「――お待ちしていました。」
数十分前に殺し合いを繰り広げた間柄とは到底思えぬほどに、新島真と相対する岩永琴子の表情は余裕に満ちていた。
「……何のつもり?」
この現状が不可解であることに気付かぬほど考え無しな真ではない。先手を許してしまった以上、綾崎ハヤテの運転する自転車に乗っていれば、ヨハンナの追跡から逃れ切ることは充分に可能であったはずだ。仮にハヤテと何らかの衝突があり別れることとなったにしても、ルブランと負け犬公園の間に位置する場所で待機していれば自分と遭遇するリスクが高いことは承知のはず。この場に岩永が留まり、自分を待ち構えていたという事実、その地点で何かの罠を疑うのが鉄則というもの。何より、岩永の同行者であったハヤテの姿が見えないのが気にかかる。
「準備が整いましたので、然るべき提案をしに来ただけですよ。」
「準備……?」
「ええ。」
暴力で捩じ伏せるのは容易であるはずなのに、それを行使してしまったら破滅への道を歩み出す結果となるという感覚がどうしても抜けないのだ。ゆえに真は、それ以上踏み込むことができなかった。安直な暴力への躊躇を感じ取った岩永は僅かに会釈し、一拍間を置いて答える。
「といっても中身はシンプルです。……和解といきましょう。」
■
時は遡り、放送直後。
放送の情報を纏めてメモし終えた岩永と、そのために移動を止めていたハヤテ。岩永は何かを考え込むように指を顎に当て、一方そんな彼女の様子も目に入らないほどに、ハヤテは戦慄していた。
(まさか……伊澄さんが死んでしまう、なんて……。)
殺し合いなどというフィジカルに特化した催し、お嬢さまの身が危ないという意識は充分にあった。西沢さんやマリアさん、さらには武闘派のヒナギクさんに対しても、そういった危機感は少なからずあったはずだ。だが、それでも伊澄さんに関しては、その点の心配は殆どしていなかった。不思議な力を操り、この世のものならざるものも日常的に相手にしてきた伊澄さんが、まさか他の皆よりも先に殺されてしまう事態など――正直、起こり得ないと思っていた。伊澄さんは守るべき相手ではなく守る側であるのだという油断があった。そんな気の緩みの中に叩き付けられた、彼女の死。それはお嬢さまだけでなく、西沢さんもマリアさんもヒナギクさんも――他の知り合いたちだって当然に殺され得ることを示していて。
(……僕は本当に、お嬢さまを守れるのか……?)
浮かんできた考えも当然にネガティブなものにならざるを得なかった。根性論でもご都合主義でもどうにもならない死という不可逆を、改めて提示されたのだ。やもすればそれをも覆してしまうかもしれないゴーストスイーパーは、もうこの世に存在していない。
ぐるぐるとから回る思考が、ハヤテを焦らせる。結局やるべきことは1秒でも早くお嬢さまを見つけることに収束するというのに、それができないことがもどかしい。そもそもお嬢さまがどこにいるのか分からないし、そういう『取引』をした以上は岩永さんも守らなくてはいけないし……
『――ハヤテさまにとって、一番守りたいものはなんですか?』
ㅤふと、ハヤテの脳裏に悪魔が囁いた。
『――ハヤテさまにとって、一番大切な人は誰ですか?』
……否。厳密には囁いたのは悪魔ではなく。強いて言うならば、亡霊か。
この世界で唯一数えた喪失である伊澄のことを思い返したことによって、生前の彼女に言われた言葉が不意に頭の中に反芻されたという、ただそれだけの事象だ。だけど、その事象が示す意味は、明確に悪魔の囁きと呼んでも過言でないものであった。
お嬢さまに相続されるはずである三千院家の遺産を実質上放棄せねば、アーたんこと天王州アテネを救えない、と。お嬢さまの将来か、アーたんの命か、どちらかを犠牲にするよう突き付けられた時の言葉。現状も、その時と同じであるからだ。岩永さんをここで見捨てれば、お嬢さまを探すことだけに集中できる。僕が本当に守りたい人だけを、守れる。
