「なんだ……、これは……!?」

 エレベーターシャフトの扉の先では、焼け落ちた戦いの痕が彼らを出迎えていた。
 ウェカピポの妹の夫も、宮本明も、李徴もメルセレラも、暫く何も言えなかった。


 落下した大型エレベーターの天井をこじ開け、地下のSTUDY研究所、もといヒグマ帝国の階層に彼らが辿り着くのは、回転の奥義で首輪さえ解除していた参加者たちやヒグマたちには造作もないことだった。
 そしてまた、司波深雪百合城銀子が二人がかりでも開けられなかった歪んだエレベーターの扉を開けることも、彼岸島育ちの怪力である宮本明には造作もないことだった。
 だがしかし、そこで目の前に広がっていた光景を理解するには、彼らも暫くの時間を要した。

「ヒグマだ……! しかも何体いる? 50体近いんじゃないか……?」
「そいつらが全員、誰かに皆殺しにされてるわ……。生きてる体温はない……」
「代わりに燃えているのは炎……。全員焼き殺されたとでも言うのか? この地にはそれほど強力な爆弾か何かがあるのか?」
「西山だったら……、いや、同レベルの技術者なら不可能じゃないだろうけど……」


 一行の目の前には、焼き焦がされている数十体のヒグマの死骸と、その脂を燃料に未だ燃え続けている真っ白な焚き火が広がっている。
 溜まっていた煤と煙がエレベーターシャフトへ一気に殺到してきて、一同は暫く咳を堪えられなかった。
 エレベーターホールとなっている空間はそのまま地下に繋がっており広く、燃えている火の割りに換気はなされているのか、息苦しさはさほど感じない。
 彼らはそのまま様子を探るべく、警戒しながらゆっくりとその空間へ脚を踏み入れた。

「照明弾……? いや、ではないにしても、この白い炎はマグネシウムかアルミニウムから出る高温だ……」
「とりあえず消すか……? ヒグマが焼けて臭いし邪魔だし……」
「駄目だ明! アルミは水中でも燃える! むしろ水を掛けると水素が発生して爆発しかねんぞ!」
「な、え……!?」

 宮本明がそう言って燃えさしになろうとしているヒグマに近寄ろうとしたところを、ヒグマになった李徴子が前脚で差し止めていた。
 彼の突然の言葉に、明はたじろいで引き下がる。
 李徴の眼の真剣さに、明は自分の命が彼に助けられたのだと知った。


「……危なかったな明。そういった知識も、パロロワとかいうノベルで仕入れたものなのか、李徴?」
「ああ、人殺しの小説家の流儀が活かせるならば、こういう場を除いて他にないだろう……。
 ここはまさにロワイアルの会場なのだから。我も目標を見失わず、早く心を引き締めるべきだった」
「……」

 近寄って来た義弟と李徴との会話に、宮本明の思考はなぜかささくれた。
 護衛官の回転を会得した達成感が占めて浮ついていた心が、一気に沈んで冷える。
 それは恐らく、一歩間違えれば明たちでさえ死にかねない危機を再認識したことと、ヒグマに助けられてしまったことの悔しさのためだった。
 明は口の中でチクショウと呟きながら、バシバシと自分の頬を叩いて気合を入れた。


「……これ、ミズクマだわ。あの子の娘たちが、このキムンカムイたちと戦ってたみたい」
「ミズクマというと、海にいるとかいうやつだったか? 羆に酔っていてうろ覚えだが」
「そうよ。あの子が、誰の手も借りずにここまで来て、しかもキムンカムイ相手にトゥミコル(戦い)を仕掛けるなんて有り得ない。研究員の誰かが命令したとしか考えられないわ」
「確かに、ヒトの匂いが微かにするな……。獣臭と熱気に紛れているが女……、2人……、か?」

 ホール内を四つん這いで探っていたメルセレラが、焼け焦げた甲虫かダイオウグソクムシのような死骸を発見して声をかけてくる。
 応じた李徴と共に、彼女たちは率先して状況把握に乗り出していた。


「流石に、こういう場の調査にはヒグマの流儀が秀でているな。そうは思わないか?」
「……その質問は卑怯じゃないか、義弟さん?」
「この程度のことで卑怯もクソもあるか。オレたちが相手にすべきは『敵』であって、ヒグマとは限らない」

 ウェカピポの妹の夫の問い掛けに、明の口調は忌々しげだ。
 しかし義弟の口振りは変わらず飄然としている。
 未だに宮本明がヒグマに対して不毛な敵愾心を抱いていることは丸わかりであり、義弟はその不毛さをそれとなく明自身に示し、諌めているのだ。


「ここのヒグマ数十体を蹂躙した、研究員だかなんだとかいう人間が、オレたちの敵として向かってくるのかも知れんのだぞ?」
「研究員なら、むしろヒグマにやられた側だろ!? それの報復でヒグマを殺してるなら今は味方じゃねぇか!」
「さぁな。いずれにしろ、敵がこの近くにいるのならヒグマではあるまい」

 食って掛かる明に顔を寄せ、義弟は一段声を低くして囁く。
 義弟が手で示す周囲には、メルセレラと李徴以外、炎しか動くものがない。
 死骸に似つかわしくない、やたらに明るく白い炎が、明の眼に焼き付いた。


「ヒグマは、ここで死んでいるのだからな」


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


「痛っ……」

 お尻に何かがチクリと刺さったのは、墓地から彼女が動き出そうとしたその時だった。

「布束さんの手紙に入ってた針だわ……。さっきの爆発で吹き飛ばされたの……?」


 黒騎れいの手が摘まんだのは、細く透明に澄んだ、一本の針だった。
 しかし、細く脆いそれは、彼女の手の中ですぐに折れてしまう。
 今まで制服のホットパンツの中に原形をとどめていたのが驚くほどだ。


「布束さんが作った、薬の結晶でできた針……。これも何か幸運が……?」
「さあ、立ち止まらずにさっさと地下に降りますよ、れい」
「……ええ」

 狛枝凪斗の幸運が彼女に託したものは、拳銃だけではなかったということだろうか。
 この針が彼女の尻に刺さっていた理由など、それしか考えられない。

 しかし砕けかけた針の使い途など、黒騎れいは思いつけなかった。
 それにこれはどうやら狛枝のものではなく、彼女がデイパックに保管していたはずの一本のようだった。
 カラスの促しに応じて、完全に手で砕き粉にしたそれを、彼女はあたりに撒いて捨てた。


