英雄と蛇、邂逅(前編)◆aptFsfXzZw
――消えたくない、と彼女は願った。
使い潰される道具として勝手に生み出されて、我が子の行末を憐れんだ両親になかったことにされた女の子。
偶然の事故から突然現れて、幾つもの騒動を起こしたクロが本当に望んでいたのは、ささやかな日常だった。
家族が居て、友達が居る、何の変哲もない普通の暮らし。
この世に生を享けた当たり前の命としての、彼女は居場所が欲しかった。
同じ陽だまりを奪い合う者として衝突して、停戦して、一緒に過ごして、また争って……自分達の真実を知って。
何も知らなかったイリヤの代わりに傷ついてくれていた、もう一人の自分――彼女に幸せになって欲しいと、気づけば自然に願っていた。
そして、やっと手を取り合って、新しい家族として同じ時を生きて。やっぱりイリヤの知らなかった裏で大変な苦しみを背負っていた友のため、今度こそみんなで平和な毎日に帰ろうと、一丸となって戦って。
長かった戦いの終わりが見えた、その矢先に。
「彼女を排除するに至ったのは、その存在が聖杯戦争の運営における致命的なバグであったからですね」
――自分達を拐った『月』の代行者、クロを無慈悲に消し去った張本人は、イリヤの問いかけに平然と答えた。
◆
スノーフィールド中央教会。
時期であれば信徒や観光客と言った来訪者で賑わう威厳ある礼拝堂だが、耐性のない者を遠ざける人払いの結界が張り巡らされたことにより、今は三つの人影だけが存在していた。
閑散とした長椅子の列の狭間で対峙するのは、聖杯戦争の監督役であるシエルと、彼女に真実を問い糾すべく訪れた主従、
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンと『第一階位(カテゴリーエース)』のアーチャーの組み合わせ。
昨夜、聖杯戦争本選開幕を告げる場所で、シエルの披露した『夢幻召喚』。
そのために用いた触媒、『弓兵』のクラスカード――二日前に行方不明となったクロの、核となるはずの礼装の出処を知ることが、イリヤ達の目的だった。
そしてそれは、呆気なく達成された。
目の前の尼僧が、自分がクロをその手にかけて、回収したと即答したのだから。
何故、どうして、と……せめて理由を知りたいと願うイリヤに、シエルは滔々と回答を連ねる。
「既にお伝えしたように、サーヴァントの現界数はカテゴリー分けの都合から、上限が設けられていました。その内の一枠を『白紙のトランプ』ではない異物が埋めてしまっては聖杯戦争を始めることができなかったので、その原因を取り除くように月から指令を受けたということですね」
「……あなた達が、私たちを勝手に拐ったのに!?」
「その点については、申し開きの言葉もありません。ですが」
あまりの言い分に、思わず声を荒げたイリヤに対し、シエルは表情に僅かばかり滲ませていた沈痛さすら掻き消した。
「無自覚だとしても、そもそもムーンセルの招待に応じたのは彼女の願いです。これより命を賭して競い合う、あなたたちのそれと同じように。そして――この先に生まれる敗者と同様、彼女の魂は月の目に適わない物であっただけの話。ならば、殊更に特別扱いするほどでもないでしょう」
「――っ!」
「……わたしが言えることではないかもしれませんが、それは流石に悪徳商法過ぎませんかねぇ」
激高寸前のイリヤの揶揄するように、ルビーが口を挟んだ。かつて無理筋な手法でイリヤと契約を結んだ極悪愉快型のカレイドステッキをして、シエルを通したムーンセルの言い分には物言いの一つも付けたくなるようだ。
「物言いはご自由に。ですが彼女の存在を許し続けていては、SE.RA.PH.の全てを消去するしかなかったことは事実です。この再現されたスノーフィールドごと。集められたあなたたちまで」
