みしみしと、コンビニの窓が内側からひび割れていく。
静まり返った夜だから、車の音も人の声も何もないから。
その音は少し離れたところにいるわたしの耳にも、よく聞こえた。
やがてお店の壁が壊れて、窓が砕けて。粉塵を巻き上げながら、それが這い出てくる。
人間の肌で出来た化け物。全身できものだらけで、それが全部ぐずぐずに腐っている、恐ろしい姿の妖怪。
「……ひ、っ」
思わず喉から声が漏れた。
さっきまで、あそこにあんなこわいのはいなかったはずなのに。
……本当に? 本当に、いなかったの?
それは、私がそう思ってるだけじゃない?
わたしたちが入ってきた時も、わたしたちが話してる時も、わたしたちが出ていく時も。
ずっと、あれはそばにいたんじゃないの?
ただ、その時は見えなかっただけで。
ずっとそばにいて、ずっと見ていたのかもしれない。
目も鼻も口もない、皮膚だけの体で。
無数のできもの全部を目の代わりにして、じっと。
そう考えると、わたしは気絶しそうなほどの恐怖に駆られてしまう。
「だめ」
そんなわたしの手をひーちゃんがぎゅっと掴む。
力強く。わたしが、どこかへ行ってしまわないように握ってくれる。
「こしをぬかしたら、だめ。そしたら、あれにおいつかれちゃう」
「でも……」
「だいじょうぶ。ぼくがついてる」
わたしは妖怪や、お化けに詳しいわけじゃない。
幽霊が見えるわけでもないし、そういう話が特別好きなわけでもない。
そんなわたしにでもわかる。
あれは、さっきのてけてけとは比べ物にならない。
さっきみたいにおまもりのご加護が使えても、絶対敵いっこないとわたしの中の何かが言ってる。
いきものとしての、本能的な、何かが。
「だから、いこ」
でもそれは、多分ひーちゃんも同じだ。
だからひーちゃんは、今回は戦おうとしていない。
てけてけと出会ったばかりの頃みたいに、がむしゃらに逃げようとしている。
……ひーちゃんだってこわいはずなのに。わたしを、見捨てないでいてくれてるんだ。
「……ん」
それなのに、わたしばかり足を引っ張ってちゃいられない。
息を整えて、手を握り返す。
こわくない、こわくない。
いや、こわいのはいい。こわいものはこわいんだから。
でも、そこで足を止めてしまったらだめだ。
そうなったら、取り返しがつかなくなる。
「――いち、にの」
息を合わせて。
「「――さんっ!!」」
わたしたちは走り出した。
遠く、遠い。
あるかどうかもわからない逃げ道に向かって。
ほとんど時を同じくして、コンビニの方から何かが崩れる音がする。
そして、おぞましい何かが近付いてくる音がそれに続いた。
ぶちぶち。肉が千切れる。
びりびり。皮膚が破ける。
じゅくじゅく。膿が溢れて落ちる。
振り向かなくても何が起きているのかわかる。
あの化け物が、自分のからだをめちゃくちゃに壊しながら、わたしたちを追いかけてきているんだ。
「はあ、はあ、はあ、はあっ」
走る。
走る。必死に。
追い付かれたらどうなるかなんて分かりきっているから、足を止めていられる暇は一秒もない。
疲れて喉が張り裂けそうになっても、殺されてしまうよりはずっとマシだ。
「はあ、はあ、はあ、はあっ」
でも、それでも。
相手は人じゃなくて。
わたしたちは人でしかない。
てけてけほどじゃないにしろ、それでも人間じゃ考えられないような速度で音が近寄ってくる。
音だけじゃない。人の温もりが――
本当ならあったかくて優しいはずのものが、吐きそうなくらいのおぞましさで背中を撫で回す。
それが耐えられないくらい気持ち悪くて、気を抜けば膝を折ってしまいそう。
「りっか、もっとはやく……!」
「ご、ごめんっ、でもっ」
ペースが目に見えて落ちていく。
だめだ。このままじゃ、追い付かれる。
それは今ではなくても、遠く離れた《いつか》じゃない。
音は聞こえ続けている。温もりは汗にまみれた身体を形のない手で撫で回している。
それでも必死に足を動かすけれど、わたしは、ひーちゃんほど永く速くは走れなくて――
――頭の中がぐしゃぐしゃになりかけたとき。
わたしは、ものすごい勢いで水が吹き出す音を聞いた。
「えっ?」
初めて振り返る。
あの心地悪い温もりが、少し離れた気がしたからだ。
見ると、化け物がすごい勢いで血を吹き出して、その身動きを止めていた。
ひーちゃんが何かした風でもない。
その証拠にひーちゃんはずっとわたしの前にいて、振り返りこそしないけれど、わたしと同じく驚いた様子を見せている。
……じゃあ、誰が?
