【ふるさと探訪 掛川の古城址 (林隆平) 昭和54年10月1日】
P131~
石谷氏と西郷氏の城砦
所在地 掛川市字 美人ヶ谷
字 滝ノ谷
創築年代 応仁年間(一四六七―六八)
創築者 西郷氏・石谷氏
形式 山城・館
遺構 曲輪・土塁・空堀
関係文献
掛川誌稿・姓氏家系大辞典・寛政重修諸家譜・家康文書
地理的考察
標高五一四㍍の粟ヶ岳を基点とする山脈が松葉の里から桜木の知連山中へと、掛川市内の北部を東西に継断しているが、上西郷にある美人ヶ谷城と滝ノ谷城は、その支脈が舌状に南に延びて比高七〇㍍ほどの丘陵を成している先端にある。
口碑に前者を「シロノダン」と称し、後者を「ジョウヤマ」と呼ぶ地誌にも記録されていない創築期も城主もさだかでない城址である。したがって地名に基づき表記のように仮称する。城址は掛川の市街地から北方へ約四キロ、掛川駅前から居尻行きのバスに乗ると約十五分で美人ヶ谷のバス停に着く。滝ノ谷は更にそれから五分である。
「国土地理院」の地図「掛川(二万五千)」で美人ヶ谷城は東径一三八度一分三秒、北緯三四度四八分四五秒、滝ノ谷城は東径一三八度一分一三秒、北緯三四度四九分一一秒に位置している。
上西郷地域には、字石畑を中心として北から西南にかけて約八〇〇㍍の扇状を描いて、この地域に輩出したと伝える土豪達に関する遺跡が「遺跡分布図」に示したように数ヶ所点在している。
即ち、北方八〇〇㍍に美人ヶ谷城があり、その山麓には石谷氏の宅跡と伝える殿垣戸がある。美人ヶ谷城の北側八〇〇㍍には滝ノ谷城があってその北側山麓に、西郷の局の両親という西月祐泉と玉窓妙全大姉の位牌を祀る曹溪山法泉寺がある。石畑の北西五〇〇㍍には石谷、西郷両氏が出自の祖という二階堂氏の館址と伝えるところに二階堂神社がある。その西北四〇〇㍍に石谷氏の家紋石という九個の巨石が存在する石谷の里である。
西南に廻って五〇〇㍍の北袋にある構江の公会堂附近を西郷の局の屋敷址という。その西側の西郷川を隔てて二〇〇㍍の処に平塚山古墳があって、地元では此処を『武徳編年集成』に録されている西郷清員が築いた古要の砦と称している。平塚山の東南山麓には観音寺の廃寺址があり、此処にも西郷の局の父や石谷十蔵の位牌が祀られていたと伝える。
観音寺から南に四〇〇㍍字構江には石谷氏の屋敷址と伝える石田氏の宅地内に、石谷氏の霊を祀る「霊栄大明神」の廟がある。霊廟から二五〇㍍南には、天正二年(一五七四)の高天神城落城のとき城兵の中に名をとどめている糟屋善左衛門則高の子孫といわれる粕谷氏の屋敷がある。
このように石谷、西郷両氏に関連する遺跡が数多く交差している上に、西郷氏を三河の出自とする説が所伝の奥深くに浸透していて、事跡と遺跡の分類解明が難しい現状にある。
史料の考察
二階堂氏の考察
美人ヶ谷城と滝ノ谷城に関する事跡を知るには所伝の多い石谷、西郷氏の事跡を検討するのが適切であろう。両氏の出自を『姓氏家系大辞典』に見ると石谷氏については
遠江二階堂流の石谷氏はイシガヤと読めど美濃の石谷氏はイシタニなり、遠江石谷氏は藤原南家二階堂氏を称す(寛政系図)もと二階堂を称し、行清外祖父西郷の家号を用い、其子清長また二階堂、其子政清石谷村に居住し石谷を称す。
と石谷氏は遠江と美濃を出自とするが、語韻の違いによって地域の異なることを指摘しているが、現在その説によって出自を分類することは不可能なほど混同して地方に分布しているであろう。西郷氏については、
藤原南家二階堂氏族、(寛政家譜)に代々佐野西郷庄に居住せしより行清がとき西郷と改む。
とどちらも『
寛永諸家系図伝』を引用して一族の如き関係を録して後世誤認の因を成すと思われる記述をしている。更に『
掛川市誌』はこの二階堂氏流の出自を肯定するが如く次のように録している。
二階堂美啓(よしひろ)=鎌倉将軍頼朝より五代、源頼嗣落城の節、三家の侍二階堂民部少輔美啓は、御側用人戸塚平内左衛門辰信と同道流浪致した。この時正嘉元年三月十日遠江国佐野郡掛川在西郷村に落着き、美啓は六十一歳の老年に及び仏法に帰依し、持合せの金子もあったから庄屋右京の取持により堂を建立、出家剃髪して庵主となり、二階堂と名付けた。
