※ ※ ※
『それでも彼女は大人ではなかったですね』
『あの人がこの場でなすべきことは人々を導くこと』
『危険を冒して人々を守るなんてことは隊長にあるまじき行為』
『но、だからこそ彼女は素敵で誰からも慕われる隊長だったのでしょう』
『あなたはどうです。みほさん……』
※ ※ ※
角谷ってさあ、ロリ体系だよな。13歳のガキが言い合っていた。角谷杏は相手にしなかった。彼女は思慮深く大人びていた。彼女の年齢にしては高度な知性は、知った言葉を使いたがる子供を相手にしない態度を──、ある種の驕りを抱かせるのに十分だった。ただ、集団は常に上から目線の増長慢はつまはじきにするので、哀れ角谷杏はいじめに遭い、知性は感情によってくすんでしまい、恐るべき才能の輝きがそこら辺のイミテーションに劣るまで削られる。そんな可能性もあった。
しかし、そうならなかった。角谷杏は人を利用することに長けていたし、その才能をふるうことに何ら躊躇しなかった。並み外れたその才能。人の弱点を的確に掌握し、意のままに操る、そんな謀略の才能が彼女の小さな身体に眠っていた。悪意の標的にならないように立ち回ることも、上位カーストから畏怖を得ることも、ガキの彼女にとって児戯にも等しかった。
彼女になかったのは人に好かれる才能と身長くらいで、そんなものに彼女は人生の価値を見出したりはしなかった。周辺と比べて頭一つ小さかろうが、桃ちゃんと比べて頭三つくらい小さかろうが、桃ちゃん三つ分くらいの計算能力も想像力もあるから。角谷杏は負け惜しみでもなくそう思っていた。
──それに、小山もかーしまも何がいいのかこんな性悪のことを支えてくれるから。だからあいつらにはいい思いせてやりたいよねえ。もらったものは返してやりたい。とくにかーしまは私のことをヒーローかなんかを見るみたいな目で見るからさあ。裏切れないよね。どうしても。
角谷杏の世界は二人がいて、二人を取り巻く街並みと人々がいて、あとは何か持っているお偉いさんと、テレビの向こうの見当もつかない人たちと有象無象たち、それから幼き日に見た思い出の宝石でできている。優れた能力から見下げる偏狭な世界観。彼女はそんな世界をうまく泳ぐ能力がある。いつか鼻っ柱をへし折られるんだろうな。そう思っても上手く生きることはやめられない。それは自分の優れた才能なんだぞと、言わなきゃ何だかやってられないから。
二人と彼女たちが信じる人たち以外信じてない。二人のことは好き。失敗しても構わない。人間限界があるよねえ。かーしま無理するなー。生徒たちも好き。私たちが生きている場所を構成しているから。間違ってもいいよ。私たちが何とかしてやろう。ほかの人もいいよ、失敗しても、どうでもいいから。自分の身もあいつらの身も守れるくらいの対策はしているから。勝手に転んでうずくまっていろ。今日も楽しいなあ。面倒くさいことはしたくない。
いつか私もミスって派手に転ぶ日が来るかもしれないね。どうにもできない時間がやってくるかも。それを避けるにはもっと真面目にやっていかなきゃならないんだけどさ。どうにもやる気が出ないんだよね。
そんなの彼女にはどうだって良かった。今は杏には杏を受け入れてくれる人たちがいて、その人たちを取り巻く優しい世界がある。もしかしたらぬるま湯の中にいる小娘が見る砂上の楼閣かもしれないけれど、そこにいる今の私は十分幸せ。
才能あるから見えちゃうんだよね、これ以上登ったら面倒くさいぞって。人生賭けてやることなんて思いつかないし、のほほんと生きていよう。たまに寂しくなるけどね。その辺のお嬢さんみたいにこと考えちゃうよ。私のこと分かってくれる人なんていないとも思うし、簡単に理解されたら反発しちゃうみたいなさ。
だから、ついに年貢の納め時が来た方って思ったよ、自分の能力を総動員しても超えられるかわからない壁、阻まれたらきっと糸が切れた凧みたいにどこかに流されてしまうだろうなって障害。なまじ先が見えちゃうから、分かっちゃうんだよね。自分じゃ超えられないってことが。あいつらには見せないようにしていたけれど、内心無理だって思っちゃってたよ。心の奥底には諦念があった。でも、何もせずに負ける姿なんて見せられない。かーしまの憧れを裏切れない。方々に手を尽くして、可哀そうぶって愛想を振りまいて、賢しらぶって感情を隠して、一縷の望みを賭けて戦車道にも手を出して、でも現実は非情で──。
いるんだよ。かーしま、小山、ちょび。
現実を変えられる英雄は本当にいたんだ。彼女は私の先に立っていてくれてるんだ。
だから私はもう寂しくなんてないんだよ。
※
五十鈴華が爛れた身体を斜めに切り裂かれて倒れている。すでに命はない。武部沙織が爛れた身体を抱え込んで蹲って動かない。もうすぐに命はなさそうだ。ここまで6時間余り、14人に加えて少々が同じ目に遭っているのだろうな。と杏は思う。放送で名簿が割れるまで、その中に小山や河嶋がその中に含まれていない保証はなかった。河嶋については今すぐにでもそうなってしまう可能性が残っている。
