あたしの中に眠る彼が言う。
出来ることなら貴女に謝罪したい、と。
だけど、それは叶わぬ夢。
だって貴女はもう、この世にいないから。
褐色の男――ローランが足踏みをしたかと思うと一瞬に距離を詰めた。
狂戦士――オデュッセウスの懐へ潜り込むと、ニヤリと笑みを浮かべ拳を握る。
「呆気にとられている暇はない。さぁ、衝撃が貴殿の身体を貫くぞ?」
重低音を響かせるボディブロー。身体の芯にまで響く衝撃にオデュッセウスの口から胃液が飛び散った。
くの字に曲がった身体へ追い打ちを仕掛けるようにローランの左膝が迫るも、オデュッセウスは掌でこれを受け止めた。
「■……■■■■■■■■!」
「だから言っているであろう、オデュッセウスよ。俺に貴殿の狂った言葉は届かない……聞きたくも無い」
強引に膝を押し込み均衡状態を崩したローランを嫌みを吐き捨てると同時に距離を取る。
宝具『狂えるオルドランド』
ローランの持つ側面を前面に押し出し、宝具にまで消化させた逸話。
経緯は省くものの、元より人間をも斬り裂き足の裏以外に負傷しない伝説を持つ男。
その天性の肉体を制限されたセイバーのクラスですら、解放しようというもの。
言ってしまえば己の肉体スペックを大幅に上昇させる宝具。唯一の欠点は月下の元で無ければ理性を失い狂った獣へと成り下がること。
「小技で貴殿を沈められるとは思わんが、どう捌く?」
その場で己のリズムを整えるように数度だけ軽く跳ねるローラン。
三度目に左足だけ着地させると右足を後方へ折り曲げるように運び、瞳はオデュッセウスを捉える。
ジリジリと基点となって左足が砂利の音を響かせる中、矢を放つかのように右足が解放。
あまりの衝撃に一種の旋風が巻き起こり周囲の瓦礫を拾い上げ、オデュッセウスへ迫る。
たった一蹴りが広範囲の波状攻撃へと変貌する中、狂戦士は雄叫びと同時に瓦礫の元へ走り出す。
堕とせ。
振るわれる腕が豪快に瓦礫を落とし続け、小さな小石が肉体を斬り裂くも厭わない。
向かい風と呼ぶには恐ろしい旋風の中を駆け抜けると、ローランの喉元へ腕を伸ばす。
「届かぬ! 届いてなるものか!」
手刀で難なくはたき落とすと狂戦士の身体を受け流し、背後を取ったローランは背中へ蹴りを放つ。
蹌踉けた体勢に背後からの一撃を貰ったオデュッセウスは顔面から滑るように路面へ倒れ込む。
「■■■■■■■■■」
荒れに荒れた路面は唯でさえ鋭利に満ちている。
その表面を滑るとなれば大怪我は間違い無く、現に狂戦士の顔は無数の傷に覆われる。
けれど闘志が折れぬことは無い。跳ぶように体勢を立て直すと口を大きく開きローランの肩へ噛み付いた。
「その口を――閉じて見せろ!」
と思われたその刹那。
ローランの両腕がオデュッセウスの口を閉ざさんと阻いていた。
牙から唾液が垂れ墜ち、獣としての狂気に当てられる勇者は顔色一つ変化しない。
痺れを切らした狂戦士が左の足でローランの腹を蹴り飛ばす。衝撃により後退りする彼へ追い打ちを掛けるため、跳んだ。
「殺意の込められたいい一撃だ。戦場にとって大いに役立つだろう。しかし」
狂戦士の跳び込みに合わせ、踏み込んだローラン。
狙った完璧なタイミングだった。オデュッセウスの目の前にはローランの拳が直撃寸前。
「命を堕とすだけの一撃に敗れる俺じゃない」
吸い込まれるように。
ローランの拳がオデュッセウスの顔面を捉え、血肉が破裂する音が夜のトロイアに響いた。
ぐしゃりと顔面が潰れる中、狂戦士はまたも瓦礫の山を造り上げてしまう。
「これは……復興には全力を注がないとヘクトール殿に会わす顔がないな」
拳を鳴らしさぞ他人のように振る舞うローランであるが、街の被害の一割は自分にも非があると認めている。
オデュッセウス相手に家屋を何棟か崩壊させてしまった。言い逃れは出来まい。
などと余計な事を考えている最中、瓦礫の中から黒き弾丸が放たれた。
「む――ッ!」
両腕を交差させ弾丸を防いだローランだが、腕に走る衝撃が残り表情を歪ませる。
弾丸などであるものか。おおよそ人間体のそれは狂戦士だ。自らを弾丸と化す速度で迫ったのだ。