この記述に関連するかのように地元に次のような系図が写蔵されている。
傍系その他を省略して記述したが、『国史大系』に所収されている「尊卑分脈」の二階堂氏系図に類似の系図で、行盛の添書に美人谷二階堂とあることと、傍系の行秋・行清などを『寛政家譜』が録す石谷氏に推定していることに創意性のみられる系図である。
二階堂行盛は元仁元年(一二二四)閏七月廿九日に、伊賀光宗の政所執事罷免に伴ってその職に任命され、建久五年(一二五三)十二月九日七十二歳で歿するまで政所執事として鎌倉幕府の要職にあり、遠江に来り上西郷美人ヶ谷に隠棲して石谷・西郷両氏の祖となることは考えられないことである。
二階堂美啓の美人ヶ谷居住に関連する説として『掛川誌稿』に次のようにある。
上西郷村観音寺=美人ヶ谷の口、殿垣戸と云所の山にあり、二階堂と呼ぶ、此所の畠を二階と呼ぶ故也、此堂旧山頂にあり、後中段に移して更に下段に移す。
佛像長五尺餘、左右に四佛あり地蔵長二尺五寸、薬師一尺餘、其餘の二佛は三尺五寸許あり、皆彩色もなき殊勝の古像なり、幾とせ三百年外のものと見えたり。
とある。二階という地形的呼称とも思われる場所にあった観音堂を、美啓が建立した二階堂に擬して二階堂氏居住の説が伝えられるのも、江戸初期に編纂された『寛永諸家系図伝』によると二階堂氏流系図を導因した石谷・西郷両氏の系譜に素因があるのではなかろうか。誤認の要因とも考えられる『寛政重修諸家譜』の藤原氏為憲石谷氏の条に
寛永系図家伝を引いていはく、もと二階堂を称し、行清がとき外祖父西郷が家号を用い、其子清長がときまた二階堂を称し、その子政清遠江国石谷村に居住す。
村の西南におほいなる岩石あり。その岩の頭に八幡の廟あり、これ村の氏神なり。政清氏神のまします所を尊崇す。この故に二階堂をあらためて石谷と称す。今の呈譜に代々遠江国佐野郡西鄕の庄に居住せしにより、行清がときあらためて西鄕と称し、政清めされて東照宮に奉仕するにをよび、西鄕の局の称呼を諱て石谷に改む。
と、ときに応じて二階堂・石谷・西郷を称していることを録し、後世両氏の出自を混同させる要因を成している。このように石谷・西郷とその出自がさだかでないため西郷氏を三河の西郷氏とする説も生ずる。
西郷氏の考察
『掛川誌稿』に
西郷斉宮故宅
=構(かまえ)村にあり、今殿屋敷とも構(かまえ)とも云、其中に図書屋敷・東門・三ヶ月堀等の名を存す、明和元年までは土手なども残りしと云へども今はなし、按に西郷氏は世々三州にありしが、いつの頃より此に移居せしか詳ならず、此に西郷と云地名は享徳四年法泉寺の舂屋和尚が譲興状にみえしを初とす、明応十年神谷天棟札に、佐野郡西郷庄長間郷など庄名のようになり、上西郷・下西郷と称せしも、みな西郷氏の知行する所なるべしされば早く応永の頃にも参州より移り来りしものならん。
と、西郷氏の地名を享徳四年(康正元年一四五五)の譲興状を以って初見とし、応永の頃西郷氏が三河から乗住したことによるものと誤りを録している。
三河の西郷氏は額田郡幸田の出自で、三河の守護仁木右京太夫義長の目代であったが、享徳年間(一四五二 ― 五五)弾正左衛門尉稠頼が岡崎の菅生(すごう)郷竜燈山に城(岡崎城)を築いたのが、戦国武将として史籍に表れた初めであろう。
したがって、応永の頃、上西郷に来住することは考えられないことである。土着の西郷氏と考えられるものについては後述する山科家礼記によって明らかと思われる。
西郷の地名については次の文書によって、三河西郷氏の来住説も否定されるであろう。
足利尊氏下文冩
下 富樫介高家
可令早領知・加賀國守護職
竝遠江國西郷庄・小櫟孫四郎・同弥次郎
中原弥次郎跡
信濃源志介跡
事
右人為勲功之賞 所充行也 者、守
先例可致沙汰状 如件
建武二年九月二十七日
右の文章によって西郷庄が建武の頃すでに成立していたことが立証される。
三河の西郷氏と違って土着と推考される西郷氏について『山科家禮記』に次のようにある。
昨夕智阿ゝ一貫持来候、西郷年貢無沙汰御奉書飯賀州被下候也、其案文也、山科家雑掌申遠江國西郷年貢事、
去應仁元年以来一向無沙汰云々太不可然所詮於年々未進分者、如先ゝ不日悉令究済、可被執進請取、尚以及