 この時に撒かれたHIGUMA特異的な吸収性麻酔薬が、ヒグマン子爵の足裏から吸収され、彼の感覚を鈍らせ、彼女の追跡を絶ったのは、ここから数十分ほど後のことである。


 地下に降りられる下水道のマンホールは、ここが廃墟の傍ということもあり、繁みや崩れた建物の陰などで巧妙に隠蔽されていた。
 STUDY肝煎りのジョーカーとして準備期間のあった黒騎れいでもなければ、地下への入り口がどこにあるのか、よほど入念に調べてもわからなかっただろう。

 マンホールから続く下水道への竪穴は暗く、ムッとするような湿り気と異臭に満ちていた。


「流石に水位は引いてるけど……」

 時間がたち、津波の水が半ば退いている代わりに、そこには下水が溜り濃縮されていた。
 島の北東部の研究所にはヒグマの檻の多くが集まっていたせいもあるだろうが、下水の大部分がヒグマの糞便のようで、雑食とはいえ肉をメインで食っていたらしいそれらの、濃縮還元された便臭は甚だしいものがある。
 それでも黒騎れいは、首輪に巻いた銀紙を確かめ、意を決して下水道へのはしごに手をかけた。

「れい、本当にこんなところを進むつもりですか!? 鼻が曲がりそうです!」

 マンホールの蓋を締め直すと、ほぼ完全な暗黒と悪臭に空間が支配されてしまう。
 そんな状況に、カラスは全身で嫌悪感を表現して騒ぎ立てた。
 れいは充満する臭いよりもむしろ、肩周りで暴れるその鳥類に顔をしかめる。

「嫌なら二度と息をしなければいいんじゃない?」
「なにぃ……?」

 投げかける言葉も冷たく、れいは呆れた溜息をついて下水道の内部に入ってゆく。


「とにかくワイヤーで天井を渡っていくから、どうにか触れずには済むわ……」
「うげぇ……、せめて私をヒグマの糞に落とさないよう努めなさい!!」
「思わず手が滑ってあなたを糞に叩き落としたらごめんなさい」

 れいは反抗心を隠そうともせず、カラスの妄言をあしらう。
 カラスの苛立ちはその一言一言に強まった。

「この……、私に歯向かう気ですか!?」
「おっと、ここで私の首を痛めたら、それこそお尻の下にあなたを敷きながら落ちちゃうかもね」
「ぐぬぬ……」


 手首に装備したワイヤーアンカーを打ち出し、全身の筋力を駆使して天井渡りを敢行する作業は、生半可な体力消費では済まない。
 カラスが下手に騒いだりすれば、バランスを崩したれいが糞ポチャするのは目に見えている。
 当然その場合、黒騎れいはカラスを道連れにする腹積もりだ。
 最も近い地下研究所への入り口に辿り着くまで数十メートル。
 バッテリー駆動の非常灯の、かすかな緑色の光だけが頼りだ。
 暗闇の中で感じるのは、黒騎れいの息遣いと、充満する臭気だけ。
 カラスも流石に口をつぐんでいる。

 地上で歩けばどうということもないだろうその距離を辿る数分間は、とてつもなく長く辛く感じられた。
 そしてようやく、小さかった非常灯の明かりの前に辿り着いた黒騎れいは、ホッと一息ついて壁際の取っ手を探る。
 しかしたちまち、彼女は絶望感に打ちひしがれた。
 扉を下に辿っていった指先が、ぬるりと生温かい下水に、触れてしまったのだ。


「取っ手が……、下水の下に……」
「はい開けなさい! あなたが開けなさい、れい! 私じゃ無理ですからね!」

 勝ち誇ったようにカラスが笑う。
 扉は半分ほども、下水の下に埋まってしまっていた。
 これでは通路に降りて、しっかりと力を込めてこじ開けねば扉は開かないだろう。
 この汚物の充満した下水道の通路にだ。

 そこに触れないよう触れないよう努めていた今までの労力がまるっきり無駄だったとわかり、黒騎れいの体には一気に疲労が襲い掛かった。
 そしてそのままずるずると、彼女は壁際から下に堕ちた。


「うえぇ……」

 発酵し腐敗しねばついた汚物の中に、ずぶずぶと脚が沈んでゆくのがわかる。
 そのまま足先からふともも、股、下半身までもが沈む。上着にまで汚泥が跳ねかかる。
 肌を這い上り、靴下や下着の中にまで浸みこんでくる生ぬるい異臭に、れいは吐き気を堪えるので精いっぱいだった。
 頭がくらくらする。


「腰までぬるぬるしたものが……。気持ち悪い……」

 もはや腹をくくるしかないのだ。
 不快感に耐えながら両腕を粘着質の汚物の中に沈め、黒騎れいは扉の取っ手を探す。
 制服の上まで汚泥に浸ってしまうが、もうどうしようもない。
 とにかく早くこの扉を開けて脱出することが先決――。

「わぷっ!?」

 そう思ってようやく扉を開錠した瞬間、それは勢い良く奥に向けて開いていた。
 溜っていた下水の水圧が一気に解放され、扉を掴んでいたれいごと、汚泥は下水道の扉を押し開けて地下通路の中に溢れる。
 10メートル近く汚泥の波に流されてようやく止まった彼女の上空で、カラスが高笑いを爆発させていた。


「カッカッカッカッカ! 私に反抗的な態度を取ってきた罰です! 良いザマですね、れい!」
「うぶぅ……」


 全身をヘドロに塗れさせて身を起こしたれいは、無力感に襲われた。
 髪も顔も胸も、もはや全身くまなく茶色の汚物に染まっている。
 泣きたくても、眼をこする手も汚れているし、下手に口を開けばヒグマの糞を食べてしまいそうだ。
 というか先程流された時に少し下水が口に入ってしまっている。
 れいはひたすらそこらへんに唾を吐き続けた。


「そんな汚らわしい身で私に近付かないで下さいね。私は自分で示現エンジンを探して来ますから!」


 カラスはこれでもかと言わんばかりの嘲笑を吐き散らかし、羽音も軽く、薄暗く荒れた研究所の奥へと飛び去ってしまう。


「泣きたい……」


 暫く汚泥の中に座り込んで、れいは呆然とうなだれる他なかった。


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


 エレベーターホールを一通り調べ終わり安全を確認した宮本明たちの一行は、ひとまずここで小休止とすることにした。
 研究所の内部構造は、メルセレラと李徴でさえ、ヒグマの身分であったがゆえに完全に把握しきれてはいない。
 それが、ヒグマの氾濫後約半日経過している今となってはなおさら、先々に何が待ち構えているのかわからない。
 しかし間違いなく、ここには『敵』と、『ヒグマを数十体以上殺戮した何者か』がいるのだろうということだけは、全員が予測していた。
 地下の探索の最中に、いつ襲撃されてもおかしくはない。万全の応戦ができるよう補給しておくことは重要だった。

