「私の邪魔を、するな……。」
ㅤ小林と伊澄、2人の前に立ち塞がったのは、怒りの感情を暴走させた勇者、遊佐恵美。人々を護り、導くはずだったかつての面影は残っていない。今の彼女は心を焼く怒りのまま、魔王を殺すことだけを目指す脅威の化身。虚ろに彷徨うその瞳には深く闇が根差していた。
ㅤしかし、彼女を構成するものは何一つ変化していない。人類の尺度で言えば規格外の聖法気は、闇に染まれど健在である。その圧倒感は、小林が終焉帝と直面した時に感じたそれと同じ。血走った目、既に人を殺していてもおかしくない激戦の跡が見られる全身の生傷、小林の素人目ながらに、危険度を理解出来る。
「できれば、話し合いで済ませたいところなのですが……そうもいかないようですね。」
ㅤ鷺ノ宮伊澄は最も早い段階で警戒を見せていた。遊佐の業物である木刀・正宗は鷺ノ宮家の宝具。元を辿れば伊澄の所有物だ。それは遊佐にとってある意味幸運だったのだろう。伊澄は遊佐の精神暴走の間接的原因を把握出来ている。危険人物と断定され、問答無用に排除される未来よりはよほど先が見込めるだろう。
ㅤしかし伊澄にとっては、決して幸運とは言えない。相手が純粋な殺人鬼だと思っていれば、躊躇わず防衛戦に入ることもできていただろう。だが、遊佐の暴走があくまで本人の意思とは別にあると気付いた以上、殺傷に少なからず躊躇いが生まれる。ましてやその原因が、己の宝具にあると推測していれば尚更だ。
「少々荒っぽいですが……力ずくで鎮めさせていただきます!」
ㅤ胸を差す罪悪感に手を震わせながら、タロットカードに霊力を込める。一般人である小林は感じ取れないが、エンテ・イスラの民である遊佐は、その力の脅威を感じ取る。
「へえ……?ㅤ禍々しい力ね。まるで、悪魔のよう。」
ㅤ聖法気を正の力とするならば、伊澄のそれは負の力。悪魔の――自分が殺すべき相手の力だ。それを感じ取ったからには、生かして帰す道理は無い。伊澄の全身を包む和服から連想されるはずのかつての友人の姿も、今の遊佐には浮かばない。
「つまりあなたは私の敵。殺してやるわ。」
(速いっ……!)
ㅤ動いたのは遊佐。天光駿靴で即座に伊澄の背後を取り、聖法気を込めた木刀・正宗でその首を狙う。
「っ……!」
ㅤ熊の爪とて通さない結界を張ってもなお、全身にビリビリと巡る衝撃。現在降りかかる身の危機をこの上なく感じ取った伊澄は顔をしかめる。
「伊澄さんっ!」
ㅤ先ほどまでの伊澄ののんびりした様子が消え去ったことに、小林もまた危機感を覚えずにはいられない。小林は叫ぶ。その音に反応し、遊佐の視線が小林に移る。
(いけないっ……!)
ㅤ今の遊佐は制御が効かない。誰を標的と定めるかの予測が付かない。今は自分の霊力に惹かれていても、何かの拍子に小林が狙われる可能性もある。
「これをっ!」
ㅤ遊佐の連撃の合間を縫って小林の足元に棒状の何かが投げ付けられる。怪異たちの知恵の神が歩行の補助に用いていたステッキ。本来、何の力も備わっていないはずのそれは大地に突き刺さり、足元に星型の結界を形成する。
「私の霊力を宿しています。その結界の中にいる限り、敵は易々とは手を出せません。」
ㅤすげえな、とゴーストスイーパーとやらの能力に舌を巻くばかり。自分の知る範囲で言うところの認識阻害のようなものだろうか。
「ドラ〇ンクエストで言うところだと聖域の〇物のようなものです。」
「あ、うん……。」
ㅤ分かる人には分かる説明を終え、再びタロットを手に遊佐の攻撃への対処に回る伊澄。安全確保といえば聞こえがいいが――要は戦力外通告だ。
ㅤいや、分かっている。分かっているのだ。力も無いのに自分も戦いたいなど、自分のエゴに過ぎないのだと。分を弁えねば伊澄さんの負担になるだけだと。自分に出来ることは、伊澄さんの戦いの気を散らさないようここでじっとしておくことだけ。それ以上を望めば死ぬ。
