長6年5月2日(1601年)(新訂寛政重修諸家譜
【寿命】55歳(新訂寛政重修諸家譜
【知行】250石(武蔵国多摩郡)(新訂寛政重修諸家譜
【官位】
【役職】大番(新訂寛政重修諸家譜
【属性】徳川家康の配下、旗本(新訂寛政重修諸家譜
【実父】石谷政清(新訂寛政重修諸家譜
【実母】
【義父】
【妻室】今川家家臣久嶋與平の娘(新訂寛政重修諸家譜
【後妻】
【兄弟】入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重(新訂寛政重修諸家譜)、高天神城城主小笠原与八郎の妻(石ヶ谷家家系図
【子息】石谷清平、野間与五右衛門政次の妻、久嶋權右衛門の妻、石谷清正、石谷貞清(新訂寛政重修諸家譜
【養子】
【法名】道無(新訂寛政重修諸家譜
【略歴】
遠江国で生まれる。(干城録
元亀2年3月10日(1571年)、石谷政清、石谷政信とともに徳川家康に仕え、大番となった。(新訂寛政重修諸家譜
天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封に従い、武蔵国多摩郡に領地250石を賜った。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】
石谷清定 (五郎大夫)の子孫は代々雲松山泉龍寺を菩提寺とした。(新訂寛政重修諸家譜



石谷清平(いしがや きよひら)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】久五郎(新訂寛政重修諸家譜
【生年】
【没年】文禄元年5月10日(1593年)(新訂寛政重修諸家譜
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】徳川家康の配下(新訂寛政重修諸家譜
【実父】石谷清定 (五郎大夫)(新訂寛政重修諸家譜
【実母】今川家家臣久嶋與平の娘(新訂寛政重修諸家譜
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷清平、野間与五右衛門政次の妻、久嶋權右衛門の妻、石谷清正、石谷貞清(新訂寛政重修諸家譜
【子息】
【養子】
【法名】道雲(新訂寛政重修諸家譜
【略歴】
遠江国で生まれる。(干城録
文禄元年(1593年)、徳川家康に仕え、供として肥前国名護屋に赴いた。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】



石谷清正(いしがや きよまさ)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】友之助、清政(新訂寛政重修諸家譜
【生年】天正16年(1588年)(逆算)
【没年】明暦2年10月13日(1656年)(新訂寛政重修諸家譜
【寿命】69歳(新訂寛政重修諸家譜
【知行】1100石(武蔵国多摩、上総国武射、下総国香取、甲斐国山梨)(新訂寛政重修諸家譜
【官位】
【役職】御小姓、御徒頭(新訂寛政重修諸家譜
【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜
【実父】石谷清定 (五郎大夫)(新訂寛政重修諸家譜
【実母】今川家家臣久嶋與平の娘(新訂寛政重修諸家譜
【義父】
【妻室】尾張徳川家家臣松井石見の娘(新訂寛政重修諸家譜
【後妻】
【兄弟】石谷清平、野間与五右衛門政次の妻、久嶋權右衛門の妻、石谷清正、石谷貞清(新訂寛政重修諸家譜
【子息】石谷清亮(新訂寛政重修諸家譜
【養子】
【法名】宗淳(新訂寛政重修諸家譜
【略歴】
遠江国で生まれる。(干城録
慶長7年(1602年)、15歳の時に父である石谷清定 (五郎大夫)の跡を継ぎ、徳川家康に仕え御小姓となる。(新訂寛政重修諸家譜
御徒頭となる。(新訂寛政重修諸家譜
元和2年(1616年)、徳川秀忠に仕え、また徳川家光に仕える。(干城録
寛永10年12月27日(1634年)、500石を賜る。(新訂寛政重修諸家譜
寛永16年5月13日(1639年)、致仕する。(新訂寛政重修諸家譜
致仕する前に350石を賜っており、武蔵国多摩、上総国武射、下総国香取、甲斐国山梨四郡の知行地で合計1100石を所領とした。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】



