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10 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:21:13 ID:Dj3xyU3d
秋の夜、トリステイン王国領。ゲルマニア国境近くの山中。
月夜とはいえ、足元は暗い。
黒衣の一団は、それでも急ぐ足を緩めなかった。
先頭に立って案内していた〈禿げ〉は、もう少しで足をすべらせたまま、岩の多い山の斜面を転がり落ちるところだった。
腰の杖を抜く暇もなかったので、とっさに首領格の〈山羊〉がレビテーションをかけてくれなければ、頭を斜面途中の岩で砕いていたかもしれなかった。
「気をつけろよ、〈禿げ〉。お前はこのあたりの出身だろうに」
頭を下げ、礼と謝罪を繰りかえし述べる〈禿げ〉に、〈山羊〉はそっけなくそう言った。
〈山羊〉は痩せて背が高い壮年の男で、あごに尖った黒いひげを生やしていた。旅人風の黒いローブの下は、黒のダブレットに茶革の剣帯、同じ革でできたブーツを身に着けている。
〈禿げ〉をふくめ、他の者も似たような格好だった。
「本当に、あんたらには迷惑をかけてばかりだ」
〈禿げ〉は、心底から頭をさげた。彼は一団の中でもっとも新米であり、数日前に加わったばかりであった。
「なに、それほど気にすることはない。同志になった以上、助け合うのは当然だ。
だが、お前、少しなまりすぎている。時間があれば体も鍛えておけ。剣でも練習しておくのだな」
〈山羊〉の言葉に、〈禿げ〉は「そのうち」と答えておいた。
トリステインの下級貴族出身である彼には、正直、平民が使うような武器を練習する気はなかった。どうせ練習しても、彼の目的には間に合わない。
この一団は変わったところがあり、大部分がメイジの集団でありながら平民の武器さえ操った……まあ、〈禿げ〉以外はゲルマニア出身であることと関係があるのかもしれない。
あの国は革新的だそうだから。
彼がこの一団に加わったのは、明確な目的があったからであって、それはもう目前なのだ。その大仕事が終わりさえすれば、彼は死ぬつもりだった。剣を練習してなにになるだろう。
大仕事。ある貴人に深くかかわること。
(待っていろよ、女王)
かつての主君への深甚な憎悪をこめて、彼は胸中につぶやいた。
11 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:22:32 ID:Dj3xyU3d
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朝。
アンリエッタは書類にサインした。マザリーニが机の前で説明する。
「これはかの領主の家系から、領主権を正式に剥奪するものです。かの反逆者は子を残さず兄弟もなく、本人はすでに死んでおりますが、やはり手続きは必要ですからな。
さっそく王都トリスタニアに送っておきましょう」
年若い女王は無言でうなずいた。正直、十日前のあの事件のことはあまり考えたくもないが、そういうわけにもいかない。彼女は女王であり、やることは旅先でさえ多いのだった。
旅といってもこれ自体が仕事、女王としての巡幸なのだが。
ここは屋根に緑の風見鶏がある館、その一室。
机と寝台、そして暖炉があるだけの質素な部屋。アンリエッタ自身が選んだのだった。
窓から見える針葉樹の木々。森におおわれたこの土地は、ゲルマニアとの国境に近いトリステイン領だった。大貴族ラ・ヴァリエール家の領地からはそれほど遠くない。
巡幸途中で訪れた土地の貴族の館であった。
説明は終わったが、マザリーニの講釈は続いた。
「国内の封建諸侯をたばねるため、君主はときとしてこのような厳しい態度を示す必要があります、かれらを恐怖させるに十分な程度に。
地下牢であの領主が言った言葉、『愛されるより恐怖されるほうがよい』という言葉には、一種の真実があります。ああ陛下、そう嫌そうな顔をせず聞いていただきたい。
人間が裏切るのは、悪意からよりも弱さからであることのほうが多いのですよ。
そして弱さは、愛よりも恐怖によって縛られるものです」
「枢機卿……」
アンリエッタは少々うんざりしたため息をついた。重厚なマホガニーのテーブルに羽ペンを置く。
「その言葉は、何度も聞きました。ほかにもあなたから聞かされた訓戒で、わたくしがそらんじられる文句はいろいろありますよ。
『人に接するに誠実に、万民にあわれみ深く、しかし判断は感情にとらわれず沈着に、快活にふるまって士気を鼓舞し、臣下に公平を心がけ、余計なことを言わず行わず、敵対者には剛毅に、しかし膝を屈したものには寛容に……』
いえ、多いとはいいませんが」
「君主の心得としては、少なすぎますな」
マザリーニはあっさりと言ってのけた。
「それに、文句を覚えたということと、意味を理解しているということは別物です。
理解していると思っていても、そうでないことが多いものですからな」
「わかりました、わかりました。要するに、貴族たちをおさえておくため、わたくしは王威を保つよう努めればよろしいのね」
12 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:23:05 ID:Dj3xyU3d
アンリエッタは辟易しつつ、小言を終わらせるために自分からまとめた。
マザリーニはうなずくと、ふと窓の外を見た。
窓から数メイルの近い距離にある糸杉の木から、鳥の声が聞こえてきたのだった。
『rot! rot! rot!』
枢機卿の視線につられて、窓のほうを振りかえったアンリエッタの顔が、少しだけかがやいた。
「まあ、あの小鳥だわ」
「ええ……しかし、王都の周辺では見かけない種類ですな。ゲルマニア近くの森の中に住む鳥でしょうか。
そういえばあの変わった鳴き声さえ、ゲルマニア訛りのように聞こえます」
マザリーニはそう言ってから、こほんとせき払いした。
「陛下、わたしはこれで……それと、そろそろこの地を離れなくてはなりません。巡幸はまだ途中なのに、一週間とあまりに長くとどまりすぎました。
この館の主も、そろそろわれわれの滞在が、財政的に大きな負担だと感じだすでしょう」
アンリエッタは窓のほうを向いたままだった。しかし、少したってから「ええ」と素直にうなずいた。
女王というよりは幼い子供を思わせるしぐさ。それを見て、マザリーニは胸が痛むのを感じた。主君がなぜこの地に一週間もとどまったか、理由を彼は知っていた。
老臣は背を向け、部屋から出て行った。
彼が出ていくのを背後に感じて、アンリエッタは再度重くため息をついた。
ほんとうに、いつまでも引きずっているべきではなかった。十日前の、嵐の夜の出来事はもう終わった。
あの土地で民に虐政をしいていた領主は、死んだ。だが、それがアンリエッタの心を痛めているわけではない。
領主の犯罪の……そしてアンリエッタ自身が行った政治の被害者であった少女がいた。彼女はアンリエッタを責めた。
女王を傷つけようとした(真相はわからないが)彼女は、修道院に入れられることになった。たぶん、一生出てくることはないだろう。
その少女が一週間前に閉じこめられた修道院は、この領地にあるのだ。
(もう、思いきらなくては。この地から出立しましょう、明日にでも)
アンリエッタは決断すると、いつのまにかうつむけていた顔をあげた。窓をそっと開けて、小鳥を呼んでみる。
小さな、緑色の美しい鳥だった。
あの嵐の翌日から、その鳥は姿を見せはじめた。ためしにパンくずを撒くと食べる。
そのせいか、ついてきた。女王の一行の周りを飛ぶようにして、きれいな声で鳴く。今は館の外を見ると、ときどきそこにいた。
「おいで、小鳥さん。またパンをあげるから」
窓をあけてアンリエッタが手をのばすと、小鳥はそこに止まった。
実はアンリエッタにとっても、戯れに言ってみたことだった。小鳥がほんとうにとまったことに驚いて、思わず笑みがこぼれた。
13 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:23:35 ID:Dj3xyU3d
「ごめんなさい、実はいまパンはないの」
そう謝ると、なあんだというように小鳥は羽ばたいて離れた。
糸杉の枝に戻っていく小鳥を見ていると、部屋のドアがノックされた。
窓を閉めてふりむき、ドアの外に誰何する。
「だれ?」
「アニエスです」
入室許可をだす。銃士隊隊長は、マザリーニと同じ意見を持ってきていた。
「そろそろわれわれは出立するべきです。これだけの人数の一行となると、さすがに同じ場所に長期間とどまり続けるのは無理があります。
加えて王都のほうから、増派されたメイジの護衛兵が来ますし」
当初、この巡幸にはあまりメイジの護衛兵は連れてきていなかった。アンリエッタ肝煎りの水精霊騎士隊くらいである。
それと平民女性からなる銃士隊のみの護衛でも、大きな危険はあるまいと思われたのでそうしたのだが、あいにく騒ぎが起こってしまった。
