- フェルナンデス=Fernandes(ポルトガル語)、Fernandez(スペイン語)
『フェルナンドの子』を意味する姓。
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息を潜めていた。
彼はただ、H-3の枯れた森から逃れ、息を潜めていた。
抉れ、血が滴る左脚に、徐々に痛みが戻ってくる。
その痛みは彼に、あの『赤色』から逃れられたという安心感を、確かに抱かせるものだった。
『……もうそろそろ、大丈夫だろう、フェルナンデス』
「……
デデンネ」
G-4エリアとG-5エリアの境付近。その廃墟にほど近い街の一角には、寂れた食堂があった。
彼がデデンネと共に身を潜めているのは、そのすぐ傍だ。
正確には、食堂すぐ傍の、別の廃墟である。
食堂の中には、きれいに頸動脈だけを食い千切られて絶命している黒人女性がいた。
津波で一度は床上浸水していたようだが、彼女の死体は建物の中で流されずに残っていた。
ヒグマードから逃げながらも、彼は穴持たずとしての性か、その死臭に惹き寄せられていたものらしい。
だがここで、彼は油断もしなければ、食欲に身を任せもしなかった。
彼はその女性の死体の傍から『バックトラック』を行なった。
自分の足跡を正確に踏んで戻り、体臭と足跡による追跡を幻惑するヒグマの手法だ。
そしてある程度の位置で、彼は思いっきり身を翻し、デデンネを残していた廃墟に転がり込んだ。
もしも先程の『赤色』――、血の神(ケモカムイ)ヒグマードか何かが追跡してきたとしても、まず最初に間違いなく、相手は足跡と体臭、そして明らかな死体の残る食堂の方へと進むだろう。
そうすれば、様子を窺う彼とデデンネは、追跡者の存在に先に気付くことができ、背後から襲い掛かるなりひっそりと逃げ出すなり、自由に対処を取ることができる。
こうして彼らは1時間近くも油断なく辺りを窺っていたが、その間、何かが近づくような気配は全くなかった。
それでようやく、両者は緊張を緩めたのだった。
『ほら、食堂にクルミがあった。これならフェルナンデスでも食べられるんじゃないのか?』
彼――、穴持たず34だったような気がするヒグマカッコカリ、ないしデデンネと仲良くなったヒグマなどと呼ばれているそのヒグマは、その小さな同行者に木の実を差し出した。
隣の食堂を物色していた際に彼が見つけた食糧だ。
北海道のクルミはオニグルミという品種であり、一般のクルミとは違い、外皮が裂けずに丸い実のまま落ちてくる。
そのため中の核を食べるには、籠に入れたり土に埋めたりして、銀杏のように皮を腐らせて剥く必要がある。
リスと人間とヒグマとシカとが熾烈な争奪戦を繰り広げる秋の味覚であり、籠に放置されていた腐りかけのクルミの実を見つけた彼は非常に上機嫌でもあった。
『ものひろい』を特性とするデデンネの『なかま』となった彼だ。以前よりそういった代物を発見することにつけては目ざとくなっているような気がする。
そんなこんなで、いそいそと彼はデデンネに向けてクルミを差し出したのだが。
「……デデンネ」
デデンネは、怪訝な顔でその臭いを嗅いだ後、こんなもの食えんね、とでも言うようにプイとそっぽを向いてしまった。
『えぇ!? どうしてだ? クルミだぞクルミ。見たことないのか?』
デデンネ達ポケモンにとっては馴染みのない実であることもそうだが、外皮が真っ黒に腐ってしなびているという見た目が、まずいけない。
恐らく北海道でオニグルミの実物を見た者以外は、一見してそれが食べられるものだとは思わないだろう。
彼は牙でクルミの殻を割り、器用に中の核を掌に取り出して見せたが、第一印象が悪かったせいか、デデンネは自分のオボンのみを抱えたまま見向きもしなかった。
『ああ、ネシコのみ(胡桃)ですか。いいですね、僕ももらっていいですか?』
『な、誰だ!?』
「デネ!?」
その時、何者かが突然廃墟の扉を開けて中に入ってきていた。
朗らかに唸るそのヒグマは、彼やデデンネが気づく間もなく、はっきりとこの廃墟を目指してやってきたものらしい。
一体なぜ、バックトラックにかからなかったのか――?
