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「ない!!!!!!!!」
その日は、
小淵沢報瀬にとって今までと何も変わらない一日になるはずだった。
4月1日。新年度。本来、学生にとってはかなり大きな意味を持つ日。
例えば、学年が一つ上がる。後輩が出来る高揚感と緊張感。もう最高学年の先輩はいないのだと思い知る寂寥感を持つものもいるかもしれない。
例えば、クラス替え。新しいクラスメイトと馴染めるか、元々仲の良かった友人と同じクラスになれるか、ドキドキワクワクが止まらない朝。
しかしそれらのイベントは、報瀬の心を動かすことはない。彼女の心を溶かすことはない。
部活にもサークルにも所属していない彼女は後輩のことなんてどうでもいいし。
自分のことを「南極」呼ばわりする元々のクラスメイトにも、もしくはこれからすることになる新しいクラスメイトにも、興味はない。
……と言えばちょっとだけ嘘になる。興味や関心は無くても、自分のことをバカにする人間が増えるという想像は、少々堪える。
報瀬は出来る限り平静に「コイツらは偽物、コイツらはNPC……」と心の中で唱えながら学校での生活に耐えてきた。
朝。昨日の夜にこんなことがあった、今日の放課後はこういうことがしたいとワイワイ騒ぐヤツらの輪に入れない。NPCだ。気にしない。
昼休み。誰一人近づかない空白地帯と化した自分の机に弁当を並べ、黙々と箸を進めていると、窓の外から男女の笑い声が聞こえる。偽物だ。気にしないってば。
放課後、誰とも喋らず振り返らず一直線にバイトに向かう彼女を背後から嘲笑うヤツらがいる。作りものだ。気にするな。
夜。スーパーでレジ打ちしている報瀬を見てニヤニヤ笑いながらお菓子やコスメをぞんざいにレジの前に放り出すギャル集団に遭遇した。駄目だ。気にしちゃ駄目だ。
現実から冥界に堕ちても、報瀬の日常(じごく)は何も変わらなかった。変わってくれなかった。
それどころか、非日常(せんそう)までもが彼女の心を無慈悲に蝕み続ける始末である。
勝利に酔いしれることが出来れば、彼女のサーヴァントのように戦いに明け暮れることが出来れば、まだマシだったかもしれない。
だけど報瀬はどこまでいっても現実の、現代を生きるただの女子高生でしかなくて。
NPCではない、本物の人間が死んでいくことに対して無神経でいられるわけがない。
自分自身の手でなくとも、人を殺してしまうことが辛くないわけがない。
とある日曜日、重苦しい足を無理やり動かして献花に行った。
冬のルクノカが蹂躙し廃墟と化した街並み。多くのNPCと、紛れもなく本物の人間一人が消し飛んだ地。
せめてもの慰めとして、また報瀬自身の罪悪感を和らげるために、死者への手向けを行った。
手を合わせ、目をつむり、鎮魂する。花を置く。
小淵沢報瀬は、多少性格に問題はあるものの優しい少女である。
その帰りに、また一人死んだ。…………殺した。
たまたま出くわした他参加者を、ルクノカがあっというまに滅ぼした。
報瀬が献花の場所に選んだボロボロの電信柱が、今度こそ折れて倒れた。
花屋で選んだ色とりどりの花々が灰色に沈んで消える。それだけで彼女の稼いだ1200円は終わりになった。
お前のやったことなど何の意味もないと言われているようで。
お前が何もしなければ人が死ぬことはなかったと言われているようで。
虚脱感に襲われる報瀬を見て、ルクノカは笑った。
「今日はお散歩出来て楽しかったわねえ」と。
頭がおかしくなりそうだった。
そんな日常と非日常に挟まれて心を擦り減らしていく報瀬にとって、唯一救いとなっているのが彼女の貯めている「99万円」だった。
100万円貯めて、南極に行く。
母が南極で死んだと聞かされてから、とにかくがむしゃらにその目標に向かって頑張ってきた証。
100万円という金額に理由や根拠はない。
当時中学生だった報瀬にとって、とてつもない大金で、なおかつ超絶頑張ればいつかは手に入れられるレベルの額というだけ。
それだけのお金があれば夢が叶うのではないかという考えなしの目標は、それでも報瀬にとって灰色の日々を生きるための活力となった。
