カナリヤは現在、ヴァスティタス・ボレアリスの岩場で迷彩布を被っている。
コンパニヤ指導者によって火星ドーム群の独立宣言と宇宙連邦への宣戦布告が行われていたという事実をカナリヤの乗組員が知ったのは、所属不明部隊の追撃と極冠の強力な磁場から逃れた後である。
通信網は全て火星連合側のもので占められている。通信衛星が機能していないので、宇宙との交信は断絶している。
報道の内容を省みるに、テーレマコス・ターミナルのマスドライバー施設は、デハドスと名乗る武装組織に押さえられているらしい。
つまり、連邦軍が彼ら反乱軍を鎮圧しないかぎり、宇宙に逃れることは出来ないのである。
火星開発公社は元々は連邦政府の一部門である。加えて、先日の襲撃部隊はガーランドで構成されていたためデハドスの手の者である可能性が高い。
火星連合と敵対する意思はないと主張して降伏しても、あまりいい待遇を受けるとは考えにくい。また、カナリヤの遺跡調査と宣戦布告の時期が重なったことについて、内通者の有無も問題である。
乗組員は皆スペースノイドであるが、袖の下に対して人種の壁は無力に近い。
やや思い上がった考えであるが、時勢が時勢であるから、火星連合が決起の頃合を計ることで、会戦のどさくさに紛れてブラックテクノロジーを手に入れようと画策した可能性もあった。
しかし、そうした内輪の揉め事は後回しにされた。第七次調査団は民間団体である。連邦軍とは違って、己の身から出た錆がどこでどうなろうと知ったことではない。
利益を上げられさえすれば結構なのである。内通者が研究成果を持ち出すにしても、研究は各部門に細分化され、具体的な形にまとめる人間は、実質的にアルフ・スメッグヘッド博士一人といっても過言ではない。
白衣の研究員たちのほとんどは自身が何を研究しているのかさえ知らされず、アルフ博士の手足と変わりなかった。
歪な組織構造であるが、ブラックテクノロジーの調査といういかがわしい仕事をする組織においては理に適う構造であった。
何となれば殆どの職員が、法を犯すという観念を抱かずに済むのである。調査団が今最も恐れているものは、野蛮な火星の武装組織と、連邦政府のブラックテクノロジー規制法である。
コンパニヤ指導者によって火星ドーム群の独立宣言と宇宙連邦への宣戦布告が行われていたという事実をカナリヤの乗組員が知ったのは、所属不明部隊の追撃と極冠の強力な磁場から逃れた後である。
通信網は全て火星連合側のもので占められている。通信衛星が機能していないので、宇宙との交信は断絶している。
報道の内容を省みるに、テーレマコス・ターミナルのマスドライバー施設は、デハドスと名乗る武装組織に押さえられているらしい。
つまり、連邦軍が彼ら反乱軍を鎮圧しないかぎり、宇宙に逃れることは出来ないのである。
火星開発公社は元々は連邦政府の一部門である。加えて、先日の襲撃部隊はガーランドで構成されていたためデハドスの手の者である可能性が高い。
火星連合と敵対する意思はないと主張して降伏しても、あまりいい待遇を受けるとは考えにくい。また、カナリヤの遺跡調査と宣戦布告の時期が重なったことについて、内通者の有無も問題である。
乗組員は皆スペースノイドであるが、袖の下に対して人種の壁は無力に近い。
やや思い上がった考えであるが、時勢が時勢であるから、火星連合が決起の頃合を計ることで、会戦のどさくさに紛れてブラックテクノロジーを手に入れようと画策した可能性もあった。
しかし、そうした内輪の揉め事は後回しにされた。第七次調査団は民間団体である。連邦軍とは違って、己の身から出た錆がどこでどうなろうと知ったことではない。
利益を上げられさえすれば結構なのである。内通者が研究成果を持ち出すにしても、研究は各部門に細分化され、具体的な形にまとめる人間は、実質的にアルフ・スメッグヘッド博士一人といっても過言ではない。
白衣の研究員たちのほとんどは自身が何を研究しているのかさえ知らされず、アルフ博士の手足と変わりなかった。
歪な組織構造であるが、ブラックテクノロジーの調査といういかがわしい仕事をする組織においては理に適う構造であった。
何となれば殆どの職員が、法を犯すという観念を抱かずに済むのである。調査団が今最も恐れているものは、野蛮な火星の武装組織と、連邦政府のブラックテクノロジー規制法である。
アルフ博士を中心に、各部門責任者の何人かで相談した結果、アルカディア地方の中立ドームに保護か補給を求めるという方針で落ち着いた。
しかしいくらドーム側が非戦を主張するといっても、カナリヤは体のいい生贄にするに恰好の素材である。中立体制維持のためにどちらかの陣営へ捧げられかねない。
調査団は最低限以上の自己防衛力を確保しておかねばならなかった。
しかしいくらドーム側が非戦を主張するといっても、カナリヤは体のいい生贄にするに恰好の素材である。中立体制維持のためにどちらかの陣営へ捧げられかねない。
調査団は最低限以上の自己防衛力を確保しておかねばならなかった。
喧騒と呼ぶには、格納庫はあまりにも凄惨な様相を呈していた。四方から騒音が襲い掛かり、飛び交う整備員たちの激に巻き添えを食う。
ネルネやゲイリー、さらにはディックでさえ作業の手伝いをしている。パイロットを動員するまでに人手が不足しているのである。
被弾の無いゲイリー機と、キュイエールが痛んだに過ぎないムウシコスは想定内の作業量で済む。しかしデイヴィッドのグワッシュとネルネ機は目も当てられない有様であった。
今朝フィリアが話したところによれば、予備パーツのあるネルネ機はともかく、デイヴィッドのグワッシュには応急処置しか施せない。あと一戦行えるかも怪しい状態までにしか仕上げられないそうである。
パーツの規格が合わないので騙し騙し使って行くしかない。関節に負担をかける追加装甲は外し、スラスターも最低限のものを残して撤去する。
ノーマルと変わりない状態に気休めの防塵処置を施すばかりである。連邦軍ならばよほどでないかぎりこのような割の合わない修理を行うことはない。
しかし、頭数の少ないカナリヤMS隊にとっては、たかがグワッシュといえども貴重な戦力であった。