これから先もこのようなことがないとは限らない、と女王の身を案じる臣下たちが主張した。そこで、王都のほうから急遽、メイジで編成された近衛兵団が派遣されることになったのだった。
「ええ、わたくしもそう思っていました。なるべく早くにここを発ちます。ただ……最後に一度、外出したいのですが」
「……陛下。どこに行かれるつもりなのかは、察しがつきますが……」
「お願い、アニエス」
「御意」とアニエスは引き下がった。無表情ながらどこか、アンリエッタに対して気づかいとわずかな苛立ちの雰囲気がある。
「しかし、気をつけていただきたい。街道のほうで、なにやら不穏な空気がただよっているそうです。
平民の傭兵団がうろついていたという情報もあります。悪質な部類であれば、ときに盗賊と化す危険な存在で、メイジではないにしろ人数が集まると厄介です。
まさか王権にたてつくことはないでしょうが」
「もちろん、注意します」
14 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:24:10 ID:Dj3xyU3d
その返答に一礼して、退出しようとしたアニエスが、「そうそう」とまったくさりげない調子で訊いた。
「サイトと何か、いさかいでもあったのですか?」
心臓がとびはねた。
「……な、なぜそう思うのですか?」
「いえね、たまたますれちがっても、隣のギーシュ殿にはごく普通に声をかけるのに、サイトには目も合わせなかったりしていますでしょう。
あれは馬鹿ですが、悪い男ではありませんし、そろそろ機嫌を直してやっていただけませんか。護衛としてはなかなか優秀なので、遠ざけるよりはこき使ったほうがよいでしょう。
あいつが陛下にたいして、なにか無礼をしたとかなら、わたしが木剣で立ち合ってしこたま殴っておきますから」
アニエスは一見して真面目な表情。本気でいさかいがあったと思っているのか、わかっていて空とぼけているのか判断がつきかね、アンリエッタは少々顔を赤くして言った。
「喧嘩したわけではありません。……この前は彼にみっともないところを見せたので、どうも少々恥ずかしいのです。そうですね、勝手な態度でした。気をつけましょう。
のちほどの護衛の件ですが、彼にもお願いすることにしますわ」
アニエスが出て行ったあと、女王は座ったまま頭をかかえた。
予想外だったのはアニエスに少年の名を出されたことではなく、その名を聞いてうろたえている自分がいることだった。
いや、うろたえる理由はわかっている。
あの嵐の後の夜、彼に口づけされた。「もう一度して、寝られるまでそばで手を握っていて」と自分から頼んだ。
アンリエッタが求め、才人のしたそれはどちらかといえば、泣いて眠れない幼子に対するものに近かったと互いにわかっているが。
もしかしたらこれはルイズへの裏切りではないでしょうか、とアンリエッタは目覚めてからそのことでも悩んだのだった。
昔、彼とずっと雰囲気のある口づけを交わしたことがあったが、あのときはルイズの気持ちに気づいていなかったのだ。身をひくと言った今となっては、状況がちがう。
先ほどの枢機卿の言葉を思い出す。
『裏切りは、悪意よりも弱さから起こることが多い』。
(あれはまさに、わたくしの弱さから起きた裏切りなのかも……)
爪を噛みながら悶々とする。
(とにかく、普通にしていましょう。あれはサイト殿の善意でしたし、あの日から十日もたちました。本来、意識するのもおかしいのだから。
いっそ……そうです、このあたりはラ・ヴァリエール領に近い。帰省しているというルイズを呼んでみましょう、次の土地で落ちあえるように)
われながら、名案のように思われた。恋人同士であるあの二人の仲むつまじい様子を見れば、きっと変に意識してしまうことも無くなるだろうから。
その様子を想像したときかすかに胸が痛んだことは、気がつかないふりをした。
15 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:25:10 ID:Dj3xyU3d
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「なあサイト。それルイズからの手紙か?」
ギーシュが薄気味悪そうな顔でのぞきこんできたため、才人は手紙をとっさに握りつぶしてしまった。
「な、なんでわかるんだよ」
「ニヤニヤ気持ち悪い笑みを浮かべたり、急に黙りこくったり、震えながら怯えたり、手紙を読みながら君の顔が面白いように変わるんでな……」
ああうるせえ向こう行ってろよ、と才人は照れ隠しに乱暴な言葉を投げた。くしゃくしゃになった手紙を広げながら、いそいそと読み返していく。
ギーシュは肩をすくめて地面にしゃがみこむと、自分の使い魔である巨大モグラと会話をはじめた。
「聞いておくれヴェルダンデ。最近のぼくは怖いくらいに絶好調だ。昨日も女王陛下から通りすがりにお言葉をいただいてしまった。
しかも陛下はその後、顔を赤らめて目をそっと伏せられたのだ……ああ、あの可憐さ!
巡幸に付き従ってモンモンと離れているのは寂しいが、言えるね! 今の日々は充実しきっていると!
おやサイト、なんでまた怯えだすんだね?」
また握りつぶしてしまったルイズの手紙を握りしめつつ、才人は蒼白な顔でぶるぶる震えている。
『もうすぐそっち行く』という内容の手紙、その最後の行には、こう書いてあるのだった。
『姫さまの随行、きちんとつとめること。追記、でも色気を出したら殺す。必要がなければ半径3メイル以内に近寄るべからず。影を踏むのも避けるように』
キスしちゃいました。
いやあれは下心の産物ではない、と一心に念じる。
でも説明して、それが嫉妬深いご主人様兼恋人に通じるかは……通じるかもしれないけど、たぶんそれでも半殺しにされる。
とにかく無かったことにしよう、と才人は思うのであった。
(それにしても姫さま、どうも危なっかしい人なんだよなあ……あの夜も、だから思わずああしちゃったわけで)
手紙をまた広げながら、ぼんやりと思いかえす。
あれから、目を合わせることさえ避けられていた。
昨日ギーシュと館の中を歩いていて、アンリエッタとすれ違ったときなどがそうで、顔を見たら視線をそらされた。
嫌われたのではなく意識されているらしい、と勘の良くない才人でも察することができたのは、アンリエッタの態度の端々にそれがあらわれているからだった。
(頬染めて目を伏せられると妙な気分になっちまうんだよなぁ……昔みたいだ。まあ、時間がたてばそのうち元通りになるだろう)
実はちょっと名残惜しかったり。ルイズの前で言えば血がとぶが。才人は能天気にそう思いながら、手紙をふところにしまった。
16 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:26:20 ID:Dj3xyU3d
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太陽はすでに昇っていた。
彼ら二人は崖の大岩の上に立って、眼下の村を見ていた。
〈禿げ〉の故郷に似た風景だった、森のなかにひらけた田園と村と丘。故郷は近いし、こういったところはどこも似たようなものかもしれないが。
下級貴族の四男として生まれたため、出ていかざるを得なかった故郷をなつかしく思う。
が、正確には見下ろしているのは〈禿げ〉一人で、隣の〈鉤犬〉はひっきりなしにしゃべり続けている。左の手首を失い、かわりに鉄の鉤をつけた男だった。
その平民出身の男は、乱杭歯をむき出しにしつつ、ときに鉄の鉤を宙にふりまわしながら、熱をこめて話していた。
「われわれは共和主義を信奉している。われわれが目指すのは、貴族も平民もない理想の世だ。
下級貴族のあんたも考えてみろよ、大貴族や王家のような連中が軍隊をかかえてにらみをきかせ、聖職者とつるんで世の栄華をほしいままにしている。
戦争で戦って死ぬのはおもに下級貴族であり、攻めこまれて死ぬのは多くが平民だ。その上に君臨する連中はわれわれの血を吸って肥え太っていくんだ。
人民はいまこそ立ちあがり、王政を打倒すべきなんだ」
相槌をときおりはさむものの、〈禿げ〉は憂鬱な気分でそれを聞き流していた。
たしかに彼も数日前にこの一団、共和制を実現するために戦う者の一人となったばかりであったが、講釈をきくため、または議論をするために参加したわけではなかった。
(この平民はなんのためにこの一団に加えられたんだろう?)
〈禿げ〉は横を向き、〈鉤犬〉の貧相な面をじっくりとながめた。
と、その小男はにやっと笑った。意外に狡猾な笑みだった。
「あんた、おれが役に立つのかと考えているのか? おれは『鼻』だよ。鼻が利くんだ、犬のようにな」
考えを読まれたことに、微妙に不快になり顔を前にもどす。だが、〈鉤犬〉の自慢げな語りはやまなかった。
「においでわかるのさ、なんでも。女と男が、富める者と貧しき者が、あるいは貴族と平民が……このような能力は、ときにひどく重要になるんだ」
(性別はともかく、身分や貧富の差までわかるのか?)