また、この冥界においては
小淵沢報瀬と彼女が生きてきた現世を結びつける唯一の証でもある。
生き返り、再会したい友人などいない。将来の夢などない。未来に希望も持っていない。
だけど、このお金があるから、南極に行くという目標があるから、まだ死ねないと思える。
生きる意味があるのだと、思わせてくれる。
今までの頑張りを無駄にしてはいけないと、挫けそうになる心を奮い立たせてくれる。
だから報瀬は、それだけの価値がある札束たちを封筒に入れて、大切に大切に手元に置き続けてきた。
寝る時はベッドの横に置いた。ぎゅっと封筒を握れば、安心して眠れる気がした。
学校に行く時も常にカバンの中に潜ませ、ひと時も離すことはなかった。
もしも学校に行っている間に自分の家が戦争に巻き込まれたらと思うと、とてもじゃないが家に置いていくことなどできなかった。
大切なものは、本当にびっくりするくらい呆気なく自分の元から消えていく。
母のように。だから、このお金だけは肌身離さず持っていたい。
まるで精神安定剤のような扱いだが、そうでもしないと本当に耐え切れなくなりそうだったのだ。
それが。
「ない!!!!!!!!」
冒頭の台詞に繋がる。
学校に到着してから新クラスの張り出しをぼけっとしながら見て、新しい教室に入り、当然誰とも喋らず、話しかけるなオーラを出して。
自分の席に着き、重い溜息を吐き出し、だらしなく開けっ放しになっている通学カバンに気付き、とてつもなく嫌な予感がして。
急激に覚めた目で人目もはばからずカバンの上部を探り、冷や汗をかきながら奥まで見て、店を広げるように机の上に荷物を並べて。
何度も確認した。祈るような気持ちで探し続け、それでも。
なかった。カバンの中をどれだけ探しても、99万円の入った封筒が見つからなかった。
新年度が憂鬱で、ルクノカの高揚ぶりに気が重くて、昨日の夜はなかなか眠れなかった。
だから当然のように学校に遅れる一歩手前の時間に目を覚ますことになり、慌てて枕元の99万円の入った封筒をカバンに入れ。
そして、うっかりカバンのチャックを閉め忘れた。ただそれだけのこと。
誰かの陰謀でもなければ劇的な事件に巻き込まれたわけでもない。ただのポカミス。
ただのポカミスで、報瀬は命の次に大事な99万円の入った封筒をどこかに落としてしまった。
ガバリと立ち上がる。広げた荷物を一心不乱にカバンに詰め込み、教室をあとにする。
「えっ?なになに」
「もうホームルーム始まるよー?」
「いいって、別に。あんなやつ。お前『南極』知らなかったっけ?」
「なんきょく?どゆこと?」
背後から聞こえる新クラスメイトの声。無視。聞きたくもない。
封筒が落ちていないか目を皿のようにして廊下を歩く。幸い、ホームルーム直前ということで人はいない。
玄関まで来て、もう一度、教室の前まで戻る。見落としがないか、必死の形相できょろきょろ辺りを見回す。
見つからない。ならばと猛然たる勢いで階段を駆け上がり職員室の扉を開ける。
「失礼します!」
「ん?どうした、お前は確か……」
「落とし物!」
「お、おお」
「届いてませんか!封筒の!」
胡乱な表情を浮かべる年配の教師。周りの教師もどうしたどうしたといった面持ちでチラチラとこちらをうかがう気配がする。
イライラする。時間がもったいない。視線も痛い。放っておいてくれ。
どうせNPCなんだからゲームみたいに決まった文言だけ言ってくれれば良いのだ。
「いや、そういうのは」
「失礼しました!」
「おい報瀬!お前ちょっとその態度は……」
脇目も振らずに職員室をあとにした。玄関で靴を履き替える。幸い、教師が追ってくる気配はまだない。
報瀬はこの冥界に堕ちてはじめて、学校をサボることに決めた。
偽りの世界での学校生活など、大切な「99万円」に比べればあまりにも軽い。
また、彼女にとって先生という人種は自分の目標をあーだこーだ言って否定したがる輩に過ぎない。
だから、真摯に事情を説明すれば彼らが助けてくれるなんて希望的観測は持てるわけがなかった。
自分の力で探すしかない。自宅から学校までの経路をたどるのだ。
「アーチャー!」
(あらあら、どうしたのかしら?)