(西住ちゃん。君も君の仲間もそうだよ)
賢い君ならわかってるよね。言いたくもない台詞が杏に浮かぶ。できるなら心の底から彼女には励んでほしい。角谷杏はモチベーションを大切にします。それが君ならなおさらね。
しかし、あのイカレた北の6尺様は随分暴れまわったようだ。彼女の抱える肉塊寸前とその前にあるなり立てを見てげんなりとした。
「……安心してよ西住ちゃん。その子たちをそんなにして奴はもうやっつけたよ。もう気にしなくていいよ」
パチンッ! 手を叩いた。話を切り替える。
西住みほの視線を取り戻す。
「単刀直入に言おう西住ちゃん! 世界の半分をあげるから世界の半分を頂戴!」
西住みほが怪訝な──焦りと不可解さを抱えた視線を杏に浴びせる。目の前に横たわる沙織をしきりに気にしている。「さっさと済むよ」10年前なら武部ちゃんを助けられなかったかもしれないけれど、今は違うからね──。「さっきの声、聞いたっしょ」……
カチューシャさんの、拡声器ですか。そうそうそれそれ。あれは元は西ちゃんのなんだよね。さっき死んじゃったけど。
「アレで
カチューシャ殺したんだけどさー、それをそこにいた二人に見られちゃったんだよね」
ケイとアンチョビにさ。何でもないことのように語る杏をみほは眦を歪ませて見る。この人は、本当に一緒に戦ってきた生徒会長の角谷杏なのか、みほには信じられなくなった。滔々と自らの殺人について語る姿は、まるで別の生き物のようだ。あのとき喜びを露わにして抱き着いてきた少女と同じ人物なのだろうか。信じられない。
……いや、違う。一度だけ、同じ印象を抱いたことがある。大洗学園にやってきたとき、しがらみから解放された新しい生活を送ろうとしていたとき、この人に声を掛けられたとき、同じ印象を感じたような。
「声は君も含めて何人かには聞かれたかな。これじゃすぐに知れ渡っちゃうね。角谷杏は人殺しだって」
どうしてですか。んー? 杏が小首をかしげる。この人に口で勝てるとはみほも思えない。この人は他人を型にはめて動かすのが抜群にうまい。今の状態なら彼女に何を言ったところでいなされてしまって終わりだろう。ただ、どうしても聞きたかった。どうして会長さんもそんなに平気な顔ができるんですか。
「そりゃ平気だから。しかしもと来たかー」
……ケイだったりしたら、ちょびがまずいかもね。話を逸らさないでください。みほが睨みつける。杏がぱちくりと瞬きをする。全然慣れていない顔だった。ああ、ごめんね。でも平気だから平気としか言いようがないんだよね。
「目的としては大暴れしてる
ノンナをおびき寄せて殺すためだったわけだけど」
あ、ちなみに武部ちゃんと五十鈴ちゃんをそんなにしたのは
ノンナね。
西住みほは目をきつく瞑った。そして開いて出てきた瞳はやりきれない子供のような瞳。角谷杏は微笑む。
「誰かが立ち向わないといけない──そして私はすぐに状況に適応できた」となれば戦わなくちゃ。
君たちみたいな、日常に微睡んでる愛おしい大洗を守るためにさ──。
うさん臭い口ぶりだが、表情は真摯なものであり、少なくとも真実の一端を含んでいた。そして、それもまた彼女のアピールだということも。
「さて、私が遅かったせいでそんなにされた武部ちゃんのためにも話を前に進めようか」
「今私が乗った、あるいは殺したと知っているのは4人、君とさっきの二人、あとは君のツレ」
教えてくれてもいいかね。……エリカさんです。
「へー、やるねえ、西住ちゃん。あの副隊長を手なづけたんだ」
あ、ごめんごめん。そんな顔しないでよ……。
「有名校の隊長と副隊長、その前に私という現実的な脅威が迫っているわけだ」
「君という総隊長は私を討伐しなければならないね。すごい、現代の征夷大将軍だ」
「で、提案ってのはさ。裏で私と組みながら、君が大集団を形成するんだ」
「君に説くまでもないけれども、数は力だ──。隊長ばかり4人集団なら正面から突っかかれる奴はいない」
「そして西住ちゃんは高校戦車道を率いた隊長、能力、実績としても十分。正直、多人数でいるなら面と向かって君を殺せる奴なんていないと思うよ」
「それは、君が強いということもあるけど、皆が内心持っているある種の希望を完全に断ち切る行為だからね」
言葉にはしないが、そ殺し合いの打破のことを言っている。みほは理解する。
「そもそも先の戦いも君と戦って感化された皆が集まってくれたから勝てたんだ」
「君が乗るわけないなんてみんな分かっている。君は集団の頭目としてこれ以上ないほど最適なんだ」
「で、私と組もうよ。君はたらたら戦って集団を徐々に消耗させる」
「私は逃げ回りながら、君の統制を乱すやつを粛正していく」
「名付けて、干し芋半分こ作戦だ。西住ちゃん、私と組んで、すべてを手にしようよ!」
まあ、すべてって言っても。人間ばかり三人分だけだけどね。首輪を叩いて杏がみほに視線を送る。みほは会長の意図するところをすぐに理解する。すなわち、自身に対主催グループを率いろ。殺人者や裏切り者の粛清は自身がやる──と。
「あ、あと一人は私はかーしま入れたい。納得できなければそこでバトルね」
