オープニング◆aptFsfXzZw
……夢は時に、当人の忘れた古い記憶さえも映し出すという。
ならばこの真っ白い情景は、そんな希釈された思い出の一場面なのだろうと、茫洋とした頭で認識する。
これが現実の眺めではない、ということを理解できている明晰夢でありながら、自意識はどこか頼りない。
それは視点が、随分と高いせいだからと思われた。現実の倍以上の高度。まるで宙に浮いているかのような感覚が、冷静な思考を妨げていたのだろう。
そんな高い視点の主は、冬の永住する大地を蹴って駆けていた。
躍動する筋肉。その熱量を内から直に感じ取り、ようやくそれが、己の体ではないことに気がついた。
――視点の主は、疾走する巨人だった。
鋼の如き筋肉で包まれた、巌の如き巨躯。それが一切の鈍重さを感じさせない勢いで、冬の森の積雪を散らしながら駆け抜けて、跳ぶ。
身を躍らせたその先にあるのは、黒々とした点の集まり――飢えた獣の群れだった。
巨人はその中心に、一切過たず飛び込み――そうしてそれから、少しも動きはしなかった。
落下の衝撃程度で、この巨人が朽ちるはずはない。
だからこの停止は、彼の意図した物に他ならない。
巨人からすれば、惰弱な小動物に過ぎない餓狼の群れ。その飢えた牙の中心で、微動だにせず在り続けるという選択の末の。
当然、彼は獣達から格好の餌食となった。
動脈に、腱に、眼球に。我先にと、一斉に、獣達が牙を突き立てる。
鋼の肉体、神秘の守りを有していても、一切の抵抗を捨て暴力を受け入れれば、いつかは傷を負い、流血する。
それでも巨人は、山脈のように不動だった。
そんな姿にも何ら躊躇しない、野生の暴力に半分以上を塞がれた網膜に、切れ端が映る白い影が在った。
鮮血に濡れた細い肢体が、その正体が人間の少女であることを示している。
ともすれば雪の中に溶けてしまいそうなその白い少女を、獣どもから守護するために。巨人はその場に在り続けていたのだ。
どうして、という疑問が零れる。
それは眼下の少女が言ったのか、それとも巨人の視点を覗き見る己が口にしたものか。
どちらにしても、巨人は答えなかった。答えるだけの能力(理性)を、彼は許されていなかったから。
どれだけの時間、巨人はそうしていたのだろう。
だがやがて、先刻の疑問、その解を示される瞬間が訪れた。
――巨人に庇われていた少女が、叫んだ。
何と叫んでいるのか。理性のない巨人には、少女の言葉が認識できなかった。
ただ、少女が自分の為ではなく――巨人の為に叫んでいることだけは、理解できていた。
そうして、巨人の腕(かいな)が振るわれる。
一瞬の出来事だった。無抵抗な肉塊へ暴虐の限りを尽くしていた獣達は、その一瞬で鏖殺という報いを受け終えていたのだから。
結局、巨人の血が流れることはなかった。
――代わりに、少女の腕が爆ぜていたから。
……だから無敵の巨人は、自分の意志では動かなかったのだ。
彼が存在し、行動する代償に、白い少女が蝕まれていたのだから。
それでも少女は、これ以上巨人が傷つかないようにと、自らが痛みを引き受けた。
そうして返り血と、吹き出た血とで、真っ赤に染まった黒と白。
命なき冬の森の中心で向かい合う、巨人と少女。
また彫刻のように停止した巨人に、苦痛を訴える体をそれでも動かして寄り添った少女は、そのまま大きな拳へと己の掌を載せた。
「――やっとわかった」
語りかける少女の顔。
巨人が見守るその容貌は、何かの影に遮られているかのように、曖昧で、不確かで。
だけど。
その輪郭、初雪のように白い銀の髪は、まるで。まるで――――
「あなたは命令だから、サーヴァントだから、わたしを守っていたんじゃなくて――」
「――――夜分遅くに失礼します」
少女の告白を遮ったのは、前触れのない闖入者の声。
その瞬間に巨人の夢は暗転し、強制終了し――
気づいた時には、まったく異なる景色が網膜に映し出されていた。
◆
「お待たせしました、皆さん。約束の時が来ました」
暗闇の中。
唯一照らし出された領域に、一人の年若い尼僧が居た。
「既に御存知の通り、今回の聖杯戦争は地上のそれに可能な限り近づける、というテーマがあるのですが……なにせ開催までの経緯がまるで異なりますからね。
なので今回は趣旨とは反しますが特別に、夢を介すことで皆さんへ同時に、本選開幕の合図をお伝えする形を取らせて貰っています」
まだ状況を満足に把握できていない聞き手に向けて、一人だけ状況を完全に理解している尼僧は、すらすらと言葉を並べ教示する。
「もちろん、皆さんの全員が就寝されていたわけではない……あるいは、夢を見られる体質の方ばかりというわけではありませんので。白昼夢として御覧になっている方もいらっしゃるかと思いますが、実際の時間経過はほぼないので、どうかご安心ください」
一先ず、前後不覚の心配は無用であると。
これから授業を行う教師のように、本題に入るまで前置きしてから、尼僧は自らの胸に手を当てた。
「ということで、改めまして。私は今回の聖杯戦争の監督役を務めるNPCの、シエルと申します。
この声がお届きのマスターとサーヴァントの皆様――おめでとうございます。あなたがたは、真に聖杯を臨む十五の席、その一つに座する資格を得ました」
快活な声で、にこやかに名乗りを終えた監督役――シエルはそのまま、祝辞を述べた。
「この瞬間、振り分けを終えて『小聖杯』は鋳造されました。皆さんにはこれより十三の『小聖杯』を収集し、『大聖杯』たる『熾天の檻』へのアクセス権を争奪して頂きます」
『小聖杯』。
記憶を取り戻しただけでは、聖杯からはその詳細を開示されなかったキーワード。
奪い合うべき数さえも定かではなかったそれが、遂に明かされる時が来た。
「――ああ、『小聖杯』についての説明がまだでしたね」
真剣に身構える聴衆に対し、シエルはふと、それを思い出したように呟いた。
しかし監督役はそのまま言い淀むことなく、つらつらと説明を開始する。
「では、前提からお話いたしましょう。
本来の『小聖杯』とは、とある地上の聖杯戦争において用いられた、願望機である『大聖杯』に繋がる孔にして炉心、言うなれば『大聖杯』起動の鍵のことです。
地上の聖杯戦争は敗退した英霊の魂を『小聖杯』へ一時的に蓄え留め、それを魔力に変換し、必要量が満ちれば根源に至る孔を開く儀式を『大聖杯』が執り行う仕組みとなっていました。
その聖杯戦争においてはサーヴァントを贄に降霊した聖杯こそが、願望機としての完成品。その真なる聖杯を降霊させるための物理的な器が『小聖杯』であり、他の参加者を排除して掴む優勝賞品(トロフィーカップ)でした。
ここまではよろしいですね?」
シエルの問いかけ。しかしその視線の先に、本当に聴衆が存在するわけでもなく、形式的な確認の再現に過ぎない。
それでも、ある程度話の意味を咀嚼する時間を与える程度の意図はあったのだろう。
独りでに頷き、一定の間を置いてから、彼女は説明を再開した。
「それでは、このSE.RA.PHにおいて、新たに再現された聖杯戦争における『小聖杯』について説明します。
まず――本来、ムーンセル・オートマトンは既に万能の願望機として完成しています。その機能を発揮するために、英霊の魂を炉心に焼べる必要などありません。故に従来は、単に正面戦闘のみのバトルロワイアルで以って、その獲得権を魔術師達に競わせて来ました。
しかし、先日行われた更新を契機とし、『小聖杯』争奪戦の様相も聖杯戦争における重要な駆け引きの一つ、再現すべき要素であるとムーンセルは判断を改めるに至りました。
そうして再現されることとなった『小聖杯』ですが、その元々の存在意義は敗北したサーヴァントの魂を現世に留めておくための器であること。
つまりSE.RA.PHにおいては、サーヴァントの霊基に込められた英霊の魂、その情報を保存するための物理的なデバイスでさえあればよかったわけです。
それさえ満たせば他の要素は問題ない――逆を言えば、他の機能があっても構わない、ということ。
……ここから少し、話を脇道に逸らしますね」
思わせぶりな箇所で話を終えたシエルは、急にそのように切り出した。
あるいは疑問に思った聞き手も居たかもしれないが、実のところ確かめる術もなく。監督役は構うことなく、その脇道に逸れた話を開始する。
「――奇跡を望む者が一様ではないように。招かれた皆様の世界が数多存在するように。聖杯戦争もひとつきりではありませんでした。
編纂事象、その大本の幹だけではなく。やがて異世界として独立する剪定事象の地上の多くでも、いくつもの聖杯戦争が行われました。
ムーンセルが観測したその内の一つに、英霊の情報を保存する媒介として、他の『小聖杯』やその亜種と比べても特異な、しかし一度鋳造すれば安定して機能する魔術礼装が存在しました。
――それが、こちらです」
言葉とともに。シエルは右手を翳した。
正確には、その指の間に挟み込んだ――――一枚のカードを。
「――サーヴァントカード。
ムーンセルと同じ『既に完成している聖杯』を巡る贋作の聖杯戦争で用いられていた、小聖杯の亜種。
ムーンセルはこれを模したものが、SE.RA.PHで争奪される『小聖杯』に最も適していると判断しました」
彼女の手にあったのは、その掌よりも一回り大きなカード。
そこには大きな弓に矢を番(つが)え、今にもそれを放たんとしている女性の弓兵の姿が、精緻な線描と写実的な色彩で描かれている。
「この礼装(カード)には、贋作の聖杯戦争が他の聖杯戦争と比べて特異な理由となる機能が秘められています。
一つは、他のサーヴァントの魂を臨界まで一手に引き受ける他の『小聖杯』に対し、カードは原則一枚に一騎分の情報しか保存しないこと。
そしてもう一つ」
シエルが言葉を継いだその時。
前触れなく――彼女を中心に、魔法陣が展開された。
「何よりの特徴は、その対応するサーヴァントと術者自身とを、このカードを媒介に置換する――『夢幻召喚(インストール)』が行えるという点です」
『夢幻召喚』。
その言葉をシエルが口にした途端、魔法陣から生まれた何条もの光が、彼女の体に降り注いだ。
そして言い終えた頃には、見る者の目を焼いた輝きは消え失せ。再び顕となったシエルの姿は、寸前までと変わっていた。
まるでその光と魔力の嵐が、生まれ変わるための繭であったかのように――羽のように広がる、鮮烈な紅の外套を靡かせて。
弓を片手に、胸部と腰部を漆黒のプロテクターで覆ったその姿。
その佇まいの変化が、単なる着替えでは済まないことを、その夢を見た者達は理解できた。
何故ならばマスターはその特権で。サーヴァントは備わった本能で、その事実を認識できたのだから。
――――今の彼女は、サーヴァントである、と。
先程までは人間に属する存在であったはずのNPCが、サーヴァントへと変化した。
その事実に大なり小なり衝撃を受ける聴衆の反応を踏まえたように、『弓兵』と化したシエルは言う。
「『夢幻召喚』はこのように、元となった英霊と一時的に同化し、劣化したものとはいえ該当するクラスの宝具とスキル、身体能力を会得することができます。
この性質から、贋作の聖杯戦争では魔術師自身が英霊化し、他の参加者を合わせ七枚のカードを集めることで聖杯の使用権を争奪していました。
……しかし、ムーンセルからしてもここまで行けば本来の目的と逸脱しています。サーヴァントという稀人との交流、一対の主従としての在り方も、ムーンセルが人間の魂を観測する上で重視する要素なのですから」
弓を消し、黒白一対、陰陽の夫婦剣を出現させるなど、英霊化の実態を示すように振る舞っていたシエルが、そこで元の姿に戻った。
手には再び、弓兵の描かれたサーヴァントカード。それを見つめることで、衆目を誘導しながら彼女は続ける。
「そこで、本聖杯戦争では、カードを核に英霊自体を実体化させることもできる、という偶発的に発現した機能を拡張し作り直した代物が『小聖杯』となっています。
さて、ようやく本題に戻りましたが――――もう、お気づきですよね?」
視線を上げた監督役の顔には、試すようなからかいの笑み。
「これから皆さんに争奪していただく『小聖杯』の正体は、かつて『白紙のトランプ』であったもの――マスターの皆さんが召喚されたサーヴァントの、霊核となります」
そうして彼女は、言い放った。
遂に明らかとなった、この聖杯戦争の実態を。
「願望機の別名(グレイル)ではなく、本来の聖遺物としての聖杯(カリス)の原典は、最後の晩餐で用いられた救世主の杯に由来します。
晩餐に集ったのは、神の子と十二使徒の十三人。そして各スート十三枚存在するトランプの、ハートは本来カップ――聖杯(カリス)を模したマークとなります。
ムーンセルはこれらの符号を踏まえ、『聖杯符(カリスカード)』と呼ぶべき魔術礼装として『小聖杯』を作成しました。
後は、時限式に姿を変えるという魔術の最メジャー――形としては真逆であり不可逆とも言えますが、灰かぶり姫の逸話に倣った日付の変更を約束の時として『白紙のトランプ』に設定し、分配したということです」
魔術儀式としての聖杯戦争。
その一面を模したムーンセルの意図が、シエルの口を介して明かされて行く。
「これら魔術式としての側面で、『小聖杯』鋳造の際に存在するサーヴァントには、何らかの縁がある数字がトランプのカテゴリーとして割り振られます。
逆を言えば、契約により現界したサーヴァントがその数と一致しない状態で日を跨いでも、『白紙のトランプ』を『聖杯符』に置換できなかった――だからそれ以外のタイミングで上限である十五騎が召喚されても、日付変更までに数が欠けてしまえば、補充された翌日までは本選を開始できなかったというわけですね」
……だから、もしも。『聖杯符』になれないままその枠を埋める異物が混入すれば、魔術式には不備が生じてしまう。
無論、管理の怪物たるムーンセルが、そのような排除対象を自ら生み出してしまうことはありえない。
だが、もしも。魔術式を構築した時点で設けられた、サーヴァントの現界数の上限と、必要な『白紙のトランプ』の枚数。それを乖離させる物がSE.RA.PH内で発生したのではなく、そのまま外から紛れ込んだのだとすれば――?