難渋者、可有異沙汰由、被仰出候也、仍執達如件。
文明三 為信 判
十二月廿七日 之種 判
西郷殿
文書の西郷氏は翌四年二月五日の文書には西郷八郎と録されている。このように山科家から年貢の遅延に関する文書が再々西郷氏宛に発注されていることは、この西郷氏が上西郷にあった山科家の所領地を管理する立場の地頭代の存在であったことを示すものであろう。年次的推考からこの西郷氏を後述する石谷氏の系図にある西郷民部少輔に関連するものと思われる。
三河の西郷氏が上西郷に関わりを持つのは、前述の「西郷斉宮故宅」を録した斉田茂先(しげとき)が『掛川誌稿』の編纂なかばにして文化十一年(一八一四)九月歿したので、その後を補輯した山本忠英(ただふさ)が次のように録していることによる。
西郷斉宮故宅
以貴小伝云、於愛の方は西郷局と云、戸塚五郎大夫忠春の女なり。忠春西郷弾正左衛門正勝が女にそいて局をまふけたり、天文廿三年忠春遠江国大森の軍に討たれければ内室は再び服部平太夫正尚に嫁し、於愛どのも継父正尚のもとに在りしを外祖弾正左衛門正勝が、右京進義勝にめあわせて女一人男一人を産給ふ・・・・・・・・・中略・・・・・・御父戸塚忠春が子四郎左衛門忠家は局の異母兄なり。初め今川家に随り後に御家人になりて薩摩守殿に仕ふ、其次の御兄は仏門に入りて心翁と云、牛込護本山天竜寺を再興して寺主となり、父の忠春が墳墓をも遠江国滝谷法泉寺よりうつせしとぞ・・・・・・中略・・・・・・按に戸塚氏此の西郷に住して三州の西郷氏を娶ることは因縁あるにや、『武徳編年集成』に永禄五年浜名郡宇津山城主朝比奈紀伊守泰長、三州賀茂郡西郷中山の五本松城主西郷弾正入道正勝、同孫九郎元正父子を討取り、正勝が庶子孫六郎清員は逃れて死をのがる。此事上聴に達せしかば清員に父が旧領を賜り、西郷の古要宇と云所に砦を築いて居住すとあれば、三州の西郷氏国初以前遠州に来り住せしことはなきなり。西郷局は西郷の戸塚に住せし戸塚五郎太夫忠春の女なれば戸塚の家にて生れ給えること論なし、然るに西郷に住せし西郷の女なる由、又美人谷と云所あるは局の生れ給える村なる故に此名ありと云は、附会のこと也。土人の説に惑うなかれ。
又、西郷の構村に西郷斉宮の神を祀ると云祠あり。其の子孫ならんと見ゆるもあれど、西郷局の生れ給える家にはあらず、然れども斉宮を祀ると云、又図書屋敷など云所あれば久しく西郷に住して村名を以って氏とせし人なり。抑西郷局の御事は知る者多しといへども西郷村土人の説に依て或は人の惑を生ぜんことを恐る故切に是を詳かにす。
と、西郷の局が戸塚忠春の家で出生したことを強調し、斉宮については西郷の局に関係ないことを録している。又西郷氏に関しては、正勝の戦死により庶子清員が父の旧領を賜り、西郷の古要(こよう)字に砦を築いて住したれば三河の西郷氏が遠州に来ることなし、とこの時期において三河西郷氏の遠江在住を否定しているにも拘らず、西郷の古要宇とある記述を掛川市上西郷にある平塚山を古要宇に擬して誤れる所伝を伝えているむきもある。よって煩雑になれど誤謬を正すために『武徳編年集成』の巻五、永禄五戌壬年七月の条を収録してみると、
遠州嵩山ノ城主、奥山修理貞澄今川ヲ叛キ、神君ニ倚頼ス、氏眞怒リテ兵ヲ発シ彼城ヲ陥ス、十二日遠州浜名郡宇津山ノ城主朝比奈紀伊守泰長不意ニ兵ヲ参州ニ発シ、加茂郡西郷ノ中山五本松城主ヲ抜キテ城主西郷弾正正勝入道・同孫九郎元正父子ヲ討捕ル、正勝が庶子孫九郎孫九郎清員 或ハ吉員ニ作ル ハ虜ト成リシガ捕ル者ノ手ヲ挽放チ満丈ノ渓ヘ飛落ル所、幸ニ死ヲ遁レ、野田ノ菅沼新八郎定盈ハ従父兄弟ユヘ野田ヘ忍ビ来ル、此事上聰ニ達セシカバ大ニ賛美セラレ亡父ノ旧領ヲ賜リ、清員西郷ノ古要宇ト云所ニ砦ヲ設ケ居住ス。
とある。このように浜名湖西岸にある宇津山城主朝比奈氏が、今川氏の命で西北進して三河と遠州の境にある嵩山城の奥山氏を討伐した勢で、更に五本松城を攻略して西郷正勝父子を戦死せしめた合戦に関連する古要宇の砦が、三河と正反対の東方四〇キロも離れた掛川市の上西郷に築かれる道理がない。これらの説は明らかに三河の西郷氏を地元に導入するべく誤った所伝である。