顔を黒く油まみれにした作業員が白い目を向けてきた。デイヴィッドは格納庫の中でただ一人、煙を吹かしてぼんやりしている。
そんな姿を見れば、作業員が穏やかならぬ印象を持つのは当然であろう。彼らは最後に一服したのはいつかも忘れ、昼夜を分かたず働かされているのである。
デイヴィッドは心底旨そうに煙を吐いてみた。それを見た作業員が歯を食いしばり、スパナを振り上げてグワッシュの装甲に投げつけた。
デイヴィッドは下卑た笑いを浮かべた。勤勉な作業員には悪いが、例の小娘のもたらした鬱憤を発散する絶好の機会である。
「リマーさん、なにやってんです!」
デイヴィッドが身構えようとしたとき、きんきんと喧しく聞こえる性質を持った声がそれを遮った。振り返ると、ゲイリー・ターレルよりもさらに大らかな体の作りをした中年女性が、息を切らせて駆け寄って来た。
「何の用件です、ドクター」
ドクターと呼ばれた中年女性は、白衣を羽織って首に聴診器をぶら下げていた。窮屈そうに捲くったままの袖を見れば、つい先ほどまで負傷者の治療をしていたことがわかる。
「この子からひと時も離れてはいけないと、わたし何度も何度も言いましたよね」
ドクターの後ろから、よたよたと頼りない足取りで少女が歩み出る。豊満な体に隠れて見えなかったが、どうもドクターと一緒に追いかけてきたらしい。
「この子は生まれたばかりの赤ちゃんと一緒なんです。リマーさんを最初に見たから、リマーさんを自分の保護者、親だと認識したんです。
だから、あなたは責任をもって、この子のお世話をしなくちゃいけない、わたしそう言いましたよね」
「鳥じゃあるまいに」
「根本は人も動物も同じです。ましてや、この子は言葉すらしらない。この子にとっては、リマーさんだけがたよりなんです。
親のあなたがいなくなってしまっては、縋るものはなにもない。孤独です。寂しいんです。心細くてたまらない。だからものを知らない彼女なりの絶望をするんです。
御覧なさいな、あなたの酷い仕打ちで、この子がどんなにか可哀想な思いをしたか」
少女はデイヴィッドの上着を掴んで離さなかった。幾度か試みた教育によって初めの頃のように抱きつくことはしなくなったが、デイヴィッドに付き纏いたがるのはある種の習性らしく改める気配をみせない。
ドクターのねちっこい口説に従って顔を見れば、少女は目の周りを赤くして、目尻から顎先にかけて液体の筋を生じさせていた。
そのくせ能面顔は全く歪んでいないという有様である。いっそ不気味であるけれども、デイヴィッドは決まりが悪かった。彼が作業を免除されているのは、休養の名目で少女の世話を命じられたからである。
ネルネやゲイリー、さらにはディックでさえ作業の手伝いをしている。パイロットを動員するまでに人手が不足しているのである。
被弾の無いゲイリー機と、キュイエールが痛んだに過ぎないムウシコスは想定内の作業量で済む。しかしデイヴィッドのグワッシュとネルネ機は目も当てられない有様であった。
今朝フィリアが話したところによれば、予備パーツのあるネルネ機はともかく、デイヴィッドのグワッシュには応急処置しか施せない。あと一戦行えるかも怪しい状態までにしか仕上げられないそうである。
パーツの規格が合わないので騙し騙し使って行くしかない。関節に負担をかける追加装甲は外し、スラスターも最低限のものを残して撤去する。
ノーマルと変わりない状態に気休めの防塵処置を施すばかりである。連邦軍ならばよほどでないかぎりこのような割の合わない修理を行うことはない。
しかし、頭数の少ないカナリヤMS隊にとっては、たかがグワッシュといえども貴重な戦力であった。
顔を黒く油まみれにした作業員が白い目を向けてきた。デイヴィッドは格納庫の中でただ一人、煙を吹かしてぼんやりしている。
そんな姿を見れば、作業員が穏やかならぬ印象を持つのは当然であろう。彼らは最後に一服したのはいつかも忘れ、昼夜を分かたず働かされているのである。
デイヴィッドは心底旨そうに煙を吐いてみた。それを見た作業員が歯を食いしばり、スパナを振り上げてグワッシュの装甲に投げつけた。
デイヴィッドは下卑た笑いを浮かべた。勤勉な作業員には悪いが、例の小娘のもたらした鬱憤を発散する絶好の機会である。
「リマーさん、なにやってんです!」
デイヴィッドが身構えようとしたとき、きんきんと喧しく聞こえる性質を持った声がそれを遮った。振り返ると、ゲイリー・ターレルよりもさらに大らかな体の作りをした中年女性が、息を切らせて駆け寄って来た。
「何の用件です、ドクター」
ドクターと呼ばれた中年女性は、白衣を羽織って首に聴診器をぶら下げていた。窮屈そうに捲くったままの袖を見れば、つい先ほどまで負傷者の治療をしていたことがわかる。
「この子からひと時も離れてはいけないと、わたし何度も何度も言いましたよね」
ドクターの後ろから、よたよたと頼りない足取りで少女が歩み出る。豊満な体に隠れて見えなかったが、どうもドクターと一緒に追いかけてきたらしい。
「この子は生まれたばかりの赤ちゃんと一緒なんです。リマーさんを最初に見たから、リマーさんを自分の保護者、親だと認識したんです。
だから、あなたは責任をもって、この子のお世話をしなくちゃいけない、わたしそう言いましたよね」
「鳥じゃあるまいに」
「根本は人も動物も同じです。ましてや、この子は言葉すらしらない。この子にとっては、リマーさんだけがたよりなんです。
親のあなたがいなくなってしまっては、縋るものはなにもない。孤独です。寂しいんです。心細くてたまらない。だからものを知らない彼女なりの絶望をするんです。
御覧なさいな、あなたの酷い仕打ちで、この子がどんなにか可哀想な思いをしたか」
少女はデイヴィッドの上着を掴んで離さなかった。幾度か試みた教育によって初めの頃のように抱きつくことはしなくなったが、デイヴィッドに付き纏いたがるのはある種の習性らしく改める気配をみせない。
ドクターのねちっこい口説に従って顔を見れば、少女は目の周りを赤くして、目尻から顎先にかけて液体の筋を生じさせていた。