ここまでの説明を受けた時点で、そこまで考えの及んだ者はおそらく、まだ誰もいなかったことだろう。
シエルの手にしたサーヴァントカードの出処に関心を向ける者など、ただ一人の例外を除いて存在しない。
何故なら彼らの関心は、その次にこそ向けられていたからだ。
「斯くして揃った『聖杯符』は、第一階位(カテゴリーエース)から第十三階位(カテゴリーキング)までの十三種と、二枚の番外位(ジョーカー)の計十四種。
獲得する方法はただ一つ。その『聖杯符』を核としたサーヴァントを消滅させ、遺される『小聖杯』を掴むのみ。
そして自身のサーヴァント以外の、十三種の『聖杯符』を手中に収めた一組の主従となること――それがこの聖杯戦争本選における勝利条件となります」
儀式としての戦争――隠されていた、その唯一の勝利条件に。
何より伝えねばならなかった最優先事項を伝え終えたシエルは、NPCと名乗りながらもその瞬間、わずかに緊張していた顔つきを緩め、一息を吐いた様子だった。
しかしそれは山場を超えた、という意味に過ぎず。この場における彼女の役目はまだ、完了したわけではなかったらしい。
「さて、ここからは補足説明ですね――ああ、サーヴァントの階位(カテゴリー)は単に枠組みの中から、特にその英霊と馴染みのある数字が選ばれただけのことで、聖杯戦争における優劣を示すものではありません。時には他のスートの方が近い縁でも結ばれることもあるでしょう。もちろん、絵札に描かれた英霊しか該当しないというわけでもなく、単なる呼称分け程度のことなので、その点は誤解されませんように。
それぞれのサーヴァントに宛てがわれた階位(カテゴリー)は、初めて見るサーヴァントであってもマスターならばステータス欄から視認できます。特に意味はありませんが、後ほどご確認ください」
さらに事務的に、しかしきびきびと、シエルは説明を続けて行く。
「次です。地上では、サーヴァントを喪い脱落したマスターは多くの場合監督役に保護されますが、この聖杯戦争において我々はお力になれません。そもそも従来のSE.RA.PHにおいてはサーヴァントや令呪を喪ったマスターは、問答無用で消去される対象でしたから。
しかし今回からは、地上の聖杯戦争の多くで復活劇が見られたことから、本選出場者には命ある限り聖杯戦争を続投して貰うこととなりました。『聖杯符』にもサーヴァントカードと同様の『夢幻召喚』の機能がありますので、他の主従に反撃し、他のマスターからサーヴァントを奪う機会は歴代の聖杯戦争より遥かに現実的ですから、どうか頑張ってみてください」
聞く側からは形ばかりとしか思えない激励を送りながら、シエルはさらに言葉を重ねる。
「『夢幻召喚』についてですが、SE.RA.PHにおいては令呪を宿した者が『聖杯符』を手に念じることが発動する唯一の条件となっています。令呪を喪ってもサーヴァントとの契約は維持されますが、『夢幻召喚』が不可能となることを覚えておいてください。
なお、マスターのIDと紐付けされているサーヴァントはあくまで契約により実体化している英霊に限られます。実体化せず、マスター当人を『夢幻召喚』で置換したサーヴァントは該当しませんので、両者の併用が可能です。
また一度置換を解除しても、『聖杯符』内の情報は召喚前と不変です。『夢幻召喚』先の切り替えを含め、何度でも再召喚は可能ですが、『夢幻召喚』も英霊召喚の一種なので相応の魔力消費が必要となります。計画的な運用を心がけるようにしてください。
ちなみに、『夢幻召喚』の対象は、あくまで英霊の力を再現する情報になります。原則として彼らの自我がマスターを侵食するということはありませんが、スキルや宝具、生前の逸話やマスターとの相性等次第では例外もあり得ることをご留意ください」
参加者の無視できない重大な要素として、『夢幻召喚』に関する情報が連ねられていく中。シエルは再び、おもむろに手元の弓兵のカードを翳した。
「勝利条件に関わらない点を除けば、これらの性質はサーヴァントカードの場合も同様ですが、神秘の秘匿を担当する運営用NPCへ危害を加えた場合も処罰対象としますので、目先の戦力欲しさに私からこのカードを強奪するという選択は避けた方が良いと忠告しておきます。同じ理由から、我々の拠点である市の中央教会に対する攻撃も控えてください。
また、『小聖杯』として鋳造され直す前に殻となるサーヴァントを喪った『白紙のトランプ』はそのまま消滅しています。昨日までに討ち取った相手のカードを求めて右往左往するのは時間の無駄ですので、ご注意を」
『小聖杯』の情報が開示される前、その時点で脱落してしまった者達についても、シエルは言及を開始する。
「本選開始前にサーヴァントを召喚しながら脱落してしまったマスターについては、この通達時点を以ってサーヴァントとの契約がないマスターは再びNPCに戻り、記憶や装備品、その神秘の力も改めて没収されています。皆さんと成り代わろうとする者は存在しませんので、ご安心ください。
その時点で彼らに宿っていた令呪については、監督役である私に預託されています。これらは例えば神秘の秘匿のため、我々の要請を受け貢献された方には報酬として一部譲渡することもあるでしょう」
計画性もなく動き返り討ちに遭ったか、それにすら対処できないほど迂闊か弱小であったのか――どちらにしても、本選開始前に足切りされて然るべき主従の内、意外にもマスター達は穏やかな末路を迎えているということと、再利用できる点については抜かりなく預かっている――だからこそ彼女も、『夢幻召喚』という戦力を確保できているという旨が、監督役から告げられた。
「――以上で、本選開始に伴って説明すべき事項のおおよそはお伝えしました。他に詳しく質問したいことがある方は、後ほど中央教会の方までいらしてください。公平性を損なわない範囲でしたら、質問にお答えいたします」
細々とした補足の後、シエルは次のように開幕の合図を終えた。
「それでは皆さん。これより聖杯戦争を始めましょう」
斯くして月の代行者により、十五の席を獲得した主従への洗礼は終了し、火蓋は切って落とされた。
日付の変更と共に――――聖杯戦争が、動き出す。
◆
【第二階位(カテゴリーツー)】 アサシン
「あなたは第二階位(カテゴリーツー)のようですね」
「二代目火影だからか。本当にそのままのようだな」
「それで、『小聖杯』の正体は貴様のほぼ推察通りだったわけか」
「はい。似たようなものを集めていた経験があるからですけどね」
西暦の黎明より、およそ二千年の後。神代を終わらせた聖人の再来の如く、人魔平等の契機となる聖魔王と呼ばれた存在の伝説が、マヒロの世界には存在していた。
その聖魔王の遺した世界を律する証、聖魔杯。管理者の一族として、その起動に必要となる紋章符を求め方々を旅したのも、もう二年近く前の思い出だ。
万能の聖遺物と起動プレートという組み合わせや、元の宗教はともかく聖魔杯の原典たる聖杯の知識とは馴染みが深かったことと、教養としてトランプの源流を知っていたことから、マヒロは自然と『小聖杯』の正体、その核心の近くにまで迫ることができていた。
「儂らの霊核となった『白紙のトランプ』が小聖杯たる『聖杯符』と化し、それはサーヴァントが死なぬ限り取り出せない――だが、ならば何故十三ではなく、かといって十四でもなく、十五なのだ?」
「さあ……即興の連想で良いなら、本物の聖杯の数については諸説ありますが、魔術を成立させる上ではトランプと噛み合わせられる十三が一セットとして都合が良かったから術式に採用した。しかし物質化して回収された十三の『小聖杯』とマスターだけではなく、サーヴァントも残したいから列席者の十三人以外でその場にあり得た存在――本来三柱の神性というわけではないのですが、三位一体で同一視されている残りの二要素を、救世主の同位として扱えるとジョーカーに設定したら、追加は一枠ではなく二枠でしか術式を組めなかった……とか、そんな程度は思いつきますけど。僕も魔術の専門家ではないので、特に根拠はない素人の当てずっぽうです」
トランプ、タロット、プレイングカード……そういった概念のない時代・社会で生涯を送ったアサシンは、その手の娯楽の雑学を座から貰えていなかったらしく、この手の考察は専らマヒロが担当することとなっていた。
特に勝利条件に関わる――しかも、最後に残る主従は理論上、片割れが限られるにせよ二組まで許されるという、重大な項目であり、切り崩していくには重要な材料だ。
あるいは他の要素や、計り知れない目的があるのかもしれない。その可能性を踏まえた上で、少なくとも今の自分達にとっては急いで考察すべき要素ではない、とマヒロは踏んでいた。
それを察したように、アサシンは頷き、切り出して来る。
「少なくとも、有力な情報のない現時点で重要視する必要性は薄い、か……しかし、おまえも一切予想できていなかった『夢幻召喚』についてはそうも行くまい」
「そっちの方は何の知識も持ち合わせてなかったので。モデルとなった小聖杯が具体的にどういうものかも知らなかったわけですし、予想なんて無理ですよ――覚悟していた最悪は免れましたが、これはこれで面倒ですね」
監督役はその機能を指してサーヴァントを喪っても諦めるなと言っていたが、その態度はつまり、敗退したマスターにも容赦するなということの裏返しだ。令呪と命があれば、いつ『聖杯符』を手に反逆して来るものかわかったものではない――そして令呪は、一度尽きても監督役から再分配される可能性があるとなれば、残された選択肢は限られる。
殺し合いに乗ってまで叶えたい願いがある者達にとって、サーヴァントだけを倒してしまえば良い、という逃げ道は限りなく狭くなったと言えるだろう。
また、戦闘行為の消耗に見合うだけの、戦力拡充のメリットが用意されているというのも、マヒロ達からすれば手痛い要素だ。
だが、それでも小聖杯の獲得にマスターの死そのものが必要条件でないことは、マヒロからすればまだ救いであった。
「それで、どうするつもりだ。やはり聖杯は戦争を望んでいるようだが」
「どうするも何も、やることは変わりませんよ。それしかできませんから」
「おまえのせいでな」
「これが一番勝ち目があると、あなたも納得はしてくれたでしょう?」
アサシンと言葉を交わしながらも、マヒロは今後の戦略を組み直し続け、そして検証を終えた。
「向こうが情報を開示してくれるまでは、元々待つ予定でした。なのでこのまま予定通り、まずは教会に仕込みと裏取りに行きましょう。今日のお昼前ぐらいが良いですかね」
◆
【第三階位(カテゴリースリー)】 ライダー
スノーフィールド市中央区の、とある路地裏。
夜の喧騒や、人の灯りから離れた暗い通りを、一人の男がほろ酔い気分で歩いていた。
とある工場に勤めている彼だが、本社技術室への辞令を受けた今夜ばかりは飲んで浮かれずには居られなかったのだ。