「……ふざけないでください。そんなことを本気で言っているんですか?」
言いながら横たわる武部沙織の胸元あたりを優しくさする。彼女は身じろぎもしない。身体に力がなくて心配になる。みほは杏に急かすような視線を向けた。
「ふざけてないよー。……正直さ、死人の偏りがひどすぎるんだよね」
「君に言うのは釈迦に説法で、大分もどかしい話にかもしれないけど、さっさと現状を再認識しようか」
「前回放送までに死んだのは14人、さっきのアラーム加えて16人。アレが言ってたけどさ、ほんとにとんでもないペースだよ」
「うち私たちと同校の生徒は6人、プラウダと知波単が全滅。他がちらほら死人を出している」
「にもかかわらず、聖グロとサンダースは一人も死んでいない。どういうことだろうね」
チーム戦の
ルールが効いているということだと、みほが答える。
「そう、この
ルールによって抑制されたことは同高校生徒の同士討ちだ」
どこの高校の生徒が何人参加しているかわからないなら、同校の奴相手を即殺したりしないよね。
「つまるところ三人生き残れるわけだから、初めに出会った奴が同じ高校ならそいつらは基本的に殺しあわない」
「にもかかわらず私たちの生徒が6名も死んだってことは、他校には最高で6人の人殺しがいるってことだ。6/22だね」
最低だったら一人、いや二人か。
ノンナ乗ってたからね。最も一人で5人殺す激ヤバ殺人鬼がいるとは思いたくないけど。
「もちろんそれは他校にも当てはまる──私たちを含めてさらに7人、いや、4人か。私が二人殺して、福田ちゃんが
ノンナに殺されたからね」許してね。福田ちゃん。
つまり最も悪い場合を仮定すると、全体として10/40が乗ってるし、今生きている連中の中にも8人、8/24が乗っている可能性が有るってこと。
「3分の1人殺しだよ。友情はどこ行っちゃったんだか」
「さて、西住ちゃん。ここまで推定の乗っちゃった人数だけど。まだまだ絞れる材料があるね」
チーム数、チーム名と所属していない人の名前、あの役人はチーム無所属者は乗っている可能性が高いと言っていたが、それは彼らによる心理誘導だ、と思う。
「そう、今あるチームは6チーム。青い鳥とまずい朝飯、アンツィオのと島田、それと君たちと我らが杏ちょび」
君らのダガーマークについて聞き明かしたいところだけど……話を進めようか。
「フリーの奴らの名前と人数、冷泉麻子、
河嶋桃、ホシノ、
ダージリン、オレンジペコ、アッサム、ペパロニ、
島田愛里寿、ミッコ。以上9名と照らし合わせて後に、私たちの所属チームを除外する」
「さて、分かることは何かな?! 西住ちゃん!」
「すみません、名簿はまだ、見ていないんです……」
「おいおい、しっかりしてよ、西住ちゃ~ん」
けどまあ、しょうがないか。目の前で親友二人が殺されたあるいは死にかけているんだ。その上、お姉さんが死んで、こうやって平静に話ができるだけでもありがたい状態だ。角谷杏は思う。やっぱり、鉄火場ではいつも強く在ってくれるんだね。私が君を心から尊敬している理由なんだ。
「まあ、あとで名簿見ればわかるけど、
ダージリンは乗っていない、けど聖グロメンバーは乗ってるってことだね」
「乗ってる
ダージリンには、ペパロニなんかと組む理由はない。ましてやちょびを呼び出す理由もね」
ちょびがうおお殺しまくるぜなんて性格じゃないことは誰だって知ってる。さっきまで泣きべそ掻いてたし。
「この暗号含んだ名前なら
ダージリンが主導権握ってるだろうし、まっとうな協力体制のチームってところかな」
ちょびが生きている限り、……ケイが本気で殺しに来たら今のちょびなんて5秒も持たないからさっさと終わらせるか。
「さて、聖グロの殺人鬼たちについてだね。君なら朝飯前だとおもうから、武部ちゃんのためにもさっさと終わらせるために整理しないでごちゃごちゃ言うよ」
全体の南部で起きてた戦闘は撃ったり刺したりで終わる小規模なものばかりだった。そいしてだいたいが偶発的、出会い頭で迷いながら殺しましたってものばかり。想像だけどね。
対して北部はさっきからの爆発音やら黒煙やらと良い、配信されてきた拷問動画と良い、手の込んだものばかりだ。その上、死人も大量に出ている。あんなもの単独犯じゃ到底できないだろうね。少なくとも、気の知れた仲間がいるグループ、それとは別に、積極的に乗っている奴、そこら辺の協力があったんじゃないかな。
「……ッ」
見ると、
西住みほが武部沙織に負担をかけないように縋りついている。杏は無慈悲に、聞こえてると思うからと言うと、ろくでもない話を続ける。
さて、さっきの考え方、乗ってるだろう人数、チーム所属者、それから明かされた名簿と死亡者の位置、それに継続生徒の拷問映像から見るに、おそらくC-4、C-5の住宅街には殺人鬼グループが居座っている。そしてそれは即興で人殺しができるだけの関係性で、そこそこ力量がある。死にまくっている私たちの学校の生徒ではない。全滅した知波単は関係なく、黒森峰、プラウダでもない。継続の二人もない。