「……っ!」
「だから私はムーンセルと、そして他の参加者たちの願いのためにも、監督役としての役割を果たしただけのことです」
まるで。
クロの命を摘み取ったのは、あなたたちのためだと言わんばかりの。
並べられて行く言葉に、イリヤの中で滾る溶岩のような紅と黒とに灼熱した感情が、臨界へと近づいて――
「この件についてお話できることはこれだけです。あなたもマスターの一人として、早めに気持ちを切り替えることをお勧めします……ご姉妹も、きっとそれを望んでいますよ」
「ふざけ――なっ!?」
その言葉に、激情のまま飛び出そうとしたイリヤだが、その身を突如襲った痛みに声を詰まらせた。
それから一瞬だけ暗転した視界が戻った時には、少女の身は床に伏せていた。
「アーチャー!」
「……監督役とやら」
ルビーの抗議を無視した声は空気中だけでなく、背に押し当てられた重みからも伝播してきた。
「マスターに代わり、一つ問おう」
「はい、何でしょうか?」
宣言の主は、イリヤと契約したアーチャーだった。
シエルに思わず掴みかかろうとしたイリヤを、背後に控えていた彼が一瞬の内に組み伏せていたのだ。
黒化英霊との交戦経験豊富なイリヤをして、なお戦慄する驚異の早業。
それが、適切な身体操作を可能とする本来のサーヴァントからすれば児戯に過ぎないということに、格の違いを文字通りに痛感させられる。
「そのカードは、元を正せば我がマスターの縁者の物だ。返還しようという意志の有無だけ訊いておく」
そうしてイリヤから交渉の主導権を奪ったアーチャーが問うたのは、まだそこまで考えを及ばすことのできなかったイリヤが、今更になって気づいた望みの実現性だった。
そうだ。
クロが――本当に死んだということを、どうしようもなく保証されたのだとしても。せめて、その形見だけでも。
そんなイリヤの縋るような眼差しに気づいたのか否か、シエルは肩を竦めるようにして回答する。
「残念ながら、仮に彼女が聖杯戦争の舞台に進むことができていたとしてもその場合のお二人は敵同士でしたので、所有権を認める根拠にはなりません」
「……っ!」
形として残された繋がりの残滓。たった一枚のカードに向けた小さな希望は、その一言であっさりと奪われた。
「そうなると、今の時点で戦力の増強に繋がる礼装を無償で提供するのは公平性を損ねることになりますので、お渡しすることはできませんね」
「今の時点で、ということは……」
黙すアーチャー、失意に震えるだけのイリヤに代わって、そこで口を挟んだのはルビーだ。シエルは頷く。
「そうですね。何らかの報奨か、あるいは聖杯戦争が終結した後なら、お渡しすることには異存ありません」
「――だそうだ。帰るぞ」
「きゃあっ!?」
シエルの回答を聞き終えると同時に、アーチャーはイリヤの体をそのまま掴み上げ、右の肩へ荷物の如くぞんざいに担いだ。
「邪魔をしたな」
「いえいえ」
別れの言葉を交わして立ち去ろうとしたアーチャーの足が、その時、不意に止まった。
「最後に――月の人形なぞに言っても仕方のないことだろうが、それでも告げておくべきことがある」
アーチャーは言う――諦念を滲ませた声に、それでも抑えきれず静かに猛り狂う、確かな憤怒を載せて。
「いかなる理由であれ、幼子を手に掛けるような外道は相応の因果に晒されるべきだ。もしその道理から世界が目を逸らしたとしても、正統なる復讐を忘れぬ者が居ることを、その胸に刻んでおくが良い」
「……敵対宣言でしょうか?」
監督役として用意された月の代行者、NPCたるシエルをして、反応に一瞬以上の淀みを生む迫力。
それをすっぱりと消し去って、アーチャーは小さく鼻を鳴らした。