同僚が次々と去り、やがて日が変わり、さらに数時間が過ぎるまで飲み明かした男は結局、早く帰れと促されて仕方なく一人、帰路についていた。
……別れ際。噂好きの店主は曰く、極東は日本において数十年前、社会現象となった都市伝説の殺人鬼が、この街に現れたから気をつけろなどと告げてきた。
男は何を馬鹿なと笑い飛ばし、今も真剣な語り口を思い返して滑稽さを覚えていた。
――自らの足の先、アスファルトに落ちる影を見つけるまでは。
男はアルコールで揺れる視線で、その紅の外套に包まれた上からでも細いとわかる身体つきをなぞり――最後に行き着いた、白いマスクに目を奪われる。
その特徴はまさに、つい先程耳にした与太話と、完全に一致していたのだから。
……男は知る由もないが、時を同じく、場所を異にして。スノーフィールド市内三箇所で、次のような言葉で始まる問答が開始されようとしていた。
「「「―――――私、綺麗?」」」
男は先程聞いた噂――都市伝説の殺人鬼と、自らが遭遇したことを悟った。
◆
「……ああそうだ。そこに人が口を裂かれて倒れているぞ! 犯人は口裂け女だ!」
スノーフィールドで、すっかりその数を減らしてしまった公衆電話。
その内の一台に篭り、受話器に向かって叫び終えた男は、通話先のオペレーターが尋ね返すのを無視して、乱暴に電話を切っていた。
果たして通報を受けた彼らは、どのように動くのか。悪戯と無視するのか、迅速に救助へ駆けつけるのか――どちらにしても、遅いか早いかの問題だ。事実として口を裂かれた被害者が実在する以上、噂は真実としてさらなる広がりを見せる。
その過程で脚色され、よりおぞましい伝説として像を結ぶため。
「――あるいは、ワラキアの夜の再演に至るため」
「『聖杯符』か。なるほど英霊の魂を留めるとなれば相応の器が必要。逆に魂そのものが宿った聖遺物を介せば座に通じることも不可能ではなくなる。幾つもの聖杯戦争の仕組みを再編したというだけあって、面白い趣となったものだ」
魔術として見ても、そして怪談として見ても。
「力を増せ、ライダー(口裂け女)。君と私は似通っている。君が私を取り込むか、私が君を受け継ぐか! 古より、噂とは混じり合い新生する運命にあるものよ!
もっとも、今の君では役者不足だ。かつて私のように、教会で怠惰を貪っている蛇の残滓が、無視できなくなるほどの混乱を! 恐怖を! 人々の口の端へ乗せてやれ! 狂乱の星(スター)へと自らを磨くのだ、我が姫(ヒロイン)よ!!」
昂ぶりのまま哄笑し始めた夜の貴族はそこでふと、冷水を駆けられたように静かになった。
「……一人、欠員が出たか」
三箇所に散らばったライダーの内、一騎との因果線が消失していることにズェピアは気づいた。
並列思考を活用し、ライダーから吸い上げた末期の視界には敵影は非ず。ただ、その心臓と眉間、二箇所の霊核を的確に貫いた、矢の尾羽だけが見て取れた。
おそらくは索敵に優れたアーチャークラスに補足され、遠距離から狙撃で仕留められてしまったのだろう。
「……早々に演劇の邪魔をするとは、忌々しい弓兵め」
苛立たしげに吐き捨てた吸血鬼だが、直ぐにその口元の歪みが円弧へと変化する。
「しかし、その矢文も台本を書き換えるには及ばぬよ。何せ、既に代役の候補は手配しておいたのだから」
獲物も宝具の問答が正しく成立する前に逃してしまったが、NPCの一人や二人、惜しむほどではない。むしろ生き残ったのなら目撃者として泳がせて噂を広め、来るべき時を加速させるのに一役買わせるべきだろう。
そしてアーチャーの矢も、既に『二発』喰らった。
次は三度目。ライダー一騎の損失と引き替えと見れば、十分なアドバンテージを稼いだといえるだろう。
そこまで状況を整理したところで、暫しの間緩やかになっていた魔力消費が、また元の勢いに戻ったのを感じ取って――時刻を確認した夜の貴族は哄笑をあげた。
「……では、繰り上げて当選発表と行こう! 次は君が舞台に上がる番だ、ライダー(口裂け女)!!」
「「「―――私、綺麗?」」」
時を同じく、場所を異にして。問いかける声は三つ。
街に拡がる怪談に、陰りは未だ訪れず。
◆
【第四階位(カテゴリーフォー)】 アーチャー
「特に怪我もないようですね。呪詛の類の様子もない。これなら大丈夫でしょう」
気絶している男を診察したアーチャーの報告に、
巴マミはほっと胸を撫で下ろした。
己の信じる、魔法少女として在るべき姿――それをスノーフィールドでも遵守しようとして、夜間のパトロールに繰り出すようになっていたが、実際にサーヴァントと交戦したのは本選開始後の今日が初めてだった。
魔法少女の視力をして見通せない、夜闇に潜む彼方の惨劇。その兆候を、アーチャーは千里眼で詳らかとした。
使い魔との視覚共有でマミが認識したのは、ライダーのサーヴァント。連続殺傷事件の真犯人と噂される怪異。口裂け女。
都市伝説に語られる怪物は、英霊の矜持はおろか理性すらなく、人気のない路地裏に迷い込んだ人間を喰らおうとする、魔物に他ならなかった。
それを確認したアーチャーの行動は的確で、迅速だった。
まずはライダー(口裂け女)ではなく、怪物に遭遇した青年に一射。
鏃はなく、代わりに弾き飛ばせるための術式を先端に仕込んだ矢での狙撃。音を置き去りにした強打は、振り下ろされていた刃から男を遠ざけ、その意識を昏倒させた。
ライダーは一瞬見失った獲物を引き続き追うか、矢の出処を探すか戸惑うように、視線を巡らせる。
その隙を衝いた、二射と三射はほぼ同時。ライダーの脳天と胸板、霊核に直結する二つの急所へ正確に到達し、貫いた。
それで、終わり。
語られて来た重みが違う、と言わんばかりに。
神代の弓兵はかくも鮮やかに、現代の怪物を討ち取った。
ライダーが輝く粒子となって霧散した後も、油断なく千里眼で状況を俯瞰したまま。マミに合わせて街の影を移動したアーチャーは、己が救った命の元に駆けつけ、事態の収束を確認していたのだ。
アーチャー――大賢者
ケイローンがオリンポスの神々より学んだ数多の智慧。中でも、奥義を授かった四大分野の一角である医術の腕前は、医神アスクレピオスの師となったほどの代物だ。
その眼によれば、意識を失った被害者が元は酩酊状態にあったことまで解き明かされた。ならば先程の遭遇も、後で勝手に夢と思い過ごすだろう。
「……それにしても、本当に口裂け女がアメリカでサーヴァントになってるなんてね」
「場所はあまり関係ないのかもしれませんが、それより奇妙ですね。確かに手応えはあったのですが、肝心の『聖杯符』が見当たりません」
安堵のまま、余計な話を始めてしまいそうなマミだったが、緊張した様子を崩さないアーチャーの言葉に気を引き締め直す。
……この路地裏に辿り着くまでに、誰かが横取りする様子もなかった。
ならば導かれる結論は一つ――アーチャーの弓術によって、見事に葬られたと見えたライダーが、まだ生存しているということだ。
慌てて周囲を警戒しようとするマミに、しかしアーチャーは穏やかに首を振った。
「大丈夫ですよ、マスター。少なくとも周囲にサーヴァントの気配はありません――仕留め損ねたことも、間違いないかと思われますが」
「そう……なのね」
「あまりお気になさらず。あなたは哨戒という方針を立て、見事に彼の命を救う結果を導きました。サーヴァントの相手はサーヴァントが務めるもの。であれば責を負うべきはあなたではなく、私にあります」
気落ちするマミに対し、アーチャーは滑らかに、気遣いの言葉を口にしていた。
「いえ、そんな……」
「ですからどうか挽回の機会を、マスター。次こそは邪悪を討ちましょう。そのために、まずは敵の正体を推測したい……あなたが耳にしたのは、『三姉妹の口裂け女』という噂話でしたね?」
「え、ええ。同じ時刻に、合わせて三件、同様の事件が何度も発生しているの……その犯人が、口裂け女だって噂になっていて……」
「ふむ……口裂け女は、マスターの故郷で発生した、都市伝説でよろしかったでしょうか?」
被害者を抱えながら、アーチャーは考察を重ねるために、マミから情報を引き出していく。
上手く話題を逸らされた、と薄々理解しながらも。マミに己自身を責めさせまいとする、その手並みもまた鮮やかであり、見習いたいと思えるものだった。
マミは既に、アーチャーに全幅の信頼を寄せていた。心の師と仰ぎ、彼という英雄が積み上げた過去を学び己の後進に伝えられるようになることを、聖杯戦争における一つの目標とするほどに。
だからその気遣いを、今は素直に受け止めて。偉大なる背中に続こうと、マミは歩みを再開した。
……彼に冠された数字に、一抹の不安を覚えながら。
ケイローンを死に至らしめた逸話は、彼の弟子にしてギリシャ最高最大の英雄が挑んだ『十二の功業』の一幕、第四の試練の最中に起きたとされる悲劇なのだから。
◆
【第五階位(カテゴリーファイブ)】 キャスター
空条承太郎が勤務先の水族館に到着した頃には、微かな朝日が東の空に差し込み始めていた。
内陸の都市であるスノーフィールドだが、未来都市を志向するこの街には文化・芸術面にも地方都市相応ながらに力を入れており、その一環として水族館が存在していた。
沿岸部の立地と異なり、館内で飼育する生物の管理に外部の海洋学者が駆けつける協力体制を築くことは容易ではない。故に、予め専属の学者に勤務して貰う、という形で対策が取られていた。
そしてこの水族館の責任者と懇意な知人の依頼で、承太郎は専属の学者として赴任している――というのが、海洋生物学者である承太郎がこの街で生活するために用意された設定だった。
微かに息白む中、既に出勤していた一部の清掃員や他の職員に挨拶を返しながら、承太郎はまだ暗い館内を歩き回る。
目的地は、己に与えられた待機室ではない。そも、どこにあるのかも定かではない。
その背後を、黒い犬――否、三つ首の魔犬(ケルベロス)を模した人形のような何かが追跡していることをNPC達が気づくことはなかったが、肝心の承太郎は既に認識していた。
だから逆に、その犬ッコロの主が姿を見せないことに苛立ちを募らせていた。
(――どこにいる。キャスター)
承太郎が探していたのは、自身のサーヴァントであるキャスター。「火」「水」「風」「土」、そして「空」の五大元素使い(アベレージ・ワン)たる魔術師、
笛木奏の行方だった。
……あの対決から日を経ても、承太郎は結局何も変わっていない。
未だキャスターを自害させるでもなく。かと言って、己の欲望のためだけに弱者を利用し踏みつける邪悪に変転する覚悟も決まらず、ただ葛藤し続けるだけ。
娘を授かる以前。かつての己であれば決してありえない、無為なだけの時間の使い方を誤魔化すように、承太郎はキャスターを探していた。
――見つけ出しても、結局は何をするかも決めていないのに?