おそらく、サンダースか聖グロ。
(言い忘れていたけど、西ちゃんと一緒にいたローズヒップがさらに北上して、そして死んでなさそうなところを見るに)
聖グロ二名、
アッサムとオレンジペコは確定でクロだ。そしてサンダースの二人も乗ってる可能性が高い……前の戦車道の試合であんなチートした奴と、冷徹なスナイパー。彼女たちならケイが乗る可能性が高いことを理解しててもおかしくない。その上で乗らない道を選べるかって言うとね。できないんじゃないかな。そんな奴らが、未だに住宅街に留まっている。
「一方でこれはチャンスでもある。一気に敵を片付けるね。それがさっきの干し芋半分こ作戦」
今、私たちのエリアにはケイとちょび、エリカがいて、そして1時間後には封鎖される。人数差を生かしてケイを片付ける。何なら私が殺してもいいよ。それから君たちは、可能ならば
ダージリン及びペパロニと合流。それができれば、もう勝ったようなものだね。D-2を占拠して、あとは君が適切に采配を振るえれば──北部の殺人集団を一網打尽にできる。その後はさらに北の生き残りたちを見つければ、あとは私と君で選民決めればいい。小規模な殲滅戦だね。──まあ、
ダージリンがC-3側についたら危ないかもしれないけどさ。西住ちゃん、
ダージリンにだけは弱いからね~。そのときは私が殺しに行くからさ。
「君にしている提案はこんな感じだよ。さ、西住ちゃん、」
私の手を取って。君と私が組めばできないことなんて何もない。私、君のためだったら何でもするよ。君が私たちのためにしてくれたこと。君が起こしてきた奇跡、それはどんなものと引き換えたとしても足りないんだ。
(そう、結局、この殲滅戦は君のためのもの)
君がいて、主催者に対抗できる要素が残っていて、君がその気になれば、君が君らしくあって、そのポテンシャルを発揮できるのならば、いつだって打破できる程度のもの。
カチューシャを射殺した、あの瞬間、君の声が聞こえたときに、私は勝利を確信したんだ。
あとは
ノンナを殺すことができたのならば、君を阻むものは何もないって。
そして、私は引き寄せた。君と接触する機会を、勝利への道筋を。後は君が君の道を歩んでいくだけだ。
……なのに──。
(……なのに、なんでこんなに嫌な感じがするんだろう)
河嶋が得意げに話しているときみたいな、破綻の感覚が忍び寄ってきている。
角谷杏は
西住みほを見る。胸部が上下していない。止まっている武部沙織を見る。アラームは未だに鳴っていない。まだ武部沙織は生きている。そんな生ある物体を、罅の一つも許さないかのように丁重に扱っている。縋っている
西住みほ。
いつかは杏も、沙織とみほのような関係をみほとの間に築きたかった。彼女と一緒にいろんな場所にいって、いろんなものを楽しんで、色んなことを言い合える。そんな関係。一般的な友人関係。時間をかけてそんな関係になりたかった。
不意に音が聞こえた。ひいーひいー喉が引き攣った音で、抑えきれない悲しみの音だった。どこから聞こえるのか。杏は周囲を見渡した。光が差し込む窓際から、水にまみれた周辺のベッド。いろいろな液体の混じった目の前の床。そして、少女二人。音の出所は
西住みほだった。彼女の呼吸音だった。彼女は過呼吸を起こしていた。
「西住ちゃん、……大丈夫?」
西住みほは、そんな優しさを全く無視した。彼女はもう、他者の感情にも、杏が述べていた戦略にも、今自分が置かれている状況にも、あるいは目の前にいる武部沙織のことさえも、頭の中から消し去ってしまっていた。彼女を支配しているのはたった一つ。角谷杏の話から気が付いた、ただ一つの事実。
嗚呼。
「ああ、…………お姉ちゃんが死んだ」
※ ※ ※
過呼吸に苦しむ
西住みほのために、角谷杏は病室を飛び出した。無残さが撒き散らされた部屋とは異なり、水浸しではあるが、白く清潔な廊下を彼女は進む。
(紙袋の一つも見つけてやろう──何を言えばいいかわからないしね)
思えば、彼女と出会ってから、杏が彼女に対してできたことは、彼女の背に対して鞭打つ行為ばかりだった。少なくとも、目に見える形で飴のようなものを提示できたかといえばそれは否で、有意義な行為をしてやれたか問われれば怪しいと答えざるを得なかった。
西住みほにとっての角谷杏という存在について、みほを自分にとっての英雄と位置付けている角谷杏は、考えることを避けていた。そのことは、みほに独りよがりな善意を押し付けることにつながっているとは思うが、どうしても、関係性の清算に踏み切ることができなかった。そのくせ新たに降りかかる問題の解決は、いつも彼女に任せている、いつも彼女の背に鞭を繰り出し続けている。馬じゃないんだからさー。
(ごめんね、ごめんね、西住ちゃん)
でもさ、君しかいないんだ。私にとっては、どこまで行っても君一人。
あるいは、さらけ出せばよかったのか。私にはどうすることも出来ません。またいつものように私たちを救ってください。どうかお願いいたします。彼女に縋りついてお願いすればよかった?