(そうだ。取引といっても、結局は口約束。岩永さんとお嬢さま、仮にどっちかを切り捨てないといけないのなら、僕に迷いはない。)
岩永さんは未だ何かを考え込んでいる様子で、彼女の支給品であったデュラハン号は自分の手の届く範囲に放置している。もし、自分がデュラハン号に即座に乗り込んで颯爽と逃げ出したとしても、彼女には何も手出しは出来ないだろう。岩永さんと二人乗りで自転車を漕ぐ場合、岩永さんに配慮した速度で乗り回さないといけない。それは……お嬢さまを探す自分にとって邪魔な事実でしかないじゃないか。
(別に彼女を殺そうというわけじゃない。だったら……)
かつて、お嬢さまを守るためだったら法律すらどうでもいいと豪語したことがある。それに一切の誇張はないし、ましてやこの場で試されているのは法律ですらない、倫理観という曖昧なものだ。ひとつの舟板に、掴まれるのはただ一人。大切な人を掬い上げるためには、もう一人を沈めるしかない。
ここまで岩永を裏切るに値する条件が揃ってなお、あえてハヤテを躊躇させているとすれば、それがお嬢さまを守る結果に確実に繋がるとは言えないこと。理想は当初の予定通りに岩永さんを守りつつお嬢さまも守ることであり、それへの道も決して閉ざされているわけではないということ。極論、今この瞬間に目の前の草むらからひょっこりとお嬢さまが現れ、岩永さんと三人で脱出を目指すことになっても何らおかしくはないわけで、まだ理想を追う道は充分に残っているのだ。しかし、仮に見捨てる選択肢をとってしまえばもう岩永さんとの信頼は回復しない。岩永さんを見捨てた上で、彼女がどうにか一人で生き残ったとしても、僕は彼女の脱出に協力する資格を失うのだ。それに、少なからずお嬢さまのために動いてくれている岩永さんを裏切ることだって、悪いと思わないはずもない。
『――もちろんあなたには力ずくでこれを奪うという選択肢もありますよ。』
岩永さんにデュラハン号を提示された時の言葉が、今さらながら脳裏に浮かんできた。あの時は心配性だ、なんて思いながら否定したけれど。こうして殺し合いという事実に改めて向き合ってみると、僕がそれを選択するもしもすら現実的なものであったのだと分かる。僕は伊澄さんの死によってようやくこの殺し合いの非情さを認識したが、岩永さんはこの殺し合いがどういうものなのか、あの段階で大まかに見通していたということだ。
(そうだ、岩永さんは僕に見えないものも見えている。お嬢さまを守るのなら、彼女の力を借りるのは必要で……)
取引を放棄すれば岩永さんを敵に回すことになるのは、どう見積っても間違いないのだ。彼女の性格を考えると、仮に裏切ったとてお嬢さまを報復に殺すような真似は流石にしないとは思うが、ここまで彼女の頭脳の片鱗を少なからず目の当たりにしている以上、なるべく彼女は味方につけておきたい存在であることは確かだ。
結局先に浮かんだ想像を、気の迷いとして切り捨てたハヤテ。同時に、自己嫌悪が襲い来る。
(……はぁ。最低だ、僕は。)
彼女を裏切ることを実行し得る選択肢として挙げたこともであるが、更にはそれを止めたのは道徳ではなく、彼女の頭脳を当てとする打算でしかなかった。
もし、世の中が打算のみで回っていたとすれば、僕は今ここに立っていない。ヤクザに売られ、誰からも見放された僕をつなぎ止めてくれたのは、お嬢さまの、打算なき優しさだった。だというのに、僕が今の今まで考えていたことは、その優しさに真っ向から反する行いだ。
そんなハヤテの後悔すら、見透かしたかのように――岩永は、唐突に切り出した。
「デュラハン号はこのままあなたに差し上げます。その上で――同行関係は、一旦ここで打ち切りとしましょう。」
「……えっ?」
それを本心では望んでいた自覚があったからこそ、必要以上の驚きがあった。
「い、一体どうして……」
「そもそもの話をしましょうか。」
唖然とするハヤテをよそ目に、デュラハン号の方へと歩みを進めながら岩永は口を開く。
