シーブックのバイトしているカロッゾパンに、今年も一年で最も重要な季節がやってき
た。春は商店街主催のお花見会が開かれる季節である。カロッゾパンは毎年このお花見会
で出店を出してパンを売っており、それは地元の人々に対する重要な宣伝なのだ。
 天気予報によると今度の日曜に迫っているお花見会当日は晴天らしい。店が終わった後
の話し合いの場で、シーブックたちはほっと胸をなでおろした。晴れてくれることに越し
たことはない。
「良かったですね、カロッゾさん」
「ああ。しかし今年は去年までと比べて簡単な話ではないな。今年はドンキーも出店をだ
 すようだ」
 店主のカロッゾは深刻な顔をした。正確には、鉄仮面に遮られてシーブックには表情を
見ることはできないが、仮面のしたではそういう顔色をしているはずだ。職人として雇わ
れているザビーネが、冷静な声音で後を引き継ぐ。
「なるほど、ドンキーベーカリーとの決戦ですか」
「決戦?どういう意味です、ザビーネ?」
 カロッゾの娘でシーブックの彼女でもあるセシリーが訊く。声のしたほうを向いたシー
ブックは、今日はいままでそう気にもしなかった、セシリーが店を手伝うときの髪をまと
めてエプロンをつけたスタイルに、なぜか今になって気を取られた。
「いいか、セシリー。今回のお花見会に来る人たちの多くは常日頃からこの商店街を利用
 している者たちだ。うちのパンよりドンキーのパンのほうがおいしいとなれば、客はあち
 らに流れるだろう。逆に、我々のパンのほうがおいしいという評価を得れば、うちが
 向こうの客をいただくことができるのだ」

 淡々とした口調の中にも力がこもっているカロッゾの言葉は、いかに今回のお花見会が
重要なことかをあらわしている。同じ商店街で、同じように地元の人々を相手に商売をし
ているドンキーベーカリーとカロッゾパンは、当然客を取り合う形になっており、今回の
お花見会は直接対決の場なのだ。決戦という表現はすこし大げさだが、地域密着型の商売
をしている両店にとって、地元のお客さんの評判ほど大事なものは無い。
「諸君には図らずも設けられた今回の決戦に向けて、なおいっそうの精進を期待したい。
 この戦いに勝利せずして、カロッゾパンの未来は無いのだ!」
 カロッゾの台詞は芝居がかりすぎていて苦笑ものだったが、シーブックは気付けば拳を
軽く握っていた。バイトに過ぎないとはいえ、シーブックはカロッゾパンに愛着を感じ始
めていたし、何より彼女であるセシリーの家がやっている店なのだ。
 商売が上手くいかなくなって、セシリーが苦労するようなことにはなって欲しくない。
そんな自分の思いは、店主でセシリーの父であるカロッゾにしてみれば、余計なお世話だ
ということぐらいシーブック自身分かっている。しかしそれがシーブックの偽らざる本音
だ。
 横を向いたシーブックはセシリーと目が合った。何か用、と訊くようなセシリーの顔に、
なんでもない、とこっそり手を振ってから、シーブックは再び拳を握った。

 いっぽう3時間ほど時間をさかのぼったドンキーベーカリーでは、ロランが親友のキース
に捕まっていた。夕飯の買い物に商店街にやってきたところを、半ば強引に店の中に連れ込
まれたのだ。
「ロラン、頼む、ドンキーを手伝ってくれ。出店の売り子をやって欲しいんだ。なあ、頼
 むよ。さっきから言ってるように親方は怪我しちまってて、親方の奥さんはその面倒を
 見なきゃいけない。手伝ってくれるのがベルレーヌだけじゃ人手不足なんだよ。」
 弱りきった表情で頼み込んでくる親友の態度に、ロランは心苦しいものを感じながらも、
この頼みは断ろうと決めていた。
 同じ日に勤め先のハイム家でも、主人家族を中心としたささやかなお花見パーティーが
あり、ロランは使用人の身ながらパーティーに招待してもらっている。なかなか言い出せ
なくて悪かったけど、もう予定が入っているとなれば、キースだってあきらめるしかない
だろう。
「キース、僕はその日はハイムの旦那様やお嬢さん方と一緒にお花見をすることになって
いて、だからお前の手伝いは出来なくて……」

 しかしキースは諦めなかった。むしろ何か勝算でもつかめたのか、瞳が鋭い光を放つ。
「なあ、ロラン。ハイム家のお花見どこでやるんだよ。ビシニティ公園か?」
「そうだけど……」
 そうロランが答えた瞬間に、キースの顔がゴールを狙うストライカーのようになった。
その理由がわからず困惑しているロランを尻目に、キースは一気に畳み掛けてくる。
「商店街のお花見会もビシニティ公園なんだよ。パンを売る時間だけ抜け出てくればいい
 だろ。な、それなら両方やれるじゃないか。頼むよ、ロラン。お花見会はドンキーの将来
 を決めるかもしれない大事なイベントなんだ。俺はベルレーヌを幸せにしなくちゃな
 らない。お前の助けが必要なんだよ、頼む!」
 話の途中からどんどん必死になっていったキースは、ついに頭を下げて頼み込んできた。
キースの論理は乱暴もいいところだが、頭を下げて必死に頼み続けるその姿は、ロランに
とってもはや断ることのできないものだった。
「わかったよ、キース。出店の売り子、やってもいいよ」
 キースは満面の笑みを浮かべてロランの右手を両手で握った。「ありがとな、ロラン。給
料はずむから。ホントにありがとう!」というキースの言葉を聞きながら、ロランはハイム家
のお花見をどうしようかということが頭を掠めて、弱々しく微笑んだ。