ㅤ拳を握る。種族差という越えられない壁がそこにある。それを越えてしまえば、もう私は人間とは言えないのだろう。ヨモツヘグイ――黄泉の竈で煮た肉を食べてしまえばもうその地点で常世の人には戻れないという。この戦いに介入するというのは、そういうことだ。私が人である限り。人でありたいと願う限り。手を出すのは、余計なことでしかない。
(ありがとうございます、小林さん。)
ㅤ氷晶が爆ぜ、業火の舞い散る戦場の中、横目で小林が魔法陣の中に収まったのを確認すると、持てる全ての集中力を目の前の敵に傾ける。
「――八葉六式・撃破滅却。」
ㅤ伊澄がタロットを翳すと、眼前に大爆発が巻き起こる。霊力の流れを察知し、事前にバックステップで回避した遊佐は無傷。しかし爆風で後方に退避した伊澄も相まって、両者の間には大きく距離が開く。遊佐の聖法気を込めた剣技であっても、目視による回避が存分に間に合う距離だ。剣術を扱う遊佐を相手に、近距離戦は本来、伊澄には分が悪い。
ㅤ物量の嵐とばかりに、タロットに魔力を込めて次々と放つ伊澄。だが、遠距離攻撃が回避しやすいのは遊佐にとっても同じこと。その隙間を縫って避け続け、伊澄の霊力ばかりが消耗していく一方。
(このまま……正宗さえ破壊すれば……。)
ㅤしかし両者間では勝利条件が大きく異なる。伊澄の命を奪えば勝てる遊佐と、遊佐を正気に戻せば勝てる伊澄。精神暴走を媒介している木刀・正宗の破壊こそが、伊澄の狙いである。
ㅤ自分を狙う攻撃には敏感に対処できても、武器のみを狙う攻撃まで対応するのは困難なはず。事実、避けきれず木刀・正宗で弾かざるを得なかったタロットは、着々と武器へのダメージを重ねていく。
(これで決めてみせる――!)
ㅤそして、タロットへの対処に追われていた遊佐。次の伊澄の行動への対応を遅らせることとなる。自分から距離を離した伊澄があえて接近し、再び距離を詰める。その手には『死神』を模した1枚のタロット。
「術式・八葉――」
ㅤ伊澄の纏う霊力が、守りから攻めに転じたことを感知し、チャージのために一歩引き下がる遊佐。精神暴走の影響で防御力が下がっていることを、遊佐は本能で理解している。それならば迎撃するより他にない。刀に聖法気を宿し、力には力の理論で返す。
「――建御雷神(タケミカヅチ)!」
「――天衝光牙ッ!」
ㅤ二人の放つ雷撃がぶつかり合い、弾ける。そのエネルギーの眩さに、傍観者の小林ですら視界を白く塗り潰される。ましてや、当事者の二人はその爆心地にいるのだ。両者ともに一時的にその視界は失われる。
「空突――」
ㅤ戦場の二人に平等に訪れた空白の数秒間。しかしそれは、遊佐への大きなアドバンテージだ。身体能力そのものは人間の域を出ない伊澄は、数秒で遊佐を撹乱するだけの行動を起こせない。しかし身体能力の尺度が違う遊佐。視界の消えた刹那の時を利用して伊澄の背後に回り込む。
ㅤ視界が開けた時、手持ちのタロットに霊力を込め終えた伊澄の眼前に、遊佐は見えない。
「後ろ!!ㅤ後ろだぁぁ!!」
「――連弾ッ!!」
「うぐっ……!」
ㅤ小林の助言虚しく、次々と放たれる遊佐の拳が伊澄の背に命中する。結界も間に合わず衝撃をまともに受け、吹き飛ばされた勢いのままに大地を転がり、平穏な日常では見ることも無かったであろう大きさの血の塊を吐き出す。
ㅤよろよろと起き上がれば、眼前には追撃に走る遊佐の姿。タロットを取り出す暇も無い。しかし臓器への攻撃を許すわけにもいかない。右手に霊力を込め、突き出す。
ㅤ対するは、風の刃を纏った木刀・正宗による刺突。聖法気により鋭利さを得た宝具を、咄嗟の抵抗では相殺し切れるはずも無く――まるで瓦の如く、伊澄の右の掌を骨ごと砕いた。
「ッ――!」
