プロローグ◆aptFsfXzZw







 ――『スノーフィールド』。

 それはアメリカ大陸西部、ラスベガスよりやや北に位置する、四方をそれぞれ異なる性質の大自然に囲まれた新興都市。
 自然と科学の調和された、未来を見据えた希望の徴とも、土着の恵みの狭間に自らを置いた、調律者気取りの傲慢の顕れとも、評価する口によって様々な言葉の飛び出す、そういった曖昧なバランスの上に成り立つ街だった。

 ただ、冷戦を終えた約二十年前、どうやら当時の市長は自治体の長として、少なくとも本人の認識としては前者に属する思想を持っていたのだという。
 グローバリゼーションが声高に主張され、実際に社会に働きかける力として広がりを見せるようになったその時代。新たに生まれた、地球の未来を見据えたこの都市こそをそのモデルにするべきだという訴えを起点に、積極的な移民の受け入れや、ホームステイを行うファミリーへの支援、更に手軽に異なる種類の大自然を楽しめる観光地化など、この地が様々な人種の坩堝として発展するように政策が推められた。
 それらによる弊害は多々抱えながらも、十年もすれば実績は重なり、また新たな人材の獲得による新興都市の発展への貢献は、確かな物となり始めていた。
 そんな政策の安定が増した時期に、そうした背景を受けて移民は更に増加し――単純な割合で見れば、今のスノーフィールドはニューヨークに勝るとも劣らぬ多種多様な人種を抱えた、特色豊かな独立市と化していた。

 そして、スノーフィールドの中央区からやや北西に外れた、二階建ての建売住宅に暮らす双子の姉妹もまた。ちょうどその時期に両親がドイツから移住したために、この街の一員となった少女達だった。



 ……微かな不穏が漂い始めた、“このスノーフィールド”で確認できる記録と、極一部を除いた大多数の記憶に拠れば、だが。












「「おやすみなさーい!」」

 夜。家の中に居るお互い以外の全員に就寝の挨拶を告げた双子の少女が、自分達の部屋へと戻って行った。
 彼女達は双子にしても、本当に鏡写しのように瓜二つの姉妹だった。姉の方が、同じ銀を溶かしたような髪にも褪せた紅を滲ませたような色合いを帯び、また綺麗に日焼けしたように肌が褐色である以外は、完全に同一と言っても良いほどに似通った容姿をしていた。
 ……とはいえ、同じ環境で育った双子が全く同一の存在なのかというと、そうでもなく。

「面白かったねー、『マジカル☆ブシドームサシ』!」

 映像ソフトの新作が手に入ったジャパニメーションに夢中な妹は、入浴を挟んでなお興奮冷めやらぬ様子で姉に力説する。
 対する姉は、同じ顔に呆れたような表情を浮かべ、肩を竦めていた。

「もう十一歳なのに夢中になっちゃって……相変わらず子供っぽいわねー」
「な……なによ大人ぶっちゃってー! それに、大人のリズお姉ちゃんだって熱心に見てたんだから!」
「ふーん……じゃあイリヤは、住み込みのメイドなのに家事もしないでゴロゴロしているリズが立派な大人だと思うの?」
「うっ、それは……」

 等と。歳相応か、それよりやや幼い傾向のある妹と、おませな姉は、話題のリズ達に就寝を告げてからも二人、かしましく歓談する。
 朝に目を覚ましての挨拶から、夜の眠りにつくまでの一日中。こうして時に張り合い、また時には支え合う、それが二人の『日常』だった。

「ところでイリヤ」

 そんな風に毎晩、ベッドの上で繰り広げられる姉妹の他愛ないお喋りの中で。姉である少女が改まって、妹の名前を呼んだ。
 思わず意識した妹に対し、姉は投げやり半分な様子で、しかし緋色の瞳にだけは真剣な光を灯して、その口を開いた。

「あなた、本当にわたしがお姉ちゃんってことで良いの?」
「えっ……?」

 そんな姉の問いかけに、妹はきょとんとするしかなかった。
 こんな姉で良いか、ではなく。自らが姉ということで構わないのか、という問題提起の意味が、妹にとってはあまりにも意図不明だったからだ。
 同じ日に生まれた双子とはいえ、それを今更疑問視する意味がさっぱりわからなかった妹は、真剣に考えた結果単純に姉が言い間違えたものと考えて……その真剣な勢いのまま、返答していた。