 メルセレラが周囲の気温を観測して警戒を続ける中、日中に焼いておいたマリナーラピッツァや、未明に宙を舞っていたクッキーの残りの他に、ウェカピポの妹の夫がデイパックから取り出したものがある。


「なんなんだ義弟さん、その器械は?」
「『ナポレターナ』だ」

 ナポレターナは、主にイタリアのナポリを中心に使用されている、ドリップ式のコーヒーメーカーである。
 円筒形の金属製マグカップのような形をしたボイラーと、その中にコーヒー粉を入れるバスケットとフィルターが取り付けられ、さらに、抽出したコーヒーを蓄え注ぐためのポットで構成されている。
 ポットを逆さにして水を入れたボイラー部に被せ、そのまま火にかけて使用する。
 直に蒸気でコーヒー粉が蒸らされた後、全体を逆さにしてドリップすることで高圧の抽出が行われるため、ペーパードリップよりもかなり濃厚なコーヒーができあがる。
 頑丈で取り回しやすく、イタリアンコーヒーの抽出道具としてはアウトドアに適したものの一つだと言える。
 ウェカピポの妹の夫が第一回放送まで籠城していた、オフィスビルの給湯室にあったものだ。


「オレたちの場合、だいたいコーヒーはトルコ式か、このナポレターナで淹れることが多かった。
 正直あの建物にあったエスプレッソマシンは、新しすぎて使い初めは戸惑った。蒸気圧でそのまま抽出するんだからな。
 第一回放送があるまで、オレはほとんどあれでコーヒーを淹れるのに四苦八苦していたようなものだ」
「ほう、また上下布奇諾(カプチーノ)を淹れてもらえるのか?」
「そもそもコーヒーって何……?」

 奇妙な形状をした金属製のその道具を眺めながら、明だけでなく李徴やメルセレラも興味深げに問うてくる。
 彼らを前にして、義弟はいそいそとボイラー部に水を注ぎ始めた。

「いや、流石に牛乳は持ってきていない。だが今から作るのが、本物のイタリアンコーヒーだ」


 支給されていた水をなみなみと注いだボイラーに、あらかじめ粉を入れていたバスケットを取り付けてポットを被せ、ヒグマの死骸に灯る火の上で沸かす。
 次第に、辺りには蒸気で花開いたコーヒーの薫香が鮮やかに漂ってくる。
 沸かしたナポレターナを取っ手でくるりと返せば、音も軽やかにドリップされるコーヒーの雫が、ポットの金を叩いて芳しく響き渡る。
 砂糖をたっぷりと詰めた紙カップの中に注がれたコーヒーはどろりと濃厚で、それでいて黒曜石のように澄んだ輝きと深い透明感を放っていた。
 手早く攪拌して差し出されたコーヒーを口にした一同は、揃って目を丸くした。


「いい香りね……。春の森の……、瑞々しい果物みたい……!」
「こ、これは可可茶(ココア)なんじゃないのか!? なんと芳醇な……」
「うっお……、本当だ、チョコレートみたいな濃さだ。旨い……」
「超深煎りのコーヒーを、同量の砂糖と乳化させるんだ」
「甘くて苦くて……、でもケラアン(美味しい)!!」
「普段のオレたちなら毎日6回は飲んでる。これがないと一日が始まらん」


 冷めたピッツァを白い炎に炙って温めながら、一同は香り高く濃厚なコーヒーに舌鼓を打つ。
 死臭と獣臭を掻き消し、半日の疲れを一気に吹っ飛ばすほどの幸福な空気が、エレベーターホールを満たした。
 めいめいコーヒーとマリナーラを頬張りながら、彼らは束の間の雑談に興じる。

 なお、義弟が食うに堪えなかった血と臓物味のクッキーは、メルセレラの絶賛を受けた。
 元々クッキーババアがヒグマのために作った菓子であり、最終的に彼女の腹に喜んで収まったのは本望だったろう。


「で、あの建物、何か、物品が揃いすぎていたような気はしないか?」
「そうか? 普通のオフィスビルだと思ったけど……」
「オレも他の建物を詳しく見たわけでも、女子トイレの中まで覗いたわけでもないが、気になってな。
 まさかナポレターナまであるとは思わなかった。
 他の事務所や家庭にも常備されているのだとしたら、オレは日本を心から尊敬するよ。
 こっちじゃ旨いコーヒーを淹れられるようになって初めて、一人前の大人と認めてもらえるんだぜ?」
「そうなのか!?」

 話の中で、義弟はこれほどの物品が揃っていたビルへの違和感を語っていた。
 しかし、話の流れは自然とコーヒーの流儀の方へと流れていく。
 何より、ウェカピポの妹の夫が見せたコーヒーに関する卓越したスキルは特別なものではなく、彼の国では皆が身につけているものだという事実は、全員の驚愕をかった。


「ネアポリスのみならず、イタリア全土でそうだろうよ。ネアポリスじゃそれに加えて、鉄球も回せねぇ不器用なヤツは大人になる資格がない。先祖に申し訳もたたないしな。
 日本では無いのか、そういう流儀は? 丸太を振り回せるのが大人の条件とか……」
「いや……、流石に彼岸島でもそこまで要求はしないよ。吸血鬼にならず生きててもらえればそれでいい」

 宮本明と同行しすぎてウェカピポの妹の夫に誤った日本観が芽生えるところであったが、それは他ならぬ明自身の言葉で否定される。
 明のやってきた地である『彼岸島』は義弟たちの興味を惹いた。


「お前は吸血鬼と戦っていたんだったか。確か、そいつらの血を浴びると自分も吸血鬼になってしまうという……。
 ならば、丸太にしろ剣にしろ、血を飛び散らせるような戦いは悪手ではないのか?」
「いや、そこまで気にする必要はない。目や傷口に入らなければな。
 俺なんか、腰まで吸血鬼の血に浸かって歩いたりしたけど平気だったから」