ㅤ決壊し、弾け飛ぶ血飛沫。苦悶に表情を歪ませつつも、霊力を爆ぜさせ、遊佐の追撃を遠ざける。
ㅤそうして再び保たれた一定の距離。文字通り息づく暇もなかった攻防にインターバルが訪れる。同時に、余裕が生まれて口内から血の味がじわじわと広がってくる。
ㅤ戦況は大きく不利に傾いた。聖法気を纏った木刀・正宗が思った以上に丈夫であったことも、体内に宿す聖法気は感知していたが遊佐の剣術の腕までもは外観では見切れなかったことも、この戦局を動かした何もかもが伊澄の想定の外にあった。
ㅤ伊澄は、基本的に敗北というものを知らない。光の巫女として天賦の才を持って生まれた彼女は、霊力をはじめ異能の力の類において対人で不覚をとったことは殆ど無かった。
ㅤここで与えられた四肢欠損の激痛。先の応酬は紛れもない敗北に終わり、そして痛みの先の死まで見え始めている。年端も行かぬ少女の心を折るには、充分すぎる。
ㅤこうなればもはや敗走も手だ。鷺ノ宮家の秘術『強制転移の法』を用いれば、小林さんごと何処かへ瞬間移動して逃げることも可能。しかし、暴走を起こした遊佐の扱う武器が木刀・正宗であるために、その選択肢は奪われた。鷺ノ宮家に伝わる宝具のせいで、誰かの命が奪われる事態を引き起こすわけにはいかない。知り合いたちは全員、そしてその中でも特にナギは、遊佐と渡り合えるほどの実力を持たない。ナギも同じ舞台に招かれている現状、能力のある自分がここで倒さなくてはならない。
ㅤそして、逃げられない理由はもう一つ。
「もう終わり?ㅤ悪魔のくせに、手応えないのね。」
ㅤカチン、と。伊澄の悪癖、負けず嫌いが発動する音がした。もはや口上とも言える安い挑発は、伊澄にはむしろ効果的に働いた。
ㅤ当然よ、と言葉は返さない。返すのは霊力をたっぷり溜め込んだタロットの洗礼で充分だ。
――建御雷神・四面
ㅤ四方から降り注ぐ雷撃が、遊佐の身体を包み込む。一点突破が破られたならば、波状攻撃を仕掛けるのみ。簡単な理屈。しかし、右手を失い霊力注入もままならない状態で、威力を分散させてしまったことは悪手だった。
ㅤ魔王軍との戦いで押し寄せる幾千の悪魔。それに対し、勇者エミリアのパーティーは4人。その頭数の差をしてなお、勇者は敵を駆逐してきた。
ㅤ広範囲の波状攻撃への対処ならば、遊佐の右に出る者はいない。
「光爆衝波ッ!」
ㅤ聖法気を撒き散らし、迫る雷を霧散させる。極雷の道を開いた先に見えるは、伊澄の姿。元より非力な少女の動きが、失血によりさらに鈍っている。霊力を用いての大技も、練る時間を遊佐は与えない。
「しまっ――」
ㅤ木刀・正宗を斜めに構える。既に敵は見据えており――フェイントを織り交ぜることもなく、ただ一直線に向かうだけ。
「死になさい。」
ㅤかつて勇者だった者は、正義を忘れ、斬り付ける。燎原の中に咲いた花を手折るように、それは容易く、一人の少女の命を奪うはずだった。
「……どうして。」
――そこに、割って入る者がいなければ。
「人間の人生なんて、あの子らからすれば刹那のようなものなんだろうけどさ……」
ㅤ助けに入った者を見た伊澄は驚愕に目を見開く。小林が、伊澄を庇い遊佐の斬撃を受けていたのだ。
「伊澄さんは、その刹那に全力を尽くしてくれている。」
ㅤその手には、伊澄が先ほど投げつけたステッキ。遊佐の斬撃を受け止めるも、すぐに真っ二つに切断される。
「だから私も――命をかけるよ。」
ㅤ霊力を用いる伊澄を悪魔の類と見ている遊佐の目に映る小林は、己が導くべき力無き人々である前に――仇討ちの『邪魔者』だ。そこに、容赦は生まれない。
ㅤ次の瞬間には、小林の胴体を斬り付けていた。
■
ㅤ私に、何ができる?
ㅤ私はただのOLだ。特異点があるとするならば、少しばかりドラゴンと関わっているというだけ。私自身に価値があるわけじゃない。
ㅤそんな私に、何ができる?
