「は?」
異様な光景であった。
西住みほは立ち上がっていた。ゆらゆらと、頭よりも首が彼女の上に来ている、力なく浮き上がり揺れるように彼女の手足が持ち上がっていく。その身体にはまったく西住みほの自我から切り離されていて、まるで天上の意志あるものが人形を操るように、彼女の手足を吊り下げていた。
ノンナさん。どこからか声がする。ノンナは喉が引き攣りそうになるのを必死に押し留めた。
揺れるだけの西住みほの肉体とは違う、しかし、西住みほの声をした何かがノンナに語り掛けている。そしてその声は、決して反論を許さない厳かな重力を含んでおり、この世を生きる者にとって従わざるを得ない権威を伴ってノンナに呼びかけていた。
──お姉ちゃんを殺しましたね。
怯む気持ちを抑えながら、引き金を引こうとした手から軽機関銃が消えている。投げつけたはずの角谷杏の姿もなく、水浸しになったベッドも、濡れてくしゃくしゃになった仕切りもなく、差し込んでいる日の光さえ消えて、暗闇の中で、奇妙に吊るされた西住みほとノンナの姿だけが残っている。
配信された拷問映像から、犯人のおおよその体格は推定可能です。私は、暗記が得意でした。あなたもご存じですね。友人の誕生日はすべて記憶しています、おおよその身長や体重くらいは見た姿からわかります。
一度目の映像。私は深くは観察してはいませんが、部屋の間取りと日光の角度、遠方から聞こえていた爆発音。聖グロリアーナの方の大砲、もしくは場所を探るための意図的なそれ、音が聞こえてくる方角と映像で流れる音のタイムラグから、映像の位置を辿ることは技能を持つ者には容易でした。
プラプラと声に従って西住みほの身体が揺れる。身体を支える糸がノンナにも見える。糸ははるか上方の闇の向こうにまで繋がっていて、どれだけ目を凝らしても見えないように思えた。
そして、それはあなたにも分かっていた。あの映像は単なる示威行動ではなく、一定の条件を満たしているものを刈り取る罠。状況を判断できるだけの冷静さを持ち、場所を暴くだけの知性が有り、罠と分かっていても突入できるだけの正義感、親しい友人かあるいはまったくの善意で人を助けようと考えられる人。
おおよそ当てはまるのは、各校の隊長たち及び一部の生徒。そしてそれはたまたま西住まほだった。
姉の名前を呼ぶ声が流れると、世界がノイズを放った。不快な揺れが場にいる者の脳を揺さぶる。
ただし、あの映像による罠にはリスクが存在していました。罠を仕掛けた自分と同じ学校の生徒が助けるために飛び込んできてしまう可能性。C-4から6には乗っている生徒が集まっていることはお互いに認識している。あの場では奇妙な協調関係が構築されていたかもしれませんが、脅威度が高い人物を排除できるならば容易に裏切ったはず。
隊長だけで言うならば、アンチョビ、西絹代、西住まほ。この三人は飛び込むことは容易に予想できます。ミカは同じ高校の可愛がってる生徒がやられた以上飛び込む。
ダージリンとケイは可能性が有る、可能性が有る以上実行にはリスクが高い。
カチューシャはどうでしょう。
──飛び込むと思いますか。ノンナは首を横に振った。侮辱とは思わない。地吹雪のカチューシャはリスクが高い状況で自らを危険に晒すことは決してしない。冷徹な知性と神域に等しいカリスマで、プラウダという巨大な身体を相手にぶつけ、その上で削り勝つのがあの人だ。
そう、ただ。ここまでは心理的印象でしかないですね。……その後あなたが病院で武部沙織、五十鈴華、ケイ──世界に強いノイズ、声が飛び飛びになる──三名を襲撃しました。この病院は台地です。侵入経路は限られています。そして、あなたの移動経路は一つしかない。D-5からの坂道しか。なぜなら、あなたはD-3からE-3に移動中の隙だらけの
逸見エリカを殺害できておらず──砂嵐──F-3を通過している時点のケイとも戦闘を行わず、同じくF-3からF-4を経由し移動しているカチューシャとも合流できていない。あなたは北もしくは東から病院に来た。