それは……嫌だ。角谷杏には受け入れらない。彼女を囲む信奉者の一人になるのはごめんだった。そんな角谷杏はただただ無力な小娘になってしまう。今までの角谷杏の世界は。自分と親友二人と地元と過去の友人、それを取り巻く環境だけの世界。いつ脅かされるかわからず、容易に崩壊しうる世界。それを救ってくれたのは
西住みほだ。彼女は角谷杏の世界を救い、そして新しい景色を見せてくれた。純粋な期待を取り戻してくれた。
だから角谷杏も、
西住みほの世界の賑やかな群衆に紛れるくらいなら、角谷杏として彼女の世界に明確に存在していたい。どんな分類をされたとしても。
しかし、トートロジー。角谷杏が存在感を示すことはいつもも
西住みほを苦しめた。彼女は吐き捨てる。結局自分も
西住みほという天才の前では群衆の一人に過ぎない。大人しく彼女に慈悲を乞い続けるしかない。今まで培ってきた偏屈な世界観は、彼女という本物の世界においては害悪にしかならない。彼女の世界を汚すものでしかない。
現に、角谷杏はまたミスを犯していた。
一つ、目の前の事柄だけに集中してしまったこと。
角谷杏の知性は確かに世間一般よりも高い。しかしあくまで、
西住みほや
ダージリン、賢いほうに分類される隊長たちと比べたなら同じレベルか、わずかに上回る程度に過ぎない。他者を圧倒して寄せ付けないと言えるほどではない。だからこそ相手より一つでも多く策謀を張り巡らせて続けることが大切だった。手数では相手より常に優位でなくてはならなかった。それが過去の角谷杏の勝利の秘訣だったのに。
一つ、自我を出し過ぎたこと。
角谷杏の大胆な一手は、常に自分を突き放したような態度から生まれる。廃校騒動における挫折の数々は、少なからず彼女の精神を苛んでいる。彼女が折れることがなかったのは、彼女自身が世界に対して冷笑的で身の程をわきまえていたからだった。彼女の余裕は彼女の不真面目さから生まれている。角谷杏の高い能力をもってすれば大抵の問題は何とかなったし、力を出し切っても解決できないようなことによる破滅を彼女はいつも受け入れていた。その態度は角谷杏の鉄壁の守りだったのに、それが突如として綻びを見せている。彼女は初めて夢を見せてくれる人を見つけたから。守りたいものができちゃった。
そして、彼女にとって最悪の結果を招いた最後のミスは、気にしないようにしてきた弱さから生まれていた。
なんで私は、西住ちゃんを脅したんだろうね。彼女の人格をもっとよく知っていれば、誠心誠意頼む道を検討できたのかもしれないのに。なんで私は廃校撤回についてよく確認しなかったんだろうね。あの役人との間で、もっと条件を詰めていたのならば、殲滅戦を開かせちゃうくらいに恥をかかせるととはなかったのかもしれないのに。なんで、
カチューシャを撃ってしまったんだろう。もしかしたら、
カチューシャに
ノンナを説得させていたなら、プラウダという巨大戦力を温存したうえで、主催と戦えたかもしれないのに。なんで、西住ちゃんを気遣えなかったのかな。西住ちゃんがそんなに強い人じゃないなんてこと、はじめっから分かっていただろ。勝手に彼女を英雄だと思い込んで、彼女を苦しめて。どうして考えることをやめたんだろう。それだけが私の武器なんだよ。 角谷ってさあ、ロリ体系だよな。皆で殴り合いになったらお前なんて下から数えた方が早い 角谷ってさあ、ロリ体系だよなあ。そんなお前が知性を捨てたなら、あとには何も残らないよ。角谷ってさあああ、ロリ体系だよなあああ。誰の役にも立てない。みんなに迷惑かけちゃうのに。なんで私は、あのとき……角谷ってさあああああああ、あいつの顔面に……体系いいいいいいいいいだああああああな。
二発目の銃弾をぶち込まなかったんだろうね?
