海だ。
海の匂いがする。
それは果たしていつも通りであったが、しかし、決定的な何かがいつもとは違っていた。
潮風、波の音、鴎の鳴き声、輝く太陽。少女達は眠い眼を擦りながら、ゆっくりと体を起こしてゆく。
重たい頭を擡げながら、寝癖頭をぼりぼりと掻く。しかし、直ぐに少女達は異変に気づき始めた。
そこが昨晩眠りに着いた筈の自室ではなく、船の甲板の上だったのだから。
「皆さん、おはようございます」
不意に、いつか聞いた男の声。少女達が声のする方を向くと、“あの”文科省の役人が立っていた。
少女達は思わず固唾を呑む。この異常な状況のせいもあったが、何より目の前の役人の、狂気じみた笑みに少女達は戦慄していた。
「前置きは無しにしましょう。突然のことで私も心苦しいのですが、端的に言います」
男は呟くと、小さく息を吸い、そして、吐き捨てるように続けた。
「皆さんには、殲滅戦に参加して頂く事となりました」
けれども甲板の上の何割かは、胸を撫で下ろす。その言葉が彼女達にとっては聞き慣れている言葉で、ドッキリ演習か何かだと思ったからだ。
しかし、その予想は直ぐに裏切られる事となる。
「但し」
なぜなら、男の呟いた科白が、あまりにも。
「―――――戦車は、存在しませんがね」
あまりにも、理解とは程遠い場所の発言だったから。
少女達の間に、動揺の声が走る。戦車抜きで一体どのように殲滅戦をやれと言うのか。
そもそもそれでは戦車道が成立しない。ならば、その言葉の意図とは一体何なのか。
様々な憶測の声が上がる中、男は、ぱん、と一度手を叩いた。ざわめいていた少女達は、ぴたりと雑談を止め、回答を求めて男を注注視する。
男はそんな少女達の様子を舐めるように右から左へ視線を流すと、今度はにこりと爽やかに笑い、口を開いた。
「戦車を使った複雑な
ルールなど無い。ただ、敵を殺して殺して殺して殺して、最後の一人となる。たったそれだけです。
簡単でしょう? 要は、対戦車が対人となっただけなのですから」
ころ……何?
少女達の間に、一瞬の硬直が、そして不穏な空気が流れる。
さらっと言っていいほど、流していいほど、その言葉は軽くなく、また、この数秒で理解できるものではなかった。
男は少女達の曇った表情を尻目に、言葉を続ける。
「ああ、一人と言いましたがね、本大会では特別に、学園の垣根を跨いで自由に三人までの“チーム”を組むことが出来ます。
“チーム”が他参加者を蹂躙し勝利すれば、個人と言わずその“チーム”が勝利です。
皆さんには、後でスマートフォンを配布します。必要だと感じた方々は、そこに入っているアプリを使って“チーム”を集めて下さい。
ただ、少々“チーム”に関してはルールが複雑でしてね。詳細はスマートフォン内部のPDFファイルを後でご確認頂きたい。それと、」
「ちょっと、待ちなさいよ!」
突然響いた勇ましい声は、少しだけハスキーがかっている独特な声。
彼女を知っている人物なら、顔を見ずとも察することが出来た。
何よりも規律に厳しく、誰よりも朝早く学園に登校する彼女……名を、そど子。もとい、園みどり子と云う。
「……はい?」
男が笑顔のまま、首を傾げた。
そど子は臆することなく、男の元へと犬歯を向いて足をずかずかと進める。
「さっきからぺらぺらと勝手に! 殺し合いだなんて、妙な冗談言ってんじゃないわよ! 私達風紀委員が居る前で、よくもそんないけしゃあしゃあと!
一体全体、文科省の役人になんの権利があっ―――――」
しかし、彼女の言葉はそれ以上続きが紡がれることはなかった。
大きな破裂音と共に、彼女の顔から上は浅黒い煙に包まれていたからだ。
それが何を意味するのか、その場に居た誰もが直ぐには理解できず、鉛色の静寂が甲板の上を抱擁した。
半秒遅れて、べしゃべしゃと何かが少女達に降り注ぐ。それが真っ赤な脳漿なのだと気付いた時、甲板の上は誰のものともつかぬ絶叫で支配された。
糸を切られた操り人形のように、ごとり、と園みどり子が、いや、園みどり子“だった”首無し死体が床に沈む。
中心からゼリー状の何かを覗かせる白い背骨、どくどくと脈打つ真っ赤な動脈。
抉られた首筋から見えるピンク色の繊維。噎せ返るような血の匂い。
鎖骨に張り付く肉片と髪の毛、白いシャツを汚す脳味噌と毛細血管。ばたばたと痙攣する指先、糸を引きながら転がる眼球。
真っ赤な鮮血が、真っ赤な恐怖が、真っ赤な狂気が……瞬く間に、少女達に広がってゆく。
「お静かに!」
それを咎めるように、男は声を張って叫んだ。
叫び声はそれでも収まる事は無かったが、しかし男が何かのスイッチを掲げたことで、次第に少女達は口を閉じてゆく。
そのボタンがたった今目の前の勇敢な少女の命を奪ったことは誰の目にも明白で、同時に、これ以上煩くするようであれば殺すという脅迫であることを、少女達は本能で察したからだ。
がたがたと全身を震わせ怯えながらも口を噤む少女達へ満足そうに口角を上げると、男は爆破スイッチをゆっくりと下げる。
「やれやれ。身の程知らずのせいで説明の順序が変わってしまいましたね……。
皆さんの首には、ちょっとした首輪を嵌めさせて頂きました。ご覧のとおり、起動すれば一撃で首が弾け飛ぶ爆薬が仕込まれています。
死者が一定時間でない場合も、この首輪は全員分同時爆破されます。
即ち、好む好まざる、望む望まざるなど関係ない。殺し合わざるを得ないのですよ、貴女方は。理解して頂けましたか?