報瀬のサーヴァント。『アーチャー』
冬のルクノカ。
とても恐ろしい最強の竜であり、本当に必要な場面以外では会話もしたくない存在だが、今は猫の手でも借りたい。
念話という手段すら忘れるくらい必死に、呼びかける。
「私の家、場所!分かる!?」
(はあ。シラセのおうち。分かりますよ。多分。
もう何日……あら、何十日だったかしら?そのくらいは一緒にいますからねえ)
「電車……私がいつも乗ってる、鉄のハコ!それは!?」
(ああ、分かりますよ。アレは面白いわねえ。沢山の人間(ミニア)がぎゅうぎゅうに詰まって)
事の重大性を一切理解していなさそうなふわふわした回答。
イライラが更に募るが、抑える。唯一の味方の機嫌を損ねて良いことなど何もないくらいの計算は出来る。
「私の家から電車のある場所まで、探して!飛んで良いから!」
(探す?何を?)
「だから、封筒!お金が入ってるの!」
そう言ってから、はじめて報瀬はルクノカに封筒の説明をしていないことに気付いた。
深呼吸する。こんな時こそ、冷静にならなければならない。
「薄茶色の封筒を、落としたの」
(あら、それは大変ねえ)
「だから、探すの手伝って……くれませんか?」
(ええ、いいですよ)
あまりにもあっさりとした答えだった。
(朝から夕方までガッコウ?という場所にいるのはとても退屈でしょう?
ウッフフ!こんな時間から出歩けるというならば、探し物くらいはお手伝いしますよ)
戦闘狂(バトルジャンキー)である
冬のルクノカにとって、学校という閉鎖空間で半日以上過ごすというのはあまり望ましいことではない。
もっと開けた場所、彼女が戦うべき英雄が待っていそうな場所に羽ばたけるのならば、大歓迎である。
「一応言っとくけど、封筒が落ちてるかもしれない場所で戦わないで」
(あら、それは難しいお話ねえ。こちらにその気がなくても、ほら、お相手の方からやってくるかもしれないでしょう?)
流石に詭弁だと分かる。
霊体化さえしていれば、本来は他の参加者に見つかることなどない。
だが、
冬のルクノカが英雄を見つけ、我慢できるはずもない。
そして、ルクノカの戦いを止められる力が報瀬にはないことも、互いに分かっている。
「……分かった。戦っても良いから。封筒が見つかるまで出来れば町はあんまり壊さないで。宝具は絶対に使わないで」
(さて、どうかしら。確約は出来かねません)
「…………もし封筒が見つからなかったら、私、死んじゃうかもよ」
流石にそんなわけはない。死ぬほど落ち込むだろうが。
ヘタクソな駆け引きだが、それくらいしか報瀬が提示できる手札はなかった。
彼女には、何もない。武力も知力もそれ以外の何もかもも、戦争に必要な技能も能力も何一つない。
自分の命だけを装備しての、身一つでの体当たり。そうすることしかできない。
(それは困るわねえ)
そう言いながらも、ルクノカはどこまでも平静だった。
果たしてこの最強種に己の声を届かせることなどできるのか。
心に巣食った不安を取り払うため、言葉を重ねる。頭を下げる。
「封筒が見つかったら連絡するし、今日はそのままあなたといっしょに街を出歩く。あなたが行きたい場所に行ってもいい……お願い、します」
(あらあら。なんだか意地悪をしちゃったみたい。
ウッフフ!良いんですよ、シラセ。ええ、出来る限り約束は守りましょう。
それよりも、あなたこそ危ない目に遭ったらすぐに令呪を使いなさいな?