北のどこから来たのでしょう。あなたが病院に居ると目される時刻にもC-4から爆発音は響いています。あなたには以前からこの爆発音を聞いていたはず。つまりどこから移動するにしても殺傷力の高い武器を保有しているC-4の方と衝突することは避けたはずです。あなたはD-5から来た。
そして、開始時期から爆発音や銃声が響き渡るこの町で、逃げ場のない港に引きこもるなんて考えられませんよ。またそれ以前に、南から来たということもない。もし来ていたら西さんはもっと早くに亡くなり、カチューシャさんの拡声器はあなたのものになっていたでしょうから。
あなたはC-6にいたんです。あそこからこの病院にやってきたんです。
声は完全にノンナの行動を把握していた。ノンナは身震いする。本当に見ていたかのように語るその声が、この世のすべてを見通す千里眼の持ち主にのように思える。ともすればその在り方は本当にこの世に君臨した軍神なのだろうか。
軍神、軍神。ノンナは声の正体に気が付いた。この声は"西住みほの才能"だ。彼女に宿っている余人をもって代えがたき才能──戦車道に携わる誰もがかくあれかしと望んだ西住みほという偶像が、みほという人格の枷を破って出てきているのだと思った。誰もが届かない天頂に至った彼女の才能が、遂に主従を逆転し、糸を解して絶望に沈んでいる西住みほを動かしている。
しかし──ノンナは尋ねた。
「なぜC-6でまほさんが亡くなったとわかるのですか? あなたは名簿も地図も見ていないはずでしょう」
その瞬間、西住みほの首がゆっくりと持ち上がった。力をなくして揺られるままだった四肢には生気が戻り、ゆっくりとその瞳には光が戻ってきた。
わかりますよ。私もこの町に来てから随分と時間が経ちました。その間、ずっと努力してきたんです。この町になじもうって、この町の一員になろうって。……あの映像の部屋がこの町のどこの民家かぐらいわかりますよ。
それに、西住まほなんですよ。高校戦車道、西住流……いえ、私が誇る、私が本当に尊敬していて、本当に大好きなお姉ちゃんなんですよ。
「死にません。お姉ちゃんは。これ以外の方法で……」
上がった顔のその表情は、今にも溢れようとする悲しみを必死に抑えようとしている顔で。
ノンナが糸から解き放たれこらえきれなくなったようにあふれる彼女の感情をを認識したと同時に、周囲の景色が絶対なるものに奪われていた光を取り戻し、現実へと立ち返っていく。
──気が付けば同じ状況である。西住みほは相変わらず動いていないし、武部沙織は死んでいる。あのクソはみほの足元で汚い水につかりっぱなしだ。
(……臨死体験?)
手元の軽機関銃の重さを認識してから、意識が戻ってきてくれたことに彼女は安堵する。本願を果たせないままで、幻覚を見ながら往生していたのなら、カチューシャとの間にいたたまれない雰囲気が生まれていたに違いない。
(……彼女の才能に感謝ですね)
才能が見せて来たのか、ノンナ自身が勝手に見ていたのかはわからない。西住みほの無意識の防衛機構のようなものだったのかもしれない(人間離れしすぎですね……)しかしながら、行き過ぎた衝撃と緊張は心臓の鼓動を止めるどころか早めてくれたようで、彼女の命脈はいまだに保たれている。少なくとも西住みほを始末して、このクソに地獄を見せられるぐらいには。
(あなたの才能はあなたを幸せにしなかったみたいです)
до свидания、ミホーシャ、親愛なる方の名称を引っ張りながら、再び軽機関銃の引き金に力を込める。躊躇することはない。妨げるものも、彼女の親愛なる友人は冷たい物体として彼女の動きを妨げて、見当違いな信奉者は、痛みと絶望に震えながら自分の貧弱さを噛み締めている。プロセスは、完了、のはずなのだが、一片引っかかることは──
(彼女の才能がこれで終わるだろうか)
銃撃を撃ち放ちながら、浮かび上がる思考は、果たしてその通りに、西住みほの肢体がしなやかに跳ね上がった瞬間、一気に色を濃くした。
(снова、もう!)
