「・・・おはようございます。」
「おや、お早いですねぇ。おはようございます、
ハークスさん。」
普段より早くなった陽が昇り始めた頃、居候の一人がキッチンにやってきた。
この世界、
聖域(サンクチュアリ)の南半球・・・ここより北に位置する大陸と季節が真逆だから、恐らくそうなのだろう・・・に位置する
ローイア諸島は今、真夏の年の瀬を迎えていた。とは言っても、
常夏の楽園と謳われるここでは、あまり季節の変化を感じられないのでいまいち実感が湧きにくいのだが。
「・・・いい匂いですね。こんな早くから朝餉の支度ですか?」
キッチンに入ってきたハークスの鼻をくすぐったのは、ほんのりとした出汁の匂いだった。
みると目の前の男・・・ムヴァの前に備えてある包丁とまな板の上には、水で戻した椎茸が細切りにされている。
「いえ、これは今晩の下準備なんです。忙しいですからね、今日は。」
「ああ・・・。」
そういえば昨日、この旅籠すべてを大掃除するのだと言っていた。
ここでは毎年、一気にその年最後の日に大掃除をするらしい。宿泊業を営んでいた影響だろうか、だとすれば経営していたころはもっと大変だったと思う。
そんな感じにハークスが思い出して考えていると、
ムヴァはくすりと笑っていった。
「今、コーヒーを淹れます。朝餉までゆっくりしていて下さい。」
「あ、いえ。それくらいは自分が・・・。」
「いえいえお気になさらず。」
しかしその隙を与えることなく、ムヴァはすぐにコーヒーを淹れる準備を始めた。既に湯は一度沸かしてあったのだろう。コンロにあらかじめ置かれていたやかんにすぐに火をつけると、程なくして暖かげな湯気がやかんの口から吹き出す。
ハークスはキッチンからでて近くの椅子に腰掛ける。先ほど椎茸の匂いを思い出しながらぼんやりとする。
旅籠の景観には似合うとは言いにくいが、しかし優しくどこか懐かしい匂いだった。あれで今晩は何を作るのだろうか。
そんなことを考えていると、ムヴァが淹れたてのコーヒーを持ってきてくれた。
先ほどの和風の匂いとは打って変わった、金縁に白いカップだった。
青い空、白い雲、澄み渡るエメラルドグリーンの海、きらきらと差し込む陽。
ジュニアとテトが同時に窓を開け放つと、それらが一気に今まで閉じこまっていた部屋に入り込んできた。
旅籠の大掃除はまず、今は使われていない客室のドアと窓をすべて開け放って空気の通りを良くすることから始まる。
彼女たちにとってこちらが身近な大晦日であり、雪降る寒空の下の年末、元旦は今まで写真の向こうの世界の出来事だった。
数年前、ふとした出会いから二人はローイア諸島から世界各地を少しずつ知ることになり、ローイア諸島だけでは体験できなかったことを経験してきた。今では白い冬も、白い吐息も少しは身近なものとして感じることができる。
「絶好の大掃除日和ー!」
「ええ、ほんとね。」
開けた窓から潮風を受け、二人は眩しそうに目を細めた。
しかしこれから二人・・・といっても召喚獣たちもいるのだが・・・がやらなければいけないことは自室を含めた沢山の客室の掃除である。
「・・・さ、ジュニア。窓は全部開けたから、まずは各部屋のものを全部外に運びましょ。」
「んー、後5分・・・。」
「そんなお寝坊さんみたいなこと言わないの。さ、早く終わらせて夕食までゆっくりしましょ。」
「はーい。」
姉のいうことを素直に聞いて、窓辺に組ませていた腕を解いて背筋を伸ばす。
すると・・・。
「テト様、ジュニア様、水拭きのバケツをお持ちしまっ・・・ウワアアアアッ!!!!!!」
どんがらがったばっしゃーん!!!