彼のその疑問は、やってきた相手の顔を見て氷解した。
『……お前、ラマッタクペじゃないか……。くそ、一体何の用だ……!!』
彼はデデンネを守るように立ち上がりながら、そのヒグマを問い詰める。
先程も水浸しの街で出会ったその糸目のヒグマは、キムンカムイ教現教祖のラマッタクペだ。
魂の存在位置を知覚できるらしいので、バックトラックのような幻惑に騙されなかったのも合点がいく。
直接被害は受けなかったとはいえ、ラマッタクペには騙し討ちのような仕打ちを喰らってしまったため、彼の心証は良くない。
それを察してかせずにか、ラマッタクペは彼の問いには答えず、手羽元のように齧っていた何かをにこやかに差し出していた。
『あ、ネシコ(胡桃)の代わりにこれ食べます? はいどうぞ』
『……なんだこれは』
それは、食べかけの人間の片脚だった。
少女の脚の肉は、断面もつやつやと引き締まっていて、新鮮かつ実に美味しそうな雰囲気だ。
『
佐倉杏子さんという参加者の脚です。授業料として頂いたんですが、食べきれなかったので半分あげます』
『いや、要らんぞ! お前、殺した参加者の肉を食うとか……。こいつの前なんだ、ちょっとは気を使ってくれ!』
だが生唾を堪えて、彼はラマッタクペに叫んだ。
デデンネと友達になって以来、彼は劉鳳や
駆紋戒斗や黒人調理師のおばさんなど食べやすそうな人間を見ても、ぐっとその欲求を堪えてきたのだ。
それもこれもデデンネの心証を気遣ってのことであり、この程度のことで彼の決心は折れなかった。
『いえいえ、彼女は自己再生できるようでしたので。
ちゃんと正当な報酬として頂いたお肉ですから、どうぞ気兼ねなく召し上がって下さい』
『え……? そう、なのか……? 正当な肉……?』
『ほら、そこのポンイメルカムイ(小さな雷神)さんも、別に気にはしていないようですし』
だが、ラマッタクペは依然にこやかに、その肉を勧めてくる。
後ろを振り向けば、デデンネはオボンのみを抱えたまま、じっとりと眼を瞑って黙っている。
お前の事情など知らんから喰うなら勝手に喰え、といった趣だ。
『む、う……。じゃあそういうことなら頂こうか』
『はいはい。このネシコも立派ですねぇ。おつまみには最適ですよ』
思い返してみれば、デデンネと友達になる前だったとはいえ、彼はデデンネの目の前で
源静香の死体をぺろりと平らげてしまっている。
その上、食人よりも遥かに恐ろしい事態には、彼らはもう既に何回も遭遇してしまっているのだ。
元来『おくびょう』なデデンネとはいえ、今更人間の一人二人、目の前で喰われたところで、もはやどうとも思わない。
デデンネはあまり深いことは考えないし、彼女は常に自分が良ければそれでよかった。
ヒグマ同士の言い合いになど、生き残るためには下手に口を出さず黙っておくのが一番だ、とデデンネは思っている。
ラマッタクペが籠からクルミを選んでいる間、彼は受け取った少女のふとももに齧りついた。
正直言って、腹自体は恐ろしく減っていたのだ。
度重なる激しい戦闘で体力は消耗しきっているし、彼にとっては実に半日ぶりの食事と言える。
穴持たずでなくとも空腹を覚えるだろう時間だ。
そのすきっ腹に、成長期の少女のジューシーな血肉と、まろやかな皮下脂肪の味がふんわりと広がる。
『……旨いじゃないか!』
『でしょう? 佐倉さんのハヨクペは引き締まっているのに柔らかく、とても美味しいです』
瞬く間にがつがつと、彼は佐倉杏子の脚を骨まで喰らっていく。
酷い状態だったが、味で分かる。
この佐倉杏子という少女は、とても勇敢で優しい人間だ。
体毛は、赤い。
年齢は14、5歳程度。
身長は150cm台半ば。
髪は、この鍛えられた活動性のために、短いか後ろで結んでいるだろう。
膝関節の傾きが、彼女の声質を耳に響かせる。八重歯があるかも知れない。
