日曜日。天気は予報どうりに晴天であり、桜も満開とみていい見事な咲きっぷりだ。そんな
お花見会当日の朝に、シーブックとロランは二人連れで会場であるビシニティ公園にやってきた。
それぞれ自分の店の売店を準備するためなのだが、二人の作業はお互いの目の前で行われる。
 商店街のお花見会実行委員が、カロッゾパンとドンキーベーカリーの出張販売所を、道を挟んで
正面から相対する形で配置したからだ。なにか含みがあるわけでもないだろうが、シーブックと
ロランはまさに真っ向から客を取り合うことになってしまった。
「ま、ロラン。仲良くやろうぜ」
「ああ。じゃあまずシーブックの方から売店を作っちゃおうか」
 二人はカロッゾパンの売店の準備を始めた。それぞれが勝手にやるよりも、二人で協力して順番に
売店を組み立てた方が早く作業が終わるからだ。周りを見回すと、他にも沢山の人が各々の準備に
忙しくしている。
 二人の作っているカロッゾパンとドンキーの売店は似たようなもので、売店といってもテーブルを
並べたその上にパンを種類別に区分けしたケースを置き、商品のほこりよけとしてパラソルを立て
かけるだけのシンプルなものだ。
 シーブックとロランは手早く二つの売店を作り終えると、家から持ってきたおにぎりとお茶で
朝食をとることにした。
「ドンキーは出店をやるのはロランだけか?」
「うん、シーブックのとこは?」
「セシリーが一緒にやってくれる。うちは看板娘つきだ」
「ふーん、じゃあそっちの方が有利だね」
 売店ではパンが焼けないのはもちろん、お花見会があろうとも二つの店とも通常通り開店するため、
本店を留守にするわけにはいかない。ロランが臨時に雇われたのもそのためだ。



285 名前:お花見会の決戦・後編2投稿日:03/04/19 03:56 ID:???
 おにぎりを食べ終わった二人がお茶を飲んで一息ついていると、ドンキーのトラックが公園の入り口
に現れた。すぐ後に続いてカロッゾパンのトラックも姿を見せる。運ばれてきたパンを降ろして売店に
並べるため、ロランとシーブックは駆け足でトラックの止まった駐車場へ向った。
 二つの店はそれぞれ売店にパンを運んで並べ始めた。ドンキーはキースが、カロッゾパンはザビーネと
セシリーが応援に来ている。焼きたてのパンが並んでいく売店には、鼻を心地よくくすぐるおいしそうな
匂いが生まれていく。
 パンをすべて並べ終えた両店の周りには、先程からお花見会の準備をしていた人々がパンの匂いに
引かれて群がってきた。午前9時の開場まではまだ30分ほどある。パンを売ってもいいんだろうか、
と迷ったシーブックがザビーネの方をちらりと伺うと、ザビーネはいつものようにやや高慢な態度で
答えた。
「売ってもかまわん。そのぶん私とカロッゾさんが焼けばいいことだからな」
それを聞いたドンキーのキースも、負けていられないとばかりにロランに販売を促す。
「ロラン、こっちだって今から売ってもらってかまわない。頼んだぞ」
 こうしてカロッゾパン対ドンキーベーカリーの決戦の幕が上がった。



286 名前:お花見会の決戦・後編3投稿日:03/04/19 03:57 ID:???
 午前9時に始まった商店街主催お花見会から一時間が経過し、序盤の勝負はややカロッゾパン有利に
進んでいた。シーブックが対ロラン用に考案した作戦が功を奏し、セシリー目当ての男性客を多く
獲得している。しかしセシリーはすこし気に入らないようだ。
「ねえシーブック、この服すこしスカートが短すぎない?」
「そこがいい……じゃなくて、そんなことないし、ミニスカートって嫌いかい?」
「あんまり好きじゃないわ。それに家族連れの受けは良くないんじゃないの、この格好」
「基本的には白いブラウスを基調とした上品なスタイルだから問題ないよ、うん。子供づれの人たち
 だって買ってくれてるし。お父さんの受けがいいんだよな。」
 シーブックもそこらへんには気を配ったつもりだ。家族層に嫌われてしまっては男性客が増えても
仕方がない。今のところはそんなに問題ないようだし、セシリーチラリズム作戦は成功といっていい
だろう。これはあくまで商売のためだからな。そうシーブックは自分に言い聞かせながら、黒のミニ
スカートから覗くセシリーの太ももをちらりと盗み見た。
「このブラウス、上品というよりはひらひらした細かいフリルがついているだけに思えるのだけど……」



287 名前:お花見会の決戦・後編4投稿日:03/04/19 04:01 ID:???
 一方ドンキーの出店を預かるロランは、なんとかしてこちらに客をひきつけようと考えているのだが、
なかなか妙案が浮かばず頭を悩ませていた。客が来た雰囲気に顔をそちらに向けると、見
知った優雅な
立ち姿の青年がそこにいた。
「やあ、ローラ。調子はどうだい?」
 ラインフォード家の御曹司、グエン・サード・ラインフォードだ。お花見の場にはやや不似合いな
はずの上品なスーツを着ているが、さほど不自然にも見えないのはグエンだからだろう。思わぬ人の
登場に、ロランはすこし面食らってしまった。
「何でグエン様がこんなところにいるんですか?」
「ローラのことなら、私は何でも知っているさ」
 グエンは当たり前のようにさらりと言って、端正な顔に微笑を浮かべた。右耳辺りの金髪を褐色の
指でさっとかきあげる。ロランは、どうして自分がここにいることを知っているのか、まさか盗聴だ
とか盗撮だとかじゃないだろうな、と思い至って、不安が背中をなぞるのを感じた。そんなロランの
気持ちを知ってか知らずか、グエンは背をかがめてロランの顔を覗き込んだ。
「おすすめのパンをひとつくれないか、ローラ」
 ロランは一歩引いてから、すぐそばにあったクロワッサンアマンドを紙のシートにのせて手渡した。
「120円です。グエン様」
「ありがとう。ローラ、パンを売ることに苦労しているようだけど、私が来たからには、ドンキーの
 本店にあるパンも含めて全部買い取ってあげてもいい。別に何も代償として要求しないよ。私はただ
 ローラの役に立ちたいんだ」
 クロワッサンを口に運ぶ仕草さえ優雅に、グエンが言う。突然の申し出にロランは困惑して、しどろ
もどろになってしまった。
「あ、あのグエン様、ここでパンを売っているのは、宣伝のためでもあるんです。だ、だからその、
 お気持ちは嬉しいんですけど、それはむしろ困ります」
 ロランのその言葉を聞いても、グエンはさほど落胆することなく、上着を脱ぎながら続けた。
「なら、ここで一肌脱ぐとするか。ローラにも一肌脱いでもらえると嬉しいのだが、いや冗談だよ」
一瞬表情が固まったロランに、軽くウィンクしてグエンは微笑んだ。

 強引な展開に圧倒されたロランが呆然と眺めていると、グエンは二人連れの中年女性になにやら
話しかけている。客引きをやってくれるようだ。早速話しかけていた二人組みを店にエスコートし
てきた。
 二人はグエンと適当に話したあと、何個かのパンを買っていった。グエンは手を振って二人を見送る
と、また他の客を捕まえてドンキーに誘っている。今度は子供連れだ。そんなふうにしてグエンは次か
ら次へと巧みにお客をドンキーへ連れてきてくれた。
 考えてみればグエン卿は、容姿端麗なうえ物腰は柔らかで話術は巧み。頼りになる人だ。ロランは
あらためてグエンの顔をまじまじと見つめてしまった。
「ローラ、そんなに見つめられると、さすがの私も恥ずかしいよ」
全く恥ずかしがる様子もなくグエンは微笑む。見直しはしても、油断はするな。ロランは自分自身に
念を押して、グエンの絡みつく様な視線から顔をそらした。
 そのときロランの目にふと時計が目に入った。時刻はもうすぐ12時だ。ハイム家のお花見ももう
始まっているだろう。後で参加してもいいんだろうか。ロランはソシエのことを思い浮かべた。
 あの「恩知らず」と罵られた日以来、ロランはソシエに口をきいてもらっていない。よく晴れた
空から落ちる日差しが、すこし憂鬱に見える。
「ローラ、どうしたんだい。何か悩みがあるのなら、いつでも私の胸にとびこんでくれてかまわないぞ」
ロランの心情を察したのか、グエンが優しく肩に手を置いた。
「なんでもありません。心配してくださってありがとうございます」
ロランはキエルのときのように、グエンに相談することはしなかった。微笑みながらグエンの手を
やんわり肩から下ろして、ロランはハイム家がお花見をやっている方角に目をやった。



