キミとは致命的なズレがある ◆g4HD7T2Nls
牧村南は己の視界が急激に霞んでいくのを感じていた。
遥か遠くの空で暮れようとする西日は、まばゆいオレンジ色を放っている。
目前につらなる枯れ木の群は、吹き抜ける北風にゆられている。
少し前を歩く青年の背中が、遠のいていく。
その、全てが霞むようだった。
ぐわんと揺れ、輪郭がブレて、重なり合いを繰り返す。
息のつまるような衝動は意図せず、南の足を止めていた。
「………………」
咄嗟に震えかけた唇を手で覆い、声を抑えた。
余計なことを言わないように、あふれ出したものを零さないように。
だけど抑えきることなど、できなかった。
「そん、な……」
ひときわ強い北風が南の正面から吹き付けている。
向かい風は酷く冷たく感じられたが、しかし南にとっては不幸中の幸いかもしれなかった。
声は風に流されて、零してしまったものを、前を行く青年には聞かれずにすんだのだから。
「……由宇ちゃん……詠美ちゃん……」
二つの名を初め、南は噛み締めるように、幾つかの名を呼んでいた。
それは南の日常を形成していた、欠かせない大切な者たちの名であった。
同時に、先ほど鳴り響いた放送で呼ばれた、もうこの世に生きてはいない人のものだった。
分っていは、いたはずだった。
決して状況を楽観視していたわけではない。
きっと最悪に向けてのみ、加速していくであろう事態。
結果、この時間、何が起こるか、何を聞かされるのか。
大切なモノを失ってしまうと心のどこかで知っていて。
それでも、前へ進もうと、立ち止まるまいと、決めていたはず、なのに。
「…………っ」
だけど結局、覚悟など、出来ているはずもなかったのだ。
襲い来るものは胸に穴が開いたような喪失感。
息のつまるような、目の眩むような、痛み。
笑顔の思い出は何時だって、克明に思い浮かべられる。
『
こみっくパーティー』と呼ばれる、素敵なお祭りの中で巡り合えた、特別な仲間たち。
例えば、
いつも気さくで、明るく話す関西弁の少女。
ちょっと自信家だけど、本当は寂しがりやな少女。
彼女達は南にとって、友人であり、仲間であり、きっと今では妹のような、掛け替えのない存在になっていた。
みんなで笑いあえた日々が、楽しかった。
暖かで、穏やかで、別に漫画の中のように特別だったわけじゃなくて、それでもきっと、幸せだって言い切れた。
こんな唐突な別れが来るなんて思わなかった。
別れの時は、きっとみんな笑顔で、手を振って別れられると。
いつまでも色あせない、永遠の思い出を互いに残すのだと、信じて疑わなかった。
なのに、今は――
「どうして……みんなが……っ」
もう、いない。
もう、戻らない。
もう、話すことも出来ない。
笑いあうことも、二度とない。
楽しかったその何倍もの痛みが、この瞬間において南の胸を刺す。
自身が傷つく以上の深度で心を抉り、意志を挫こうとする手斧の一振り。
それは南の肉体でなく心にとって、途方もない苦痛であり、悲痛であり、激痛だった。
思ってしまう。本当に、出来ることは無かったのか、と。
人に限界がある事は分っている。漫画に出てくるヒーローのようにはなれない。
知っている。だけど、過去を遡れば、失ってしまった彼女達を救うために、自分に出来ることは無かったのか。
やるべき事があったのではないか。
頑張っている彼女達を助けたい。それが、南が南自身に課して、望んだ在り方だったというのに。
それとも何も出来ないというのだろうか。
南では、ちっぽけな、ただの一人の人間の力では、
この絶望的な事態を前に、何もできる事は無いのだろうか。
そんな、自分を責めるような、苦しみだけを増やす思考。
自覚していながらも、止められない。
(こんなものをあと何度、感じればいいだろう)
引かない眩暈に、南は口元を押さえていた手を離し、額に指を当てた。
呆、と熱を感じる。
いつまでも立ちくらみのような不快感が収まらない。
心の痛みがここまで体に影響を与えるものなのだろうかと、訝しみ。
