基底一章:聖杯大戦(後編)

「はあはあ、なるほどなるほど。ところでカルデアのマスターさん」

 一面の花園は十五分ほど歩いたところで終わりを告げた。
 今、立香達カルデア御一行と魔女……"王冠のキャスター"は、見渡す限りの荒野を進んでいる。
 先程までの実りと祝福に満ちた景色が嘘のような荒れ果てきった世界。
 何らかの事情で荒廃に至ったのか、それとも開拓されていないが故の荒野であるのか。正確なところは立香には分からない。
 或いは女神であるエレシュキガルであれば、その辺りも見抜けているのかもしれなかったが――結論から言うとそうはしていない。というより、そうする暇がないのだった。
 何故か。その答えは、他ならぬ王冠のキャスターが、ほとんど絶え間なく立香に話を振り続けている為である。

「カルピスって知ってます?」
「……知ってるけど……」
「飲んだこともあるんですか? いいなあ、えらく美味しいそうじゃないですかカルピスって。団長(オーナー)が言ってました」

 理由は不明、意図も判然としない。嫌がらせというには話題の一つ一つがあまりに下らなすぎる。
 やれ日本食は本当においしいのか。ハンバーガーを食べたことはあるか。カルデアはどこにあるのか。
 特異点めぐりで一番景色の良かったところはどこか。その他いろいろ。そして極めつけに、カルピスを知っているか。
 最初は訝しみながら渋々答えていた立香も、質問の数が十を超えた頃には段々やけくそ気味に全部答えるようになっていた。

「甘くておいしいんですよね?」
「まあうん」
「バナナをつけて飲むのがおいしいんだとか」
「ん?」
「でもその飲み方は女の子にしか出来ないって――」


「ストップなのだわ!!」


 話がイケない方向、具体的に言うと「18」と書いた垂れ幕の向こうに進まないといけない類の方に転がりかけたところで、遂に女神が叫んだ。

「黙って見ていればどの方向に転がってくのよ! 今はそんな話をしてる場合じゃないし、マスターに不健全な話を振るのはよすのだわ!!」

 この手の話にはあまり免疫がないのか、顔を真っ赤にしながらエレシュキガルは口角泡を飛ばす。
 当のキャスターは何を怒っているんでしょう、と言いたげに首を傾げているから絵面のおかしさが増している。
 因みに立香も、成人はしていなくとも十代の後半だ。彼女が言った、というより彼女が吹き込まれた内容の意味は分かる。
 ここまで文章を割いて説明してやるのも阿呆らしくなるような、下らない、どうしようもない、お里が知れる下ネタだ。
 いい加減にしておけよトリックスターと、まだ顔も知らない怨敵にすごく脱力したくなる類の感情が湧いてくる。人はそれを呆れという。

「まあいいです。もうすぐ、こうやって呑気にお話していられる時間も終わりますよ。
 問題なく全員感知出来るでしょうが、"そこ"に入ったらお節介を焼いてあげる余裕もなくなりますので、自分の身は自分で守ってくださいね」
「……それは、どういう?」
「下手すると私でも死にかねません。アバドンの嵐は今日は出てきてないみたいですけれど、生憎熾天(わたしたち)は嫌われ者なので」

 時に、王冠のキャスターがカルデア御一行に馴染んでいるのかというと決してそんなことはない。
 話し相手として使われ続けている立香を除いた全員が、彼女の一挙一動も見逃さぬとばかりに目を光らせている。
 話の流れに耐え兼ねて割り入ったエレシュキガルでさえついさっきまではその立場だったというのだから、サーヴァント達の警戒の程が窺える。
 智慧深い魔女が針の筵の現状に気付かぬわけもあるまいに、まるで堪えた様子を見せない辺りは――只のビッグマウスではないということか。

「私はまあ、皆さんのほとんどよりは強いと思うんですけどね。この聖杯大戦の中では精々中の下、下手すると下の中でもおかしくないんですよ」

 くるくると髪先を弄びながら、手慰みとばかりに語り始めるキャスター。
 彼女は別に、自尊心が人並み外れて高い方ではないようだ。
 彼我の格差を正しく認識し、受け止め、客観的なことを言っているだけということか。
 無論、それはカルデアにとって何ら希望的な話ではない。むしろその真逆だ。
 この王冠のキャスターで下の方だというのなら、上の方に食い込む存在は、一体どれほど強大だというのか?