「殺し合いを命じられていながらも私たちが同行に至った理由は大きく分けてふたつ。あなたの探し人の保護と、私の安全の確保です。
ここで、あなたの探し人の保護のみに観点を置くのであれば、彼女の捜索にあたっての移動手段として、デュラハン号があればそれ単体で足りるでしょう。その点、私は重りでしかないし、むしろ私と手分けした方がナギさんの発見に至る可能性は高いとまで言えます。
つまり私たちが同行していることのメリットは、全て私の安全確保にのみ直結しているのです。
これは私にとってはリスクでしかありません。あなたがあなたの目的にのみ忠実に動くのなら、私を切り捨てるのが最適となるのは自明なのだから。」
そんなことはしない、とハッキリと言えたら良かったのだろうけれど。彼の脳裏に過ぎった考えと完全に一致していたからこそ、何も言えなかった。だけどこのまま俯いていても心の底を見透かされてしまうような気がして、黙ってこくりと頷いた。
「……そしてこれはここまでの同行であなたを信頼しているからこそ伝える情報でもあるのですが……リスクを承知の上であなたに同行していた理由のひとつに、私の探し人であった桜川九郎があります。
彼は、自分の身の危険に対してすごく疎い。このパレスとやらによる制限が彼の体質にいかなる影響を及ぼすか不明だったので、可能であれば彼に一言、注意喚起をしておきたかった。
ですがこの6時間で彼と会うことは叶いませんでした。それでも、彼が死んでいないことは放送から分かっています。パレスに人魚の力への制約がなかったのか、はたまた彼自身が身の危険を察知し死なないように立ち回っているのか……どちらにせよ、私が彼を急いで探す必要が薄れたことは今の放送から明らかになったということです。」
岩永は語り続け、ハヤテは下を向いたままだ。まともに直視ができない。今、彼女はどんな顔をしているのだろう。何もかもを見透かしているかのような印象すら受ける岩永の眼光は今、どこを向いているのだろう。心苦しさに胸が詰まりそうだった。何かを言わなくては、耐えられなかった。
「……岩永さんの身の安全はどうするんですか?」
震えた声で、ハヤテは尋ねた。ハヤテにとって何より腑に落ちない点はそこだ。岩永を置いていくことで得をするのは自分のみ。彼女を放置して逃げる想像を先ほどまでしていたからこそ、それは特に理解している。それをあろうことか彼女の側から提案してきたのだから、疑問に思わないはずがない。
「ご心配なく。それについてもアテはあります。」
「そのアテとは何ですか?」
さらに食い下がるハヤテに、キョトンとした顔持ちで見つめる岩永。
「……一応、現状この話はあなたにとって悪い話ではないはずだと思いますが。」
「それでも、心配に決まっているじゃないですか。」
それは紛れもなくハヤテの本心であるが、同時に裏切りを考えたことへの罪滅ぼし的感情でもあった。このまま彼女を置いていくことが、自分の裏切りの結果のように思えてならなかった。
「……なるほど。確かにこの条件はあなたに有利です。私としてはそれでも構わないと思っての提案なのですが、それであなたに罪悪感を与えてしまうのはやぶさかではありませんね。
では、ひとつ条件を付けましょうか。あなたの支給品の中から……そうですね、それをデュラハン号と交換の形でいただく、というのはどうでしょう。」
岩永が指したものを見て、いっそうの戸惑いを見せるハヤテ。それは彼のよく知る道具だったからだ。
「こ、こんなもの……何に使うって言うんですか。」
あまりにも殺し合いという用途からはかけ離れたその道具が本当に岩永の役に立つのか、そんなことはどうでもよかった。ハヤテにとって重要なのが、その道具を彼の前で用いた者が、いかなる末路を辿ったかということ。
「こういうのもアレですけど……これ多分ハズレですよ?」
岩永が指した道具は、クルミ割り器。それは決して、殺し合いの武器などにはなり得ぬただの道具だ。殺し合いの世界における支給品としてハヤテが称した『ハズレ』との評価も、何ら間違ってはいない。