そのくせ能面顔は全く歪んでいないという有様である。いっそ不気味であるけれども、デイヴィッドは決まりが悪かった。彼が作業を免除されているのは、休養の名目で少女の世話を命じられたからである。
このまま格納庫に居座っていては冗談好きの整備員たちに具合の悪い嫌疑をかけられかねないが、そうかといって自室に戻ってもすることがない。機内をうろつき回って暇を潰すのは論外である。
「おい、どうする」
ドクターが去った後、デイヴィッドはとりあえず少女に言葉をかけてみた。やはり少女は無言の行である。
デイヴィッドは琥珀色の瞳から視線を逸らしつつ、そういえば、この少女を何という名で呼べばいいのか決まっていないことに思い当たった。物扱いするにしても名称は必要である。
遺跡で回収した白い機体は予備ハンガーに収められていた。ガンダムタイプに類似した顔はバイザーに覆われ、解析用の器材が各部に接続されている。
「綺麗な機体……」
ネルネが純白の装甲に見惚れながら熱っぽいため息を漏らした。
「骨董美術としてはともかく、実用はどうだか知らん。ドグッシュの修理は済んだのか」
ネルネは答えず、白々しく口笛を吹いてごまかした。作業の邪魔になって干されたということは容易に想像できる。
「それよりデイヴィッド、この女の子が例の」
ネルネが近寄っても少女は別段気に留めた素振りを見せず、ぼんやりした目で白い機体を見つめていた。
「もしもーし?」
顔の前に手をかざして振ってみても、やはり反応がない。
「こら、挨拶しろ」
とデイヴィッドが言うとようやくネルネを打ち眺めた。
「なに、この子?」
ネルネの声は、機嫌を損ねた風でなく、単純な疑問を口にする調子であった。そのままエメラルド色の髪の毛を指先で弄びながら、ネルネは少女にいろいろと質問を浴びせ始めた。
「いくら話しかけても無駄さ。お医者様の言うには人形同然らしい」
知能テストをすると芳しくない結果が出て、分析の結果、少女はある種の記憶喪失に陥っていると診断された。
それが一時的なものであるか、元からそうであったかというようなことは現代の医療技術では判別できない。コールドスリープの後遺症と断定するにも暗中模索の状態である。
デイヴィッドは、白い機体の解析をしているフィリアとアルフ博士を呼んだ。ここに来たのは四方山のためではなく、少女の呼び名をどうするか聞くためである。
「おい、どうする」
ドクターが去った後、デイヴィッドはとりあえず少女に言葉をかけてみた。やはり少女は無言の行である。
デイヴィッドは琥珀色の瞳から視線を逸らしつつ、そういえば、この少女を何という名で呼べばいいのか決まっていないことに思い当たった。物扱いするにしても名称は必要である。
遺跡で回収した白い機体は予備ハンガーに収められていた。ガンダムタイプに類似した顔はバイザーに覆われ、解析用の器材が各部に接続されている。
「綺麗な機体……」
ネルネが純白の装甲に見惚れながら熱っぽいため息を漏らした。
「骨董美術としてはともかく、実用はどうだか知らん。ドグッシュの修理は済んだのか」
ネルネは答えず、白々しく口笛を吹いてごまかした。作業の邪魔になって干されたということは容易に想像できる。
「それよりデイヴィッド、この女の子が例の」
ネルネが近寄っても少女は別段気に留めた素振りを見せず、ぼんやりした目で白い機体を見つめていた。
「もしもーし?」
顔の前に手をかざして振ってみても、やはり反応がない。
「こら、挨拶しろ」
とデイヴィッドが言うとようやくネルネを打ち眺めた。
「なに、この子?」
ネルネの声は、機嫌を損ねた風でなく、単純な疑問を口にする調子であった。そのままエメラルド色の髪の毛を指先で弄びながら、ネルネは少女にいろいろと質問を浴びせ始めた。
「いくら話しかけても無駄さ。お医者様の言うには人形同然らしい」
知能テストをすると芳しくない結果が出て、分析の結果、少女はある種の記憶喪失に陥っていると診断された。
それが一時的なものであるか、元からそうであったかというようなことは現代の医療技術では判別できない。コールドスリープの後遺症と断定するにも暗中模索の状態である。
デイヴィッドは、白い機体の解析をしているフィリアとアルフ博士を呼んだ。ここに来たのは四方山のためではなく、少女の呼び名をどうするか聞くためである。
フィリア、アルフ博士、ネルネの順に、そこに居合わせた者たちが思い付いた名前を言って行く。
「フルフロンタル」
「ルーシー」
「ホワイトロリータ」
「却下だ、却下」
どの命名もあまりと言えばあまりの内容である。アルフ博士もそれは承知しているようで、目下の者のぶしつけな言葉にも気分を害した様子は無く、少女に観察の目を向けていた。デイヴィッドは駄目で元々で当人に話しかけてみた。
「おい、名前はないのか。名前だよ、名前」
フィリアが首を横に振るが、デイヴィッドは身振り手振りを交えて意味を伝えようと試みた。
「デイヴ……フィリア……博士……だ。わかるか?」
順々にその人物を指差し、もう一度繰り返す。
「デイヴ、フィリア、博士、馬鹿……」
「なんだと!」
最後に指差されたネルネが声を上げるが、
「……デイヴ」
と少女の口が掠れた声を発し、フィリアが目を丸くした。
「うそ、喋った」
「フィ、リア……はか、せ……ばか」
ネルネの唇が引きつった。少女は再び口を開く。
「デイヴ……フィリア……博士……ばか」
「で、お前は」
デイヴィッドは少女を指差した。
「……ドルダ」
「どるだ? その、なんていうか……奇抜な名前だね」
フィリアがそう繕ったのも無理はない。人名にするには響きの良くない言葉である。
「ドルダ、か」
「デイヴ、ドルダ」
デイヴィッドが中指でこめかみを叩きながら呟くと、ドルダと名乗った少女は、デイヴィッドと自分を交互に指差して名前を言った。その仕草にはどことなく浮ついた調子があるように思われた。
デイヴィッドの記憶の片隅に同じ単語があった。無論、それは白昼夢の生み出した妄想である。
ドルダの懐く要因がそこにあるかもしれないが、身の安全を考えれば、フィリアやアルフ博士に滅多なことを気取られるわけにはいかなかった。