また幻覚を見せられているのか? そう思うほど俊敏な動きで西住みほが跳ねる。おっつけ追っかけの銃口はその豹のようなしなやかな動きについていけない。先に放たれていたはずの銃弾はとっくに彼女がいないところを通過していた。隣にカチューシャがいたら、口をあんぐりと開けて、ふざけるんじゃないわよとぷりぷりしていただろうなとノンナは思った。……クラーラは、拍手をして……
ノンナは虚空を睨んだ。いかにもあの世に持っていかれそうな思考を切り替える。まだ、彼女の近くには二つの重荷が纏わりついている。彼女の性格からして、見捨てることはできないはずだ──遅い。みほはベッドを足で引き倒して両手で杏を掴み上げてその陰に押し込んで、沙織を抱えて立ち上がり、こちらを見据えている。
(五十鈴華といい……)
彼女たちのチームは人外魔境か。この分ではほかの少女たちもどんな強者なのか分かったものではない。武部沙織を有無を言わさずに始末できてよかった。彼女の死体は五十鈴華の足を引っ張りそしてこの軍神の枷になっていてくれている。
影になって伺い知ることが出来ない西住みほの顔、再び撃ち放つ軽機関銃の弾丸──、雲間から太陽が覗く。水浸しになっている床が太陽光を反射して輝きだす。ノンナの目が眩む。彼女に相対する少女の姿をしたものが、完全に掻き消える。辛うじて機能している耳が再びベッドを引き倒す。放たれる鉄の弾幕は誰にも当たらず壁に穴を穿つ。目の前で汚れたカーテンが降りた。ノンナは銃撃をやめた。カーテンの隙間から誰にも触れられない瞳が覗いた。
(運まで味方につけたのですか)
彼女は呆れたように体を弛緩させて、身震いして恐怖に身体を硬直させた。そして、ない交ぜにした闘志を叩きつけるようにそれを睨みつけ、"それ"を見た。
(……полубог?)
果たして、その瞳が含む神聖さは。先ほどの幻覚が思い浮かぶ。天を仰いで、ずっと目を凝らしてなお、影すら掴ませなかったあの絶対なる存在を。誰もが思い見上げ仰ぎ見るであろう才能、その戦いに関して傑出し並び得るものがいないであろうそれを。
ノンナはカチューシャのことを思い浮かべた。彼女と出会った時のことを、彼女の横顔を、そして瞳を覗いた。……大丈夫だ。ノンナの中心にはカチューシャが居座っている。決してあのようなものに心を持っていかれたりしない。
しかし、もしも順序が逆だったら、カチューシャより前にあなたのその瞳を見ていたなら──。
(あなたに惹かれていたかもしれませんね)
目の前の存在、半神半人を打倒しなければならない。ノンナは小さく瞬きをする。そうしなければ彼女の神を奪われた復讐を遂げることが出来ない。幸いにして、人知を超えた存在が憑いていようとも彼女の肉体は人間だ。銃撃を与えれば死ぬ。おそらく。
そして、彼女には明確に足を引っ張る存在がいる。彼女は常にそれらを、彼女より速い、おそらく、速い銃弾から庇い続けなければならないということ。ただ、彼女は今無手である。引き倒したベッドのどれかに弱点を隠している。
ベッド自体は数秒銃撃を浴びせ続ければ貫通する。しかし、それは彼女の接近を許すことと同義だ。対格差から角谷杏を圧倒することが出来たノンナでも、さすがに無傷の戦車道隊長には叶わない。たちまち引き倒されて、武器を奪われる。
直接みほを狙うか。しかし、死に瀕しるせいか先ほどから反応が悪いノンナが、神懸かりのみほに対して、放つノープランの銃弾が当たるだろうか。カチューシャと触れ合ってきたノンナにはそれがどれだけ不可能なことなのか分かった。一番乗っているときのカチューシャなら、戦場を散歩したところで弾は当たらないだろう。ならば、目の前の半神半人には──。
(……半神半人)
再び、ノンナの脳内にカチューシャの顔が浮かんだ。それは些細なノンナのからかいに怒っているあどけない顔だった。自分の腰ほどまでしかない背丈の、無垢で可愛らしい少女のような趣味の女性。神懸かり的なカリスマを持ち、誰よりも上に立つ者としての責任感を秘めていた隊長。
(…………あああああああ)
ノンナはその時初めて気が付いた。彼女を死に追いやったのは自分であると。自分という存在がカチューシャの神聖さを傘に着て振舞ったことが、結果としてカチューシャの神聖さというヴェールを剥ぎ取り、彼女の人間としての側面を露出させてしまったのだ。そうでなかったら、そもそもカチューシャに銃を向けることなどできないはずで、カチューシャも自身の危機を感じ取り、事前に回避できたはずなのだ。それができなかったのは、つまり自分がカチューシャの神聖性を損なったからに他ならない。
(ああああ、ごめんなさいカチューシャ、ごめんなさい)
