ハードコアとは

一般的にハードコアの発祥については1992年にオランダで誕生したとされています。

しかし、「はじめに」ではあえて欧米と漠然な表現にしましたし、具体的な年を明記しませんでした。確かに上記の起源説は正しいですが、一概にそうといえない事情もあります。ではなぜそのような表記にしたのでしょうか。1980年代末期から90年代初頭にかけてレイブシーンにて大ヒットしたテクノが現在のハードコアの源流とされているからです。

当時歴史的レイブヒットとなったL.A. Style「James Brown Is Dead」、T99「Anasthasia」、Human Resource「Dominator」。いずれも1990年~92年にリリースされ、レイブシーンを盛り上げました。これらは従来のEDMと比べてテンポが速いこと、無調的かつインダストリアルなビート、サンプリングの多用が顕著で、のちにこのようなレイブ寄りのEDMは「ハードコアテクノ」と定義されました。いわゆるオールドスクールハードコアです。現在ハードコアテクノという呼び方は廃れ、「ハードコア」に落ち着いています。そのかわり、ハードコアテクノという名称自体は、初期のハードコアからの派生ジャンルを包括した呼び方となっています。そのような文化が誕生して20年以上も経っており、人によって定義もまちまちであることも否定できません。

L.A. Style - James Brown Is Dead (Original Mix) (12" Vinyl)

T99 - Anasthasia

Human Resource - Dominator (Original mix)


さらに掘り込んだ話をすると、誕生の背景には当時栄えていた数多くのクラブミュージックがあります。TechnoをはじめとしてAcidといったHouseの派生ジャンル、Drum'n'BassBreakbeatsEBMといったジャンルのそれぞれが融合して自然的にハードコアというジャンルが発生したとみられています。

ドイツ人テクノアーティストMarc Acardipane氏がMescalinum United名義で発表した世界初のハードコアトラックとされている「We Have Arrived(SoundCloudリンク)」が1990年に自身のレーベルPlanet Core Productionsから発表され、その翌年(1991年)にアメリカのレーベルIndustrial Strength Recordsとライセンスを締結し同トラックをリリース。そしてオランダでもその風潮を受け、翌年(1992年)ついに世界初となるハードコア専門レーベルRotterdam Recordsが設立され、いよいよ歴史が始まった・・・というように、実はRotterdam Recordsの設立以前から世界中でハードコア誕生の前兆があったのです。従って、ハードコアは1992年のオランダが起源と定義してよいのですが、それ以前からいままでよりテンポが速めのレイブミュージックが”ハードコアテクノ”としてヒットしていたので、それらも現在のハードコアのルーツにつながっていてかつ密接な関係があるのです。

ハードコアの別名であるガバ(Gabber)は、オランダ語で「仲間」「友達」「相棒」を意味するスラングです。 このガバの由来は2つあります。

まず一つ目は、DJ KC The FunkaholicというDJがロッテルダムハウスミュージック界についての感想を述べた記事。彼は記事の中で「彼らは単に楽しんでいるだけ(バカ騒ぎしているだけ)のガバ(仲間の意、意訳すると連中)の集まりだ」と述べていた。そしてロッテルダム出身のDJポール・エルスタックがその記事を読み、ザ・ユーロマスターズのレコード盤に「Gabber zijn is geen schande!(ガバ(仲間)になるにはとんだ不名誉だ!)」と刻み込みました。その言葉がロッテルダムハウスミュージック界で人気を増していき、人々がロッテルダムハウスミュージックのことをガバと呼び始めたという説。

二つ目は、ある人物が警備員に言われた発言。 多くのガバ(仲間)のうちの一人がDJ "Hardy" Ardy Beesemer氏が主催しているロッテルダムのクラブイベントに入ろうとしたら、その警備員から「あなたはガバ(仲間)ではないからここに入ることはできない」といわれました。最も初期に名付けられたgabberhouse(ガバと同意、ハードコアハウスとも)というジャンルの由来は、DJ "Hardy" Ardy Beesemer氏であったという説。