アルフ博士はといえば、ドルダという単語に何か思い当たることがあるらしく、顎を撫でながら端末のところに立って行った。
その端末に生えたケーブルは、白い機体の手甲から引き出された指につながっていた。しばらくして、アルフ博士は恐ろしく素早い手つきでパネルを叩きながらフィリアを呼んだ。
このままここに居続けても邪魔者扱いされそうである。デイヴィッドたちは予備ハンガーを後にした。
「フルフロンタル」
「ルーシー」
「ホワイトロリータ」
「却下だ、却下」
どの命名もあまりと言えばあまりの内容である。アルフ博士もそれは承知しているようで、目下の者のぶしつけな言葉にも気分を害した様子は無く、少女に観察の目を向けていた。デイヴィッドは駄目で元々で当人に話しかけてみた。
「おい、名前はないのか。名前だよ、名前」
フィリアが首を横に振るが、デイヴィッドは身振り手振りを交えて意味を伝えようと試みた。
「デイヴ……フィリア……博士……だ。わかるか?」
順々にその人物を指差し、もう一度繰り返す。
「デイヴ、フィリア、博士、馬鹿……」
「なんだと!」
最後に指差されたネルネが声を上げるが、
「……デイヴ」
と少女の口が掠れた声を発し、フィリアが目を丸くした。
「うそ、喋った」
「フィ、リア……はか、せ……ばか」
ネルネの唇が引きつった。少女は再び口を開く。
「デイヴ……フィリア……博士……ばか」
「で、お前は」
デイヴィッドは少女を指差した。
「……ドルダ」
「どるだ? その、なんていうか……奇抜な名前だね」
フィリアがそう繕ったのも無理はない。人名にするには響きの良くない言葉である。
「ドルダ、か」
「デイヴ、ドルダ」
デイヴィッドが中指でこめかみを叩きながら呟くと、ドルダと名乗った少女は、デイヴィッドと自分を交互に指差して名前を言った。その仕草にはどことなく浮ついた調子があるように思われた。
デイヴィッドの記憶の片隅に同じ単語があった。無論、それは白昼夢の生み出した妄想である。
ドルダの懐く要因がそこにあるかもしれないが、身の安全を考えれば、フィリアやアルフ博士に滅多なことを気取られるわけにはいかなかった。
アルフ博士はといえば、ドルダという単語に何か思い当たることがあるらしく、顎を撫でながら端末のところに立って行った。
その端末に生えたケーブルは、白い機体の手甲から引き出された指につながっていた。しばらくして、アルフ博士は恐ろしく素早い手つきでパネルを叩きながらフィリアを呼んだ。
このままここに居続けても邪魔者扱いされそうである。デイヴィッドたちは予備ハンガーを後にした。
デイヴィッドは格納庫でネルネと別れると、ドルダを連れて艦内食堂に行った。彼女に現代人の作法を教育するためではなく、デイヴィッド自身が空腹を覚えたからである。
暇をもてあましているくせに、どうしてかすきっ腹になっていた。ちょうど昼食時であったけれども、テーブルで食事をしているのは数組ほどであった。
遺跡調査からずっと、乗組員たちは落ち着いて食事をする暇もないのであろう。脱出時に結構な人数を失っていたので、勤務シフトにも支障を来たしている。
食堂側も今では常駐のコックの人数を減らして、食事の差し入れを主な業務にしている。
白衣の研究員たちのテーブルをデイヴィッドが横切ったとき、彼らは名状しがたい表情でさっと互いに目配せし合い、暫し雑談を途切れさせた。
遺跡脱出時のグワッシュのパイロットがデイヴィッド・リマーであったことは、殆どの乗組員の知ることとなっている。
閉鎖された環境では噂の広まるのも早く、同僚の死因がデイヴィッドにあると思う者もあれば、それとは逆に同情を寄せる者もある。
どちらにせよ、平時ならばあまり心地の良い心証であるとはいわれない。けれども、要因となった出来事の記憶が薄らいでいない現在において、このことはかえってデイヴィッドの感ずる後ろめたさを和らげていた。
デイヴィッドが研究員に聞こえぬよう小さく鼻を鳴らすと、上着を掴んでいるドルダの手が強張った。横目をやると、デイヴィッドの顔をじっと見つめていた。例のぼんやり目でなく、年頃の少女らしくぱちりと開いた瞳である。
「デイヴ」
少女が覚えたばかりの言葉を口にしたのには黙して答えず、デイヴィッドは「こいつまつ毛長いな」と思いながら足を進めた。
暇をもてあましているくせに、どうしてかすきっ腹になっていた。ちょうど昼食時であったけれども、テーブルで食事をしているのは数組ほどであった。
遺跡調査からずっと、乗組員たちは落ち着いて食事をする暇もないのであろう。脱出時に結構な人数を失っていたので、勤務シフトにも支障を来たしている。
食堂側も今では常駐のコックの人数を減らして、食事の差し入れを主な業務にしている。
白衣の研究員たちのテーブルをデイヴィッドが横切ったとき、彼らは名状しがたい表情でさっと互いに目配せし合い、暫し雑談を途切れさせた。
遺跡脱出時のグワッシュのパイロットがデイヴィッド・リマーであったことは、殆どの乗組員の知ることとなっている。
閉鎖された環境では噂の広まるのも早く、同僚の死因がデイヴィッドにあると思う者もあれば、それとは逆に同情を寄せる者もある。
どちらにせよ、平時ならばあまり心地の良い心証であるとはいわれない。けれども、要因となった出来事の記憶が薄らいでいない現在において、このことはかえってデイヴィッドの感ずる後ろめたさを和らげていた。
デイヴィッドが研究員に聞こえぬよう小さく鼻を鳴らすと、上着を掴んでいるドルダの手が強張った。横目をやると、デイヴィッドの顔をじっと見つめていた。例のぼんやり目でなく、年頃の少女らしくぱちりと開いた瞳である。
「デイヴ」
少女が覚えたばかりの言葉を口にしたのには黙して答えず、デイヴィッドは「こいつまつ毛長いな」と思いながら足を進めた。
食券を購入する際に及んで、デイヴィッドはドルダに何を与えればいいかわからないことに気が付いた。
少女の顔の作りを見ると頬骨から頤(おとがい)にかけての線は小奇麗に纏まっているが、まさか緑色の流動食を主食にしていたわけではあるまい。