「教育係らしいことを言わせて貰うなら、月並みですが決して油断しないことです。
 どんな状況でも、どれだけ優勢な状況でも、逃げ切ったと思っても――絶対に驕らないこと。
 その絶対は容易く覆されます。それが出来ないようじゃ、どんな豪運があろうと長生き出来ませんよ」

 指を一本顔の前で立てて、いたずらっぽく笑う魔女。
 彼女は信用に足るとはとても思えない悪女だが、しかし言っていることは至極正しい。
 要するに、この異界……『ヴァルハラ』はそれだけ不条理に満ちているのだ。
 一足す一が百になり、千になり、かと思いきや零にもなる世界。
 勝利を確信した方が先に死に、常に備え続ける者が長生きする。
 道化の神、トリックスター、光神殺しの黒幕たるロキが存在する時点で、それは絶対の原則と呼んで差し支えないだろう。


 と。
 そんな会話をしながら、何気なく一歩を踏み出した――その瞬間であった。
 王冠のキャスターを除く全員が、心の臓を青褪めた死人の手で鷲掴みにされるような戦慄を覚えたのは。


「ッ……!?」
「何でござるか、これは……ッ」

 立香を庇うように立つ千代女だが、その頬には一筋の汗が伝っている。
 特定の一存在が放つ圧ではない。恐らくは、規格外の霊格を持つ複数の存在が同時に圧を散らしている。
 此方への威圧の意図などまるでなく、だ。言うなれば只の余波。布団を叩いた時、衝撃で舞い上がった埃のようなもの。
 それでこれだというのだから、この先で起こっている何か……聖杯大戦の一幕が神代の戦いと同規模のそれであることは最早疑いようもない。

「へえ。確かに凄まじいな、こいつは……」
「癪だけど、理解したわ。これなら確かに、他人に気を回してる余裕なんてあるわけない」

 燕青とエレシュキガルも感じたことは同じ。
 あの爆心地に近付いたなら、余計なことに気を回している余裕は一瞬にして消滅する。
 余所見は即ち粉砕されることと同義だ。自分の死を理解させて貰えるなら、まだ幸運な方。
 何が起きたのかも分からぬまま、一瞬で退場させられる――そんな無様で滑稽な末路が大真面目に有り得る世界がこの先には広がっている。
 如何な英傑でも神でも、これには一概に覚悟を余儀なくされる。死地を往く覚悟、そこで散る覚悟というものを。

「気を張っとけよ、マスター」
「うん……」

 背筋が粟立つ感覚を堪えながら、立香は燕青の声に頷く。
 そんな中で、ただ一人。口を開くことなく、爆心地の方をじっと見据える男が居る。
 エミヤ・オルタであった。訝る、というのでもない。恐れる、というのでもない。確かな驚きと、何か感じ入っているような瞳。
 突如として叩き付けられた脅威の気配は余りに巨大なもの。その為立香は、エミヤの奇妙な様子に気付けるだけの余裕を持つことが出来なかった。

「因果だな」
「え?」
「いや、何でもない。心配せずとも、直に分かるだろうよ」

 錆びた英雄は多くを語らない。今に分かると、後の波乱を仄めかすのみだ。
 視界の遥か彼方。神威乱れる爆心地。万人にとっての死地となり得る可能性を秘めた、ヴァルハラの最前線。
 そこに、因果の妙を感じさせる何かが居る。既にそのことを、エミヤ・オルタは悟っている。
 もちろん、凡人である藤丸立香にそれが何であるかを仔細に把握できる道理はなく。
 死地を走る覚悟と幾ばくかの不安を抱えながら、前に進むしかないのであった。
 魔女の嘲笑を視界の端に収めながら。ただ、前へ。




「紛れたな、何か」

 巨人――そんな形容が似合うであろう偉丈夫だった。その身長は優に三メートルを超え、四メートルの大台にさえ迫っている。
 どれほどの鍛錬を積んできたのか、体格も岩が人の形を覚えたかのように隆々。生半可な刃物では、果たしてその薄皮をすら破れるかどうか。
 頭に被った冕冠は帝王の証だ。蓄えた黒髭に一切の不潔感はなく、むしろ彼の持つ男性的魅力を何倍にも跳ね上げていた。
 だが何より特筆すべきは、両の瞳に灯る光であろう。恒星の瞬きをすら思わせる、深い黄金色。
 どんなに自堕落な遊び人でも、この光を見たならば自分の怠惰を恥じて馬車馬のように働き始めるに違いない。
 万人に尊敬の念を抱かせる、支配する者の威光。意識もせずにそれを振り撒き、存在するだけで人を統べる"天性の支配者"。それが彼である。