「うーん……クロはエッチだし意地悪だけど、それでも、わたしのお姉ちゃんなのは変わらないよ」

 いつも、悪戯ばかりして、宿題を写させろと言って来て、(小学生としては、だが)性的に奔放が過ぎて、挙句そんな横暴に我慢できなくなった自分と喧嘩して。
 日々目にする姉の素行は、とてもではないが、心から尊敬できる立派なレディのものではないと思う。
 ……けれど。それでも。

「いつも、最後はわたしを助けてくれた、優しいお姉ちゃんだもん」

 確信を込めて言ってから、気恥ずかしさを自覚して、妹は赤面した。

「あ……あわわわ! だ、ダメ! やっぱり今のなし! ノーカン……っ!」
「――そう。やっぱり今のあなたは、こんなに近くにいても、隣には居ないのね」

 いつもなら、必死に取り繕おうとする妹を全力でからかうはずの姉が。
 寂寥を滲ませて妹に零したのは、そんな謎めいた言い回しだった。

「これじゃ約束、守れないじゃない……バカ」
「え、なに? どういうこと?」

 唐突にバカ呼ばわりされるも、その時の妹には怒りよりも姉の様子への戸惑いが強かった。
 対する姉は、そんな妹の心配に取り合うことなく、小さく首を振った。

「なんでもない。それより、おやすみのチュー!」
「わー!?」

 油断したところに襲いかかられ、押し倒された妹は姉に唇を奪われた。
 キス魔であり、熟練の技巧者でもある姉の舌技により、登り詰めた妹は疑問を抱えたまま、今度は虚脱状態にも似た深い眠りへと落ちて行き……






 ……そうして、己の半身の意識が一度、完全に途切れたのを見届けて。

「――行ってくるわね、イリヤ」

 そんな言葉を残した双子の姉――とされている少女の姿は、扉にも窓にも手をかけることなく、忽然と部屋の中から消えていた。
 その別れの挨拶が、眠りの中にある妹――とされている同じ容姿をした少女には、決して認識されることのないまま。












 深夜。
 双子の妹と共に朝を迎えるはずの寝室を抜け出した少女は、どうしたわけか、スノーフィールドが誇る摩天楼の頂点に居た。
 その華奢な身に纏うのは、部屋を去る直前に着ていたパジャマではなく。腰と胸部にそれぞれ食い込むほどタイトな漆黒のプロテクターを身につけ、赤い外套を纏いながらも褐色の肌を大胆に露出させた奇抜な服装に変わっていた。
 深夜に女子小学生が一人で立ち入れるはずがない場所に、妙に様になっているものの、とても一般人とは思えない格好で現れた彼女――クロエ・フォン・アインツベルンは、静かに眼下の街並みを見下ろしていた。

 クロという愛称を持つ少女は、そのまま一歩踏み出す。三歩も進めば、そこには足場となる固形物が何もない。
 即座に重力に掴まれ、落下を始めた彼女はしかし、自殺を図ったわけではなかった。
 一段低い、次のビルの屋上へとクロは落下する。確実に五体が砕ける勢いまで加速しながら、彼女は無音での着地に成功する。
 更にあろうことか、彼女はそのまま大きく、遠くへ跳躍していた。
 行き交う大勢がまだ、街に漂い始めた不穏を自分には関わりのないことと気にも留めない街の明かり――地上に現れた偽りの星宙のような輝きと、夜空に輝く真なる星々との狭間を、彼女は流れるように翔けていく。

 高層ビルの屋上から踏み出せば、次は隣のビルの屋上へと跳躍し、着地する。女児童どころか、およそ常識の範囲内に生きる人間には成し得ない行為を繰り返し、クロはスノーフィールド狭しと駆け巡る。

 移動の最中。不意に口から漏れるのは、目下、この街における最重要事項――クロにとっても、避けては通れぬ案件の名称だった。

「聖杯戦争、か……」

 口を開いて再確認したそれは、彼女にとっては今更な話でもあった。

 聖杯戦争。それは名の通り万能の願望機、聖杯を求める戦争を模した魔術儀式。
 ここでいう聖杯とは、救世主が十二人の弟子との最後の晩餐で用いたとされる、神の子の血を受けた杯にその名を由来しているが、必ずしも真実の聖遺物である必要はないとされる。
 問われるのは、術者の求める成果を得られるか否か――即ち、願望機としての真贋のみ。