297 名前:お花見会の決戦・後編6投稿日:03/04/20 05:11 ID:???
 時刻は12時を回り、ビシニティ公園の一角で行われているハイム家のお花見も、のんびりとした
家庭的雰囲気の中、ゆったりと盛り上がっている。
 そんなハイム家の面々の中で一人だけ、ソシエの胸は弾まなかった。原因はソシエ自身わかって
いる。
 ロランだ。あの日、ロランがドンキーの売り子をやることを耳にした瞬間、無性に寂しくなった。
そのせいでソシエはロランにきつく当たってしまい、おまけに謝ろうかと思ったときには、ロランは
姉に慰められて浮かれていた。そのときつい石をぶつけてしまったことでますます謝れなくなり、
ソシエはこの日曜日までロランと口をきいてやっていない。すまなそうに話しかけてくるロランを
無視し続けてきた。悪いのは自分のほうなのに、引け目を感じているようなロランの態度がソシエ
には辛く、余計頑なに口を紡いでしまったのだ。
 ソシエが浮かない顔を上げると、いつのまにか横には姉のキエルがいた。姉はソシエに体重を預
けるように肩を寄せると、そっと耳元でささやいた。
「ロランのことが気になるのでしょ」
 そんなことないわよ、とソシエが反射的に口を動かそうとすると、それも十分予測していたのか、
キエルはソシエの唇に指を当ててふさいでしまった。
 反論するタイミングを奪われて、ソシエはうつむいた。どんな顔をしてロランに会いにいけばいいん
だろう。あの日、すぐ謝ることができていたら、こんなに苦しくなかったのに。
「お姉さまが悪いのよ。あの時お姉さまがロランを慰めちゃったから、私が……」
 姉に甘えるつぶやきをソシエが漏らしたとき、意外な客が姿を見せた。
「失礼、ハイム家のお花見はここでよろしいのかな」
 顔を上げたソシエが見たのは、いつもの赤いゴーグルと親衛隊長の制服姿ではないけれど、確かに
ハリー・オード大尉だ。すぐ後ろには姉そっくりの月の女王様が微笑んでいる。



298 名前:お花見会の決戦・後編7投稿日:03/04/20 05:14 ID:???
「言ったでしょう。特別ゲストを呼んでおいたって」
 血のつながっている方の姉が笑いながら全員に二人を紹介した。両親はびっくりして口をあんぐり
あけている。月の女王がやってくるとは思いもしなかっただろうし、その女王は自分達の娘とそっくり
なのだ。話には聞いていたはずだが、実際に目の前に現れれば、口のひとつも開けっ放しにしてしまう
だろう。
 ディアナはキエルそっくりに見える格好をしていて、唯一見分けがつくのは銀色のヘアリングを
していることぐらいだ。ハリーはアイビーっぽいスタイルで、ピンクのシャツの上に黄色と黒の
ベストを着ている。
 ディアナはひとしきり皆に挨拶をしたあとで、周囲を見渡して訊いた。
「ロランもいるということでしたが、今はいないようですね」
「ロランは親友のパン屋の手伝いをしてるのよ。そうだ、ハリーさん、一緒に見にいかな
い?」
 ソシエはロランのところに行くことを決心して、ハリーを誘ってみた。自分ひとりでは上手く
ロランに話しかけられないだろうから、ハリーにダシになってもらうつもりだ。
「しかし私はディアナ様の元を離れるわけには……」
 渋るハリーを、ディアナが説得してくれた。
「ハリー、私ならここで皆さんとお話しているだけなのですから大丈夫です。それともあなたは、
わたくしの親衛隊長が女性の誘いをむげに断る失礼な者だとして、わたくしに恥をかかせるつもり
ですか」
そういわれたハリーは滑稽に見えるほどかしこまった後、柔らかくソシエに微笑みかけた。
「ではソシエ嬢、あらためて御同行願えますかな」
ええ、こちらこそ。とおどけてソシエが答えて、ロランのところへ向おうとしたとき、ディアナが
さらにハリーを呼び止めた。
「ハリー、ロランの手伝いをするのなら、自慢の『応援グッズ』を忘れていますよ」
そう言ってディアナはあるバッグをハリーに手渡した。ハリーが持参したものらしい。
「なにそれ?」
とソシエが聞くと、ハリーは「これはいいものだ」と答えてにやりとした。
「そうそう、あれをわすれてはいけないな」
キエルに30cmぐらいの黒い長方形の箱のようなものを取ってもらって、「これで準備万端だ」と言った
ハリーを連れて、ソシエはロランの元へ向った。

 シーブックたちカロッゾパンは、ドンキーにグエンが現れてから苦戦を強いられていた。
「セシリー、ロランのほうにグエン卿が来てから、男性だけの客以外を向こうにとられっぱなしだな」
「あの人、『ランラン』の抱かれたい有名人男性で4位に入ってるものね」
 セシリーの答えにシーブックは思わず彼女の顔を見返した。あのグエン卿が世間の女性にはそう見ら
れているとは。ウチに来てはローラ、ローラと騒動を巻き起こしているのに。シーブックにしてみれば
まさに意外だ。
「どういうところが人気なんだ?」
「名門の御曹司だし、野心家的な雰囲気も受けているみたい。見た目だっていいし、笑顔がさわやかで
 魅力的だって」
「セシリーも、ああいう人が好きなのか?」
 シーブックはつい聞いてしまった。「え、私はそうでもないけど……」と答えようとしたセシリーを、
自分が尋ねたにもかかわらず、シーブックはさえぎってしまった。
「いや、いいんだ。変なこと聞いて悪かったな。そ、それよりザビーネさんに新しいパンを運んで
 もらうよう、頼みに行ってくれないか」
 客足は向こうに傾いているとはいえ、セシリーの格好のおかげもあってパンはそれなりに売れている。
それに焼きたてのパンで挽回をはかりたい。やはり正攻法で行く、とシーブックは今更ながら考え直す
ことにしたのだ。
「わかったわ。シーブック、その、この格好着替えてきてもいい?」
 セシリーは自分の着ているフリルのついた白のブラウスと、黒のミニスカートを見回しながら答えた。
やっぱりあまりいい気分ではないようだ。
「もちろん。もう充分堪能した……じゃなくて、これからは正攻法で行くからさ」
頭にかぶっている帽子を触りながら笑ってごまかそうとしたシーブックに、綺麗な顔をすまして、
セシリーは冷たく目を細めた。
「シーブック、私変にいやらしい人よりは、グエン卿みたいにさわやかな人のほうがいいと思うわ」
 シーブックは「え?」というのが精一杯で、笑顔のまま固まってしまった。冗談だろ。
 セシリーが本店に向った後、シーブックはあらためて道の反対側にいるグエンを観察してみた。
ロランに話しかけるグエンの態度は、やはり妖しい。しかしそれは、自分たち兄弟のような一部の人間
にしかわからないものなのか。

「グエン様のおかげでお客さんがたくさん来てくれましたね」
「そうだな。しかしローラ、あっちには看板娘がいるのに、こちらにはいない。これはやはり不利では
 ないかな」
 瞳を輝かせるグエンの様子に、嫌な予感がロランの胸をよぎる。というより、やはり来たか、という
思いだ。
「グエン様、僕は女になりませんよ!」
「親友のためだろう、ローラ。女になってお客をたらしこむんだ!君がやるしかない!」
 ロランの腕をぐっと掴んで迫るグエンに押されたとき、不意に足が絡まってしまい、ロランは地面に
倒れこんでしまった。自然とグエンがロランの上にのしかかるような姿勢になる。ロランが目を開ける
とすぐそこにグエンの瞳があり、二人は見つめあう形になった。
「グエン様、早く離して、立ち上がってください」
「ローラ、私は……」
 グエンがそのままの姿勢で耳元にささやいて、ロランの全身に悪寒が走ったとき、救いの女神は
従者を連れて現れた。
「なにやってんのよ、あんた達!みんな見てるのよ!」
 登場と同時にソシエはグエンをロランから引き剥がした。グエンが「ちょっとしたアクシデントだよ」
と、ほこりを払いながら微笑む。
「いいところを邪魔してしまったかな」
従者のハリーはからかいながらロランのほこりを払ってくれた。「いえ、助かりました」と答えて、
ロランはソシエのほうに向き直った。どうして自分のところにやってきてくれたのだろう。
 二人の間にすこし気まずい空気が流れた。どちらから話しかけていいのかわからないのだ。それを
見て取ったのかハリーが、「ソシエ嬢は君が気になって仕方なかったのだよ」と、気が利いているのか
利いてないのかわからない一言を投げる。
「このところ口をきいてやらなかったから、悪かったかなって思ってただけよ」
ハリーの言葉を受けて、ソシエがぶっきらぼうに、ロランの顔を見ずに言う。ロランは胸を重くして
いた塊が消え去ったのを感じた。
「じゃあ、お許しいただけるんですね」
ロランは心底安心して深い溜め息をついた。さりげなくグエンが「よかったな、ローラ」と肩に手を回す。