「好きに解釈すると良い。後から理不尽と、神を名乗る無法者どもと同列に謗られたくはなかっただけだ」
――果たしてそれは、答えを言外に告げているのではないか。
しかし公平性を掲げる監督役としては、采配に不平を示しただけの参加者までを罰することはできないらしく、彼の背が去りゆくのを見届けるだけ。
いずれにせよ、互いにそれ以上取り合うことなく。
礼拝堂を後にするアーチャーに抱えられたまま、イリヤはその姿が見えなくなるまで、シエルの姿を睨み続けていた。
◆
「――覚悟は決まったか、マスター」
教会を出て、暫し歩いた後。
担いでいたイリヤを肩から降ろしたアーチャーは、そのように問いかけた。
「覚悟、って……」
「おまえの半身を奪った仇への復讐、それ以外に何がある」
躊躇いがちにイリヤが問い返すと、それだけで身が竦むほどに力強く、アーチャーは断言する。
「最初に告げたとおり、私はおまえの憎悪に招かれた復讐者のサーヴァントだ。聖杯戦争の勝利以外にも、その完遂に手を貸してやることは吝かではない」
それから、いくらか穏やかな調子で物騒な言葉を並べていたアーチャーだったが、またその身に纏う気配をも剣呑なものとする。
「――だが、そのためにおまえが私を利用することを許すように、私もおまえを利用する。そして私にとっては他の何よりも、我が復讐こそが優先される。
故に、今朝話したとおりだ。今、監督役に手を出すことは徒に障害を増やすに過ぎない。まずは聖杯戦争に挑む一参加者として、他のマスターとサーヴァントを鏖殺することが、我らが悲願のための共通にして最善の道となる」
一切の妥協を認めない、と言わんばかりの。鋼鉄の決意を覗かせる声音で、アーチャーはその顔を覆う布越しに、鋭い視線でイリヤを射抜く。
「貴様の望んだ真実を知った今――その覚悟は、決まったか?」
「……っ」
直接目の当たりにしたわけでもないその眼力は、改めて、凄まじい圧を伴っていた。
ただ対峙するだけで呼吸を乱され、挙げ句の果てにはこの場から逃げ出したいという衝動にすら見舞われながらも――
「……できないよ」
イリヤは、強大なる審判者の意に背く言葉を口にした。
「そんな覚悟なんて、できない」
「……惰弱だな」
呆れたように、アーチャーが鼻を鳴らす。
それだけのことだが、彼が不機嫌になったという事実は、空気の重さが何倍にもなったような圧迫感になってイリヤを苛む。
「私に慈悲を期待するなと伝えたはずだが? 障害となるなら、我が手で縊り殺すとも」
続いて放たれた直接的な恫喝の言葉は、それ自体が直接命を奪ってもおかしくないほどの威圧と化してイリヤを打ち据えた。
……だが。
「だって……大切な人が殺されたからって、その復讐のためなら何をしても良いわけがない……っ!」
これまで何度も、巨大な問題から逃げ出していたイリヤはしかし、既に覚悟を決めていた。
もうこれ以上、何も諦めないという誓いを。
「他の誰にだって、わたし達と同じように、失くしたくない人が居るのに……!」
クロを喪った瞬間に、その脆弱さを突きつけられた子供の覚悟。
しかし、だからこそ貴き価値のある子供の我儘(ねがい)は、ただ一人で規格外の大英雄が与える絶望を前にしても、手放すことを選ばせなかった。
一度でも手放してしまえば、取り戻すことはきっと、できなくなってしまうから。
だから、クロが信じてくれた、友達も世界も救うという夢を胸に。確かな形のある物ではない、心の中の思い出だけでも、彼女との繋がりをこれ以上、失ってしまうことがないようにと。
イリヤの意地は何とか、それだけの言葉を絞り出していた。
「……つまり貴様は」
対しアーチャーの声が、一段低くなった。
「貴様はこの私に、覚悟を胸に戦場でまみえる兵士に情けをかけ、敵と馴れ合うために我が子らの苦しみを忘れ去れと言いたい訳か」