では、現在では巨大なジャンルに成長しているハードコアテクノはどうやって現在に至ったのか、紐解いていきましょう。



アメリカ

ハードコアの誕生直前、アメリカではミニマル・テクノが栄えていました。ミニマル・テクノはハードコアと同時期に出現したジャンルで、デトロイト・テクノから派生しました。最初に1990年代初期に出現し、そのスタイルの発展はアメリカのデトロイト・テクノプロデューサー達のいわゆる「セカンドウェーブ」に起因されています。アメリカ・デトロイトを中心に活動していたDJのJeff mills氏はデトロイト・テクノの派生ジャンル「ミニマル・テクノ」や、テクノバンドUnderground Resistanceの創立者として知られています。Derrick May氏によれば「デトロイト・テクノ最盛期(1980年代後期)の間、そのテクノはまたデトロイトの多くの新進気鋭なDJやベッドルームプロデューサーもインスパイアさせた」、同時期に彼とともに活動していたRodert Hood氏は「90年代初頭は(デトロイト)テクノがかなりレイブ色が強まっていったのと、テンポが増していったのが相まってガバ(=ハードコア)の出現に至った」と語っています。

ドイツ

1987年までにはシカゴサウンドをベースにしたドイツのパーティーシーンが確立されてきました。翌年にはドイツでイギリスに匹敵するほどアシッド・ハウスが繁栄しました。1989年にドイツのDJ一同はUFOという違法パーティー会場や世界最大規模のレイブであるラブパレード(ドイツのEDMフェスティバルですが、現在はLove Parade disasterにより休止)を共同設立。後者のレイブは日本から石野卓球氏が参加した過去を持ちます。1989年、11月9日ベルリンの壁崩壊の後、フリーアンダーグラウンドテクノパーティーが東ドイツで急増し、レイブシーンもイギリスに匹敵するほど繁栄しました。
しかし1991年、UFOを含む数多くのパーティー会場が閉店し、ベルリンでのテクノシーンはベルリンの壁跡地周辺の三地点では

のちにPaul van Dyk氏によってE-Werkと名づけられた「Planet」、
「Der Bunker」、
比較的長寿だった「Tresor」

に集中しました。同時期にはテクノと融合していったアシッドがハードコアへ変化し始めていく中で、ドイツのDJはサウンドの強烈さやスピードを増していきました。DJ Tanith氏は当時こうコメントしています。
「ベルリンでは常にハードコアで、ハードコアなヒッピー、ハードコアなパンクに満ち溢れていて、ちょうどそのとき私がプレイしていたトラックは平均135BPMだが、数か月ごとに50BPM以上増えていき、今、我々はかなりハードコアなハウスサウンドを有している。」

イギリス

Moving ShadowReinforcedXLFormationなどのレコードレーベル上で活動していたSL2Hyper-On ExperienceDJ Jonny LSonz of a Loop da Loop Eraなどの初期ハードコアプロデューサーらは、テクノが(後にドラムンベースのその後の発展やジャングルなどに細分化される)複雑なブレイクビーツへの探求の勢いが著しく増していった時代の中で進化しました。映画、アニメやそれ以外のメディアからのサンプルを含んだテクノ、そしてパワフルなシンセサイザーをベースにしたブレイクダウンは初期のUKハードコアを形作りました。例えば、一部のファンのウェブサイトでは「1992 was the best year for music,EVER!(1992年は今までの中で最高な音楽の年だ!)」と声高らかに宣言までしているように、一部は1992年にそれが最初の最盛期であったとみなしていました。

進歩的かつ高度なコンピュータや音楽制作システムの台頭と同時にプロデューサーらの急増を可能にしたサウンドとともに、電子音楽はこの期間の間、急速に発達していました。ハードコア、テクノ、そしてドラムンベースは、RaggaDarksideのジャンルが派生する創造性の時代にさらにジャンルが細分化されていきました。

1990年代のほとんどがテクノやハードコアがその国の南北それぞれで支配的なジャンルとなっていった間、イギリスをベースとしたレイブハードコアシーンはいくつかのネイティブスタイルを包括しました。