「フ、フラディーっ!!」
「ヘンリーィィィィッ!!!」
「きゅいーっ」
そんな慌ただしい音が次々と廊下の方から聞こえてきた。
テトとジュニアは目をまんまるにして顔を見合わせてから、思わず同時に笑い出した。
そんなこんなで大掃除を進めていく一行。
水拭き、窓拭き、掃き掃除、洗濯、整理整頓。
埃にまみれ、同じ体勢にたえたり、休憩を挟みながら、時には記憶の片隅に忘れていたものを引っぱり出したような気持ちになって盛り上がったり、誰かが知り得ないエピソードをぽつぽつ喋っていったり、思い出を話し、一年を振り返りながら。
そうして旅籠の大掃除は、月が笑い出した頃、ようやく終わったのであった。
「つっかれたぁ〜・・・・。」
「なんとか今年も終わりましたな・・・。」
「きゅぅーぃ?」
「はいはいヘンリーもお疲れ様。」
「今年は人手が増えたからねぇー。ほんと楽。」
「助かりました、ハークスさん。」
「へっ?」
最後にぎりぎりまで干していた洗濯物を一つにまとめ、畳み終わって全員は食堂に向かってそれぞれが話し合っていた中、突如声を掛けられたハークスは思わずすっとんきょうな声を出してしまった。
その様子をみてくすりと笑ったジュニアに、はっと我に返るとすぐに頭を下げた。
「いえ、お礼をされるような事はなにも・・・当然の事をしただけです。」
「またまたー。」
「遠慮・・・しすぎ・・・。」
「うっ、むう・・・。」
困ったような声をだして身体を傾げる彼に、また微笑ましい笑いが零れた。
そうして食堂に入ると、ふわりと一同の鼻をくすぐるいい匂い。
「・・・今年はお疲れ様でした。さ、どうぞ席についてください。」
微笑んでムヴァが待っていた先には。
細かい山菜や根野菜と高野豆腐やあぶらあげが入った昆布出汁のみそ汁、ぷりっと身が引き締まった数々の魚がのった寿司、色とりどりの野菜にからりとあがった唐揚げとフライドポテト、ローストポーク・・・。
テーブルに沢山並べられたそれに、歓声があがった。一日中動いてすっかりお腹を空かせた一行はすぐにそれぞれの席につく。
「ちゃんとセーブして食べて下さいね。後でお蕎麦をいただくんですから。」
ムヴァが微笑んでだしたその注意を守れる自信があるものはいなかった。
ハークスが席につくと、それぞれの席に添えられた箸や小皿の他に、もう一つ蓋がされた茶碗があった。
それを何気なく開けてみると、ふわりと香るのはあの椎茸の匂い。
湯気をたてて、黄色の身の上に金色の栗や渦巻き鳴門、鮮やかな緑に仕上がったほうれん草がのっていた。茶碗蒸しだ。
「ハークス、フライング。」
茶化すようなジュニアの声に、またハークスは我に返って慌てて頭を下げた。
そうしてすぐに始まった今年最後の夕餉は、とても賑やかで美味しかった。
珍しくテトの召喚獣全匹を含めた食事だから、単純に大所帯だったこともあるだろう。それだけ今日は特別な日なのだ。
聞くと、この変わった具だくさんのみそ汁と茶碗蒸しがこの旅籠の大晦日の定番らしい。思えばこれらのメニューはハークスが居候を始めてからこれまで見たことがなかった。
そしてこの具だくさんのみそ汁、薇や蕗が入ってるこれ。確か好き嫌いが激しいテトはこれらが食べられなかったはずだが、それでも普通に箸を進めているのは、そういった理由があるからかもしれない。
甘めの味付けの茶碗蒸しを食べ進めると、下の方に糸こんにゃくと鳥のささみ、そしてあの椎茸の細切りを醤油で味付けしたのがあった。なるほど、今朝準備していたのはこれだったのか。
あれだけあった料理達も、大人数にかかればあっと言う間に無くなってしまった。
それでも楽しい時間はまだまだ終わりそうにない。
それらの光景をしみじみと眺め、ふとハークスは身内のことを思った。特に自分の弟は、今どこで何をしているのだろうか。
「ハークスさん。」
そうしていると、声をかけられた。僅か12歳の少女、小宇宙を閉じこめたようなきらきらの瞳が、こちらを見ている。それが長い睫毛に閉じられると、にっこりと微笑んだ。
「来年も、宜しくお願いします。」
「・・・・こちらこそ。」
自分は居候の身で、まさか来年まで居座るつもりもないしそうできるとも思えない。自分の大人として自立した意志というものがある。
けれど、今この時を楽しんだっていいのだ。
それはまるでぼんやりとした微睡みの中で、未来をさぐるようなものだけれど。
今は、ここでいい。ここがいい。
さくさくに揚がった大きな海老天麩羅が乗った年越し蕎麦を啜りながら、一行は元旦を迎えた。
最終更新:2012年03月27日 20:04