石谷清亮(いしがや きよみつ)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】清充(寛永諸家系図伝)、七之助、清明(新訂寛政重修諸家譜)、清光(干城録
【生年】元和2年(1616年)(逆算)
【没年】元禄8年1月27日(1695年)(新訂寛政重修諸家譜
【寿命】80歳(新訂寛政重修諸家譜
【知行】
【官位】
【役職】小姓組番士、進物役、屋敷改、小普請(新訂寛政重修諸家譜
【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜
【実父】石谷清正(新訂寛政重修諸家譜
【実母】尾張徳川家家臣松井石見の娘(新訂寛政重修諸家譜
【義父】
【妻室】中山勘解由直定の娘(新訂寛政重修諸家譜
【後妻】
【兄弟】石谷清亮(新訂寛政重修諸家譜
【子息】高木忠右衛門定清の妻、五味藤九郎豊旨の妻、石谷清信、石谷清長、石谷十兵衛清宗(新訂寛政重修諸家譜
【養子】
【法名】了休(新訂寛政重修諸家譜
【略歴】
尾張国で生まれる。(干城録
寛永10年8月15日(1633年)、小姓組番士となる。(新訂寛政重修諸家譜
寛永20年6月9日(1643年)、進物役となる。(新訂寛政重修諸家譜
明暦2年12月21日(1657年)、父である石谷清正の家督相続。(新訂寛政重修諸家譜
万治3年12月31日(1661年)、以前に増上寺の知恩院の庵室を作る時に奉行となった褒賞として、時服三領、黄金二枚を賜る。(新訂寛政重修諸家譜
寛文3年(1663年)、進物役を解かれる。(新訂寛政重修諸家譜
寛文8年7月1日(1668年)、寛文8年(1668年)に京極高盛が但馬国豊岡へ転封となった事に関連して、同地に命令を受けて行く。(新訂寛政重修諸家譜
寛文11年2月(1671年)、屋敷改を勤める。(新訂寛政重修諸家譜
延宝元年7月7日(1673年)、屋敷改を解かれる。(新訂寛政重修諸家譜
貞享元年11月25日(1684年)、小普請となる。(新訂寛政重修諸家譜
元禄7年7月10日(1694年)、致仕。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】



石谷清信(いしがや きよのぶ)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】九八郎(新訂寛政重修諸家譜
【生年】正保3年(1646年)(逆算)
【没年】元禄9年4月15日(1696年)(新訂寛政重修諸家譜
【寿命】51歳(新訂寛政重修諸家譜
【知行】
【官位】
【役職】書院番(新訂寛政重修諸家譜
【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜
【実父】石谷清亮(新訂寛政重修諸家譜
【実母】中山勘解由直定の娘(新訂寛政重修諸家譜
【義父】
【妻室】浅野民部氏恒の娘(新訂寛政重修諸家譜
【後妻】
【兄弟】高木忠右衛門定清の妻、五味藤九郎豊旨の妻、石谷清信、石谷清長、石谷十兵衛清宗(新訂寛政重修諸家譜
【子息】石谷清職の妻、石谷清定 (兵四郎)の妻(後に蜂屋豊後守貞廷の妻)(新訂寛政重修諸家譜
【養子】石谷清職(娘婿)(新訂寛政重修諸家譜
【法名】宗聖(新訂寛政重修諸家譜
【略歴】
寛文6年(1666年)、徳川家綱に拝謁する。(新訂寛政重修諸家譜
寛文7年11月21日(1668年)、書院番となる。(新訂寛政重修諸家譜
元禄7年7月10日(1694年)、父である石谷清亮の家督相続。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】



石谷清職(いしがや きよもと)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】杢之助、眞元(新訂寛政重修諸家譜
【生年】寛文9年(1669年)(逆算)
【没年】享保6年9月23日(1721年)(新訂寛政重修諸家譜
【寿命】53歳(新訂寛政重修諸家譜
【知行】(甲斐国山梨?→駿河国有渡、安倍へ領地替)
【官位】布衣(新訂寛政重修諸家譜
【役職】書院番番士、使番、御目付、二ノ丸留守居、御先銕炮頭(新訂寛政重修諸家譜
【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜
【実父】永井彦兵衛元孝(新訂寛政重修諸家譜
【実母】玉虫助大夫重茂の娘(新訂寛政重修諸家譜
【義父】石谷清信(新訂寛政重修諸家譜
【妻室】石谷清信の娘(新訂寛政重修諸家譜
【後妻】堀織部利安の娘(新訂寛政重修諸家譜
【兄弟】石谷清職の妻、石谷清定 (兵四郎)の妻(後に蜂屋豊後守貞廷の妻)(義妹)(新訂寛政重修諸家譜
【子息】石谷清胤、堀織部利安の養女、石谷清候、松平太郎親元の妻(新訂寛政重修諸家譜
【養子】
【法名】道起(新訂寛政重修諸家譜
【略歴】
永井彦兵衛元孝の4男として生まれる。(新訂寛政重修諸家譜
元禄9年7月9日(1696年)、養父である石谷清信の家督相続。(新訂寛政重修諸家譜
元禄9年8月13日(1696年)、徳川綱吉に御目見。(新訂寛政重修諸家譜
元禄16年3月9日(1703年)、書院番番士となる。(新訂寛政重修諸家譜
宝永2年(1705年)、甲斐国の領地を駿河国有渡安倍二郡へ移される。(新訂寛政重修諸家譜
宝永3年1月27日(1706年)、元禄赤穂事件により諏訪忠虎のところで幽閉されていた吉良義周(吉良義央の孫)が病死したため、信濃国諏訪に赴き検使を務めた。(新訂寛政重修諸家譜
宝永5年7月25日(1708年)、使番となる。(新訂寛政重修諸家譜
宝永5年12月18日(1709年)、布衣を許される。(新訂寛政重修諸家譜
宝永7年1月11日(1710年)、御目付となる。(新訂寛政重修諸家譜
正徳元年7月18日(1711年)、評定所での勤務を賞され端物二端を賜る。(新訂寛政重修諸家譜
正徳4年1月11日(1714年)、二ノ丸留守居となる。(新訂寛政重修諸家譜
享保元年3月22日(1716年)、御先銕炮頭となった。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】