〈禿げ〉には疑問だったが、あえて問いただそうとは思わなかった。
「おい、村に降りて情報を集めるぞ、〈鉤犬〉。〈禿げ〉、お前はどうする?」
〈山羊〉および他の同志たちが彼らの背後にやってきていた。メイジである自分よりも〈鉤犬〉が優先して連れて行かれることに、一瞬不満をおぼえた〈禿げ〉だったが、すぐ思い直した。
頭から黒いフードをかぶっている自分は、村人の注意をひくだろう。〈山羊〉がためらうのも無理はない。
それでも、彼は「行く」と答えた。
〈山羊〉はうなずくとそばに来て、眼下の村を指ししめしながら部下たちに説明した。
「見ろ。この村は街道から少し離れた場所にある。
街道を通るよからぬ輩を警戒してか、村はぐるりと石の壁で囲まれている。
街道に面した石づくりの‘表門’と、村の裏手にある木でできた‘裏門’の二箇所の門は日がしずむと厳重に閉ざされる。
どちらもそこそこ重厚な門ながら、開閉はそれなりに早い。敵の襲来があれば速やかに閉じられなければ意味がないからな。
だが少人数のわれわれにとって問題なのは、むしろ、門を閉じられて村から逃げ出せなくなるほうだ。お前ら、注意しておけよ。
銃士隊という平民の女からなる集団と、騎士隊ごっこをしている餓鬼の集団がよく村を徘徊しているそうだからな……そんな連中でも、警戒にこしたことはない」
〈山羊〉はつづいて、村から離れた場所に見える大きな街道、その向こうを指さした。
「そして、この村から街道をよこぎって、歩いて二時間ほどの離れた場所にあるのが、女王の滞在している領主の館だ。村と館の間を、街道が通っている形だな。
いまは〈ねずみ〉一人がそちらに探りに行っている」
〈禿げ〉は逐一うなずきながらも、なんとなく村から少し離れた田園や丘のほうを見やった。
その視線の先、村の外にある風吹きわたる丘の上に、藤色の壁をした煉瓦造りの建物がそびえている。
17 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:27:38 ID:Dj3xyU3d
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その丘の上。
太陽のまぶしい午後、修道院。秋の花々が咲きほこる中庭。
藤色の壁にはツタがつたい、秋風に葉がときおり揺れる。
青い隻眼の少女は、中庭で同じテーブルについているアンリエッタに微笑み、ようやく口を開いた。彼女はこの先もずっと着るであろう、黒い修道服を身にまとっていた。
「アンリエッタ様、本日はようこそおいでくださいました。あなたの用意してくれた、私の素敵な牢獄に。私もここに入ってまだ一週間ですけど」
アンリエッタは口を開きかけて、閉じた。
まだ挨拶と、ここの暮らしに不都合はないかという問いしかしていなかったが、もう言葉が詰まっていた。
背後のアニエスが咳払いしたのが聞こえた。
少女の青い瞳は、深い淵のように澄んで暗かった。
「ここはとっても快適な暮らしです、と言えばアンリエッタ様は満足でしょうか? 毎日変わらぬ祈りと労働はいずれ飽きがくるでしょうし、門の外に出ることは許されませんが……
食べ物には事欠かず、お庭には空と風と花があります。歌をシスター達が教えてくれます。
なにより、痛いことはもうありません。
これでじゅうぶん、死ぬまでの長い長い時間を耐えていけますよ」
狂人としてこの修道院に入れられた少女は、あくまで笑みを崩さぬまま、アンリエッタの落ちつかなげな様子を見ていた。そして、会話の主導権を握っていた。
「それにしても、女王陛下には見えない服装ですねえ、アンリエッタ様。
ここに来たと村人に知られないためでしょうか?」
図星ではある。今回は完全に私事であり、村を通ってくるときにあまり目立ちたくなかったのだった。
どのみち、護衛として銃士隊や水精霊騎士隊が幾人か同行したため、村人の目は引きつけたであろうけれど。それでもなるべく目立たないようにできたと思う。
アンリエッタはこわばった口をどうにか開いて、言葉を発した。
「なにか、必要なものはありますか」
「いいえ、何もありませんよ」
「何でもいいのです、望みがあるなら……」
「アンリエッタ様」
隻眼の少女の声にこめられた拒絶の意思は、女王の舌をふたたび凍えさせるにじゅうぶんだった。アンリエッタがおろおろしながら黙ったのを見て、少女は続けた。
18 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:28:12 ID:Dj3xyU3d
「お帰りください、そして願わくばもう来られませんように。
私があなたから受け取るのは、この終のすみかだけでじゅうぶんです。
これ以上の厚意を、けっしてアンリエッタ様からは受け取りたくない」
少女はゆっくり立ち上がってテーブルに背を向け、ふらふらとどこかおぼつかない足取りで庭を歩き出した。
何も言えないまま座っているアンリエッタに、アニエスが背後から肩に手をかけた。苦い声でささやきかけられる。
「潮時です、陛下。行きましょう」
アンリエッタは一瞬、泣きそうに顔をゆがめてからぎこちなく立ち上がった。
救いを求めて来たわけではなかったけれども、どこかでそれを期待していたと今、気づいた。
せめて彼女にできることをしたいという思いは、裏を返せば、自分がそれで少しでも楽になりたいということだったのだ。
そしてそれは少女に、当然のように突き放された。
(わたくしはなんと醜い……)
自己嫌悪を強く抱きつつ、アニエスに付き添われて歩み去るアンリエッタの背に、少女が草花の中を歩きながら静かに歌う声が、かすかに届いた。
聖ナル聖ナル、聖ナル君、
暗キハコノ世ヲ覆ウトモ、
タダ君ノミハ、聖ナル方、
栄耀栄華ヲ極メエン……
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丘を下り、田園の中を通る道を歩いていく。石壁にかこまれた村へ戻るのだ。
借りてきた館の質素な馬車を、そちらに置いてあるのだった。
麦の穂は金にかがやき、道端にはコスモスをはじめとした花が揺れる。
麦畑の中の農夫たちが、汗をぬぐいつつちらちらと視線をなげてくる。
のどかな秋の午後の風景だったが、アンリエッタの足取りは重かった。
付き従っているアニエスと才人も、気分が沈鬱にならざるをえない。
『あの女王の娘っこ、なんだかひどくしょげてるぜ。相棒、なぐさめてくれば?』
「デルフ、デリカシーってもんを覚えような。なんでも首をつっこめばいいってもんじゃねえんだよ」
19 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:28:57 ID:Dj3xyU3d
デルフリンガーが沈黙した。よりによって才人にしみじみした口調で諭され、なにやら深刻なショックを受けたらしい。
才人は前を歩くアンリエッタを見やった。栗色の頭がわずかにうつむいていることといい、いつもより力のない歩き方といい、確かに気落ちしているのがはっきりとわかる。
才人はアニエスと同じく、護衛として付いていったのだった。女子修道院は男子禁制のため、外で待っていたのだが。
したがって、どんなことがあったのかわからず、推測するしかない。
まあいちいち俺がなぐさめるわけにもいかねえしな、と彼にしては冷静に思う。
姫さまにはアニエスさんだっている。宰相さんもいる。何よりも、たぶんこれは姫さま自身の問題なのだ。
とはいえアンリエッタを見ていると感じる危なっかしさに、どうにも気をもんでしまうのも事実だった。デルフにはああ言ったが、何とかしてやりたくはある。
(どうしたもんかね。男だったら酒飲ませればなんとかなるんだけど。
あ、でも姫さまも酒はたしなむんだよな。
そういえば、あの村の裏門をくぐってすぐに居酒屋があったな……二日前、ギーシュたちと飲みにいったとこが)
そんなことをつらつら考えているうちに村まで戻っていた。丸太を組み合わせた木の裏門をくぐると、つい、目で居酒屋のたぐいをさがす。
それはすぐそばに建っていた。
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〈禿げ〉は落ち葉をふみしめていらいらと歩き回っていた。常緑樹の杉林とはいえ、長い年月のうちに落ちた葉が積もっていた。踏むたびに足下で腐った葉が砕ける。
〈山羊〉は杉の切り株に座って知らせを聞いていた。
村はずれの森の中で待機している者は、〈禿げ〉と首領である〈山羊〉の二名だった。〈鉤犬〉およびその他、村を探りにいっている者が六名。
そして今ここに、館を偵察してから知らせを持って戻ってきた〈ねずみ〉で最後。
総勢九名の、ささやかな一団といえた……だが、〈鉤犬〉以外の八人全員がトライアングル級の強力なメイジであり、さらに風系統の〈禿げ〉以外は、攻撃に向いた火系統。
「女王が? 館から出た?」
〈山羊〉の声は〈禿げ〉にも届いていた。〈禿げ〉は足をとめて、首領のほうを見た。
「本当か? 女王のような、たとえ多くの護衛がいなくとも目立たざるをえない者が近くにいれば、村人が騒ぐはずだが。
それとも村には来ず、そのまま森にでも入ったというのか」
知らせを持ってきた〈ねずみ〉に、〈山羊〉が繰り返したずねている。
〈ねずみ〉が答えた。
「確かなことはわからん。俺は館で召使たちの話を盗み聞きしてきただけだ。
その話だと、午後から館では女王の姿が見えないらしい。御付きの者も何人か。
そして有名なマザリーニ枢機卿が館の主にこぼしていたという」
20 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:29:37 ID:Dj3xyU3d
〈禿げ〉は口をはさんだ。
「あの女王は、庶民の娘に変装することがあると軍でも囁かれていた。今度もそうしたかもしれない、内密に出かけたならとくに。
もし本当にそうだとするなら、これは絶好のチャンスではないか?」
それを聞いて〈山羊〉と〈ねずみ〉が顔を見合わせた。〈山羊〉が何か言うまえに、〈ねずみ〉が口を開いた。
「〈山羊〉、さらに付け加えておくことがある。先ほど村中で、〈鉤犬〉たちと接触してきた。
〈鉤犬〉は、村中で見つけたある街娘姿の少女に注目している。もしかすると女王ではないか、と」
〈山羊〉は顔をしかめ、〈禿げ〉は我しらず身をのりだして、異口同音に「どういうことだ?」とたずねた。〈ねずみ〉は肩をすくめた。
「さあね。だが、〈鉤犬〉にはわかるんだ、知ってのとおり。
そしてほかの五人も口をそろえて言うことには、その少女のしぐさの端々からは、高貴な者のふるまいが現れている、と」
「その娘はどこにいるのだ?」