デイヴィッドは、少女の世話を押し付けられたときにドクターがまくし立てた取扱注意事項を思い出そうと頭をひねった。
それというのも、メモリースティックなどの媒体では流出の可能性があり、口頭でなければ末端のデイヴィッドに情報を与えられないためである。
ドルダの顔を見るともなく見つつ、中指でこめかみをこねくり回していると、どうやら消化器官は現代人と変わりないというような意味のことが思い出された。デイヴィッドは券売機に紙幣を入れて、日替わり定食のボタンを二度押した。
この日の献立は、白米に押麦を混ぜた麦飯と味噌汁、主菜は焼いた豆腐に餡をかけたもので、副菜は艦内栽培のもやしの和え物と、動物性たんぱく質の補給に火星蝗の佃煮である。
デイヴィッドとしては合成肉の塊に齧り付きたい気分であったが、カナリヤには月出身者が多く、食肉に類するものは嗜好品として売店にパックが置いてある程度である。
月では数年前の人肉騒動が依然尾を引いていた。
火星蝗の佃煮が、ちゃぷという水音を立てて味噌汁に落ちた。あめ色のたれが洗い流され、硬く強張っていた表皮が本来の色と弾力を取り戻しても、蝗たちは生き返らない。柔らかそうな腹を出して浮かび、逆さの目を捕食者に向けている。
箸の代わりにフォークや匙をドルダに与えても成果がなかった。持ち上げる先から落下する。デイヴィッドがもやしを摘めばドルダはそれを盆に撒き、豆腐を割って見せれば手にした物を弾き飛ばす。
少女の見よう見まねの行動は全て失敗に終わっている。手つきからしてぎこちなく、そんな器用な動作はとてもできるものではないといった按配である。
口に含むことが出来たのは麦飯と味噌汁くらいで、それにしたって、あたかも砂を噛むような口を動きである。少女が味の良し悪しを感じるかは知らないが、このような骨折りが楽しいものでないことは察するに余りある。
「デイヴ」
「自主性尊重、自主性尊重」
デイヴィッドはそう言ってドルダの声を聞き流した。むごい仕打ちという自覚はあるが、新兵教育の経験上、そうそう簡単に手を貸してやるわけにはいかなかった。無闇な手助けは習い癖をつけかねない。
しかしそれが単なる八つ当たりの口実でないとも言い切れなかった。
デイヴィッドは自覚するのをためらっているけれども、彼の心の中には少女に気を許すまいという激しい欲求があって、意識しない所作で少女を虐げるにつけ、ある種の快感を彼自身にもたらしていた。
そうしてその欲動は、変態性を帯びていると言っても差し支えないのである。
先だってあれほど頬を濡らしたというのに、デイヴィッドが目の前にいればそのための器官は働かないようである。ドルダは文句一つ言えず、時折デイヴィッドの名を呼ぶばかりで、意義のない動作を繰り返していた。
少女の手の震えが目立ち始めたとき、デイヴィッドは箸を置いた。食事を終えたのではなく、少女の手を小休止させるためであった。
デイヴィッドが何となしに視線をさまよわせていると、見知った顔を見つけた。その人物は盆を両手で持ち、カウンターの前で食事が出てくるのを待っていた。
まばらな人影にちらちらと目を向けつつ、待ち時間をやり過ごしているようである。目が合った。その人物は僅かに眉を顰めたかと思えば、心底軽蔑しきったような目つきでデイヴィッドを睨んだ。
どうやら穏やかならぬ誤解が生じたらしい。まったくもっていやらしいといわんばかりの表情である。昼食を受け取ってデイヴィッドたちの横を通り過ぎざま、視線を進行方向に向けたまま、
「いやらしい」
と実際に声に出した。デイヴィッドに聞かせるべくしてついた悪態である。
「待ちたまえ、ヴァニナ・ヴァニニ女史」
「人身売買は旧時代の悪習です。男性の欲望のあからさまな発露です。文明退行的な唾棄すべき風俗です。人倫の破綻です。畜生にも劣る所業です。
いつどこでそのような不良少女を連れ込んだのかは知りませんし知りたくもありませんが艦内の風紀を乱さないで下さい。
そもそも恥を知りなさい。いっそ生身で艦を出てって下さい。せめて微生物に分解されることで僅かながらでもテラフォーミングに貢献して下さい。本当に、けがらわしい」
二重に思い違いをしているらしい。
「偏見を持つなとまでは言えんが、頼むから、あんたくらいは論理的にものを考えてくれ」
「小児性愛者は誰しもそう言って自らの性癖を肯定するんです。貴方に入用なのは論理ではなく倫理では? というか話しかけないで。
貴方の口が撒き散らす瘴気に満ち満ちたおぞましい空気振動で鼓膜が腐食して耳が壊死します。貴方が人間なみに言語中枢を弄んでいるという事実を知るだけでも吐き気を催して不快に……」
ヴァニナは首だけを振り向けて口をつぐんだ。カウンターからは少女の背中で見えなかった食卓を目にしたのである。
ヴァニナは訝しげに目を細めた。それで生じた一時の小康状態を逃さずに、デイヴィッドは弁解を試みることにした。
「とにもかくにも一分間でいい、妄想と憶測と悪罵を浴びせるのを止めて、俺に弁解の余地を恵んでくれ」
デイヴィッドらしくない真顔での嘆願に怯んだのか、ヴァニナはドルダの隣に腰を下ろして彼の話に耳を傾けてくれた。
ドルダが顔を伸ばして、豆の乗った匙をあむと咥えた。匙を持つのはヴァニナの手である。咀嚼している最中に、スープを掬って息で冷まし、咀嚼を終える頃合になると匙が伸びて行って、口元がこくこくと鳴る。
その頃合というのも、早すぎも遅すぎもせず、ちょうど良い間隔を保ち続けている。
少女が気遣いの観念を持ち合わせているかはわからないが、余裕を感じさせるゆったりしたヴァニナの動作は、食事をさせる間、いたずらに咀嚼を急かすことも口さびしい合間を作ることもなかった。
ありきたりな表現であるが、まるで雛に餌を啄ばませる親鳥である。
ヴァニナの手はかさかさに荒れていた。彼女の顔の色艶と比較して見るに、年齢によるものとは考えにくい。おそらく彼女の仕事に関係したものであろう。
「何というか、様になってるな」
「何がです」
ヴァニナは眼鏡の鎖を鳴らしてデイヴィッドをにらみ付けた。デイヴィッドの言動に他意があると受け取ったのかもわからない。