「貴様も気付いたか、ライダー。悪神め、性懲りもなく役者を揃えるのに奔走していたらしい」

 一方で、そんな男と物怖じ一つせずに相対する影が一つ。
 金髪をポニーテールに括った、まだ少年と呼べるような背丈の戦士だった。顔立ちもあどけなさを残しており、十分愛らしいと形容できる範疇だ。
 しかしながら、彼に弱々しさ、幼さの類は微塵も感じられない。どこまでも雄々しく、堂々としている。
 剣を握る手に緩みはなく。鍛え抜かれた総身は引き締まり、その肉体は既に一つの完成形と呼べる域に到達して久しい。
 万夫不当の帝王と恐れを知らない少年神。彼ら二騎の周囲百メートルは、無数のクレーターによって破壊し尽くされていた。

「気付いたか、とは白々しいなセイバー。此処が誰の領域か、忘れたわけではあるまいに」

 そう、此処はライダーが拠点と据える領域。
 人呼んで天帝陵墓――大聖杯を巡って戦争を繰り返す、五つの神話の一角である。
 万の軍勢が待機する天帝の寝床に土足で上がり込んだのが、この少年神……神聖冥府のセイバーだ。
 万軍の長であるライダーが自ら出向いてきたのは、それだけセイバーが油断ならない実力の持ち主であるからに他ならない。
 少なくとも、闇雲に兵をぶつけるだけでは資源を投げ捨てるだけに終わる。そう踏んだライダーは、直々の制裁という決定を下した。

「生憎、戦いはすぐに終わらせたい質でな。開戦の号砲が響いてから相応の時間も経っている。そろそろ、一人くらいは落ちてもいい時期だろう」
「呵呵呵呵! 吠えたな小僧。言うに事欠いて、この余の首を落とすと豪語するか?」
「心配するな。痛みを感じない斬首の仕方は心得てる」

 セイバーの握る長剣が、太陽もないのに眩しい碧天の光を反射して気高い煌きを放つ。
 まさしくそれは英雄の輝きだった。支配し、共に往くライダーとは真逆。常に挑み、一人でも戦うのがこのセイバーという神なのだ。
 彼がライダーに向けて言った台詞は大言壮語でも何でもない。確たる実力の伴った、宣戦布告だ。
 戦いの停滞は好まない。よって此処で貴様を殺し、聖杯大戦を進展させる。俺にはそれが出来る(・・・・・・・・・)
 一方、自分の矜持を踏み躙るような物言いを食らったライダーであるが、特に動じた様子はなく不敵に笑うのみ。
 笑みの理由は、ただ一つ。彼にもまた、セイバーという外敵を討ち取れる心算があるのだ。互いに己の勝利を微塵も疑っていない。

「腹を抱えて笑いたいところだが、しかし上に立つ者というのは不便なものでな。常に並ぶ者のない絶対者でなければならんのよ」

 セイバーの目が鋭く細まる。来るな、と察した故だった。
 そしてその予測通り、一瞬の間も置くことなく、透明な大衝撃が彼の頭上から降り注ぐ。

「余の陵墓で余を侮ったのだ。すまんが、皆の溜飲を下げる為だ。屍になってくれ」

 それはほとんど、巨大な破城槌の炸裂に等しかった。
 セイバーほどの英傑をしても目を凝らさねば認識出来ないほどの薄さでやって来る超威力の衝撃波。
 並の英霊ならば一撃で潰れるのは間違いないし、神話に名を連ねる者達といえども直撃すれば大きな傷になる。
 セイバーはそれを軽やかなステップで右に飛び、回避。逃れた地点にも追い掛けるように同じ攻撃が殺到するが、それは彼も読んでいる。
 白銀の線が世界に走る。文字通りの神速で振り抜かれた剣閃だ。セイバーはこれを以って、帝王の制裁を文字通り"切断"し、難を逃れた。
 次の瞬間、セイバーが地を蹴り弾丸となる。高速の疾駆に派手さはないが、彼の剣もまた一振り一振りが致死に届く威力を秘めている。