続く……


310 名前:お花見会の決戦・後編9投稿日:03/04/22 02:50 ID:???
 ソシエはそんなグエンからロランを引き離して自分のほうに引き寄せると、売店に立って「せっかく
だから手伝ってあげるわ」と、パンを見回した。ロランは意外に思ってソシエの方に顔を向けたが、照れ
でもあるのか、なかなかソシエはロランの顔を見てくれない。
「結構売れてるのね」
「ええ、そろそろキースが新しいパンを持ってきてくれると思います」
「じゃあ、私もそのときには手伝わせてもらおうかな」
 いつのまにか隣にいたハリーがバッグをごそごそとかき回している。ロランが「何です、それ?」と覗き
込むと、縦縞の野球のユニフォームがちらりと見えたが、そのほかはわからなかった。ハリーは小さな長方
形の箱をいじ繰り回してもいたが、「よし」とつぶやくと、勢いよく立ち上がった。
「すこし練習するかな」
 そう宣言するとハリーはバッグから阪神タイガースのユニフォームとメガホンを取り出した。素早くさっと
身につけたユニフォームの「HOSHINO 77」の文字が陽に輝く。同時に小さな長方形から音楽が流れ出した。オー
ディオ機器だったようで、小さなボディからは想像しがたいほどの音量を誇っている。ロランにも聞き覚えの
ある前奏だ。たしかプロ野球の中継で、そうロランが思っていると、隣のハリーが勢いよく息を吸い込み、黄
色いメガホンを構えた。
「六甲おろしに~♪颯爽と~蒼天翔~ける~ 日輪の~~~♪」
「ハリーさんなに歌ってるの!?」
ソシエの制止も完全に無視、というより聞こえていない様子でハリーが歌い続ける。
「青春の覇気 うるわ~し~く♪輝く我が名ぞ ドンキーベ~カリ~~♪オゥオゥオゥオゥドンキ~べ~カリ~♪
 フレフレフレフレ~~っ♪」
 ロランは頭を抱えた。一難さってまた一難。
「阪神タイガースの部分をドンキーベーカリーに変えただけじゃないですか」
「即興でやってみたのだが、なかなかいいだろ。これを今からこの店のテーマソングにする」
 ハリーは歌いきった満足感でいっぱいのようだ。ソシエが可愛らしい頭を左右に振って、せめて
私の曲『AFTER ALL』にしましょうと、こちらも的外れな提案をしだした。
「『AFTER ALL』って別にソシエお嬢さんの曲ってわけでもないんじゃ……」

続く……

 ハリーが六甲おろしを歌ってから客が引いてしまい、ロランたちは何とか店の雰囲気を良くしようと、
それぞれに意見を言い合った。
「とにかく歌を歌うのはだめよ、ハリーさん」
「いい手だと思ったんだがなあ」
「選曲がわるかったのだ。私が『傷だらけのローラ』を歌えば何とかなるさ」
「グエン様、お願いだからやめてください。キースの店の評判に関わるんですよ」
 4人の会議の結果は、ハリーとグエンが「六甲おろし」と「傷だらけのローラ」、どちらのほうが名曲か
で言い争いを始めただけだった。さすがのロランもこれには頭にきて、二人を思いっきり怒鳴りつける。
「二人とも何やってるんです!喧嘩なんかするなら、もうここからいなくなってくださいよ!」
 この言葉はそれなりの効力を発揮した。グエンはロラン、いやローラのそばに居たかったし、ハリーは
ハリーで名誉挽回の機会を求めていたからだ。二人が論争の決着を後回しにして仲直りの握手をした
とき、ちょうどドンキーのトラックが、新しいパンを載せて姿を現した。グエンとハリーをソシエが促す。
「せっかくきちんとした大人が二人もいるんだから、役に立ってよね」
 そんなソシエの口調に苦笑いしながら、二人はトラックのほうへパンを受け取りにいった。

 ロランたちの騒動を横目で見ていたシーブックは少し寂しかった。セシリーが本店に向ってから
シーブックはずっと独りだ。ロランは苦労しているだろうが、ドンキーの賑やかさがうらやましくも
ある。 
 当然ながらこの時点でシーブックは、自分にも変わった協力者が現れるとは全く思っていない。

 そんなカロッゾパンにある一組の男女が近づいてきた。客かもしれないから表情にだすことはして
いないが、シーブックはその二人からある匂いを感じ取っていた。
 一家に騒動を巻き起こして去っていく連中や、もしくは兄のドモンや居ついてしまったギンガナムと
同種の、何か「一般の人」というカテゴリーから大きく外れているであろう匂い。だいいち、二人とも
服装からして何かおかしい。まるで「勘違いされたヨーロッパ貴族+軍服」みたいな格好だ。しかし顔
立ちとスタイルに限って言えば、男の方も女の方もかなり良い部類に入る。そのせいか、二人のことを
振り返る人が多い。


316 名前:お花見会の決戦・後編11投稿日:03/04/24 04:15 ID:???
 シーブックがそう二人のことを観察していると、店の目の前で男の方が口を開いた。
「レディ、気まぐれに関して、君はどう考えるかね?」
「悪い気まぐれと良いきまぐれとがあると思います。トレーズ様ならきっと、いえ間違いなく良い方の
気まぐれでしょう」
男の方が立場が上らしい。二人とも一見素敵に見える微笑、シーブックにはやっぱり怪しい人種だな、
と感じさせる微笑みを浮かべている。
「ではレディ、私の気まぐれに付き合ってくれるか。このパン屋を手伝おうと思うのだが」
「はい。喜んで」
 二人の会話をシーブックは理解しかねた。勝手にカロッゾパンを手伝う話をしているのだ。シーブック
が眉根を寄せて疑問を表してしていると、トレーズと呼ばれた男が話しかけてきた。
「私はトレーズ・クシュリナーダ。念願かなって歯医者をやっている者だ。いきなりだが、君、私が君の
 パン屋を手伝ってあげよう。この女性はレディ・アン。私の助手だ」
 トレーズに紹介された女性が頭を下げる。しかしこの二人、いきなりやってきて手伝いをすると
言い出すなんてどういうつもりなんだ。シーブックは二人に怪しみの視線を向けた。
「私たちはただ君のパン屋を手伝いたいだけだよ」
 シーブックの視線を受けてトレーズが答えた。何か悪いたくらみがあるわけではないようだ。そう
感じさせるものがある。シーブックはつい、ひとりで退屈してたとこだし、手伝ってもらうのもいい
か、と考えてしまった。
「じゃあ、手伝ってもらおうかな」
 シーブックの了承を得ると、二人はいきなりどこからかバラの花を持ち込んで、店を飾り始めた。
急に華やかにというよりは、けばけばしくなっていくカロッゾパンの売店。驚くシーブックにトレーズ
が笑いかける。
「何事もエレガントにいかなくてはな」
 シーブックは自分がミスを犯したことを痛感しながら、心の中でひとりごちた。あんた、エレガント
の意味わかってるのかよ、と。

続く・・・


323 名前:お花見会の決戦・後編11投稿日:03/04/27 11:46 ID:???
 トレーズたちにより真っ赤なバラで鮮やかに彩られてしまったカロッゾパンだったが、意外にも客が
ひっきりなしに訪れている。そのほとんどが女性、しかも主婦層といったところだ。シーブックが訳を
知りたがっているのを見て取ったのか、レディ・アンが説明してやろう、と少し傲慢な態度で言った。
「トレーズ様は話題の歯医者として、少しだけテレビや雑誌で紹介されたことがあるのです。その結果、
 ごく少しの露出にもかかわらず、『ランラン』の抱かれたい男ランキングで2位にはいられたのです」
「私としてはあまり嬉しくないのだがな。一位ではないということではない。ランキング自体があまりエレ
ガントではないからな」
 トレーズがレディの言葉に付け加えた。投票の多くは、昼のワイドショーや女性週刊誌の主な視聴層、
購読層である主婦の人達からのもののようだ。
 つまり、今カロッゾパンを手伝ってくれているこの勘違い男は、そのキャラも含めて主婦のカリスマ
なのか。シーブックはそう納得した。
 トレーズの登場によるいきなりの大人気は、新しいパンを補給しに来たザビーネとセシリーを凍りつか
せるのにも十分なものだった。自分達の売店がバラに埋もれている惨状と、主婦による熱狂的盛況が
理解を超えたものだったからだろう。ようやくといった感じでザビーネが問う。
「なんなのだ、これは」
「あの二人のせいだよ。手伝いたいっていうから、ついオーケーしちゃって、このざまに」
 シーブックは親指をトレーズとレディ・アンの二人に向け、この混沌の元凶を二人に説明した。もっとも
彼らのおかげでパン自体は売れている。すぐにでも補充しなければならなかったので、ザビーネたちが
やって来てくれたのはシーブックにとってはありがたかった。