「(覚悟は決まったか、マスター)」
自らに疑念を浮かべたそのタイミングで、尋ね人の声が直接脳内に響いて来た。
この水族館の位相の異なる空間に潜み、しかしマスターである承太郎をそこに通すことなく、監視の使い魔だけを付けて放置していたキャスター。
不意打ちのような彼からの問いかけに、承太郎は取り乱すことなく――しかし固唾を呑んで答えを返した。
「……ああ。私はおまえを止める」
「(いつまで下らない意地を張るつもりだ。本気なら何故、貴様は未だ令呪を切っていない)」
呆れたような物言いだが、その声は嘆息には及んでいなかった。余分な感情を挟まず、キャスターは冷淡に念話を続ける。
「(本選が開始されてしまったが、『煌めく亜獣(カーバンクル)』を一体、用意することが間に合った。魔力炉となる最初の一体さえ完成すれば、後は早い。来館者や魚どもから魔力を吸い上げる手間も必要ない)」
「貴様――っ!」
「(安心しろ。誰も、何も死んではいない。他の主従に気づかれないよう、遊び疲れ程度の微小な魔力を貰っていただけだ。おかげで時間もかかったが……これで私は、おまえの意向に関わらず自活できる最低限の能力を得た)」
湧き上がる憤怒を、取り乱すことなく制止された承太郎は、続く文言の意味するところを解して驚愕する。
彼は魔術師のクラスのサーヴァントだ。魔術儀式である聖杯戦争の、仕組みそのものに極小規模でも干渉し得る存在。その彼が、依代であり、令呪を宿した承太郎の意志に関わらず、自活できる能力を得たと言った。
迷い、答えを出さなかったその間に。もしや自分は、この悪魔を止める最後の安全弁さえ腐らせてしまったのだろうか――?
「(おまえがそうして無意味な葛藤を重ねる間にも、私も、聖杯戦争も進んで行く。それを許したのは貴様だ、空条承太郎。戦わず沈黙し続けた貴様は既に、我ら邪悪の共犯者だ)」
無限の自信を与えてくれた青い若さを失って、数多のしがらみと引き換えに、家庭という幸福を得た。
それさえも喪いかけた瞬間に露呈したのは、正義を貫く戦士という過去からの在り方と、何よりも娘を想う父という現在、二つの己の齟齬が招いた怠惰の罪。
弾劾の声に、空条承太郎はこの時、ただ立ち尽くす他にできることはなかった。
――果たして。歩みを止めたクルセイダーに、未だ黄金の精神は宿るのか。
◆
【第六階位(カテゴリーシックス)】 バーサーカー
スノーフィールド某所。
偽装を重ね、遠い異国から潜入してきた破壊活動組織、『曙光の鉄槌』の隠れ家。
その一室で、現党首である砂礫の人喰い竜ズオ・ルーこと、
レメディウス・レヴィ・ラズエルは一人、思索を巡らせていた。
傍らに侍るのは、毒々しい紫色をした異形の竜。存在しないモノ達の欲望を司る六色目のコアメダルの作用と、今しがたレメディウスの行使した令呪により、英雄から怪物へと変転してしまったバーサーカー――仮面ライダーオーズ・プトティラコンボの威容だった。
理性を奪われたサーヴァントと、それを為したマスターと。平時に交わされる言葉など、あるはずもない。故に無機的な青い照明と、耳が痛いほどの静謐だけで満たされていた中。不意に、バーサーカーの頭部が上がった。
「おっと待った、私だよ」
微かに全身の筋肉を緊張させた狂戦士に制止の声を掛けるのは、彼とは別にレメディウスが従える使い魔だった。
「アムプーラか」
「如何にも。ご要望どおり、新戦力の補充と教導は終わらせてきたよ?」
忽然と姿を現したのは、青銀の格子柄で塗り分けられた華美な服飾の男。
毒々しい道化のような装いの、放蕩貴族を思わせる容貌の中。青の軌跡を残して閃く二股の舌が、彼がただの人間ではないという事実を仄めかしていた。
禍つ式(アルコーン)。
虚数空間に生息する、生きた咒式。古来において魔神や悪魔と呼ばれた者ども。
中でもアムプーラは、歌乙女の街エリダナでの活動に当たって、レメディウスが召喚した怪物どもの支配者たる上位種、二体の大禍つ式(アイオーン)の片割れ。
そしてレメディウスと契約咒式で繋がっていたが故に、配下の禍つ式諸共、使い魔としてムーンセルに取り込まれた怪物だ。
「この聖杯戦争という新たな夜会、報酬たるムーンセル・オートマトンがあれば我が眷属も救われる。野蛮ではあるし敵も遥かに強大となったが、君との共闘という契約に変わりはないからね」
在野の攻性咒式士からすれば最悪の敵の一角である大禍つ式といえど、四九八式、子爵級最下層のアムプーラ程度では、先に堕ちたヤナン・ガラン同様、サーヴァントには及ばない。おそらくは『夢幻召喚』を果たした、人間のマスターに対しても同様だろう。
それでもアムプーラがレメディウスに従い聖杯戦争に挑む理由は、今しがた彼の述べた以外にもう一つ、滅亡の危機に立たされている眷属を救うという大義のためだった。
「しかし、君たち人類は本当に不可解だ。これだけの代物を前にして、確実な儀式の遂行のために協力するでもなく、私欲のために同胞同士で命を奪い合うとは」
そのような立場で、聖杯戦争に関わったためか。アムプーラは心底疑問に思ったように、述懐を漏らしていた。
「意思を持ち、それを伝える言葉を持ち、それを受け取る理性と共通基盤のある人間同士が、聖杯を前に何故暴力や戦闘行為などという非効率的な方法でなければ交渉できないのか。あろうことか、人類全体への貢献ではなく一個体の事情で消費しようとしているなど、正気と思えない」
「だからこそ私が願(つか)う。貴様らにとっても、それが唯一の道であろう?」
「確かに。しかし我ら異種族との契約を同胞との合議より本気で尊重しているのだとすれば、一層理解が及ばない。
私としては正直な話、ウルムンの民のためにエリダナやスノーフィールドの人間を殺す君よりも、非効率的でもバーサーカーの考えの方が、まだ論理性を感じられたね」
「……だろうな」
言うなれば生きた数式である使い魔は、人間の弾き出した不等式が理解できないと真摯に訴える。
力なく首肯しながらも、レメディウスは回答する。
「だが、我らの世界は美しく設計された論理に運営されているわけではない。土台となる理論が偶発的に組上げられた、最初から破綻している代物である以上、その上にいくら正しい数式を描こうと意味はないのだ」
「だから聖杯でその土台を修正する。なるほどそれは理解できる。だがそれ以前から君は、犠牲を生まぬために同胞を殺してきた。到底実現できない夢想のために、結局は等量の死の分配先を他へ押し付けただけだ。
その願いが実現する目処はなかったのに、どうして君はそんな選択をしたのだ?」
アムプーラの瞳は直線に問うていた。
強い感情を何故、我欲で浅ましい、そんな非生産的なことに費やせるのかと。
「……貴様らには、永遠にわからないままだろう」
ああ、きっと。ある意味で生まれながらに完全だからこそ、彼らは知らない。
非生産的で、どうしようもなく論理的に誤っていて、刹那的でちっぽけな、けれどレメディウスや
火野映司が手放せなかった、
思い出の一欠片に宿る、魂を狂わす輝きなど。
◆
【第七階位(カテゴリーセブン)】 ガンナー
――認めよう。
殺し合うことは避けられない。それが人間の本質だ。
生存の為の搾取。繁栄の為の決断。
動物を絶命させ、資源を食い荒らし、消費するだけの命。
その積み重ねの果てにある人類の歩みは、まさしく大罪の歴史と断じるべきだ。
だが、そのように野蛮をただ否定して終わらせることは、人間が人間である以上は赦されない。
多くの血が流れた。芥(あくた)の思想が燃え尽きた。
それらは決して癒やされない、深い深い傷跡だ。
ならば、その欠落を埋められる成果がなければ、嘘だろう。
積み上げられた犠牲に、ただ過ちであったと目を背け、報いることなく怠惰を貪るのではそれこそ、小狡い獣への堕落だ。
ただ食べて眠るだけではなく、様々なものを作り上げ、産み落とし、築き上げるためにこそ、人は罪を犯してきたのだから。
だからこそ、非論理的で非生産的な闘争が、我々には必要なのだ。
停滞を破り、埋めずにはいられない爪痕を残す戦争が。
人類が欠落してきたその総てに、確かな意味を与えるために。
◆
「……ありがとう、トワイス」
唐突に己のサーヴァントから感謝の言葉を告げられて、トワイス・H・ピースマンは彼女の方を振り返った。
「うん? どうしたんだい、ガンナー」
「うん……うん。あたしね、ずっと人間の近くに居たから。何となくわかっちゃうの、人間のこと。どんな人柄で、どんな因果を背負っていて、何を考えているのか……って、これは前に言ったわね」
室内でもヘルメットを被ったままのガンナーは、その側部を照れたように指先で叩いた。
「あたしね。昔、人の子から要らないって言われたの。ううん、彼は、マックルイェーガーという友人に生きていて欲しいと願ってくれたわ。それは本当に純粋に、とても嬉しかった。でも最期まで、戦神としては必要とされなかった」
ガンナーの声のトーンが微かに落ちるのを、トワイスは黙って聞いていた。
「それを恨んだりなんかしてないわ。あたしはあたしを生んだ人間というものを、嘆きも憎みも絶対にしない。でも、自分の役割の終わりを告げられて、それを寂しいと感じたのも、やっぱり本当なの。
だから、その務めを果たせる機会に恵まれたことが、それもこんなにも必要としてくれる相手に出逢えたのが、本当に嬉しい」
ああ、なるほどと、トワイスは納得する。
トワイスの裡にはいつも、戦争に対する狂熱が渦巻いている。
自らが挑む最後の聖杯戦争を前にした今ならば、なおさらに。
何より憎み、しかし否定しきれないからこそ真摯に向き合った、戦争に対する想いが在る。
あの地獄に、意味を見出そうとした想念が。
それが、人類が欠落してきた一つである彼女にとって、ささやかな報いとなったのだろう。
「別段、何か特別なことをしたつもりはないが。君の英気を養えたのなら何よりだ」
「そうね。うん、こんなに必要として貰えたのだから。あなたの言うとおり、あたしは一人の兵士として、戦場に出るわ。そしてこの手で敵を撃つ。敵味方関係なく加護を与えて漫然と死に誘うのではなく、他ならぬあたしの意志で命を奪う」
銃の女神は、狙い通りに弾が命中するという加護を兵士に与える一方、その敵兵をも分け隔てなく祝福する。人間が好きだからこそ、生けとし生きる全ての者を、平等に。
結果として、戦場で彼女に取り憑かれた勇者は皆、最期は避けようのない魔弾を受けて死ぬ。まるで必中たる七つの魔弾を授かった、狩人のように。
だから彼女は、戦神であるとする自らを時に、必中の魔弾を授ける代わりに、最期にその射手の命を奪う契約を行う悪魔である、ザミエルに例えるのだろう。