 そして此度の焦点となる物体も、確かに願望機たるチカラを秘めしもの――正しく聖杯と呼ぶべき代物だった。
 それは正体不明の何者が創造し設置した、地球をその誕生から観察し続け、地球上のあらゆる現象、遍く生命、全ての歴史、そして魂さえも記録してきた神の自動書記。
 常に地球の傍らに在り続け、途方も無い観測を続けて来た天体。

 その名を、ムーンセル・オートマトン――即ち、月そのものである。

 地球の全てを記録するタイプ・ムーンであるこの聖杯は、その存在意義を遂行すべく、人間の魂をより正確に記録するために一つの実験を行っているという。
 それが、森羅万象を観測し得る自らの機能――一度主観が介在すれば、望むままの未来を導くことができるその禁断の箱の使用権を報酬に、無作為に招集した人々を競い合わせる擬似戦争。

 つまり、聖杯戦争。

 しかも、かつてどこかの地上で行われた同名の魔術儀式を、この月の聖杯が人間の本質を探るのに適していると判断したのか。
 それに倣い、参加者となったムーンセルのマスター候補達は、並行世界すら見通す月が保存する、人類史に刻まれた英霊の記録を基に再現し提供された使い魔(サーヴァント)を従え、刃を以っての争奪戦を演じさせられるのだという。無論、ムーンセルの目的に合わせてのアレンジは多々加えられているとのことだが。



 ……そんな、月の眼が観戦するための舞台に上げられた役者の一人が、クロだったのだ。

 気づけば巻き込まれていたこの戦いは、寸前まで身を置いていた並行世界で行われている聖杯戦争ではなく。彼女(クロ)の出生そのものの、本来の目的であったそれに酷似している。
 既に潰えたはずの。あの時、己の半身が救ってくれたことで解き放たれたはずの、クロ(イリヤスフィール・フォン・アインツベルン)の聖杯戦争(Fate)に。

 そこでふと立ち止まったのは、外から働きかけた何かがあったわけではなく。自己の内側で垂れ流していた思考がたまたま引っかかっただけの、気紛れな小休止によるものだった。
 街に淀む気配に気づくこともなければ、その本来の記憶を取り戻すこともない故に。抜け出した部屋に残してきた、家族という『役割』を与えられた者の穏やかな寝顔をクロは思い返していた。

「……ほんっとう、今更なのよね」

 仮令、それを目的に造られたのだとしても。
 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン(クロ)の居場所は、もうとっくに、そんなところではなくなっている。
 クロの願う居場所は――生きていたい日常は、天の杯にはないのだ。
 ましてや、こんな月の眼のことなど知ったことではない。

(ま、利用してアゲル分ならいいかもだけど――)

 あらゆる未来を識るというこの月の聖杯を使えば、友の地球(セカイ)が抱えた問題を解決することもできるかもしれない。
 そう考えるとにわかに欲望を駆り立てられるが、そもそも現状把握も充分ではない時点で結論を急いではならないと、クロは思考を切り替える。
 自らの一挙手一投足の末、『家族』がどうなってしまうのかもまだ、わからないのだから。

「……はぁ、面倒」

 己がこんな状況に在る、というだけで精神が消耗する。友を想い、どんなに微かでも弱音を吐く、という行為そのものを自戒してはいるのだが、誰にも見られていない状況でまで気を張り詰めてはいられなかった。
 あるいは誰とも関わっていないからこその、消耗なのかもしれない。
 何しろまだ、クロは仲間となり得る相手どころか明確な敵とも――自身以外の聖杯戦争参加者、その一切と接触できていないのだから。

 ムーンセルは、あらゆる可能性を考慮するため、いつかの時点で大なり小なり分岐した――地球の魔術では干渉できないほどに遠い数多の並行世界にまで――多くの場合は、クロが手にしたものと同様『白紙のトランプ』という形で現れる招待券を配布した。
 それを手にし、かつ適正を認められた者たちは、まずムーンセルが再現したこの偽りのスノーフィールドで記憶を改竄され、予選期間をNPCとして偽りの暮らしを送らされる。
 その、自らの置かれた世界が偽りであることに気づけた者から本来の記憶を取り戻し、加えてムーンセルと聖杯戦争に関する最低限の知識、そしてサーヴァントが与えられるという。