「はやく!」
「う、うん! いそごう!!」
それを確かめている暇は、なかった。
頭の中に思い浮かんだ、ありえない可能性。
それが正しいのか間違っているのかも知らないまま。
わたしたちは夜を駆ける。
こわいものに、追い付かれないように。
■
あの夜に、あたしを見てくれる人はいなかった。
いたとしても、あれはあたし個人を見る目じゃなかった。
気持ち悪いもの、珍しいものを見る目。
このざまでまだ生きてるのかと、ただ《生きてること》だけを見る目だった。
いたい、いたい。
くるしい。なのにあたしには、救われに行く足がない。
だからそれを欲していた。それさえあればいいんだとずっと思って、奪って、奪って、殺して。
なのにあたしはずっとくるしいまま。
変わらないままここまで来た。
この――何もかもが変わらない、永遠の夜に流れ着いた。
殺されるのは初めてだった。
人じゃないモノになってから、あれだけいっぱい殺してきたのに。
まさかあんな子ども達に、引導を渡されてしまうなんて。
あの▃▇▇▅▆▆に胸を貫かれた時、あたしの中を満たすのは確かに無念と憎悪だった。
許せない。こんなの、認められない。だってあたしはまだ救われてない! 救われないまま、こんなところで終わってたまるか!
足を、足を、足をよこせ。あたしのために、死んでしまえ。
そう思っていた――はずなのに。
あの目は、ずるい。
よりにもよって最後の最後に、あたしがずっと欲しかった目をくれるなんて。
そうだ。あたしは、ただそれだけでよかったんだ。
あたしという命の終わりを、しっかり見つめてくれる誰かがいれば。その目さえあれば、それでよかった。
てけてけじゃないあたしを。▇▅▆▆という、人間を。最後くらい、見つめてほしかった。
思えば長い回り道だった。
たくさん殺した。たくさん怖がらせた。
あたしが許されることは、多分永劫にないだろう。
永遠の酩酊を抜け出しても、きっと次がある。
……ああ、それでも。
あたしがてけてけじゃない《▇▅▆▆》であれるこの貴重な時間を、筋書き通りの憎悪と怨嗟に費やすってのも芸がない。
あたしは消え行く霊基で鎌を握り締めた。
足どころか胴も半ばまで消えているけれど、知ったことではない。
どうせもうじき消えるカラダだ。なら最後まで、てけてけらしく疾走ろうじゃないか。
何せこちとら、走るのは元から得意なんでね。
てけてけと、あたしのものじゃない足音を奏でながら。
てけてけは、確たるあたしとして地面を蹴り飛ばした。
■
「おってこない?」
しばらく走って、わたしはまた後ろを振り返る。
あのおぞましい化け物が追いかけてきている気配は全くない。
追いかけっこに飽きた? いや、それにしては早すぎる。
考えられるのは――
「ねえ、ひーちゃん」
「…………」
「てけてけが、たすけてくれたのかな」
あの時わたしは化け物が血を吹き出すのを見た。
あれはただ身体を動かすだけで血が出てくるような、できものまみれの怪物だったけど。
でもあの時見た血は、それとは全く違った勢いのものだったように思う。
ひーちゃんもわたしも何もしていない。
となると、あれが出来たのは――あの場に一人、一体? とにかく、あの子しかいないのだ。
でも、なんで? 全く理解が出来ないから、わたしはひーちゃんに聞いてみる。
するとひーちゃんは、ぐっと唇を噛み締めて。
「……わかんない」
そう言った。
当たり前だとわたしも思う。
だってそうする理由がないからだ。
仮に助けてくれたのがあの子だったとして……何のために?