彼女の毅然とした立ち居振る舞いまで、匂い立ってきそうな味わいだ。
飢えたヒグマのために快く自分の肉体まで提供してくれるとは、一体どのような聖女なのか。
佐倉杏子という参加者に出会った際には、ちゃんとお礼を述べよう、と彼は思った。
『……良い顔になりましたね。ほんの2時間前とは別のカムイのようです』
クルミを物色し終わったラマッタクペは、肉に齧りつく彼の姿を、微笑ましく見つめていた。
その唸り声に、指先まで佐倉杏子の脚を食べつくした彼は眼を上げる。
『……そう言えば、はぐらかされるところだった。お前の来訪の目的を聞いてないぞ』
『アハハ、「血の神(ケモカムイ)」の気を見事に惹いて下さり助かりました。
今回はそのお礼みたいなものです。
おかげさまで、この子たちのハヨクペ(冑)を食べられることなく回収できました』
『は……?』
ラマッタクペは、おぶっていた何かを背中から下ろした。
それは、またしても少女の死体だった。
赤いワンピース姿のその少女は、首から上がほとんど破壊されている。
頭蓋が砕かれ脳がぶち撒けられているひどい損壊状態で、亜麻色の髪がいくらか残っている以外は、顔など全く分からなくなっている。
またラマッタクペが殺したのかとも思ったが、どうやら違うらしい。
彼女は大口径の銃弾で額を撃ち抜かれた後、さらに何者かに踏み潰されたようだ。
ヒグマではない。その頭を踏み砕いた脚は、どちらかというと大柄な人間程度の大きさだと推測された。
人間同士の殺し合いに巻き込まれたのだろうか。
『あ、ご紹介が遅れましたね。彼女は
円亜久里さん、もしくはキュアエースというレ(名)の子です』
頭が砕かれ、死斑が浮き、既に死後硬直も激しいその少女を、ラマッタクペは平然と生きた人間のように彼へ紹介した。
理解を逸したラマッタクペの行為に、彼は苦笑すら出てこない。
『いやいやいや、全くもって意味が解らんぞ』
『ええ、彼女のラマト(魂)はやはり僕らと同様に怒っているのです』
ラマッタクペは、彼の言葉を聞かない。
真顔で後ずさりを始める彼に、糸目で微笑んだまま滔々と語り掛けるだけだ。
『この子の知り合いのオマッピカムイメノコ(愛の女神)が、島の外からこの子を助けにやってきたようなのですがね。
そのカムイメノコが、第四勢力の機械の手に落ちてしまったんです。
それで僕もこの子も、ラマト(魂)を弄ぶその行為に怒りを抑えられないのです』
『いや、だから……、それがどうしたんだと……!』
少女の死体を即身仏のように抱えながら、ラマッタクペは彼が後ずさるだけ前に詰めてくる。
不憫な。とは思わなくもないが、話を聞いてもそれ以外に彼には感想など浮かびようがない。
喉を引き攣らせた彼の問いに、ラマッタクペは笑みを深めて、言った。
『この子たちのハヨクペも、あなたに差し上げます。どうするかはあなたにお任せします』
『は……? この少女も、俺が食べろと……?』
『話を聞いていましたか? 僕はあなたに、この子たちを「差し上げます」。
どうするかはあなたに、「お任せします」』
ラマッタクペは、今や彼の鼻先にまで近づいていた。
ラマッタクペはねっとりと、念に念を押すようにして、彼の耳に唸りを投げかける。
明らかに先程のような、食人を勧めている仕草ではない。
その上、意図不明の彼女の身の上話まで語られている。
ヒグマン子爵からは、ラマッタクペたちは『自分たち以外の全ての勢力を均等に弱体化させようと謀っている』と聞いているのみだ。
だがこの行為は、弱体化に役立つとは到底思えないし、かといって何の目的もわからない。
そもそも別に彼は自分が何らかの勢力に属しているつもりは毛頭ない。
むしろ彼は、実験参加者を殺すべきだとされたヒグマたちからは外れた、アウトローだ。
――もしや、懐柔のつもりか……?