長身痩躯から放射される尋常ではない気配に、イリヤは思わず息を詰まらせる。
「ち、ちが……っ」
「……貴様が、その半身に抱いていた情が私の見込み違いだったことは認めよう。だが同じように、貴様如きが私の復讐を賢しげに語ろうと、どこまでも見当外れなそれを聞き届ける義理はない」
ゾッとするような声音で、アーチャーが宣告する。
「――そして、我が子らを軽んじるような言葉を口にすることは許さん。次はないと思え」
その『忠言』には。それまでの脅しや、単なる苛立ちに混じっただけのものとは違う――アーチャーが自覚的に込めた、真の殺意が内包されていた。
……知らず、イリヤは数歩後退していた。
腰が抜けなかったのが不思議なほどの圧力を感じ、完全に臆している己を自覚したイリヤは、それでは駄目だと首を振る。
そして、なけなしの勇気を振り絞り。刺すような雰囲気の中、決死の想いで口を開いた。
「い、言い方が悪かったのは謝る、けど……あなたのお子さんのことを、忘れろなんて言うつもりはない、よ」
「ちょ、イリヤさん!?」
刺激するな、と言わんばかりに、ルビーが上擦った声を発した。
けれど一度口を開いたからには、もう止められない。止めるわけにはいかないと、イリヤは妙に絡まる舌を必死に回し続ける。
「わたしだって、クロのこと……忘れられるわけ、ないじゃない! それでも、復讐のために他の誰かを犠牲にするなんて間違ってる……っ!」
ヒトの生きる世界を守るために、死力を尽くす正義の味方が居た。
悪と謗られようと、世界のための生贄となる妹を救おうとする兄が居た。
両者は相反する目的のために、多くの犠牲を払ってでも悲壮な戦いを繰り広げた。
そのどちらかが間違っているだなんて、イリヤは思いたくなかった。
だから答えは、一つだけ。
「子供の我儘だって言われるんだとしても、わたしはもう、誰も諦めたくない……それに、そうした無茶を叶えて来た英雄なんでしょ、あなたも!?」
思い返すのは、ルビーから聞かされた、アーチャーの真名が意味する正体――イリヤでさえも覚えのある剛勇無双の大英雄の、人間としての幼名。
その逸話の数々と、何より、昨夜垣間見た夢の影響が、イリヤにその言葉を選ばせていた。
「だから、そんなことを言うのはもうやめて――――
アルケイデス!」
その想いを伝えるためにも、サーヴァントとしてではなく、彼という個人に呼びかけるために、イリヤはその名を叫ぶ。
刹那――――張り詰めていたそれは、確かに幾許か和らいだ空気へと変わっていた。
「……英雄などいない」
やがて。イリヤの訴えに、暫しの間を置いてから彼は答えを寄越した。
「貴様が語る伝承は、暴君どもに迎合した愚物のモノよ。そして私は『奴』が捨てた人間としての残滓、復讐者でしかない」
寸前までと比べれば、嘘のように落ち着いた声音で――どこか、物悲しさすら感じさせる語り口で述べるアーチャーに、イリヤは首を振る。
「それでもあなたは、罪を償うために、困っている人々のために試練に立ち向かったんでしょ? だったら……」
「――『奴』は末期、無様にも苦難から逃げ快楽を選んだ。斯様に高尚な精神など期待できまい」
話を聞いて貰えるかもしれない、という淡い期待を裏切るかのように。一瞬で、アーチャーの声に硬さが戻った。
「そして自らの願いのために、こちらを殺める覚悟を決めた敵にかける情けなどない。ましてやそのために、私が復讐を捨てる理由など何処にある?」
「わ、わたしや、クロみたいに、巻き込まれた人が……」
「ならば早々に令呪を使い切ってサーヴァントを自害させ、降伏すれば良い。さもなくば敵として葬り去るのみだ」
それがアーチャーの示した、最大限の譲歩。