「―――去ね、天帝」

 狙うのはただ首筋のみ。一斬必殺、それだけを目指して。
 生涯をそれに捧げた剣豪でさえ舌を巻くほどの技を事も無げに振るい、天帝の斬首という偉業の達成を狙う。
 されど敵もまた傑物。必殺の間合いに入られて尚不敵に笑うその意味は、この程度では詰ませんぞ、という無言の圧力だ。
 白銀剣の行く手を阻むようにライダーが振るったのは、己自身の拳。
 刃と拳が遂に触れ合えば、甲高い衝撃音を響かせながら両者を中心にまたクレーターが広がり出す。
 互いが同時に得物を引いた。それは無論、戦いの終わりを意味などしない。
 ライダーの拳がセイバーではなく、その手前の空間に叩き込まれる。
 すると、どうだ。バキ、と何かが砕けるような音が響くや否や、隕石の衝突と錯覚するような大衝撃がセイバーを剣諸共に跳ね飛ばしたではないか。

 何という膂力。
 何という規格外。
 天性の魔性共にも匹敵、それどころか凌駕するだろう力。
 これぞ、天帝を絶対たらしめる所以の一つである。

「そうら、出来の悪い肉団子にでもなってみるか?」

 吹き飛ばされたセイバーへの追撃として、再びあの透明な破壊が襲い掛かる。
 全方位から同時に押し寄せたそれに巻き込まれたなら、今度は致命傷どころではない。確実な死が待っている。
 ライダーの言う"出来の悪い肉団子"になるまで力ずくで圧縮され、神の惨殺死体が出来上がるのは確実だ。
 しかし、そこは神聖冥府の英雄神。
 窮地といえどもこの程度。逃げ場がないくらいのことで、彼は滅びない。
 カッと目を見開けば、最初に見せた一閃の更に三倍は上を行くだろう速度で剣を振るい、自身の真上から迫る衝撃波を両断。
 生まれた隙間に剣を突き立て、強引に抉じ開ければ一気に跳躍。
 自分を殺す凶器となる筈のそれらを足場に、天高く跳び上がってみせる。

 空気抵抗すら己がものとして利用しながら、空中を泳ぐようにセイバーは進んでいく。
 ライダーが迎撃の為に放っていた衝撃波は更に数十存在したが、刃を風車のように回転させることで悉く細切れにし、無力化した。
 無窮の武錬。いついかなる状況にあろうが、セイバーの武技は決して衰えない。
 常に最上値を維持し続ける様の、何と恐ろしいことか。

「驕るなライダー。貴様は確かに偉大な英霊であろうが――」
「ほざくな小僧、誰が驕るかよ。余が敵の力量を見誤る愚帝だとでも思うたか!」

 一撃斬首。
 辛辣な言葉と共に振るわれた必殺刃は、しかし突如として出現した暴風の帯によって阻まれた。
 核爆弾さえ問題にならない、と称される台風のエネルギーをそのまま取り出したような密度の帯は、それだけでAランクの防御宝具に匹敵する。
 ただ、まあ。それだけならば、セイバーにとっては敵でさえなかった。
 彼にとって雨、風、雷……嵐に纏わるものは全て己の力だ。道を阻むどころか、奪い返して逆にライダーを喰い殺す茨にすることも出来た。
 しかしセイバーに、そうすることは出来なかった。何故か。答えは、そこに"混ざり物"があったからだ。

「……"地震"か。台風の壁に地の震撼を溶け込ませているな」
「余にとって全ての災禍は飼い犬よ。二重属性ともなれば魔力をそれなりに食うが、何。大した損耗でもないわ」

 セイバーは、ライダーの真名を知っている。
 なるほど、天帝の名に不足なしだ。
 かの国の歴史を逆さにひっくり返したとして、この偉丈夫に並べる英傑が一体どれだけいるか。
 巨人じみた巨躯の背後に見える、山岳を彷彿とさせる竜の威容は果たして幻なのか?
 いいや、違うな――セイバーは柄を握る力を一段強める。

「因みに、だが。余もお前の意見には全面的に同意だ」

 此処からが本当の死線。
 此処まではただの座興。
 天帝が竜を出した。いや、竜が出てきたというべきか?