先程彼とデデンネに接触した2人組の女性も、勧誘目的だった。
ラマッタクペも同様の可能性はある。
しかし考えても、結局確証はつかめない。
状況はちんぷんかんぷんだった。
『……とにかく、この子は参加者だが殺されて? 助けに来た友達も何者かに手籠めにされて?
この子は死んでいながらにして、そのことについて怒っている、というのか?』
『ちゃんと聞いてらっしゃるじゃありませんか。
ではこの子たちのハヨクペは「大いなる保護者」様であるあなたにお任せしますね。それでは』
呆然とする彼の前脚に、ラマッタクペは少女の死体を押し付けた。
そして彼は微笑だけを残して、すぐさま廃墟を出て行こうとする。
『お、おい! ちょっと待て!!』
『すみませんが待てません。こう見えても僕は色々と忙しいんですよ。
今夜真実の街角で、機会があればまたお会いしましょう』
追いすがった彼の前で、廃墟を出たラマッタクペは風もないのにふわふわと宙に浮きあがっていく。
こうして空から一気に飛び降りられていたのならば、扉を開けられるまで彼の足音も臭いもしなかったことにも合点がいく。
ラマッタクペを引き留めるように、彼は空へ声を絞った。
『俺に一体どうしろと言うんだ!? こんな女の子の死体を押し付けて!!』
『あなたが憧れているものを思い出せば、自然と答えは出ると思いますよ?』
『ふざけるなよ!? 俺にはフェルナンデスがいれば良いんだ! こんな死体すぐ捨てちまうぞ!?』
苛立ち紛れに怒鳴りつけたその言葉に、宙を歩いて立ち去ろうとしていたラマッタクペが止まる。
だがそれは、彼の苛立ちの趣旨を受けてのものではなかった。
『「フェルナンデス」。……あなた、そのレ(名)が何語に属しているものか、理解していますか?』
『……い、いや? 「学習装置」に植え付けられた言語知識に過ぎないのだとは思うが、それは今関係ないだろう!』
『いいえ、その話ならば、僕は少し待ちましょう』
ラマッタクペは、彼がデデンネを呼ぶ『フェルナンデス』という名に反応して止まっていた。
『そのレ(名)は、あなたが独自に思いついたものだということですよね?』
『あ、ああ……。そうだ。そうだが、さっきから言ってるように、それがどうしたというんだ!!』
『名前を思いつくというのは、あなたがその対象に抱いている感情・思念の反射です。
その対象が自分であれば、メルセレラのように自分の名を思いつくということになるでしょう』
自分の名。
それは、彼に欠けているものだった。
穴持たず34だったような気がするヒグマカッコカリ。
デデンネと仲良くなったヒグマ。
彼は、そんな曖昧な表現でのみ語られるヒグマだ。
彼は外在的に規定され切らず、もちろん内在的に自己を定義できてもいない。
『「ヤイェシル・トゥライヌプ(自分自身を見失う者)」だなんて呼ばれたくないでしょう?
あなたのレ(名)も……、きっと……』
ラマッタクペは、たじろいだ彼の心を見透かすように、上空からその瞳を覗き込んだ。
そして彼は、満足げに微笑む。
『……やはり、思った通りですね。
あなたはもう本当は、「カヌプ・イレ(己の名を知ること)」も、「プニ・イレ(己の名を上げること)」も、できているんじゃありませんか?』
『どういうことだ、おい……。俺にも、ちゃんとした名前があると言いたいのか!?』
『……なんとなく、僕にはわかりましたよ。あなたのレ(名)がね』
『お、おい――、俺は一体何者だ!? どうすればいい!? どうなればいいと言うんだ!?』
ラマッタクペは、彼の叫びに答えず、独り言のように呟きながら、高い空を歩いてゆく。
『……もしかすると「レサク(名無し)」――まったく
ゼロからの獣だったあなたが、5段階目の「ピルマ・イレ(己の名を告げること)」に至ることも、あるのかも知れません。
――いや、むしろそれこそが、我々キムンカムイの悲願……』
『おい! 何かわかるなら教えてくれ!! 頼む――』
そして彼の渾身の叫びに、一度だけ、魂を呼ぶ者は振り向き、笑う。
『アハハ、「オトゥワシ・イレ(己の名を信じること)」の成果は、いつだってあなた次第ですよ?』
そんな言葉だけを残して、賢者はまた廃墟の上空から飛び降り、遠くの建物の裏に落ちて見えなくなっていた。
【G-4 廃墟/午後】
【ラマッタクペ@二期ヒグマ】
状態:健康
装備:『ラマッタクペ・ヌプル(魂を呼ぶ者の霊力)』
道具:クルミの実×10
基本思考:??????????