ㅤ結論としては、何もできない。魔力や霊力なんて無いし、暴走する遊佐を打ち倒すことなんて出来やしない。身の程は、分かっているつもりだ。
ㅤこうやって"人間"と"それ以外"で線引きしてしまえれば、きっと楽だ。人間だからできない。人間とは違うからできるだろう。
(と、そこで思考停止するのは簡単だけどさ。)
ㅤ身の丈にあった分業と言えば聞こえはいいが、その実は分断――悪くいえば迫害。関わらないのが吉であると、互いに不干渉を決め込むことこそが最善であると、そう唱えているだけだ。
ㅤでも、そうじゃない。そんなこと、私は望んじゃいないんだよ。いつだったか、ドラゴンと対等のつもりか、とファフニールに聞かれたことがある。その時、私はそうだと答えた。ここで自分がただの人間であることを理由に戦いを伊澄さんに丸投げしてしまえば、多分私は同じ答えが言えなくなる。
ㅤ確かに自分はただの人間だ。だけど、何度か命を賭けたおかげで感覚だけは常人離れしている自覚はある。
(そうだ。私には力なんてない。でも、そんな私にも出来るのは――)
ㅤ大地に突き刺さって安全を保証してくれているステッキを思い切り引き抜いた。
(――守りたいものを守るために、命を賭けることくらいだろ!)
ㅤ弾除けだと言うならそうなればいい。伊澄さんが勝負を決めてくれるためのひと時を、全力で整えてやればいい。
ㅤ対抗手段とするには頼りないステッキを盾に、遊佐の斬撃にめいっぱい食らいついた。
――バキッ!
(この感覚、何回目になるかな。)
ㅤ勇者の一撃を前に、ステッキは簡単に砕ける。
(わかんないけど……今度こそ、死んだかもな。)
ㅤそして防具らしきものを失った小林に、木刀・正宗の一撃が思い切り叩き込まれた。
ㅤ次に小林の全身を支配した感覚、それは――
「いっ……」
――痛みだった。
「痛ッてぇぇぇぇぇ!」
ㅤステッキに込められていた伊澄の霊力は、木刀・正宗を受け止めた際に超能力の一種である聖法気を吸収した。そのため小林が受けたのは、殺傷力の低い木刀による打撲のみ。素手で熊をも倒す勇者の剛腕による木刀、それはそれで悶絶じゃ足りないほどに痛い。だが、それ止まりだ。命に関わる致命傷からは程遠く――
「くっ……離せ……離せええええっ!!」
ㅤそしてそれ故に、小林は受け止めたそれを掴んで離さないことができた。
ㅤ小林ごと貫くわけにもいかず、その隙に迂闊に攻撃は放てない伊澄。しかし小林は、必殺技を溜め込むには充分すぎる時間、遊佐の拘束を果たした。
「この……消えろッ!」
「うわあっ!」
ㅤ振りほどかれた小林は、わざと大袈裟に転がって伊澄の巻き添えを食わないようその場を離れる。
「あとは、私が!」
ㅤ伊澄の手には一枚のタロット。霊力を編み込み、天に掲げる。
「……どうか、悪く思わないで。」
ㅤ小林が駆け付けて、そして繋いでくれたこの一瞬。熱く燃えたぎる闘志とは遠くかけ離れた性格伊澄である。しかしそれでも静かに灯る心根が、遊佐に訪れた千載一遇の隙を捉えて離さない。
「術式八葉上巻・別天津神(ことあまつがみ)!!」
ㅤ地を破り、霊力で形成された宝剣が浮き上がる。次第にそれらは融合し、依代となったタロットが示す通りに"悪魔"の形へと変わっていく。鮮明に存在を主張する異形を、遊佐はどこか、懐かしさを覚えながら睨み付け――そして、放たれる。標的は木刀・正宗――勇者の命を救いつつも、勇者を闇に堕とした元凶でもあるひと凪ぎの宝剣。
「……不思議な感覚。」
ㅤ強大な力を前に、遊佐は小さく呟いた。
ㅤ悪魔を模した、どす黒く醜悪な見た目の霊力の塊。だがこうして目の前にしてみると、その性質はどことなく温かい。
ㅤ初めての感覚じゃない。いつだったか、昔にもこんなことがあった気がする。嫌悪の対象だと信じてきたものが、その実は悪しきものとは遠かったことへの困惑――それに伴う葛藤の日々を、遊佐の頭には浮かばない。身を焦がすほどの怒りが、その日々を塗りつぶしてしまっている。
ㅤしかし己へと迫るそれが到達する寸前、遊佐の目に僅かに光が灯る。それは正気からは遥か遠い。しかし、悪魔への怒りだけを昂らせた精神暴走状態の遊佐であれば決して取ることのないであろう行動を、遊佐は選び取る。
「――天光鏡閃。」
ㅤ悪魔を模した攻撃に対して取った行動は、怒りに身を任せての破壊ではなく――反射。
ㅤ木刀・正宗を翻し、霊力の表層をそっと撫で上げ、返す。まるで寄せては返す波の如く、別天津神は力のベクトルを真逆に変え、伊澄へと向かっていく。
「――そんなっ……!」
ㅤゴーストスイーパー鷺ノ宮伊澄。退治してきた悪霊は数いれど、己の強大な力が、そのまま向かってきた経験は未だ無い。
ㅤましてや、聖なる力を操る勇者と、歪な力で形成された悪魔が、共に己に向かって来る光景。勝てるビジョンなど浮かばない。
(相殺するしかっ……!)