数々の要因が重なり、ハードコアは1990年代後半に向けて新たな音楽の方向性を見い出しました。今でこそそのハードコアはそれ自体の起源にわずかな類似性はありますが、一般的にボーカルをベースにしたりポピュラー音楽のハードコアカバーバージョンを多くプロデュースしたりしていました。このサウンドはイギリスの若年層の聴衆を魅了しました。そのとき別の場所では、この特有のサウンドがオーストラリア、カナダ、日本、そしてアメリカなど世界中の聴衆の耳に入っていきました。
1990年代後期のハッピーハードコアの印象を残すために試そうと、多くのスタイルからの影響を受けながら、プロデューサーらは再び20世紀終盤に向けてイギリスのレイブハードコアミュージックシーンを生み出そうと試みました。そのサウンドはUKハードコアと呼ばれ、新規プロデューサーが新たにそのシーンに参入することとなりました。この新スタイルのサウンドはオランダのガバやベルギーのハードコア(Underground ResistanceやRichie HawtinPlus8 Recordsに対しての婉曲なオマージュとして生まれたスタイル)から影響を受けていたと考えられています。この流行したサウンドは同様に世界各地でフォロワーを増やしていきました。

2004年。BBC Radio 1にてハードコアのスペシャル番組が組まれました。そのタイトルの名は「John Peel is Not Enough」。CLSM氏による同名トラック(厳密には「John Peel(Not Enough)」)の発表後にタイトルが付けられました。

オランダ

ハードコアにおける世界初のトラックは「Mescalinum United(メスカリナム・ユナイテッド) - We Have Arrived」(1990年リリース)(上記にリンクあり)と考えられています。

発生当時のオランダでのハードコアは、ダークな雰囲気、実験的、そしてハードと調和させたインダストリアルとテクノを融合したものでした。オランダの初期ハードコアトラックの一つとしてメジャーヒットとなった「Rotterdam Termination Source(ロッテルダム・ターミネーション・ソース) - Poing」(1992年リリース)があります。世界初のハードコアレーベル、ロッテルダム・レコーズからのリリースです。その親レーベルミッドタウン・レコーズの、ロッテルダムのNieuwe Binnenwegにあるレコードショップはガバ音楽の聖地として知られるようになりました。

Rotterdam Termination Source - Poing

1990年代初期、当時のハードコアは生粋のアシッドとテクノのサウンド(ベルギーでの「ニュー・ビート(New Beat)」やUnderground Resistanceの楽曲も含む)をもたらし、騒音まみれでアップテンポの強烈なサウンドに成し遂げていきました。ちょうどその頃にLenny Dee氏によるアメリカ・ニューヨークのレーベルIndustrial Strengthもアメリカ全土にハードコアサウンドの勢いを増進させた時期と重なります(Drop Bass Networkに代表される全体のミルウォーキー・シーン、そしてDJ Delta 9氏に代表されるシカゴでのハードコア・シーンの発展の要因となります)。その間、ドイツ・フランクフルトのレーベルPlanet Core Productionsとオランダ・ロッテルダムのレーベルRotterdam Recordsも、ヨーロッパ中にそのサウンドを広めることとなります。

1990年代半ばのフリーフェスティバルシーンでは、Spiral TribeNetwork 23といった注目すべきハードコアテクノ集団やレーベルなどを生み出したヨーロッパでのアンダーグラウンドテクノイベントの集大成を表していました。しかし、各々の国が徐々にパーティ客の来場を禁止し、シーンは衰退を余儀なくされ、ハードコア・シーンが壊滅的となったハードコアを通じて現状の痛烈な批判を訴えていたフランスとオランダで生き残ることとなりました。

数年間アンダーグラウンドで辛うじて生き残った後、2002年にはオランダでそのスタイルは再び人気を出し始め、今までのハードコアよりも発達し、よりダークでインダストリアルなサウンドとなりました。世界各地でもその動きを決して見逃さず、デジタルハードコアからブレイクコアへ、ノイズコアからスピードコアへ、といったように新しいサブジャンルやアプローチが作り出されて、ハードコアは進化していきました。Ant-ZenHandsやインダストリアル/エクスペリメンタル系レーベルもハードコア/ガバの要素を抜き出し、こんにちではダークコアと呼ばれるものに近づいていきました。それはまるでハッピーハードコア時代が見過ごされたかのように。そして多様性に富んだ幅広いアーティストにより、電子音楽の中で細分化されており最もリッチなジャンルの一つの中で他のスタイルと近づいていき、インダストリアルならではのサウンドを維持したまま、ハードコアは2002年以前のオールドスクール期から進化し続けています。


各々の異なるタイプやサブジャンルのハードコアが巨大なファン層を魅了し始め、多くのプロデューサーからの支持を受け、今日のハードコアの発展に至っています。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2017年09月10日 22:21