わたしたちは、何かしてあげたわけでもないのに。
むしろ真逆。あの子を殺した側だってのに。
「でも、あれこれなやむのはもうすこしあと」
「……そだね」
全てはトンネルを抜けてから。
それから、二人であれこれ考えよう。
冷たいジュースでも飲みながら、ゆっくり腰を下ろして。
わたしたちは再び足を動かし出して――その矢先だった。
視界の先。道の真中に、ただ立ち尽くしている男の人がいる。
いや……人であるかは、正直なところちょっとわからない。
だってその人は、ちょっとおかしな姿をしていたから。
具体的に言うと……片目が空洞になっていて。
そこに収まっているべき目玉が、肩の上にちょこんと載っている。
そして彼には左の腕がなかった。服の袖は潰れていて、夜風にぶらぶら揺れている。
「いこ」
触らぬ神に祟りなし。
ひーちゃんは彼を無視して、その横を通り過ぎようとする。
すると、男の人は呵々と笑った。
「待ちなさいよ、そこの子ども達」
ひーちゃんは足を止めない。
構ってられないとでも言いたげだ。
「進んでもいいが、困ったことになりますよ」
えっ?
わたしは、思わず足を止めてしまう。
わたしがいきなり止まったから、ひーちゃんが少しつんのめってしまった。
「りっか、いくよ」
「何しろ此処は如月、永劫に酩酊する無間の街。
あるべき形を忘れたものだけが迷い込む地獄の一風景。
無間地獄に死はない。無間地獄に死はないのです」
「りっか!」
この人が言うことは難しい。
でも、不思議と耳を傾けてしまう奇妙な響きのよさがあった。
いや……それよりも。
今の言葉、どこかで聞いたような気がする。
ぐい、と手を引っ張るひーちゃんに、わたしはそのことを言ってみることにした。
「ま、まってひーちゃん! このひと、いま……」
此処は如月。永劫に酩酊する無間の街。
妖怪大全の、てけてけのページに書いてあった言葉。
意味はよくわからないけれど、わからないからこそ、この人の存在は貴重だ。
だって、わたしたちが知らないことを知ってるんだから。
しかも、今までの妖怪達と違って……わたしたちをどうこうしようという様子が見えない。
確かに、さっきの化け物に追い付かれてしまう危険はあるけど――それでも、この人の話を聞いてみるのは悪いことじゃないんじゃないのかな。
そんなことを言うわたしにひーちゃんは何か言おうと口を開くが……狙い澄ましたみたいに、腕と片目のない彼がそれを遮って喋り出す。
「永劫とは終わらないこと。繰り返すこと。
酩酊とは酔っぱらうこと。覚束ないこと。
そして無間とはこれもまた、終わらないことを指す」
「えっと、つまり……?」
「この街の住人。キミ達も見てきただろう彼女らは皆、決して変わるということがない。
成長しないし、退化もしない。ただ自らに与えられた信仰伝承という酒に酔っ払う。
これはすごく苦しく、憐れなことです。終わらぬ何かを、繰り返す。それに疑問を抱く余地もなく、永劫に」
ゲームのキャラクターみたいなものかな、とわたしは思った。
RPGなんかに必ずいる、便利な機能だったり情報だったりを説明してくれる名前もないキャラクター。
彼らは大抵の場合、何度話しかけても同じ答えだけを延々と返す。
返し続ける。疑うことも逆らうことも出来ないまま、ずっと。
……あの妖怪達も、それと同じなんだ。
終わらない役割に縛られて、ただこわいものであり続ける。
明けない夜を、演じ続ける。
「尤も、酔いから覚めることが出来たなら別ですがね。
その後どうなるかはともかくとして、この街からは解放されるでしょう」
どこか遠くを見つめて、感心したように付け加える男の人。
果たしてそれは、わたしに向けた説明だったのか。
それとも別の誰かに向けた褒め言葉だったのか。
わたしにはちょっと、判別がつかなかった。
「とはいえキミ達は違う。如月の街、無間の一丁目に捕らえられた虜囚ではない。
その証拠にキミ達には考える頭が、思いやる心がある。言うなれば、キミ達は迷子なのです」
「まいご……」
「しかし此処で一つ、おかしなことがある。
如月は現世より隔絶された異界。本来ならば、生ける者とは縁の繋がり得ない領域。
では、何故キミのような年端もいかない子どもが迷い込んでしまったのか」
指を一本、立てて。
「その答えは簡単だ。――キミはどうやら迷子ではない。どこかの誰かに招かれてこの異界に足を踏み入れた、客人なのです」
よくわからないことを、言った。
「りっか、さがって」
その言葉を聞き終えるかどうかのタイミングで、ひーちゃんが動いた。
右手にはさっき、てけてけの時に使った水の槍。
それを何の躊躇いもなく、饒舌に語る彼の頭目掛けて突き出した!
