基底二章:星の咆哮

 撤退戦――そう聞いて、勝利の二文字を思い浮かべる者は少ないだろう。
 撤退とは逃げるという意味。その言葉を使わざるを得ないという時点で、戦況がどうなっているかは明らかだ。
 そして事実、カルデアの状況は最悪に近かった。たった一人の帝王の存在が、あまりにも災害じみているから。
 キャメロットの獅子王、太陽王。それにウルクの賢王……そうした数々の支配者、統治者達と同じ威光を、この巨漢は所持していた。
 この手の人物の威容が見かけ倒しだった試しはない。いつだとて彼らは巨大な壁として行く手を阻む。今この時も、そうだった。

「手短にお伝え致しまする、お館様。
 これより暫し、拙者達がお館様の守護に回せる余裕は減少します」

 さ、と。長年仕えた忠臣のように立香の前で片膝を突き、望月千代女が"今後"のことについて伝える。
 バアルが去り、天帝陵墓のライダーが再び殺気を露わにしてからまだほんの五秒ほどしか経過していない。
 この短時間の間にカルデアの四騎が打ち合わせを交わしたということもないし、それどころか、彼らは一言も口を開いてなどいなかった。
 しかし千代女は己の経験と自分以外三騎の気性、思考パターンに基づいて、各々がこの場でどう行動するかを予測。
 ほんの数秒という僅かな時間の中で纏め上げ、こうしてマスターへ伝えに参じたのだ。
 恐るべきは、甲賀くのいちの迅速さ。甲斐武田に仕え、戦国の闇夜を駆け回った経歴は決して伊達ではない。

「ちーちゃんがそう言うってことは……分かっちゃいたけど、よっぽどなんだね」
「はい。拙者としても、仕えるべき主君にこのような物言いをするのは心苦しいのですが……」
「いいよ、そんなこと。それよりもっと詳しい話を聞かせて。これから、どうなるの?」
「撤退戦というのは、読んで字の如く"退く"為に行う戦いにござる。しかしながら、尻尾を巻いて逃げ出すだけが撤退戦ではござらん。
 もし今回それをやれば、我々の中から必ず犠牲が出ましょう。一騎なら最上、二騎で上等。順当に考えれば、三騎は失うものと見て構いませぬ」

 三騎の脱落で、まだ順当。
 千代女は立香を慮って口にはしなかったが、運が悪ければそれ以上もあり得るということだ。
 即ち、全滅。あの帝王一人の手で、カルデアの全てが崩れ去る未来も存在する。
 あまりの恐ろしさに、立香は背筋に寒いものを覚える。何度となく経験した感覚だが、こればかりはどうも慣れるということがない。

「そこで、拙者達はより確実な撤退の為、敢えてあの天帝と交戦致します」
「ッ……大丈夫なの!?」
「絶対に大丈夫、とは言えませぬ。されど、皆で闇雲に逃げるよりは確実に目の有る選択肢です」

 ぐ、と立香は奥歯を噛み締める。
 犠牲を絶対に出さないのではなく、出たとしても少なく留める為の作戦。
 それは本来、藤丸立香が嫌い、避けたがる類のものだ。
 千代女も、それを承知の上でこうして提案している。その意味が理解出来ない立香ではなかった――それほどまでに状況は切迫しているのだ、今。
 好きとか嫌いとか、そういう感情を寄る辺に動くことが出来ないほど……ただ撤退するというそれだけのことが、遠い。

「――わかった。でも、なるべく無理はしないで!」

 こくり、と小さく頷いて千代女の矮躯が風になった。
 それを合図に動いたのは、エレシュキガル。神の霊基を持つ彼女は槍を携え、先頭に立って帝王の暴威に対抗する。
 振り上げられた拳は災禍を伴って地に落ちる。炸裂した衝撃波が、目視出来るほどのエネルギーで空間をビリビリと軋ませていく。
 必然、後退を余儀なくされる冥界女神。そこにライダーは、肉体一つ動かさず災害の魔力放出を吹き荒れさせた。

