読書日和 [#j960f307]
リナウェスタはとってもにぎやかな街。
海岸沿いは港町らしく、昼でも夜でも人や物が行き交っている。
そんな街の喧騒から少し離れた丘の上に、屋敷がある。
普段は魔法で作った結界のおかげであまり目立たないが、屋敷というか、館というか、城と呼んでも差し支えない大きさの建物だ。
それが
リダスタ家の住居であり、
ヴィダスタの実家だった。
丘半面ほどが土地という広大な敷地もさることながら、リダスタ一族全員が住まうその家にはありとあらゆる知識が詰まっている。
それゆえに裏社会に通じているとか、住人の大半は変わり者という事実はさておき、リダスタ家には家族共有の書庫があった。
もちろん、その書庫もとてつもなく広い。
部屋一面に敷かれた上品な衍字色の絨毯の上には、移動式の梯子が付いた本棚がいくつもそびえ立ち、石でできた壁には大きな窓が何枚もはめ込まれている。
窓際には大小様々なアンティーク調の机やイスが置かれ、丘の下に優雅に広がるリナウェスタとそこから広がる広大な海を見る事が出来た。
天井には豪勢なシャンデリアが等間隔で並べられ、魔力でともされる光が最適な読書空間を作り上げている。
そんな、読書好きならば一生住みこんでしまいそうな書庫。
しかし、各自要りようの本は自分の部屋にあるので普段書庫に人はいない。
ヴィダスタもまたしかりで、よく家に来る
ティマフがヴィダスタにあてがわれた本棚の蔵書を読みあさるのが最近の書庫での風景だ。
だのに今珍しいことに、ここ数日この書庫の片隅には乱雑に積まれた本の小山ができていた。
辞典に図鑑、小説をはじめとして、そのジャンルは様々だ。
心なしか上に積まれている本ほど分厚く、小難しくなっているように見える。
その山を作った本人は、小さな国の玉座の如く積み上がった本の上で、黙々と読書にふけっていた。
さらにその近くにも同じような本の山があって、その上でも黙々と読書にふけっている人がもう一人。
こちらの山は少し小振りだった。
「…困ったものだな。」
朝からずっとその様子を眺めているルティカが1人ごちた。いや、正確には彼の隣りには同じように朝からティマフがいるし、窓の近くではヴィダスタが
ルルティに絵本を読んで聞かせているし、他にもフォルアやユシェアが来ている。
が、ルティカは誰に言うでもなく言ったので独り言に近い。
「…まったくだ。」
同じく朝から来ているフォルアが、深いため息とともに返した。
「もう何日こんな状態でいるわけ?」
本棚の陰から両手に数冊の本を抱えたユシェアが出てきた。彼はさっきからそうやって暇つぶしに本を読みあさっているが、山を作っている二人に比べたらとてもまともな読書だと言えた。
ティマフがぶっきらぼうに答える。彼女は彼女で絨毯の上に寝そべってくつろいでいた。
「ユキは5日目、ディプスは3日目。」
当の本人、ユキが本の山から下りてきた。
彼女は今しがた読み終わった本を山の頂に加えると、すぐに次の本を無造作に本棚から抜き取り、また山の上に座って読みふける。
さすがに心配になったフォルアがユキに何か話しかけるが、ユキは何も聞こえていないと言った様子で本を読み続けていた。
さらにユキの隣りの山にはディプスが座っていて、ユキと同じように読書を続けていた。
天地がひっくりかえっても起こらないと思われていたことが、起きていた。
13歳になっていまだに読み書きが満足にできないユキは、ティマフに勉強を(強く)勧められていた。
初めこそ嫌々本を手に取っていたユキだったが、ある日突然、一日で本を読み終えてしまった。
それは何の変哲もない、ただの中編小説のはずだった。
ヴィダスタとティマフが喜んだのもつかの間、その小説をものすごい速さで読み終えたユキは、なぜかすぐに手近にあった研究書を手にして読みだした。
怪訝に思ったヴィダスタは短編小説を勧めたのだが、ユキは頑として研究書の読破にこだわった。
しかしそこはユキだ。
分からない単語があったらいちいちティマフやヴィダスタに意味を聞いてくる。
そこでティマフが百科事典の存在を教えたところ、読みかけの研究書そっちのけで百科事典の方を先に読破してしまった。
食事も睡眠も会話もろくにしないままそんな状態が三日続き、三日目に様子を見に来たティプスまでもがいつの間にか読書にいそしむようになってしまった。
で、ディプスの付き添いで来たルティカとルルティ、事情を聞いてやってきたフォルアとユシェアであれこれと手を尽くしてみたが、
2人はほとんど誰の言葉も聞かず、探している本が見つからない時に本の場所を聞くのが唯一の会話だった。
フォルアはさらに実力行使でユキから読みかけの本を取り上げてみたのだが、ユキは取られた本はさっさと諦めて別の本を読み始めるだけで、
そしてあろうことか、いつの間にか取られた本もちゃっかりフォルアから取り返して読破してしまった。
ちなみに、ヴィダスタ以下5人は何の変化もない。
ルルティは絵本以外に触らないように強く言われているため、彼女も問題なしだ。
そしてまたものの10分程度で読書を終えたユキが本棚の下段を物色し始める。