しかし彼にとっては、それはお嬢様の『自己犠牲』を象徴する、忌むべき道具でもあった。岩永がそんなことを知る余地はないと理解していても、彼女も彼女と同じ道を進んでいるのではないかと、心のふちに刺さった邪推が抜けなかった。
「用途は思いついています。少し賭けの要素も含みますが……」
「……じゃあ、そのアテとやらを確保できるまでは同行します。」
「それはできません。そのアテの確保にはあなたがそこに居ないことが必須であるからです。」
「でも……危険ですよね?」
そのアテというのが誰のことを指すのかは明らかだった。これまでの経路で二人が出会うか、または大まかな位置を把握し得るのは『新島真』と、彼女との情報交換で得た『刈り取るもの』の両名のみ。彼女によれば後者はむしろ回避すべき危険そのもの。消去法的に、新島真しか有り得ない。
半ば決別的に別れた彼女を用いた安全確保とは、一体何であるのか。それは、自分という存在を切り捨ててでも確保する価値のあるものなのか。
「ええ、危険です。しかしこの6時間で13人が死んだことが示している通り、このパレスと呼ばれる世界にいること自体が少なからず危険なものなのですから、リスクを承知で動くことに価値はあります。」
「でも……」
「何より――」
ハヤテの反論を遮って放たれた岩永のひと言は――
「――彼女は、三千院ナギという少女に戦闘能力が備わっていないことを、知ってしまった。」
「っ……!」
――ハヤテにとって、決して無視できないものとなった。
「彼女は、私たちを出会い頭に殺そうとはしませんでした。彼女が実際に殺し合いに乗っていない可能性こそありますが、それならば特に何も困ることはありません。ただ、そうでない場合……一体何故彼女は、即座に私たちを殺そうとしなかったのでしょうか?」
「――もったいぶらず教えてくださいっ!」
これまでの温厚さから一転、上擦った声で叫ぶハヤテ。ここでお嬢さまの名前を出されたことへの焦燥が、正常な思考力を奪っていた。その形相に一瞬怯む様子を見せた岩永。しかし次の瞬間には再びポーカーフェイスを纏い、淡々と語り始める。
「……頭数だけで見れば1対2、人数的不利があったからというのが有力な見解でしょう。彼女もまた、私たちの力を警戒していたんです。体格で遥かに劣る私すらも警戒対象にあった辺り、単純な暴力とは違う、人間の規格を超えた力というものを彼女も知っていると見られます。彼女自身がそれを扱えるかは定かではありませんが……。」
厳密には、真が即座に襲って来なかった理由はそこが怪盗団のアジトである純喫茶ルブランであったためだ。怪盗団の信念である不殺生に真っ向から反する行いが、ルブランでの殺し合いを真に躊躇させた。とはいえそれに至るまでの根拠を、岩永は持っていない。岩永としても、自身の語った推理が必ずしも正しい答えであるとは思っていない。
だが、その正誤はどちらでもいいのだ。ハヤテの説得、ただその一点において、三千院ナギに迫る危険を語るこの仮説は、何よりも効果的であるのだから。
「……ですが、警戒による時間稼ぎの余地はもはやナギさんには働かない。人数差があったとしても、彼女はその人数に計上せずとも戦局に影響を及ぼさないと知られてしまった。つまりナギさんが新島さんと出会ってしまった場合、私たちの時とは違い、新島さんは躊躇なくナギさんを殺しにかかる可能性がある。」
「それ、は……。」
それを聞いたハヤテの顔色が一気に青ざめるのが岩永にも分かった。ナギのことを真に語ったことが、失敗だったという認識についてはハヤテにも間違いなくあった……が、浅かった。それがナギが殺されることに直結する情報であるとまでは考えが及んでいなかった。
「安心してください。私なら、真さんがナギさんに手を出さないよう調整することもできる。」