 帝王の双眸が暁色に輝いた次の瞬間には、神さえ削り殺す二対の竜巻が発生。
 ローラーの要領でエレシュキガルを挟み込み、凄惨な粉砕劇を人理救済の英雄へ見せんとする。
 事実並の英霊ならばこれで溶けていた。その憂き目に遭わなかったのは、ひとえに"エレシュキガルだったから"という身も蓋もない理由に尽きる。
 得物の槍をつっかえ棒のようにローラーの間に突き立てて、貯蔵していた魔力を、帝王とはまた別の放出スキルで外部に出力。
 内側から風力ローラーを破壊し、どうにか難を逃れることが出来た。

「やるものよ」

 しかしその程度、この世界においては誰でも苦もなく行えて当然の芸当。
 新参者にしてはやる方だが、ならばこれは防げるか? 引かれた右腕。その手首から先に煌々と輝くのは、煮え滾る溶岩に他ならなかった。
 地震、風害、次は火山活動すらも己の権能として操ってみせるというのだ、この帝王は。

「こいつ、本当に何でもありね――!」

 優に千度を超える超高熱の拳は女神であろうと耐えられるものではない。
 必然、反撃よりも優先して回避を取らなければならないのだが、そうしている限りは帝王の君臨をいつまで経っても崩せない。
 撤退を確実に成し遂げる隙を作り出すのはおろか、掠り傷の一つも付けられるか怪しいから嫌になる。
 そんなエレシュキガルはされど、一人で戦っているわけではなく。
 彼女の真横を飛び越えるようにして帝王の懐に悠々踏み込む、一人の侠客の姿があった。

「ぬ……!」

 まさに影。
 その足取り大胆不敵にありながら、獲物の喉笛を喰い千切るイタチが如く正確無比。
 女神エレシュキガルの大魔力を間近で前にしても眉一つ動かさなかった男の顔に、初めて驚きの色が浮かぶ。
 抉るような拳は音を置き去りに放たれた。穿つは凶星、狙うは一箇所、天災大帝の心の臓――
 これぞ百八魔星、天巧星。燕青という侠客の振るう、恐るべき冴えた拳よ。

「ふはッ―――!!」

 だが王は躱すでもなく、真っ向からその身で以って受け止めることで燕青に対し応じた。
 それはまるで、彼という拳士の力量を一瞬とはいえ見誤った非礼を詫びるかのよう。
 鋼のように鍛え上げられた肉体に染み込んだ衝撃は、帝王の臓を撹拌、無遠慮に蹂躙した。
 無論これしきの威力で総崩れになるほど彼の肉体は柔ではないのであったが、カルデアが初めて彼に与えた痛手という意味では成程合っている。
 現に今ライダーが吐き捨てた唾には血が混じっていた。燕青の拳が流させた、赤色。そこにある生命が傷付いたことの証左。
 にも関わらず燕青は肩の一つも竦めたい心地だった。殴った拳の痺れと、目の前の男が健在であるという事実。

「……今のをモロに喰らっておいてそれか。骨が折れそうだねえ、分かっちゃいたが」
「あの天こそが余を帝と定め、余の陵墓でとぐろを巻く龍さえが余を皇と崇めた。
 故に余こそは皇の中の皇、帝の中の帝――"天帝"であるのだ。天を司る偉大な帝王が、賊の狂拳程度受け止められずして何とする?」
「どうだろうな。あまり驕ってるとその首、あっさり胴体を離れることになるかもしれねえぜ?」

 ニヤリと笑む天帝に、燕青もまた笑みを浮かべるしかない。
 成程、随分な大物のようだ。皇帝の名を持つ者も王の中の王を豪語する者も知っているが、両方に加えて天まで司ると来るか。
 笑みの下で侠客は思考する。燕青拳の真髄、"無影"の如き鉄拳を急所に打ち込めば、この天帝を倒せるか?
 普通なら分かり切った問いの答えを、確信を以って断言することが出来ない。この男ならば、と危惧を口にする自分が確かに存在している。