迂闊に訂正すれば嫌味に思われるに違いないので、デイヴィッドは思っていることをそのまま口に出す口吻で続けた。
「こういうの、慣れてるのか」
「え、あ、はい。年の離れた妹が居ましたので」
「手馴れたものだ」
デイヴィッドは音を立てて玄米茶をすすった。デイヴィッドが食器を片して結構な時間が過ぎたが、ドルダの食事はなかなか終わらなかった。
ヴァニナの手を借りて、ドルダが三皿目のスープを平らげた。すました表情に似合わず相当に健啖である。こんなのが毎日続けばデイヴィッドの酒手に及びかねない。
そのような心配も手伝って、デイヴィッドは食後の煙を吸いたくてたまらなくなっていた。辛うじてお茶で誤魔化しているとはいえ、ドルダが遠慮する気の無いのを見て取ると、我慢を持続する自信が失われる。
デイヴィッドはせめてもの気晴らしにヴァニナを観察してみた。昼食にこれほど時間を割けるということは、おそらくデイヴィッドと似たような身の上なのであろう。
そういえば、以前まで彼女の指示のもと土いじりをしていながら、ヴァニナの部署で彼女以外の研究員を見たことが無い。
ヴァニナが地質調査部の主任という話であるが、もしかすると、形式上置いているに過ぎない個人部署という可能性もある。
テラフォーミングの途中経過報告は単なる名目で、実質的には遺跡調査が主となっている内情を鑑みれば、充分に考えられる事態である。
デイヴィッドは手前勝手に憶測したのを後悔した。情の移る気配がちらほら見え始めたからである。
ヴァニナはデイヴィッドに対して相変わらず南京虫を見るような目を向けるが、ドルダの世話をする姿は、日ごろの気張りが優しさにすり替わって、女性的な気配りが感じられた。
あーん、と言いながら口を半開きにする彼女を見るのは、これまで抱いていた印象が影響してなかなか馴染めそうにない。
ヴァニナがドルダの口元に匙を運ぶべく身を乗り出すと、うなじのところにほつれた髪が幾本か垂れているのが見えた
眼鏡にぶら下げた鎖も飾り気の無い銀色の鎖で、装飾としてではなく実用のために違いない。
髪を整えて化粧をし、野暮ったい白衣を着替えれば化けるかもしれない。
そんな考えに至ると、
「やめておけデイヴィッド・リマー。貴様は女日照りのあまり、脳をわずらっているのだ」
とデイヴィッドは心の中で己に言い聞かせて、こめかみを叩いた。不意に、ドルダが咀嚼を止めてデイヴィッドの目を見つめた。
「いいかドルダ。この白衣のご婦人は、ヴァニナというお方だ。恩人の名前くらい、一度で覚えろよ」
「……ヴァ、ニナ」
「口にものを入れたまま喋るんじゃない」
ヴァニナが慌ててドルダの口元を拭いた。
少女の顔の作りを見ると頬骨から頤(おとがい)にかけての線は小奇麗に纏まっているが、まさか緑色の流動食を主食にしていたわけではあるまい。
デイヴィッドは、少女の世話を押し付けられたときにドクターがまくし立てた取扱注意事項を思い出そうと頭をひねった。
それというのも、メモリースティックなどの媒体では流出の可能性があり、口頭でなければ末端のデイヴィッドに情報を与えられないためである。
ドルダの顔を見るともなく見つつ、中指でこめかみをこねくり回していると、どうやら消化器官は現代人と変わりないというような意味のことが思い出された。デイヴィッドは券売機に紙幣を入れて、日替わり定食のボタンを二度押した。
この日の献立は、白米に押麦を混ぜた麦飯と味噌汁、主菜は焼いた豆腐に餡をかけたもので、副菜は艦内栽培のもやしの和え物と、動物性たんぱく質の補給に火星蝗の佃煮である。
デイヴィッドとしては合成肉の塊に齧り付きたい気分であったが、カナリヤには月出身者が多く、食肉に類するものは嗜好品として売店にパックが置いてある程度である。
月では数年前の人肉騒動が依然尾を引いていた。
火星蝗の佃煮が、ちゃぷという水音を立てて味噌汁に落ちた。あめ色のたれが洗い流され、硬く強張っていた表皮が本来の色と弾力を取り戻しても、蝗たちは生き返らない。柔らかそうな腹を出して浮かび、逆さの目を捕食者に向けている。
箸の代わりにフォークや匙をドルダに与えても成果がなかった。持ち上げる先から落下する。デイヴィッドがもやしを摘めばドルダはそれを盆に撒き、豆腐を割って見せれば手にした物を弾き飛ばす。
少女の見よう見まねの行動は全て失敗に終わっている。手つきからしてぎこちなく、そんな器用な動作はとてもできるものではないといった按配である。
口に含むことが出来たのは麦飯と味噌汁くらいで、それにしたって、あたかも砂を噛むような口を動きである。少女が味の良し悪しを感じるかは知らないが、このような骨折りが楽しいものでないことは察するに余りある。
「デイヴ」
「自主性尊重、自主性尊重」
デイヴィッドはそう言ってドルダの声を聞き流した。むごい仕打ちという自覚はあるが、新兵教育の経験上、そうそう簡単に手を貸してやるわけにはいかなかった。無闇な手助けは習い癖をつけかねない。
しかしそれが単なる八つ当たりの口実でないとも言い切れなかった。
デイヴィッドは自覚するのをためらっているけれども、彼の心の中には少女に気を許すまいという激しい欲求があって、意識しない所作で少女を虐げるにつけ、ある種の快感を彼自身にもたらしていた。
そうしてその欲動は、変態性を帯びていると言っても差し支えないのである。
先だってあれほど頬を濡らしたというのに、デイヴィッドが目の前にいればそのための器官は働かないようである。ドルダは文句一つ言えず、時折デイヴィッドの名を呼ぶばかりで、意義のない動作を繰り返していた。
少女の手の震えが目立ち始めたとき、デイヴィッドは箸を置いた。食事を終えたのではなく、少女の手を小休止させるためであった。
デイヴィッドが何となしに視線をさまよわせていると、見知った顔を見つけた。その人物は盆を両手で持ち、カウンターの前で食事が出てくるのを待っていた。
まばらな人影にちらちらと目を向けつつ、待ち時間をやり過ごしているようである。目が合った。その人物は僅かに眉を顰めたかと思えば、心底軽蔑しきったような目つきでデイヴィッドを睨んだ。