 更に、今は明かされていないもう一つの条件が満たされることで、最後の一人となるまで殺し合い、ムーンセルの中枢部『熾天の檻』へのアクセスキーとなる『小聖杯』を奪い合う、地上の聖杯戦争を再現した本戦が開始されるとのことだが、予選が始まってまだほんの数日。

 おそらく、特殊な存在である己が記憶を取り戻したのは、この街に招かれた人々の中でも一際早期に分類されるのだろう。
 故にまだ、そもそも。聖杯を巡り、競い合うべき相手そのものが、ほとんど現出していないのかもしれない。

 ――それでも、皆無ではあるまい。

 少しずつ、しかし確実に。この数日で偽りの街を覆う雰囲気が変化していることを、クロは薄々ながらに察知していた。
 偽られた日常の中で、少なくとも与えられた記憶にあるそれと比すると、噂好きの人々の間で口にされる異変が増え始めた。

 曰く、何処かの路地裏に。あるいはいずれかのビルの屋上に、青白い燐光を帯びた“幽霊”が現れるとか。
 ここ最近頻発する、ガス爆発によるとされる家屋等の倒壊の前後でも、それらの影がちらついていたとか。
 直接の面識こそない相手ではあるが、急に姿を見なくなった、音信不通になった知人という話題すら、幾度か耳に挟むようになった。

 動き始めている。変貌し始めている。偽りの街が、真実の戦場へと。

 その影響は、少しずつ、自分達にも近づいて来ている。

 そんな確信があった故に、クロは先手を取るべくこうして夜に一人、街を流離い僅かな手掛かりを探すことを決意したのだ。

 まずはこの数日間で怪我人が出た、家屋や備品の破損する事故があった、あるいは人間そのものの行方が消えた……そんな噂が複数件流れて来た工業地帯を、クロは目指していた。
 もっとも、そこに巣食っているらしいマフィア……の、役割を与えられた者達の、与えられた通りの日常の結果かもしれないが。無責任な目撃情報の中では、例のガス爆発によって実際に家屋の崩壊などの報道もされている以上、比較的確度が高いと言えることだろう。

「そもそも」

 ……一度栓が抜けた感情は、普段自戒を強く心がけていても、落ち着くまでは溢れ出てしまうものらしい。
 気がつけば、次の不満がその口から吐かれていた。

「いつになったら召喚されるのかしら。わたしのサーヴァント」

 されたらされたで、自らの体質を考えれば維持が死活問題となることは違いないが……聖杯戦争を勝ち抜くための剣にして盾たる絶対の力、サーヴァントが手元にないというのはあまりにも心許ない。
 いわんや、ゲームにおける最大の切札として配られる彼らは物言わぬ自動兵器などではなく、ムーンセルにより再現されたものとはいえ確固とした人格を持った個人なのだ。
 絶対命令権たる令呪があるにしても、それはあくまで三画のみ。緊急時を除いて活用できない以上、協力関係を築き上げるために意思を疎通する必要がある。基本的に、そのための時間は多いに越したことはないだろう。

 だというのに、確かに記憶を取り戻し、予選の第一段階を突破したはずの自分に宛てがわれるサーヴァントは、未だ姿形も見えはしない。
 サーヴァントとの関係構築と同様に、諜報の重要性も理解していたために。とうとう痺れを切らして、単身行動を開始することになってしまったではないか……



「――もうされていますよ、クロエ・フォン・アインツベルン」



 ……そんな、誰に向けたわけでもない愚痴に、そう答える声があった。

「……へぇ。そうなの」

 寸前まで無人だった。
 高層ビルの屋上の、一つしかない出入口にも気配はなかった。
 なのに忽然と現れ、しかもサーヴァントの意味を知っている回答者――ただのNPCではあり得ない。

「あなたが“そう”、ってわけじゃないみたいだけど。どうしてそんなことを知っているの? シスターさん」
「それは、私が今回の聖杯戦争の監督役として機能しているAIだからですね」