 しかし、戦闘法の話となって明から返って来た言葉に、一同は唖然とした。

「は……?」
「え……!?」
「明、それは……」
「な、なんだよなんだよいきなり!?」

 予期せぬ彼らの反応に、明の方が帰って動揺する。
 ウェカピポの妹の夫が思案しながら切り出す。


「……目に入ってもアウトならば、尿道や肛門に触れてもアウトだろう。
 お前の戦いぶりからして、返り血の飛沫を気にしているとも思えないしな……」
「ちょっと待てよ! なんだよ! 俺が吸血鬼になってるとか言いたいのか!?」
「いや、そうじゃない」

 今まで吸血鬼に対して絶対の殺意を抱いてきた明にとって、義弟の言葉は聞き捨てならないものだ。
 しかし憤る彼を差し止めて、義弟はその言葉の真意を語る。


「もしかすると、お前は血を浴びても吸血鬼にならない体質なんじゃないか?
 お前の予知能力といい身体能力といい飲み込みの早さといい、お前がそういう特別な人間だとしても不思議ではないと思うがな」
「話を聞く限り、その吸血鬼というのは伝染病か何かのようだ。
 ならば明、お前は元からその吸血鬼の病原体に対して免疫を持っているのではないか……?」


 義弟の言葉を、李徴が受けて推測を繋いだ。
 明は、今まで思いつきもしなかったその衝撃的な考えに呆然とした。


「お前の血を研究すれば、治療薬のようなものができるのかもな」
「マジ……、か……?」


 冷静に考えて、粘膜に接触して感染しうる病原体ならば、眼や口のみならず下半身の粘膜に触れても感染するし、なんとなれば通常の皮膚でも感染の危険がある。
 吸血鬼の血を浴び放題であった宮本明が感染していないのなら、むしろ彼に何らかの抵抗力が存在しているのではないかと考えた方がしっくりくるのだ。

 そうして明の前に新たな可能性が示されて程なく、一行は軽食を終えた。


「ヒンナ(ご馳走様)。じゃあ、捜しに行きましょうか」

 たっぷり3人前のピッツァと、血と臓物味のクッキーに満足したメルセレラが、いち早く腰を上げた。
 参加者にとっては共に脱出できる生存者を、彼女にとっては自身を認めてもらえる相手を見つけるための探索行だ。
 早いに越したことはない。

 この小休止の間に『敵』に襲撃されなかったことも、探索行の安心感と希望を高めている。
 しかし同時にそれは、不安感と絶望をも高める間でもあった。


「……生きている者の温度が、本当に感じられないんだけどね」


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


 その頃、黒騎れいを捨て置いて、荒れた研究所の中を飛んでいたカラスは、程なく地下の下層にて目的のものを見つけていた。

「やはり示現エンジンがあったのですね……」

 そこに至る経路は反乱によって開かれ、しかも布束砥信たちが童子斬りの根を払いつつ向かっていた足跡が残っており、以前までは秘匿されていたそのエンジンの所在も容易くわかるようになっていた。
 一帯は枯れ落ちた根のようなものに絡まれ、スプリンクラーの水に浸かっていたが、示現エンジン本体は、電源が落とされているのみで再稼働は可能なようだった。
 もっとも、童子斬りに侵食されかけ、バーサーカーと龍田の戦闘とで外壁に大きな損傷が見えるそれが、爆発せず安全に再稼働できるかどうかはわからないが。


「ブルーアイランドのものでさえ目に余るのです。こんな地にもう一基の示現エンジンを設置させておくわけには行きません。
 崩壊寸前ならばなおのこと、私が即刻消滅させてやりましょう」

 カラスはそうひとりごちるや、赤く目を光らせて巨大化を始める。
 ステロイドパッチールから吸収していた、HIGUMAとしての力だ。
 そうして漲ったエネルギーを以て、カラスが示現エンジンを破壊しようとしたその時だった。


「なっ――!?」


 何かが突然、地底から矢のように疾り来てカラスの翼を貫く。
 それは、この一帯に蔓延っていたものと同じ、一本の木の根だった。


「なんですかこの木は!? 私を『始まりと終わりに存在するもの』の代弁者と知っての狼藉ですか!?
 この下等生物! 良いでしょう、すぐに消し飛ばしてやります!」

 バランスを崩して床に落下しかけたカラスは、たちまち激昂して、攻撃の矛先をその木の根に変えようとする。
 しかしカラスがそう動く間もなく、地面からは次々とさらなる木の根が突き出され、その喉から胴から、エネルギーのあるありとあらゆる箇所に突き刺さっていた。


「ぎゃぁぁぁ――! 吸われる! 吸われる! あの下等生物から吸収していた力が――!」


 地下の狭い空間で中途半端に巨大化してしまったカラスは、飛んで逃げることもままならなかった。
 そのままカラスは全身を木に絡みつかれ、瞬く間にエネルギーを吸い尽くされる。


「ひぎぃぃぃぃ――!!」


 そして、元の貧弱なカラスの肉体に縮小したそれは、エネルギーを吸われたそのおかげで、命からがら木の包囲網を抜け出すことができた。
 スプリンクラーの水たまりに落ちて、ばしゃばしゃと必死にもがきながら、カラスは示現エンジンの方を振り返って捨て台詞を吐く。


「ひぃ、ひぃ、ひ、ひとまず出直してやります下等生物! 示現エネルギーを、人間にも劣る木っ端ごときに好きにはさせません!」

 そんな言葉を、木は聞く様子もなく、こぼれ落ちたエネルギーの絞りカスの居所を探って、威嚇するようにざわざわと枝を伸ばして来ている。

「ひへゃ!」

 カラスは残された力を振り絞って、研究所の上層階へと、元来た道を必死に逃げ帰った。


「もはやなりふり構っていられるものですか! れいに預託されているあの力……!
 れいはどこですか! あれを奪って私がこの世界など滅ぼしてやります!!」


 息を整え、理不尽な怒りを燃やしながら、カラスはよたつく足取りで走っていた。


【C-6 地下・示現エンジン/夕方】


【カラス@ビビッドレッド・オペレーション】
状態:負傷(中)、多数の羽毛がハゲている、ずぶ濡れ
装備:なし
道具:なし
基本思考:示現エンジンごとこの世界を破壊する
0:れいの力を奪ってやります!!
1:あのままれいを飲み込んでいても良かったかもしれませんね?
2:この私が直々に、示現エンジンごと全てを破壊してやります!!
[備考]
※黒騎れいの所有物です。