「余も思うていたのだ。そろそろ戦況を動かす頃合であろう、と。
 停滞は兵を錆び付かせる。此処らで一つ、勝利の美酒を呑ませてやらねばなるまいと」

 ヴァルハラに集いし五つの神威。それらを統べる者は皆、いずれも手札を隠している。
 当然だろう。どんな札遊びでも、自分の手札を全て晒しながら戦う阿呆などいない。
 手を隠し、或いは敢えて見透かさせ、水面下の戦闘を演じるのだ。
 そして、揃ったいずれもが傑物ならば。手札を晒した瞬間は、それ即ちどちらかの死(・・・・・・)である。
 晒した側がそれを破られて敗北するか。見せられた側が順当に敗れて死ぬか。
 つまり――


「出でい我が竜、我が朋友(とも)よ。余の号令を以ってお前の無聊を慰めようぞ!!」


 これより戦いは死合になる。
 屍山血河の舞台、ではないが。
 どちらかが死にどちらかが残る、至って原始的な趣向。
 それを悟るや否や、セイバーは己の剣に尋常ならざる出力の魔力を流し込んだ。
 発光する蒼。セイバーとて、秘奥を抜かずにこの偉大な帝を殺せると自惚れてはいなかった。
 迷っていたのは、抜くタイミング。晒すからには、殺せる瞬間でなければならない。晒したからには、仕損じてはならない。
 その観点から見ても、此処以外に切り時はあるまい。
 生き残る。殺す。それだけを胸に神は刃を研ぎ澄ました。

 渦巻く竜の気配。
 弾ける神の稲妻。

 ――いざや砕け散れ、至上の神威。
 ――いざや斬死せよ、至高の天帝。

 いざ、いざ。
 絶死の間合いが開かれる――その瞬間であった。


 天帝と英雄の視界の端に、新たに"紛れ込んだ"者達が入ったのは。




「マスター、呼吸をゆっくりして」

 その壮絶なる光景を前に、口を開いたのはエレシュキガルだった。
 立香はそれにこくりと頷く。常人である彼女にとって、目の前の戦いは"起こっている"ことそのものが有害だ。
 第一から第五までの特異点で慣らされ、第六を経て、第七を踏破した彼女だからこそ耐えられている。
 もしも何の経験もない一般人が彼女の位置に立っていたなら、間違いなく過呼吸を起こして意識をやっているだろう。

「……ありゃ中華(こっち)の英霊か? どこの誰であるにしろ、結構なビッグネームみてえだが」

 燕青が見据えるは、人間とはとても思えない背丈の偉丈夫だ。
 背後に巨大な竜の威容を浮かび上がらせている姿は、今までに出会ってきた神霊達と比較しても何ら引けを取らない。
 べらぼうに強い。立香含めた全員が理解した。これが荒れ狂えば、全員がかりでも止められるかどうか分かったものではない。
 それだけの格を持つ男だ。圧倒的な暴力の気配をこれだけ匂わせているのに、しかしカルデアの碩学達に並ぶほど深い叡智が透けて見える。

 ――天帝陵墓のライダー。天帝。キャスターに語らせるまでもなく、本能がそう理解させた。

 そして、恐るべきは天帝のみではなく。
 彼と相対しているポニーテールの少年も、そのあどけない見た目からは想像も付かないが……超絶の手練れだ。
 立香は亜種平行世界……下総国にて数多くの武人を目撃している。
 武の究極に行き着いた者達。宝蔵院胤舜、巴御前、望月千代女、源頼光、酒呑童子、柳生宗矩、そして宮本武蔵。
 そうした面々と同じものが、彼にはあった。流石に、この天帝と互角に打ち合っていただけのことはある。
 彼らの瞳は、ある存在へと向いていた。揃いも揃って、強い嫌悪を込めた視線。
 好き嫌いの感情は突き詰めれば殺意になるのかと見る者に悟らせるほど、鋭く、重い眼差し。

「熾天の魔女……その薄汚い足跡を二度と余の陵墓に刻むなと、前に警告した筈だが」
「いやあ魔女なんで。人の嫌がることはついついしちゃうっていうか……」

 あははー、と肩を竦めて笑う魔女とは対称的に、天帝の顔にはわずかほどの緩みもありはしなかった。
 心の底から彼女のことを忌んでいるのだろう。いや、正しくは……彼女達《熾天の冠》の全てを、か。