「村はずれの酒屋、村外の修道院につながる道に面した店に」
「……その娘に護衛らしきものは?」
「いる。村にいた水精霊騎士隊隊員が集まっている。多くはない、三人ほどか」
〈禿げ〉は沸騰するような興奮をおさえられなくなった。〈山羊〉をふりかえる。
「どうやら当たったようではないか、行こう」
〈山羊〉はむっつりと〈禿げ〉を見つめ、ふってわいたこの機会に不満をしめした。
「あまりにも早すぎる。この村に訪れたとたん、女王に手をかける機会が来た? 俺としては、当初の予定通りに確実に物事を進めたいのだがね」
「〈山羊〉、あんた悠長なことを言うな。そばにいる護衛は三人、それも未熟な子供なのだぞ。女王自身はたしかに優れたメイジだが、一人では問題にもなるまい。
これは間違いなく、願ってもない好機だぞ!」
〈山羊〉は冷たい目で彼をにらみ、それからしぶしぶのように座っていた切り株から腰をあげた。
「まあ、それならば行ってみよう。〈鉤犬〉たちはそこにいるのだな? 〈時計〉、案内しろ。もし本当に容易に手をだせる状況であれば、すみやかにこれを捕らえよう。
そうでなければ、いったん逃げるべきだな……あらためて待ちに徹する」
〈禿げ〉はその尻込みした様子に、我慢ならなくなるところだった。
ゲルマニア生まれの『火』系統のメイジのくせに、この男は臆病なほど慎重すぎる。『風』である自分のほうが今よほど、血が燃えているというのに。
まあいい。とにかく、アンリエッタ陛下にようやく拝謁がかないそうだ。
〈禿げ〉は目深にかぶった黒フードをぐっと下に引っ張った。
21 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:30:33 ID:Dj3xyU3d
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最近はあやしい連中が多すぎる、と村の居酒屋の主はためいきをついた。
まだ昼であるにもかかわらず、せまい店内には人間が詰まってきている。それも、多くが一見の客だった。
領主様の館に女王陛下が滞在していることと、なにか関係があるのだろうか。
テーブルに座ってちびちび飲んでいる少女。田舎娘では断じてない。黒いワンピースを身につけた街娘の格好だが、旅行に来た街娘でもないだろう。
あれは身分の高い者の変装にちがいない。自分でさえわかる。最近、村をうろつく水精霊騎士隊という連中が、そのテーブルに同席している。護衛だろう。
それにしても、美しい少女ではある。
六人組の旅芸人らしき一座。こいつらもあやしい。たしかにこのような連中が、たまにこのような酒屋に集まって芸を披露し、おひねりをもらうために来ることはある。
しかし、それは普通は夜だ。純粋に客として来たにしては、彼らは酒を頼んでいない。料理は注文したが、見たところほとんど食べていなかった。
そして六人組は、どうやら少女に注意をはらっているようだった。
と、六人組の一人、左手に鉄の鉤をつけたものが立ち上がった。仲間たちが驚いたように引き止めようとするのを無視して少女のテーブルに近寄る。
その男は「相席いいかね」と言うと、返事もまたずに少女の向かい側に腰をおろした。
少女は戸惑ったように、その小男を見ている。護衛たちも同様の反応だった。
警戒の視線を突き刺されながら、平然とした様子で、その鉤の男は口をひらいた。
居酒屋の主人はついつい耳をすませた。
「あんたはやんごとなき身分の出だね、違うか?」
その指摘に、主人は思わずおいおい、とつぶやいた。
そういうことは、薄々わかっていても面と向かって切り出すことではない。
自分だって興味津々ではあるが、まさかそこまで大胆なことはしない。
少女は驚きに目を見開いていた。ややあって、「……何の根拠で」と鉤の男に訊きかえす。その態度だけですでに、図星を突かれたのは明らかではあったが。
居酒屋内にいるすべての人間の注目をあつめ、気をよくしたように左手の鉤をふって、男はとうとうと語りはじめた。
「あんたからは高貴な者のにおいがする。
最上質の香水の匂い、ごくわずかにつけてほのかに香らせたものが。
シーツの糊の匂い、おそらく毎日洗って糊づけしてあるらしきものが。
贅をこらした料理の匂い、香辛料をふんだんに使ったものが。
石鹸と薬草の匂いは、湯を満たしてハーブを入れた風呂のものだ」
小男が口をとざすと、店内がしんと静まった。主人はひそかに手に汗をにぎった。
と、少女が口をひらいた。
「……それで?」
「いや、どうということもない……ただね、確認したかったのさ。もっと当ててみせよう。
あんた、トリステイン王家の縁者だな? それも、とても中心に近い。おや、図星を突かれた顔だな、それは。あんたひょっとしてアンリエッタ女王か?」
22 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:31:05 ID:Dj3xyU3d
いまや少女は完全に、固まった顔をしていた。
鉤の男が女王陛下の名を呼び捨てにしたことに、居酒屋の主人と同じく衝撃を受けたのであろう。
「……無礼者!」
少女は鋭く声高に叫んで、杖を引きぬいた。
その瞬間、椅子を蹴たてて六人組が立ち上がり、同じくさっと杖を引きぬいた。鉤の男がけッけッと笑った。
「アンリエッタ陛下、われわれと一緒に来てもらいたいね。彼らは全員が『火』のメイジで、かなりの使い手だよ……おとなしくしたほうがいいと思うがね?」
そう言った瞬間に、鉤の男はテーブル越しに胸ぐらを、少女の手につかまれて引き寄せられた。
目を白黒させる鉤の男の体が邪魔になり、六人組はとっさに呪文を放てず固まったようだった。その隙に、少女が朗々と呪文をとなえだす。
胸ぐらをつかまれたままの男が、背後の六人組に向けて叫んだ。
「落ち着け! 女王の系統は『水』だ、直接攻撃に向いてはいないぞ! ゆっくり対処……」
店内で爆発が起こった。
冗談のような威力で、店の扉のあたりの壁が粉みじんに吹き飛んだ。
六人組はあるいは爆風で床に叩きふせられ、あるいは扉ごと外に吹っ飛ばされ、直撃をまぬがれた二名ほどが理解不能の目で壊された壁をふりむいている。
起こった絶叫は、おのれの店が損壊するのを見た主人のものである。
胸ぐらをつかまれたまま凍りついている鉤の男に、少女が杖をつきつけて不機嫌そうに言った。
「まずそこが間違ってんのよ。たしかにわたし、畏れ多くも、王位継承権なんてものをいただいてるけどね。姫さま本人だなんて勘違いもいいとこだわ」
「あ……あんたは?」
その桃色の髪をした少女は、面白くもなさそうに名乗った。
「ルイズ・ド・ラ・ヴァリエール」
23 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:31:35 ID:Dj3xyU3d
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〈ねずみ〉が先に立って居酒屋のほうに歩いていく。その二十メイルほど後方から、〈禿げ〉と〈山羊〉は肩をならべてついていった。
〈ねずみ〉と距離をあけたのは無関係をよそおうためである。
前を見たまま〈山羊〉が言葉を発してきた。
「〈禿げ〉、アンリエッタ女王はどのような人となりだ? 俺が知っているのは広く知られた話だけだ。
タルブの戦のとき女王は結婚式の途中だったが、みずから走って戦場にかけつけた。アルビオン遠征では終始積極的に攻めることを主張した。
この話をきくかぎり、烈女という印象になるがね。
たとえば、民を人質にとるとすれば、彼女にはどれだけ効果があると思うか?」
〈禿げ〉は一瞬、人質をとる? と顔をしかめかけた。下級とはいえ貴族出身であり、軍人でもあった彼には、そのような行為は下劣に思われたが……しかし考えなおす。
どのような手段も選んでいられない事態になるかもしれない。それに、かつての主君を害すると固く決意した時点で、自分はいまさら誇りを云々できる立場にない。
しかし答える必要はなくなった。「まあそれはいいか」とつぶやくと、〈山羊〉が別の質問をしてきたので。
「トリステイン人であるお前だけが、まがりなりにも女王の顔を見たことがある。見分けはつくだろうな?」
その確認に、〈禿げ〉は記憶をさぐった。過去の閲兵式で、タルブの戦で、アルビオン遠征の折で、あの純白の衣装を身につけた女王の姿を見た。
いずれもやや遠目からであったが、そう簡単には忘れない。
あのころは彼も、女王に忠誠を誓った軍人の一人であり、周囲の同僚とともに熱狂して「ヴィヴラ・アンリエッタ」を叫んだのだった。
あの栗色の髪、幼さの残る美貌は、強く印象に残っている。
感慨をこめて「ああ」と〈禿げ〉が首肯すると、〈山羊〉はそれならよしとばかりにうなずいて続けた。
「お前の復讐ももうじき成るわけだが……お前、あの女王をどうしたいんだ? 自分の手で殺すつもりでもあるのか?」
「さあ、自分でもわからないな。ただ何かせずにはいられないのだ。言いたいことをすべてぶつけてしまえば、案外それですっきりするかもな」
おいおい、とでも言いたそうな顔で〈山羊〉が横を見てくる。〈禿げ〉は暗い笑みを唇のはしに浮かばせた。
「冗談だ。最後まできちんとやるさ。捕らえる、それができなければその場で陛下を弑したてまつる、だろう?」
それを聞き、〈山羊〉が自分のあごひげをいじりながら、目をすがめた。
「いいのか、〈禿げ〉? お前以外、俺たちは平民の〈鉤犬〉も含めて、みなゲルマニア出身で……まあ、元よりまっとうな連中でもない。
だがお前はトリステイン人だ。しかも、元軍人だろう。女王を害することにためらいはないか?」
〈禿げ〉はその言葉に、少し考えた。
(あるかもしれない。俺の心をおおっている火を吹き消せば、その下から見つかるだろう。だが、この憎悪という火は燃え盛っている)
結局、彼は言った。
「あのような年若い小娘であろうとも、至尊の頂にいる者であろうとも……俺は、あの女が憎いのだ。
だから〈山羊〉、これ以上心配するな。俺がかつて持っていたような女王への畏れや忠誠心をふたたび抱いて、あんたらを裏切るようなことは……」
24 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:32:10 ID:Dj3xyU3d
〈禿げ〉が言い終えないうちに轟音がひびき、前方に見えてきていた居酒屋の扉が、内側から吹き飛んだ。
目と鼻の先で起きたことに絶句して立ち尽くしたらしい〈ねずみ〉の後方で、〈禿げ〉と〈山羊〉もあぜんと口をあけて吹き飛んだ扉を見つめた。
居酒屋の爆発に、村人、銃士隊、水精霊騎士隊のだれもが目を向けた。すでに一部は、そろそろと近寄りだしている。
