サンフェリーペ号土佐に漂着 1596年(H1596a)

1596年7月13日、スペイン船サンフェリーペ号マニラ湾を出航。メキシコのアカプルコを目指す。司令官マティアス・ランディーチョ。

慶長1年8月(1596年10月)、サンフェリーペ号が土佐の浦戸(高知県)に漂着。乗組員フランシスコ・デ・サンタがスペインの植民地政策に言及。

慶長1年(1596年)12月、26聖人の殉教事件。長崎でフランシスコ派の宣教師ら26人が殉教する。サンフェリーペ号乗組員がスペインの植民地政策に言及したことが原因とされる。

慶長2(1597)年7月、フィリピン使節、黒象などを秀吉に献じ、サンフェリーペ号の積荷返還および殉教宣教師の遺骸引渡しを要求する。

外交志稿の既述

慶長元(1596)年、葡萄牙商船風に逢い、土佐吾川郡葛城浦に漂着す。船人多く溺死し僅かに存する者あり。国主長宗我部元親以て豊臣秀吉に告ぐ。秀吉、増田長盛を遣わし之を点検し、船中載する所の物品を得て之に酒米を与え其の船を修復して帰らしむ。

参考文献

最終更新:2008年04月10日 22:29