三河の西郷氏が遠江に所領地を持って関係するのは榛原郡に替地を賜ったことを知る次の文書に確認される永禄末期である。
替地宛行状
為河邊替地遠州之内七百貫文遣置上者、永不可有相違者也、仍如件
永禄十二年(巳己)年
三月二日 家康 (花押)
西郷左衛門佐殿
以上によって三河の西郷氏の中世における上西郷土着説は極めて信憑性も乏しく、戸塚忠春の女とする西郷局に関する事跡が『山科家禮記』に見る西郷氏を、三河の西郷氏に結び付けて異なった所伝に育成されたとみるべきである。
美人ヶ谷城に中世山城の形態を見るのも、この『山科家禮記』に見る土着性の可能が多い石谷氏に関連すると思われる西郷氏の創築によるものと推察される。
滝ノ谷城の北側にあって城主など菩提寺として、何らかの関係があるのではないかと思われる法泉寺には、西郷の局の両親の位牌を祀るという。『掛川誌稿』には、
曹渓山法泉寺
寺を法泉と云、瀑布あるによる開山を舂屋和尚と云、相伝、昔此地に二人の比丘尼あり雲江、栴巌と云、舂屋和尚初めてここに来りし時両尼より此地を受けしとぞ、享徳四年十月二日二世即安和尚へ授けし譲興状には雲江、栴巌之菩提懇に御訪候者何事か可過之哉。身之本願可満足候也とあり、寺後に二碑あり。其一には雲江妙慶、貞治五年四月廿日とあり其の一栴巌花慶、應安二年二月朔日と刻して当時のものと見えたり。應安二年には御朱印を賜りしなり、正徳四年總寧寺英峻和尚御朱印を請奉る状に曰、西月祐泉居士、玉窓妙全大姉之尊霊碑安置此精舎、今有之處歴然也、とあれば此二本碑は即、西郷斉宮と云し人の夫婦にて西郷局の雙親なるにより慶安年の御朱印をも賜りしか。
と、舂屋和尚が両比丘尼から法泉寺を譲り受けた経緯を録し、法名西月祐泉居士の俗名を西郷斉宮として西郷局の父親なるため、慶安年に御朱印を賜ったことを記述している。
しかし斉宮については前述山本忠英が輔輯『西郷斉宮故宅』において否定している説である。図書屋敷、東門などと呼ぶところは残るがその事跡は皆無で人名かそれとも祭祀の照合かさだかでない。試み『広辞苑』にてその字義を見ると、斉宮(いつきのみや)の場合は伊勢神宮または大嘗祭のとき新穀を奉る国の一つ、或いは伊勢、賀茂の斉宮(いつきのみや)の住所とあり、斉宮(さいぐう)と読む場合、天皇即位ごと卜定(うらない)を以ってきめられる伊勢神宮に奉仕する未婚の内親王とある。
西郷庄は古く、「遠江国佐野郡日根郷(西郷庄)有小高御厨」と録されて、伊勢神宮の奉祀をつかさどる小高御厨が成立していたことを伝えていることから、西郷斉宮の場合、おそらく斉宮(いつきのみや)に関係するものの屋敷が、何時の頃か土豪の屋敷となり、移り変わる館の重複が所伝の混同となって西郷斉宮という人名に伝えられたのではなかろうか。
法号西月祐泉を西郷斉宮とする法泉寺の記述に疑問があり、本筋から外れるが法泉寺について振れてみよう。
比丘尼から寺域を譲られたと伝える舂屋和尚は陸奥の人、農家で米を舂(つ)く音を聞いて、忽然と悟ったというので師の大網から舂屋(しょうおく)の号を授けられたという。晩年相模の義雄山報思院を開創して康正二年(一四五六)七十五歳で歿した。しかしこの説に従ふと舂屋和尚が法泉寺を譲られたと伝える両比丘尼が歿してから十余年を経た永徳二年(一三八二)に舂屋和尚が出生したことになり不合理な所伝である。
この年次矛盾を解明するものとして磐田市見付の慈恩寺が所蔵する雲板銘がある。
銘雲板
遠江國上西郷庄滝泉禅寺長板
(八月)(廿)
于時應永廿六(亥已)年南呂念七日誌之
往持 比丘明通
寺院で食事を衆僧に知らすため打ち鳴らすこの雲板は縦径四五㌢、横径四三㌢ほどあるが、上西郷からどうして見付の慈恩寺に移り所蔵されているのか詳かでない。
銘雲板にある滝泉禅寺を、地名と名称から法泉寺の前身と推考すると、年次推定により両比丘尼から寺域を譲られたのがおそらく比丘明通であろう。舂屋和尚はその後に何らかの理由で滝泉寺に入り、寺を法泉寺と改称して中興の開山になったのではないかという推測が成り立つ。
法泉寺で舂屋和尚の事跡が確認されるのは境内にある白山神社の棟札で、両比丘尼歿後八十余年、雲板銘から三十余年後の年次である。