石谷清胤(いしがや きよたね)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】友之助(新訂寛政重修諸家譜
【生年】元禄9年(1696年)(逆算)
【没年】享保14年9月24日(1729年)(新訂寛政重修諸家譜
【寿命】34歳(新訂寛政重修諸家譜
【知行】
【官位】
【役職】書院番番士(新訂寛政重修諸家譜
【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜
【実父】石谷清職(新訂寛政重修諸家譜
【実母】石谷清信の娘(新訂寛政重修諸家譜
【義父】
【妻室】倉橋内匠助久富の娘(新訂寛政重修諸家譜
【後妻】
【兄弟】石谷清胤、堀織部利安の養女、石谷清候、松平太郎親元の妻(新訂寛政重修諸家譜
【子息】
【養子】石谷清候(新訂寛政重修諸家譜
【法名】自性(新訂寛政重修諸家譜
【略歴】
宝永6年9月28日(1709年)、徳川家宣に御目見。(新訂寛政重修諸家譜
享保6年11月28日(1722年)、父である石谷清職の家督相続。(新訂寛政重修諸家譜
享保9年10月9日(1724年)、書院番番士となる。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】



石谷清候(いしがや きよとも)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】七十郎、七之助(新訂寛政重修諸家譜
【生年】宝永5年(1708年)(逆算)
【没年】享保20年10月27日(1735年)(新訂寛政重修諸家譜
【寿命】28歳(新訂寛政重修諸家譜
【知行】
【官位】
【役職】小姓組(新訂寛政重修諸家譜
【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜
【実父】石谷清職(新訂寛政重修諸家譜
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石谷清胤、堀織部利安の養女、石谷清候、松平太郎親元の妻(新訂寛政重修諸家譜
【子息】
【養子】石谷清馨(新訂寛政重修諸家譜
【法名】了輝(新訂寛政重修諸家譜
【略歴】
享保14年12月2日(1730年)、死亡した兄である石谷清胤の家督相続。(新訂寛政重修諸家譜
享保15年4月1日(1730年)、徳川吉宗に御目見。(新訂寛政重修諸家譜
享保20年7月12日(1735年)、御小姓組に列した。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】
父の石谷清職は永井彦兵衛元孝の子であり、母は不明のため、石谷氏の血が繋がっているかは不明。(図書助論考)
養子である石谷清馨は、同族で700石旗本の石谷清夤の子である。(新訂寛政重修諸家譜