「どうした。よもや終わりではあるまい? もっと見せてみろよ、若いの」

 帝王の双眼が紫電を帯びた。来る――悟ると同時に構えを深くした燕青に、ライダーの破壊拳が轟いた。
 単純な武芸として見るなら、優れてはいるがまだまだ燕青や彼の同胞達には及ばない力任せな代物である。
 だがその未成熟さを補うのが、彼の戦闘の骨子にして立役者でもある、災害のエネルギーだ。
 大気をひび割れさせるほどの大震動を帯びた拳と、天巧星が誇る魔拳とが虚空を通じて激突する。
 燕青は、己の骨が全て砕けるのではないかと錯覚した。天帝も、隙を見せれば二撃目で命を取りに来るな、と即座に悟った。
 それぞれ悟るや否や、燕青の行動は速い。獲物を食らう燕のように、ライダーの首筋へと拳を放った。

 天帝は紛れもなく、怪物である。
 しかし彼の領分はあくまでも、災害の魔力を付与(エンチャント)した一挙一動による圧殺なのだ。
 純粋な技の冴え、拳の鋭さにおいては、その道を極めた燕青には遠く及ばない。
 そのことは無論、彼自身よく理解しており。故にこそ過つことなく、己なりの戦い方で以って侠客を叩き伏せることにした。


「――――呵ッッ!!」


 吠えるや否や、ライダーを中心とした半径数メートルの空間が音を立てて爆散した。
 勿論、本当に空間が天帝の声に臆して自ら弾け飛んだというわけではない。
 彼が今行ったのは、震動の災禍を指向性を与えることなく周囲に発散させるという芸当。
 狙いが散っている以上行動そのものの威力は幾分低下するが、しかし。

「何でもありか、おたく……ッ!?」
「言ったろう、余は天を司ると」

 己の肉体以外に盾となるものを持たない拳士にとっては、それは事実上回避不能の攻撃に等しかった。
 身の軋む感覚を堪えながら、両腕を交差させどうにか衝撃を殺しつつ後退する燕青。
 稚拙だな、と天巧星は自嘲した。こうするしかなかったとはいえ、これほどの怪物の前で取る方策としてはあまりに拙すぎる。
 そしてそれを咎めぬ天帝ではない。常人の倍は優にあろうかという巨体が轟音を奏でながら迫り、その巨腕が燕青を乱雑に掴み寄せた。
 一瞬の浮遊感。だが次の刹那には、彼の肉体は地へと向かっていた。天帝の腕に掴まれながら、燕が地べたに墜ちる。

「去ねい」

 地に背が触れると共に、万象粉砕の災禍が燕青を蹂躙した。
 捲れ上がる地面、気を抜けば意識さえ磨り潰されそうな大衝撃。
 かっ、と燕青の肺から空気が逆流し、その口からは血糊が噴き出した。
 地震を拳に乗せ、大地と板挟みにする形で敵に叩き付ける。
 文に直せばこれほど単純な芸当でしかないというのに、何故こうも恐ろしい威力が生まれ出るのか。

「このまま潰してくれよう。先ずは一騎よッ!!」

 吼える天帝に対し、燕青に抗う術は存在しない。
 あわやこれまでか、百八魔星の侠客よ。
 その拳術の真髄を見せることもなく、帝王の前に蹂躙され尽くし、屍を晒してしまうのか!
 ……否だ。その証拠に燕青が浮かべたのはまたしても笑み。されどその笑みは、帝王に向けられたものに非ず。
 息を潜めながら機を伺っていた味方へと時を示す、彼なりの合図に他ならない!
 天帝がそれに気付くよりも遥かに速く――黒く小さな一羽の雀が、帝の首へと刃を躍らせた。