本の背表紙を舐めるように目で追い、指でなぞり、目当ての本を探すのはよくあることだが、目の下の隈と少しやせた頬のせいで、その動作さえもどこか狂気じみて見える。
そのある種ホラーな光景を作っているユキは、いたっていつもどおりな声で聞いてくる。
「ヴィダスター、『サカサマガエルの理論』ってある〜?」
「知るか!;」
ヴィダスタが即答するのも無理はなかった。彼女はそんな理論など聞いたことも読んだこともない。
同じように、本を読み終えたらしきディプスが聞いてくる。
「ヴィダスター、『官能学』って…」
「自分で探せーー!!」
こちらは最後まで言えずに本の山から蹴り落とされた。
そして蹴った本人であるヴィダスタは耳まで真っ赤になりながら走り去った。
その後ろを、絵本を抱えたルルティが健気に追いかける。
皆(ユキ除く)が唖然とする中、ティマフだけがつぶやいた。
「…まだ免疫なかったんだ。」
27歳なのに。
思わず付け加えそうになったが、さすがにこの言葉は飲み込んだ。
本棚越しに、なにやらわめくヴィダスタとそれをなだめるルルティのやり取りが聞こえてくる。
まあ問題は…とティマフは再び本の山に目をやる。
昼も夜も、飲まず食わず寝ずで読破されていった本たち。
ヴィダスタの喚き声がさらに大きくなった。どうやら、ルティカもヴィダスタをなだめに行ったらしい。
…火に油を注ぐだけなのに。
ティマフが呆れて頭を抱えるが、向こうは照れたヴィダスタが照れ隠しにルティカに一発お見舞いして終結したようだ。
そして目当ての『サカサマガエルの理論』は自力で見つけたのか、また山のてっぺんにはユキがいて、気がつけば窓から夕日が差し込んでいる。
その様子を見て、ユシェアがポツリとこぼした。
「まるで本の虫だね…。」
本の虫。 ティマフの中で何かがひらめいた。
「ユシェア、フォルア、そっちの辞書棚からアルベニア語ってやつ探してきて!」
それだけ言うとティマフは本棚の間を走って行った。
残されたユシェアとフォルアは頭の上にハテナマークを浮かべながら、言われたとおりの辞書を探し始めた。
しばらくして、ティマフが一冊の本を抱えて戻ってきた。そしていつの間に戻ってきたのか、フォルアの隣に若干しょげているルティカが加わっていた。
ユシェアが今しがた見つけた辞書とティマフの本とを見比べる。
今ユシェアが持っている辞書よりも、ティマフの本の方が2倍は厚い。
「それがアルベニア語?」
「うん。」
ティマフが持っていた本を床に広げて、横書きの文章が連なるページをめくる。
その本を囲むようにしてユシェアとフォルアが座る。
「私達の言葉によく似ていたからざっと読んだことがあるんだけど…」
「へぇ…。母国語?」
ユシェアの質問に、ティマフの肩が一瞬だけ震える。
「…劇団で使われてる歌とか台本の、一番古いやつがこの言葉と似てるんだ。普段からも使ってるし、まあ標準語みたいなもん。母国語だったかはわからない。」
ティマフは自分の種族の都合上、あまり身内を話せない立場にある。だからいつも、特に会話では自分のことを話さないように気をつけているので、
ティマフが身内の事を話すのは珍しかった。
本人も無意識に身内の片鱗をしゃべってしまったことに動揺していた。
それを隠すために、ページを破りそうな勢いで本の内容をさらっていく。
やがて、ページを繰っていたティマフの手が止まった。
「あった。きっとこの辺。でも単語がほとんど分かんないから訳さなきゃ。」
ティマフが指した部分をユシェアがのぞきこむが、やはり何が書かれているか分からない。
ただ、ページの一番上には単語一つで表題らしきものが書かれており、書かれていることについての挿絵があるのはわかった。
積み上がる本の山に座り、ひたすら読書をする小さな子供の絵だった。
ちょうど恥ずかしさを乗り越えたヴィダスタも戻ってきて、フォルアが辞書を片手に訳して読み上げていく。
「本の虫。…時々本に住み着いている。知識を栄養とし、人に寄生し、寄生された人は読書にいそしむ。」
「まさにそうやね…」
ヴィダスタがうなづく。
一つため息をつき、フォルアが続ける。
「寄生された人が充分読み書きできる程度の知識があればそれは普通の読書となるが、そうでない人は、虫の知識欲を満たせず、虫の本能に従って読書バカ道をひた走る。」
「それでか…」
ティマフが納得する。ユキもディプスも、めったに字を読んだり書いたりしない。
フォルアが最後の段落を読み上げる。
「対処法。寄生された人が一番最初に読んだ本に親虫がいるので、その本を燃やす。親虫の住む本は常に宿主の知識を吸ってページを増やすため、積まれた本の中から比較的厚い本を――」
「あ。」
そこまでフォルアが訳した時、ユシェアが短く声を上げた。
見ると、ユシェアがある一点を見つめて固まっている。
さらにユシェアの視線を追っていくと、
きれいに片づけられた絨毯の上で黙々と読書を続けるユキとディプスがいた。
「えっ?」
「あれ?」
ティマフとヴィダスタが同時に声を上げる。
本の山はどこへ?