石谷清馨(いしがや きよか)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】八十次郎(新訂寛政重修諸家譜
【生年】享保9年(1724年)(逆算)
【没年】明和7年3月23日(1770年)(新訂寛政重修諸家譜
【寿命】47歳(新訂寛政重修諸家譜
【知行】
【官位】
【役職】西ノ丸書院番、進物役(新訂寛政重修諸家譜
【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜
【実父】石谷清夤(新訂寛政重修諸家譜
【実母】新井白石の娘(新訂寛政重修諸家譜
【義父】石谷清候(新訂寛政重修諸家譜
【妻室】能勢惣十郎頼以の娘(新訂寛政重修諸家譜
【後妻】高嶋近江守廣行の娘(新訂寛政重修諸家譜
【兄弟】石谷清盈、銕次郎、女子、石谷清馨(石谷清候の養子となる)、兵三郎、石谷清茂、石谷清憐(兄の石谷清馨の養子となる)(新訂寛政重修諸家譜)
【子息】
【養子】石谷清憐(新訂寛政重修諸家譜
【法名】有道(新訂寛政重修諸家譜
【略歴】
石谷清夤の3男として生まれる。(新訂寛政重修諸家譜
享保20年12月22日(1736年)、養父である石谷清候の家督相続。(新訂寛政重修諸家譜
宝暦2年年8月13日(1752年)、西ノ丸書院番となる。(新訂寛政重修諸家譜
宝暦6年10月13日(1756年)、進物役となる。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】
父の石谷清夤は700石旗本で、その先祖は石谷清定 (五郎大夫)。(新訂寛政重修諸家譜
石谷清定 (五郎大夫)→石谷清正→石谷清亮→石谷清長→石谷清夤→石谷清馨(図書助論考)



石谷清憐(いしがや きよとも)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】大助(新訂寛政重修諸家譜
【生年】延享3年(1746年)(逆算)
【没年】寛政8年9月4日(1796年)(新訂寛政重修諸家譜
【寿命】51歳(新訂寛政重修諸家譜
【知行】
【官位】
【役職】書院番(新訂寛政重修諸家譜
【属性】旗本(新訂寛政重修諸家譜
【実父】石谷清夤(新訂寛政重修諸家譜
【実母】
【義父】石谷清馨(新訂寛政重修諸家譜
【妻室】土岐大隅守頼常の娘(新訂寛政重修諸家譜
【後妻】
【兄弟】石谷清盈、銕次郎、女子、石谷清馨(石谷清候の養子となる)、兵三郎、石谷清茂、石谷清憐(兄の石谷清馨の養子となる)(新訂寛政重修諸家譜)
【子息】石谷清英の妻(後に石谷清暠の妻)、女子、女子、女子(新訂寛政重修諸家譜
【養子】石谷清英、石谷清暠(新訂寛政重修諸家譜
【法名】松道(新訂寛政重修諸家譜
【略歴】
石谷清夤の6男として生まれる。(新訂寛政重修諸家譜
兄の石谷清馨が重病のため、その養子となる。(新訂寛政重修諸家譜
明和7年6月5日(1770年)、兄である石谷清馨の家督相続。(新訂寛政重修諸家譜
安永4年4月14日(1775年)、書院番となる。(新訂寛政重修諸家譜
安永5年4月(1776年)、徳川家治の日光社参に従う。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】
父の石谷清夤は700石旗本で、その先祖は石谷清定 (五郎大夫)。(新訂寛政重修諸家譜
石谷清定 (五郎大夫)→石谷清正→石谷清亮→石谷清長→石谷清夤→石谷清憐(図書助論考)



石谷清英(いしがや きよふさ)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】重固、英次郎(新訂寛政重修諸家譜
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】旗本(寛政譜以降旗本家百科事典
【実父】牧野主税成融(新訂寛政重修諸家譜
【実母】
【義父】石谷清憐(新訂寛政重修諸家譜
【妻室】石谷清憐の娘(新訂寛政重修諸家譜
【後妻】
【兄弟】石谷清英、※石谷清暠、石谷清英の妻(後に石谷清暠の妻)、女子(義妹)、女子(義妹)、女子(義妹)(新訂寛政重修諸家譜
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
永井飛騨守直期の4男である牧野主税成融の子として生まれる。(新訂寛政重修諸家譜
石谷清憐の養子となりその娘を妻としたが、石谷清憐に先立って死ぬ。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】
石谷清憐の娘は石谷清英を婿としたが夫が早世したため、新たに石谷清暠を婿とした。(新訂寛政重修諸家譜