おばあちゃんが飛んできて、あなたの敵を殺して差し上げますからね。ウッフフフ!)
冬のルクノカを冥界に留まらせる要石たる報瀬。勝手に死んでしまっては困るとルクノカは宣う。
もしも報瀬が死んでしまったら……それこそ、単独行動のスキルを持つルクノカは現界に残された時間を目一杯使って周囲を気にせず闘争を始めるだろうが。
ルクノカとて、出来る限り長い間、様々な英雄との蜜月(ころしあい)を重ねたいのだ。
葬者(マスター)である報瀬が死なないに越したことはない。
(では、またね。見つけたらお知らせしますよ)
そう言って、
冬のルクノカは霊体化状態で飛んで行った。
これでひとまず、台東区の自宅から最寄り駅までのルートをルクノカに任せ、報瀬自身は学校のある墨田区から駅までの道を捜索出来る。
どうか自宅近くを荒らさないで欲しいと願いながら、報瀬は報瀬で歩き出す。
「……がんばろ」
通学ルートを練り歩く。この時間だと通勤途中の社会人も多く、学生服を着た報瀬に目を留める人もちらほら見られる。
新年度早々に学校をサボる不良だと思われているのだろうか。あんなチャラチャラした連中と同列に見られるのは屈辱に過ぎるが、今は耐える。
きょろきょろと道の端や植え込みを探す。人目を気にしてはいられない。
流石に道のど真ん中に封筒が落ちていたら誰かが拾っているだろう。
だから、まずはその可能性以外を考える。誰にも見つからず、報瀬が迎えに来るのを静かに待っていてくれることを祈る。
なにせ、99万円である。
拾った人間が素直に落とし物として届け出ると思えるほど、
小淵沢報瀬は他人を信用することが出来なかった。
出来ないほどに、他人に対して冷めた目線を持ってしまっていた。
自分の夢を聞いては言葉を濁し、笑い飛ばし、遠回しに善意のつもりで止めた方が良いと言ってくる他者に対して、失望していると言い換えてもいい。
「…………ない」
だから、駅までの道中に封筒が落ちていないことに対して、報瀬は大いに絶望した。
ならば一縷の望みにかけて、落とし物が届いていないか駅員や交番に確認を取るしかない。
思わず零れ出る溜息。嫌なことが起きると分かっているのに、そうしなければいけないというストレス。
「すみません」
出来る限り平静を保ちながら、改札口の駅員に声をかける。
「はい。どうしました?」
「今朝、落とし物をしちゃって。駅に届いてないかって」
「どういったものでしょう?」
「封筒です。薄茶色の」
「どうだったかな……ちなみに、中身は?」
報瀬は言い淀んだ。だが、本当のことを言うしかない。
「……お金です」
「それは大変ですね。おいくらですか?」
「99万円です」
早口で言い切る。この後、どんな反応が来るか、分かっている。
「……はあ?本当に?99万、で間違いないですか?」
「そう言ってます」
「んー……すみません、少々お待ちください」
当たり前の反応である。
平日の朝に学生服を着た少女が99万円を持ち歩き、あまつさえ落としたと言う。
常識的に考えて、怪しすぎる。
「そういったものは届いてませんねえ」
どこかに連絡を取ったのだろうか、電話で誰かと応対した後に。
訝しげな視線を隠すことなく、駅員はそう告げた。
分かってる。おかしいのは分かってるってば。
「ありがとうございました」
何か言いたげな駅員を置き去りにして、足早にその場をあとにする。
次は交番だ。駅の近くにあったはずと位置情報アプリを開く。
すぐ近くにあると分かり、足を早める。息が詰まる。少し、くらくらする。
どっと疲れが出た。大切なものは見つからず、色んな人から変な目で見られて。
それでも止まるわけにはいかない。どれだけ嫌な思いをしても、足を止めるわけにはいかない。
ああ。そうだ。
また嫌な思いをするんだろうな。
流石に、交番のおまわりさん相手だとちゃんと事情を説明しないといけなくなる。