表 伊勢天照大神
裏 于時享徳三季(戌甲)五月廿七日御遷宮
往持 比丘宗能記
舂屋和尚の歿年から推察して白山神社遷宮の後、舂屋は二世即安和尚に法泉寺を譲り相模に移って報恩院を開創するとともに歿したものと考えられる。
法名西月祐泉を西郷斉宮として、更にそれを西郷の局の父に擬する、戸塚忠春と混同しているような法泉寺に関する所伝が、果して戸塚忠春の霊か否かさだかでない。天正十八年(一五九〇)徳川家康が江戸に移封するとき、側室の父として忠春の墓も位牌とともに法泉寺から江戸に移され、忠春の次男心翁和尚によって現在東京都新宿の高層ビル街の谷間にある「護本山天竜寺」が開創されて、其処に忠春の霊も祀られ、位牌に西月友船大禅定門とあるという。にも拘らず尚且、この法名が忠春かさだかでないと論ずるのは、舂屋和尚が法泉寺を二世即安和尚に譲って以来、西郷氏に関する戸塚忠春が戦死したと伝える天文廿三年迄約一世紀、その間法泉寺に関する事跡は詳かでない為である。
忠春の菩提寺を江戸に開創した心翁を法泉寺七世と録す天竜寺の由緒書によって、西月祐泉を戸塚忠春の法名と論説するのみでその論拠は極めて薄いといわざるを得ない。西郷の局の父に関しては、遠州の住人秋山十郎の女、或いは戸塚作左衛門某の女、歿年についても天正十七年五月十九日駿府にて歿す年二十八とするのが通説となっている。
『掛川市誌』には戸塚五郎太夫忠春
先祖は清和源氏為義流、遠州戸塚に住むにより戸塚を家号とする。忠春は万松院足利義晴に仕えて都に登ったが、後遠江国に帰り大森城に住んだ。妻は西郷弾正左衛門正勝の女、夫忠春が天文二十三年大森の軍に討たれければ蓑笠之助正尚に再嫁し、後に営中に召された長男を四郎左衛門忠家といい、はじめ今川義元に属し、後に三河国におり徳川家康に拝謁、松平忠吉に付属、天正十八年関東に移り忍城城代をつとめ文禄四年六十歳で歿す。
二男は出家して心翁といい、滝ノ谷村法泉寺の住職であったが、家康が関東に入国のとき江戸に召され牛込に土地を賜り天竜寺の住職となった。
と異説の氏名や所在不明の大森城の戦いを録し、更に局の歿年次を逆算すると忠春が戦死の数年後に局の誕生という年次矛盾もあって、戸塚忠春は名も知れない一介の豪士であったのが、西郷の局の父親として上西郷で創造された偶像的氏名ではなかろうか。したがって西月祐泉の法名にも信憑性が問われるのである。尚、異名ながら戸塚五郎大夫に擬せられるものに次の文書がある。
観音寺朱印下附願書
遠江國佐野郡上西郷村碧獄山観音寺
一、省略
一、西郷殿御先祖之菩提所ヽ而。台徳院様、御袋様、御親父富塚五郎大夫殿御位牌石、塔于今在之竝、石谷十蔵殿先祖旋菩提所、依之十蔵殿添状被下候。
右之通少も偽無御座候。若偽御座候者、曲事可被仰付候。何様々も今度御朱印頂戴仕候様奉仰候。
慶安貳年 観音寺
丑六月三日 順太□黒印
寺社御奉行所
富塚氏についてはすでに永正年間、上西郷の西方約一・五キロ離れた垂木村の六所神社に奉懸した鰐口に次のような刻銘があって、忠春と同世代に存在した土豪と思われるので戸塚五郎右衛門を富塚五郎大夫の誤りであるとする説、又、地域的に別人であり観音寺側の誤記であるとする説もある。
遠江州佐野郡垂木六所明神
永正十一年八月
大檀那 興津濃州守久信
二俣八郎左衛門長富
富塚五郎右衛門久行
石谷氏の考察
藤原二階堂氏流を出自として、ときには西郷も称せしという複雑な出自を伝える石谷氏に関する所伝を『掛川誌稿』から抜粋すると、
石谷氏故宅
石谷十蔵貞清は世々西郷に居りしとて中島と云所に石谷氏の古墳ありて其の辺りを宅跡とも云、又ビンゼガヤ谷殿垣戸(とのかいど)も石谷氏の宅跡と云、何れが是なることを知らず、慶長五年の関ヶ原の役に御供して西郷には婦人のみ残れりとぞ、その後いつしか駿府に移居せしものなるべけれど口碑にのみ伝えたれば詳なることなし。又石谷の山に九巨石あり俚俗是を名字石と呼び兜石・碁盤石・目付石などの名あり。今石谷氏の九曜を以て家紋となすも一に是石によると云、旧石谷を有せし人なれば称号にもなせしものなるべし、石谷十蔵貞清は石谷十郎右衛門の次男五郎太夫清定が次男也。後左近将監と称し、寛文十三年九月十一日江戸にて卒す年七十九。