……ああ、それとこの首輪、無理に外そうとしたり会場の外に出ようとしても爆発してしまいますので、あしからず」
こほん、と軽く咳払いをすると、男は息を吸い、続けた。
「そしてその会場とは、今この学園艦が向かっている土地。即ち――――――」
男が滑らかな動きで参加者達の奥を指差すと、一斉に少女達は後ろを振り向く。
指し示された方向を、その向こうの景色を、少女達は目で追った。幾人かは驚きに眼を丸くする。
白銀に輝く海原の更に向こう側。鴎の群れの遥か彼方。遠く見えたのは、紛れも無く自分達がよく知っている土地だったのだから。
「“大洗町”です」
にたりと、男が嗤う。
ぞくりと背筋に凍て付いた戦慄が走るような、生理的に嫌悪感を抱かざるを得ないような、そんな声色だった。
「皆さんには、人の居ない閉鎖された大洗で存分に殺しあって頂きたい。
……ああ、人を殺す為の武器は勿論支給致しますよ。ナイフと銃と、それから」
男はカツカツと甲板を革靴で歩くと、遠く見える大洗町の前に立ちはだかり、何時の間に用意したのか、右手に持つリュックを彼女達に見せ付けた。
「このリュックに、サバイバル用品や最低限の食料も入れておきます。
それとこれがまた大切なのですが、殺し合いが半日進んだところで、各自のスマートフォンへ配信を入れます。
内容は生存チームや死亡者の発表等、有益な情報ばかりですので見逃す事のないように。
その他ルールなどまだ御座いますが……まあ、その様子では今私の口から説明しても、貴方方には覚えられないでしょう。
これらもスマートフォンにPDFを配信しますので、後でちゃんと見ておくように。宜しいですか?」
男はリュックを床に放り投げると、指を絡ませながら少女達に尋ねた。
しかし男の言う通り、大半の少女達は説明など右から左。その問には僅かの反応も返って来ず、男は諸手を上げて肩を竦ませた。
「主催としては返事がないのは感心しませんが、ま、いいでしょう。
……それでは、県立大洗女子学園、黒森峰女学園、聖グロリアーナ女学院。
サンダース大学付属高校、アンツィオ高校、プラウダ高校、知波単学園、継続高校、大学選抜チーム諸君。覚悟は、宜しいでしょうか?」
中指で眼鏡をくいと上げると、男は右手を胸の辺りに掲げた。それを合図に、甲板の上に何処からともなく手榴弾が投げ込まれる。
知識のあるものにはそれが麻酔剤入りのM18発煙手榴弾だと咄嗟に判ったが、あっという間に広がる煙に為す術など在る筈もなかった。
一人、また一人ともうもうと広がる鼠色の悪意に倒れていく中、潮風に流れて、ガスマスクを被った男の顔が晒される。
肩を揺らしながら、男はくつくつと無力な少女達を嘲笑った。
嗚呼、悲しいかな。彼女達が必死になって培い守ってきた想いは、学園は、信念は、友情は、戦車道は―――この日、終焉を迎えるのだ。
「これより、殲滅戦を開始する」
戦争ごっこは、これにて終劇。
奪え。刃を研ぎ、友を裏切り、銃で打ち抜き全てを奪い尽くせ。
屠れ。希望も、絶望も、全てを鮮血で染め上げて屠り去れ。
喪え。過去も、未来も、今も。その全てを犠牲にして、何もかもを、誰も彼もを喪うがよい。
その先にこそ―――――――――――――――――――――本物の戦争は、あるのだから。
【園 みどり子 死亡】
【残り 39人】
【ガールズアンドパンツァー・バトルロワイアル 状況開始】
登場順
最終更新:2016年09月13日 00:35