届いてませんじゃあさよならが通用するのはせいぜい学校の先生や駅員が限度だろう。
偽物、NPCと分かってはいても、公的権力相手に傍若無人にふるまえるほど、報瀬の肝は据わっていなかった。
きっと根掘り葉掘り聞かれる。普通の女子高生が持つには99万円という額は大きすぎる。
何らかの事件性があると思われてもおかしくない。家族である祖母にも連絡が行く。
そうすると連鎖的に学校をサボったことがバレる。
心配されるだろう。偽物であっても、祖母に迷惑をかけるということがまた辛い。
それに。
どうしてお金を貯めているのかという話になった時に。
また南極のことで、変な目で見られるんだろう。
母親が南極で行方不明になった。だから南極に行くためにお金を貯めている。
具体的にどうするのか? 南極の調査団にお金を渡してなんとかしてもらう。
なんとかって? うるさい。知らない。なんとかなる。
なんとかならなきゃ、私は何のために、今まで。
思い出す。思い出してしまう。
私の夢を聞いて「バカじゃないの?」と言い放った元友人を。
私の目標を応援すると言ったのに、少しずつ距離を置いて行った旧友を。
私の進路「南極に行く」を見て困ったなという顔を隠さない担任を。
祖母も、近所の人も、先輩も、みんなみんな、誰もかれもが、報瀬に理解を示してくれなかった。
きっと、今回もそうなる。
何を言ってるんだコイツはという顔で、とりあえず話半分で聞き流される。
もしくは、説教が始まるかもしれない。人生がどうの将来がどうのと、聞きたくもない正論を並べたてられるかもしれない。
嫌だな。厭だ。
でも、頑張らないと。
私しかいない。誰も助けてくれはしない。
99万円を諦めることなど、今までの報瀬の青春を捨て去ることなど、できるはずがない。
交番が近づいてくる。嫌な思い出が一つ増える場所が。それでも、ほんのわずかの希望があるから行かなければいけない場所が。
行かなきゃ。行かなきゃ行かなきゃ行かなきゃ行かなきゃ!
『行けるわけないじゃん』
クラスメイトに言われた、刺された言葉が、ふとフラッシュバックして。
歩みが止まる。思わず、下を向く。
ほろりと、涙がこぼれた。決壊しそうになる。
今まで必死に堪えてきた悲しみが、辛さが、やるせなさが。
99万円を落としたという一大事件をきっかけに、ついに。
小淵沢報瀬というコップから、溢れ出そうになる。
学校からここまで、何キロもかけて動かし続けてきた足が。
母が死んでから今まで、何年もかけて動かし続けてきた心が。
大切なものを探すため、大きな夢を達成するために、動かし続けてきた足が、心が。
凍ったように、止まって。
「おい、そこの君」
🐧 🐧 🐧
敷島浩一がその封筒を拾ったのは、全くの偶然だった。
この冥界の地において、敷島には家がない。まるで、この安寧の時代に居場所などないというように。
だから敷島は、日雇いの肉体労働で生活費を稼ぎながら半ば浮浪者のような生活を強いられてきた。
一日三食の、最低限の食事。何日も使い続けた後に捨て去る衣類。上手いことやりくりして、安いカプセルホテルに泊まれる日は上等に過ぎる。
彼のサーヴァント、バーサーカーが戦った日には魔力の消耗で肉体労働をすることも出来ず、栄養だけを一心に補給して静かに回復を待つ。
4月1日。その日もまた敷島は半分死体といったようなありさまで、駅の近くに腰を下ろしていた。
昨日、金髪の男から貰い受けた拳銃。十四年式拳銃。敷島自身が敵を殺すための武器。
それを隠すための小さなバッグを購入し、根こそぎ奪われた魔力を補給するためにとにかく精のつくものを食べて。
そこで、彼の有り金は底をついた。残金、130円。おにぎり一つくらいは買えるだろうか。
「クソ……」
恨めしそうに黒く武骨なデザインのバッグを睨む。正確には、その中に潜む拳銃をだ。