「しッ――!」

 望月千代女。
 極東の凶手が振るった魔刃は、帝王の五感をして感知不能の影を縫うが如きそれである。
 狙うのは敵の頸動脈ただ一点。千代女は先の燕青との打ち合いをよく観察し、帝王自身の近接対応力は然程抜きん出ているわけではないことを見抜いていた。
 それならば、タイミングさえ見誤らなければ押し切れる。暗殺の真髄とは大物喰らい(ジャイアントキリング)。従って当然、この場で千代女が狙ったのはそれであった。

「賢しい雀よ!」

 飛ぶ鳥を落とすなら雷、と踏んだのか。
 震動の代わりに紫電を宿した豪腕を、まるで羽虫でも振り払うように一閃するライダー。
 しかし手応えはない。まさに雀のように高速で飛び回る千代女は、その時には既に帝王の背へと移動を果たしていた。
 そして再びの閃撃。結論から言うと攻撃自体はライダーを切り裂くことなく、ギリギリの頃合で避けられているのだったが――そうあっさり屠り去れるなどと夢見てはいない。
 数に飽かすかと、つまらなそうに鼻を鳴らし、帝王が下す一手は燕青にしたことの焼き直しだ。
 軋む空間、爆ぜる衝撃。全方位を同時に蹂躙する地震の猛威が華奢な巫女の総身を粉砕せんと迸る。
 だが、次に空を切るのはライダーの方であった。
 そうすることは最初から分かっていたとばかりに、千代女は遥か真上へと跳んだのだ。蹂躙の震動が届かぬ位置まで、一瞬で。

「――滾れ、我が血よ……!」

 刹那、結ばれる印。
 動作の完了と同時に、空を引き裂いて悍ましき呪の波動が噴き出した。
 蛇を象ったそれは、望月千代女が――甲賀望月の者が各世につき必ず一人引き継いで産まれるというおろちの呪。

「隣国の龍神め、随分と惨い仕打ちをする」

 一目にして千代女に根付いた大明神の神体と性質を看破したライダーは、心底憐れんだように千代女を見てそう呟いた。
 俗に王、皇の肩書きを持つ者の中には、非業の運命を押し付けられた者を肴にして杯を呷るような嗜好の持ち主が少なくない。
 だがこの天帝は、そうではないようだった。
 年端も行かぬ少女に質の悪い呪詛を背負わせて神を気取る存在に、一人の男として胸糞の悪いものを感じている――そんな風に映る。
 天帝は最大の軍力を有する。王冠のキャスターはそう言ったが、どうやらその軍力は、単に力をひけらかすことで手に入れたものというわけではないらしい。

「だが余を喰み殺すと豪語するならば、この七倍は揃えねば不足と心得よ――!!」

 獰猛の一言に尽きる、王者の破顔。
 一喝と共に振るわれた拳は大地を揺るがす破城槌だ。
 詛呪の波動を世界ごと罅割れさせる、破壊の魔拳。
 大言壮語と笑い飛ばせる者がもしあるのなら、連れてきて刮目させるべきだ。
 この圧倒的な君臨を、絶望的な災いそのものを!
 もし嘲り笑えるというのなら、それはこの天帝と同格の王気(オーラ)を持つ者のみであろう!

 拮抗は長く続かなかった。
 詛呪を打ち砕いて、巫女へと迫る強震。
 それそのものが魔力放出による賜物という時点で恐ろしいが、しかしだ。
 逆に言えば、これはあくまでスキルの範疇から繰り出される芸当なのである。
 天帝陵墓のライダーは未だ宝具の兆ししか見せていない。それで、これだ。王冠のキャスターがカルデアを侮る理由も、確かに分かるというもの。
 ――されど。

「ぬ……?」

 戦いとは、力だけでするものに非ず。
 おろちの呪を力ずくでライダーが粉砕し、晴らした時、そこに千代女の姿はなかった。
 あったのは、質の悪い罠の存在。第二次波と言わんばかりに、更なる激しさで赤黒い呪の魔力が帝王を呑み込まんとする。
 芸のない真似を。鬱陶しげに、地震の猛威をより上の出力で打ち込み、千代女の呪を再度正面突破する天帝。
 その上で、千代女自身の魔力を感知。気配遮断の解けた凶手を確実に屠らんと、裁きの鉄拳を振り抜いた。
 それは過つことなく甲賀巫女の矮躯を押し潰す軌道を辿っていたが――結論、帝王の拳は半ばにて阻まれる。