324 名前:お花見会の決戦・後編11投稿日:03/04/27 11:49 ID:???
 パンのケースを下げて、補充を行いながらセシリーがシーブックの耳元で囁く。
「あのトレーズっていうひと、有名な歯医者なのよ。タレントみたいな感じでだけど」
「ああ、そうらしいな。さっき説明してもらったよ。おかげでさっきからおばさんがたが寄ってきてさ」
「シーブック、貴様カロッゾパンをイロモノにしたいのか」
ザビーネは客が沢山来ているとはいえ、今の状況が気に入らないようだ。それはシーブックも同感だ。
何か納得できない。客がパンを買いに来ているのではなく、トレーズに会いにきているからだろ
うか。
「この責任をどう取るつもりだ、シーブック。連中に手伝いをさせたのは貴様だろう」
ザビーネが更にシーブックを問い詰めようとしたとき、いきなりトレーズとレディが割り込んできた。
「悪くない素質を持っていると思います、トレーズ様」
「うむ。レディの思うようにやってもらってかまわんよ。私も君に同感だ」
 二人の会話は何を指しているのだろうか。シーブックの頭に疑問が浮かんだときには、二人は
ザビーネを捕まえて、無理やり引っ張っていってしまった。そして数分後、トレーズとレディと同じ
ような形の、つまり偽貴族風の黒い洋服をきたザビーネが現れた。シーブックとセシリーは思わ
ず視線を交わす。
「ザビーネ、あなた、何故そんな格好に……」
「パンを売るためです。感情を処理できん人類はゴミですし、私も恥をしのんで……」
口外に明らかな怒りと屈辱を滲ませながらザビーネが答えた。顔が紅潮している。


続く・・・番号が間違いすぎですいません。これが14です。


325 名前:お花見会の決戦・後編15投稿日:03/04/27 11:52 ID:???
 いったい何を言い含めたんだ、あの二人は。慄然としてシーブックがトレーズとレディを振り返ると、
二人はセシリーのほうを見て何やらささやきあっている。セシリーにまであんな格好をさせられるか。
シーブックがトレーズを睨み付けると、それに気付いたトレーズは柔和な微笑みを浮かべてシーブック
に話しかけた。
「彼女、セシリーさんは非常に優れた素質を持っているが、君の心配していることはせんよ。ザビーネ
 君との約束だからな」
「約束?じゃあザビーネがあんな格好をしているのは……」
「見た目同様なかなか貴族的な精神を持っているようだな、彼は。しかし何故、よりエレガントになる
 ことをそんなに拒むのかね」
 シーブックはもはやトレーズに答えることはせず、黙ってザビーネの背中をみた。レディが主婦連中に
ザビーネを紹介すると、ちょっとした拍手とたいして黄色くもない声が飛んだ。なかなか評判が良いようだ。
シーブックは、アクシズみたいなものを地球に落としたいと考える馬鹿の気持ちが、一万分の一ぐらいは
理解できたように思った。

 目の前のカロッゾパンがとんでもない様変わりをして、同時にお客というよりタレントの追っかけの
ような人だかりが出来るのを、ソシエとロランはただ呆然と見ていた。
「なんなんでしょうね、ソシエお嬢さん」
「トレーズのせいよ、トレーズ・クシュリナーダ。なんであっちにいるのかしら」
 ソシエがぶっきらぼうに答えたとき、グエンとハリーが新しいパンを持って帰ってきた。二人ともライ
バル店の変貌に目を見張っている。とはいっても二人のことだから、それほど大きなリアクションは
しない。小さく「ほぉ」とか「これは」とか呟いただけだ。ソシエは「あっちにトレーズがいるのよ」
と、人だかりの原因と思われることを二人にも教えてやった。
「トレーズ・クシュリナーダがいるのかい?何で向こうを手伝っているんだ?」
「分かりません。そんなに有名な人なんですか?僕はそういうの疎くて……」
 ソシエにとって気に食わないことに、グエンは尋ねるのを口実にロランの瞳を強引に覗き込んでいる。
ロランを魔の手から救うため、ソシエは強引に二人の間に割り込んだ。
「あんた何も知らないのね。いますごい人気じゃない。『ランラン』の抱かれたい男で2位なんだから」
 照れもあってかやや乱暴な言い方になってしまう。ソシエはいつも、もう少し優しい言葉を選んで
ロランと話してみようと思うのだが、今回も例によって失敗だ。ロランは知らなくて悪いですか、と
でも言いたげな表情を見せている。
「……でも、そういうランキングで2位になるなんてすごいですね」
 ロランがそう言ったとたん、今度はグエンが二人の間に割り込んできた。
「私だって4位に入ったよ、ローラ」
「本当ですか。すごいじゃないですか」
 根が素直なロランは単純に感心している。ソシエはグエンに負けないように、ハリーを使うことに
した。親衛隊長だってこの話なら、自分に順番が回ってくるのを待っているはずだ。



335 名前:お花見会の決戦・後編17投稿日:03/05/01 01:11 ID:???
「ハリーさんも9位に入ったのよね」
ソシエが話を振ってやると案の定、何の必要があるのか胸を大きくそらしたハリーが、大げさに頷く。
「そ、そうなんですか!?」
 ロランの興味関心メーターの針は一気にハリーへ傾いた。あのハリーさんがランキングに入って
いると聞けば、必ず注意を引けるはずだと考えたソシエの作戦は成功した。ソシエ自身、今月の
『ランラン』でグエンに加えてハリーまでランクインしていたのを目にしたときには、驚きのあまり
に飲んでいた紅茶を吹き出して、母と姉からひんしゅくをかったほどの破壊力をもつ事実だから、
当然といえば当然かもしれない。
 しかしハリーにとってみれば、ロランが今見せたような反応や、ソシエが紅茶を吹いてしまった
事件はあまり快くないみたいだ。
「そんなに疑問かね、ロラン君。これでも私は月では男女問わず市民に人気があるんだが」
 疑問に決まってんじゃない!とソシエは胸のうちで突っ込みを入れつつも、ダシに使ったことも
あるし、ハリーの名誉のために『ランラン』に寄せられたコメントを紹介してやることにした。
「出来る男はやっぱり素敵。あの若さでディアナ様の親衛隊長だなんて凄すぎ。私のことも護って~」
「お嬢さん。なんです、それ」
「私に寄せられたコメントだよ。他にもあるだろう、ソシエ嬢」
あたしはあんたのマネージャーじゃないのよ!と再び突っ込みつつもせっかくだからと、ソシエは
もうひとつ紹介してやった。
「あのゴーグルの下の素顔が気になる~。ミステリアスな魅力です。だって。バッカじゃないの」
「ソシエ嬢、私の顔はそんなにまずくないだろう」
「コメントがおかしいのよ。素顔の問題じゃないの、ハリーさん」
「至極真っ当かつ正確な意見じゃないか」
「お二人ともそんなことで言い合ってどうするんですか」



336 名前:お花見会の決戦・後編18投稿日:03/05/01 01:16 ID:???
 どうしようもない言い合いを見かねたのか、自分も仲間に入れて欲しかったのか、グエンまで口を挟む。
「まあ、所詮ローラには敵わないけどね」
「え、どういう意味です?」
「グエン様、だめよ」
 ソシエはグエンを止めようとした。あれはロランにとって知らない方がいいことに違いないはずだ。しかしグエンはしゃべってしまった。
「《シルバークィーン》ローラ・ローラは『ランラン』の抱いてみたい女性第一位だよ。ローラ」
「ぼ、僕女装してテレビに出たりしてませんよ」
「月でも大人気だ。どこからか出てきた映像なり写真なりが一人歩きして、架空のアイドルとして
 話題になっているのだよ。まあ一時的なものだろうし、あまり気にするな、ロラン君」
 ソシエは大きく溜め息をついた。いくらロランでも自分が女としてアイドルになっていることに
いい気分ではないだろう。からかってやろうとも思ったが気の毒すぎるし、ロランには秘密にして
おこうとソシエは思っていた。ソシエの考えたとおり、ロランは表情を失くして棒立ちになっている。
「ロランはそういうの疎いから知らずにすむかと思ってたのに……グエン様、何で言っちゃうのよ!ロランは男なんだから!」
 義憤のような感情が胸の中で燃え上がるままに、ソシエはグエンに噛み付いた。激しい剣幕に押さ
れたのか一歩後ずさったグエンに、すかさず詰め寄ろうとしたとき、ソシエは後ろから両肩を掴ま
れた。



337 名前:お花見会の決戦・後編19投稿日:03/05/01 01:19 ID:???
「お嬢さん、いいんです。グエン様だって悪気があったわけじゃないと思いますし、僕はお嬢さんが
そうやって心配していてくださったことだけで充分ですから」
 そうやってロランに止められると、ソシエとしてはもう何も出来ない。さっきまでの怒りが急速に
しぼんでいき、ソシエがうなだれて後ろを振り返ると、ロランは黙って微笑んだ。やや力ないその
笑顔が、ソシエをやけに切ない気分にさせる。
「ロラン、でも……」
 言うべき言葉が見つからず、ソシエは口ごもった。ロランのエメラルド色の瞳を見つめていると、
ソシエの左胸に、ロランの腕の中に飛び込んでいきたい想いが生まれ、鼓動のたびに大きく息づいた。
足がその熱に従って動こうとしたその刹那、無慈悲にもハリーが余計な一言を口にした。
「ディアナ様も心配なさっていらっしゃったよ。ロランは男の子なのに、これではひど過ぎる、と」
「ディアナ様が、僕を心配してくださったんですか」
 ロランはディアナがこの場に居るわけでもないのに、顔を真っ赤に染め抜いた。それを見た瞬間、
ソシエの足はほんの少し前とはまったく違った動きをして、ソシエはロランの足を思いっきり踏み
つけた。