動作に異常はない。実際に撃ったことはないが、あの金髪の、戦争の匂いを振り撒く男が敷島を陥れるために不良品を掴ませたとは思えなかった。
あの男は、敷島が戦うことを望んでいる。彼が自分の指で引き金を絞り、敵に殺意を向けることを望んでいる。自然とそう思えた。
そこまでは良かった。のだが。
当たり前だが、現代日本で拳銃を持ち歩いていると通報される。逮捕される。
なので、拳銃を隠すためのバッグが必要となった。懐に拳銃を隠せるような上等な服を、敷島は持っていない。
そのために購入した1500円ぽっちの中古バッグだが、それでも昨日は魔力不足で働けなかった敷島にとって手痛い出費だ。
1500円もあれば、あと3食は持っただろう。身体を動かすために、十分な食事は必須だ。
身体を動かすことさえできれば、働ける。働ければ金が入る。金が入れば飯を食える。飯を食えれば、十全に戦える。
自分の中での戦争を終わらせるためにも、バーサーカーと共に戦場に飛び込むためにも、何をするにも金と飯が必要だった。
そんな折である。
体力を消費しないよう駅の近く、道の端で横になっていた敷島がふと人々の行き交う道に目を向けると。
ちょうどそのタイミングで、敷島の目の前で黒髪に長髪の少女が落とし物をした。
息を切らしながら走る少女の持った通学用カバンから、ぽとり、と。何かが落ちた。
「…………おい」
突然だったということもあり、空腹だったこともあり、蚊の鳴くような声しか出ない。
当然その声に気付けるはずもなく、少女はあっという間に雑踏に紛れていく。
ノロノロと、敷島は歩いた。見て見ぬ振りもばつが悪い。その程度には善良さが残った男である。
落とし物は、少しぶ厚めの薄茶色の封筒だった。
その色合いに顔をしかめる。嫌な記憶がよみがえる。
日本に帰るための復員船で、敷島と共に生き残った整備兵、橘に押し付けられた油紙。その中に入った写真。
彼が見殺しにした整備兵たち。戦争で失われた家族。みんなが写真の中から敷島を見つめている。睨んでいる。
なぜお前が、お前だけが生き残っている、と。
なぜお前は戦わなかった、と。
頭を振りかぶる。幻覚だ。
そうだ。俺は、俺だって、今は戦っている。責め立てられるいわれはない。
恐る恐る、封筒を拾う。爆発物を取り扱うように、おっかなびっくり中を覗いた。
「…………」
中に入っていたのは、敷島を呪う写真などではなく。
お金だった。それも、たくさん。
思わず、周囲を見渡す。敷島に注目している者はいない、まだ。
震えそうになる手を必死に鎮めながら、封筒をバッグに押し込む。
いてもたってもいられなくなり、その場から立ち去る。狭い路地裏に入り込み、もういちど周囲を見る。
誰もいない。そのことを2回にわたり確認し、封筒を取り出してもう一度中身を見る。
お金だった。それは、何度見てもお金だった。お札。1万円札の束。今の敷島が一番欲しいものだった。
「……どうしろってんだ」
これこそ天からの恵みだと思えるような単純な脳みそをしていれば、まだマシだったろう。
もしくは、このまま罪悪感なく自分の懐に入れてしまえるほどの悪辣さを持っていれば、もっと簡単な話だったろう。
だが、敷島は善良な男だった。悪いことをしでかせぬような、臆病な男でもあった。
作りもののNPC相手にだって挨拶し、困っている人を見捨てることも出来ず、悪行らしい悪行を何も成さぬままこの戦争に臨んで来た。
戦争帰りの、食うものにも困り餓死さえ見えている局面でさえ、見ず知らずの赤ん坊を捨てられず、行きずりの女の世話をしてしまう男である。
故に、悩む。苦悩する。このお金をどうすればいいのか、と。
「…………んん」
腹が鳴る。少し、目が霞む。栄養が足りていない。ぼんやりとした意識の奥で、悪魔が囁く。
敷島の中に居座る善意、良心、倫理観。それを食い破ろうと、食欲の皮を被った悪魔が呟く。
落とし物として交番に届ける意味があるのか?