慈悲を求めるなと告げていた復讐者の見せた、これ以上ない妥協。
だが――そんなの無茶苦茶だ、とイリヤは思う。
サーヴァントにだって人格はあるのに、普通の人間に簡単に殺すという答えを出せるはずがない。加えてサーヴァントを喪ってその後に狙われることがあっては一溜まりもなく、そもそも反抗されて死んでしまう恐れもある。
他ならぬイリヤ自身が、アーチャーを令呪を使ってでも止めようとする決心が未だつかないのは、そういった幾つもの理由のためだ。
……きっと。心の何処かで、復讐のための力を望んでいるから、などではなく。
「えー、お盛り上がりのところ失礼します」
軽薄な声色の闖入者が現れたのは、イリヤが逡巡から会話を途切れさせたその時だった。
◆
「何者だ」
布越しの視界へ、瞬時に声の主を捉えながら、アーチャーは問いかけを行った。
アーチャーの背後に、前触れ無く出現した乱入者は二人。
声の主である眉目秀麗な少年と、それに随伴する異国の武人の組み合わせ。
一瞬だけ、後者の位置からサーヴァントの気配を察知できた。
佇まいから見ても十中八九、この武人はアサシンのサーヴァントなのだろう。
ならばある程度の距離まで、アーチャーの感知能力を掻い潜れても不思議はないが……マスターまで、ともなれば話は別だ。
その不可解さ、そして自身の前に堂々と姿を晒す得体の知れなさから。警戒を隠しもせずイリヤを背に庇う形で対峙するアーチャーを見て、少年の方が能天気そうな笑顔を浮かべた。
「僕はマヒロと申します。こちらは、僕のサーヴァントである第二階梯(カテゴリーツー)のアサシン。以後お見知りおきを」
「失笑ものだな。暗殺者が呑気に顔を出して、次があると思っているのか?」
「あれ、ご挨拶ですね。もしかして取り逃がしたら後が怖いとか思っちゃってます?」
見せつけるように弓を構えたアーチャーに対し、マヒロと名乗った少年は挑発するように笑い返した。
小馬鹿にした態度だが、アーチャーは過度に気を取られる愚は犯さない。互いの間合いと言える距離に、アサシンが存在しているからだ。
アーチャー自身をアサシンが脅かせるとは考え難いが、あるいは先程イリヤの口にした、こちらの真名を把握されている可能性もある。
ましてや相手はマスター殺しの専門家。万一を警戒するのは当然だ。
しかも、互いの位置関係が拙い。
アーチャーの背後にイリヤが居るように、マヒロとアサシンの背後には教会がある。
流れ矢を当ててしまえば後々要らぬ不利を招く恐れから、アーチャーも早々に射殺してしまうことができず。
結果、互いの隙を伺うように束の間の会話を許す結果となっていた。
「仕方ない。そんなに警戒されていては、落ち着いて話し合いの一つもできないので――」
そんな状況を理解しているのかいないのか、マヒロはべろりとその舌――そこに顕現した紋章を覗かせ。
「令呪を以って我が暗殺者に命ずる」
聖杯戦争において重要な意味を持つ、その言霊を紡ぎ始めた。
「第一階梯(カテゴリーエース)のアーチャーとそのマスターへの暴力の行使、並びにその援護の一切を、以後永久に禁止する」
「――っ!?」
しかし俄に身構えていたアーチャーが聞いたのは、彼をして一瞬理解の追い付かない命令だった。
「え……えぇ……っ!?」
「あら、まー」
数瞬の後。思わずと言った様子で、イリヤとルビーが驚愕と困惑の当分された声を漏らしていた。
その反応に満更でもないと言った様子で、先程までとは違う達成感に充ちた笑顔を作ったマヒロが改めて見せつけた彼の舌部からは、発現していた令呪が一画、確かに消え失せていた。
残る令呪はあと一画。あまりにも呆気なく、彼は切札を使用した。
「な、なんで……」
「……何を企んでいる?」
意図の読めない行為を目の当たりにしたことで混乱したイリヤを遮り、警戒の度合いを引き上げてアーチャーが問いかけた。