そんなガンナーの自己認識を踏まえてから見れば。加護を与える女神としてではなく、死を齎す魔王として戦争に臨まんとする彼女に冠された数字が七であることは、至極道理に思えて来る。
射手に幸福を導く恩恵ではなく、人命を奪う致死の災厄として鋳造された魔弾とは、七発目であるのだから。
「それは重畳だ。だが……」
「わかっているわ。基本、マスターは狙わない。あなたの願いを担う後継者を見つけるためでもあるし、戦争じゃない殺戮なんて嫌いだもの。それにやっぱりあたし、人の子が好きだから……もちろん『夢幻召喚』でもなんでも、神殺しを挑んでくるっていうなら、相応に饗しはするけどね」
「ああ、そこに至ったならば構わない。では、君は君の戦いを、存分に果たしてくれたまえ」
問答の後、煎れたコーヒーを二人で味わっていた頃になって、セットしていたアラームが鳴り出した。
「……少し早いが、出発しようか」
――泥濘の日常は燃え尽きた。
今日こそが私たちの、目覚めの朝だ。
◆
【第八階位(カテゴリーエイト)】 キャスター
「……どうやら、夜の間に教会を訪れた参加者はいないらしい」
スノーフィールドの中央公園。
同じく中央区に存在する中央教会と程近いそこに、仮住まいの安モーテルからジョギングに訪れた体を装って足を運んだ『
音を奏でる者』改、サンドマンは、この土地に闊歩する精霊の声を聞いたキャスターの報告を受けていた。
「無論、精霊の目を掻い潜れるほどの腕利きがいなかった保証もないが……昨夜の説明で十分だと判断したのか、役割に縛られたか、それとも我々のようなライバルからの監視の目を掻い潜る算段を立てている最中なのか。いずれにせよ、直接的な成果は得られなかったな」
「……しかし、キャスター」
公園の隅にあるベンチにて。サンドマンは隣に腰掛けた憧れの英雄――ジェロニモへと、臆することなく口を開く。
「あなたの口ぶりだと、何らかの『目』を飛ばしてきている勢力が居るように聞こえたが……そこから間接的に辿ることはできないのか?」
「良い着眼点だ、マスター」
後進の慧眼ぶりを喜ぶように、キャスターは誇らしげな笑みを浮かべた。
「そのとおり。我々とは私と君だけを指すのではなく、私達のように様子見をしている陣営全てのことだ。当然だが、そのような手合は他にも存在しているらしい」
肯定の後、中央教会のある方角へと向いて、キャスターは目を細めてみせる。
「確かに一般的な使い魔では、現場に着いた後のこと、そこで見える範囲でしか知覚し得ない。だが私がその声を聴くのは大地の精霊たちだ。彼らは最初からその土地に居た者。後から来た使い魔達が何処から来たのかを辿る手がかりを持っている可能性は充分にある。……無論、事前に契約していたわけではないから、彼らがきちんと覚えていない可能性もあるがね」
シャーマニズムを行使するために、実体化しておく必要があったとはいえ、そのまま二人は聖杯戦争に関する話を展開している。
しかし周囲には、それこそ契約によりジェロニモを守護するコヨーテの精霊が目を光らせている。彼の嗅覚により、周辺に身を潜めたサーヴァントの不在は確認済だ。サンドマンとキャスターも傍目には同族同士で歓談する、世代違いの友人のようにしか見えないだろう。
「……だが、使い魔を扱えるということはそれなりの魔術の使い手ということだ。迂闊に近づけば、逆に先手を打たれる可能性もある。
この先の戦場に待つのは、既に最低限の淘汰を越えた兵達だ。私はそう強力なサーヴァントではない。少なくともこの戦争では、緒戦から八人も屠るといった芸当は不可能だろう。むしろ早々に八つの戦傷を受けて脱落するかもしれないが、どうする?」
自らに与えられたカテゴリー、彼がジェロニモの名を得るに至った闘争で最初に殺した敵兵の頭数と、最終的に敗北した際負っていた戦傷の数――彼の戦歴の始まりと終わりとに共通した数字を持ち出して、些か冗談めかしたように尋ねる。
奪い合うべき小聖杯(トロフィー)が『聖杯符』であり、それが手にする者に無視できない力を与えると判明した以上、敵は容赦なくマスターも手にかけることだろう……自分達がそう考えているように。
「愚問だキャスター。わたしは既に覚悟を終えて、聖杯戦争に乗ったのだから」
だがサンドマンは、臆病風に吹かれることなく、状況の変化を受け入れていた。
「敵から身を守るには敵を知ることが一番だ。まずはどのカードから手に入れるべきかを検討するためにも、な」
敗退したマスターの安全、という面でみればリスクの増した
ルールの開示も、勝てば益でしかないとばかりに、サンドマンは強気に発言する。
何より心を強くできる理由が今、この目の前にあったから。
「何より、たった一人でアメリカと渡り合ったあなたが、迂闊な戦運びを許すはずがない。無意味に恐怖を覚えるほど、わたしは愚かではないつもりだ」
「……本当に、随分と買われたものだ。だがそれでこそだ、サウンド……いや、サンドマン。臆病が必要な時もあるが、蛮勇もまた手放してはならない。そして今必要なのは、後者だ」
「もちろんだとも、キャスター。オレは何よりあなたの流した血から、それを学んでいるつもりだ」
――祖先から続く土地を取り戻したいのも、全ては積み重ねられてきた過去に報いたいという思いからだ。
過去からの遺産、それを正しく相続し、再び子孫に続く人の輪を廻すためにこそ、サンドマンは手段を選ばず戦う。
ならばそのために誰より勇敢に戦った英雄の姿を学ぶのもまた道理。
その敬意が伝わったのか、ジェロニモは穏やかに微笑んだ。
「それでは同胞よ。我らの流す最後の血を見定めに行こうか」
――そうして。聖杯に捧げる血を求め、悪魔達は偽りの大地で動き始めた。
◆
【第九階位(カテゴリーナイン)】 アサシン
「いきなり始まりやがったな」
「そうだね。多分、僕らは出遅れている側なんだと思う」
アサシン――夢で覗いた記憶に拠れば、
アンクという真名の魔人の吐き捨てるような言葉に、
天樹錬は淡々と現状認識を述べた。
記憶を取り戻すまでの間に、既にスノーフィールドには不穏な空気が流れ始めていた。
それを招いた異変の原因が聖杯戦争に関するものだとすれば、既に活動を開始している主従が複数存在するはずなのだ。経過時間はそのまま不利と直結してもおかしくはない。
「――ったく。寝坊が過ぎたんじゃないのか、レン」
「うん……それは、面目ない」
二重の意味で、錬は謝罪した。
アサシンを召喚するに至ったのは、昨日の夕方。
共闘の姿勢を取り付けてすぐ、錬はアサシンと模擬戦を行っていた。
結果としてサーヴァントのスペック、その実測値や、SE.RA.PH内において錬が扱える情報操作の実性能、そしてアサシンの体内の九つの情報核(コアメダル)を並行励起させる第二宝具を含めたサーヴァント運用の負担を確認することはできたが、ここで必要な情報を初めて集積した分加減を誤り、相応の疲労を蓄積してしまった。
その後はハッキングによる情報収集程度でコンディションの回復を優先し、深夜に監督役から開幕の宣言を受けても、その晩は積極的に動くことを控える運びとなった。
仮眠を終えた頃には空は既に青く輝き、与えられた市民としての役割を果たさねばならない刻限が近づいていた。
「ねえ、アサシン」
だからもう、他のことに手を回す余裕はないと理解しながらも――仮住まいの窓越しに、当たり前のようにあるそれを、記憶を取り戻してから初めて目にして。錬は、今後の戦略に何の関係もないことを、つい口に出してしまっていた。
「聖杯があれば……きっと、取り戻せるよね」
「取り戻す? ないから作るんじゃなくか?」
「うん」
失った物を取り戻したい。その何が気に食わなかったのかはわからないが、願いの表現に少しだけ面白くなさそうな顔をしたアサシンに、それでも錬は素直に頷いた。
人造の天使も、その犠牲がなければ生きられない民も。誰も死ななくて良いような、かつてあったあの世界。
三万メートルの高みにまで昇らなくとも、天を仰げば誰もがあのきれいな眺めを得られるような。
「灰色じゃない――フィアがきれいだって言った、青い空を」
スノーフィールドに広がる偽りの、しかし確かに再現された現実である、澄み渡った青空を改めて目の当たりにして。錬は心のままに、その言葉が漏れるのを止められなかった。
「――言っておくが、空(アレ)は、王(俺)の所有物(モノ)だ」
そんな、何気ない心情の吐露を後悔させるほどの圧力が、傍らに立つ青年から溢れ出た。
「それをたかが人間が取り戻す、だと? 図に乗るなよ」
彼が気難しい性格であることは、この半日で充分に理解している。しかし、無意識に近い呟きがここまで地雷を踏んでしまったのか――と、アサシンの放つ気迫に圧された錬だったが、そこでふとその圧が抜けるのに気づいた。
「……が、まぁ。俺の所有物に憧れてるって奴を見下ろすのは、悪い気分じゃない。おまえに空を譲るつもりなんざ毛頭ないが、目を輝かせて見上げる自由ぐらいなら、特別に許してやっても良い」
「……なにそれ」
彼の激怒が、遠回しな肯定の前段階だったことに気づいて、錬は小さく吹き出した。
アサシンは鼻を鳴らしながらも、彼にしては穏やかな様子で続ける。
「言葉のとおりだ。聖杯だろうがなんだろうが、この俺の所有物に手を出す奴はぶっ潰す。逆を言えば、俺にとって価値のある所有物は庇護の対象ってことだ。欲を掻きすぎてこっちを見る目を曇らせてやがったら要らねえが、そうじゃないなら見上げてくるおまえらも、空から見下ろす景色の一部だからな。その価値を損ねる雲は邪魔になる。
仮にも俺を呼び出すほどの代物だ。掃除ぐらいはできるだろ」
つまるところ、彼の矜持から全肯定こそできずとも。
アサシンもまた、あの子にきれいなものを見せてあげたいという錬の願いを、彼なりに応援してくれているのだろう。
「ま、聖杯を心配する前に。おまえはまず俺に、組んで得な人間だったと思わせてみろ。この俺の前で、世界も命も空も欲しい、なんて大口を叩いたんだからなぁ。『つまらないもの』は見せてくれるなよ、レン」
――人間は何かを犠牲にしないと幸せになれないのか、そんなつまらないものなのか。
――僕らは今、その瀬戸際にいるんだ。
「……わかった。約束するよ」
昨日、会話の中で漏らした兄の言葉を踏まえたアサシンの激励に。錬は初めて、彼のためにも負けたくないという想いを覚えていた。
◆
【第十階位(カテゴリーテン)】 ライダー
「行くぞ。ちゃんと捕まってろよ」
「(うん……)」
晴天下。脳内に伝わるのは肉声を伴わない、少女の返答。
その思念の声には覇気がない。捕まっていろ、と言っても、そもそもその動作や接触の知覚が彼女にはできないのだから、自信がないのだろう。腰の後ろから回された手をこっそりと導いても、気付いてはいないのかもしれない。