「あの馬鹿ども――何をやった!」
〈山羊〉がうめき、様子を見ようとしてか、止めていた足を動かして野次馬の中にはいっていく。
〈禿げ〉はその後につづこうとして……既視感を覚えた。
横を見る。
家々の窓や戸から見ている村人……仲間と一緒に駆けてくる杖をもった少年たち……彼らと合流して居酒屋に近寄る銃士隊の少女たち……足を止めて騒ぎを見つめる銃士隊隊員……
雷に打たれたように、〈禿げ〉は一点を見て動きを止めた。記憶が、瞬時によみがえる。
あの少女。
彼女が歩くと王冠が輝いた。栗色の髪が風にほどけた。処女雪のような白のドレスがひるがえった。レースの裳裾で白百合の紋がはためいた。
いま見ている彼女は変装していた。王冠はなく、髪を結っており、身に着けているものはドレスではなく、ただひとつ同じ白百合の紋は胸につけられている。
それでも〈禿げ〉には彼女がわかった。多くのトリステイン軍人が彼女の姿を覚えているのと同じで、彼もまた強く少女の印象を心に残していた。
今では憎悪をこめて思い浮かべるとしても、やはりその姿は脳裏に強烈に焼きついている。
見つけたぞ、アンリエッタ陛下。彼はそうつぶやくと、マントの下の杖をにぎりしめて女王のほうに歩き出した。
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
まさか、ほんとうに居酒屋に誘うわけにもいかない。
才人は一瞥をなげたのみで、女王とアニエスの後ろにつきしたがって店の前を通りすぎた。向こうから歩いてきた者とすれちがう。
(ルイズもうすぐこっち来るとか言ってたよなぁ。あいつが話し相手になってやれば、姫さまも元気が出るだろう。
俺もそろそろあいつと会いたいしな……ルイズが来たら来たで、いろいろと大変だけど。あいつ嫉妬深いし、そのせいでときどき変な行動するし)
晴れて恋人関係になってから起きたあれこれの騒動を思い返すと、頭痛がしてくる。しかしそんな思いと裏腹に、才人の顔は勝手にニヤニヤゆるむのだった。
25 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:33:13 ID:Dj3xyU3d
その笑みは、背後で起きた轟音によって瞬時に吹き飛んだ。
居酒屋の扉がふっとび、二人ほどが外に投げ出されてきたのだった。
さすがに度肝を抜かれたのは、前を歩いていた二人も同じらしく、ふりむいて目を丸くしている。
「な……なんだ?」
アニエスがさりげなく腰の剣の柄に手を置きつつ、つぶやく。
才人はぞぞっと背筋に冷たい虫がはったのを感じた。
今の爆発は、激しく覚えがあった。
アンリエッタも同じことを思ったのか、「あれはまさか?」と洩らす。
たちまち人がよってきて、あたりは喧騒に包まれていく。
才人はある予感から、野次馬を押分けて居酒屋の中に駆けこもうとして、ふと――本当にふと、アンリエッタのほうを見た。
今の女王は、少年のような格好をしていた。まず髪を結いあげて普段と印象を変えてある。
体に密着する、板金で補強された鎖かたびら。下は乗馬服のように動きやすく股下が分かれている。手と足に甲をつけ、腰には剣帯。
つまり銃士隊員の服装であった。
この一週間、暇つぶしに村中をうろついている銃士隊員は結構いるため、たしかに村人も今さらあまり目を向けないのである。
しかし、才人はアンリエッタの、その凛々しく中性的な印象をあたえる姿に見とれていたわけではない。彼の目は、その背後に向いていた。
騒ぎの中、杖を手にして女王にゆっくり歩み寄る男の姿を。それは黒いフード付きのマントをすっぽりと頭からかぶっていた。
才人の視線に気づいたアニエスが体ごと振りかえる。
次の動きは迅速だった。彼女は拳銃を抜き、アンリエッタと黒フードの男の間にたちふさがった。
アンリエッタがふりむき、才人がデルフリンガーを肩から抜いて横に並ぶより先に、アニエスは銃を男につきつけて怒声を放った。
「なんだ、貴様は!」
「どけ、女。そして少年」
その男は杖をつきつけ、短く言った。
「用があるのは女王だけだ」
「なんの用か言ってみろ」
アニエスの詰問に、男は答えなかった。フードの奥に見える双眸が、暗い火をちらちらと燃やしている。
敵意が膨れあがるのを肌で感じ、才人は先に打ちこむべきかどうか一瞬迷った。
と、男が彼らの背後、アンリエッタのさらに後ろにむけて叫んだ。
26 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:33:59 ID:Dj3xyU3d
「〈山羊〉、この娘だ! 栗色の髪の、銃士隊の服を着た娘が女王だ!」
才人は肩越しにふりかえる。
居酒屋の中に踏みこみかけていた男が、振り向いて顔をゆがめた。
「そっちだと?」
他に居酒屋の外に倒れていた、旅芸人のような服装をした男たちもよろめきつつ身を起こしている。彼らも一様に、フードの男の言葉をきいて愕然としたようだった。
その一人が、うろたえた態で罵った。
「か……〈鉤犬〉の畜生めが、突っ走ってとんだどじを踏みやがった!」
その罵声に答えたのは、彼らの頭上で巻き起こった再度の爆発だった。
直撃を避けようととっさに転がる男たち。それを見やりながら、才人は次にだれが出てくるかを確信した。
アンリエッタも同様だったらしく、半壊した居酒屋から出てきた、桃色の髪で黒いワンピースの少女を見たとき、才人と声が重なった。
「「ルイズ」」
「え、サイト……って、姫さま!? その格好、いえ、まずこの連中……姫さま。こいつら、不逞の輩ですわ。姫さまを畏れ多くも拉致し奉らんとしていました」
「わたくしを……そう」
アンリエッタが唇をかたく引き結び、視線を前にもどす。
才人もそれで、フードの男に向けて顔をもどした。
男は口の中で短く何かを唱え……アニエスが「貴様」と怒鳴って発砲するのとほぼ同時に、圧縮された空気の固まりが彼女と才人めがけてぶつかってきた。
とっさに体の前でかまえたデルフリンガーで吸収したものの、才人は冷や汗を流した。
エア・ハンマーを撃ち出しながらその男は、風弾の反動で飛びすさり、銃弾をかわしていた。
しかし驚いていたのは、呪文をかき消されたその男のほうだったろう。彼はわずかに沈黙してから言った。
「なるほど……平民上がりでも女王の護衛ともなると、いささかならず変わっているようだな」
アニエスが、一発きりの拳銃を投げ捨て、剣をシャッと抜く。語るつもりはもはやないらしく、無言で構えた。
才人もまた、過去に腕のいいメイジと対したときに何度も抱いた緊張を、この場でも味わっていた。警戒をゆるめず、じりじりとすり足で距離をつめていく。
27 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:35:13 ID:Dj3xyU3d
〈山羊〉と呼びかけられた黒衣の男が合図すると、頭をふって立ち上がった男たちが杖を手に詠唱を始めた。見る間に炎球が形づくられていく。
しかし、横合いから飛んできた大量の氷の矢や石つぶて、銃の発砲に邪魔され、当たりはしなかったが炎球を放つことはできなかった。
このとき、村中をぶらついていた水精霊騎士隊および銃士隊の面々がかなり集まってきており、男たちを半包囲しつつあった。周囲をぐるりと見まわして、〈山羊〉が痛烈に舌打ちした。
アンリエッタはとっさに叫んだ。
「村の人は速やかにここから離れなさい!」
アニエスもフードの男と向かい合ったまま、周囲へむけて鋭く一喝する。
「門を閉めろ!」
それに対する黒衣の男たちの反応も、いっそ見事なほど早かった。
〈山羊〉が「逃げろ」と一声叫び、裏門のほうに身をひるがえす。
アンリエッタは、五メイルほど前方で、フードの男がぎりっと歯噛みするのが聞こえたような気がした。
だが男たちがそのまま遁走することはできなかった。
間一髪、村の裏門は地響きをたてて外側から閉められ、彼らは内側に取り残された。
が、その丸太を組み合わせた重量感のある門に、彼らの放った炎球が怒涛のように命中した。扉は見るまに高温で炭化し、火をふきあげた。
フードの男がいきなり自らの起こした風に乗って前に突っこんだ。
アニエスと才人、およびその後ろのアンリエッタを迂回して横を走りぬけ、仲間のもとに駆けよると、炎上する扉にむけて杖を振る。
風竜の体当たりかと見まがうほどの威力で、エア・ハンマーの直撃を食らった炭化した扉が破砕された……
……が、そこまでだった。
いくつもの銃声が響き、男たちの一人が絶叫をあげて肩をおさえた。
扉は半分壊れたが、いまだ炎と高熱を放ち、とても生身では近づけない。もう一度何かの魔法を使わねば通れなかったが、すでに銃口や杖が彼らに向いていた。
居酒屋の中からは、水精霊騎士隊の少年三人に両腕をつかまれて、手に鉤をつけた小男がひきずられて出てきた。
剣を手にしたアニエスが、硝煙のにおいを払うように大声で警告した。
「たとえ回復魔法であれ、もう一度でも詠唱をとなえれば、その瞬間に一斉射撃させる。銃士隊、水精霊騎士隊も狙いをつけろ。ためらわず撃てよ。
さてムッシュ、愚行はここらで幕引きだ。
それともまさか、こちらの数の優位を無視するまでに愚かかな? この場に集まった三十人が銃と杖で狙いをつけているのだぞ」
28 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:36:24 ID:Dj3xyU3d
男たちは答えなかった。
やがて、〈山羊〉が杖をおさめた。アンリエッタは、これで終わったと思った。だが、その黒衣の男の表情を見て身をひきしめる。余裕を残した、またはよそおった顔。
〈山羊〉は、アンリエッタに視線を向けていた。そして慇懃にお辞儀して言った。
「お初にお目にかかります、トリステインの女王アンリエッタ陛下。
われわれはあなたを連れ去るつもりでしたが、このとおり惨めに失敗しました。あまりにひどいへまを打ったようなので、馬鹿らしくて自分たちを弁護する気にもなりません。
そこでひたすら、女王の寛容にすがろうと思います――見逃していただけませんか?」
その言葉に誰もが目をむいた。
害しようとした本人に助けを求めるという、正気とも思えない言い草に、アンリエッタはどう反応したものかわからない。代わってアニエスがほとほと呆れたという声を出した。
「おまえたちが触れようとした人は、白百合の玉座の主なのだぞ。
受けられる寛容は、裁判を受けさせてもらえることくらいだ。それも、ここですみやかに降って撃ち殺されなかった場合のことだな」
「あいにく、降服して死刑台をのぼらせてもらう気はありません。しかし、そうなると撃ち殺される運命のようですね。ならせめて、もう少し陛下と話させていただけませんか?