この記述が前述の「地理的考察」による多角的な遺跡を伝える要因となったと考えられるが、土俗的な所感も多く、この地域すべてを石谷氏の所領地とは断じ難い。中島の宅跡について同署は、
霊栄大明神
中島の平八と云ものの居る所は石谷十蔵の故宅にして、其の先營(せんえい)に七基の碑ありしが正徳三年にあつめて一丘となし、祠を建て霊栄大明神と云、爾来石谷氏より年々扶持米などを贈りて其の祠を守らしむ。
と録し、上西郷構江(かまえ)の石田氏の宅地内にある霊栄大明神創建の由緒を伝えている。祠を祭祀する石田氏が写蔵している左記の石谷氏系図は
傍系その他を省略したが『寛政家譜』に類似の系図である。
為憲流二階堂氏のから西郷氏、更に石谷氏と複雑な呼称を伝えているこの系図に見られる二代目行晴の歿年次から推考されるのは、前述の山科家禮記に録されている西郷八郎が、この行晴の父西郷民部少輔に関係があるのではないか、ということである。
憶測すれば上西郷の有力者で山科家の所領地管理の地頭代であった西郷氏が、二男を石谷氏の養嗣子とした後、何らかの理由で没落して家系を詳かにしないため、三河の西郷氏と混同して伝えられるのではなかろうか。
尚、「教言卿記」によれば応永十二年(一四〇八)十二月遠江の西郷より年貢の到来していることを録しているが、このときの地頭代が西郷氏か否か年次においては該当するが詳かでない。
石谷氏の館址として伝えるビンゼガ谷の殿垣戸について『掛川誌稿』は、
鬢ぜが谷
鬢ぜが谷をいま美人ヶ谷と云は転語也。昔於愛の方の出処なれば名づくと云は土俗の付会なり、検地帳にビンゼガ谷に作る。鬢ぜとは俗に鬢の禿げたるものを云、山間の地名なれば山のはげたる所などありて名づけしにやあらん。
と録し、地名の出処を明らかにしているが城砦址の見解はなされていない。次に記述する同書の殿垣戸の項において武家屋敷に関連して城砦の可能性を知ることが出来る。
殿垣戸
ビンゼガ谷の口を殿垣戸と云、垣戸は人家の垣の内をさして云、屋後を背戸と云が如し。古き俗語とみえて諸国に多くみゆ、今村里の小地名に倉カヒト、鍛冶カヒトの類都で屋舎のありし址をさして云、此に殿垣戸と云所は石谷氏の宅趾とも云、いずれ武家の故宅とみえて山頂を櫓の趾といひ、平城を城のだんと云、東を太鼓の谷といひ寛政の末とか甚五郎と云百姓、此山際崩れて功果たる古刀の類を堀得たり、其上に長六尺許の石ありしと云、是必上古の墳墓なるべし。
とある。殿垣戸について現在その位置はさだかではないが、美人ヶ谷城址の東南山麓にある斉藤氏の屋敷附近を小字「保戸貝戸」という。おそらく殿垣戸が転訛したものであろう。
斉藤家の西側に二㍍ほど高く高さ七〇㍍平方の台地がある。古松と竹薮が北側を囲むこの台地を、土地の古老は明治の頃、私学舎の塾があった学校屋敷の跡という。
北裏側の山頂にある中世山城の形態を残す美人ヶ谷城との関連性から、往昔はこの地域の地頭代を兼ねた有力者西郷氏の館が、後に石谷氏に引継がれて石谷氏館と称せられるその跡ではなかろうか。
石谷氏については郷土史学研究において、貴重な参考史料ともいうべき『掛川誌稿』も左記のように美濃国石谷(いしたに)村に起る石谷氏を混同して録している。
西郷村石谷氏古墟
按に、天文五年義輝将軍御元服のとき御供衆に、石谷兵部太夫光政と云人あり。又永禄六年諸役人附には外様衆、石谷孫九郎頼辰、御番衆石谷兵部太輔光政あり。この二人は父子なるが共に遠江国の人と見えたり。石谷氏西郷氏の石谷に住して数世伝えたりと見ゆれば、その古墟も一所にてはあるべからず。
と、永享御番帳などにも名を録している美濃国土岐系石谷(いしたに)氏を、遠江国上西郷に導因して誤った記述を録している。
地方の一土豪にすぎない石谷氏が、寛永十四年(一六三七)十月の島原の乱には征討軍の副使として下向したり、慶安四年(一六五一)には将軍家光の遺命で江戸の町奉行に任じ、江戸騒擾を企でた由比正雪の一味を召捕るなど、徳川幕府の要職に就いて史籍に名をとどめた左近将監貞清のような傑物を輩出したのも、祖父の十郎右衛門政清が今川家滅亡の後、徳川家康に仕えたのが家名復興のはじめであり左の文書を見るかぎり政清を以って遠江石谷氏の中興の祖といえよう。