全員が同じことを思う中、本棚の間から明るい声がした。
「ティマフおねえちゃん、梯子取って〜!」
何か嫌な予感がしたティマフが恐る恐る声のした本棚のところを覗く。
「…ルルティ?」
「あ、おねぇちゃん!」
本棚の前に、懸命に移動式梯子を引っ張るルルティがいた。
本を抱えたまま片手で、しかも梯子は上の方で棚からはみ出した本につっかえて動けないようになっている。
…それじゃ動かなくて当たり前だろう。
ティマフが苦笑し、さらに今の問題に直結しそうな、でも直結してたらあまりにも聞きにくいことをルルティに尋ねる。
「ルルティ、もしかしてユキとディプスが読んだ本を、全部…?」
ティマフの悪い予感は当たった。
「うん! さっきからずっと片づけてたの!」
元気いっぱいの答えは、今の問題と直結していた。
「うん、そっか。ごめんね、さっきからルルティだけ仲間外れにしちゃって…」
ティマフはそれ以上どう言っていいかわからなかった。
そばでそのやり取りを聞いていた全員は、これには絶句するしかなかった。
今までユキとディプスは様々なジャンルの本をほとんど手当たりしだいに読んでいたため、二人が読んだ本の題名など誰も(おそらく読んでいた本人も)覚えていない。
虫対策は徐々に分厚くなる本を燃やすことだが、分厚い本など本棚に入ってしまえばいくらでもある。
こんな広い書庫の中を、たった一冊虫に寄生されている本を探すなど、何日かかるか。
しかもその間、ユキとディプスはずっと読書を続けることになる。
「…確かユキが最初に読んだ本は中編小説だったな? 題名は覚えているのか?」
ルティカが、わずかな望みを託してヴィダスタに尋ねる。
彼女からの返答は短いものだった。
「…いいや。」
ルティカが視線をティマフに移すと、ティマフも申し訳なさそうに肩をすくめた。
この状況が他の人の仕業なら怒鳴るなり殴るなりするところだが、相手がルルティでは誰も怒るに怒れない。
しかも、ルルティは大人たちが難しい話ばかりするので、暇を持て余した結果本を片付けたというだけのこと。
ルルティには悪意も悪気も、ましてや非など一切なかった。
不穏な空気をルルティに気取られまいと、ヴィダスタがすかさずルルティの頭をなでた。
「ありがとうな〜、ルル。二人の代わりに片づけてくれたねんな。」
もちろんヴィダスタは膝立ちだ。こうしないとルルティと目線が合わない。
そして、ルルティを労う言葉も心からのものだ。
なでられた上にさらにほめてもらったルルティはヴィダスタに飛びついて、その報酬に甘えた。
「うん!あとね、これで最後なの!」
ヴィダスタがルルティの抱えている本に目をやる。確かにこれが最後の一冊らしい。
表紙からして絵本のようだが、絵本にしてはやたらと厚みがある。
「ルル、それっ…ちょっと見せて?」
ティマフが本を受け取り、ルルティには見えないように本の最後のページを開く。
「まさかその本がこれから探すやつだったっていう落ち?」
ユシェアが横から覗き込む。
本の最後はいたって普通に題名、作者、出版社、発行日などその他もろもろが印刷されていた。
ティマフがため息をつきながら本を閉じる。
「…違うみたい。」
今度こそ、本当に絶望的だった。
「それね、もう一つ向こうの棚の9段目なの。」
ヴィダスタに抱っこされたルルティがティマフに教える。
書庫の本は最後のページに棚の番号が記されており、決まった棚に戻す決まりになっている。
確かに本の番号は今ティマフが立っている隣の本棚の、上から9段目を示していた。
上から9段目といっても、この書庫の本棚は15段以上が普通なのでルルティでは梯子でも使わないと届かない。
「そういえば梯子が動かないんだっけ。」
ティマフが本棚を見上げ、フォルアが本を棚にしっかりと収めるために軽々と梯子をのぼって行く。
梯子の移動を邪魔している本は、棚の上から2段目にあった。
「ん…?」
本に手をかけたフォルアが止まった。
「どうしたん?」
その様子に気づいたヴィダスタが尋ねる。
「かなり固いな。」