なぜこのようなことを起こしたか、説明しようと思います」
〈山羊〉に対し、なおも言葉を続けようとしたアニエスを制し、アンリエッタはきらめく目で黒衣の男を見つめた。
(『敵に対しては、剛毅に』)
マザリーニの教えを、心でつぶやく。彼女は凛とした声で問いかけた。
「では言いなさい。なぜこのようなことを、誰のために起こしたのか」
「なぜなら、陛下は民の上にのしかかる者、旧弊の代表者であるからです。民を虐げる悪王は、裁かれるべきだと思いませんか?
アルビオンのさる思想家は言いましたよ。強大な力を持つ王権が、人民をかえりみぬ統治をしたとき、詭計、暴力を含むもろもろの手段で抵抗することが許される、とね。
誰のために? われわれは民の代弁者です、少なくともあなたを憎む民の」
アンリエッタは表情を動かさなかった。ただ、静かに呼吸をととのえた。このような状況で、これほどまでに痛烈に、されど慇懃な罵倒を浴びたことはなかった。
(彼はわたくしを怒らせようとしているのかしら?)
どう見ても、〈山羊〉は挑発していた――ただ、この場であえてそうする意図がわからない。
このようなゲーム、対話による駆け引きを、アンリエッタは無論したことがあるが……それでも彼女はまだ少女の年齢であり、狡猾さにおいて彼女を上回る者はいくらでもいた。
〈山羊〉の挑発に、けっきょく彼女は反論した。
29 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:37:11 ID:Dj3xyU3d
「わたくしが国を害し、多くの民が王権をくつがえすほどの憎しみを抱いたとするなら、たしかにこの身は滅ぼされてしかるべきでしょう。
しかし、そうではないと思います。わたくしはたしかに未熟ですが、そのような王でさえ、まだこの国には必要です。
しかも聞くところ、あなたの言葉はゲルマニア訛りがありますね。あなたがたはゲルマニア人ですか? 国境を勝手に越えてくるのは盗賊やならず者、と聞いております。
外国からのご高説はありがたいものですが、わたくしはまずわたくしの民からの声を、優先して聞こうと思います」
「では陛下、あなたの民から聞きなさい。彼はかつてあなたの軍にいました。白百合の旗印の下で、あなたのために戦いました。この若者の話を聞きなさい」
疑いなく〈山羊〉は女王の反論を待っていた。即座に、彼は名を呼んだ。
「前へ出て話せ――〈禿げ〉」
フードの男が、〈山羊〉の横に進み出る。そのこっけいな呼び名を聞いて、半包囲した近衛兵の中から失笑がもれた。
その笑いが、〈禿げ〉と呼ばれた男がフードを後ろに払い、顔をさらした瞬間に止んだ。
〈禿げ〉はぐるりと見渡した。最後に、アンリエッタに目を合わせて、自らの顔を指さした。
「二目と見られぬほど、醜いだろう? 先の大遠征のときだった。俺は軍艦に乗っていた。アルビオン艦隊との激突の折に、敵の放った火球で、鼻から上を焼かれてフネから落ちたのだ。
落ちる途中で無我夢中で自らにレビテーションをかけた。下が水でなければ、当然のように死んでいただろう。そして、意識を失ったまま岸に打ち上げられたのだ。
ご覧のとおり、どれだけ治癒魔法をかけてもらっても、髪も眉ももとに戻りはしなかった。頭皮ごと焼けたからな。目玉が溶けなかったのがいっそ不思議だった……」
アンリエッタは、いま自分がどんな表情をしているのかわからなくなった。
アニエスがアンリエッタの顔を見て、我慢できなくなったように〈禿げ〉に向き直って怒鳴った。
「軍人ならその職についた瞬間、どのような戦傷も、死さえも覚悟するものだ! 陛下に恨み言を述べようとは貴様、恥を知らないのか」
「違う。まったく恨まなかったといえば嘘だが、この傷のことで復讐しようとは思わなかった。俺が陛下を恨むのは、仇だからだよ、わが恋人の」
〈禿げ〉は暗く燃え盛る目で、アンリエッタを見つめた。
「俺はここから少し離れた領地にある、貧しい下級貴族の家の出だった……四男で、家を継げる余地はなかった。恋人がいたが、俺にはまだ結婚の甲斐性さえなかった。
だから、軍に入ったのだ。アルビオン戦役の一年前にな。
幼いころから一緒だった俺の恋人は、そのあたり一帯でも評判の、深い青い瞳とつややかな黒い髪を持った、美しい娘に育っていた。
覚えがあるだろう、あんたに恨み言を述べたせいで、首をはねられた娘だよ」
アンリエッタは固まっていた。最後の部分の言葉、その意味がわからなかった。
(彼は……彼は、何をいっているの? 青い瞳に、黒い髪? それは……)
30 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:38:05 ID:Dj3xyU3d
「俺はこの傷のために、故郷に帰れなくなった。こんな化け物のような面相で、彼女に会えというのか?
悲嘆にくれながら、俺はすべてを諦めることにした。岸に流れついた俺を助けてくれた村にとどまった。
俺は、炎に焼かれてフネから落ちた。戦死か、死者に限りなく近い行方不明者、として記録されただろう。
すっかり変わったこの顔のため、たとえ知り合いが見ても俺だとわからないであろうこともまた、それまでの人生をすべて捨てて別人になるには都合がよかった」
〈禿げ〉は急に声を高め、絶叫するように口を大きく開けた。
「だから――だからずっと知らなかった、彼女の父が貧窮し、彼女に目をつけたあの獣、あの領主に借金を返せない者として牢に入れられ、彼女は領主に奪われたなどということは。
一週間前に、ある人が教えてくれるまで、俺はなにも知らなかった。知ってさえいたら、あの獣の皮をこの手ではいでやったのに!」
「その、領主は、」
「そうだ、あんたが遅まきながら十日前に断罪した領主だ! 王権が正義を体現するなら、なぜ、もっと早くしてくれなかったのか!?
彼女はその後で、あんたに恨み言をぶつけただろう? 館の庭で、日の沈んだ後で。『その光景』を俺は映像として見せてもらったのだ、否定しようなどと思うな。
そしてあんたはその後で、彼女の首をはねさせた。
わかってるさ、女王陛下の誇りは尊く、それを傷つけようとした平民の命などとは比べ物にならない……だから、彼女は死なねばならなかった、そういうことだろう?
だが、それが許せない者もいるんだ。
俺は自分が、あの獣の領主が、そしてあんたが憎い! 彼女を不幸にしたすべての者が憎い。だが領主はすでに死んで、あんたと俺は生きている。
だから、自分も死ぬつもりで、あんたに一矢報いようとした。それだけだ。
そんな顔をして、どうした? 殺した娘のことを、いまさら悔いるのか?」
アンリエッタは呆然としたまま〈禿げ〉に言った。
「その娘なら、生きています」
〈禿げ〉の焼けただれた顔から表情が消えた。アンリエッタと同じように。
「……なんだって? なんと言った?」
「生きています――その娘は、生きているのです! わたくしは彼女を処刑などしておりません、彼女はここの近くの修道院に入れられています」
「――嘘だ! 俺は見た、火に照らされた夜の庭で、彼女があんたの爪を噛み、そこの銃士隊の女に押さえつけられるのを。
彼女が拘束され、手を縛られて銃士隊に連れて行かれるのを。
次の朝早く馬車に押しこめられて、そのまま人気の無いところで下ろされ、首をはねられるのを!
すべて見た、念のために数日前に故郷に寄り、人々に話を聞いた。庭での騒ぎを遠目に見た者と、朝に彼女が馬車に乗せられるのを見た者がいた……俺の見せられた映像と、証言が一致したんだぞ」
31 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:38:43 ID:Dj3xyU3d
アニエスが、これも唖然とした顔で指摘した。
「ああ、ほとんどの部分が真実だ。首をはねたこと以外が。疑うなら、その少女の生きた姿をみせてやる。
どうやってそんなものを見ることが……いや、まずおまえにそれを見せた者は誰なんだ?」
〈禿げ〉が、その問いに答えることは無かった。
真横に立っていた〈山羊〉が、手首をひるがえしてその首を後ろから強打し、意識を奪った。
とっさに撃とうとした者がいたかもしれない。しかし〈山羊〉は巧妙に、くずおれる〈禿げ〉の体を支えて盾にしていた。
〈山羊〉はずるずるとその体を盾にしたまま、煙をあげる門のほうに後じさって行く。
その男は、メイジのくせに帯剣していたが、今その剣をすらりと抜いた。そして〈禿げ〉の首にそれを当て、アンリエッタに向けて言った。
「女王陛下、彼の話を聞きましたね? ああ、そこの銃士隊長どのが、勝手に発砲命令を出さないようにしてください。でなければ彼の首を切り裂きますよ。
この哀れな男の人生、あなたによって狂わされた人生を、あなたの部下の手によって終わらせたいのなら、どうぞわれわれを攻撃してください。
そしてこの男の可哀想な恋人にこう言ってやりなさい、『あなたの恋人は生きていました、でもわたくしの命令でもう一度死にました』と」
「き……貴様……」
アニエスが怒りに口も利けない有様で、一斉射撃の合図の手をあげかけていた。
アンリエッタはそれを呆然と見ていた。見ていただけのはずなのに、悲鳴のような叫び声が口を開けて飛びだしていた。
「待って、アニエス……! 撃たないで!」
待って。お願いだから。アンリエッタはそう口走っていた。
近衛兵たちは女王のその言葉で動揺していた。忠実な彼らはこれで、アンリエッタ自身の「撃て」という命令か、アニエスが無理を通さないかぎり撃てなくなったはずである。
ルイズと才人が問うようにアンリエッタを見ているのが、視界の端にうつった。しかし彼らも、とっさに手を出しかねているようだった。
そのとき、両脇を固められていた手に鉤のある男が、身をよじって水精霊騎士隊の拘束をふりほどいて、地面に身を投げだした。
間髪を入れず、その小男は這いつくばりながら懇願をはじめた。アンリエッタの心をさらに揺さぶるように。
「お願いです、陛下、どうかお慈悲を、王の寛容を……わたしはゲルマニアの小作農民の出でした、無理やり兵隊として戦争に連れて行かれたので、すべての王権を恨むようになったのです……
ですがそれは過ちでした、あなたは優しい方だと一目見たらわかりました……これは愚行でした、このような方を傷つける意思などもうかけらもありません!