対し、マヒロはあっけらかんと回答する。
「いえ、言葉のとおり。僕らはあなたたちと交渉に来ました。だからアサシンが脅威に見做され話の邪魔になるなら、その攻撃力を放棄するまでのこと」
「見え透いた嘘だな。この聖杯戦争に一度関わった以上、他の魔術師とサーヴァントを全て葬る以外の道はあるまいに」
「その意図がない、ということですよ」
アーチャーの詰問にも、マヒロは何でもないことのように前提を否定する。
「つまるところ、最初から優勝するという選択肢が僕にはない。だから、あなたたちと自発的に争うための暴力を持つ意味もないんです」
「ほう。ならばこのまま無抵抗に屠られる、贄の道を選ぶということか?」
「まさか。攻撃はともかく、自衛までは令呪で縛らなかったでしょう?」
マヒロの言葉を裏付けるかのように、アサシンは密かに抜き取っていた得物を構える素振りを見せた。
なるほど最低限の防衛力が残っているのならば、位置関係の優位もあって、当初アーチャーの意識外から出現した術を持ってすれば逃走も叶うかもしれない。
加えて言えば。残る一画での相殺は無論のこと、アーチャー達の前に姿を現す以前から、マヒロの令呪は一画消費されていた事実も見逃せない。二画目への抵抗として事前に行使されていた可能性はある。
油断はできない――が、仮にそうだとしても。この最序盤から二画も費やしてまで行ったパフォーマンスの目的がただ、単独行動をクラススキルで持つアーチャーのマスター一人の暗殺とも、そもそもそれに繋がるとも考え難い。
一方で、寸前のアーチャーの発言を彼らが耳にしていて、なおかつ目的の達成には最低でも令呪一画以上のメリットがあると、マヒロとアサシンが考えているのだとすれば……
「僕とアサシンは可能な限り最大多数のマスター、およびNPCの生還を目的として行動します。そのための協力をあなたたちに依頼したい」
アーチャーの思考が排除から揺らいだ瞬間に叩きつけるように、マヒロはその交渉目的を口にした。
「……皆で、元の世界に帰るってこと?」
「まぁ、できる範囲で、だけどね」
イリヤの震えた声での問いかけに一度頷いてから、マヒロは改めてアーチャーに視線を合わせて来た。
「アサシンの見立てと、そちらの真名から推測しただけのことですが。あなたたちにはこの聖杯戦争における優勝候補となるだけの実力がある。ならそれをサポートする方が、僕らが直接聖杯を取りに行くより現実的と判断したまでのことです」
「……っ!」
マヒロの語る解決策の内容に、直前まで平和的な希望を見出していたらしいイリヤの息を呑む気配が、アーチャーにも伝わった。
「……下らん。強者と見なした相手に媚び、都合良く厄介事の代行を縋るだけか」
「元々、荒事は苦手で。それに僕には回路は在っても魔力がないものですから……アサシンとしても不本意だとは思いますがね」
失望を滲ませたアーチャーの感想に対し、マヒロは居心地が悪そうに自らのサーヴァントへと話を振る。
「貴様も聖杯を求め馳せ参じた一角の英霊であろう。その小僧に第二の生を使い潰されることに不満はないのか?」
釣られたわけではないが、アーチャーもまた――東洋の暗器を得物とするサーヴァントに問いをかけた。
「ワシは既に時代を終えた亡霊に過ぎん。これと言った心残りもない。使い潰されるのも元よりの生業に過ぎぬ故、こうして月に喚ばれもしたのだろうが」
果たして皆が見守る中で、アサシンは淡々と口を開いた。
「時代の遺物としては、多くの助けになりたいという後世のバカに力を貸すのもまぁ、そう悪くはない――少なくとも、単に貴様と敵対するよりは、よほど有意義な命の使い道にはなるだろうからな」