ナギのことを恩人であると語っていたハヤテ。垣間見えるは、恋愛感情とは似て非なる、異様なまでの忠誠心。
ハヤテとの同行関係を繋ぎ止めていたのは、ナギの存在に他ならない。彼女に危険が及びやすい状況が生まれてしまえば、それはハヤテが自分を裏切る危険性も比例的に増していくということだ。現に、ナギに迫っているかもしれない危険を伝えたハヤテは、仮に目の前に居ようものなら真に襲いかかりかねないほどに血走った目をしている。
当然、ハヤテとしても、提案がお嬢さまを守ることに繋がるとなれば反対できない。むしろ、最初からこうなることを望んでいたかのようにも思えてしまう。
「では、そちらの道具とデュラハン号を交換するということで。取引、成立ですね。」
「……はい。ですが、お気を付けて。」
間もなくして、ハヤテは負け犬公園へと向かって行った。岩永を乗せていた時よりもさらにいっそうギアのかかった、文字通り『疾風』の如き速度。配慮を求めたあの時も全力ではなかったのか、とハヤテの脚力に改めて驚愕を見せる。
「……できることならば、また会いましょう。」
岩永の放った声が、虚空に消えていく。文字通り音を置き去りに走り去ったハヤテに、その言葉は届かなかった。
■
時はいま一度、冒頭の場面に遡る。
岩永の和解の申し込みを受けて、真は思案を巡らせていた。実力行使に出ることは難しくない。先ほど岩永が用いた電撃を発生させる何らかの装置は確かに驚異であるが、それが支給品の力であるならば、岩永を殺せばそれが自分や、自分を含む怪盗団のための道具として利用できる。何故か殺人者だと気付いた風の岩永の口封じも兼ねて、このまま岩永を処理できるのは理想の流れだ。
しかし岩永としても自分を殺人者に見立てた上でこうして現れているのだから、そのリスクも承知の上だろう。その点について何も対策を仕込んでいないとは到底思えない。
「……あのねぇ。和解も何も、そもそもあなたが勝手に私を殺人者呼ばわりしたんでしょう?」
しかし様子見を選ぶにしても、殺人を認めるのは真にとって好ましくない。それを認めてしまえば岩永の言い分が全て正しかったことを認めるに等しく、仮に岩永の提案通りに和解する道があるにしても、こちらに有利な条件を出すことはほぼほぼ不可能になる。
そしてそもそもの話、だ。未だ真は、何ら殺人の証拠を提示されたわけではないのだ。それならば、『一方的に言いがかりを付けられ、その訂正に来た』の体を装うこととて、それ自体は無理筋ではない。もしも岩永が何らかの証拠を握っているのであるとしても、それを提示するまでは譲歩しない。岩永が求めているのが和解である以上、紛争の前提となる証拠を提示する義務は向こうにあるのだ。
「私は誰も殺してなんかいない。この一件は完全に貴方が先走っているだけよ。」
もちろん、完全なる嘘っぱちだ。すでに真は影山律を不意打ちで殺害しているし、先のルブランでの一件とてハヤテと岩永を殺害しようとしていたのも事実だ。
確かに律は、真を裏切って殺す算段を心内で打ち立てていた。真が心の怪盗団の不殺の信念に従い、律と共に主催者を打倒して脱出を目指していたとするならば、屍となっていたのは真だったかもしれない。結果だけを見るならば、真の行いは正当防衛に近しいものだ。しかし、律の思惑を知らなかった以上、少なくとも確定した現実において真は無実の少年を殺した罪を背負っているし、本人もその事実を認識している。
だが、その認識の上で。真はさらに岩永を騙そうとしている。自身を死神に殺された悲劇の少年の死を看取った者に置く、虚構の物語で丸め込もうとしている。
「ええ、その可能性も充分にあるでしょう。あなたは複数人分所持している支給品は、刈り取るものに襲われた律という少年を看取った時のものだと言いましたが、私はそれを嘘だと断じることはできません。もしかするとあなたの言ったことが全て真であり私が勝手にあなたを警戒して止まないだけかもしれない。」