「踏み潰される覚悟は出来ていような?」
「そこの人達が」
「ちょっ!!」

 例文を引いたらこのシチュエーションが出てくるんじゃないかというほど美しい話題反らしをやってくれた魔女に、立香は思わず声を上げる。
 普段ならギャグで片の付く状況だが、天帝の眼はギロリと魔女からカルデア御一行の方を向いた。
 千代女が立香を庇うように前に出る。燕青は有事に備え、静かに拳を振るう準備を整えて。
 エレシュキガルは立香を直接守るのではなく、天帝の攻撃による間接的な災禍の発生に備えているように見える。
 エミヤ・オルタは……構えを取らないままだ。何か考えがあるのか、それとも既に諦めているのか。前者ではあろうが、彼の考えは誰にも分からない。

「承知した」

 一瞬――世界から音が消えた。
 嵐の前の静けさという言葉を最初に思い出したのは、誰だったか。


「では、諸共に死に絶えよ」


 音が世界に戻るや否や、信じられない事象が発現する。
 天帝の前方、一メートルほどであろうか。
 その辺りの地点の空間が、ガラス細工を机に叩き付けたような音を立ててひび割れた。亀裂が走ったのだ、世界そのものに!
 これが攻撃であることに気付けないうつけはいない。千代女は、刹那にしてこれから来るものが只の武芸では凌げないと即座に理解。声を上げる。

「エレシュキガル殿!」
「ええ、任せるのだわ!」

 千代女とエレシュキガルの付き合いは決して長いわけではない。
 共に死地を往くのも今回が初めてだ。しかしこの時ばかりは、くのいちの職務を通じて培った判断力が活きた。
 集団戦とは即ち適材適所。千代女は達人ではあれど武人ではない。自分に出来ることと出来ないことの区別は誰より付いている。
 任されたエレシュキガルも一瞬で意図を理解し、前へと出れば自身が持つ冥界の女神としての権能……"冥界の護り"を行使。
 やって来る衝撃に備える体制が完了した――そのちょうど一秒後だ。大陸に直接殴られたような衝撃が、女神の防衛ラインに直撃したのは。
 人の心を無造作に撹拌し、不安を抱かせる恐るべき震動。……地震か! 立香は理解と同時に戦慄する。
 都市を、場合によっては国をすら崩壊させる大災害! それを、眼差し一つで操るなんて!!

「ぐ、こ、のおおおおお―――!!」

 しかしエレシュキガルも負けてはいない。
 彼女とて冥界という一つの世界を司る神である。
 この程度止められずして、冥界の女神など務まるものか。
 自身の矜持と半ば気合いで受け止めきり――衝撃を空に逃して抹殺した。
 「やるねぇ」と口笛を鳴らす燕青だが、破られた側の天帝はつまらなそうに、言う。

「余の采配に逆らうか? 好い。では、殴り伏せて従わすまでよ」

 そして、二度目の大地震が炸裂した。
 さしものエレシュキガルも、顔に汗が伝う。
 冗談じゃない。こんな災害を、じゃあこうしてやるか、くらいの口調で連打してくるな!
 まずい。まずいまずいまずい……! 立香はそこで、己の礼装に思考を向ける。
 緊急回避を抜いてエレシュキガルの安全を保障した上で、敏捷に優れる千代女と燕青で攻めるか?
 虎の子である魔術礼装の使用すら視野に入れた、まさにその時。

「三度目だ」

 更に降り注ぐ大炸裂――どうやら本当に際限がないらしい。
 だめだ、迷っている暇はない。
 後先を考えていたらこの場で死者が出る。
 マスターとして、彼らの主として取るべき最善手は……!
 立香がいざ、決断へ踏み切らんとした……瞬間。


「待て、ライダー」


 横から割り入ったポニーテールの少年が、ライダーの破壊震を剣の一振りで両断した。

 たった一撃。
 その破壊力などたかが知れている。
 彼がこの超人芸を成し遂げたカラクリは、純粋な"技"の質にある。
 究極まで突き詰めた剣術で空震の隙間を縫い、結合を解いて脆くし、後は剣圧で粉砕する。
 単純な理屈だ。それが技を極めた者にも、力を極めた者にも不可能だということを除けば、だが。
 この少年は、両方の道を極めているからそれが出来る。
 神の裁きすら切断する、恐るべき英雄神。