「……!」

 元はさぞかし名のある名剣であったのだろう。
 それを、鍛冶の心意気や意思を踏み躙りながら改造した顛末がそこにあった。
 王の一撃を阻む壁として、錆びた微笑と共に詛呪の先へと立っていた。

「――I am the bone of my sword.」

「……貴様」

 望月千代女を見た時のそれとは全く別種の反応を、ライダーは眼前の英雄へと向ける。
 浅黒いを通り越した異常な肌、異様な得物。立ち上る血と硝煙の気配。
 否々、そんなものはすべて些末。真に驚くべきは、穢れている、等という月並みな言葉では言い表せない程変容したその霊基よ。
 こうして間近で対面して初めて分かった。これは呪いに非ず、勿論祝福にも非ず。腐敗だ。生きながらに、霊基が腐り落ちているのだ。
 一体如何なる道を辿ればこれほど変わり果てられるのか、帝王の叡智をもってしても答えが出ない。
 これは危険だと、ライダーは即座に判断。振るった鉄拳を引き戻さんとするが――既に遅い。

「惨たらしく絶命しろ」

 錆びた英雄……エミヤ・オルタもそれを理解しているからこそ、引き金に伸ばした指の動きに淀みはなかった。


「───So as I pray,Unlimited Lost Works(無■の剣製)


 吐き出される弾丸。
 それは只の銃弾に非ず。
 この男の心象風景、生涯をかけて歩んだ道程が凝縮されている。
 ――固有結界。ありとあらゆる"剣"の概念を持つ兵器、その全てを蓄積した凶弾。
 接触をトリガーに、敵の体内に生じる極小の大魔術……それが齎す内部破壊の威力は、如何なる大英傑であろうと耐えられるものではない。
 そしてこの間合いでは、どんな対処を取ろうと全てが遅い。全てに先駆けて、剣の炸裂が訪れる。

 何に阻まれることもなく、凶弾は帝王の甲冑へと到達した。
 幾度、幾十度と繰り返した必殺の型。無銘の殺意は天をも射抜き、炸裂させる。
 だが――


「……何」

 驚愕を浮かべるのは、エミヤ・オルタの方であった。
 馬鹿な。有り得ない――いったい何が起こっている。
 確かに己の弾丸は天帝のライダーに触れ、必殺の条件は満たされた筈。
 となれば待つ結末はただ一つ。文字通り、惨たらしい絶命のみだ。
 にも関わらず、剣の爆ぜる瞬間がいつまで経っても訪れない。
 寄生蜂のそれを思わす、体内からの固有結界炸裂が起こらない。
 天帝はただ、笑みと共に君臨し続けている。
 この恐るべき支配者が、何らかの手を講じたことは最早論ずるまでもなく明白だった。

「……いやはや、驚いた。面食らったわ、今のは。よもやこの余が、まんまと殺されかけて(・・・・・・)しまうとは」

 本心だった。
 カルデアのサーヴァントの連携は、確かに天帝の喉笛へと届いていたのだ。
 鋭牙を以ってそれを食い千切り、大物喰らい(ジャイアントキリング)を成し遂げる――その工程は確かに完了していた。
 だというのに、いつまで経っても肝心の"死"だけが訪れない。天帝の血潮がぶち撒けられる、当たり前の結果だけがいつまで経ってもやって来ない。
 無論、カラクリなくしてそんな芸当を可能に出来る者など存在しない。手品には種があり、物事には理屈がある。
 即ち、"宝具"。死の結末を覆し得る、超級の神秘。