0:メルちゃんはせいぜいヌプルを高めてください!
1:佐倉さんは名を守りそうですねぇ。頑張ってください!
2:キムンカムイ(ヒグマ)を崇めさせる
3:各4勢力の潰し合いを煽る
4:お亡くなりになった方々もお元気で!
5:ヒグマンさんもどうぞご自由に自分を信じて行動なさってください!
6:『私が参加してたの皆覚えてるかな…』? 大丈夫ですよ、僕以外にも、覚えている方はいます。
7:フェルナンデス……。たしかそれは……、スペイン語ですね?
[備考]
※生物の魂を認識し、干渉する能力を持っています。
※島内に充満する地脈の魔力を吸収することで、魂の認識可能範囲は島全体に及んでいます。
※当初は研究所で、死者計上の補助をする予定でしたが、それが反乱で反故になったことに関してなんとも思っていません
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立ち去ってしまったラマッタクペを見送り、彼はしばらく、昼下がりの空を見上げながら呆然としていた。
その前脚の中に、彼はふと、かすかな震えを感じる。
『なんだ……?』
既に死んでいる少女だ。動くはずがないのに――。
そう思って、円亜久里の死体に目を落とした彼は、驚いた。
その少女は、赤子を抱いていた。
「きゅ……、ぴ……」
もはや泣き声を上げることもままならないような様子で、桃色の髪をした人間の赤ん坊が、その死体には抱かれていた。
死後硬直した少女の白い腕と赤い服の中に潜り込むようにして、その赤子は手足を縮こまらせ、震えている。
青ざめているその体は、恐らく衰弱と低体温のせいだ。
――まさかこの少女は、死してなお津波の中でもずっと、この赤子を守っていたというのか!?
彼は、突如思い浮かんでしまった突拍子もない考えに打ち震える。
だが円亜久里のハヨクペ(冑)が辿ったこの半日の経過は、奇しくも彼の考え通りだった。
ラブアイズパレットとラブキッスルージュという彼女の装備は、その殺害者であるニホンザル「ベン」が回収していた。
だが妖精であり、彼女の変身に不可欠なそれらの装備を発現させるパートナーでもある赤子――アイちゃんはその時、母でもあり片身でもある円亜久里という少女の死を、ただただ身を竦めて草叢から見つめることしかできなかったのだ。
逆にそのおかげで、彼女はベンに気付かれず生き延びた。
ベンが立ち去った後、母の遺体に泣きながらすがりついた彼女を、まるで抱きかかえるかのように円亜久里の死体は死後硬直した。
その硬直した肉体は、津波の襲来から彼女を守り、鬱蒼たる森の木々に引っかかることで島外に流れ去ることを防いだ。
ヒグマン子爵たちに気を取られ、戦闘を求めて東の森を通り過ぎたヒグマードを躱す位置で、円亜久里はひっそりと、ラマッタクペに発見されるまでアイちゃんを守り通していたことになる。
『ラマッタクペは、このことに気付いてなかったのか……? いや、わからないはずがない!