「何故邪魔立てする、神聖冥府のセイバー」
「六番目の神話が散ったところでオレに不都合はない。
 むしろ望んでいた戦いの進展に繋がるのだから、望むところではある。だが」

 少年……神聖冥府のセイバーの瞳は、神の威光を思わせる鋭さ。

「生憎、果たしておくべきケジメがあってな。悪いが待ってもらうぞ」

 違和感のある物言いだった。
 まるで、カルデアと何か因縁でもあるような。
 しかしカルデアの戦いを全て把握している筈の立香でさえ、彼の容貌にはまったく覚えがない。
 正真正銘、初対面だ。こうして見つめられていても、さっぱりその正体に見当が付かない。
 ただ、皆が皆そうというわけでもないらしく。

「……随分と良いナリになったじゃないか。似合っていないぞ」
「心配するな、自覚はある。だが元を質せばこっちが真の姿でな」

 皮肉るように嗤うエミヤ・オルタと。
 糞真面目、と言ってもいい真面目さで応じる神聖冥府のセイバー。
 此処まで来ると立香にも、取っ掛かりのようなものは見えてくる。
 見れば燕青の方も、そういうことか?というような、まだどこか腑に落ちないような、そんな微妙な顔をしていた。

「カルデアのマスター、藤丸立香」
「……は、はい」
「正確に言えば、オレとおまえの間に縁はない。
 オレの管轄を離れた"オレ"が、勝手におまえに吹っ掛けただけだ。
 だが、出会ったからには聞かねばなるまい」

 問おう、とセイバー。

「――我が共犯者、ジェームズ・モリアーティは息災か」

「……っ!?」

 ジェームズ・モリアーティ。
 カルデアでも思うがままに騒ぎを起こしてくれている、犯罪界のナポレオン。
 彼の宿敵と言えばホームズだし、被害者と言えば数え切れない。
 しかし――彼を面と向かって共犯者と呼ぶ存在に、立香は一つしか心当たりが存在しなかった。
 けれど、それは有り得ない。だってその存在は、英霊ですらない筈なのだから。

「オレはおまえが想像している魔神の原典だ。
 オレが堕ちればアレになる。アレから堕ちを除けば、オレが残る」

 じゃあ、やっぱり――立香は生唾を飲み込み、続けた。

「貴方の、名前は……!」

「然り。神聖冥府のセイバー……真名を『バアル』という」





真名判明

神聖冥府のセイバー



真名


バアル





「……して、もういいか? 英雄神」

 欠伸を噛み殺すように、天帝が言った。
 どうやら本当に、今ので用は済んだらしい。
 ああ、悪かったな。その一言でセイバー……バアルは踵を返してしまう。
 だが、彼は一度だけ足を止めた。剣を向けるでも、守りに戻るでもなく、ただ足を止めただけだ。
 それはつまり、何かを言い残そうということ。これより死線越えに挑むカルデアの英霊達、そして人理救済のマスターに、最後の助言を――

「此処を生き延びられないようなら、どの道貴様達に未来はない」

 ――くれるほど、ヴァルハラの戦場は甘くない。
 突き付けられたのは、あまりに冷たい言葉であった。
 天帝相手に大立ち回りが出来ないようでは、遅かれ早かれ死ぬだけだと。
 自分にも、天帝にも、四終にもアバドンにも、穢らわしい王冠にも――勝てなどしないと。

「……まあ。それでも諦めないというのならば――」

「諦めないよ」

 立香は、即答する。
 それにバアルは一瞬、狐につままれたような顔をした。
 しかし次の瞬間には、その口元が軽い笑みの形を描く。

「諦めない。どうやってでも、絶対此処を生き延びる!」
「そうか。ならば――やってみろ」

 そう、諦めてなどいられないのだ。
 こんなところで死んでなどいられない。
 自分達は取り返しに来た。ついでに、殴り飛ばしに来たのだから。
 カルデアの大切なサーヴァントを取り返す。やらかしてくれた悪神を殴り倒す。
 これはあくまでその過程。通過するべき障害物競争のレーンでしかない。

「吼えたな、英雄(メシア)

 立香の啖呵を聞いた天帝は、此処に来て初めて不敵に笑んだ。
 面白い、と。それと同時に莫大な魔力が、災害が、その巨体の背後で渦を巻く。
 新参の救済神話……カルデア最初の試練が、冷酷無慈悲に襲い掛かる――!



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最終更新:2018年04月02日 17:40