石谷清暠(いしがや きよあき)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】庄之助(新訂寛政重修諸家譜
【生年】明和7年(1770年)(逆算)
【没年】
【寿命】
【知行】1100石(駿河国、武蔵国、上総国、下総国)(寛政譜以降旗本家百科事典
【官位】
【役職】
【属性】旗本(寛政譜以降旗本家百科事典
【実父】神田數馬正之(新訂寛政重修諸家譜
【実母】
【義父】石谷清憐(新訂寛政重修諸家譜
【妻室】石谷清憐の娘(新訂寛政重修諸家譜
【後妻】
【兄弟】※石谷清英、石谷清暠、石谷清英の妻(後に石谷清暠の妻)、女子(義妹)、女子(義妹)、女子(義妹)(新訂寛政重修諸家譜
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
神田數馬正之の4男として生まれる。(新訂寛政重修諸家譜
石谷清憐の死の間際に養子となり、その娘(石谷清英の未亡人)を妻とする。(新訂寛政重修諸家譜
寛政8年12月3日(1796年)、27歳の時、養父である石谷清憐の家督相続。(新訂寛政重修諸家譜
寛政9年2月9日(1797年)、徳川家斉に御目見。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】
石谷清憐の娘は石谷清英を婿としたが夫が早世したため、新たに石谷清暠を婿とした。(新訂寛政重修諸家譜
石谷清暠の家系の家督について、『寛政譜以降旗本家百科事典』に拠れば『弘化5年武鑑』において、石谷主水(小姓組)を父とする石谷清倚が相続している。(寛政譜以降旗本家百科事典
石谷清暠と石谷主水が同一人物であるか否かは不明である。(図書助論考)



石谷清倚(いしがや せいき)(寛政譜以降旗本家百科事典

【呼称】友之助(寛政譜以降旗本家百科事典)、友助、大助(寛政譜以降旗本家百科事典
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】1100石(駿河国、武蔵国、上総国、下総国)(寛政譜以降旗本家百科事典
【官位】
【役職】西ノ丸書院番、使番、寄合(寛政譜以降旗本家百科事典
【属性】旗本(寛政譜以降旗本家百科事典
【実父】?石谷主水(寛政譜以降旗本家百科事典
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】
【養子】石谷帯刀(寛政譜以降旗本家百科事典
【法名】
【略歴】
天保15年1月11日(1844年)、西ノ丸書院番より使番となる。(寛政譜以降旗本家百科事典
嘉永元年5月27日(1848年)、職を辞す。(寛政譜以降旗本家百科事典
安政元年(1855年)、寄合であったという。(寛政譜以降旗本家百科事典
明治元年5月(1868年)、上野戦争において狛江市和泉村を知行していた石谷清倚が、入間村の御用商人油屋清兵衛の道案内を受け、菩提寺の泉龍寺まで退去した。(狛江市役所
【備考】
寛政譜以降旗本家百科事典』に拠れば、石谷清倚は石谷清暠の家系の家督相続をしているが、父は石谷主水(『弘化5年武鑑』)となっている。石谷清暠が主水を称したかどうか不明であり、或いは石谷清暠の子に石谷主水というものが居たのか不明のため、その関係は不明である。(図書助論考)
『石田家資料』によれば、石谷清倚の後は大助清寧-鉄之介清成-良次郎正雄-倉太郎-潔-清隆と続くが、大助清寧が帯刀の事かは不明である。(図書助論考)



石谷帯刀(いしがや たてわき)(寛政譜以降旗本家百科事典

【呼称】主水(寛政譜以降旗本家百科事典
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】1100石(駿河国、武蔵国、上総国、下総国)(寛政譜以降旗本家百科事典
【官位】
【役職】小普請、小姓組、中奥番(寛政譜以降旗本家百科事典
【属性】旗本(寛政譜以降旗本家百科事典
【実父】丹羽空閑斉(寛政譜以降旗本家百科事典
【実母】
【義父】石谷清倚(寛政譜以降旗本家百科事典
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
安政3年7月26日(1856年)、家督相続、小普請に入る。(寛政譜以降旗本家百科事典
安政5年5月29日(1858年)小姓組に入る。(寛政譜以降旗本家百科事典
万延元年12月11日(1861年)、に中奥番となる。(寛政譜以降旗本家百科事典
年代不詳であるが、『元治元年武鑑』では御役御免になったとされる。(寛政譜以降旗本家百科事典
【備考】
寛政譜以降旗本家百科事典』に記載の(実祖父)丹羽式部少輔・大阪使番(大名)、(実父)丹羽空閑斉、は、祖父が三草藩藩主の丹羽氏栄、父は丹羽氏栄の養子の丹羽氏福ということであろうか。また、(養祖父)石谷主水・小姓組、(養父)石谷友助・寄合については、養父が石谷清倚であろう。年齢についても申49歳の記載はあるが、いつの時点の年齢か不明。wikipediaの丹羽氏福の項に、その十男として石合清敦の記載があるが、石谷帯刀の事であろうか。(図書助論考)



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最終更新:2022年11月08日 02:06