いくらか細いとはいえ静かになればこの赤子の息遣いは聞こえるし、あいつの能力もある……。
あいつは、この赤ん坊のことを知っていながら、俺にこの子たちを任せた……!?』
よくよく思い返せば、ラマッタクペは『この子たちのハヨクペも、あなたに差し上げます』と発言している。『この子』が複数形だ。
明らかに意識的なものだ。
ヒグマン子爵を動かし、佐倉杏子を『教授』し、気を取られたヒグマードの眼を盗んで円亜久里を回収し、そして彼に手渡すなどと、たどってみるとラマッタクペの立ち回りは非常に忙しなかった。
その意図は中々に読みづらいが、何らかの遠い目的があってのものだとは、彼にも想像される。
だが、その肝心の目的が、彼には何一つわからなかった。
「デデンネ……!?」
その時、彼の毛皮を掴む声があった。
『あ、ああ、フェルナンデスか。どうした?』
「デネデッデンネ!? デネデネデーデデンネンネデンネ!?」
デデンネが、珍しく彼の瞳を真っ直ぐに見上げて、何かを訴えていた。
彼の口の中が渋くなる。
彼は以前から、こうしたデデンネの言葉を都合の良いように解釈して、意志疎通を台無しにしていた実績がある。
現に今も、正直言って、彼女が何を言っているのか彼にはさっぱりわからない。
自信も実績もないが、デデンネの語気や態度からその意思を推し量るしかないのだ。
『ど、どうした? ラマッタクペがいなくなって安心したか?』
「デネェ!」
『そ、それじゃ、クルミを食べる気になったか?』
「デネェエ!!」
『ああそうか、お前も肉食に
目覚めたか? 食べたいのか?』
「デネェッネデッデンデネェネネェェ!?」
あまりに的外れな言葉を繰り返す彼に、デデンネはたまりかねて飛び掛かっていた。
彼の体を駆け上がり、面食らう彼のその鼻に、思いっきり噛みつく。
臆病なものほど、いざという時に爆発した際の気勢には、凄まじいものがあった。
『い、痛ったぁ!? え!? え、ど、どうしたんだ、お前!?』
「デデンネ……。デネ、デネ……」
予期せぬ痛みに思わず跳び上がった彼だが、デデンネはそれを意にも介さず、彼の前脚に抱えられる少女の上で、必死に吐息を吐いていた。
「きゅ……、ぴ……」
それは、冷たい海水に濡れて凍える赤ん坊を、温めるための行為だった。
『そう、か……。お前はこの赤子を、助けたいのか?』
「デネッデンデデ、デネッデデッネ!!」
『痛い痛い! わかったから、わかったから傷を蹴るな!』
ようやく真意を得た彼の顔面を、デデンネはその小さな足でげしげしと蹴りつける。
ステロイドパッチールにしこたま殴られた腫れも引かぬ顔には、そんな蹴りでも大分響いた。
がらりと雰囲気の変わった彼女の様子に、彼は眼を白黒とさせながらも従う。
それほど頭の良くないデデンネは、それでも半日彼と同行してわかったのだ。
彼は、彼女のやること為すことに逆らえない。
彼は確かに、一歩間違えれば非常に危険なヒグマであることには間違いないが、その行動原理が全て彼女に尽くすためだけにあることは、先の対ヒグマード戦でデデンネにも理解できた。
ならばむしろ、彼に尽くされるまま有難迷惑なことをされ続けるより、強引に先導して尻に敷き、言うことを聞かせた方が平常時は遥かにマシなのだ。
『なかよくなる』だけで足りないなら、いっそ支配するつもりで立ち向かうべき。
よりにもよって彼は、会話の理解にかけては始終この鈍さである。
加えてこんな状況だ。いかに臆病な彼女と言えどさすがにしびれが切れる。
この赤子を助けようとするデデンネの行動は、彼女の群れを成すための本能なのかも知れないし、憐憫なのかも知れないし、何かしらの打算なのかも知れない。
それはデデンネ自身にもよくわからない。
だが、彼女はこの子を助けたかったし、この子を助けられるのは、ここにいるヒグマの彼だけだった。
だからデデンネは彼を、足蹴にした。
『わかった! わかった! え、こっち!? こっちの食堂?
ああ、ここなら確かに寝かせられるところとかあるか……』
「デデッデデンネェネェー!!」
『わかったってぇ!! 行くから、行くから許してくれフェルナンデス!!』
耳を引っ張り、顔面を蹴り、デデンネは彼を操縦する。
それはまるで、鈍い父親に憤懣をぶつけて従わせる、反抗期の娘のようだった。
最終更新:2015年11月18日 12:51