「ひ、ひーちゃん!?」
「おっと……これは物騒なものが飛び出しましたね。
この身は死者なれど妖怪に非ず。そんなものを突き刺されれば最期、朝霧のように消えてしまうというのに」
けれど、槍の穂先は空を切る。
まるで初めからそう来ると知っていたみたいに、ひらりと身を躱して避けられた。
ひーちゃんはぎりりと奥歯を噛み締めながら、槍を握ってそれを追う。
わたしはそれを止める言葉を、口にすることさえ出来なかった。
ひーちゃんの様子が明らかにおかしい。鬼気迫る、っていうんだろうか。
てけてけと戦う時のひーちゃんにはどこか余裕があった。
あの時は軽々とした身のこなしで、事もなげに戦っていた。
でも今は違う。何か――ものすごく、焦っているように見える。
「されど、真に討つべき相手を見間違う迂闊さはいただけない。
よく見なさい、永劫不変の空を。貴女の死神が立っていますよ、お嬢さん!」
「――っ」
余裕有りげなことを言っているけど、自分で言っているように、彼はやはりわたしたちが見てきた妖怪とは違った存在らしい。
その証拠に、ひーちゃんの槍を二度目以降は躱し切れていない。
服の所々から血が滲んで、頬にもかすり傷がいくつか走っている。
なのにまるでこわがっている様子がない辺りは、やっぱり《普通じゃない》んだと実感してしまうけれど。
大事なのはそこじゃない。今この人は、恐ろしいことを言った。
《死神》が、空に立っていると。
先に見上げたのはひーちゃん。
それに続いて、わたしもばっと空を見上げる。
「▅▆▅▆▅▆……▆▅▆▅▆▆▅▆▅▆」
「▆▅。▅▆▅▆」
見上げた先にはマンションが聳え立っていた。
その屋上に、二つの影が見える。
影の声は遠く離れていても、夜の闇によく響いた。
ラジオのノイズのような、何を言っているのか全く聞き取れない声。
影は何やら、会話をしているらしかった。
そしてそれが済むと。
ごく自然な動きで屋上の縁を蹴り、宙に身体を躍らせた。
「えっ――」
思わず息を呑む。
こんなの、普通だったらただの自殺だ。
そう、普通だったなら。
けれど、わたしは知っている。
この街に、《普通》なものなんて、わたしたち以外には存在しないのだということを。
「はなれて!!」
「で、でも!!」
「いいから!!」
あんな高さから落下しているのに、影のバランスはまるで崩れない。
それどころか、影は空中で武器らしいものを抜き出す始末だ。
剣に見えるそれをしっかり握り締めて、影が落ちてくる。死神がやってくる。
――ひーちゃんを真っ二つにしようと、彼女の真上から墜ちてくる!!
「きゃっ――」
ひーちゃんを助けなきゃ。
そう思って動かした身体は、ひーちゃんに突き飛ばされて後ろにすっ転んだ。
涙を浮かべるのも忘れてひーちゃんの方に顔を向ける。
するとひーちゃんは避けようともせずに、水の槍を構えて影を迎え撃たんとしていた。
二つの影が、激突する。
きぃぃぃぃぃん――
夜闇を切り裂く金属音。
衝撃波がびりびりと鼓膜を揺さぶる。
ひーちゃんの足元のアスファルトが、あまりの衝撃にひび割れていく。
なのにひーちゃん達はまるで動じていない様子なのが、とてつもなく異様だった。
「ぐ……っ!」
押し負けたのはひーちゃんだった。
手ががくんと大きく揺らいで、力で勝てないと判断したのか一歩後ろに飛ぶ。
その隙に敵は苦もなく着地して……一度、わたしの方を見た。
最初影と呼んだそれは、よく分からない姿形をしていた。
水面色の身体が、絶え間なくボコボコと沸騰している。
その手に握る剣も、同じく水面色。
見ている分にはとても綺麗だけど――綺麗すぎて、ゾッとする。
あの皮膚の化け物とは全く違った方向の恐ろしさが、これにはあった。
ひーちゃんが地面を蹴る。
ものすごい勢いで迫っていく水槍は、けれど苦もなく敵の剣に阻まれた。
あの時。てけてけを圧倒していたのが、まるで嘘みたいに。
ひーちゃんの水槍が、美しいその剣をぴくりとも動かせない。
「▆▆▅▆」
「あ、ぐ……!」
「▅▆▅▆▆▆▅―――!!」
そして始まる打ち合い。