ですからどうかこの哀れな命を助けてください、ああお願いです、そうだ、これを見てください」
その男はひざまずいて顔を哀れっぽくゆがめ、涙を流しながら、右手で自分の左手首の鉤をとりはずし、アンリエッタに手渡そうとするように高々ともちあげた。
「見てください、わたしは障害者です、戦傷者です、戦争によってこの手を失ったので農民に戻れませんでした……どうか、どうか憐れみを……
わたしの名はハンスです、生まれたところはゲルマニア北東でした……妻と三人の子供がいました、男が二人で女が一人です……お慈悲を、殺さないでください、陛下……」
32 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:39:24 ID:Dj3xyU3d
黙れ、とだれかがその男に怒鳴っていた。
アンリエッタはうつろな目で、その卑屈に泣いてすがっている小男を見た。
名前など、彼女はけっして知りたくなかった。殺さないでくれと叫ぶ者が、彼女の中で、ただの罪人ではなく、名を持って死んでいく人間になってしまうから。
〈山羊〉がたたみかけるように呼びかけた。
「陛下、われわれはその〈鉤犬〉の言うとおり、もうあなたを狙いはしないと誓います。この場を逃がしてくれさえすれば、悔い改め、二度と宸襟を騒がせますまい。
あなたはすでに、われわれを屈服させ、妥協させているのですよ。われわれが欲しいのは今となっては、敗走するのを認めてほしいという慈悲だけなのです」
(『敵には剛毅に』でも、これはいったいどうすれば……攻撃すればあの若者は死ぬ、
枢機卿は『しかし膝を屈した敵には寛容に』と続けていました……そして敵は敗北したと言っている、
違う、こんな見え透いた嘘に乗ってはならない……でも、きっと本当にあの者らは彼を殺してしまう……)
唇まで蒼白になりながら、彼女は必死に考えた。実際には考えているつもりで、思考がぐるぐる回っていた。
頭が、ガンガン鳴っていた。
その前で、男たちの一人が杖を振って門の残骸を今度こそ吹きとばした。
その瞬間に「撃ちなさい」といえば、たぶん彼らを掃討できただろうが、混乱した思考の迷宮に入っているアンリエッタの反応は完全に遅れた。
今まで地面に這いつくばっていた〈鉤犬〉と呼ばれた男が、驚くべき素早さで地面をけって走り出し、次々と壊れた門に飛びこんでいく男たちに続いた。
その背中を撃てという命令さえ、アンリエッタは下せなかった。
アニエスが門を歯噛みしながらにらみつけている。彼女は鎖を引きちぎって、逃げる敵に飛びかかりたいという猛犬のような表情をしていた。
女王を害しようとした男たちは、全員が逃げおおせた。
33 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:40:14 ID:Dj3xyU3d
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〈禿げ〉が目覚めたとき、すでに夕方になっていた。
話し声が聞こえた。彼は寝かされていた地面で、ゆっくりと目をひらいた。夕暮れの空が赤く染まり、雲が穏やかに流れていた。
何者かと話している〈山羊〉の、不機嫌そうな声が聞こえてくる。
「――最悪ではなくとも、非常に悪い幕開けでした。これで女王一行は警戒するでしょうな。
加えて、他人のふりをして一人だけさっさと逃げてやがった〈ねずみ〉から新しく入った知らせだと、百人以上のメイジの近衛兵が、日没後にここに到着するという。もう間もなくです。
女王が襲撃されたという連絡が行ったので、あと一日のところを強行軍で駆けつけることになったとみて間違いないでしょう。
おい、〈鉤犬〉、お前が俺の部下だったなら、最低でもお前の残った右手を斬っているところだぞ」
「そう言うなよ。とにかく、みんな無事じゃないか」
「そのために貴重な『保険』まで使ってしまったんだぞ! この人質は二度とは通じまい、女王はともかく周囲の連中には特に」
ここはどこだ、と〈禿げ〉は横になったままぼんやりと周囲をたしかめる。
道端。それもかなり広い道の。国家が手を加えた、軍隊が通れる道。つまり街道だった。
いさかいをしていた〈山羊〉と〈鉤犬〉の会話に、別人の声が加わった。小鳥の鳴き声とともに。
「もういい。お前たち、女王をどう思った?」
覚えのある声。一気に覚醒し、〈禿げ〉は首をまわしてそちらのほうを見た。
全身を紫のローブでおおった者がいた。緑色の小鳥がその肩に止まり、『rot(赤),rot!』と鳴いていた。
しばらく沈黙していた〈山羊〉が、薄く笑った。
「助かりました。もっと冷徹に判断する、容赦ない性格かと思っていましたよ。
怯まずまっすぐ俺を見て話していた。あの女王はたしかに勇敢で、利発で、美しい。
そしてそれ以上に善良で優しく、甘く愚かな、かわいい子だった……」
〈山羊〉の言葉に、〈鉤犬〉も笑みをこぼし、舌なめずりをした。
「ああ、邪悪なる王権に対するに手段を選んでいられないとはいえ、あのような少女に嘘をついたことは悔恨のきわみって奴でしたよ」
「まったくだ。『ハンス』という名前だの結婚して子供が三人いただの、よく言える。その左手にしても、戦争の傷とは知らなかったぞ。
〈鉤犬〉の虚言の大罪はともかくとして、当初の予定通りにこうしてあなたと会えたのは不幸中の幸いです」
34 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:40:47 ID:Dj3xyU3d
〈鉤犬〉を横からあざけった後、〈山羊〉は紫のローブの者に向きなおった。声を低める。
「百人以上のメイジの近衛兵。これがそのままだと、われわれに望みはありませんよ。例のものはありますか?」
紫のローブはうなずいて、ふところから何かを取り出した。水晶のような小さな石を。それを足元に落として無造作に踏み砕く。
それは乾いた音をたてて粉々になり、塵のようになって足の下から飛散し……紫のローブが足を上げると、跡形も無かった。その者は、くぐもった声でつぶやいた。
「〈解呪石(ディスペルストーン)〉は貴重なものだ。世界のほとんどの者は、存在さえ知らぬ。
これはゲルマニアの山中で見つかった……始祖が残した宝で伝説の虚無の力が入っているとも、先住魔法の結晶したものとも言われるが、さて、真相はどうであろうか。
この最大級の大きさがある解呪石の効力は、半径一万数千メイル、直径約三万メイルに及び、明日の朝までは続く。〈山羊〉、手駒は集めておいたか?」
その問いに、〈山羊〉は街道をはずれた草深き原野を指さす。ちらちらと動く人影があった。
「そこらにいますよ。見えるところにいるのは一部ですがね。前日から手配して、総勢百四十名はあつめておきました。
すでに街道の横にひそむようにして、配置についています。
みな平民とはいえ、それなりに荒事に慣れた者です。半数はゲルマニアからひそかに呼んだ、〈鉤犬〉の同志の共和主義者たち。今回のことには命がけで戦うでしょう。
残り半数は傭兵や、職にあぶれた私兵を集めました。こいつらは戦闘のプロですが、金に貪欲です。払えますね?」
紫のローブは愚問というようにうなずき、ぼそぼそとささやく。
「〈鉤犬〉は理想のために、お前は金のために戦う。わたしがお前たちを使うように、彼らを使え。金のことは心配するな。
これはわたしにとってはトリステイン王家を滅ぼすための、〈鉤犬〉にとっては共和主義の偉大なる勝利を示すための戦いであり、〈山羊〉、お前にとっては莫大な報酬がある仕事だ。
成功した先のわれわれの目的はそれぞれ違っても、成功条件は同じ。
つまり女王を消すことだと、手駒たちにもよく飲みこませよ」
『rot』とその肩の小鳥が一声鳴いた。
〈禿げ〉はよろよろと立ちあがった。
会話していた三人の視線が集中した。〈禿げ〉は刺すような視線で彼らを射抜いた。
「お前ら……正気か? 精兵であろうとも百人の平民と、十人の近衛のメイジでさえ勝負にならんぞ。それが同数で、勝てるとでも思っているのか?」
〈山羊〉が微笑した。
「おや、〈禿げ〉、まだ心配してくれるのかね?」
〈禿げ〉は黙って、紫のローブだけを凝視した。食いしばった歯の間から軋るような声を出す。
35 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:41:22 ID:Dj3xyU3d
「どういうことだ? あんたから見せられた映像、その肩にとまっている使い魔が見て、それをあんたが俺に伝えた映像は、あんたの捏造だったのか?
女王は、彼女を殺していないと言った。思えばあれは、嘘を言っているようには見えなかった……」
その者は答えなかった。〈禿げ〉を完全に無視して、顔を向けさえしなかった。
かわりに〈鉤犬〉が横から口を出した。紫のローブの者に話しかける。
「こいつ、放っておくと間違いなく裏切りますよ」
〈山羊〉もうなずいて、雇い主に向き直る。
「『保険』のために預かりましたが、さっそく使用してしまったのでもう使えません。惜しいことですが、そのおかげで虎口を脱しました。〈禿げ〉、礼を言っておくぞ」
〈禿げ〉は自分のローブの中にある杖を、手が白くなるほど握りしめた。
「〈山羊〉、女王に人質は効果があるか、と貴様は村で訊きやがった……俺だったんだな?