この地が戦場になったら、交番ごとこの貴重なお金は消し飛ぶんだぞ?
それならば、お前が使ってあげた方がよほどこのお金たちも喜ぶというものだ。
それに、お前はこの地でサーヴァントを屠り、結果的に何人も葬者を殺してきたんだ。
今さら盗みの一つ、どうということはないだろう。
お前が助けた典子とて、あの終戦直後の時代に幾度となく闇市で盗みをしていたではないか。
生きるために仕方なく。今回も、同じことじゃないか?
そもそも、こんな大金をたまたま落とすというのもおかしい。年端もいかぬ少女が持っているというのはさらにおかしい。
金に困り、戦うことが出来ぬ敷島のために、冥界の地がさあびすしてくれたのではないか。
あの少女は、敷島を救うため天から遣わされた天使だったのではないか。
金を使い、飯を食い、戦え。そう言っているのではないか。
いくつもの声が、言い訳が、頭の中で敷島を襲った。
空腹。栄養不足。戦い抗うことも許されぬ見えない生存欲求が、冷静な判断力を奪い去っていく。
「…………」
お札を、めくる。
この金があれば、どれだけ上等なものを食えるだろうか。
いや、それだけじゃない。服だってちゃんとしたものを揃えられるし、住む場所だってなんとかなる。
お札をめくる。めくるたび、幸せな想像が敷島の脳を揺らす。
めくって、めくって、そして。
敷島は気付いた。気付いてしまった。
99枚もあるお札を最後まで数えていくうちに、気付いてしまった。
最後の方になればなるだけ、ボロボロの状態なのだ。
皺が目立ち、角はよれよれで、ちょっとしたことで破けてしまいそうなお札たち。
1日や2日、それどころか1ヵ月以上持っていたとしても、そうはならないだろうというありさまだった。
よくよくみれば、封筒の方もかなり傷んでいる。長い間、使い込んでいるようだった。
これは、ただの99万円ではない。
大切に大切に、少しずつ時間をかけて揃えてきた99万円なのだ。
もしかしたらこれを落としたあの少女が、自分の力で貯めてきたのかもしれない。
そこまで想像すると、一瞬だけチラリと見えた少女の顔には敷島と同じような疲れの色が見えていたような気がしてくる。
もしくは────死の色が。
「……………………」
どれだけの時間、ぼんやりと封筒を見つめ続けていただろうか。
敷島は、重く深い息を吐き出した。
歩き出す。路地裏を出て、日の当たる場所に出る。
まぶしい。目が眩む。それでも、暗い路地裏に戻る気はなかった。
コンビニを通り過ぎる。足を止めることはない。
レストランを通り過ぎる。足は未だ止まらない。
服屋も、デパートも、不動産屋も、全てを通り過ぎて。
「何やってんだろうな、俺は」
敷島は、交番の前までやってきた。
そういう男なのである。損な人間なのである。
お国のための特攻が出来ずとも、怪獣に挑む蛮勇を持てずとも。
ほんの小さな優しさを、決して手放すことが出来ない男なのである。
だからこそ彼は、戦争で何もかも失った日本国で、絶望渦巻く敗戦の地で、多くの人間に慕われてきたのだ。
彼の中に宿る狂気も、妄執も、殺意すらも、奥底にて眠る小光を搔き消すことだけは出来ない。
もう一度溜息をつき、交番に入ろうとして、はたと気付く。
交番の先、少し進んだところに一人の少女が突っ立っている。
道の真ん中で、下を向いたままカバンを小さく揺らしている。
そのカバンに、見覚えがあった。酷く沈んだ顔にも。
朝、この封筒を落とした子だとなんとなく直感する。
交番を通り過ぎ、少女の前に立ち、それでもこちらに気付かない少女のために声をかける。
変なやつに理由もなく話しかけられたと思われても困るため、あらかじめ封筒を渡す準備をして。
「おい、そこの君」