水飛沫を撒き散らしながら行われるそれは幻想的ですらあったけれど、どちらが優勢かはわたしの目にも分かった。
強い。あの水面色の妖怪の強さは、端から見ていても意味が分からないくらい。
ひーちゃんの打つ手が初めから全部見えているみたいに、一発残さず叩き落される。
まるで大人と子供がじゃれ合ってるようなもの。
これでひーちゃんが押し切れるなんて思う人は、まずいないだろう。
「ぐ、っ、このっ!!」
「▅▅▅▆▆▆▆――」
痺れを切らしたひーちゃんが、意を決して一際大きく踏み込んだ。
けれど、それが大間違い。
待っていたとばかりに、剣の妖怪がノイズを吐く。
「▅▅▆▆▆▆ッ!!」
ひーちゃんの槍を真上に弾き飛ばして、鋭い掌底が彼女のお腹を打ち据えた。
かはっと肺の空気を吐き出しながら、ひーちゃんの身体がくの字に曲がる。
そのままひーちゃんはわたしの隣まで跳ね飛ばされ、地面を転がった。
あれだけ心強かった水の槍は地面に落ちると、水風船が弾けるみたいに飛び散って消えてしまった。
茫然と見ているしか出来なかったわたしの耳に、ひーちゃんのか細い喘鳴が聞こえてくる。
どうしよう。このままじゃ。ひーちゃんが、わたしの友達が殺されちゃう。
そんなわたしの目の前で、剣の妖怪がコツリと足音を鳴らして、一歩こっちに踏み出した。
それを見るなり、わたしは反射的に立ち上がっていた。動いていた。
「だめ!!」
両手を広げて、敵の前に立ちふさがる。
これまで妖怪達にやられてきたみたいに、道を阻む。
「ひーちゃんをいじめたら、ゆるさないから!!」
こんなものが通じるとは思えないけど、やらずにはいられなかった。
わたしはあまり頭がよくないから、こんなことしか思い付かなかった。
でも――わたしに怒鳴りつけられた剣の妖怪は意外にも、怯んだような困ったような、そんな様子で歩を止める。
ひーちゃんと戦っていた時の、あまりにも強くて完璧だったこいつとは思えないような無防備な隙。
力のないわたしには、それを活かすことなんて出来ないけれど。
力のあるこの子なら、話は別だ。
「ながれゆけ、ながれゆけ、げんしょのさざなみ。
われはえいえんをたびするもの。われはながれつきてさちをさずけるもの。
くにうみよりこぼれおちた、ふぐなるかみのいななきをきくがいい!」
ひーちゃんが何かを叫ぶ。
いや、唱えるというべきか。
とにかく、何かをした。
それが何かは分からないけど――
「たゆたえ――淤能碁呂葦船!!」
ひーちゃんなら必ず何か出来るはず。
わたしはそう信じて、賭けた。
そしてひーちゃんはそれに応えてくれる。
急にあがった水飛沫が、わたしの服を濡らした。
その次の瞬間、ひーちゃんに抱きかかえられて、わたしはどこかへと飛んでいく。
いや……これは飛んでいるんじゃない。船に乗って、進んでいるんだ。
「ひーちゃん、これ、なにっ!?」
「……わかんない! でも、したかまないようにきをつけて!!」
「りょ、りょかい……!!」
藁ともまた違う植物で編まれた、古めかしい船。
ひーちゃんは《あしふね》って言ってたし、葦で出来てるんだろうか。
とにかく、わたしたちはそれに乗ってものすごいスピードで剣の妖怪や、目と腕のない男の人のところから離れていく。
見れば、船が触れている部分だけ、地面が色合いはそのままに液体に変わっていた。
もう何が起きているのか、わたしには全く分からないけれど――
どうやら、難を逃れることが出来た……らしい。
追手がないことを確認して、わたしはほっと胸を撫で下ろす。
「よかった、たすかったみたいだよ、ひーちゃん」
「…………」
「このままトンネルまで、これにのってすすむとかどうかな? ねえ、ひーちゃん」
「…………」
「……ひーちゃん?」
わたしがその肩を軽く揺すると。
がくりと、ひーちゃんが脱力した。
わたしに凭れかかってくる体重は驚くほど軽い。
そしてその瞬間、突然葦の船が消えて、わたしたちは地面に投げ出される。
投げ出された先が道端の花壇だったから痛い思いはせずに済んだけれど、それよりもひーちゃんだ。
ひーちゃんは、ぐったりとしていた。