 果たしてクロの振り返った先に居たのは、一人の年若い尼僧だった。

「ああ、私のことはシエルとお呼びください」

 青みがかった短めの髪の下、シエルと名乗ったシスターは、人好きのするような笑顔で名乗りを上げた。

「聖杯戦争の監督役……カレンや言峰っていう神父みたいな立場ってこと?」
「はい。もっともその二人と違って、私の元となった人物は部外者止まりで、監督役経験者という記録はありませんが」
「詳しいのね」

 シエルの返答に、クロはつい正直な感想を漏らした。
 だがそれも仕方のないことだった。独り言のつもりで口にした名前はそれぞれ、異なる世界で執り行われた聖杯戦争の監督役の名前だったのだから。

「聖杯戦争に関しては、数多の並行世界も含めてムーンセルは観測を行っていますから。その上で、今回の監督役は弓のシエルが務めるべきと結論し、私が用意されたわけですね」

 同時、シエルの並べた言葉で、クロは一つの見識を得る。
 目の前にいる女はどこからどう見ても本物の人間だが、地上を行き交う市民たるNPCとは違い、生身の肉体を持たないムーンセルの用意したAIのようなものであるのだと。

「……それで、あなたは何をしにここへ? 監督役のありがたいお話なんて、まだ他に何か言うこと残ってるの?」

 此度の聖杯戦争に関する基礎知識は、既にムーンセルから直接授けられている。
 奪い合うべき『小聖杯』についても、今はその詳細は不明でも、本戦開始後に通達されるという情報が既に脳裏に刻まれている。
 となれば、かつて美遊の兄に言峰綺礼が行ったような説明責任など、シエルにはあるはずが……

「今回の目的はデバッグですね」
「デバッグ?」
「はい。実は、ムーンセルそのものの更新を経た今回からの聖杯戦争には、二つの改革のテーマがありまして。
 一つは量子記録固定帯……人理定礎で枝別れし、剪定後に独立した遠い並行世界からもサンプルを収集するようにしたこと。そしてもう一つは、より地上の聖杯戦争に近い様式で再現を行う、というものです。
 一対一のトーナメントではなくバトルロワイアル形式を採用し、また地上では敗者復活も多々見受けられたことから一度マスター権を失った者もムーンセルから直接の消去は行わず、加えて神秘の秘匿という魔術社会における遵守事項までロールプレイして頂く、というのもそれらの一環です。
 なので、従来は何らかの問題があればムーンセルが直接処理していた案件も、今回からは情報そのものの書き換えではなく、極力現地に用意された人員で対応するという過程まで再現することになっています」

 クロの疑問に、シエルは連々と回答する。

「つまり何らかの不具合があれば、聖杯戦争を管理運営する監督役を模したNPCが対処することになるわけです」
「そう、大変なのね」
「ええ。ムーンセルの目的上、私にサーヴァントが与えられるわけでもありませんからね。全て自分の足です。酷い職場に捕まってしまいました」

 AIと名乗っておきながら、実に人間らしく感情を込めて喋るシエルの姿に、油断するとこれが本当に作り物なのだろうかという疑念が浮かび上がる。
 周辺の自然を含め、街一つを再現するムーンセルのシミュレートの精巧さに、クロは一先ず素直に感心することにした。

「参加者が出揃えば、予備の令呪等を報酬に協力を要請することもできるのですが、今はまだ記憶を取り戻した方も少ないですし……何より、この問題は現時点だと、監督役が解決しなければならない案件ですから」
「……ふーん?」

 苦笑するシエルの様子を眺めながら、クロは少しだけ意識を張り詰め直した。
 彼女の物言いに、きな臭い物を感じたからだ。

「実を言うと、過去に行われていたトライアルならここまで大事にはならなかったのですが……魂をより正確に記録するため、在り方に影響を与えるその器、参加者の肉体(組成)ごと情報化しSE.RA.PHに招くように更新した、今回に限っての瑕疵(バグ)ですね」
「……で、何なの。そのバグって」
「貴方の身に起きていることです。クロエ・フォン・アインツベルン」