 ロランがソシエに足を踏みつけられている頃、キエルとディアナはある女性の恋の悩みを聞いて
いた。
 アンナマリーという名のその女性は、酒によった使用人がどこからか連れてきてしまったようで、
放っておくわけにもいかず、二人が話し相手になっていたのだ。
「それで、その人は私のことなんか、どうせ考えたこともないんです。きっと。」
「そんなこと、分からないじゃないですか」
 キエルとしてはそう無難に答えるしかない。そんなに人生や恋愛の経験が豊富なわけではないし、
アンナマリーの好きなザビーネという男性のことだってよく知らないのだ。こういうときは隣のディアナ
に力になってほしいのだが、ディアナは先ほどからうつむき、黙りこくっている。
 結局キエルは当り障りのない返答や、相槌をうちながら、話を聞いてあげることそのものが大切な
のだと、都合よく考えるしかなかった。
 最もそれは間違いではなかったようだ。アンナマリーは自分の中にたまっていた思いを吐き出した
かったのだろう。ひとしきり話をしてしまうと、アンナマリーは来たときよりも明るい表情を浮かべて、
キエル達に話を聴いてくれた礼を言って去っていった。



370 名前:お花見会の決戦・後編21投稿日:03/05/01 22:26 ID:???
 ほっと一息ついてキエルが横をみると、ディアナは先ほどよりも沈み込んだ顔色を浮かべていた。
まるでアンナマリーの暗い思いを吸い取ったかのように。
「ディアナ様、どうなされたのです。お体の調子を崩されてしまったのですか?」
「そうではないのです……」
 そっくりな顔をした女王は憂いをたたえた顔を力なく左右に振った。キエルは一瞬、同じ女性である
にもかかわらず、美しい、とただ思ってしまった。顔立ちではなく、表情にそう感じたのだろう。同じ顔を
していても、自分にはどうしても現すことの出来ない美しき憂い。けれどそんな表情を浮かべることの
出来るディアナは、とても哀しい人なのかもしれない。
「ウィル・ゲイム……わたくしは……」
「ディアナ様……昔を想われているのですね」
 ディアナの呟きにキエルが応じると、ディアナは力なく頷いた。
「アンナマリーさんの話を聞いていたら、あのひとのことを思い出してしまって……」
ディアナはそれきり自らの憂いの中にとらわれてしまった。
 キエルはそのディアナを見て、ロランに来てもらうしかない、と結論付けた。ディアナはあの無邪気な
ロランに、どこか心慰められるものを感じているはずだ。キエルにもそれは分かる気がする。ロランは
そういう特別な温かさを持っている少年だから。
「ジェシカ、ディアナ様をお願いね」
 信用の置ける年配の女性使用人に言付けて、キエルはロランを呼びに出た。

 トレーズとレディ・アンのおかげで、カロッゾパンのパンは飛ぶように売れていった。
だからシーブックの胸は少しも弾まなかった。パンを買っていくのはみなトレーズに
会って、少しでも会話を持ちたいだけの人々だ。パンそのものなど、どうでもいいに
違いない。
 加えてザビーネのことがある。ザビーネはトレーズたちに「エレガント」に改造されて、
お客のちょっとした人気者になっている。ザビーネの本意じゃなく、セシリーをかばって
のことだろう。連中にそういう交換条件を持ち出したことぐらい、シーブックにも分かる。
 シーブックはザビーネに済まない気持ちだった。トレーズたちの手伝いを許可したの
は自分なのに、そのツケを払わせられているのはザビーネなのだ。
 同時に悔しかった。もしセシリーに危機が迫ったら自分が守ってやる妄想ぐらい、何度
かしたことがある。しかし実際に何かするべきときには、自分は全くの役立たずどころか、
疫病神を呼び込むことまでして、セシリーを守ったのはザビーネだった。
「シーブック、これでいいのかしら。たしかにパンは売れてるけど……」
 シーブック同様、セシリーもこの状況を良くは思っていないようだ。
「いいんじゃないか。パンは売れてるんだし、あの中から、ウチのパンを好きになってく
 れる人だって出てくるさ」
「それはそうかもしれないわね。私も前向きに考えることにするわ」
 セシリーはそう言って微笑んでくれたが、シーブックの胸中は情けなさでいっぱいに
埋まった。前向きに考えての発言ではなく、自己弁護のような気持ちにせきたてられて、
ああ言っただけだったからだ。
 シーブックはセシリーの顔を見ているのが辛く、目をそらした。視線の先に人だかりを
越えて、片足で飛び上がっているロランと、ひねくれた顔をしているソシエの姿がある。
相変わらず楽しそうでうらやましい。シーブックの口から疲れた笑みが滑り落ちた。

 ロランが片足で飛び上がっていると、キエルが道の向こうから走ってくるのが見えた。
長い金髪を
揺らして走る姿に、何か急ぎの用事でもあるのだろうか、と頭を傾げたロランの横に滑り込んでくる
なり、キエルは少し荒い息のままささやいた。
「ロラン、ディアナ様に会ってきなさい」
「ディアナ様、にですか!?」
 つい大声で応じてしまったロランに、キエルがハリーと一緒にディアナもこの場に来ていることを
教えてくれた。ロランはディアナの来訪を知って心躍らせたが、キエルの表情を見ると、良い知らせ
を持ってきたというわけでもないようだ。ロランが疑問に思っていると、
「ディアナ様に何かあったのか!?」
と、ハリーが二人の間に割って入った。
「少し憂鬱になられてしまって。いえ、少しではなくてかなり……だから、ロランがそばにいてあげ
 たら少しでも良くなられるのでは、と思って、呼びに来たのです」
 キエルが声をひそめて言う。ロランは少し前の喜びもかき消えて、心配の黒雲が胸を覆うのを感じた。
すぐにでもディアナのもとに駆けつけたい衝動がロランを襲ったが、キースに店を任されてもいる。
どうしたらよいのだろう、と頭を抱えると、キエルがロランに提案してくれた。
「私がこのお店を手伝うから、あなたはすぐにディアナ様のそばに行きなさい。あなたの力が必要
 なのです」
 キエルの凛とした声につき動かされるまま、ロランがディアナのもとへ走り出そうとしたそのとき、
ロランは不意に左腕を掴まれた。
「ローラは私と来るんだ!」
 瞳を妄執に輝かせたグエンが強い力でロランを引き寄せようとする。ロランは無理やり振り切ろう
としたが、なかなか離れない。
遊んでいるヒマはないのに。そう念じてロランがもう一度強く引っ張ったとき、ハリーが
加勢して
くれた。素早くグエンの手をロランの腕から切り離す。
「ディアナの犬が!」
「悪いか!早く行け、ロラン君」
 取っ組み合う二人の声を背中に聞きながら、ロランは駆けた。もはや踏まれた足の痛みなど感じない。
一刻も早くディアナ様のそばに、ということだけがロランの頭にある。

 その思いを止めたかったのか、それともつい口からこぼれたのか、ロランを呼び止めるようなソシエ
の声が、ロランの背中を打った。
「ロラン、行っちゃうの」
 ソシエの声が後ろ髪を引く力は決して弱くなかったが、それでもロランは振り返らなかった。

 キエルの目の前で、ハリーはグエンを押さえ込んだ。貴族のたしなみとしてグエンもそれなりに体を
鍛えているが、ディアナの親衛隊長であるハリーには、もちろんかなうわけがない。
「放したまえ、ハリー大尉」
「ええ、もうかまいません。ロラン君はいってしまいましたから」
 ハリーは余裕を見せて微笑んだ。
 その顔からは眼鏡が外れている。先ほどのもみ合いの中で落として、壊してしまったらしい。眼鏡も
ゴーグルもしていないハリーは、キエルにとっても珍しい光景だ。素顔を見られるのを嫌ったのか、
ハリーはすぐにいつもの赤いゴーグルをかけた。予備として持ってきていたようだ。もともと珍妙
だった服装が、さらにおかしくなる。
 もっともハリー自身は何も気にしていない様子で、キエルに話を向けた。
「ディアナ様は、どのようなご様子でしたか?」
「とても憂鬱になられてしまって、ウィルさんのことを思い出していらっしゃいました」
「そうですか。ディアナ様はこの頃、そのほかにもなにか思われることがあったようでした。それも
 あるのかもしれません」
「ディアナ様が、ほかに気になされていたことがあるのですか?」
 キエルの質問にハリーは頷いたが、その理由まではわからない、と首を振った。
「なんだっていいわよ、そんなもの」
 ロランを盗られてしまったソシエが、横から割って入り、唇を尖らせる。
「私も深刻に悩んでいるふりでもしてみようかしら」
「ソシエ!」
 キエルは妹の無礼を嗜めたが、ソシエは顔を背けて、完全にすねてしまった。もっとも
そう振舞う
ソシエの気持ちはキエルにもわかる。ハリーも同様なのか、ソシエを責めるような言葉も口にせず、
ただ黙ってくれていた。