四宮ひまわり@ビビッドレッド・オペレーション】
状態:寄生進行中、昏睡
装備:半纏、帝国産二代目鬼斬り
道具:オペレーションキー
[思考・状況]
基本思考:――――――――――
0:――――――――――
[備考]
※鬼斬りにほぼ完全に寄生されました。
※バーサーカーの『騎士は徒手にて死せず』を受けた上に分枝したので、鬼斬りの性質は本来のものから大きく変質している可能性があります。


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


 メルセレラはこの階層の半径1キロメートル近く、地下の空気に生物の体温を感じないと言う。
 探索に来た一行にとって、それは朗報でもあり悲報でもあった。
 生存者がいなければ、探索は半分空振りだと言っても差し支えない。
 せいぜいが、この島の状況を知るための手がかりが研究所の資料に残されていないか探る程度のことしかできない。
 それでも彼らは、離れたところにわずかでも生存者が隠れ逃げ延びていることを期待して歩き出していた。

「護衛対象の王族がもしはぐれてしまった場合、――そんな失態が起きたらまずオレたちのクビが飛ぶんだが――。
 それでも被害を最小限にし、早急に捜索する手は、ある」

 初めにウェカピポの妹の夫が行なったのは、回転した鉄球を壁に押し当てることだった。
 すると粗いものの、壁の後ろのかなり広範囲の景色が、埃を浮かせて透かし彫りのように描き出される。
 曲がり角の先の荒れた研究所の様子が、一目で見えるようになっていた。


「義弟さん何だそれ、スキャナ!? エコーか!?」
「回転の振動で遮蔽に隠れた物を反射させ映し出すんだ。国で一番この手の技法に長けてるのは、やはりツェペリ流だな。
 オレたちの鉄球は真円じゃないから、大雑把にしか見えないし時間もかかるが、まあ十分だろう。
 山岳救助の時にもよくやったもんだ」

 宮本明を始め、一行は未だ奥深い鉄球の回転の活用法に驚く。
 李徴もまた、義弟のその流儀の在り方に感慨を禁じえなかった。
 だがそこで浮かび上がってくる違和感は、そんな彼が家庭ではその力を暴力に用いているらしいという点だ。
 李徴は、その有様がかつての自分に重なるようで、いたたまれなくなった。


「妹夫、そんな人を助ける仕事をしていたお前が、なぜ妻を殴るなどするのか……。
 我にはお前の話のどちらかが嘘だとしか思えん」
「私生活と仕事は、別なんだよ。何をしてたって、帰るべき流儀はあるんだ。
 嘘だとしか思えないなんてことはないだろう。お前もそうだったんじゃないのか?」

 そして、李徴の畏れは本人からさらりと肯定された。
 妻子を省みず詩作に耽り狂奔した彼は、妻を殴り続け逆賊を壊し続けた男のその堂々たる振る舞いに、眩しさを覚えていた。


「帰るべき場所を、我らは家に置けなかったということか……。
 仕事に生き、仕事に狂い仕事に帰る……。いや、社畜を自負していた我には当然だな……。
 会社の家畜どころか、我の場合は社会における畜生だったわけだが……」

 李徴の心を占めていたのは、そんな自分の生き方に対する後ろめたさだ。
 それが己を狂わせ、そして自分をヒグマの姿にまで変えてしまったものだと、今の彼は推察できている。
 もし李徴が、ある種の潔さを以て自分の中の畜生たる生き様を肯定し立ち居振る舞っていたならば――。
 ウェカピポの妹の夫のごとく、ある社会から顰蹙を買おうと、ある社会からは切実に求められる、そんな筋の通った人物になれていたのかもしれない。


「我は今までそんな自分を誇れなかった。だが妹夫、お前がそのあり方にて悔いなく進んでいる姿は、確かに素晴らしい。憧れすら覚えるよ」
「悔いなく……?」

 だが、感嘆と共に語られた李徴の言葉に、ウェカピポの妹の夫は暫く俯いた。


「オレは鉄球のように、ただ突き進み来た……」


 壁面に押し当てられた彼の手の中で、鉄球が回っている。
 ただギャルギャルと、鉄球の振動だけがあたりに響く。


「壁を壊すための手で……、オレは壊した。あいつを……。
 その、体を……。その、心(ハート)も……!」
「義弟さん、義弟さん?」
「レサク(名無し)、ちょっと、どうしたの?」
「……いや、何でもない。感慨は置いておいて、進もう」

 動きを止めてしまった義弟に、心配そうにメルセレラや明が声をかける。
 義弟はその言葉に、さっさと顔を上げて、道の先を示すのだった。
 一同は、それ以上追求することも、できなかった。


「誰かァァァァ――!! 生きてる奴はいないかぁぁぁぁ――!!」
「ちょっとアイヌ、声が大きい!」
「周囲に誰もいないって言ったのはお前だろ? 遠くまで聞かせてやんなきゃ」
「宮本明。敵はビルに現れた機械人形という可能性もあるんだぞ?」
「うぐ……!?」

 そして燃えていたヒグマの死骸から松明を作って、一行は研究所内の探索を始めたが、道中は散々なものだった。
 なぜかコケが蔓延り湿っているその地下空間は方々がヒグマに荒されており、パソコンなどの電子機器や機材はそのほとんどが叩き壊されている。
 いわんや紙媒体の資料はバラバラに散逸し、運よく判読できたものも、それ一枚では何の意味があるのかわからないものが大半だった。
 メルセレラの言ったとおり、呼びかけに反応する生き物もいない。


「む、黄金長方形か」
「どうした妹夫」

 そんな不毛にも思えた探索の中で、ふとウェカピポの妹の夫が目に留めたものがある。
 研究室のひとつと思われる部屋の中に散乱していた、複数の紙だった。

「これらの彩色写真を見ろ。宮本明、お前ならわかるか?」

 拾い上げられて宮本明に差し出されたのは、一見しただけでは李徴やメルセレラには何の関連性も見いだせないような画像が描かれた、A4版のコピー用紙だ。

 ミロのヴィーナス。
 リコリスの葉。
 モナリザ。
 五芒星。
 雪の結晶。
 ひまわりの花。
 アンモナイト。
 手掌の静脈透視像。
 巨木。
 ロマネスコ。

 しかし宮本明の眼には、STUDYの桜井純が印刷していたそれらの画像の中に、明らかに黄金比が隠されているのが見えた。
 義弟が先だって語っていた、黄金長方形の回転だ。