ローランの腕に直撃した瞬間に弾かれるように跳び、家屋の壁に張り付いていた。
顔から血を垂れ流し、軽装にも幾つか綻びが見られる。
ローランが狂戦士を補足したかと思えば、再び家屋を蹴り飛ばし弾丸の如き速度で迫る。
「チィッ! カウンターを合わせるには速過ぎる」
ローランが拳を握る時間すら与えられずに防戦一方へ追い込まれる。されど彼の瞳はオデュッセウスを捉え続ける。
弾丸を防いでは別の家屋に移動され、またも弾丸の如き速度で体当たりを繰り返される。
狂戦士が家屋を蹴る度に崩壊し、更に彼らは瓦礫の山に囲まれることとなった。
「当てれぬならば――くっ!」
両腕を広げ狂戦士を掴もうとするも、すれ違い様の摩擦に掌から焦げた匂いが漂う。
生身であれど火花が散り、弾丸を掴むには力と強度が足りぬ。
「だが――おかげさまで的は絞れた」
弾丸は射出の度に家屋を破壊する。
異常な脚力が簡単に破壊するからだ。
故に家屋は弾丸の数と同じく崩壊を続け、弾丸たる狂戦士は無限なれど家屋は有限。
「残り一つならば軌道も角度も貴殿の身体も――よく見えるじゃないか」
左脇を締め、右腕を後方へ。
迫る弾丸に合わせ左脚を半回転させ、身体は弾丸の正面へ。
左腕を引くと同時に顎をも引き、右腕は回転を伴った極限のカウンターなる!
「首が折れても恨むな。此度の敗因――それは英雄としての誇りを失ったこと。尤も貴殿に全ての責任があるとは……フッ、言葉が過ぎたようだな」
ローランの右腕は空を斬り裂いた。
対象を失った衝撃はたった一本の右腕の正拳突き。
一瞬の空白が戦場を包んだ直後、大砲のように風が過ぎ去った。
そして、狂戦士はローランの一撃を回避し背後を奪い、拳を放つ体勢に移行。
「やってくれたな。俺は貴殿の射軸を絞ったつもりだったが、誘われていたのは俺か。獣に成り下がったかと思えば、戦闘に対する思考は生きていたか」
ローランの視線はオデュッセウスの空いた左腕を見つめていた。
繊維が切れたかのようにぶらさがる左腕は全体を赤く染め上げ、感覚が残っているかも怪しい。
狂戦士は弾丸と化した直後に左腕を大地へ付着させ、速度を殺す。
対するローランは最高速度に合わせ拳を放ったため、空砲に終わる。
左腕一本を犠牲にし放たれる一撃は狂戦士の雄叫びと共に、ローランの顔面を捉え、大きく吹き飛ばす。
「流石……流石はオデュッセウス殿だ。我が肉体が血を流すなど、召喚されて初」
砂塵の中に立ち上がる黒き影。ローラン以外に非ず。
口元を拭う手の甲には鮮血が付着しており、僅かながらに出血。
口を切ったかのような小さい傷であるが、強靭な肉体を持つローランにとって初の出血である。
狂戦士と幾ら拳を交えようと、トロイアの戦場を駆けようと、宝具の解放が無いとは云えアキレウス相手にも。
一切の傷を帯びなかったローランが血を流した。
「言葉を改めよう。貴殿は哀れな愚か者であるが、戦士としての本質はまだ残っているらしい。俺に傷を負わせたことが何よりの証拠」
ローランの肌に白さが戻り、気付けば裸体となっていた上半身は白銀の鎧に包まれていた。
勇者として彼は言葉を改める。オデュッセウスは誇りこそ失えど、全てが野蛮な獣に成り下がった訳では無い。
己に一撃を加えた際の手腕は獣には不可能。戦士としての本質はまだ彼の中に残っている。
「願わくば貴殿とは全うな状態で剣を交えたかったが……仕方在るまい。貴殿の無念、魔女は俺が倒そう」
腕に握るは斬り裂くに値しないと一度は収めた聖剣。
月下を反射し星々にも劣らない輝きを秘め、剣先がオデュッセウスへと向けられる。
「貴殿はやはり英雄に違いない。地に堕ちた身であろうとその実力は本物――余計なことをしたな、魔女よ」
剣先がオデュッセウスから逸れ、僅かに横の空間を指す。
すると何も無いはずの空間が燃え始め、世界の切れ目が焦げ堕ちる。
世界に空いた小さな風穴から蜃気楼のように現れるは、ローランにとっては初対面であるが、その名は昼に聞いている。
「キルケーと言ったか。サーヴァントには本質から反転しオルタと呼ばれる状態があると聞いているが、オデュッセウス殿はなんだ?