 トレーズはカロッゾパンの全てのパンを売りきったが、それでも当然トレーズ目当ての人だかりは
消えることがない。シーブックはもはや、もうどうにでもしてくれ、という気分になってしまって
いた。
 そんな中、トレーズは人だかりの向こうをみて、愕然とした様子を見せた。
「あちらのパン屋のあの女性は……」
 シーブックがその視線を追うと、ドンキーベーカリーの売店に、ハイム家の長女であるキエルがいた。
トレーズが気を引かれたのは、彼女らしい。
「長く美しい金の髪を、縦ロールに巻いている。なんというエレガントな……」
 トレーズにとってキエルの姿はすさまじい衝撃だったようだ。傍らのレディ・アンも目を見張って
いる。
「あの者、ただ者とは思えません」
「レディ、隣の男を見てみるんだ」
 トレーズはキエルの隣にいるハリーを指し示した。シーブックもハリーを観察してみる。この二人は
あれもエレガントだというのだろうか。まあ、個性的な格好ではあるが。
「アイビースタイルの服装のうえに、縦じまの野球ユニフォーム。そして爬虫類を思わせる真っ赤な
ゴーグルの、あの男ですか」
「ああ。あの男の格好はまさに道化。昔、高貴なる身分のものはその身辺に道化を置いたという。彼女
 はそれをしているのだよ」
 トレーズは低く感嘆の声を漏らしたあと、「彼女が何者だか知っているかね」とシーブックに訊いた。
「キエル・ハイムさんですよ。俺の兄弟が使用人として勤めているハイム家のお嬢さんです」
 シーブックの答えを聞くと、トレーズは静かに立ち上がった。そして隣のレディ・アンに語った。
「良家の息女とはいえ、あのキエルという女性は一介の市井の人にすぎない。その彼女があれほどの
 エレガントを誇っている。……レディ、私はまだまだ修行が足りなかったようだ」
「トレーズ様……」
「『エレガント道』を極めるには、私はすこし浮つきすぎていた。急ぎ帰り、道を究めるための鍛錬に
 望みたい。レディ、付き合ってくれるか」
「はい。喜んで」
 その会話を最後に、トレーズとレディ・アンはカロッゾパンを去っていった。

 ロランがハイム家のお花見の場へ駆けつけると、頬をほんのり赤く染めたディアナがそれを迎えた。
「あら、ロランじゃないですか」
「ディアナ様、お酒をいただかれているんですか」
「いけませんか」
ディアナはふふっと微笑んだ。ロランは、その微笑みに色気を感じて頬を赤く染めながらも、そばに
いるジェシカに目で尋ねた。
「落ち込まれているようだから、少し差し上げたら……」
 独特のなまりのある声でジェシカが答えた。キエルの様子から考えて、大ごとかと心配して走って
きたロランは、ほっとしながらも、妙に釈然と行かない気分だ。と、急に何かを思い出したかのよう
に、ディアナがロランの袖を引っ張った。
「そうです。わたくしはロランに話があったのです」
 酒が回っているのかケラケラした感じの軽い声で、ディアナがロランをすこし離れたところにある
ベンチへと誘った。
「でも、まだハイムのだんな様にも挨拶していませんし……」
「わたくしの誘いを断るのですか」
 心底尊敬し、慕っているディアナにそう言われてしまうと、ロランとしてはついていかざるを得ない。
いつもの、ロランが知っているディアナとは違う雰囲気がするが、それはたんにお酒だけのせいなの
だろうか。ロランがちらりと盗み見たディアナの顔は、美しくもどこか不穏なものを感じさせる。

 ロランがディアナと並んでベンチに腰を下ろすと、ディアナはロランの目をじっと見つめてきた。
「な、なんで、しょう、ディアナ、様」
神秘的な青い瞳に見つめられて、ロランは声がギクシャクとしかでてこない。
「ロラン、いえ、《シルバークィーン ローラ・ローラ》、よくもわたくしのひそかな自慢を打ち砕いて
くれましたね」
 ディアナは常に無いきつい口調でロランに詰め寄った。しかしロランは、すぐには何を言われたのか
分からなかった。
「あの、ディアナ様、しるばーくぃーん? ってなんですか」
「とぼけるとはなんです、ロラン! あなたがローラ・ローラとして、『ランラン』の恋人にしたい女性
と抱いてみたい女性の一位を、わたくしから取り上げたことです!」
 ディアナに怒鳴りつけられた衝撃の中、ロランは、自分が架空のアイドルとして、望んではいない
人気を得ていることを思い出した。
「わたくしはいつも『ランラン』の女性ランキングでは3冠だったのです。それがロラン、今年はあなた
 のせいで、好感度の高い女性でしか一番になれなかったじゃないですか!それはわたくしだって、
 抱いてみたい女性で一位は恥ずかしくて、嫌でした。でも恋人にしたい女性まで失うなど、ロラン
は男の子なのにこれではひどすぎます」
 ロランは男の子なのにこれではひどすぎます。ハリーはロランに、ディアナ様がそう心配していら
した、と教えてくれた。それはよく覚えている。しかし、どうやらそれはハリーの読み間違いだった
ようだ。
 ロランは、軽いめまいと共に真実に突き当たった。
憧れのディアナ様はロランのことを心配してくださったのではなく、男のロランがディアナ様を下
して『ランラン』のランキングで一位になったことを、ひどすぎる、と言ったのだ。
「ソシエお嬢さんに失礼をしてまで駆けつけたのに……こんなのって……」
 ロランは天を仰いだ。美しい桜の花びらが、風に揺れて散った。それがひどく、悲しかった。

「ウィル……わたくしには女としての魅力など、もはや無いのでしょうか……」
 空を見上げて放心しているロランの隣で、ディアナはぽつりと呟いた。
 その言葉を聞いた瞬間、ロランは、反射的にディアナのほうに向き直り、精一杯の誠意を込めて、
「ディアナ様は、とても魅力的な方です」
と、ディアナの青い瞳から視線をそらさずに言い切った。
「ロラン……」
 ディアナは声をなくして、一瞬ロランを見つめた。そして、瞳に炎を燃え上がらせ、真っ白な両手
でロランの顔を包み込むようにつかんだ。
「わたくしを魅力的だと言ったのは、このやわらかそうな唇ですか。それとも、澄み切ったエメラルド
 色の瞳ですか。いいえ、このきめの細かい綺麗な褐色の肌でしょう!」
「ディアナ様、その、あの、ご、ごめんなさい」
 ロランは、ディアナの手のひらのしっとりとした温かさと、自分への訳のわからない嫉妬の両方に心を
かき乱されて、混乱のままに誤ってしまった。
 そんなロランの言葉にディアナは、ふっと溜め息をついてロランから手を離し、先ほどまでの言葉が
嘘のように微笑んだ。
「わたくしのほうこそごめんなさい、ロラン。男の子なのに女性として扱われて、ロランのほうが辛かっ
 たでしょうに……わたくしったら……」
「ディアナ様……僕、全然気にしていません」
 ロランは嘘をついた。あまりに急に態度を変えられても、ロランは怒る気になれない。
ディアナ様が
笑ってくれるなら、もうそれでいい。その考え方がロランには当然だった。
 敬愛する女王は、今度は心からの笑顔でロランに接してくれている。
「わたくしはロランと一緒に桜がみたかったのです」
「ほ、本当ですか、ディアナ様」
「ええ。あ、そうです、ロランがここにいるということは、もうパン屋さんの仕事は終わったので
 すね。ソシエさんを呼んできてあげなさい。あなたの手伝いに行ったのでしょう」
 ディアナの言葉に、ロランは再び凍りつかされた。「わたくしはハイム家の方々と待っていますから」
と言って立ち上がったディアナを見送ったあと、ロランは頭を抱えて呟いた。
「僕は、どんな顔をして、ソシエお嬢様に会いにいけばいいんだろう」
 そのとき、ロランの後ろの草むらから、ガサッと誰かが現れた気配がした。