息がかすれる声がした。目の前には怪物が立っていた。角谷杏は尻餅をついた。
水面に手をついて、下半身を水に濡らす。怪物がいる。黒い艶やかな髪の毛をなびかせて、眼球を爛々と輝かせ、形のいい鼻をつんと尖らせている。それから下の部分はぐちゃぐちゃに崩壊している怪物。ほとんど屍のような風体にもかかわらず、力強さを欠片も失っていない身体。
まごうことなき化け物が目の前に立っている。
「しくじった……!」
杏が身を翻す瞬間に、怪物が──
ノンナが動いた。首から上のダメージを全く換算せずに放たれた蹴り、身長差34cmの威力は、杏の頬に正確に命中した。
ギヒィとどこから漏れたかわからない声を上げながら転がっていく杏の軽い身体。当てられた側の歯が奥歯から揺らぎ、上下左右どころか世界が消失するほどの揺れが彼女の脳を襲う。ジタバタと手足が意識に反して勝手に動く。
(何が、ああ、?)
辛うじて思考をまとめた瞬間には、足が目の前に来ている。恐る恐る見上げた、上顎の歯は円形に折れており、ちぎり取れた舌先がチロリ、と覗けていた。全体が歪んでいることが怪物の笑みだということに気が付いた瞬間に、怖い頭の高い背丈の下胸の下の腕から銃口が覗いた。軽機関銃、戦場を引き裂く尖峰の切っ先が杏に向かっている。
「──ッ」
肩口を掠めて、転がって避けた。というよりは、当てなかった。続いて飛んできた蹴りが今度は杏の薄い腹に突き刺さる。衝撃と一緒に唾液と胃液が入り混じった汁を吐きながら、彼女の小さな体が宙を舞い、壁にぶち当たって止まった。
(ああ、これは……やってしまったな)
嬲るように、電池切れ寸前の玩具が動くように、ゆっくりと長身の身体がこちらに向かってくるのを見ながら、角谷杏はそんな諦念を思い浮かべた。
ノンナは、この怪物はどうやら一発の銃弾では殺しきれなかったらしい。ほとんど死にかけの様子だが、どういうことか身体能力が全く鈍っていない。おまけにさっき重くて、杏ではとても持ってこれなかった軽機関銃まで引っ提げている。完全に奇襲を受けてしまった。これは──もう、打つ手がない。
(終わったね)
再びの衝撃を受けて、思うように動かない身体を他人事のように眺めながら、杏はそう思った。まあ、
カチューシャやらをあんな殺し方したし、しょうがないかなとも。足が一歩一歩近づいてくる。一歩、(あのアラームは、ということは武部ちゃんか悪いことしたなあ)一歩(大丈夫かな、西住ちゃん。まあ、なんとかなる……かなあ)一歩(
逸見エリカあたりが戻ってきてくれないかな)一歩(それだとちょびが死にかねないか、ままならないものだね)一歩(かーしまー悪いなー私は死ぬけど、達者でやれよ)一歩(小山ーお前が頼りだから。なんとか皆をまとめてくれ)到着(ああ、痛いのはやだなあ)
「ひっ……殺さないで、やめてよ、ねっ」
(まあ、こいつももうすぐ死ぬでしょ)
ゆっくりしてなよ。西住ちゃん。
「殺さないでーーーーっ! 謝るからーーーー!」
私はしばらく遊んでるからさあ。
※ ※ ※
知ってますか。お姉ちゃんって、あんまり虫が好きじゃないんですよ。
昔、お父さんと一緒に近所のくぬぎ山にクワガタを取りに行ったんです。太陽が地平線にかかって、空が真っ赤になり始めたころに私は起きて、隣の布団ですやすや眠っているお姉ちゃんが身じろぎするのを跨ぎながら、部屋の外にいる大きなお父さんに向かっていきました。
お父さんが運転しする車で山に行って、雑木林でクヌギの木に近寄って、用意していたバナナネットにくっついていた、オオクワガタ、ノコギリクワガタ、アカアシクワガタ。くっついているのを素手で取ろうとしたら、お父さんが乱暴にしちゃだめだよって私をたしなめて、丁寧に一匹ずつ虫取りかごに押し込んでくれました。私はそれを口を開けて笑いながら見ていて、それからかごの中の虫たちを取り出してまた木にくっつけたり、切り株の上で戦わせようとけしかけたのに、なかなか戦わなくてぶー垂れたりしていました。
すっかり日が登ってくる頃、お父さんと一緒に車に向かって戻っていると、日傘をさしたお母さんの姿が見えました。傍らにいるのは幼き日のお姉ちゃん。私はお姉ちゃんに駆け寄っていって、泥の道でべしゃりと転んで、泣くのよりも早く、かごの中からクワガタムシを取り出しました。そして心配そうな顔をしているお姉ちゃんの腕にクワガタを乗せてあげました。お姉ちゃんの顔は、すぐに固まって、私の顔と腕にいる虫を往復しました。その後、しょうがないなあと苦笑いをします。追いかけてきたお父さんが虫を取ると、お姉ちゃんはお父さんに抱き着いていました。私はお母さんに、いきなりそんなことをしちゃ駄目だって怒られました。
今思えば、本当に子どもでした。ごめんね、お姉ちゃん。
知ってますか、お姉ちゃんって、弱い所はお父さんにしか見せないんですよ。