十郎右衛門政清は石谷に住し、天正二年(一五七四)四月十五日七十一歳にて没し、和光院殿盛山道隆と諡名して石谷村に葬ると伝えるが、葬地も墓碑も詳かでない。東京都北多摩郡狛江町の雲松山泉竜寺は政清を開基として左近将監貞清の子孫が創建したという。
結論
上西郷の土豪達の間で美人ヶ谷城と滝ノ谷城に関係するのではないかと思われる石谷・西郷の両氏、竝に戸塚忠春の事跡を検討したが、二階堂氏流の出自を伝える両氏に関してそれを立証する史料は管見にして見ることを得ない。これは両氏に関する家譜が寛永十八年(一六四一)徳川幕府の要請に基づき、諸家から提出された系図をもとに幕府の学問所で作制された、『寛永諸系図伝』やそれを続集編纂した寛政十一年(一七九九)の「寛政重修諸家譜」によって伝えられている信憑性にも疑問のある編纂史料に頼っているためである。さだかでない中世における両家の事跡には、創意も多分に含まれて提出されていると考えられるからである。特に西郷氏については、肥前国高来郡西郷の庄より発し弾正左衛門忠昌のとき、清和源氏義光流の大内義時の三世木工助惟時の子信治を嗣子としてから源氏と改め、数世代の後、弾正左衛門盛正が三河国八名郡に移り住したものである。西郷局の祖父正勝は更に数世代を経ており、この三河西郷氏を西郷局の因縁を以って上西郷の西郷氏云々は誤れる所伝であろう。
遠江の西郷庄土着の郷士として可能性があるのは山科家禮記に録されている西郷八郎で、年次的にも石谷氏の家譜にある民部少輔の父祖の世代である。おそらく西郷庄の有力郷士として美人ヶ谷の山麓に屋敷を構えて、山科家などの代官補を勤めて年貢の徴収などにあたっていたのであろう。しかし応仁の乱という地方にまで波及した争乱によって、荘園制の秩序も乱れ、併せて今川氏の駿遠における戦国大名の形成に西郷氏もその寄子となったもので、永正三年(一五〇六)伊勢新九郎の三河侵攻の遠江衆の中に西郷氏とあるのはこの西郷氏であろう。
遺構の考察
美人ヶ谷城
美人ヶ谷城址は大和田山系の支脈が南に延びた先端にあって、北西に三〇〇㍍ほど湾曲した標高一〇三㍍の独立丘陵を成している尾根上に構築されている。
大別して曲輪(くるわ)、中央の本曲輪、北曲輪の三つに分けられるが、これも幅が一〇㍍から一五㍍ほどある尾根を三ヶ所で断切っている空堀によって推定区分されるのである。
殿垣戸の北側から登る大手口と推定される先端の辺りは、茶園や畠地に開墾されて全く原形をとどめておらず遺構の確認は難しい。
図面による一合堀切りは南側で六〇㌢、北側で一・五㍍の落着が付いているが、現状は埋没している様子である。幅は底辺で二㍍ある。
この堀切の北側に一五㍍平方の削平地があり、これまでを南曲輪と仮称した。
南曲輪の北側は幅四㍍の空堀を隔てて五㍍の高さに本曲輪がある。東西五五㍍、南北が南端で一三㍍、北側で五㍍の台形曲輪は、山容をそのままに削平しているためか、僅かな較差を付けて三つに区分され不自然な傾斜をしている。
西側の五㍍下方に東西二二㍍、南北が中央で七㍍の半円形袖曲輪(そでくるわ)があるのも比較的ゆるやかな西側傾斜の備えであろう。主郭の北は幅四㍍の三号堀切りであるが、落差が五〇㌢という現状が、埋没かその他の理由によるものかが断定至難い遺構である。しかし北側に続く東西一二㍍、南北一〇㍍、更にその西側三㍍下方にある東西二〇㍍、南北一五㍍の北曲輪の構成を見ると、この空堀も二号堀切りのような施備が成されていたことが容易に推察出来よう。
滝の谷城
滝ノ谷城は美人ヶ谷城と尾根を一つ隔てた東側にある標高一一四㍍の城山(じょうやま)と、その北側にある前山の山頂を物見台にした両峰から成る周囲約一・二キロの孤山である。
東側を谷沢(やざわ)川が流れ、北側から西南に廻って法泉寺川が流れている。この両川は下流一五〇㍍の多貴神社の背後、堰ノ口と呼ばれるところで合流して滝ノ谷川となり倉真川に這入る。したがって堰ノ口で両川を堰止めると滝ノ谷城の濠ともなる。