ㅤ別天津神は伊澄の必殺技の一つ。その威力は伊澄が最も理解している。温存は許されない。伊澄に到達する直前、霊力をありったけ込めた結界を張り巡らせ――
「はぁ……はぁ……」
ㅤその威力の大半を、殺し切った。しかし相殺を図ってなお受けた傷は決して浅くはなく、しかも戦線を切り抜けたその姿は外目にも分かるほど、異常をきたしており――
「伊澄さん!」
ㅤ小林が駆け寄る。伊澄の古風な美貌を彩っていた黒髪は、雪のように白く染まっていた。霊力が切れた時に起こる変化であり、それ自体命に別状は無い。しかし、その状態とは別に命の危機は迫っている。
「駄目……逃げ……て……」
「逃がすわけないでしょう?」
ㅤエミリア・ユスティーナ。数多の悪魔を灰燼に化してきた聖剣の勇者は未だ、膝を着くこともなく五体満足で立ちはだかる。射程内に捉えるは、異形の力を用いた少女、伊澄。
「悪魔なんておぞましい存在、生きてていいはずがないの。お前も、そして邪魔をしたお前も、みんな、みんなブチ殺してやる。」
ㅤその精神に、かつての面影は残っていない。支離滅裂な思考から繰り出される言葉に、辻褄など無い。木刀・正宗の副作用とか、精神暴走とか、そんな一切合切を知らない小林にも、遊佐が人間としてのタガの外れている存在であることくらいは分かる。
ㅤだからこれは、ただのエゴに過ぎないのだろう。
「――ふざけんなっ!」
ㅤ終焉帝の時とは違う。対話では解決しないことなんて、分かり切っているのに。
「そりゃ悪魔ってのは私の管轄外だよ。私はせいぜい、ドラゴンについて人よりちょっと知ってるだけのOLだ。それでも、この子とはアンタより関わってる。」
ㅤ敵の狙いが伊澄さんだと言うなら、今すぐにでも見捨てて逃げるべきだ。2人まとめて死ぬぐらいならよほど合理的だし、その選択で見捨てられる彼女自身、それを望んでいる。
「んで?ㅤこんないい子つかまえておぞましいだって?ㅤよくもまあ適当ぬかせるもんだ。」
「……黙れ。」
「分からないものと分かり合える可能性を捨てたアンタに、私は負けない!」
「そこを退け……!ㅤ邪魔だああああっ!」
ㅤ斬られるっ!ㅤそう覚悟を決めたその瞬間だった。小林に斬り掛かろうとしていた遊佐の動きが停止する。何が起こっているのか、立ちすくむ小林も、霊力が切れた伊澄にも理解できない。遊佐は、たった今の今まで目の前にいた二人の存在を忘却したかのごとく明後日の方向を向いていた。
「――見つけたわ。」
ㅤ視線を遊佐の向く先に移す。そこには、二人分の人影。そしてその内の一人は、ただの人間である小林よりも、今や霊力を宿していない伊澄よりも、そしてその他もろもろの誰よりも、優先して殺しに行くべき人物の中の一人。
「何で……」
「ククッ……私の、本当の敵……!」
「何で……!ㅤお前が人間と殺し合ってんだよ、エミリアっ……!」
「――ルシフェル。私は……お前を、討つ!」
ㅤ漆原半蔵。本来の名を悪魔大元帥ルシフェル。いつかは敵同士、されどまたいつかは共闘相手。彼らの宿命の在り方は常に揺れていた。
ㅤそして今――殺し合いの明確な"敵"として、彼らは再び相対する。
最終更新:2021年03月09日 03:01