 ロランが音のしたほうを振り向くと、グエンが服に付いた草を払っている。グエンはロランが口を
開くより早く、ロランの隣に滑り込んできた。
「話は聞いていたよ、ローラ」
「何でこんなところにいるんですか!グエン様」
「ハリー大尉とキエル嬢は仲睦まじくやっているし、ソシエ嬢は君に振られてむくれてしまっている。
 こっそり抜け出してくるなんて簡単だったよ」
「そうですか。やっぱりソシエお嬢さんは、怒ってらっしゃるんですね」
 ロランはうつむいて、なんとか仲直りする手はないだろうか、と頭の中をかき回してみた。しかし、
何のアイディアも浮かんでこない。
 沈み込むロランに、グエンは手を差し伸べて顔を上げさせた。
「聞いていいかな、ローラ。ローラはソシエ嬢と仲直りしたいのかい。それとも、ディアナ・ソレル
連れて来いと言ったから、ソシエ嬢と話がしたいのかな」
 グエンの質問は、ロランの心臓をぐさりと貫いた。何も言えず絶句したロランに、グエンは優しく、
諭すように続けた。
「ローラはすこし八方美人なところがあるな。それが過ぎると、人を傷つけてしまうよ」
「そう、ですよね」
 ロランはただただ頷くことしかできない。
「ローラはいったい誰が好きなんだい。何人でもいいから、このさい話してみるんだ」
 グエンの提案に、ロランは導かれるように感じた。そうさせるものが、今のグエンにはある。ロラン
は、俯きながらも、たどたどしく言葉を紡いだ。
「好きというか、僕が大切に想っているのは、ディアナ様……ソシエお嬢さん……」
「もう一人いるだろう」
「キエルお嬢様も……だと思います」
「ローラ、『も う 一 人』いるんじゃないか」
グエンが一段と力を込めて訊く。ロランは顔を上げた。
「もういませんよ。でも僕、単純に好きというよりは、その、あの」
 ロランの答えにすこし納得が行かない素振りを見せながらも、グエンは、
「そうか……まあ、ローラがソシエ嬢と仲直りしたいのなら、私が協力してあげるよ」
と言い、逆光を背負って微笑んだ。
 ロランにはそのグエンが頼もしく見えた。まいっているところに手を差し伸べてくれたからなのか。
ロランは自問したが、グエンの助けを借りることしか頭には浮かばない。
「ローラ、私に任せておけ。悪いようにはしない」
「本当に、ですか?」
 グエンから感じる頼もしさに、結局ロランは甘えることにした。

 ロランは、具体的にどうソシエと仲直りするつもりなのかグエンに尋ねたが、グエンは答えて
くれなかった。グエンはただ一言、任せてくれよ、とロランに投げ返して、去っていった。

 相変わらず意味もなくいちゃついている姉と誰かさんの親衛隊長にちょっと苛立ちながら、ソシエは
何をするでもなく、売店に置いてある椅子に座って、足をぶらぶらと遊ばせていた。
 何度目かの溜め息をついて、ソシエがすこし離れたところに目をやると、いつのまにかグエン卿が
視線の先にいる。あたりをきょろきょろと見回して、なんだか人目を気にしているようだ。
 そうやってグエンを観察していると、ふとソシエとグエンの視線が軽く交差した。その途端、グエン
は慌てて目を逸らし、身を隠そうとする。
 ソシエは何か怪しいものを感じた。グエンが気にしていたのは、人目ではなく、自分たちなのかも
しれない。そうすると、何の目的があって……。
 ソシエはもう一度、グエンがさっきまで立っていた場所に視線を戻した。そこに、白いメモのような
紙切れが落ちている。ソシエは急いで駆け寄って、紙切れを拾い上げた。
 きっとグエン卿が落としたんだ、そう推測してメモの内容に目を走らせた瞬間、ソシエは茶色の瞳を
思いっきり見開くことになった。
 メモの内容を知らせようと、ソシエは急いでキエルとハリーのもとに走った。二人の間に強引に近い
形で割って入り、メモを突きつける。メモの内容が緊急を要するからだが、心のどこかには、さっきから
仲睦まじい二人の仲を邪魔してやろうという、意地悪な気持ちも隠れているかもしれない。
 それはともかく、メモを見せたところ、キエルもハリーも、緊張はあるものの、またか、といううんざり
した表情を見せた。ソシエも二人に全く同感なのだが、ことがことである以上、見過ごすわけにもいか
ない。
 グエンが落としたと思われるメモには、こう書かれていた。「ローラ強奪計画 その実行手順」と。

 シーブックたちは店の片付けをしていた。功罪いずれかはわからないが、カロッゾパンのパンは
あのトレーズたちによって売り切られている。シーブック個人の感情としては全然歓迎できること
ではないが、その事態を招いたのが自分自身であるために、誰も責めることはできない。
 シーブックは自分のしたことのツケを払わされたザビーネを見やった。ザビーネの着ている偽貴族的
な印象を受ける服は、トレーズに無理やり着させられたものだった。
「ザビーネさん、その服、着替えてきてもいいですよ。片づけなら、俺がやりますし」
 極力気を遣ったつもりのシーブックの言葉に同調してくれたのか、セシリーもザビーネにそうする
ようすすめた。
 しかしザビーネの答えは、
「これでかまわん」
というそっけないものだった。
 せっかくこっちから言ってやったのに、と、シーブックはやや恩着せがましく考えながらも、ある
考えに思い至って、セシリーの耳に口を寄せた。
「ザビーネのやつ、あの服が気に入ったんじゃないか」
「あの変な服を? まさか。嫌がっていたじゃない」
「だからさ、着ているうちにだんだん気に入ったのかなって」
 顔を寄せて話すと、シーブックの鼻をセシリーの髪の匂いがくすぐる。この環境は悪くないな、そう
頭に浮かべた瞬間、ソシエ・ハイムがシーブックの前に滑り込んできた。
 ソシエはすこし顔をしかめながら、
「どうして私の行く先には、カップルしかいないのかしら」
と、返答を求めていない呟きをもらすと、シーブックにある紙切れを手渡した。
「ハイム家のお嬢さん、これは?」
言いながらシーブックは紙切れを広げた。メモか、と文の内容に目を滑らしてすぐ、頭の中を溜め息
が覆っていく。
「またか」
「恒例行事って感じなのね」
 ソシエの言葉にシーブックは苦笑をともなって応じた。
「うちの連中が、先祖代々グエン卿と戦ってきたような錯覚におちいるまで、あともう少しってところ
 かな」

 ロランはグエンの顔を覗き込んで、もう一度尋ねた。
「本当に仲直りできるんですよね、グエン様」
「ああ。うまくいっているよ。ローラが下手なこといわないかぎり、ソシエ嬢と仲直りできるはずだ。」
 グエンが後ろから、ロランの肩を励ますようにつかんだ。ロランは心を決めて、ソシエのもとに
向おうと、足を踏み出した、はずだった。
 体が前に進まず、グエンの腕が首に巻き付いてくる。口と鼻の前に何かの薬品らしき匂いのする
布を押し付けられた。
「うえんああ、んん、んーーー」
 布の下でうめきながら、ロランは、騙されたのか、と薄れゆく意識のなかに呟いたが、答えはない。
「計画は順調だよ、ローラ」
 ロランはグエンの声を聞いたように思いながら、気を失った。

 グエンがロランのことを連れ去ろうとしたまさにそのときに、シーブックたちはなんとか間に合う
ことができた。
 ロランはグエンの腕のなかでぐったりとしている。メモに書かれていたとおり、薬を嗅がされた
ようだ。それをみた瞬間、シーブックは胸を怒りで熱くしたが、それは一緒に駆けつけたハイム家
の姉妹とハリーも同様だった。
「グエン様、ロランを放して!」
「薬をもちいて無理やり連れ去ろうとするなんて……グエン様、それはやりすぎです」
 グエンは、ソシエとキエルの声にも何ら動じず、不敵な笑みを浮かべて、ただ一言、
「ローラを返してほしいのならば、力ずくできたらいかがです」
と言い放った。
 それを聞いて、ハリーは黙って歩み出た。不必要な体の力を抜き、重心を低く置いた歩き方が、
「もとよりそのつもりでしたよ」と無言のうちに語っている。そのハリーは頼もしすぎて怖いほど
だったが、シーブックはそれを後ろから、待った、と呼び止めた。
 振り返らずに前を向いたままのハリーの横に立って、シーブックは、
「俺がやります。下がっていてください」
と言った。ハイムの美人姉妹も、月の親衛隊長もロランのことを憎からず思ってくれているようだが、
シーブックはロランの兄弟として、いまから行われることは誰にも譲りたくなかった。
 ハリーは、そんなシーブックの感情をわかったのか、黙って後ろに下がってくれた。
 シーブックは、グエンの深い青の瞳をじっと見つめた。その瞳は輝いているが、不可解な色をして
いる。
 何をたくらんでいるんだ、という疑念を抱えながら、シーブックはグエンと正対した。
「ローラをめぐって、一対一の決闘か。いいじゃないか」
相も変らずふてぶてしいグエンに、シーブックは不快な気持ちと、怒りを抑えられない。
「俺に勝ったら、ロランを連れて行ってもいいですよ」
絶対に勝てる自身がシーブックにあるわけではない。勢いにまかせて言っただけだ。