「『白澤図(バイゼトゥ)』を抜かねば、死んでいたな」

「……そういうことか」

 『白澤図(バイゼトゥ)』。
 天帝が口にした、恐らくは宝具の銘であろうワードに、真っ先に反応したのは燕青だった。
 天帝という称号も、その装いも、彼の出身地である中華のそれだ。
 故に、気付くのも最も速かった。燕青の頭の中には既に、この強大な帝王の真名が浮かんでいる。

「白澤、図……?」 
白澤(はくたく)。中国において吉兆の印とされる、深い叡智を持った聖獣よ。
 一万以上の妖異鬼神についての知識を持ち、世の害を効率的に取り除く手段を人に授けるといわれているわ」

 疑問符を浮かべるしかない立香に、語って聞かせるのはエレシュキガルだ。

「じゃあライダーの真名は、その"白澤"ってこと!?」
「そうじゃないのだわ! ……『白澤図』っていうのは、ある伝説の皇帝が白澤に出会った時、部下にその忠言を書き取らせた"マニュアル"なの」

 白澤。人語を解し、万物万象に精通するとされる中国の聖獣。
 白澤は徳の高い為政者の治世にのみ姿を現し、為政者を病魔や苦難から遠ざける存在として信じられた。
 為政者は身近に白澤に纏わる物を置き、時の皇帝は自らの護衛隊の先頭に白澤を描いた旗を掲げたという。
 だが――その白澤と直接語らい、白澤の叡智を書き記させ己の治世の糧とした皇帝は、久遠の中国史を遡ってもただ一人しか存在しない。
 一万と千五百二十の妖異鬼神……人に災いを齎す病魔や天災の象徴とそれらへの対処法。
 エレシュキガルはマニュアルと表現したが、まさにその通りだ。
 白澤図は、未だ怪異や天災、人に仇なす神秘で満ちた時代を生き抜く為の"攻略本"であった。

「当たれば内から爆ぜ飛ぶ固有結界とは、神代の災禍にも勝る剣呑さよ。
 ……だが、相性が悪かったな。余の中に踏み入って冒す厄災ならば、『白澤図』はその全てを弾き出すことが出来る」

 天帝の君臨は何者にも冒せない。
 たとえそれが、防御不能の固有結界であろうとも。
 聖獣の忠言を以って作り出した対魔の書(マニュアル)は、寄せ来る全てを弾き飛ばす。
 本当に、相性が悪かったのだ。仮に無銘の英雄が"反転していない"状態だったなら、彼の展開する無限の剣は、確かに帝王を貫けたろうに。

「白澤の忠言を書き記し、遍く災禍を跳ね除けた聡明なる為政者。……そうか。貴様、中華が誇る"医学の祖"か」
「いかにも。余こそは三皇の治世を継ぎ、中国を統治した始まりの五帝。中国医学の祖にして、悪の軍神を破った天帝」

 ギラリと、その眼光が紫電を帯びた。
 神の威光を思わす力強さと深い叡智を孕んだ、鋭い眼差し。
 立香の背筋がぶわりと粟立つ。忘れもしない、天狗の魔貌を少女は思い出した。

「――我が名は"黄帝"。この陵墓を統べる主であり、華胥の国を目指す走狗の一匹よ」





真名判明

天帝陵墓のライダー



真名


黄帝





 黄帝。
 その名は、立香でさえ覚えのあるものであった。
 人理修復の要は、無知無学のままで務まる仕事では断じてない。
 他の英霊や後輩の少女から教わったり、或いは自分で文献を漁ったり。
 そうやって知識を深めていく内に知った幾つかの英霊の名前。
 その一つが、この"黄帝"だ。大英雄と呼んでも何ら差し障りのない、恐ろしく偉大な帝王。
 ロキ、バアルと来て、今度は黄帝。此処に来てからというもの、とんでもない名前ばかり耳にしている。
 改めて立香は、自分の身を投じた戦場の恐ろしさを実感するのだった。