(ううん。それ以前に私が……いつまで……)
それとも、疲れているのだろうか、と。南は自問して、
疲れていないはずもないか、と思い至る。
鑑みてみれば、このところはずっとイベントの準備にむけて働き続けていた。
同僚にも少し休んだ方がいいのではと忠告されたばかりであり、
そこにこんな途方も無い事態が舞い込んでくれば、心身ともに疲労が滲みもするだろう。
こんなことで、『この先』に向けて歩いていけるのか。
根本的な問題。この大きな事件を解決する糸口など、見出せない。
一人の人間の力では到底太刀打ちできない事態を前に、やはりできる事は何も無いのか。
立ち止まったまま、悲しみにくれたい衝動が、南の中にもある。
心を、蝕んでいく。
「っ……駄目よ……駄目。しっかりしなくちゃ」
だけど、今ここにいるのは自分ひとりじゃない。
その感情だけが、この瞬間において南を縛り、そして何より強く、支えていたのかもしれない。
「あの子だって……」
そう今は、南一人ではないのだ。
前を歩いている青年もまた、南と同じように死を聞かされたのかもしれない。
彼の気性の激しさはこの短期間の間によく知らされただけに、心配だった。
大丈夫だろうか。もしもの事があれば、私が何とかしなくては、と。
顔を上げ、南は額に当てた指の隙間からどうにか前を見る。
「野田く――」
そして声をかけようとして、だが、その瞬間。
「ちッ」
南は、前方から発せられた鋭い意志によって言葉を失っていた。
風に乗って届いた舌打ちの音は、刺すように冷たい響きを含んでいる。
「まったく使えんな」
言葉の意味を、南はしばらくの間、理解する事が出来なかった。
「五人も死んだのか、はッ、いずれ生き返る意識が在ったにしろ情けなさ過ぎるぞ。
常日ごろから適当に死に過ぎて日和りでもしたのか、あいつらは。
それとも、天使との戦いがなくなったからと、鈍ったか?」
しかし意図を解せば寒気すら感じるような、あまりに軽い言葉だった。
「新参に舐められれば戦線の名折れだと言うのに。
ゆりっぺの顔に泥を塗るつもりなら、いっそこの俺が――」
言葉も無い南をよそに、目前にいる彼の声はあまりにも冷え切っている。
青年、野田という存在は誰にでもなく、吐き捨てるように言い放つ。
知人の死を聞いても、殺した者の死を聞いても、彼には何ひとつ響かないように。
冷然とした嘲りと、不甲斐なさへの苛立ちのみを滲ませていた。
「まあ、いい。元よりアテになどしていない」
命を、命と捉えるにはあまりに冷たすぎる批評はそのまま、野田にとって生死の価値であり。
渇ききった、その言葉は紛れもない彼の真意なのだろう。
そう、南に理解させるほどの、鋭利な意思がここにあった。
「使えん奴は、そも必要が無いのだからな」
悪意とも、敵意とも違う、異界の法則のような。
「死にたい奴は、永遠に死に続けていればいい」
南とは、あまりにもかけ離れた、渇ききった倫理だった。
干乾びて、枯渇して、腐り落ちて消えてなくなって尚、在り続けることを止めない者達を動かす摂理のカタチ。
この言葉を聞いた今なら、南にも感じ取る事ができる。
それは南にとっては実際に野田が人を殺す瞬間より、よほど決定的なものだった。
「……のだ……くん……」
このとき、牧村南はようやく、本当の意味で知らされたのだ。
目前に在る、ただひたすらに絶対的な、差異を。
根本的なものが違うのだと。
命に対する価値観、純粋に感じる生と死の想いの全てが、
野田という存在は南と異なっている。
それはまるで、致命的なズレのように、埋めがたい溝のように。
「……? 牧村、何をぼんやりしている。早く行くぞ」
一瞬だけ南を振り返った野田は、またすぐに前をむいて歩み始める。
その背に、南はうなだれるしかない。
いったい何を理解した気になっていたのだろうと思う。
こんなにも違うのに、こんなにも遠いのに、分ったようなことを言っていた。
彼は悪い子じゃない。その思いを改めるつもりはない。