涼しげに、そして皮肉を込めながら、アサシンは己がマスターの支持を表明した。
言葉とは裏腹に、いつでもアーチャーの挙動に対応できるよう全身を緊張させているアサシンの庇護を意識しているのか、いないのか。無造作に歩み出たマヒロが軽薄な調子で続ける。
「もちろん、こちらからも見返りは用意できるつもりです」
「ほう。例えば?」
「そうですねぇ」
わざとらしく悩む様子のマヒロの頭を、不用心を咎めるようにしてアサシンの腕が掴む。
「(――監督役を排除した上で、戦い続けるための算段、などを)」
直後、失望から再び排除に寄った思考に従い、一瞬の隙に矢を放とうとしていたアーチャーの脳裏に声が響いた。
「痛い痛いっ!」
「前に出過ぎだ」
アサシンに力尽くで引き戻され、こちらへ注意など払っていないという様子のマヒロの声なき声が、直接。
「(察しの通り、アサシンの能力であなたとだけ繋いだ念話です)」
アサシンに頭を捕まれ、渋々と引き下がらさせられている――そんな様子を演じているマヒロから、平坦な調子で裏の声が届けられ続ける。
「(何故私にだけ繋げる必要がある?)」
「(その子に聞かれて、途中でやる気を無くされたら困るのはあなたでしょう?)」
構えを解かぬまま、脳内に感じる異物感へアーチャーが尋ねれば、マヒロも即座に問い返す。
その視線はアーチャーにとって最大の弱所にして悩みの種と言える、イリヤを指し示していた。
「(ただ、この念話もパスを通じてない以上はあまり使用できるものではありません。この先の話にご興味を持って頂けたなら、聞かれない工夫はそちらでお願いします)」
一方的にマヒロが告げると、アーチャーの脳内から念話の気配は消失した。
「たちまちは、こちらが諜報に優れたアサシンであることを活かしての情報の提供。現状では真名までは掴めていませんが、昨夜はあなた以外に二騎のサーヴァントを捕捉しました」
「……ちょっと待って。昨夜って、どういうこと?」
改めて口を開き言葉を並べ始めたマヒロに、イリヤが食って掛かった。
「えっ? 昨夜、予選終了より前にそこのアーチャーがサーヴァントを一騎、倒してたよね?」
芝居なのかそれとも素か、マヒロは驚いた様子でイリヤに問い返した。
一方でアーチャーとしては、一つの納得を得られていた。
「なるほど。見立てとやらの出処はそこか」
その内容は大したことではない。昨夜の予選終了の直前、イリヤが心労で早々に就寝した後、アーチャーが偶然発見したサーヴァントを狙撃しただけのことだ。
事前に誰かしらと争ったのか、既に消耗していることが明白だったそのサーヴァントを泳がすことも考えたが、仕留めることができる間に、回復される前に始末することをアーチャーは選択した。
その際、覚悟の決まっていないマスターに事前了承を得る必要はないと考えて先制攻撃を仕掛けたが、標的は余程消耗していたのか禄に魔力を消費することもなく、それこそイリヤに気づかれる前に殺害に成功していたのだ。
そしてマヒロたちは、その場面を偶然からか目撃し、アーチャーの実力の一端を検分していたということだろう。
「そん、な……」
酷くショックを受けた様子で、イリヤが押し黙る。その様子を見たマヒロが、気遣うように声をかけた。
「……一応僕の方から言っておくと、アーチャーもマスターまでは殺していなかったよ」
「直後に本選が開始されたからな。魂喰いをするわけでもないのなら、記憶を失いNPCに戻った者を屠ったところで不利益を被るだけだったということだ」
便乗する形で、当時の真意をアーチャーは口にする。
「……どうして」
しかし、両者から掛けられた言葉は、イリヤを納得させるには至らなかった。
彼女の瞳には既に、闖入者の訪れる以前に宿っていた哀しみと闘志とが、より強い勢いで戻っていた。