だが、ライダー――
門矢士はそれを敢えて伝えるまでのことはせず。横座りにタンデムシートへ腰掛けた
コレット・ブルーネルの安全を確保できたと判断してすぐに、愛車を走らせ始めていた。
無数の世界で、初めて見る土地を共に駆け抜け、今は宝具『世界を駆ける悪魔の機馬(マシンディケイダー)』と化した愛機を、ライダーはもどかしいほど緩やかに加速させる。
パッセンジャーから伸びた腕。その締め付けは、少し苦しいまでの物となっていたが、今の彼女に加減を要求するのは酷な話だ。うっかり落下されてしまったりする方がよほど困るから、ライダーはコレットに何も言わずに居た。
「(今日はお仕事、決まると良いね)」
そんな沈黙に耐えかねたわけではないのだろうが、コレットは今、世界で唯一彼女の声が聞こえる相手だろうライダーに念話で語りかけてきた。
「あのな……そんな場合じゃないだろ」
聖杯戦争本選の開幕が告げられたその日の言葉としては、どうにも呑気なコレットの様子にライダーは溜息を吐く。
ライダーは既に、門矢士としての名でスノーフィールド市民としての役割(ロール)を与えられている。最近移住してきたフリーのカメラマンとして、市内の出版社や様々な施設の広報担当に営業を行っている、ことになっている。
サーヴァントとして座に記録されるとすれば、世界の破壊者、仮面ライダーディケイドとしての名前が主だろうが、約束を破って顔も知れない相手に名前が広がり過ぎるのは避けたい事態だ。
今日も二人で街中を巡るのは街の様子を確認するついでに、そういった余計なリスクを軽減するためでもある。仕事を取れるかどうかは重要ではない……別に、負け惜しみなどではなく。
向かってくる相手に易々と遅れを取るつもりはない。だがコレットを伴う以上は軽率な立ち回りをする気もない――という気持ちが遠回しながらに発露したものであったが、ライダーの気分を害したと思ったらしいコレットは如実に意気消沈した様子で謝って来た。
「(あ、うん……ごめんね。でも、ライダーの写真、褒めてくれる人がもっと見つかったら良いな、って……思ってたから……)」
「……おばあちゃんが言っていた。真の才能は少ない。そしてそれに気づくのはもっと少ない、ってな。だから気にするようなことじゃない」
かつてないほど穏やかに走らせ続けている車体の上。コレットが驚いた気配が、背中越しに伝わってきた。
「(ライダー、おばあさまのことを尊敬してるんだね)」
「なんか随分意外そうだな……ま、どうせ俺のばーさんじゃないけどな」
「(旅の中で会った人なの?)」
ああと応えれば、コレットはまた色々と尋ねてくる――世界中を旅したという少女からしても、幾つもの世界を巡った先人の話には興味が尽きない様子だった。
「(ライダーの妹さんも、お兄様とそっくりなんだね)」
「……そうだな。もしかしたらまた、旅の途中でひょっこり会えることもあるかもしれない。その時はよろしくしてやってくれ」
「(……うん、そだね。わかった)」
それまで快活に笑っていたのに、その時はぎこちなく、コレットが頷いた。
実の妹がまだ存命している、というライダーの正体に結びつくような余計な情報を与えてしまったせいかと一瞬疑ったが、すぐに違うとわかった。
きっと、本当にその約束が果たせるものかという不安が、彼女の返答を躊躇わせたのだろう。
聖杯戦争を生還し、更にその先、宿命付けられた死を乗り越え、そして世界を救えるのか――そんなこと、一度や二度の励ましで簡単に確信できるはずがない。
「心配するな。上手くやれるさ、きっとな」
だから――何に対して上手くいくのかは、伏せたまま。ライダーはもう一度、死ぬために生み落とされたという天使の少女を励ました。
その運命を覆す最初の第一歩――聖杯戦争で彼女の旅を終わらせてなるものかという、決意を密かに固めながら。
天使と相乗りしながら、悪魔と呼ばれた旅人は、新たな世界を駆ける。
◆
【第十一階位(カテゴリージャック)】 バーサーカー
朝日は、既に完全に昇っていた。
今日はまだ――役割上だけとはいえ、学校のある日だ。そろそろ寄宿舎を出発しなければ遅刻するだろう。
今この瞬間にも『妹達』の命が奪われているかもしれないという状況で呑気に学業に勤しむなど、学園都市に居たままなら絶対耐えられなかったに違いない。
だが、感情のままに暴発する一歩手前で、
御坂美琴は踏み止まっていた。
美琴は今の状況を、『絶対能力進化実験』関係者以上の権限と技術を持った集団による仕業と看做している。
スノーフィールドという都市を密かに作り出し、学園都市最強の精神操作能力さえ無効化するレベル5を拉致し、認識を改竄して、挙句同様の状態の人間を老若男女八十万人も物理的に用意されるよりは、そういう電脳世界に取り込まれたと見る方がずっと納得できる。
そして電脳空間であるのなら、時間経過を現実と合わせる必要はないはずだ。実験時間の短縮のため、異なる時間の流れを設定するのが妥当だと、美琴は考えた。
昨夜の、夢を介した開幕宣言とやらでも、スノーフィールドとあの夢の中の実時間は別であると監督役は言及していたのだから、学園都市の時間経過に過敏となる必然性は薄いはず。
――それは単に、あの子達のことを忘れて能天気に笑っている間に、三ヶ月もの月日が経過しているかもしれないことを、受け入れたくないが故の推測かもしれない。
そんな欺瞞を薄々自覚しながらも、暗闘の側面が強い聖杯戦争において、無闇に行動すべきではないと美琴は己を抑えていた。
ここで無様を打てば、今度こそ、あの子たちを助けることなど叶わなくなってしまう。
何しろ、この戦場には御坂美琴でも敵わないような怪物がまだ十体以上も存在しているのだから、慎重に行動するしかない。
そうして美琴は、なぜだか出発前になるといつも、部屋中のコンセントを抜き始める従者の方を振り返って、何に対してでもなく苦笑した。
「……世界観に気合入っている割には、結構適当よね。あんたが十一(ジャック)って」
部屋を出るその前に、美琴はどうでもいいような愚痴を、未だその顔を直視できない人造の花嫁(バーサーカー)に話題として提供した――結局、喋れない狂戦士には疑問符のような唸り声一つで済まされてしまったが。
別段、直接戦闘に関わるような要素でもない。しかし昨今では騎士をモチーフに描かれるジャックというカテゴリーと
フランケンシュタインの怪物を結びつける要素が弱い、と不可解を感じるのもまた事実であった。
フランケンシュタインは人造人間を題材とした作品ではあるが、彼女が造られた目的は理想の人間を生み出すことであり、その役割は召使などではない。当然ながら、一般的なハートのジャックに描かれた人物――あの聖女ジャンヌ・ダルクの戦友であった憤怒の騎士ラ・イルとの関連性も、美琴はとんと耳にしたことがない。ランスロットやヘクトールといった他スートの人物や、もちろんコンセントを抜く癖ともだ。
だから精々、彼女が生まれたのが十一月のわびしい夜だった、という程度の繋がりしか、美琴は花嫁の姿をしたフランケンシュタインの怪物と、男性的なイメージの強いその数字の縁とやらを見出だせなかった。
そう、御坂美琴が知るはずはない。
遠い世界で、バーサーカーの命の一欠片を受け継ぎ騎士となった人造の少年が、聖女と共に戦った外典のことなど。
殺されるために生み出されて、しかし運命に反逆し、憤怒を抱く人間になった己が子弟との縁は、バーサーカーさえも認知していないことだから。
故に、知らないことは仕方ない。元より知ったところで、彼女には何の意味もないことだ。
ならば知っていることから、できることをして行くしかない。
美琴の能力(ハッキング)により、聖杯戦争に関わるワードの検索履歴を洗い出して、少なくとも一昨日の時点で市立高校に一人以上、マスターが存在していることは確認した。
またバーサーカーも、そのサーヴァントとしての感知力で、既に――美琴の通う市立中学に一組以上、他の主従が存在することを突き止めていた。
どちらも未だ個人の特定には至っておらず、そもそも本選に残っているのかも不明だが、何の手がかりもないよりは探りを入れていくことはできるはず。そしてそれは少なくとも、同じ学校に関わる敵からしても同じこと。
まずは、身近なところからだ。
「行くわよ。今日こそ敵を見つけ出す」
それがゆくゆくは、あの子たちを救うことに繋がるのなら――これから過ごす時間は決して、気が抜けるものではないと決意を新たにして。
霊体化で姿を消したバーサーカーを従えて、御坂美琴は扉を開き、全てが偽りの戦場へと歩み出した。
◆
【第十二階位(カテゴリークイーン)】 セイバー
「(不思議だな)」
外部組織との会談のため、まず一族の有力者と合流すべく街中を移動する、車内にあって。偽りの役割を続ける
ティーネ・チェルクの頭の中に響いたのは、平坦な疑問の声だった。
「(畏れながら………何が、でございましょうか)」
独り言かもしれないが、確認もせず無視したとあっては、無駄に機嫌を損ねられかねない。そのように判断したティーネが問いかけた相手こそは、霊体化中の彼女のサーヴァント。軍神(マルス)の剣を持つセイバー、真名をフン族の大王
アルテラ。史上でも指折りの広大な文明圏を蹂躙した大英雄だ。
機械の如き印象のとおり、何も感じない、などと言っていた彼女の琴線に、いったい何が触れたのだろうか。
やはり、女性であることすら忘れられた大王が、第十二階位(カテゴリークイーン)を与えられたことが不可解なのだろうか、などと――スートこそ違うものの、トランプにおけるクイーンのモチーフの一つとされる戦女神――軍神に勝利せしアテナと彼女の間に存在する縁を、知るはずもない身で考えたティーネに対し、霊体化したままのセイバーは答えを寄越した。
「(かつての私なら、このような文明の産物を視界に収めれば、破壊せずにはいられなかっただろう、と思ってな)」
何でもないことのように、しかし耳にしたティーネが、ゾッとするようなことをセイバーは言う。
「(それが随分と、衝動が薄まったものだと感じていた)」
つまりは生前のセイバーであれば、敵ですらないこの車両も、窓の外を流れて行くスノーフィールドの街並みさえも、目に映る文明の全てを。破壊の大王として粉砕してしまっていた、ということだろうか。
思わず固唾を飲んだ後。一族の悲願のために心を捨てたはずの己が、その事実に恐怖を覚えているという事実を再認して、ティーネは強い疑念に襲われた。
何故自分は、この忌まわしきスノーフィールドを模したこの偽りの街が滅びることに、強い忌避感を覚えているのか――?