ただ、違っていただけ。
乖離は想像を絶していて、彼を語るには、あまりに理解が足りなすぎたのだろう。
「野田、くん」
「なんだ?」
名を呼ぶ声に足を止め、けれど振り向かない彼。
「何も、本当に何も思わないんですか?」
南は一歩を踏み出しながら、暮れる空を眺める彼に、問う。
「もしも……この世界が、人の生き返らない世界だとしたら……」
まだ、引き返せるとしたら。
「大切なものが、失ったものが、何も帰って来ない世界だとしても。それでもあなたは――」
「くだらない質問だな」
けれど彼は、南の問いを最後まで聞かず、切り捨てる。
「世界がどうだろうが、生きてようが死んでいようが、やる事は変わらない。
なぜならば俺は死者で、だがここにいる。この二つだけが絶対だ。
ここでは戦線の、ゆりっぺの力が俺だ。
それ以外など見えん、聞こえん、知りもせん。
言ったはずだろう? 牧村。理解できんなら、お前は俺達の前から消えていけ。
俺の目障りになる前に、そうしたほうがいい」
そして野田は、こう続ける。
ほんの一瞬、けれど間違いなく、南に殺意すら向けながら。
「俺は俺の死も、俺達の抵抗も、誰にも否定はさせない。覆す全てが俺達の障害だ。断ち切り、潰す対象。
それを忘れてしまった奴も、何人かいるんだろう。だからあいつらはまた、死んだ。それだけのことだ。
だがな、俺は違う。俺は絶対に、忘れない」
表情は見えない。されど底知れぬ憎悪が滲むような声だった。
怨嗟なのか、嫉妬なのか、苦痛なのか。
元がどのような形を取っていたのかさえ、もはや判別できないほどに捻じ曲がり、
混じり合い塗り重ねられたような、不定形の激情。
「所詮、お前の言う生も死も、俺には無い。欲しいとも思わない」
全てを拒絶するような背中を、彼が握る抜刀された大刀を見つめながら、思う。
ああこの子は、野田という青年は、まるで抜き身の刃のようだ、と。
常に解放された切っ先。
目前に立ちふさがる敵、感情、倫理の全てに、刃を向ける鋭利。それが彼なのだ。
彼は常に、打たれたばかりの刀身の如く熱しており、同時に澄み渡る白刃の如く冷めている。
それはきっとこの異常な世界において、過不足のない危険分子。
信じる者以外の、出会う全ての人々に切っ先を向けるであろう剣は、おそらく凶刃にしかなり得ない。
「ゆりっぺが、俺たちが求めたモノはただ一つ。
他の全員が忘れようとも、俺は忘れない」
南の声を拒絶する背中が、こう言っているように見えた。
己を抑えるものなど、不要。
生も死も、不要。
存在と、目的と、力が在ればそれでいい。
「話は終わりだ」
最後まで南の顔を見ることも無く。
野田は歩みを再開する。
絶対的な相違、意志を目にすれば。
俯いたまま立ち尽くす南はひたすらに、無力を思い知る。
なにも出来ないまま、掛け替えのない物を失ってしまって。
目の前にいる人との価値観すら、こんなにも遠いことに今更気づいて、そして――
「でも、私は……そんなの辛すぎると思いますよ……」
目の前にある者を哀しいと、思ってしまうのだ。
痛みばかりを感じてしまう。
彼の言葉を聞いて、どうしようもなく切なくなる。
「私は……いま、辛い」
南は大切な人たちを失った。
それはとてもとても、悲しいことだった。
いま、この瞬間、胸が痛くて痛くて、堪らなくて。
けれどこの痛みが、悲しみが、彼には無い。
それはいったい、どれほどの無感なのだろう。
どれ程の死を見て、どれ程の死を感じれば、至れる無痛なのだろう。
きっと彼はだからこそ、南よりもずっと強くて、迷わない。
「でもそれ以上に、哀しいじゃないですか。それを悲しいと、思えないことは……」
自分でも知らず、小さくしぼり出したような声。
全てが向かい風に吹き消されて、彼の背中にまで届かない。
でもこれでは、きっとどちらにせよ届かない。届いたところで響かない。
無力で、悔しくて、手の平を、腰元でぎゅっと握り締める。
どう言えば、彼に伝わるのだろう。