「どうして、そんなことを!?」
「繰り言だな。聖杯戦争の掟に従ったのみのことよ」
「聖杯戦争だっていうなら、あなたはサーヴァントなのに、マスターのわたしに黙ってそんなことを!?」
「勘違いしているようだが、たかが肩書を絶対視しないことだ。我らの実態は、あくまで共通の目的のために利用し合う関係に過ぎない」
「っ、だとしても、勝手に誰かを殺そうとするなんて……!?」
「その話はもういい――そして、煩わしいな」
なおも食い下がるイリヤに対し、アーチャーは蔑むような言葉を口にし、そのか細い首筋に精密な制御の下、手刀を閃かせた。
「あ……アーチャー!? 何をするんですか!?」
「他者との交渉でまでこうも喚かれては話し合いも満足にできん。暫く眠っていて貰うだけだ。
そしておまえにも、暫く席を外して貰う」
アーチャーは自ら昏倒させたマスターの少女の体を、文句を言おうとする自律型の魔術礼装ごと抱え込む。
それからマヒロとアサシンから一瞬も目を離すことないまま、一度教会の門にまで飛び退った。
背の高い囲いにイリヤの背を預けて寝かしながら、アーチャーは騒ぎ出そうとするルビーに口を開く。
「貴様の黙らせ方はわからないのでな。そして中立地帯とはいえ万一に備えるなら、貴様は主の傍を離れない方が良いだろう」
「ぐっ……!」
言い含められたルビーが反論を詰まらせたのを聞き届けて、アーチャーは再び軽く跳躍し、元の位置関係――イリヤ周辺の様子も監視できる位置でマヒロとアサシンに対峙する。
これで、自らを餌にアーチャーと分断したとして、第三のマスターやサーヴァントにイリヤを襲わせる、というような小細工も許すことは早々ないだろう。
「待たせたな」
「お気遣いなく」
再び眼前に戻ったアーチャーに対し、マヒロは涼しい声で即答した。
この様子を見る限り、イリヤが気絶させられる展開は想定内だったようだ。彼女が意識をはっきりさせていれば、アーチャーと会話する横で念話で異なる交渉を進めることも可能だったのだろうから、それをこちらが読むところまでは当然予測していたらしい。
かと言って、気配遮断中に他者へ思念を飛ばせるなら、そもそも顔を突き合わせる必要も最初からないはず。後々を含め、彼女だけに何かを吹き込むという真似を見逃す可能性は低いだろうとアーチャーは判断した。
そのような事態になってもマヒロらが何ら焦燥を見せないということは、それが何ら不利にならない――つまり自身と共闘したいだけという主張の信憑性が増したと感じたアーチャーは、口を開くこととした。
「それで、話というのは長くなるか?」
「いえ、この状況で提案することは簡単です。つまるところ、あなたにとっても目の上のたんこぶである存在を排除した上で聖杯戦争を続ける、その手助けというだけの話ですので」
そう言ってマヒロは自らの背後――延長線をイリヤと結ぶには高い位置、すなわち教会を指し示す。
「これは僕の勝手な印象ですけど、去り際の捨て台詞を見るにあなたとしても、監督役は早々に討伐したい相手のように見えました」
教会内でのやり取りから既に把握していたということを、何でもないことのようにマヒロは告げる。
「しかし、よりにもよってあなたのマスターが聖杯戦争に積極的と言えず、現状では唯一闘志を期待できる相手が参加者ではなく監督役。彼女を早々に討てば、その後の戦いに今以上の支障が出る。だから退くしかなかった」
「否定はせん」
「その答えで十分」
アーチャーの返答にほくそ笑み、口調を崩したマヒロは続きを述べた。
「今のままだと困るというのなら、替えてしまえば良いんだ――マスターを。その協力を僕らがしよう」
告げる少年の顔に浮かぶのは、まるで蛇のような笑顔だった。
最終更新:2017年12月04日 21:49