どうやら穏やかならぬ誤解が生じたらしい。まったくもっていやらしいといわんばかりの表情である。昼食を受け取ってデイヴィッドたちの横を通り過ぎざま、視線を進行方向に向けたまま、
「いやらしい」
と実際に声に出した。デイヴィッドに聞かせるべくしてついた悪態である。
「待ちたまえ、ヴァニナ・ヴァニニ女史」
「人身売買は旧時代の悪習です。男性の欲望のあからさまな発露です。文明退行的な唾棄すべき風俗です。人倫の破綻です。畜生にも劣る所業です。
いつどこでそのような不良少女を連れ込んだのかは知りませんし知りたくもありませんが艦内の風紀を乱さないで下さい。
そもそも恥を知りなさい。いっそ生身で艦を出てって下さい。せめて微生物に分解されることで僅かながらでもテラフォーミングに貢献して下さい。本当に、けがらわしい」
二重に思い違いをしているらしい。
「偏見を持つなとまでは言えんが、頼むから、あんたくらいは論理的にものを考えてくれ」
「小児性愛者は誰しもそう言って自らの性癖を肯定するんです。貴方に入用なのは論理ではなく倫理では? というか話しかけないで。
貴方の口が撒き散らす瘴気に満ち満ちたおぞましい空気振動で鼓膜が腐食して耳が壊死します。貴方が人間なみに言語中枢を弄んでいるという事実を知るだけでも吐き気を催して不快に……」
ヴァニナは首だけを振り向けて口をつぐんだ。カウンターからは少女の背中で見えなかった食卓を目にしたのである。
ヴァニナは訝しげに目を細めた。それで生じた一時の小康状態を逃さずに、デイヴィッドは弁解を試みることにした。
「とにもかくにも一分間でいい、妄想と憶測と悪罵を浴びせるのを止めて、俺に弁解の余地を恵んでくれ」
デイヴィッドらしくない真顔での嘆願に怯んだのか、ヴァニナはドルダの隣に腰を下ろして彼の話に耳を傾けてくれた。
ドルダが顔を伸ばして、豆の乗った匙をあむと咥えた。匙を持つのはヴァニナの手である。咀嚼している最中に、スープを掬って息で冷まし、咀嚼を終える頃合になると匙が伸びて行って、口元がこくこくと鳴る。
その頃合というのも、早すぎも遅すぎもせず、ちょうど良い間隔を保ち続けている。
少女が気遣いの観念を持ち合わせているかはわからないが、余裕を感じさせるゆったりしたヴァニナの動作は、食事をさせる間、いたずらに咀嚼を急かすことも口さびしい合間を作ることもなかった。
ありきたりな表現であるが、まるで雛に餌を啄ばませる親鳥である。
ヴァニナの手はかさかさに荒れていた。彼女の顔の色艶と比較して見るに、年齢によるものとは考えにくい。おそらく彼女の仕事に関係したものであろう。
「何というか、様になってるな」
「何がです」
ヴァニナは眼鏡の鎖を鳴らしてデイヴィッドをにらみ付けた。デイヴィッドの言動に他意があると受け取ったのかもわからない。
迂闊に訂正すれば嫌味に思われるに違いないので、デイヴィッドは思っていることをそのまま口に出す口吻で続けた。
「こういうの、慣れてるのか」
「え、あ、はい。年の離れた妹が居ましたので」
「手馴れたものだ」
デイヴィッドは音を立てて玄米茶をすすった。デイヴィッドが食器を片して結構な時間が過ぎたが、ドルダの食事はなかなか終わらなかった。
ヴァニナの手を借りて、ドルダが三皿目のスープを平らげた。すました表情に似合わず相当に健啖である。こんなのが毎日続けばデイヴィッドの酒手に及びかねない。
そのような心配も手伝って、デイヴィッドは食後の煙を吸いたくてたまらなくなっていた。辛うじてお茶で誤魔化しているとはいえ、ドルダが遠慮する気の無いのを見て取ると、我慢を持続する自信が失われる。
デイヴィッドはせめてもの気晴らしにヴァニナを観察してみた。昼食にこれほど時間を割けるということは、おそらくデイヴィッドと似たような身の上なのであろう。
そういえば、以前まで彼女の指示のもと土いじりをしていながら、ヴァニナの部署で彼女以外の研究員を見たことが無い。
ヴァニナが地質調査部の主任という話であるが、もしかすると、形式上置いているに過ぎない個人部署という可能性もある。
テラフォーミングの途中経過報告は単なる名目で、実質的には遺跡調査が主となっている内情を鑑みれば、充分に考えられる事態である。
デイヴィッドは手前勝手に憶測したのを後悔した。情の移る気配がちらほら見え始めたからである。
ヴァニナはデイヴィッドに対して相変わらず南京虫を見るような目を向けるが、ドルダの世話をする姿は、日ごろの気張りが優しさにすり替わって、女性的な気配りが感じられた。
あーん、と言いながら口を半開きにする彼女を見るのは、これまで抱いていた印象が影響してなかなか馴染めそうにない。
ヴァニナがドルダの口元に匙を運ぶべく身を乗り出すと、うなじのところにほつれた髪が幾本か垂れているのが見えた
眼鏡にぶら下げた鎖も飾り気の無い銀色の鎖で、装飾としてではなく実用のために違いない。
髪を整えて化粧をし、野暮ったい白衣を着替えれば化けるかもしれない。
そんな考えに至ると、
「やめておけデイヴィッド・リマー。貴様は女日照りのあまり、脳をわずらっているのだ」
とデイヴィッドは心の中で己に言い聞かせて、こめかみを叩いた。不意に、ドルダが咀嚼を止めてデイヴィッドの目を見つめた。
「いいかドルダ。この白衣のご婦人は、ヴァニナというお方だ。恩人の名前くらい、一度で覚えろよ」
「……ヴァ、ニナ」
「口にものを入れたまま喋るんじゃない」
ヴァニナが慌ててドルダの口元を拭いた。
アルフ博士がキーを叩くと、珍妙なスペルの単語の羅列が画面全体に表示された。これらは、白い機体のデータベースにアクセスし、そのデータをムウシコスの機能で翻訳したものである。
翻訳といっても、M論証の形式に当てはまる内容を強引に抽出し、辛うじて判別可能な文変項をそこに代入したに過ぎない。アルフ博士は顎をしゃくって、画面の一点をフィリアに指し示した。
「Doll-DA、……ドルダ、とも読めますね」
「ファイル構造を見るに、Doll-DAとはこの機体の開発コードである可能性が高い。しかしDoll-DA自体の中枢に当たると思われる箇所は、どうしても見つからなんだ。加うるに、ここと、この辺りの構成は何に似ている」