 シエルの言葉は予想の範疇であったが、事実として突きつけられたことにほんの少しだけ動揺する己を自覚する分、クロの返事は遅れてしまった。

「――そう。じゃあ、前言撤回。何が起きているのか、監督さんに説明して貰っても良いのかしら」
「構いませんよ」
 シエルは即答し、早速詳細を述べ始める。
「今回の聖杯戦争では、本来記憶を取り戻したマスターにはその者が利用した『白紙のトランプ』が再び提供されます。そしてそれを核として、サーヴァントが召喚されるのです」

 しかし、クロがスノーフィールドに着いた途端に記憶を取り戻しても、『白紙のトランプ』が手元に帰って来るということはなかった。
 何故なら。

「ですが、あなたについては既に、『夢幻召喚(インストール)』という形でそのカードのサーヴァントと契約している状態にあるとムーンセルには判断されています。
 契約だけならともかく、通常ならそれによってサーヴァントが現界しているとはまずムーンセルには認められません。しかし、あなたの場合は、それがあなた自身の存在と等号で結ばれてしまいました」
「わたし自身の現界が、そのままサーヴァントの現界としても認識されているわけね」

 自身の言葉を引き取ったクロに頷き、シエルは説明を続ける。

「そのため、お預かりした記憶は即返還されることとなりましたが、一方でムーンセルは今のあなたに新しいサーヴァントを提供することができないんです。
 これはセラフにおいて、契約によって現界しているサーヴァントはマスターのIDと紐付けされていることが理由になります。
 このような問題が発生したのは、今回のシステムの変更がまだ地上の模倣として推移段階にあるためですが……ともかく。擬似的にサーヴァントの肉体で現界していながら、明確に別個の人格を持つマスターでもあるあなたが『白紙のトランプ』を正式に受領するには、一時的にでもそのサーヴァントカードとの契約を解除する必要がありますが」
「そうね。わたしはこの契約の解除なんてできないわ」

 クロは不可能を認め、首肯する。現界の核となっている弓兵の夢幻召喚が解除されれば、クロという人格は依代となる器を失い、消失してしまうだろう。

「ええ。それはこちらも理解しています。しかしあなたの組成情報を丸々再現する都合上、その核となるカードだけを『白紙のトランプ』に書き換えることは今のムーンセルにもできませんでした……残念ながら」

 心底から惜しむようなシエルの口ぶりに、クロは先程覚えた不安が大きくなるのを感じて、身構えながら更に問う。

「そんなに問題なの? 『白紙のトランプ』を核としないサーヴァントが居るのって」

 クロが自身のサーヴァントを召喚できず、この身一つで戦わなければならない、というのは、確かに多大なディスアドバンテージではある。
 しかし、その不公平を是正できなかったことに運営側がそこまで気に病むほどの理由はない……ように思うのだ。故に、この違和感は無視できない。
 果たしてシエルは、勿体振ることもなく口を開いた。

「ええ。何しろそのサーヴァントが誤認されたまま頭数に入ってしまうと、ムーンセルの召喚に不備が生じてしまって、約束の数が揃いませんから」
「……ああ、なるほど。そういうことね」

 クロ――本来のイリヤスフィール・フォン・アインツベルンには、極小規模ながら願望機としての機能が備わっている。
 自身の魔力が及ぶ範囲において、過程を省略し、望んだ結果のみを直接獲得することのできるチカラ。

 それは魔術の行使のみならず、極限られた範囲において、望んだ『答え』を得る能力としても機能する。
 例えば今の会話で効果範囲に舞い込んだ、聖杯戦争運営に当たってムーンセルとその使者がこうも固執する、『白紙のトランプ』という魔術礼装にどのような効果があるのか、といった疑問への解答も――

「……つまりわたしは、あなた達にとって要らない小聖杯っていうことなのね」
「要らない、というよりも、在ってはならない……というべきでしょうか」

 御しきれぬ怒りと、平坦な憐れみと。
 それらの言葉が交わされた時には、既に二人の姿はそこにはなく。
 代わって鋼の激突を産声に、極小の星屑が夜空に瞬いていた。

 ……尋常ならざる速度の、人間離れした跳躍。それを行った両者の、火花散る交錯は一瞬にも満たず。
 投影魔術で造り出した黒白の夫婦剣――宝具の贋作を手に、幾分背の低い近隣の雑居ビル屋上に落ちるように逃れたクロに対し、両手の指間に複数のショートソード……『黒鍵』の柄を握り込んだシエルは、元のビルの屋上に悠々着地してから、なおも言葉を投げかけ続けた。