「回転……してるな」
「そうだ。ここの奴らは黄金長方形やその回転を研究していた可能性もある……というのは考え過ぎかもしれないが。
 何にせよ、スケールを持っておくのは悪いことじゃない。これを手本に回してみても良いだろう」
「そうか、黄金長方形のスケール! やっぱりあったんじゃん義弟さん!」

 宮本明は、これらの紙片に隠された力の秘密に興奮した。
 黄金長方形のスケールは、山の上で彼が義弟に要求していたものだ。
 この紙に印刷された花や像の尺度通りにモノを回せば、莫大な回転エネルギーが得られるらしいという強力な代物に、明の心境は一気に浮き立った。
 だが義弟は、意味深な訳知り顔で口角を歪める。


「……『できるわけがない』と、お前はこれから4回だけ言っていいぞ」
「できるに決まってるじゃないか! 杞憂だぜ義弟さん! 今ここででも黄金の回転を使ってみせるさ!」
「ちょっと! こんな狭いところで丸太振り回さないでよエパタイ(馬鹿者)!」


 そしてすぐさま丸太を取り出して回転の練習を始めた明の傍迷惑さに、メルセレラが空気を破裂させる。
 危うく小競り合いに発展しそうになった現場を、李徴と義弟が二人がかりで宥めた。


「何だか知らないけど、こんな紙切れしかないんじゃ、こっちはもう引き上げた方がいいんじゃない?」
「ああ、真北は早く探索が済みそうだとは思っていたが、戻って東か西に向かおうか」
「こうか? こう向日葵の種の配列に沿って手を動かして……」
「止めろと言っておろうに、宮本明……」

 メルセレラを始め、地下の北側の探索を切り上げようという意見は、全員が一致していた。
 この道はより探索を続ければ、実のところ地底湖やしろくまカフェのあった地点に繋がり得るルートではあったのだが、研究所自体は本来そこで終着しており、メルセレラの気温感知と義弟の回転ソナーは、ギリギリで艦娘工廠の存在を知覚する所まで届かなかった。

 そうして一行が来た道を少し引き返しながら、近い側である西に進路を採った後、異変は起きた。

 まずメルセレラが、遠方から空気を裂いて接近してくる何かの温度を感じ取っていたのだ。


「何かが……、すごい速さで近づいてくる!」
「まだ、何も見えないが……。こちらに気づいているのか?」


 義弟が、壁に押し当てていた鉄球の回転を強くする。
 松明を近づけて、一行は壁に映し出される相手の姿を確認しようとする。
 そうして浮き立つ埃の中に描き出されたのは、チーターか何かのようなしなやかな動きで走っている、女の子の姿に見えた。


「少女……?」
「マジか! でかした義弟さん! 生存者だ!」

 義弟は、なぜ少女が四足歩行で走っているのかにまず疑念を抱いたが、宮本明は逸早く、その人物が生存者であろうと結論を下してしまっていた。
 そして彼は、奥の通路に飛び出して、暗い道の先に向かって叫びながら手を振っていた。
 メルセレラが慌てて伸ばした手は、走っていく彼に届かなかった。


「おーい、こっちだー! 助けに来たぞー!!」
「おい、ソイツは、生き物の体温をしてないわ!」


 瞬間、明の背にぞくりと悪寒が走った。
 彼の目の前が、一瞬にして死の感覚に覆われる予感があった。
 何か、遠くでピンク色の光が明滅したように感じた。
 それと同時に、宮本明の体は無意識のうちに全力で地面に伏せていた。

「うおっ!?」
「危ない明!!」

 明の後頭部を、猛烈な熱が過ぎ去った。
 髪の毛が何本か焼き切れた臭いがする。
 悲痛に叫んだ李徴たちはその時、通路の奥から巨大なピンク色の光線が放射されてきたのを目にしていた。

 何とか地に俯せて無事だった明の姿に安堵する間もなく、相手の動向を鉄球の回転で把握していた義弟が叫ぶ。


「大丈夫か宮本明! 奴は何か弓矢のようなものを構えている! 
 また来るッ! 飛び道具が来るぞォ――ッ!」
「サンペアクレラ(心撃つ風)の座標が定められない! こちらに気づいて加速してきたわ!?」


 少女の姿をしたその襲撃者は、新たな武器を構えながら通路の宮本明に向け接近してくるようだった。
 その速度は、既にメルセレラの気温による感知を振り切るほどになっている。
 明は歯噛みしながら立ち上がり、デイパックの中から手斧を取り出していた。


「弓矢だろうが蚊だろうが、間合いに入ったなら斬れる!」
「いかん、退くべきだ明! 古の名人でもあるまいに!」

 それを日本刀のように晴眼に構えた彼は、李徴の言葉とは裏腹に、通路の彼方から発射されてくる一本の真っ白な矢を、確かに見すえていた。
 そして、真っ直ぐに進んでくる矢を、明の太刀筋は確かに切り落とすかと思えた。
 しかしその瞬間、矢は突如空中で方向転換し、彼の向かって左上から、再度彼に向けて飛来した。

「んなぁ!?」

 宮本明は、かろうじてその動きを予測した。
 そして返す太刀の勢いで、その矢を何とか中央から二つに切る。
 しかし、切り落としたはずの矢の先端は、そのまま宮本明の左腕に、ジャケットを貫いて突き刺さっていた。
 そしてそれは彼の血液を吸い、爆裂するような勢いで全方位に鋭い棘を生やす。
 その矢は、人間の骨でできていた。


「ぐあぁぁぁ!? チクショウ! 腕をやられたチクショウ!!」
「何やってんの!? 自分で言ったことくらい実行しなさいよ!!」
「斬ったのに!! ハァハァ、斬ったのになんだこれチクショウ!!」

 神経も血管もずたずたにされたようで、明の左腕は血を流すばかりで全く動かなくなる。
 メルセレラが罵る中、その正体不明の襲撃者は既に、宮本明に飛び掛かりその爪を振り下ろそうとしていた。
 痛みを堪え応じた明が、何とか手斧を振り上げてその爪を受けようとする。
 しかし、爪にぶつかった斧の刃はそのまま砕かれてしまう。


「手斧が割れた!? ッ、やばっ……!!」


 たたらを踏んで後ろに引きながら、明はなんとかデイパックから丸太を取り出した。
 だが、そこに気を取られているうちに、躱し損ねた襲撃者の爪がデイパック本体のベルトを切ってしまう。
 取り出した丸太を構える暇も無く、転がってゆくデイパックに明の眼が逸れた瞬間、次なる爪の一撃が明の頭上に振り被られていた。