――何故だかそれは、長く見つめていてはならない気がして、ティーネは意識を振り分ける先を意図的に切り替えた。
もしもセイバーが、彼女の言う"かつて"の状態であったなら、討伐令を受けることは不可避であっただろう。いくら強力なサーヴァントとはいえ、セイバーは防衛能力にまで長けているわけではない。あるいは今のままでも、その影響が払拭されているとも限らず、制御に不安を覚えるのは当然だ――きっと己は、そのことを恐れたのだと、ティーネは自らに言い聞かせる。
そうした欺瞞の蓋から、さらに目を背けるように。ティーネは注意をセイバーに向けるべく、次の問いかけを放っていた。
「(……大王は文明がお嫌いなのでしょうか?)」
「(……わからない。私は命を壊したいと思ったことはない。だが、いつも、視界に広がる文明を破壊し続けてきた。これまでの私は、いつもそんな選択しかできなかった)」
変わらない平坦な思念の中に、どこか沈痛な響きが聞こえた気がした。
……だが、勝手に読み取った感情に基づけば、どのように受け答えするのが正解なのか。
「(では、せめて視界の落ち着きますよう、これだけでも片付けておきましょう)」
わからないなりに、ティーネは若い運転手が妙な気遣いで手渡して来れたが、全く趣味に合わない異国の玩具――座席の隅に放置しておいた、紳士風のカエルのマスコット人形を、セイバーが目に収めずに済む位置に動かそうとして。
「(待て)」
セイバーからの制止の声を聞いた。
「(? 如何なさいました?)」
「(いや、その)」
ティーネの問いかけに、セイバーが言い淀む。これまでの彼女の印象からすれば、その様は珍しいものに思えた。
しかし、暫くしてもそれ以上の説明も要求がなかったので、ティーネは再び、宣言を実行に移そうとして。
「(待て)」
またも制止の声を聞いた。
「(待て、マスター。違うぞ。その……違う)」
しどろもどろ、と言った様子のセイバーがどんな表情をしているのかは想像できない。
ただ、彼女が何を求めているのかは、ティーネにも予想が付きそうだった――容易に受け入れられないほどに、意外な答えだったが。
……一先ず、直接口に出すのは控えた上で試してみようと、ティーネは考えた。
「(……では、大王。こちらの処分は、御身にお任せいたします)」
「(ん……)」
そうして、カエルの人形をティーネから譲り受けられるような位置に運ばれた霊体化中のセイバーは、どこか弾んだような声を返し、ティーネの推測が正しかったことをおおよそ証明してみせた。
それが、セイバーに対してティーネの抱いていた印象が逸した、最初の出来事であった。
◆
【第十三階位(カテゴリーキング)】 ランサー
ハートのキング。その絵札に描かれた王はシャルルマーニュ、カール大帝であると言う。
ローランやオリヴィエ、アストルフォに代表される十二勇士を従え、自らを西ローマ皇帝と号したヨーロッパの父たる偉人中の偉人。
フランク帝国はかつて栄えた、真にローマの系譜たる西ローマ帝国とは本来何の繋がりもない。信仰する神もまた、ローマの古典的な神々とは異なっていた。
しかしながらその一方で、彼らは古代ローマの文化や法を熱心に研究し、つまりはローマという理念に憧れ、その相続者となったという。
「――即ち、裡にローマを秘めた我が子の一人である」
己に冠された階位(カテゴリー)、その絵札に描かれた西ローマ皇帝について、古代ローマ建国の王
ロムルスはそのように述べていた。その縁があるからこそ、自らが第十三階位(カテゴリーキング)に指定されたのだと。
他の者が言ったのであれば、節操がないようにも見えただろう。しかしランサーのクラスで再び人々の前に姿を顕した彼に対しては、そのような邪推の念が滲み出るということはなかった。
「そしてそれはおまえもだ、実加よ」
木漏れ日を連想する慈愛に満ちた眼差しで、ランサーは今生の主を見つめていた。
「人は、人を愛するのだ。その心を育む光こそが、私(ローマ)の願った浪漫(ローマ)である。
史上、多くの邪悪がそれを否定するだろう。しかし如何なる暗黒にも、その光を消すこと能わず。故にこそカールにも、おまえにも、遙かなる私(ローマ)の時代より継がれて来た輝きが宿り続けているのだ」
まだ、打ち明けていないはずなのに。まるで未確認生命体に纏わる事件の数々を、否、人の世の全てを識っているかのように、深い確信と共にランサーは述べる。
「深き悲しみに見舞われようとも、その光を絶やすまいと戦い、傷つきながらも勝利してきた娘よ。ならばこそおまえは我が子である。故にこそ私(ローマ)は我が槍、我が力、我が偉業の全てを以て、おまえの敵を打ち砕こう。
だから迷うことはない、実加よ。おまえはおまえの裡にある人間愛(ローマ)を信じ、戦い、そして勝てば良いのだ。そこに自ずと道は開かれる」
そうして神祖は、見事なサムズアップを披露してみせた。
――それが本選開始の合図、その説明の中から、想像していた以上の過酷が予想される聖杯戦争に物怖じした
夏目実加に対し、ランサーが見せた激励だった。
朝。本来の出勤時間よりも早くに職場を訪れた実加は、文字通り忙殺される勢いで資料の整理を行っていた。
実加だけではない。留学という目的で出向しているスノーフィールド警察署の国際テロリズム対策課、そこの同僚は皆が同様の状態だ。
何故ならスノーフィールドに、『曙光の鉄槌』を自称する破壊活動組織が潜入してきたとの情報が入手されたからだ。
真偽の程は未確認。遠い異国の反政府組織が、この街で何を目的としているのかも予想がつかない。
しかし、彼らは自爆も辞さない危険組織だ。事実である証拠がないとしても、決して無視できるわけではない。
おそらく、二日前の深夜から被害者が続出している『三姉妹の口裂け女』事件と比べれば、『曙光の鉄槌』と聖杯戦争の関係性は薄いものと考えられた。
だが、この偽りのスノーフィールドの治安とは無関係ではない。
確かに聖杯戦争を止めなければならない。だがそれは、あの日の自分のように理不尽な悲しみで涙を流す人が、一人でも減ることを願ってのことだ。
五代雄介のように、一条薫のように――きっと、ランサーの言う人間愛(ローマ)のために。
ならば聖杯戦争と無関係な事件さえも、警官である夏目実加は解決してみせなければならない。
辛い二重生活になるだろうけれど、やってみよう……自分なりに、中途半端にだけはしないで。
「(実加)」
そんな決意の下、鋭意職務に励む最中。皇帝特権EX、その破格のスキルによって気配を潜めていたランサーが、念話で呼びかけてきた。
「(どうしました、ランサー?)」
「(この警察署内に……もう一騎、サーヴァントが存在している)」
衝撃的な告白に思わず手を止めた実加はその後、意図せず集めた衆目への対処に縮こまる羽目になるのだった。
◆
【第一階位(カテゴリーエース)】 アーチャー
窓より朝日の差し込む自室に、
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは篭っていた。
二人部屋の主、その片割れが消えてから二度目の朝。昨日は朝から警察が来て、捜査の騒々しさに包まれていたが、今朝はそのようなこともなく。
今は海外の両親に代わって姉妹の面倒を見ている、ということになっていた二人の同居人がそれぞれ、捜索や方々への連絡等に追われている間、学校を休んだイリヤは部屋に一人のはずだった。
しかし、倍も広く感じられるはずの室内に、以前よりも窮屈な印象を与える、多大な圧迫感を伴う者が立っていた。
「マスターよ。貴様の仇敵が見つかったようだな」
そう呼びかけるのは、長い布を被り素顔を隠した長身痩躯の弓兵――
アルケイデスと名乗り、自らをアヴェンジャーとも称した、イリヤのサーヴァントだ。
与えられた祝福を捨て、その命一つで神々を人の手で滅ぼさんとする彼に冠された数字は一。それが特権階級を廃し、人民の地位を向上させた象徴でもあることには、その場の誰も考えが及ばず、また興味もなかった。
淡々とした様子ながらも、主に浴びせるその声にはどこか、暗い愉悦が滲んでいるように感じられた。
「貴様の裡に滾る、その黒い憎悪をぶつける先が」
「まだ、確定したわけではありませんよ」
沈黙する主に代わってアーチャーに答えるのは、イリヤと彼の間で浮遊する魔術礼装、マジカルルビー。自律した思考能力を有する彼女にも、どうやらあの夢の景色は届けられていたらしい。
「監督役はあくまでカードを回収したと言っただけです。彼女がクロさんを殺害した犯人であると、即座に結びつく証拠はありません。妙な煽動は控えて貰いましょうか」
「では。中立を謳う運営NPCが、他者の戦利品を奪い取ったとでも言うつもりか、魔杖よ」
「――ッ、それ、は…………いえ、令呪と同様と考えれば、あり得る話だと思いますが」
ルビーが一度は窮しながらも切り返した言葉に、アーチャーは頷きを返す。
「なるほど、一理あるな。だが我らの見立てはどちらも、所詮は推測に過ぎぬ。そして仮に我が読みが的中し、マスターの復讐すべき敵が監督役だと確定しても、私がその手助けをすることはないだろう」
「……何ですと?」
態度を豹変させたような物言いに、ルビーが動揺を見せた。そして彼女のみならず、イリヤも抱えた膝の上に乗せていた視線を上げる。
「――今は、な。つまるところ、それは奴が討伐令という札を切れなくなるまでの話だ」
その反応に、ニイと口の端を持ち上げた復讐者は、その両腕を広げて饒舌に語る。
「そして標的が監督役ではないとしても、貴様の復讐すべき相手は既に月に奪われているだろう。まずはそこに手をかけるところから始めねばなるまい。
我が復讐の妨げとならぬ限りは、私を招いたその憎悪のサーヴァントとして在るという契約だ。それに沿う限りは、力を貸すが?」
つまりはまず、仇敵に牙を突き立てるための準備として――他の主従の全てを抹消せよと、アーチャーは暗にイリヤを促す。
そのために協力しろ、さもなくば殺すと。
……彼が提供するという力が絶大なものであることを、疑う余地などどこにもない。
そもそも聖杯戦争にマスターとして参加してしまった時点で、サーヴァントの庇護が必要なことは明白なのだから。
この口が紡ぐべき答えは、一つしかない。
「……まずは、あのシエルって人に会います」
だが、実際に唇から吐き出された言葉は違っていた。
「本当のことを知りたいから。どうしてクロが……死んじゃったのかを」
「……まあ、いいだろう」
その返答にアーチャーは些か憮然とした様ながらも、紅い手がイリヤの首に伸びるということもなく。
様子を見守るように、一歩退くような挙動を示す己がサーヴァントの姿を見て、イリヤの胸に去来したのは切なさを覚えるような違和感だった。
(やっぱり……小さい)
最中で断たれた、あの夢。
冬の森で少女を救ったあの巨人(サーヴァント)の記憶の出処は、このサーヴァント以外にあり得ないはずだ。