息を吐く。今度は安堵の息だ。
少なくとも、これで交番であれやこれや面倒くさいやりとりをしなくても良くなった。
自分の身なりを考えると、いわゆる職質を受ける可能性さえあったのだ。
お前が盗んだんじゃないかと、疑われる恐れさえある。カバンの中には拳銃。どうやっても良い状況になるとは思えない。
本人に直接返す。それが出来るのならば一番良い。
これで一件落着。敷島も必要のない後ろめたさを感じることなく戦争に赴けるというものだ。
「……はい……?」
少女がこちらに顔を向ける。その頬から、零れ落ちるしずくがあった。
少し、ぎょっとする。敷島は女の涙には全くと言っていいほど耐性がない。
立ち尽くしていた少女は、思わずたじろいだ敷島を不思議そうな顔で見つめ。
敷島の手に握られた、薄汚れた封筒に視線を移し。
「!!!!!!!!!!!!」
目を見開き、鼻息も荒いままに、凄まじい勢いで敷島の持つ封筒を握り締め、声にならない声を喉の奥から絞り出した。
「き、きみ、ちょっと」
「あ………………」
「……あ?」
「あ゙り゙が゙どゔご゙ざ゙い゙ま゙ず~~~~~~~!!!!!!!!!」
嵐のようなお礼だった。
少女は正気を失ったかのようにボロボロと大粒の涙を流し、鼻水まで垂らしながら、敷島を力いっぱい抱きしめる。
栄養失調気味の敷島は、目を白黒させながら必死の思いで倒れこまないように少女を支える必要があった。
思わず助けを求める。頭上にいるであろう、自分のサーヴァントに目線を送る。
バーサーカーは何も言わない。何もしない。霊体化状態で、黙って敷島と泣きじゃくる少女を見下ろしている。
男ならば自分で責任を持って何とかしろと言うように。
もしくは、バーサーカーの人工知能にこういう場合の対処法は載っていないと言うように。
意思疎通をほとんど取らぬ黒き影。狂戦士。死の化身。
それが、今だけは少し恨めしかった。
【墨田区/1日目・朝】
【
敷島浩一@ゴジラ-1.0】
[運命力]通常
[状態]空腹。
[令呪]残り3画
[装備] 十四年式拳銃(残弾8/8)
[道具]中古のバッグ
[所持金]130円
[思考・状況]
基本行動方針:戦いに勝ち抜き、自分の中の“戦争”を終わらせる。
1.ちょ、ちょっと君……。
2.とりあえず空腹を何とかしたい。
[備考]
定められた住居を持っていません。
現在は日雇いの肉体労働をしながら浮浪者のように生活しています。
【バーサーカー(
プルートゥ)@PLUTO】
[状態]正常。
[装備]無し。
[道具]無し。
[所持金]無し。
[思考・状況]
基本行動方針:憎しみのままに戦う。
1.■■■■■■■■■■■■■
[備考]
無し。
【
小淵沢報瀬@宇宙よりも遠い場所】
[運命力]通常
[状態]号泣。
[令呪]残り3画。
[装備] 封筒に入った99万円。
[道具]通学用カバン。
[所持金]30000円(冥界でのアルバイトで得たもの)
[思考・状況]
基本行動方針:優勝する……で良いんだよね……。
1. あ゙り゙が゙どゔ~~~!!!
[備考]
現在の住居は台東区にあります。学校は墨田区のため、電車通学をしています。
【アーチャー(
冬のルクノカ)@異修羅】
[状態]健康。元気いっぱい。やる気いっぱい。
[装備]無し。
[道具]無し。
[所持金]無し。
[思考・状況]
基本行動方針:喜びのままに戦う。
1. シラセの落とし物、どこかしらねえ。
2. 英雄と出会った場合、戦う。
[備考]
台東区に向かって霊体化状態で飛行中です。
一応「封筒が見つかるまで建物を極力壊さない、宝具を使わない」という報瀬との約束を留意しています。守るとは言っていない。
最終更新:2024年07月09日 05:55