ある日、お姉ちゃんが戦車道の試合で本当に初歩的なミスをしたとき。西住流のコーチはお姉ちゃんをひどく叱ってました。お姉ちゃんは平然として、強く返事を返します。私はそれを窓の外で聞いていました。ひとしきり説教が終わると、お姉ちゃんが出てきます。私はお姉ちゃんを傷つける可能性なんてまったく考えず、駆け寄って姉の心配をしました。お姉ちゃんは大丈夫だと優しく言うと、次の用事の準備をしていました。
その日のお姉ちゃんは様子がおかしかったです。簡単なミスが続けてしました。コーチの指摘も内容よりも体調を心配するものになってました。
家に帰ると、お母さんにお姉ちゃんは連れていかれました。私はついていこうとしましたが、お母さんにあなたには関係がないでしょう、そんな風にぴしゃりとはねのけられると、どうしてもくっ付いていることが出来ませんでした。決して声を荒げないけれども、厳しいことを言うお母さん。私は自分に置き換えて身震いしていました。終わるころにお姉ちゃんに近寄ると、お姉ちゃんはさすがに堪えたのか、今は近寄らないでくれと、私に言いました。
私はしょんぼりして部屋に戻って、見飽きた本を言い訳するみたいに読んでいました。喉が渇いたので、飲み物を飲もうとリビングに寄って行くと、お母さんがお父さんの部屋の前に立っているのが見えました。私に気が付くと、本当に小さな息を吐いて、自分の部屋に戻ります。
私もその部屋を扉の隙間からチラリと覗きました。お姉ちゃんはお父さんに寄りかかって、頬に涙の後を残して、小さな寝息を立てていました。彼女の頭に手を置いていたお父さんは、私に気が付くと、静かにするようにと、指を立てるジェスチャーをしました。
私に言ってくれてもいいのに、でも私じゃお姉ちゃんに負担をかけるだけか、大きくなりたいなって思って、お父さんの大きな身体を見ていました。
知ってますか。お姉ちゃんは誰よりも優しいんですよ。
私が全国大会で、取り返しのつかないミスをして、そのせいで黒森峰にいられなくなって、明日から大洗に行くってなったとき。お母さんとの話が終わって、ベッドに横になって、眠る気にもならなくて、一人天井を眺めていたとき。お姉ちゃんはそっと私の部屋に入ってきました。けれども私はそんな優しいお姉ちゃんの相手をするのも億劫で、下手な眠るふりをしていました。
お姉ちゃんにはそんなことバレバレだったはずなのに、傍らの椅子に腰かけると、私の額にかかっている髪の毛を優しい手つきでかき分けると、そのまま丁寧に手を置きました。そして、優しい、本当に優しい声で、大丈夫、大丈夫、と、小さく澄み渡る声で囁いていました。私はお姉ちゃんのことを思い返して、それから試合の失敗のことをまた思って、そして、今傍らにいる姉をぼんやりと意識しました。自分にはどうしようもない感情と、何やらこそばゆい感覚に身体が襲われて、それでも大切なお姉ちゃんに心配をかけないように泣くのを我慢していました。
いつの間にか眠ってしまっていた。朝を起きたときに、お姉ちゃんのいない椅子を見て笑みが零れました。
こんなお姉ちゃんの姿、私と両親しか知りません。私はもっとそういうところ皆に見せてあげればいいのになあって思います。でもいつものお姉ちゃんのカッコいいイメージには確かに合わないかも。いつか、お姉ちゃんが肩の荷を下ろせる人の前で、そういう姿を見せられればいいね、って私は思います。
お姉ちゃんには内緒ですよ。
※ ※ ※
(…………?)
「……殺してえ……ンググッ!」
湧き出る復讐心でひたすら命をつないでいる怪物、
ノンナは目の前のクソの口に銃を突っ込みながら、首を傾げる。死が近づくにつれて思考がクリアになり、解放されるメモリの片隅に違和感を感じ取る。
さっきからこのクソの左腕をへし折って、右目を殴り潰して、奥歯を引き抜いて空いた穴に指を突っ込んでやっている。一つ段階を進めるたびに、命乞いをしていた口は、決して許されない神を罵る不届きなものに変わり、その後ひたすら許しを請うものに変わって、今ではただただ死を願うものになった。
まさしく、さっきまで思い浮かべていた場景、まだまだやってやりたいと思うことは山ほどあるが、そろそろ自分が死にそうなので、これの首を持って
カチューシャに会いに行こうかと思っていたところだった。
(なんでしょうか、この感覚は)
これの反応は予想の範囲を出るものではない。
カチューシャに伝えても趣味が悪いと一蹴される未来しか見えないが、あの人の無聊を慰める手助けぐらいにはなるだろうと、クソによるアクロバティックな命乞いを期待したのだ。が、出てきた反応はこれ、期待外れ。この世に顕現した現人神を汚す大罪を犯したのだから当然というべきなのか。とにかく納得の範囲には収まっている。
のだが。
(どこか覚えがある感覚……?)