 その日の夜、シーブックはロランからドンキーの手伝いをすることを伝えられた。ロラン
の態度がすこし遠慮がちなのは、自分にいらぬ気を遣っているからだろう。
「そうか、ドンキーのキースはお前の親友だもんな」
「うん。すごい勢いで頼み込まれちゃって、断りきれなかったんだ。シーブックのお店と
 は客を取り合うことになっちゃうけど……」
 別に気にすることはないだろ、と返しながらもシーブックは、内心ではまずいなと呟い
ていた。ロランは人当たりもいいし、健康的で見栄えのいい容姿をしている。お客の受け
はいいだろうから、自分達カロッゾパンから見れば思わぬ強敵の誕生であることは間違い
ない。
 本心をいえばシーブックはロランにドンキーの売り子をして欲しくないのだが、もちろ
んロランにはロランの立場があり、自分がどうこう言えるものではないことだ。

 翌日、ロランはハイム家の長であり、キエルとソシエの父親であるディラン・ハイムに
仕事の都合で呼び出された際、お花見パーティーに参加するのが中途半端な形になってし
まうことと、その事情を話した。
 話を聞いたディランは軽い感じでそうか、と呟くと、笑ってロランの肩を叩いてくれた。
「そういうことなら仕方ないだろう。友人は大事にするものだからな」
「は、はい。ありがとうございます」
 ロランはかしこまって頭を下げ、退出した。使用人が主人の誘いをおろそかにしたのだ
から、自分はなじられたりしても当たり前の立場なのだ。そんな失礼を笑って片付けてく
れた主人に対して、ロランは改めて尊敬と感謝の念を感じ、部屋のドアを開けて廊下に出
たときには、晴れがましい気持ちになっていた。
 しかしロランの身近な主人は、使用人のそんな勝手を許すほど甘くはない。ロランが廊
下に出たとたん、聞きなれた少女の声が「どういうことよ」と飛び込んできた。
 ロランがあわてて声の方を向くと、小さな女主人ソシエ・ハイムが、目の前でえさをか
っさらわれた猫みたいな顔で自分を睨み付けている。今にも爪をたてて飛び掛ってきそう
だ。どうやら話を立ち聞きしていたらしい。
「ソ、ソシエお嬢さん、聞いていたんですか」
答えの分かりきった質問は無視して、ソシエが牙をむく。
「使用人のくせに主人の誘いを袖に振るなんて、偉くなったものね」
「立ち聞きなんて、趣味が悪いですよ。それにキースのとことの掛け持ちにはなりますけ
ど、お嬢さんたちのお花見にも顔を出させて頂きますし……」
「あんたみたいな恩知らずな使用人になんか、来て欲しくないわよ!」
 恩知らず。その言葉にロランは絶句した。これまで自分は精一杯ハイム家で働いてきた
つもりだし、尊敬や感謝の気持ちを忘れたこともない。それをまるっきり無視されたようで、
ロランは胸に痛みと寂しさを同時に覚えていた。
 ソシエは黙りこくってしまったロランを何秒か見つめた後、顔をそらして去っていった。
一人残されたロランに、ハイム家の廊下がやけにがらんどうに見える。

 その日はずっと仕事に手がつかず、ロランは使用人仲間のサムやジェシカからもどやさ
れたりして、散々な一日を過ごすことになった。主人の誘いをむげにした報いだろうか。
そんなことを思いながら帰り支度を終えたロランは、庭を横切っている際に自分を呼び止める声を聞いた。
 華やかな金髪が夕日を受けて鮮やかに輝く立ち姿は、ひとめで誰なのか分かる。ハイム
家の長女、キエルだ。なんとなくあわせる顔がない気分になってしまっているロランは一
礼して立ち去ろうとしたが、キエルの「どうしたのです」という優しい声に、足が前へ進
もうとしない。
 自分の顔を覗き込みながら、「元気がないようだけれど……」と尋ねるキエルの青い瞳に
見つめられて、ロランは自分でもどうしたいのか分からぬまま、「恩知らず」の一件につい
て全てをしゃべってしまいたくなった。
 手近なベンチに腰を下ろし、ロランはキエルを相手に思いついたこと何もかもを話した。
ロランの独白が終わったところでキエルは、「ソシエったら」の言葉とともに姉の顔で微笑
むと、ロランの肩に手を置いてロラン自身にも微笑みかけた。西日を受けてオレンジに染まった白い顔が、ただ美しい。
「わたしはロランは良くやっていると思いますよ」
「キエルお嬢様……ありがとうございます……」
 キエルの静かだけれど確信を感じさせる言葉に、ロランは胸につかえていたものが溶け
て無くなっていくのを感じた。キエルの手が添えられている肩が温かい。甘酸っぱい感情
が体中を包み、自分の顔が熱を持っていることが分かる。

 ロランの沈んだ感情がなくなったのを知ってか、キエルは立ち上がって夕暮れのひと時
がおしまいであることを告げた。ロランは一抹の寂しさを感じたが、それをかき消しては
るかに、憧れているキエルに励ましてもらったことで全身が弾むようだ。今なら百メート
ル走の世界新記録だって出せそうな気がする。
 キエルに元気良く別れの挨拶をして、ロランは軽やかに歩き出した。浮かれるロランの
後頭部にいきなり鋭い痛みが走ったのは、鼻歌を歌いながらハイム家の正門をくぐろうとしたその瞬間だった。
 何かをぶつけられたようだ。周囲を見回してみると、不自然に小石が一個転がっている。
こんないたずらをするのはまずソシエお嬢さんだ。なんで今になって石をぶつけられたんだろう。ロランは頭にそっと手をやりつつソシエの行動を疑問に思ったものの、自然とキ
エルの微笑みを思い出して、あかね色の空に引き写していた。

後編に続く



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最終更新:2018年11月12日 15:02