オデュッセウス・オルタ――などと呼べばいいのか? しかし、これは彼の反転に非ず、貴様が手を加えたのだろう。獣化などと余計なことをして」
「ククク……呼び名など知ったことか。勝手にオデュッセウス・オルタなどと呼べばいいだろう」
オデュッセウス・オルタの横に立つ魔女キルケーは彼の顎から首を掌で辿る。
「私の可愛い可愛いオデュッセウス。こんなにも傷付いて自らの役目を果たす勇姿に私は心をまた奪われた」
狂戦士の耳元で囁かれる甘い声。
骨をも砕き、死んだ血肉すら活力を取り戻す。
たかが声ではあるが、ローランの耳にも届いた誘惑は最早、魔術の領域。
「なるほどな。魅了の類か……しかしオデュッセウス殿ならばこの程度では揺るがないと思うが」
「それはどうかしら。私のオデュッセウスを貴様如きが図るでない」
「オデュッセウス殿はいつから貴様の所有物になった……む、そうか。キルケーよ、偽りの愛は確かに貴様にお似合いだな」
「戯言を」
魔女の双腕から放たれる火炎をローランはたった一振りで掻き消す。
聖剣の空を斬り裂く音が響いた時、周囲を焦がす火炎は跡形もなく消えていた。
「来るならば本気で掛かってこい。オデュッセウス殿も力をセーブしていたようだが、手抜きで俺には勝てんぞ」
オデュッセウス・オルタとの戦いにて勇者ローランが負った傷は僅か口元のみ。
幾ら強靭な肉体を持っていれど、獣化させられていようと、あのオデュッセウスがこの程度であるものか。
戦いの中で見抜いたローランは傀儡師――魔女キルケーへ忠告をする。俺を倒したければ本気で来い、と。
「抜かせ雑兵よ。この程度で調子に乗るとは浅はかな。今回は私のオデュッセウスを試しただけのこと。
審判の時が来る時、私のオデュッセウスを痛めつけた貴様をこの手で殺してやる……覚悟をしておけ、勇者ローラン」
「覚悟など召喚される前に済ましている。貴様こそ我が手で――む、どうして俺の会話相手は勝手に消えてしまうんだ……」
ローランの言葉を待たずとして魔女と狂戦士は消え去った。
藤丸律花も早々と立ち去る事が多く、ローランはまさか自分が嫌われいるのではと勘ぐるも、別に魔女に嫌われたところで問題はないと開き直った。
溜息を零す。戦闘を終え、結果は圧勝であろう。
オデュッセウスに無数の傷を負わせ、自身は口元のみ。
怪我と呼べるレベルにすら達しておらず、仮に問題とするならば魔力の消費だろうか。
己の肉体を飛躍的に強化する狂えるオルドランド――宝具の発動だ。
月光の加護により魔力の消費は日中よりも抑えられているものの、疲れは普段の倍である。
しかし持ち前の魔力量からか彼は息を切らすことなどない。現に連戦も可能であり、勇者の名は伊達では無い。
「……そうか」
狂戦士の消えた戦場を見渡す。
勇者の瞳には崩れ落ちた家屋、転がる死体、荒れ果てた土地が映る。
市民の避難は兵士や他のサーヴァントが担当し、勇者は狂戦士を抑えた。
死亡者は限りなく抑えた。魔女も想定外であっただろう。力を六割程度に抑制したオデュッセウスが完封されたのだから。
「たった一人相手にここまで、か」
サーヴァントは規格外の存在である。
生身の人間では到底叶えないほどの、言ってしまえば怪物の類だ。
兵士が束になろうとキメラの討伐がやっとだろう。熟練の兵士でもそれが限界である。
力を抑えられたオデュッセウスでさえ、城下町を半壊にまで追い込んでしまう。
魔女キルケーは瞬間移動の魔術を行使し、前触れ無く戦力を送り込めるだろう。
その規模は不明だが、仮に一個旅団規模の兵力を運べるとすれば恐ろしい相手などと言えるものか。
最早存在そのものが厄災と呼べよう。アカイア側に現れた魔女の存在はトロイアにとって脅威であることは間違い無い。
「そして――俺は救えなかった」
たった一人残された勇者の声が、戦場に余韻を残す。
完全勝利に近い戦果であるが、彼の表情は優れたものではなく、荒れ果てたトロイアが彼を見つめていた。
最終更新:2017年07月09日 22:04