口調から感じる舐めた気質、コイツの生来の性格なのだろう。死は
カチューシャ以外に平等だから。別に真剣に向きあわなくてもいい、そのまま死ね。それでいい。
だが、これが決して悟られまいとひた隠しにしている感情は何だろう。満足感のような、使命感のような。これがそんな感情を持つ? 死も主観的に見られないような奴が。
(そう、私はこの感覚に見覚えがある)
これは、そう。信仰心だ。何か絶対のもののために命をささげる感覚。どんなに暗い漆黒の中に投げ込まれたとしても胸に抱いていられる安心感。天井から降臨した絶対に対して、己が身のすべてを持って献身すること。そんな尊い感覚をコイツは抱いている。こんな奴が、何に対してそんなものを抱けるのだ。
(まだ、死ねませんね)
この愚物に似合わぬ衷心の拠所を奪い去らなければならない。復讐を完遂しなければならない。考えるのだ。これが心からの信心を抱くことが出来るのはどのようなものか? 大洗女子学園、生徒会長の角谷杏がすべてを捨てられるものとは何か。銃を咥えて、透き通った左目と向き合って、疑問符を浮かべる。──"この人は何が好き?"
"……ひいー……"
呼吸音がした。そちらを振り向く。そしてすぐさま角谷杏の目を見る。驚愕の色、少しづつ滲む焦りの色。痕跡をなんとか消そうと試みる献身の色。
この人は、こいつは、これは、このクソは。
(あなたは、私と同じですね? 角谷杏)
あるいは、まだ自覚していない感情かもしれない。
カチューシャに捧げる純粋で深き尊崇には一生至れない。未熟で歪んだ、自己中心的な信仰心。ただ、種が心に芽吹いた感覚、世界の根幹に触れたような高揚。いかなる信仰もまさにそれから始まるのだ。私が
カチューシャと出会ったときにのように。
(微笑ましく見守ってももよかったのですよ?)
角谷杏と目を合わせる。ただひたすらに眼の中を黒く塗ろうとする少女に
ノンナは微笑む。
嗤うべきことに、これは、自分が抱いている奇妙な満足感を上辺を見ただけで理解したと思い込んでおり、その根幹が何から来ているのかを考えようとすらしていないようだった。いや、理解したくないのか。これの性質を見るに、そんな感情は今までの生き方と全く相反するものであるから、知ろうとすること避けていたのだろう。そう思うと哀れなものである。この世の真理に近づくこと、自身の幸福や欲望の形をどうせ叶わないと、理解しないで遠ざけてしまう性質というものは。
笑みが浮かんだ。三日月のような笑み、上顎の折れた前歯の裏からチロチロと血に染まった蛇が覗いた。
我が神への冒涜は異教徒の神の死によって贖われなければならない。
ノンナの身体に力が戻ってきた。信仰心の本懐を遂げなければならない。それはこの世界に最後に残された使命。角谷杏を掴み上げる。すべての余裕の色が剥げて、先ほどまでの迫真の演技も消え去り、異物が消えた口元からか細く、やめて、やめて、と怯える童女の声がする。その小さな身体を先ほどの呼吸音がした部屋に、渾身の力で、投げ入れる。
果たして、追った先にいるのは。
(なるほど、軍神)
未だに武部沙織の死体を抱えて突っ伏している、
西住みほの姿。
大洗を救った軍神、いかなる状況からも逆転して見せる天才、あるいは穏やかで優しい少女──その、心折れた姿。死に絶えた友人に縋って泣く。凡人と変わりない少女。
(本当に理解が浅い……あなたは)
自分の憧れの姿と相手の実情を見間違い、一方的な期待を押し付けたのだろう。なるほど、大洗に来てからの彼女しか見ていないのであれば、起こりうる事態だ。信仰対象に関する分析、それに伴う研鑽が甘いからこうなる。
そしてそんな優しい少女とは、それなりに付き合いもあり、性格に好感も持っている。個人的には殺したくない、が。
(残念です。みほさん)
「西住、ちゃん……!」
転がって藻掻いているこれが本当に守りたいものがあなたであるならば、私もまた信仰に従いあなたを永遠に消し去りましょう。これが私の神を奪ったように、私もまた地上からあなたという英雄を奪い去りましょう。
(そうしたら、一緒に
カチューシャに会いに行きましょう。……あなたのお姉さんも一緒に)
きっと和やかな場になるでしょうね。
西住みほは動かない。誰よりも早く動くはずの彼女の脳は哀傷によって機能のほとんどを停止し、鋭さと愛嬌が切り替わり人を引き付ける眼は沈潜し、頼りなさげな一方で確かな力量を秘めていた身体にはもはや一片の力もない。
西住みほという天才は、彼女を包む人格によってその才能のすべてを封じ込められてしまっていた。
本当に惜しいです、みほさん。
西住みほは動けない、動かない。悲嘆にくれる彼女の才能をその身体から解放せんと、軽機関銃の引き金に手をかけ──。
最終更新:2023年09月15日 05:43