「まずは賞賛を送ろうか。よくぞ余の名へ辿り着いた。
 余の見立てでは、白澤図を出すまでもなく終わる筈であったが……どうやら見縊りすぎていたらしい。その点に付いては、謝罪しよう」

 皮肉ではない。
 心から、黄帝はカルデアの奮戦に賞賛を送っている。

「だが、それまでよ。此処からは余も本気で潰しに掛かる故な。
 何しろ一度は討たれかけたのだ。これで己を改められぬようでは、皇帝の名折れというもの」

 だからこそ恐ろしいのだ。
 誇らしいとか、そういう感情の前に恐ろしさが来る。
 これほどの英傑が本気で殺しに来るというのだから、戦場の過酷さが此処までと同じ次元の筈がない。
 果たして、逃げ切れるのか。いや――出来るのか、ではない。やれなければ、此処で終わってしまう。
 膨れ上がる神気、人間離れした巨体の背後に浮かぶ龍の威容。
 目を逸らすことなくそれを睥睨しながら、立香はぎり、と奥歯を噛み締めて……


「陛下――至急、お耳に入れたいことがございます」

 その時である。
 これまで戦場に姿を見せた誰のものとも違う、男の声が響いたのは。
 誰に憚ることもなく堂々と姿を現した新たな役者は、人形のように美しい青年だった。
 天然パーマの掛かった白銀の頭髪、白磁の肌。口に浮かべた笑みに胡散臭さはなく、ただただ儚げで美麗。
 黄帝を陛下と呼んだ彼が天帝陵墓に仕える従者であることは問うまでもなく明白だったが、彼は紛うことなき、英霊の気配を帯びていた。

「非常時か、キャスター」
「はい。緊急時、と呼んでも誤りではないかと」

 その言葉だけで、黄帝はほぼほぼ全て、部下の伝えたがっていることを理解したらしい。
 口から漏れる嘆息。つくづく傍迷惑な奴よ、とでも言いたげな所作の後。
 紫電の眼光は、カルデアと己の戦いを観客として傍観していた王冠のキャスターへと向けられた。
 どんな猛獣でもその場に縫い止められ、震え上がるであろう敵意に溢れた眼光を受けておきながら、白々しく口笛を鳴らす胆力は流石にロキの配下というべきか。

「……来たか。いや、呼び寄せられたか。アバドンの嵐が」

 アバドン――
 忌まわしそうに吐き捨てたその名は、カルデア一行にも既に警戒すべきものとして認知されている。
 王冠のキャスター曰く、次元違いの存在。敵に回すこと自体愚策中の愚策、戦ってはならない怪物。
 この黄帝をしても尚、認識は同じなのか。
 ……いや、それよりも今のタイミングで帝王の視線が魔女へと向いたことの意味は。
 睨まれた側の彼女が多弁を回すでもなく、白々しい態度ではぐらかしてみせたことの意味は――当然、一つしかない。

「いやあ、まあ。新参者の皆さんを、もう一つ揉んでやろうかと思いまして」
「その下賤な企てに余の陵墓を巻き込んだこと、万死に値するぞ、魔女よ。この天帝に不敬を働いたこと、骨の髄にまで刻んでおけ」
「はいはい、私頭悪いんでもう忘れちゃいました~。一体どこの誰が血飲みの嵐を呼ぶような命知らずを働いたんでしょうね? 魔女ちゃん見当もつきませ~ん」

 傍観に徹していた……そうしているように見えた、王冠の魔女。
 彼女はその実、ただの観衆ではなかった。
 各種術理に対しても深い造詣のある黄帝をして探知出来ないほどの手際で、魔女はこの陵墓に嵐を招いていたのだ。
 アバドンの嵐を。このヴァルハラにおいて、最も強大な存在である、血飲みの大災害(モンスター)を。