意識を失って、か細い喘鳴を漏らしている。
すごく疲れているように見えた。
……いや、わたしは何を言ってるんだ。
そうだ、疲れて当然なんだよ。
ひーちゃんはずっとわたしを助けてくれてた。
わたしの手を引いてくれた。
わたしの為に戦ってくれた。
わたしの為に傷ついてくれた。
わたしの為に、無理をしてくれた。
わたしは――ひーちゃんに《してもらって》ばっかりだ。
「お、ぁ、ま……」
「! ひーちゃん!?」
目が覚めたのかと思って抱き起こすけれど、もちろんそんなわけはなくて。
「おかあ、さま……
おとう、さま……」
うわ言を漏らすひーちゃんの顔は、すごく悲しそうだった。
それを見ていると、わたしの方まで悲しくなってくる。
じわ、と瞳に涙が浮かんできた。
泣いている場合じゃないのに。
わたしは、何をすればいいのかも思いつかない。
失敗を取り返すことも、できない。
そんなわたしの後ろで、キィ、と声がした。
振り向くと。
大きなジョロウグモが、あの時道を塞いでいたのと同じジョロウグモが、キィキィ笑っていた。
蜘蛛の表情なんて分からない。
蜘蛛に心なんてものがあるのかも分からない。
でも、わたしには分かった。
この蜘蛛は――今。悪意たっぷりに、わたしたちをあざ笑っているんだと。
■
「誤算でしたね。よもや、あのような隠し玉を残していようとは」
隻眼隻腕の男が嘆息する。
目さえあるべきところに収まっていれば、初老に入りたてのダンディズム溢れる男なのだが、剥き出しの眼窩が全てを台無しにしていた。
立香は気付かなかったようだが、彼はもう一つ人間では有り得ない身体的特徴を有していた。
ネズミのものと思われる、細くて長い尻尾だ。
それを意思でもあるかのようにチロチロと動かしながら、書物片手に独りごちる彼。
その対面に立つのは、先程
《ひーちゃん》を圧倒した末に下した水面色の剣妖と。
あの時屋上から飛び降りなかった方の影……顔のない女妖であった。
「▂▅▆▇▅▇▃▇▇▅、▆▆▄▇▇▅▆▇▆▄▇?」
「まァ、全く無駄骨だったわけでもありませんよ。
少なくとも、あれの真名はこれで浮きました。《水の槍》だけならいざ知らず、《葦の船》に乗る日本英霊と来たら浮かぶ名前は相当に絞られる」
にしても大したもんですねと、男は懐から取り出した分厚い書物を捲りながら続ける。
「てけてけを酩酊から解き放って座に還したのは、世辞抜きでおったまげましたよ。
恐らく天性なんでしょうが、いやはや恐ろしい。あの娘なら、如月を陥落させることだって不可能じゃあないでしょうな」
時間と、頭抜けて強い手札さえありゃ、ですが。
そう言って遠くを見る男の隻眼は、果たして何を思うのか。
それを知る者は、彼と志を同じくする二柱の妖魔のみ。
水面色の剣妖。顔のない女妖。如月の真実を知りながら、酩酊の檻に囚われない異分子。
「何、仕事はちゃんとやりますよ。
子供の冒険を見守るのは、大人……いいや。
監視者の役割なんでね。そこについては、あの先輩殿も同じ考えでしょう」
エクストラクラス・ウォッチャー。
それがこの男と、そして此処にはいないもう一騎を示す呼び名だ。
彼らは妖怪に非ずして、妖怪の世界に踏み入ったもの。
この世に恐怖を描き出し、知らしめたもの。
全ての妖怪の敵であり、全ての妖怪の友であり、全ての妖怪の親である者達。
「本当なら此処で押さえられるのが一番でしたが、こうなりゃ、いっそ《天狗》までは辿り着いて貰いましょうかね」
「▆▇▆▄▇▅▆……」
「ありゃ、恐ろしい御仁ですからなあ」
難色を示したらしい剣妖に、隻腕のウォッチャーは呵々と笑った。
この街にはまだ先がある。謎も、住まう妖怪も。
市井より生まれ落ちた怪異を解き放ち、異形の神から逃げ遂せ、異分子達を振り切っても尚果てには遠い。
夜はこれからなのだ。あらゆる意味で、この先が全ての分水嶺。
全てを知る者達は語らい、考え、行動する。
全てを知らぬ者は絶望し、嘆き、奮起する。
終わるまでは終わらない夜の世界は、今日はやけに騒がしかった。
最終更新:2018年01月07日 03:46