「システム上の不備のようなものですが、残念ながら改善策は一つしかありませんでした。
 イレギュラーですらなく、聖杯戦争の進行にとって明確な障害(バグ)であるあなたを消去する、という方法しか」
「――っ、勝手に拐っておいて、よくも厚かましく言えるわね!」
「ええ。そのようにロールプレイされたものでしかありませんが、私個人の気持ちとしては申し訳なくも感じます。
 本来なら独立した人格(魂)であれば、その状態を問わずサンプリングしようとしたムーンセルの手違いであって、あなたに非はありませんから」

 口論と共に、屋上から屋上への移動を続ける両者の刃もまた激しく交わる。
 時には地に水平な足場のみならず、垂直な壁や柱も踏み台に、各々華奢な爪先だけで亀裂すら刻みながら。
 空中を撞球のように飛び交い弾き合う、まるで人間の領分を越えた攻防が、街行く人々の誰も気づかぬままにその頭上で繰り広げられて行く。

 存分に貯蓄があるとはいえ、互いに両手の剣を一撃ごとに砕き使い捨て取り替えるほどの、凄まじい応酬の最中。優勢であるのは、獲物を追うシエルの方だった。
 驚くべきことに、英霊の力の一端を身に宿したクロよりも、追跡者は数段上手の実力者であった。おそらくはあの封印指定執行者と同等か、それ以上か。
 斬り合いつつ、興奮混じりに何とか叫び返すのがやっとのクロに対し。平然とその斬撃に対処するシエルは息一つ乱すこともないまま、先程と変わらぬ調子で口を開く。

「ですが、あなたが居る限りこの月の聖杯戦争は始まらない。いくらムーンセルが干渉を避ける方針とはいえ、その異常事態が度を過ぎて続けばセラフごと全てが消去されるでしょう。
 そして外部から来た者がムーンセルから生還する術は、聖杯を獲得するまで生き延びることだけです。
 ――月の招待に応じてしまった時点で、貴方の運命は決まっていました」

 通告。同時、剣戟の中殆どラグもなく、至近距離で放たれた強力な魔術に不意を衝かれたクロは受け身も取れないまま、背後のビル壁まで吹き飛ばされ、叩きつけられる。
 感電、次いで背部を強打した勢いで、クロの肺から酸素が絞り出された。
 その身が只人ではなくとも人体を模している以上、呼吸を阻害されては魔力の循環に支障を来たす。
 そうして生まれた隙を逃すことなく、シエルの投擲した黒鍵の群れは灼熱と共に四肢を貫き、クロの肉体を磔刑の如く縫い止めた。



 ……運営用のNPCが目の前に現れたのは、自身に関わる問題があるからだとは予想できていた。
 そこでまず対話が行われた以上は、せいぜい交渉で解決する程度の案件だと思っていたのに――

 ――語り聞かせていたのは、希望を断つため。
 そして、覚悟と共にその運命を受け入れさせ、せめて安らかに眠らせるため。



「何が、運命よ……っ!」

 涸れた悲鳴に蓋をして、吐き捨てると同時にクロは極小の願望機としてのチカラの一端、空間転移を行使する。
 人智を超えたその御業は拘束より解き放たれ、全くの同時にシエルの背後を取る起死回生の一手と相成った。
 しかし、逃亡ではなく更なる抗戦を選ぶには、既に負傷の度合いが重過ぎた。憑依経験により、手足の延長のように馴染んでいた夫婦剣も満足に振りきれないほどに。
 そんな不完全な一撃は、月の代行者には当然の如く防がれた。

「今更……何を……っ!」

 それでも、武器を我武者羅に振り続ける。力任せでも、迫り来る死を遠ざけようと。
 ――そう、既にクロは、ただ握った刃を闇雲に振り回すしかできなかった。
 どんなに願えども、活路となる『答え』は、クロのチカラでは見つけられなかったから。