開いていく距離は、物理的なものだけではないように思えた。
南の思い、世界が彼とはあまりにズレていて、噛み合わない。
それでも『哀しい』と、思う事だけは確かなことなのだ。
どう表現すればいいのか、何故そう思うのか、南自身まだ分らないけれど。
ただそれは、とても悲しいことなのだと。
伝え方の分らないままに南もまた、新たに歩を進めようとして。
「……あ、あれ?」
しかし、風が通り抜けたと同時。
南はふと、踏み出した足の軽さに気づく。
あれほど重かった己の歩みに、少しだけ、力が戻っているような。
胸に開いた穴が少しだけ、何か違うもので埋められたような。
錯覚があった。
力を与えられる感覚がある。
眩暈も、気づけばなくなっている。
「どうして……?」
いったい己の体、あるいは心に何が起こったのだろう。
萎えかけていた気力を支えた、この原動力はどこから来たのだろうと。
南が先程よりもクリアな視界で前を見たとき、答えは得られた。
――殺し合い。
事態はとても南の手には負えなくて、
――人の死。
掛け替えのない物を失って、
――世界と心の距離。
いま目の前にすらこんな大きな問題があって、
なのに何故だろう、今は、苦痛が少しだけ、緩和されている気がした。
野田の背中。
南に言いようのない悲しみを与えるそれが、同時に活力を与えてくるようだった。
何故か今、前に進む力を与えられている。
「……そっか」
理解する。
ここに、あった。
出来ること。
やらなきゃいけないこと。
ちっぽけで、無力で、ただの人間である南でも。
出来ることが、あったのだ。
眺めている景色の違う子がいる。
埋めがたい溝を抱えた人がいる。
致命的なズレのある、存在が目の前にある。
だけど南からすれば、ただ見ていて危なっかしい彼を、この子を支える。
簡単なことじゃない。障害は幾つもある。
少なくとも今は方法すら思いつかない。
もしかすると、挑むだけ無駄な、不可能な事なのかも知れない。
だけど、もう決めてしまったのだから。
今だけは、この世界でたった一人、南にしか出来ない事だから。
この子をサポートすること。
それをまず己に課す役割として、進むことを決めたはず。
頑張ってる人を助ける仕事を担いたいと、ずっと前から。
「それじゃあ、上等です」
できる事がある。立ち向かえる問題が目の前に在る。
だからこそ、牧村南は立ち向かうものを見失わずにいられた。
足を、止めずにいられた。
「私は負けませんよ、野田くん」
表情を引き締めて、彼に届かないくらい小さな声で、宣誓する。
誰にも内緒で、心中だけの決定を下す。
例えば野田という青年が、抜き身の刃であると言うならば、
鋭利を抑え、何とかして彼と他の人たちを繋ごう。
そこから始まるものに、賭けてみよう。
「一期一会。せめてこの巡り合せに、この縁に、意味が在ると思いたいから」
暗中模索なスタートでも、まずは決意する。
南は己が手に握る、残された外装を見下ろして――
「私はあなたの鞘になる」
己の役割をそう定めた。この先に行くと、決めた。
どれだけ困難な道程であろうと。
ここで、『目の前のこと』からも目を逸らしてしまったら。
きっとこれから先に待ち受ける、これ以上に大変な事態にも、立ち向かえるわけがないのだから。
「おい、さっきからいったい何をブツブツと……」
「いいえ。何でもありません」
弱くても、微笑を返す。
強がりでも、力強く踏み込む。
「さ、はやく行きましょう」
「……お前」
まずはカタチだけでも、彼と同じ視野を理解するために。
「ほら、止まってる暇は無い。ですよね?」
「む。まあ、当然だが……」
牧村南はこのときから少しだけ、歩むスピードを速めることにした。
【時間:1日目午後6時20分ごろ】
【場所:G-4】
野田
【持ち物:抜き身の大刀、水・食料一日分】
【状況:軽傷】
牧村南
【持ち物:大刀の鞘、救急セット、水・食料一日分】
【状況:健康 少し疲れ気味】
最終更新:2011年08月10日 19:50