 シーブックを後ろで見守りながら、ソシエがキエルとハリーに小声で囁いた。
「ロランの兄弟が勝てなかったらどうするの」
「私がグエン卿を倒すだけだ。シーブック君とグエン卿の間だけの約束を私が守る必要もあるまい」
 言い切るハリーにキエルは頼もしさを感じながらも、一抹の不安を拭い去れなかった。
ハリー殿と真っ向からやりあえば勝てないことぐらい、グエン様はわかっているはず。だとすれば……。
「何かを企んでいるとみるのが、自然でしょうね」
 キエルの思考を呼んだかのように、ハリーがキエルに話しを振った。ハリーは驚いて目を見張った
キエルから前面の光景に視線を移して、
「それを観察させてもらいます」
と、シーブックに出番を譲った理由のひとつを言った。キエルはハリーをひとにらみして、意地悪く
言ってみた。
「なんだか悪党ですこと」
「悪党には、貴女という勝利と美の女神は微笑んでくれませんか」
ハリーの切り返しに、ソシエがまずくてぬるいコーヒーでも飲んだかの様な顔をして、
「私もいるんだけど……」
とうめくと、ハリーは唇をほころばせた。
「私はソシエ嬢に言ったつもりだったのですが、お気に召しませんでしたか」
「もういいわよ」
 ソシエのついた溜め息にキエルもハリーも笑ったが、ふざけながらもハリーの目はグエンの周囲に
張り巡らされている。

 ロランを巡る、といってもシーブックとグエンではロランに寄せる感情が全く違うのだが、とにかく
ロランを賭けた二人の決戦は、グエンの先制攻撃で始まった。
 腕を大きく振りかぶった拳によるグエンの一撃は、シーブックにはやすやすとかわすことができた。
モーションがあまりにも大きすぎる。相手の攻撃を冷静に分析しながら、シーブックは大きく開いた
グエンの懐に飛び込み、左のあばらを思いっきり突き上げた。
 強烈なリバーブローに、グエンが苦痛のうめきをもらす。シーブックは容赦なく、再びボディブロー
を放った。新たな目標はみぞおちであり、これもいとも簡単に深々と突きささった。
 もろい、はっきりと感じながら、シーブックはさらにあごへひじを叩きこんだ。グエンがなすすべ
もないといった感じで地に膝をついたのを、さらに追撃することをよしとせず、シーブックは一歩
引いた位置からグエンを見下ろす格好を取った。
「もうやめますか。それとも、続けるんですか」
 シーブックがグエンを打ちつけなかったのは、膝をついた相手を攻撃することに引け目を感じた
ということもあったが、あまりにも簡単にやられているグエンが不気味だから、という理由のほうが
大きかった。
 何か企んでいるに違いないが……シーブックがその疑念を振り払えないのは、グエンの目を見たから
だ。何か不可解な、底の知れないものがあった。
 考えにとらわれたシーブックが気を抜いていたところに、グエンの蹴りが突然シーブックの右脇に
飛んできた。不意の一撃を喰らってシーブックは多少たじろいだが、すかさず反撃に打って出る。拳と
蹴りを4、5発連続で打ち込むと、グエンはろくに防御もできずにすべてを直撃されて、ついにはのびて
しまった。
 グエンを見下ろしながら、シーブックは、自分が勝利したものの、釈然としない気分だった。このひと
はいったい何がしたかったんだろうか。まだ罠を張っているのか。シーブックが気は抜けないと思って
いると、隣でいきなり、
「どうも何を考えているか分からん。周囲に罠らしきものは見当たらないしな」
というハリーの呟きがした。
「突然現れないでくださいよ、ハリー大尉」
「私は君にゆっくり歩いて近づいたよ。」
 嘘ではないだろうが、シーブックも集中をといたつもりはなかった。ハリーのいたずらにそら恐ろ
しい気分を抱きつつ、ハリーも自分と同じで怪しいと思っているらしいことに、シーブックは自分の
疑念が正しいという自信を深めた。グエン卿は何か企んでいる、または企んでいたに違いない。
 しかし、現実にはプロであるハリーにも罠らしきものは見つけられない。結局、ハリーは安全だと
判断してか、離れたところにいるハイム姉妹に、こちらに来てもいいという意味であろう合図を
出した。
 妙に大げさなのが、ハリーらしい。笑ったシーブックにハリーが、
「悪くない動きだった。格闘の訓練をつめば、結構な使い手になれるんじゃないか」
と褒めてくれた。シーブックはふと、海賊にでもならないかぎりそんなことはないだろうな、と頭に
浮かべた。なぜ海賊で、警察官や軍人を思い浮かべなかったのかは、自分でも分からない。

 ベンチに寝かされていたロランの周りで、シーブックたち4人が話し合った結果、ソシエとキエルが、
とりあえずロランを自分達のお花見の場所で休ませようと提案して、他に案も無いということで、即座
にそれが実行に移されることになった。
 問題はグエンの処置だ。シーブックとしては、経験上放っておいても大丈夫だと思うのだが、ハリー
が面倒をみてやるというので、ハリーに一任することに決まった。
 ロランはシーブックが背負って運ぶ。ソシエとキエルにも手伝ってもらって、意識のないロランを
背中に乗せたシーブックは、意外に重いんだな、と感じて、ロランに済まない気持ちになった。男
なのだから軽くないのは当たり前のことで、軽いのだと無意識に考えていたのが、自分までロランを
女として考えていたような気になったからだ。
 重いロランを運ぶ道中、ソシエが特別心配そうな表情をみせるのを見て、シーブックは、兄弟が目を
覚ましたら、天上の月ばかり見ていないで身近な花にも目を向けるように、少し言ってやろうかと
柄にもなく思ったりした。


 グエンが瞳を開けると、そこには表情を悟らせない、赤眼鏡の鉄面皮がいるだけだった。
ことの顛末
がどうなったのか聞くために、ローラの兄弟のせいで負傷した唇を、グエンは動かした。
「ローラは、どうしたんです」
「シーブック君たちが連れて行きましたよ」
「ソシエ嬢は、ローラのことをどう見ていたのです」
 ハリーはグエンの質問を妙だと思ったのだろう。すこし間をおいてから答えた。
「心配していましたよ、とても。恋敵のことが気になると?」
 グエンは笑った。ハリーの言ったことがおかしかったからではなく、計画の成功を確認できたか
らだ。
 ソシエと仲直りしたいといったローラのために、グエンはあえてローラを誘拐することにした。
そしてわざとそのことをソシエに伝える。あとは自分がやられてしまえば、ローラは期せずして
ソシエのもとに帰ることができる。あとはローラがソシエの小言のひとつでも聞けば、仲直りで
きるだろう。
 わざわざ手をかけたものは愛しく思うものだ。自ら勇躍してローラの安全を守ってやったソシエは、
その苦労と手間のぶんだけ、ローラに思い入れる。そうすれば、ローラの仲直りのチャンスも生ま
れるということである。
 計画は実際にはもちろん綱渡りだった。もっと堅実で確実な方法もあっただろうが、頑丈な石橋を
築いて渡河するよりも、濁流の上をあえてか細い綱を選んで渡ろうとするグエンの性格もあって、
多少の失敗の可能性を含んでいても、グエンはこの一人芝居作戦を選んだのだった。
 作戦はいまや見事に成功し、残る問題はただ一つ、この作戦上どうしても防ぎ得ない欠点だけだ。
つまり、愛するローラのグエンに対する心象が、ますます悪くなったということだけである。
 しかし、グエンは悔やんではいない。グエンは愛する人のために自らを犠牲にするロマンチシズム
に適度な酔いを感じていたし、偽ものの自己犠牲とロマンに遊ぶ、そんな自分の愚かさ加減を横目で
楽しんでもいた。

 グエンはとりあえず、いまローラに送る言葉をさがしてみたが、なかなか思い浮かばない。仕方ない
ので、どこかで聞いたようなセリフを、心の中で呟いてみた。
「ローラ、君の気持ちは分かっている。でも、私はいつまでも待っているよ」



513 名前:お花見会の決戦・エピローグ投稿日:03/05/21 04:46 ID:???
 カロッゾパンとドンキーベーカリーは共に、有名人のいる店? として一時雑誌に紹介されるなどして、

「ふははははは、この売上金、凄かろう。」
「これでベルレーヌを幸せにしてやれる!工場作って量産体制だ~」

状態だったが、もちろん一過性の現象に過ぎず、結局は以前と同じ地道な商売に戻ることになった。
それでも客は少々増えたようで、冷静に考えれば、宣伝効果はきちんと出たのである。

 ちなみに、カロッゾパンのザビーネのロッカーに、トレーズから送られた服がきちんと保存されて
いることをシーブックは偶然に発見し、ザビーネの新たな目覚めを見守るべきかどうか悩んでいる。

 ロランは、グエンのおかげで結局はまた、ソシエとディアナの間に立ちつつ、キエルのことを眺めて
いる、微妙で、繊細で、絶妙なポジションを取り返すことができた。
ロランはシーブックの忠告も、まじめに聞いたものの、まじめに実行することはなかった。

 トレーズとレディ・アンは日夜、歯医者の傍らに「エレガント」を追及し、いつかキエルに認め
られる日を、極めて勝手に待ち望んでいる。

グエンの日常に変化は無く、今日も執務を鮮やかにこなし、愛するローラの息災を祈っている。

最後にハリーは、今シーズンは、今日も今日とて愛するチームの活躍に踊り狂う日々を送っている。

終わり。




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最終更新:2018年11月12日 15:38