「自身に一切の非がないとしても」

 その示す意味を否定せんと、限界を越えた刃が遂に敵の身体を捉えても。
 滑る感触と共にその胸を裂いてやったのに、尼僧は声が濁ることもまるでなく――あろうことか、その場で元の状態に復元してみせる。
 致命傷を負ったはずのシエルは傷一つない肉体を取り戻すと、未だ四肢から出血するクロに容赦なく襲いかかって来る。

「どんなに受け入れ難くとも」

 ああ、これでは『答え』も見えぬはずだと……腑に落ちる納得と同時、肌を這い上がってくる絶望の奇妙な共存の中へと、クロの心は浸される。
 なにせ逃げ場のない、いつか諸共押し潰される閉鎖空間にあって。殺すことのできぬ追手がただ只管、己を殺しに来るのだから。
 こんな、何の縁もないような場所で。ただ偶然、見つけたカードを拾っただけで――

「――運命(てん)より幸福を受け取った者は、等しく不幸も受け取らなければならないのですよ」

 生存を否定する理不尽に立ち尽くすクロに。尼僧の形を為した彼女の死は、そんなことを言い聞かせた。

 ――あたたかい家族に恵まれた。笑い合える友達ができた。
 短い間だけとはいえ、何の変哲もない普通の暮らしを送ることができた。

 影に葬られていたこの魂が、誰でもない一人の女の子として、そんな幸せに囲まれて生きられた。
 仮令、何を代償に請われるとしても。何物にも代え難い、そんな光を与えてくれたというのなら……確かにきっと、感謝するべきなのだろう。



 だけど。

                  ――――まだ、負けられない戦いの最中にあって。

 それでも。

                  ――――いつか、叶えてみたい夢があって。

 我儘でも。

         「だから、クロ。わたしの隣にいて。
            もう離ればなれになるのは……ヤだよ」

                  ――――今、悲しませたくない人がいる。




 ――――――こんなの、納得できるわけがない。



「っ、あ、あぁあああああああああああ――――ッ!!」

 喉を震わせ絶叫し、既に折れた心を無理やり鼓舞して。クロエ・フォン・アインツベルンは、立ち塞がる結末に挑みかかった。



 ……そして、未来(まえ)を見据えたまま、千年を生きた純潔の角に貫かれる間際。



(わたしがいなくても、しっかりしなさいよ。ウジウジイリヤ)



 少女は最早、再会叶わぬ家族のせめてもの無事を祈ると同時――ただ、ここで潰える己の運命を恨み、果てた。












 最期の瞬間、己を運命を。それを定めた大いなる何かへの行き場のない恨みを抱えたまま、憐れな少女は爆ぜ飛んだ。
 その身を編んでいた魔力が解かれた後に、ただ一枚の紙切れだけを名残として。

「……ふう」

 シエルは吐息一つ零し、凶器を片付けた後。そのカードが、夜風にさらわれてしまう前に拾い上げる。

「誉めてあげましょう。貴方は、中々に強敵でした」

 カードに描画された弓兵へと、語りかけるように囁いた後。それを懐に閉まったシエルは、人工の光が煌めくスノーフィールドを睥睨する。
 かつて聖杯に至るために、聖杯戦争を解析しようとした人間達が作り上げた実験場の模造品を。
 今は他ならぬ聖杯が、数多の並行世界で幾度と無く繰り広げられた聖杯戦争の要素を掻き集めた闘争で以って、人間の魂を解析すべく創造した箱庭を。
 原典(モデル)と同様に、観測を目的に幾つもの思惑が混ざり合って形成された、この狭間の街を。

「――さて。障害は取り除かれました」

 微かな感傷に浸っていたような顔つきが、切り替わる。
 屈託ない少女のようなそれではなく、私情を挟まず、月(てん)よりのオーダーを代行する装置の表情に。

「どうぞ始めてください。貴方がたの聖杯戦争を」

 そしてこの夜、この犠牲を皮切りとして。
 月が見下ろす偽りの街で、人間と英霊達の饗宴が幕を開けることとなった。



投下順 第一階位(カテゴリーエース):イリヤスフィール・フォン・アインツベルン&アーチャー
時系列順
クロエ・フォン・アインツベルン GAME OVER
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン 第一階位(カテゴリーエース):イリヤスフィール・フォン・アインツベルン&アーチャー
シエル OP2:オープニング

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最終更新:2017年02月17日 23:31