そして現に、それを否定するだけのものを岩永は持たない。そもそも真を殺し合いに乗ったと断じたことに、何ら具体的な根拠があったわけではない。言ってしまえば、その由来は印象論という山勘に過ぎない。ここが現世であったならば、知恵の神として怪異・あやかしの類と連携し、確たる証拠を押さえることもできただろう。或いはより精巧な調査をする時間さえあったならば、真の真意をより正確に掴むことも可能だっただろう。しかしここは万物に宿る妖怪を排除された認知世界であり、同時に時間制限付きの殺し合いの世界でもある。
「ですがそんなこと、最初からどちらでも構いません。先のみならず、現段階においてもその正誤を問うつもりはありません。……ただ、これだけは言える。」
ただ、仮に影山律を看取ったのではなく殺していた場合も、そこの真実の判断がつかないこと。証拠を用意できず、虚構を語れる舞台は真の側に整っている。
なればこそ、岩永はその土俵に立たない。
「私が見てきた限り、あなたは理性的な人間だ。少なからず無礼を働いた私に対し、殺し合いを許された場においてこうして落ち着いた対応を取っていることからもそれは明確です。そして、私があなたをそう評価しているからこそ、こうして交渉のテーブルを用意するに至ったのです。……そして同時に、私はこうも評価している。あなたは真顔で嘘が吐ける、と。少なくとも私はあなたの語る虚構を、直感では見抜けない。この認識が私にある以上、あなたの語る言葉は私の警戒を解くに値しません。」
「……そう。随分と高く見られたものね。」
それは、おかしい。
岩永の言葉に理を認めるとすると、岩永がこの場に和解を申し込みに来ていること自体と矛盾する。自分の言葉が岩永を信頼させるに足りないのであれば、そもそも言葉の上での和解など理論上、出来ようはずもない。その和解に、口約束以上の効力を持たせられる執行者はこの世界に存在していないからだ。むしろ、唯一執行者足り得る姫神こそが、その裏切りとそれに伴う殺し合いこそ要請しているとすら言える。
「じゃあ、聞かせてもらえないかしら。そこまで警戒している私とわざわざ談合する目的は何なのか。」
だからこそ、真としてはそれを聞く他なかった。岩永が明確に筋の通った行動方針を貫いていることはこれまでの語りから少なからず分かる。それだけの一貫性ある頭脳をもってして、その論理矛盾に気付かないはずがない。ならばその矛盾を解消する理論は間違いなく存在しているのだ。さもなければ和解の提案そのものが無意味であるから。それが何であるのか、知らないままには岩永を殺せない。殺されるリスクを承知で岩永がこの場に臨んでいる以上、向こうには何かの交渉材料があるはず。
そして、岩永を直ちに殺そうとしないのなら、殺し合いに乗っていないフリをするのが自然だった。乗ったことを認めれば、そのような嘘をつく道理がないためにそれは事実として確定してしまう。殺し合いに乗っていないと言い張っているからこそ、背負った罪の量高において対等である岩永から情報を聞き出すことができるのだ。
(ここまででボロは出していない、はずだけど……)
客観的に見て、岩永を殺さないことも、殺し合いに乗っていることを認めないことも、真の行動は理にかなっている。だが、どちらもあくまで消去法で導き出されたものでしかない。岩永を殺して死人に口なしと言えたなら、それに越したことはないのに。だが岩永がそれを警戒していないはずがないからこそ、こうしてただ岩永の話を聞くことしかできなくなっている。
まるで、岩永にそう誘導されているかのごとき進行具合が、どうも不気味に思えて仕方がない。
そして岩永は、静かに語り始める。そして同時に、開かれるは怪盗攻略議会。論者はただ二人、怪異たちの英智を司る知恵の神と、女王の名を冠する怪盗団の参謀。一方で、傍聴人は一人としていない。二人の語る虚構を真実をもって指摘する者は、どこにも存在しない。まるで幻影のように、真実は覆い隠されている。
最終更新:2021年12月05日 12:51