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


 地下の一行から東側に離れた位置で、同じ研究所の階層をとぼとぼと辿っている少女がいた。
 生きている、体温のある人物としては、義弟たちの待ち望んでいた生存者であったが、彼らが互いにその存在に気づくには、両者はまだまだ離れすぎていた。
 その人物とは、言わずもがなの黒騎れいである。

 しかし今の彼女は、むしろ他の生存者に見つけてもらいたくなどなかった。
 彼女の全身は、ヒグマの糞の臭いしかしなかったからだ。
 顔から手から汚泥まみれの体は、下手に拭うこともできず、彼女はただ表情を能面のように強張らせたまま、暗い研究所を歩き続けるしかなかった。

 せめて手を洗えるだけの水がないものかと思っていた彼女の目に、その時、通路脇の檻の中に散乱しているものが映る。
 ヒグマの檻に似つかわしくないテレビとビデオデッキと大量のDVDが置かれているその部屋には、つい先ほどまで誰かが寛いでいたかのように、水のボトルや食い散らかされたツマミがあった。
 明らかにヒグマのものではない。


「ここ……、穴持たず1・デビルヒグマの檻よね……。誰かが見てたの……?
 この非常時に、遊戯王のDVDを……!?」


 研究所の東側にあるヒグマたちの檻のうち、そこは熊界最強の決闘者として研究所内でも有名だった、デビルヒグマの檻だった。
 この一帯も、例に漏れず反乱したヒグマによって荒されたようだったが、そこだけはどう見ても異質だ。
 デビルヒグマ以外の、人間が、反乱があった後に敢えてここを訪れたものとしか考えられない。
 黒騎れいには意味不明だったが、彼女が必死に可能性を考えるに、人間でありながらHIGUMAとして登録されていた工藤健介や司波深雪ならば候補にはあがる。
 しかしヒグマ帝国の実情など欠片もわからない黒騎れいには、これ以上の推察などできない。

 彼女はとりあえず、部屋の持ち主であるデビルに悪いなと思いつつ、残っていたボトルの水でなんとか手と顔だけは入念に洗った。
 ツマミと思しき物体にも手を出そうとしてみたが、それは裂きイカのように見えるだけの削った鉄という謎の代物だったために断念した。
 この檻にいたのが、ビスマルクという艦娘だということは、彼女にわかるはずもなかった。


「あと目ぼしいものとか手がかりとか、無いのかしら……。あれは……」


 そのままヒグマの檻が並ぶ通路を歩いても、暫く大したものは見つからなかった。
 そもそも物品のある檻など最初からほとんどなかったのだ。
 黒騎れいの目に止まったのは唯一、穴持たず58の檻にあった壺くらいだった。


「ああ……、支給されるハチミツを、ずっと食べずにとって置いてたのよね、このヒグマ……。
 悪いけど、持って行かなかったのなら頂戴ね。こっちは使えるものは持って行きたいから……」

 今となっては遠い研究所内での日々を思い出して、黒騎れいはほんの少し笑った。
 だがこの先で出会うかも知れない者に備えるためには、そんな思い出も道具として確保しておくことが先決だった。
 自分可愛さ第一の、水仙のマシンの心だ。それでも、自分可愛さで他人まで助けられるならば十分すぎる。
 四宮ひまわりが生きているならば、きっと朝からお腹を空かせているはずなのだ。
 少しでも早く見つけて、栄養になるものを摂らせてやらねばなるまい。

 そんな思いで、黒騎れいは穴持たず58のハチミツ壺をデイパックに仕舞い、地下を歩む足取りを速めていた。


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


「オレは既に『壊れゆく鉄球(レッキング・ボール)』を設置している」


 宮本明の脳天を断ち割るかと思えた攻撃は、すんでのところで彼を逸れていた。
 地下の階層を動いていた、黒騎れいとは違う少女――。
 『H』と呼ばれるその襲撃者が、攻撃の直前で突如左脚を滑らせ、体勢を崩したのだ。


「『迎撃衛星』そして『左半身失調』――。奴は『左側』を認識しない」


 曲がり角の陰から回転のソナーで少女の動向を探りつつ、もう一つの鉄球を通路に転がしていた義弟が、彼女の接近するタイミングを見計らって衛星弾をそこから射出させていたのだ。
 回転の衝撃波を受けて、その少女も明も左半身失調の状態に陥るものの、何度も模擬戦闘を行なっていた明だけが、むしろ左腕の痛みを感じなくなったその状態で動くことが可能となっていた。


「おらぁ!!」


 捨て台詞の代わりに襲撃者を丸太で殴りつけ、宮本明は身を翻して通路の曲がり角へと急いで走り戻る。
 ふらつく彼を、ウェカピポの妹の夫と李徴が迎えて支えた。


「妹夫の言った通り、恐らくあれは少女の姿をした自動機械だ! 無事で良かったぞ、明!」
「手加減して殴ったけど、眼が濁ってるだけで人間の女の子っぽかったぞ!?
 マジなのか!? 何か勘違いして襲ってきてるだけとかじゃないのか!?」
「お前、こんな凶悪な矢で射られてもまだそんなことが言えるのか……。オレなら逆鱗以外の何物でもない」
「だから、生き物の体温してないってさっきから言ってるじゃない! アタシが戦うわ!」


 既に、通路で倒れていた襲撃者も体勢を立て直している。
 直ちに明を追ってこちらに走り来ようとしていたその少女の前に、メルセレラが立ちはだかっていた。


「サンペアクレラ(心撃つ風)!」


 即座に放つのは、彼女が絶対の矜持を持つ必殺の狙撃魔法だ。
 メルセレラの霊力(ヌプル)を以て、過たず敵の胸部座標に位置する空気が急速に過熱される。
 爆音が響き、襲撃者はのけぞった口から大量の焼けた蒸気を吹き出しながら倒れた。


「……チクショウ、やりやがった!」
「やったのか、美色楽女士!?」
「いや……、あれは……」
「……やっるぅ!」

 宮本明と李徴は、その光景に襲撃者が撃破されたと見た。
 しかし義弟とメルセレラは、その相手がほとんどダメージを受けていないだろうことを、はっきりと感じ取っていた。
 倒れた少女は、そのまま床に手を突いて跳ね上がり、その反動でメルセレラに飛び掛かっていた。
 鋭い爪が、メルセレラの頬を掠める。