……彼女は、もっと単純な理由を無視した。誰でも思いつくであろう、"自分が人を殺したせいで、カチューシャが死んだ"ということを。というよりも無意識に無視した。今になってそんなことを考えてしまえば、もはや指一本動かせなくなることは昭からだった。
一通りの懺悔を心中で終えると、ノンナは復讐を遂げること以外の思考を脳から消し去った。いかにして目の前の偽神を人に引きずり降ろして殺すかだけを考える。
再び太陽が雲の隙間から顔を出し、辺りが俄かに輝きだす。
カーテンの隙間の人影が動き出す。ノンナが構えた銃口の先には、ベッド。再び銃弾が吐き出され始める。人影がが走り寄ってくる。ノンナはそれを視界に入れさえしない。ただ、裏に何があるのかもわからないベッドを狙う。接近した人影がノンナにタックルする。ノンナが体制を崩す。機関銃は離さない。銃弾も止まない「……めて」(みほさん)影がノンナの銃を持つ手を抑えようとする。ベッドを弾が貫通し始める。「やめて」(喧嘩に慣れていませんね)ノンナがうつ伏せになって、ただ銃だけを撃ち続ける。西住みほがノンナの腕を折らんとする勢いで負荷をかける。銃弾は止まらない「やめて!」(あなたは優しすぎる)
銃弾の雨は完全にベッドを貫通していた。裏にあったものを完全に破壊しつくす。・
ノンナの顔に温かい雫が落ちた。みほの涙だった。ノンナは先ほどまでの雰囲気がほとんど消えてしまったその瞳をじっと見つめて訴えかけた。
(もうとっくに気が付いていたでしょう? 賢いあなたが気が付かないわけがない)
(あなたは優しい、しかし、人間関係という面に関しては恐ろしいほど無垢だ)
(決してそれを認めないことは友情ではありませんよ)
一番奥のベッドの裏から角谷杏が飛び出した。そして、みほに向かって叫んだ。
「西住ちゃん、」
ああ、会長……。
「西住ちゃん!」
言わないで
「もう死んでる! 武部ちゃんはずっと前から死んで──!」
果たして、角谷杏の見た光景は。
西住みほは、泣いていた。親を探して泣く子供のように。振り返って泣いている彼女に、角谷杏は何をすればいいのかわからなかった。実際に、彼女にやってあげられることは何もなかった。彼女にできたことはただ見ていることだけだった。みほの腹部が朱色に染まるまで。
「うわあああああああああああ!!」
角谷杏の叫び声を背に、ノンナは弾が切れた軽機関銃をガシャリとその場に捨てた。あれだけ撃っていたにもかかわらず、浴びせられたのはたった2発の銃弾のみ──。身震いして、倒れた西住みほを見る。当たった弾は致命傷ではない。しかし、大量に出血している。動かさないで適切な処置をしなければ10分ほどで血が足りず出血多量で死ぬだろう。
そして、この病院のあるエリアは──。あと15分前後で禁止エリアだ。
(どう考えても動かせるまで間に合いませんね)
(さあ、選んでください。角谷杏)
(西住みほを連れ出して殺すか。彼女を治療して爆死させるか)
(彼女が死んだらどうします。へらへら笑います? わあわあ泣きます?)
(それとも、彼女の意志でも継いでみますか……ああ、そうだ)
力が抜けていき、倒れるのを待つだけだった彼女の身体が止まった。
(もう一つ、希望を折っておきましょう)
胸元にあるスマートフォンを取り出す。横たわりうつろな目をして腹部から血を流す西住みほを撮影する。ベッドの裏にいる、爛れて、弾痕が開いた武部沙織の死体と一緒に。
(武部沙織さん)
思えば、ここまで才能ある者たちを引き付けるとは、五十鈴華は彼女のために死を顧みず抵抗したし、西住みほは死んでいるのにも関わらず彼女を守ろうとした。
(随分おモテになりますね。……あなたこそ彼女たちのрокова́яかもしれません)
(守ろうとした者が皆破滅しているという点においても、ね)
埒も開かないことを考えながら、スマートフォンの操作を終える。そこかしこで電子音が鳴る。
この瞬間、武部沙織の死体と死にゆく西住みほの写真は広報権によって配信された。
(これで、この会場からは希望が消えるでしょう。角谷杏が遺志を継ぐことも出来ない)
作業を終えて全身の力が抜ける。どちゃりと水浸しの床に崩れ落ちる。ノンナは目を閉じる。
(カチューシャ、今からあなたの御許に向かいます)
(あなたの御許で犯してすべての罪を償います)
(本当にごめんなさい、カチューシャ)
荒い息がする。ノンナは目を開ける。角谷杏が銃を向けて立っている。
(可哀そうに、あなたはこれからなんの希望もない荒野を彷徨うのですね)
(神も英雄もいない荒野を……)
(彷徨って彷徨って、疲れ果てて、絶望の声をあげて……)
「сожалетьЙ」
その頭部を銃弾が通過して、彷徨う狂信者は動かなくなった。
【ノンナ 死亡】
※ ※ ※
最終更新:2023年10月17日 23:20