彼女の中に残っていた気力は、フィーク家からリナウェスタへ帰るまでに全部使ってしまったらしい。
 一向にベッドから起き上がる気にもなれず、かといって何時間寝ても倦怠感ばかり全身にたまっていく。この状態でまだ体内時計が狂っていなければ、アパートの外は昼になっているはずだった。

 ――寝すぎるんは逆に体に悪いんやな

 寝巻きにも着替えず、いつものオーバーオールでベッドに寝そべったまま、ヴィダスタは思った。家に帰ってから何も食べてないが、彼女にとってはその空腹すら倦怠感と同じようなものだった。
 息を吸ってみる。アトリエ兼寝室にしているせいで、油絵の具のにおいしかしない。
 息を吐くと、より気分が沈んでいく。

「……しんどい」

 こうなってしまった理由は、ヴィダスタ自身もよくわかっている。ただ、気持ちの整理はついていると過信してしまっていたのか、アパートにたどり着いてからは完全な無気力に陥っている
 いつになく気落ちしているヴィダスタを、同居人がほうっておくわけがなかった。ティマフなんかは、ヴィダスタがまだ何も話していないうちに彼女の顔を見るなり「明日の仕事は全部キャンセルしとくね」と言ったくらいだ。
 ヴィダスタからしたらそういった感情は隠し通すつもりでいたのだが、実際のところこうやってベッドから起き上がれないのだから、ティマフの判断は正しい。

「ヴィダスター? おはよー?」
「ヴィダス、死んだの?」

 ドアの向こうから、ノックをするユキとチェダーの声が聞こえる。ティマフのように何か感づいていなくても、一日中部屋から出なければ二人が心配するのも当然だった。
 しかし、今のヴィダスタは返事をするのさえ億劫だった。

 ――今日は休もう。仕事もないんやし

 言い訳のような思いを巡らせながら、ヴィダスタは寝返りをうった。

「しーずーかーにーしーなーさーいー」

 ドアの向こうで、ティマフがユキとチェダーを叱る声がする。

「ヴィダスタどうしたの?」
「病気?」
「いいから静かにする」

 ティマフを質問攻めにする二人の声を最後に、部屋の外はぱったりと静かになった。
 いや、かすかに物音が聞こえる。それから話し声も。
 できるだけ物音を立てないようにして、ヴィダスタはベッドからドアのほうへと歩み寄ってみた。
 ドア越しであるにもかかわらず、話し声がはっきりと聞こえる。潜める努力はしているのにどうしても次第に声が大きくなるユキやチェダーに、ヴィダスタは少し笑った。

「どうすんの……?」
「これで元気になる?」
「待ってあげるの。元気になるまで」

 物音から、三人ともドアのすぐ外で座っているらしい。ヴィダスタも倣って、ドアに背を預けてその場に座り込む。

「それまでどうすんの?」
「遊ぼうか。チェダー、トランプとUNO持っておいで」
「はーい!」

 直後にユキとティマフが「しー!」っと言うのが聞こえて、今度こそ完全な静寂が訪れた。
 しばらくして、カードをめくる音だけが聞こえてきた。それをドア越しに聞きながら、ヴィダスタは再びまどろむ。
 まどろんでいてなお、頭の中を浮かんでは消える映像に溜め息をついた。

――あきらめがわるいなぁ、うちも

 胸でもかきむしれば楽になるだろうか、という考えもヴィダスタの頭に浮かぶが、思い出す景色はどれも穏やかなものだった。何回か自分が怒り任せに怒鳴った覚えもあるが、そう、どれも……、

「ジャック」
「うぇ……12」
「私はパス」
「……ティマフ絶対ジョーカー隠してるでしょ」

 どれも、丁度ドア越しに聞こえてくるささやき声のように、微笑ましいものばかりだった。
 ドアの向こうでは大富豪をやっているらしい。
 ティマフはおそらく、余裕の笑みを浮かべているだろう。

「うーそーつーきー」

 不服そうなチェダーの声に、ティマフが「しっ」と制する息遣いが聞こえる。自分の声を飲み込むように、チェダーが口をつぐんだ。
 しかし、不服そうにしていてもチェダーだ。彼なりにちゃんと策は練っているはず。いつも苦戦するのは、ゲーム中は常に眉間にしわを寄せるユキだった。
 ヴィダスタがそう思っていると、ドアの向こうで興奮を押し殺したようなユキの呟きが聞こえた。