「カルデアのマスター。人類最新の英雄(メシア)よ」
「……なに?」
「状況が変わった。生き抜きたいと願うならば、精々気張ることだ」

 その言葉は、暗にこう告げていた。
 これ以上お前達に構っている暇はない……もとい、なくなった、と。
 それほどの存在なのか。この偉大な天帝をして、全力で防衛に当たらなければ滅ぼされるほどのモノなのか。これからやって来る、"嵐"は。
 立香がごくりと生唾を呑み込んだ、まさにその瞬間であった。
 天帝陵墓を――ひいては、それを含めたヴァルハラの半分にも及ぶ空間を。
 殺意という形容すら生易しく思えるような、悪意と獣性に満ちた気配が蹂躙したのは。

 彼方の空を埋め尽くす何かが見える。
 それは黒雲のようであり、しかし雲では絶対に有り得ない何かだった。
 自ら蠢き、キチキチと異音を鳴らす雲がこの世の何処にある?
 行き先を塞ぐ物体を有機無機問わず食い荒らして、糞の山を築き上げながら前進する雲なんて悍ましい概念を、神は何を思って生み出したというのか?
 雲のように天を埋め尽くし、波のように迫り来るそれは生物だ。何億ですら効かない、何兆……ともすればそれ以上にもなるかもしれない蝗の群れ。

「……奈落の王、アバドン――」

 真名など、考えるまでもない。
 最初から明かされている。隠す意味も、存在しない。
 これなるは、最も強く、悍ましく、どうしようもない奈落の魔王。
 獣の属性を当然のように備えて、全ての神話を喰らい尽くさんとする人類悪――蝗害の化身、そのものである。





人類悪 顕現(ADVENT BEAST)




真名判明

BEAST/EXTRA



真名


アバドン







 全てを蹂躙し、貪り、犯し殺す蝗害の津波の真ん中にその魔王は存在していた。
 服と呼ぶことが適切かどうかも分からない、朽ち果てた布を纏った砂のヒトガタ。
 その砂はかつて人であり、獣であり、神だったものの残骸だ。
 聖なるものも邪悪なものも、死ねば同じと嘲るように。
 全てを己の糧にして、血飲みの嵐は破滅を布きながら前進する。
 それを見つめる影が一つ、嵐の圏外に在った。
 天帝陵墓とも、神聖冥府とも、熾天の冠とも、無論カルデアとも違う勢力に身を置く、ある神性が。

「うわあ、可哀想だなあ藤丸ちゃん。よりによっていきなりアバドンだなんて、新人いびりにも程があるよあんなの」

 光のような金髪を靡かせて、心底同情したように遥か彼方の英雄を想う女神。
 彼女は賢明にも、或いは幸運にも嵐の外から事の行く末を見守っているのだったが――
 仮に彼女があの嵐の只中に居たとしても、片手間に削り殺される事態には陥らなかったろう。
 この女神は、全てに愛された光であるのだから。恐るべき蝗害に至るまでのありとあらゆる森羅万象に愛情を抱かせた、輝きの化身であるのだから。

「ま。気の毒だけど、このくらいの艱難辛苦も振り払えないようじゃどの道先は永くないでしょ。
 魔神王ゲーティアを退けた功績がまぐれだったのか実力だったのか、そこも含めて見極めさせて貰うとしますか」

「▅▆▂▅▆▇▅▇▃▇▇――」

「大丈夫。大丈夫だよ。私は運がいいからね」

 言語化出来ない声を漏らす、もう一柱の神性。
 流れるような緑髪を持ち、弓を携えた長身の男神。
 目元を黒いバイザーで覆い隠した彼は、しかしその状態でも人外の美貌を持つ存在であることが窺えるほど整った容貌の持ち主であった。
 隣の彼女とは相棒(バディ)なのか、姉弟なのか……それとも両方なのか。不明だが、とにかく浅からぬ縁のある間柄ではあるらしい。

「最後に笑うのは、四終(わたしたち)だよ」

 彼女達は終末の柱。世界の終わりを司る、最後の神話の断片である。


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基底一章:聖杯大戦(後編) 廻転聖杯大戦 ヴァルハラ 基底三章:血飲みの嵐

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最終更新:2018年04月02日 20:11