城址へのコースは滝谷バス亭の一〇㍍ほど前方(北側)にある中山家の横にある小径を登り、茶畠の間を二〇㍍ほど進むと東西二〇㍍、南北が中央で八㍍の半月形の曲輪がある。
大手曲輪と推定される所であるが、西側先端が掛川―川根線の県道に開発されて崖になっており、東側は幅一〇余㍍の崖崩れの現状でいずれも原状の確認が難しい。口碑によればこの崖崩れは明応八年(一四九九)と大正十年の二度にわたる崩壊の後で埋没した山麓附近を「やなめ屋敷」と呼び、武家屋敷のあった跡と伝えるが真偽のほどはさだかでない。
山腹に滝ノ谷城主中山祐斉と刻された碑が建っているが、これを史実的に立証する資料はない。崩壊した崖上に幅一㍍から三㍍ほどの不整形な削平地が北端まで続いている。大手から搦手口に通じる曲輪の跡とも考えられる。大手曲輪から五㍍上にある山頂の本郭に至る出入口(虎口)でもあろう。
山頂には東西二〇㍍、南北五五㍍の長方形の曲輪がある。南端から北に向かって一五㍍ほどゆるい傾斜が付いているのが土塁などを崩して均したのか詳かでない。北西の隅に一・五下に南北三㍍、東西一二㍍の木戸口の形態を残す削平地があって此処から二〇㍍ほどS字形に降ると、城山と前山の鞍部で幅一〇㍍、東西が二〇㍍の堀切兼用の曲輪がある。東側は谷となって谷沢川に落ち、西側は開墾されたと思われる削平地がある。北側一五㍍上の前山の山頂には東西七㍍、南北一五㍍の物見台がある周囲は急斜面で人工を加えた防備の様子はない。西側から北を廻って東側に降る小径をたどると山麓に古い堀井戸がある。城址に関係するか否かも所伝もない。
自然の山容を利用して、曲輪の形態も粗雑な広報で区別し難く、総体的に人工による構築規模の少ない遺構は、地方における小土豪の所領経済力も推考させる必要を示唆する城址である。
石谷・西郷両氏に関する略年表
一二五七 正嘉元年 二階堂民部少輔美啓上西郷に住す 掛川市誌
一三三五 建武二年 足利尊氏下文写遠江国西郷庄とある 四天王寺蔵
一三六六 貞治五年 雲江妙慶の墓、滝ノ谷法泉寺 掛川誌稿
一三六九 応安二年 栴厳花慶の墓、滝ノ谷法泉寺 〃
一四一九 応永廿年 法泉寺住持比丘明通の雲板銘あり 慈恩寺蔵
一四五二 享徳元年 三河の西郷清海入道稠頼岡崎に城を築く 参河志
一四五四 享徳三年 法泉寺境内白山神社棟札に比丘宗能とある 掛川誌稿
一四五五 康正元年 舂屋宗能和尚より二世即安和尚に与えた譲状 〃
一四五五 康正二年 舂屋和尚歿す七十五歳 江戸名所図絵
一四七一 文明三年七月 松平信光岡崎城主西郷弾正左衛門頼嗣を降す 参河志
一四七一 文明三年十二月西郷氏遠江国西郷の年貢無沙汰を催促さる 山科家礼記
一四八四 文明十六年 西郷民部少輔某の二男石谷行晴歿す六十七 寛政家譜
一五〇五 永正元年 石谷行晴の子行清歿す五十九 〃
一五〇六 永正三年 西郷氏伊勢新九郎に従って三河へ侵攻す 大日本史料九編
一五一四 永正十一年 富塚五郎大夫久行上垂木六所神社に鍔口奉懸 県史料
一五二三 大永三年 三河の西郷信貞山中に城を築く 参河志
一五二三 大永四年 松平清康山中城を攻め西郷信貞を降す 家康の族棄
一五三三 天文二年 石谷清行の子清長二階堂を称す 寛政家譜
一五五一 天文二十年 三河の西郷弾正左衛門正員歿す四十二 寛政家譜
一五五四 天文二十三年 戸塚五郎大夫忠春大森城に戦死、法号西月祐泉 掛川誌稿
一五六一 同十月六日付 西郷清員家康より下知状を受く 家康文書
一五六二 永禄五年九月 五本松城落城正勝父子戦死 家康の族棄
一五六九 永禄十二年 正月石谷政清家康より遠江に所領を贈る 家康文書
一五六九 永禄十二年 三月西郷清員に替地宛行状を受く 〃
一五七四 天正二年 石谷政清歿す七十二 寛政家譜
一五八四 天正十二年 報思院梁木外二名連署置状に舂屋和尚とある 県史料
一五九四 文禄三年 西郷清員歿す、池上本門寺に葬す 寛政家譜
一五九五 文禄四年 戸塚忠春の子忠家歿す。牛込天竜寺に葬す 掛川市誌
一六四九 慶安二年 富塚五郎太夫を西郷局と親と録す 観音寺文書
一七一四 正徳四年 西月祐泉、玉窓妙全大姉西郷局の親という 掛川誌稿
最終更新:2013年01月20日 00:37