万一のときの人質として使うため、貴様らは嘘を教えて俺を仲間に引き入れたんだな」
紫のローブが、このとき初めて〈禿げ〉に向けて言った。かすかに嘲笑が、その男とも女ともつかない声ににじんでいた。
「お前は生きる意味を見失っていた。故郷に戻って恋人に壊れた面を見せるくらいなら、死んだと思われるほうがましだ、と……ゆるやかに朽ちつつあったお前に、意味を与えてやったのだ。
この九日間、生きていることを実感しただろう? 廃人であった状態から、泣き、わめき、怒りと憎悪の炎を燃やし続けてここまで来た。
そして、嘘であったのは、女が死んだという一点のみだ。ほかはすべて真実を教えた。
お前が故郷に帰らなかった間、暗黒の中で女が苦しみぬいたのも完全な事実だぞ。わたしを責めるより先に、自らそれを恥じて死ね」
〈禿げ〉は杖をふところから取り出した。生きていようとどのみち、もう彼は恋人には会わないと以前に決めていた。澄んだ青い瞳を一瞬だけ思い浮かべて、杖を紫のローブに向ける。
(ここで、こいつと刺し違えてやる)
素早く風刃の呪文を詠唱して、殺すつもりで杖を振った――が、何も起こらなかった。
〈禿げ〉は愕然として、再度こころみた。同じく、魔法は出なかった。
何度も繰り返す。魔力は高まる。だが、それが発される前に雲散霧消する。
〈鉤犬〉がくすくすと笑った。
「近衛のメイジ百人! ところで、そいつら魔法が使えないなら、平民の精兵とくらべていったい何の役に立つんだね? 今夜は楽しくなりそうだなあ」
〈禿げ〉は狂ったように杖を振るのをやめ、絶望と怒りをこめて紫のローブを見やった。
〈山羊〉が、その前に立ちふさがった。
彼は剣を抜いていた。それを、〈禿げ〉の胸に突き通してから言った。
「剣を習っておくといいと、言ってやっただろ? こういうときに役立ったのに」
赤い夕日が街道を照らし、鮮血がたらたらと剣に貫かれた胸から流れた。
あの緑色の小鳥が、とまっていた肩から飛びあがって道端のブナの枝にうつり、場を上から見下ろして『赤rot! rot! rot!』と哀れむように鳴いていた。
36 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:42:14 ID:Dj3xyU3d
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日は落ちていた。
こちらに向かっていた近衛兵たちは、連絡をうけて急行してくる。それを待って、明日にはすぐさま王都に向かうことになっていた。
館に戻り、アンリエッタは自分に当てられた部屋の中で、暖炉の前に置いた椅子に座っていた。
まだ銃士隊の服装のまま、着替えていない。
すでに夜だが明かりもつけず、炉の中で燃える熾火を見つめている。
重い疲労を感じていた。
(けっきょく誰も救えなかった。あのときためらったことは、最悪の結果を招いただけに終わった)
〈禿げ〉と呼ばれていたあの若者は、夕方に死体になって発見された。街道から屋敷へ続く森の中の道に、見せつけるように投げ捨てられていたという。
その報告を聞いたとき、アンリエッタは怒るよりも悲しむよりも衝撃に放心して、愚か者のように『なぜ?』と言ったまま口を閉じられなかった。
『なぜ、彼らはこうも堂々と、トリステインの王権を侮辱するの?』と。
話をアニエスから聞いたマザリーニが答えた。容赦なく、アンリエッタを叱るように。
『王権の体現者たる陛下を恐れておらぬからです。そのような馬鹿者どもには、断固とした罰でもって応えねばなりませんでした。
仮に死んでも治らぬような馬鹿であっても、死ねば逆らいません。そして、多くの人間は、死んだ愚者を見て利口になるでしょう』
青い目の少女のことを考えた。
彼の死を彼女に決して知られてはならない、それだけは確かだった。
本音をいえば話したい。許して、と泣いて謝りたい。
けれどそれは、まさしく自分の勝手というものだった。
(実は生きていた、けれどまた死んだと教えて、彼女の心をさらに傷つけるの? 彼が死んだのはアルビオンとの戦、せめて彼女には永遠にそう思わせなければならない……)
そして、自分はこのことをも背負わねばならない。あの戦の後で、実感したのと似たようなことを、あらためてもう一度突きつけられた。
アンリエッタは今、王冠を頭に載せていなかった。けれどそれは形なくともやはり載っていて、このときひどく重くなり、頭をうなだれさせた。
秋の夜はさむい、とぼんやり思う。炉の火は赤々と燃えているのに。
せめてワインが欲しかった。あるいは、手を握って、そして……
37 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:42:56 ID:Dj3xyU3d
「――ま、姫さま!」
はっと気づいて、顔をあげた。正面から、誰かがかがみこんで自分の顔をのぞきこんでいる。
黒い瞳に黒い髪。アンリエッタは誰が自分のそばに来て、呼びかけていたか知って、狼狽した。
「サイト殿、なんで……?」
「なんでって、その……部屋の前を通りかかってふと心配になっただけですけど、ノックして呼びかけても返事が無いから、つい……」
普通は、女王から許しの言葉を得ない場合、臣下は勝手に入室などしない。
けれど、才人は正確にはアンリエッタの臣下ではない。
それに……彼はこういう少年だった。アンリエッタをそれなりに敬いはするが、ほかの貴族のように丁重を極めた接し方ではない。
アンリエッタは「それは、ご心配をおかけしました。でも、わたくしなら大丈夫です」と微笑んで言うべきだった。そう自分でもわかっていた。
なのに、次に出てきた言葉は、どろどろの弱音だった。
「また、失敗してしまいました……」
才人はとても困った顔をしていた。それから、「そんな思いつめなくても」とこわごわと触れるように言ってくる。
「姫さま、しょうがねえって。あれはとっさに反応できないよ」
「いいえ、それでもわたくしは的確に反応するべきだったのです! あの男たちをけっして見逃してはならなかった、彼を、彼を救うべきでした!」
突然感情が激した。
それから、たかぶった精神が急降下していく。
「……わたくしの弱さは、部下の働きを裏切ったのです」
「だから、そんなこと言うなって」
才人は、へどもどしながら必死になぐさめようとしている。
震える肩にそっと彼の手が置かれた。
疲れた心のどこかで、いや、『どこか』とさえ言えないほどはっきりと、アンリエッタはそれにすがりたくなった。
突然、ルイズのことを思い出した。実家への帰省中だったが、半ば逃げ出すように出てきた彼女は、アンリエッタの留まるこの領地に来たのだった。
街娘の姿でいたのは、まず村にひそんで水精霊騎士隊に才人を呼んでもらい、驚かせるつもりだったらしい。
館に帰ってきてからつい一時間ほど前、気をつかったアンリエッタが、少し一人になりたいとルイズに言うまで、彼女はそばにいて懸命にアンリエッタを励ましてくれていた。
38 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:43:33 ID:Dj3xyU3d
(いけないわ、これは……)
思わず、身を離すようにのけぞって顔をそむける。
「姫さま?」
「出て行ってくださいまし。これ以上、考えることを増やさないで」
毅然として言えはしなかった。震えて、自分でもみっともないほど弱々しい声。
たぶん、それがまずかった。
気がつくと手を引かれて立たされ、抱きとめられていた。
「落ち着けって。俺、馬鹿だからこんなことしか言えねえけどさ。
なあ、そんな震えないでくれよ」
彼の声は、困惑と心配に満ちていた。壊れ物を扱うような、幼い子供をあやすような抱き方。ぎこちない優しさに満ちている。
少年の体の温かさに、冷えていた体がじんわり温まっていくようだった。胸につかえていた重い息がごく自然にほう、ともれていった。
振りほどく気にはどうしてもなれなかった。というより、このまま抱きしめられていたかった。少年の肩口に顔を埋めたまま、アンリエッタはぽつりと言った。
「それなら、もっと強く抱いてくださいまし。何も考えないですむほどに」
才人が戸惑っていたのは短い間だった。彼の腕に力がこめられて、アンリエッタはぎゅっと息苦しいくらいに引き寄せられた。
炉の火が、赤々と燃えている。
互いに伝わる心臓の音が、ほんの少しだけ早い。だが、不思議なほど穏やかな気持ちだった。
急にドンドン、と部屋の扉が激しい勢いでたたかれた。
はっとして二人が身を離す。アンリエッタが「ど、どうぞ」と言うのとほぼ同時に、アニエスが飛びこんできた。
尋常ではなく血相を変えていた。
「陛下、トリスタニアから来た増派の近衛兵が、ここから八千メイルの距離で襲撃され、壊滅しました! おそらく、われわれは包囲されつつあります」
無音の雷が室内に落ちた。
39 名前: 裏切りは赤〈上〉(白い百合の下で・2) [sage] 投稿日: 2007/09/17(月) 02:44:31 ID:Dj3xyU3d
アンリエッタは、頭をふった。まさに青天の霹靂だったが、先ほどよりずっと頭がすっきりしていた。
比較的冷静に、状況を問う。
「……なぜ、そんなことになるのです? 近衛兵たちは軍の中でも最精鋭の兵です。襲撃を行ったものが、よほど多くの兵をそろえていたのですか?」
「陛下」
アニエスが緊張した声で、仰天するようなことを告げた。
「敗残兵たちの一部がこの館に逃げこみました。彼らが言うには、戦いで魔法は一切使われなかったと。敵はメイジでも亜人でもなく、平民です。百人以上の。
そしてなぜか、われわれは魔法を使えなくなったのだ、と近衛兵たちは言いました。
彼らは惨敗しました。当然のことながら、敵にはほとんど被害がありません」
アニエスの後ろから、ルイズまでが歩いてきた。彼女の声も、同じ程度にこわばっていた。
「試しましたが、わたしも虚無が使えませんわ。水精霊騎士隊の面々も、まったく魔法が撃てません。まともな戦力は、今のところ銃士隊五十名だけです」
秋の月が空に光る。それでも暗い、そして長い夜が始まったばかりだった。
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