フォルアは初め本を押そうとして、次に引き抜こうとしたのだが、本がびくともしない。
梯子の下でルルティが加える。
「それね、すっごく入りにくかったの。それでそこからもう動かなくなったの。」
そこでユシェアがあることに気づいた。
「ちょっと待って、ルルティの力で一応そこまでおさまったんだよね? なのに今フォルアの力でびくともしないの?」
「本の厚みが増したのかもなっ」
フォルアはそう結論付けると、本棚に片足をかけて力ずくで本を抜きにかかった。
すでに端から端までみっちりと本が詰まっていた棚が、ギシギシと嫌な音を立てる。
さらにあの手この手で力を加減して本を引っ張るものだから、本棚まで揺れ始める。
「フォルア、本棚は壊したらあかんで! 何が発動するか分からへん!」
「それより本がなだれるんじゃ?;」
「分かって…いる、さ!取れたぞ!」
フォルアが梯子から飛び降り、皆がその周りに集まる。
ヴィダスタが心配していた本棚の損壊も、ユシェアが心配していた本の雪崩も一切起こらなかった。
ようやく引き抜かれた本は、もはやフォルアが片手でつかめないほどの厚みを持っていた。
ユキとディプスだけ、周りの苦労を知ってか知らずかまた新しい本の山を築き上げようとしていた。
フォルアが、少しだけ本の最後を開いてみる。
「で、どうなの?」
ユシェアが開かれた本を覗き込もうとしたが、先に本の中が見えたティマフがフォルアから本をひったくって投げた。
「ちょっと、ティマフ!」
ユシェアが止めるのも間に合わず、いやむしろユシェアの制止なんてないのが前提であるかのような速さで本が窓に当たり、床に落ちる。
幸いにも、窓も本も何事もなかった。
ユシェアが慌てて本を拾いにいき、反対に投げた本人は青ざめた顔でルルティをつれて窓から遠く離れたところまで下がってしまった。
「何が書いてあったん?;」
ヴィダスタに促され、ユシェアが周りのルティカとフォルアにも見えるように本を広げた。
瞬間、ヴィダスタがティマフとルルティのところまでダッシュで逃げた。
今度は、誰も何も言えなかった。
「これは…;」
「これは女の子なら、逃げても仕方ないか;」
フォルアとユシェアが口々に納得する。ルティカはすでに本から目をそらしてしまっていた。
本の虫は、自らの体で文章を書いていた。
文字となっている黒く細い虫が卵を産み、そこから白い虫と黒い虫がうまれ、白いほうは新しいページに、黒いほうは新しい文字となって本のページを増やしていた。
しかし、その作業をしているのが1匹や2匹ではない。
100匹近い虫たちが同時にその作業をこなし、しかも黒い虫は文字となった後も少し身を捩じらせているのでページ全体がモゾモゾと動いているようにも見える。
虫が苦手な人ならひとたまりもないだろう。
しかも文章の内容は暗殺方法や賢い女性の口説き方など支離滅裂だ。
高らかに、しかし地鳴りのようなティマフの歌声が聞こえた。
「―――熱き衣――」
フォルア、ルティカ、ユシェアの3人が振り向くと、真紅の大翼と鉤爪を生やしたティマフがこちらに歩いてくるところだった。
普段よりも軽装のためむき出しとなっている彼女の両腕には、虫への拒絶反応でびっしりと鳥肌が立っている。
「―――絡みつく情――」
歌にあわせ、ティマフの膨大な魔力が収束し、その鉤爪に炎がともる。
陽炎のように揺らめくティマフの魔力の向こうで、ヴィダスタとルルティがおびえていた。本の虫がイヤなのかティマフが怖いのかは、判断をつけないほうがいいのかもしれない。
「――すべてを引き裂け―――!」
3人が本から飛びのく。
そして一冊だけ残された本には、ティマフの渾身の一撃が振り下ろされた。
本が消し炭になった瞬間ユキとディプスは元に戻ったが、二人とも読んだ本の内容は本の虫に吸収されて全然覚えていなかったという。
そのため「読み損じゃないか!」と(特にユキが)ティマフにきつく叱られることになったのだが、それはまた別の話。
最終更新:2012年03月27日 20:12