だがあの巨人とこのアーチャーの姿は、どうにも結び付けられなかった。そもそも骨格からして一回り以上小さいが、それ以上に。
守護する者と、復讐する者とが、イリヤにはどうしても同一には見えなかった。
それがなぜだか、イリヤは無性に悲しくて。
クロの死と、この聖杯戦争と、いったいどうやって向き合えば良いのか、未だ答えは出せないままでも――この変わり果てた英雄に、ただ押し流されるだけは嫌だと。
垣間見た冬の森の思い出に後押しされて、今はたったそれだけでも、少女は強さを取り戻すことができていた。
◆
【番外位(ジョーカー)】 バーサーカー
遂に開始された聖杯戦争。
月は舞台を通し、代行者を介し、その意図を参加者達へと伝達した。
しかし、そうして与えられた知識をまるで理解できていない者が、一人だけ残っていた。
己が置かれた状況に無自覚な彼女は愚かなのではなく、ただ、精神がその基準にも達していないほど幼いだけ。
「……つまんないの」
呑気な嘆息を漏らす少女――
ありすは、傍目には十にも満たない少女だった。
……実際に肉体の軛から解き放たれたのは、もう少し先でも。結局のところありすがヒトとして生きたのは、たったそれだけの時間だった。
だから、その心は幼いまま。類まれなる素質によって、偶発的に電子の海へと流れ出て、遂には運命の札に導かれて、時空すら越えて未来の月に到達した。
無間の孤独。そこに、お星様が落ちてきたような輝きをくれた怪物が現れて、早一晩。
彼のくれた新しい玩具を手に、遊び相手を探しても――誰も、誰も、ありすに気づいてはくれなかった。
誰も、一緒に遊んではくれなかった。
街征く人々は皆、ただ流れて行くだけの風景と同じ。
結局傍に居てくれるのは、口の利けない怪物(バーサーカー)だけ。
それだけでもずっと、ずっと、これまでより世界が輝いて見えたけれど。ありすにはまだ、足りなかった。
……何故なら彼女はもう、夢見てしまったから。
「どうしてだれも、ありすと遊んでくれないのかしら」
今までずっと、手に入らなかった思い出。
でも、折角バーサーカーが来てくれたのに、念願が叶う気配は少しもない。
今、ありすの手にしたトランプとは違う――もう一つのトランプ遊びに、皆が興じているのだろうか。
「あっちのトランプなら、みんないっしょに、遊んでくれるかしら」
この箱庭の街で行われているという一大イベント。
それが正確に意味することは、先に述べたとおり、ありすの理解が正しく及んでいることではないけれど。
令呪という模様を刻まれた者同士が競い合う遊びの中でなら、バーサーカー以外にも、ありすに構ってくれる誰かが現れるかも知れない。
「ねえ、あなたはどう思う? あたしも、まぜてもらえるかしら?」
「……」
少女の影(サイバーゴースト)を認識できず、触れないからと通り過ぎて行く、無遠慮なNPCの群れが作り出す人の流れ。
残酷なまでに無関心なそれを避けて、路地裏で休憩していたありすの問いかけにも、バーサーカーは無言だった。
当然だ。この砂糖菓子のように儚い、夢の中に残された少女の心に寄り添う代償として、彼は己の心を差し出していたから。
故にバーサーカーは、頷きを返しすらしない。
ただ、ありすに付き従い、護り抜くだけ。
その覚悟の程を、未だ理解できないなりに。決して己を否定しない守護者の様子に後押しされ、ありすは一人で結論を下した。
「決めたわ! あたしも、まずはあっちのトランプ遊びに入れてもらいましょう!」
バーサーカーから贈られた束を、大事に懐に仕舞いながらも。決心してからのありすは早かった。
子供はいつも、思い立ったことをすぐに実践してしまえるのだから。
その命を守る、リミッターが設けられていない故に。気づきもせず魂を燃やした少女が、膨大な魔力を練り上げる。
理屈としては、地上で争奪された聖杯と同じだ。途方もない量の魔力が起こす奇跡の一端にして、単なる過程の短縮。歩き続ければいつか辿り着いた場所まで、一気に飛んで行くだけのこと。
――ありすの魂と契約によって繋がった狂戦士もまた、それに巻き込まれる。
彼女を保護すべく、行き先も定かならぬどこかへと一緒に跳ぶことになる、その寸前。
ほんの少しだけ、ある方角に向けてその醜悪な頭を向けた。
「――――――――■■」
失われた人の心の中、ジョーカーアンデッドは果たして何を唱えたのか。
誰にも解き明かせない無音の暗号を残し、死神は迷える少女と共に、何処とも知れぬ場所まで姿を消した。
◆
【番外位(エキストラ・ジョーカー)】 セイバー
――ふと、誰かに名前を呼ばれたような気がした。
「始?」
未だ死を知らぬ身でありながらサーヴァントとして召喚された彼は、その無音の呼び声にあの日より別離したままの、ただ一人の同胞の姿を想起した。
「どうかしましたか、セイバー」
そんなセイバーに問いかけるのは彼のマスター、スノーフィールド警察署長の役割を与えられた
レクス・ゴドウィンだ。
この時間の署長室に余人は現れない。故に実体化を許されていたセイバーは再現された五感と合わせて改めて周囲を探り、そして結論を下す。
「何でもない、マスター。……知り合いの声が聞こえた気がしたけど、勘違いだったらしい」
「本当ですか? あなたの懸念が当たっているとすれば……」
「そのことばかりを考えているから、かもしれないな。だけど本当に近くに居たのなら、見失うはずがないよ」
サーヴァントであれ、アンデッドであれ。その身が同じ戦場にあるならば戦いの運命に後押しされ、互いに引き合うことになるのが自分達であると、セイバーは理解していた。
だから、自分を引っ張る力が何も感じられない現状は、友が近くにいるはずはないという結論を、セイバーに促していた。
「確かに、戦いの中で二枚のジョーカーが存在していて。その内の一枚が俺なら、もう一人はあいつじゃないのかって考える道理かもしれない。だが、聖杯戦争はバトルファイトじゃない。一つの考えにばかり囚われるのは間違っている」
残った者が二人だけなら、
剣崎一真と相川始はもう、戦うことでしかわかり合えない。
けれど、仮令一時だけでも。二枚のジョーカー以外にも、他のカードがその卓上に存在している間なら、あるいは。
……だが、それでも。
「そもそも、居ない方が良いんだ。世界を破滅させる要因なんて、少ない方が良いに決まっている」
だから、期待なんて、しなくて良い。
その希望は絶望への反転が約束された代物だ。
絶望せず、しかして希望するでもなく。ただ、耐え続けること。それが地上で今も戦い続ける、本物の剣崎一真と相川始に報いることができる、セイバーなりの運命との戦い方だ。
「セイバー。もう一度、言いましょう」
だが、そんなセイバーの様子を見咎めたのか、ゴドウィンが口を開いていた。
「確かに我らは世界の敵。存在することが既に人類に対する利敵行為となる者どもです……しかし、それでもあなたはかつて、人類を救った英雄のはず。そのあなたがうたかたの日々でささやかな報酬を望んでも、誰にも文句を言われる筋合いはないでしょう」
「マスター……?」
セイバーの示す戸惑いに構わず、ゴドウィンは続ける。
「いずれ、あなたやその友の存在が世界を滅ぼすことになるかもしれない。しかしそのいつかは、決して今ではない。他のサーヴァントが存在する限り、この聖杯戦争においてあなた達は勝利者とならない。そんな限られた時の中でまで、友との再会という希望を拒む必要はまだ、ないはずです」
ゴドウィンは椅子から身を起こし、セイバーのもとまで歩み寄る。
「破滅の未来を招くのだとしても、それは今この瞬間の希望を、絆を否定する理由にはならない……確かな信の置ける仲間が居て初めて、人は運命を越えることができるのですから」
死を以て人を越え、孤独の神たらんとした男は、それでも真摯に、その言葉を紡いでいた。
「私は、その奇跡を目撃した。そして英雄であるあなたは、重過ぎる代償を承知の上で、絆を信じる未来を掴み取った。
そのあなたがまた、自らをカード(孤独)へ封じる必要があるのだとしても。ならばその時までは、希望とともに在ってください。……私には、機会のないことでしたから」
思い当たった節を、声には出さず飲み込んだものの。セイバーは蘇ったゴドウィンが、再会した兄ルドガーと争うしかなかったまま終わった運命に、胸を痛めた。
その無念を抱くからこそ、あり得るかもしれない希望に自ら蓋をするセイバーに対して彼は、こうも強く訴えているのか。
「あるいは、仮初の希望を持てと、残酷なことを言っているのかもしれません。ですが君には、私のできないことをして欲しい。それが君自身に関することでも」
「……ありがとう、マスター」
その時だけ、呼び方を主の真意を悟ったセイバーは、自然とその言葉を吐いていた。
続いて二つの宝具の内、黄金の剣のみを実体化させる。
「この剣に誓う――俺は必ず、マスターと一緒に、運命に勝利することを」
「では……我が命運は、汝の剣に。――頼みましたよ、セイバー」
そして、騎士の誓いは交わされた。
今この瞬間より、改めて。運命に立ち向かう二人の戦いが開始される。
絆という、ただ一つの切札を信じて。
◆
そして、月の用意した箱庭の中に、運命のカードは配り終えられた。
再現された偽りの聖杯戦争の地で、幾つもの出会いと、それを上回る争いの幕が上がる。
始まってしまった物語は、結末へと向けてうねり出す。
その運命の切札を掴み取るのは、誰か。
箱庭の中の聖杯戦争――――開幕。
♠
♦
♣
贋作の聖杯戦争を元に再現された聖杯戦争――同じく冬木という土地の聖杯戦争を再現するため、そして本来招かれないはずの、剪定事象を越えて異世界として確立した世界からマスターやサーヴァントを招き、さらに広範な知見を得るために。魔術儀式の舞台となる箱庭には、本来召喚され得ないはずの存在が次々と召喚された、このスノーフィールドの地の再現が選ばれた。
「……結局、昨夜のうちは誰も来ませんでしたね」
そんな箱庭の聖杯戦争を取り仕切る監督役として、新たに用意された上級AIであるシエルは、スノーフィールド中央教会にある隠し扉の前で一人、そのようなことを呟いていた。
予選の時分より神秘の秘匿を始めとする聖杯戦争の進行補助のために駆け回り、ようやく本選開幕に漕ぎ着けて一息つく段にありながらも。やはり初仕事となるこれからの役割がどのように転ぶのか、AIとはいえ、その興味は止まらなかったのだ。
「聞くまでもなく聖杯戦争を進めるつもりなのか、慎重派が多いのか、はたまた……この『保険』まで冬木の大聖杯から再現・調整した意味が出るのか。果たしてどのような結末に至るのでしょうか」
ゆっくりと階段を下りながら、厳重な護りで固められた地下の保管室を目指す彼女の手には。
彼女が『保険』と呼んだ三枚の『白紙のトランプ』が、蝋燭の灯りを白く照り返し、仄かに輝いていた。
最終更新:2018年01月22日 22:38