「ムウシコスのビーム制御と、事象予測の補助システム……」
「わかるか、シュード」
「彼女はDoll-DAの生体CPU。そういうことですか」
「Pフレームの解析を急いでくれ。それと、デイヴィッド・リマーの生体データを頼む。無論、過去のものも含めてだ」
アルフ博士は薄笑いを浮かべて画面に魅入っていた。フィリアが形の良い唇を噛んで俯いたのには気付かなかったであろう。
翻訳といっても、M論証の形式に当てはまる内容を強引に抽出し、辛うじて判別可能な文変項をそこに代入したに過ぎない。アルフ博士は顎をしゃくって、画面の一点をフィリアに指し示した。
「Doll-DA、……ドルダ、とも読めますね」
「ファイル構造を見るに、Doll-DAとはこの機体の開発コードである可能性が高い。しかしDoll-DA自体の中枢に当たると思われる箇所は、どうしても見つからなんだ。加うるに、ここと、この辺りの構成は何に似ている」
「ムウシコスのビーム制御と、事象予測の補助システム……」
「わかるか、シュード」
「彼女はDoll-DAの生体CPU。そういうことですか」
「Pフレームの解析を急いでくれ。それと、デイヴィッド・リマーの生体データを頼む。無論、過去のものも含めてだ」
アルフ博士は薄笑いを浮かべて画面に魅入っていた。フィリアが形の良い唇を噛んで俯いたのには気付かなかったであろう。
奪取されて数日のうちに、ガンダムマルスの外観は様変わりしていた。真紅の装甲の各所に子札板(こざねいた)を模した外装が取り付けられ、胸部にデハドスの紋章が描かれている。
頭部に目をやれば、ガンダムタイプ特有のブレードアンテナとは別に、頭頂部のぐるりを小型アンテナで囲っているのが見える。これは茨の冠を模したと思われる。
背中に背負った巨大な十字架は、高出力ビームソードを改造したもので、担当者はビームクルセイダーズソードと呼んでいた。クルセイダーズソードとは古代の宗教戦争で兵士が用いたといわれる剣である。
そうして主武装であるクルセイダーズソードとビームスマートガンには、煌びやかな銀色の装飾が施されていた。つまり、ガンダムマルスの改修は実用よりも見てくれを重視したということである。
マスター・ベイトは内心呆れつつも、それと気取られぬよう重々しく口を開いた。
「ずいぶんとめかし込んだな」
「性能はご心配に及びません。アイティオンの機能の一部を復元しましたから、むしろ上がっています」
ガンダムマルスはデハドスのシンボルとしての意味合いが強いとはいえ、担当者の得意げな様子に当てられてベイトは一抹の不安を感じた。
いざ戦闘に入れば見てくれなどにかまっていられない。デハドスの兵士の中でも、テーレマコス出身者の大半は、未だに民兵気分を脱しきれていなかった。
「しかし何ですかね、改修品というのは大概、元が痛めつけられているのが常ですが、マルスの中枢は殆ど完璧といってもいい状態ですね。どんなパイロットなんです、ガンダムアイティオンを撃墜したのは」
「デイヴィッド・リマーという名を聞いたことはあるか」
「いえ、存じません」
「やつは私が育てた。息子同然の男さ」
そう言いながら、ベイトはガンダムマルスに乗り込んだ。情報によれば既にダイモスのヴォルテール基地駐留軍は降下準備を開始している。
初戦のプランは立ててあるとはいえ、その後も連勝できるほど連邦軍はマーズノイドの考える烏合の衆ではない。
「人はおこないによって位が決まる。私は私に出来ることを為すだけだ」
ベイトは盗聴のおそれの無いことを確かめてから、コンソールを撫でて続けた。
「デイヴ、お前は逃げた。だが私は、お前という男の生きた証を利用させてもらう。火星の民衆のためではなく、私自身のエゴのために」
起動画面からG-AITIONの文字が消えて、代わりにG-MARSと表示された。
頭部に目をやれば、ガンダムタイプ特有のブレードアンテナとは別に、頭頂部のぐるりを小型アンテナで囲っているのが見える。これは茨の冠を模したと思われる。
背中に背負った巨大な十字架は、高出力ビームソードを改造したもので、担当者はビームクルセイダーズソードと呼んでいた。クルセイダーズソードとは古代の宗教戦争で兵士が用いたといわれる剣である。
そうして主武装であるクルセイダーズソードとビームスマートガンには、煌びやかな銀色の装飾が施されていた。つまり、ガンダムマルスの改修は実用よりも見てくれを重視したということである。
マスター・ベイトは内心呆れつつも、それと気取られぬよう重々しく口を開いた。
「ずいぶんとめかし込んだな」
「性能はご心配に及びません。アイティオンの機能の一部を復元しましたから、むしろ上がっています」
ガンダムマルスはデハドスのシンボルとしての意味合いが強いとはいえ、担当者の得意げな様子に当てられてベイトは一抹の不安を感じた。
いざ戦闘に入れば見てくれなどにかまっていられない。デハドスの兵士の中でも、テーレマコス出身者の大半は、未だに民兵気分を脱しきれていなかった。
「しかし何ですかね、改修品というのは大概、元が痛めつけられているのが常ですが、マルスの中枢は殆ど完璧といってもいい状態ですね。どんなパイロットなんです、ガンダムアイティオンを撃墜したのは」
「デイヴィッド・リマーという名を聞いたことはあるか」
「いえ、存じません」
「やつは私が育てた。息子同然の男さ」
そう言いながら、ベイトはガンダムマルスに乗り込んだ。情報によれば既にダイモスのヴォルテール基地駐留軍は降下準備を開始している。
初戦のプランは立ててあるとはいえ、その後も連勝できるほど連邦軍はマーズノイドの考える烏合の衆ではない。
「人はおこないによって位が決まる。私は私に出来ることを為すだけだ」
ベイトは盗聴のおそれの無いことを確かめてから、コンソールを撫でて続けた。
「デイヴ、お前は逃げた。だが私は、お前という男の生きた証を利用させてもらう。火星の民衆のためではなく、私自身のエゴのために」
起動画面からG-AITIONの文字が消えて、代わりにG-MARSと表示された。