「革命……っ!」

 ひゅっと誰かが息を呑んだ。

――そうやった

 ヴィダスタは思い出した。ユキは運がつよい。
 それから何順ゲームをしたのだろう。不意にティマフの声がした。 

「ご飯食べようか」

 それからティマフが立ち上がる気配。ヴィダスタはてっきり背後のドアが開けられるかと思って慌ててその場を離れようとしたが、力が入らなかった。
 しかし幸いにも、ドアが開けられることは無かった。
 惰性的に、ヴィダスタは深く息を吐いて床へ倒れこむ。
 このまま、骨になってしまった方が楽だろうか。

「ほらほら、手伝えガキどもー」
「「おおぉおー!」」

 三人はティマフを筆頭に、料理をするらしい。
 ぱたぱたと走る足音が床を伝ってヴィダスタの耳に入ってくる。

「チェダーは鍋に水入れて、ユキは野菜切ってね」
「いいけど、ティマフは?」
「私は味見担当」
「えー!」
「ずるーい!!」

 途端にユキとチェダーから不満の声が上がり、逆にティマフは笑い声を上げた。

「冗談! 肉でも焼くよ」

 今度は先ほどまでの静けさが嘘のように、ドアの向こうが無邪気な笑い声で溢れた。
 ほどなくして、料理のにおいも漂ってくる。

「チェダー! せめてお皿にとって食べてよ!」
「大丈夫、堅いこと言わないの」
「ティマフの口真似してもダメ!!」

 全然似ていないチェダーの物まねにはヴィダスタも苦笑した。
 ドアの前に誰かがくる気配がする。

「それお皿洗ったら三人で訓練場行くからねー!」

 ティマフだった。彼女はドアの前になにかを置くと、チェダーとユキをつれて外に出てしまった。
 めまいを起こさないよう、ゆっくり時間をかけて起き上がりながら、ヴィダスタはそっとドアを開ける。
 ドアの前には、スープが一杯だけ置かれていた。
 まだ湯気の立っているそれを寝室へと引き入れ、ヴィダスタはドアを閉める。いつもイーゼルの前に置いてある丸イスをテーブル代わりにして、スープを口に入れた。

――なんや、食べられるんか

 その時になって、ヴィダスタは今更のように空腹を思い出した。思い出せたら、あとは自然と食事が進んだ。

――案外、大丈夫なもんやな

 皿はすぐ空になってしまった。活力を取り戻した足で立ち上がると、ヴィダスタは部屋のドアを開ける。
 当たり前だが、ヴィダスタ一人だけを残したアパートはしんと静まりかえっていた。しかしまだ、どこか同居人たちの笑い声がやわらかく漂っているような気もする。
 皿を流しで洗いながら、ヴィダスタは同じく自分の中を漂う想いのことを考えていた。

「……せめて、うちだけでもケリをつけておかんとな」

 皿を戸棚にしまい、ヴィダスタはまた寝室に戻った。一度窓を開けて外の様子を伺い、誰もアパートに来ないことを確かめてから、窓もしっかりと閉じる。
 そして、寝室の壁一杯に立てかけてある一つのキャンパスと向かい合った。
 ヴィダスタが持っている、一番大きなキャンパスだ。それをイーゼルではなく壁に立てかけ、暇を見つけては絵を描き足している。
 しかし、おそらく完成することはないだろう。
 このキャンパスは、今までの、そしてこれから出会う人達を描いて、埋めて行くつもりなのだから。

「我ながら女々しいことやけど……」

 キャンパスは半分以上の余白を残して、たくさんの人で埋まろうとしている。ヴィダスタが今までに出会った、普通とは少し違う世界にいる人達。

「さすがに本人を前にしては無理やからな~……」

 ヴィダスタはその中に、彼も描いていた。
 それを前にして、ヴィダスタは口を開く。

「……っ」

 言葉をつむぐ前に、涙が先に出てきた。予想できていなかったことだが、止まる気配もないのでヴィダスタはそのまま続けた。

「……きでした……」

――いつの間にか……

「……いつの間にか、好き、でした……!」

 ティマフなら、けじめをつけるなら本人に直接言うべきだと言うだろう。しかしヴィダスタは、本人が目の前にいなくてよかったと心の底から思った。
 こんなだだをこねるように泣きじゃくる情けない顔も、姿も、見られたくなかった。
 本当は、こんな情けない姿こそさらすべきなのだろう。相手を信頼しているなら、好きなら尚更。

「でも……うちでは、無理やから……」

――ただ、せめて……許されるんやったら

「……そばに……っ」

――近くに、居させてください

「今度は……ちゃんと…………しあわせ、に……、応援……っ、するから……!!」



――幸せに、なってください



最終更新:2012年03月27日 20:13