「シヌプル(強い)――!」
「シニョリーナ!」
「き、効いてないのか!?」
「い、いかん、退くべきだ!!」

 狼狽する男たちの視線の先で、切りはふられるかと見えたメルセレラの体が、急激に膨張した。

「キマテッ、カムイ、ホシピ!」

 一瞬でヒグマの巨体に戻ったメルセレラの体が、その体当たりの勢いで襲撃者を弾き飛ばす。
 壁を蹴って跳ね返り差し返そうとした襲撃者の爪を、メルセレラは魔法少女の姿に戻り肉体を縮小させることで躱した。
 間合いを狂わせることで攻防に資するその戦法は、彼女が人間として向かいたいと考えていた宮本明や義弟には、見せたことのないものだった。


「アンタ、オハチスイェ(空き家の化け物)ね! そりゃ、並大抵のトゥス(巫術)じゃ倒せないわけだわ! さっすがぁ!」


 だがこの相手には、彼女が遠慮する理由は全くない。
 この襲撃者が、全力でぶつかっても足りるかどうかわからない素晴らしい相手なのだと、メルセレラはその嗅覚で感じ取っていた。


「アンタはアタシを認めてくれる――!?
 飛ばしていくわよ!! エヤイコスネクル(風で体が)プンパ(浮き上がる)ァァ!」


 空中に浮かび上がったメルセレラと、壁面や天井を蹴って襲い掛かる少女とが、眼にも止まらぬ速さで空間戦闘を繰り広げ始める。


「エパタイ(馬鹿者)、エパタイエパタイエパタイエパタイエパタイエパタァァァァイ!!」


 空気が次々と爆発し、天井や壁面が抉られ土埃が舞う。
 暗がりに巻き起こる爆風で、とても近寄れない。
 超人的なその戦闘の現場から、男たちはじりじりと距離をとるほかなかった。

「チタメハイタ(鎌鼬)ァァァ!!」

 メルセレラの叫び声だけが響く中、後退していた歩みをついに走りに変えようとしたのは、宮本明だった。


「チクショウ……、一端逃げるほかねぇ……!」
「いや、駄目だ宮本明。シニョリーナに加勢しなければ」

 組織を骨から破壊された左腕の耐え難い痛みに呻く彼を、ウェカピポの妹の夫がそれでもなお引き留めていた。
 李徴が狼狽した。

「妹夫! わ、我等が行って敵うと思うのか!?」
「シニョリーナの攻撃が効いているように見えたか!? あの敵は、オレが見せた回転の奥義を常に使っているようなものだ。
 ほとんど全ての衝撃が受け流されてダメージになっていないように見えた……!
 それにあの敵の速度……、追ってこられれば逃げられない!」

 暗闇の通路は爆風と粉塵に紛れ、彼女たちの戦闘の様子はほとんど伺い知れない。
 しかし、メルセレラの怒号は少しずつ息が上がって行っているようにも聞こえる。
 時折、ピンク色の殺人的な閃光が輝きかけて一帯の様子が映し出されるが、メルセレラは即座にその光が放たれる前に敵の口腔内を爆発させていた。
 宮本明は、そのピンク色の光線に、やはり先ほどと同じく死の予感を見た。
 メルセレラの反応が少しでも遅れれば、彼女がその光に飲み込まれて死ぬのは確実だった。
 義弟が語気を強める。


「このままでは彼女もオレたちも犬死にだ! ここで仕止めるほかにない!」
「……あのヒグマがやるって言ってたじゃねぇか! それこそ、有言実行させてやれよあいつの言った通りにさぁ!!」
「有言実行だと!? こんな時にまで末節の言葉尻にかかずらうのか馬鹿者!!
 お前の死んだ仲間やオレたちに、お前は何て言われると思うんだ!?
 意地を張るばかりで……、彼女に対し欠片ほどの敬意も、お前は抱けないというのか!?」

 宮本明の反駁は、完全に義弟の逆鱗に触れているようだった。
 しかし明はそれでも、吐き捨てるように叫びながら彼の手を振り払うのだった。


「――チクショウが! 俺がヒグマを敬うなんて、『できるわけがない』だろ!!
 俺は左腕いかれてんだ! 今更何をしに行けるってんだ!!」
「誰がそう言った! お前は何にだってなれる!!」


 そして振り払われた手で、義弟はなおも明の襟首を掴み直した。


「それがジャック・ブローニンソンに敬意を払う者の姿勢か!?
 お前は! お前は、アイツになるんだろう!?
 アイツが腕を食われ、脚を食われた時、アイツはそんな言い訳をして逃げたのか!?」


 ウェカピポの妹の夫が掴んでいた襟は、彼の羽織るジャケットだ。
 繰真晴人と交換していたその黒いレザージャケットは、確かに彼の決意の印だった。
 それは甘えと決別し、心身で『ブロニー』というものを理解するための、彼なりの流儀だった。
 『Twilight Sparkle――Jack Browningson』と記された、流麗なサインとポニーの絵は、見ずとも彼の脳裏に、描かれている。

 たとえ吸血鬼だったとしても 斧神や隊長のように、明が心から敬意を払えた対象は、いた。
 たとえ敵だったとしても、心に湧き上がる敬意は、親愛の情は、偽りなきものだった。
 明はグッと目をつぶり、そして見開いて言い放つ。


「……チクショウ。ああ、チクショウチクショウ!! そうだよ!!
 敬ってやるさ! ポニーだろうとヒグマだろうと、『俺はお前らのブラザーなんだ』ってな!」


 ほろほろと蒼黒い思いが、覗いた。


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


「き、きりがないわ……。なんて底なしのヌプル(霊力)……。
 アタシはもう十分アンタの力はわかった……。素晴らしいわ。もういいんじゃないの?
 どうしてもアンタは、相手をカントモシリ送りにしないと気が済まないわけ?」

 メルセレラは、ほとんど限界だった。
 自分がどれだけ空気を過熱し、ありとあらゆる手で攻撃しても、赤い髪の毛をして黒い服を着た相手の少女は、全くこたえないのだ。
 そして相手は攻撃に一切の想いも籠めておらず、ただ効率化されたパターンに基づいてメルセレラを殺そうとしているのみだ。
 ただ魔力と体力を消耗するだけの徒労が繰り返される。

 自分が何をしても認められることはなく、相手は完全に自分を拒絶したまま。
 そのまま自分は終わろうとしている。
 ソウルジェムの輝きは濁っている。
 自分の姿を人間にしてまで認められたかった彼女が、何をしても認められなくなる――。
 それこそ、彼女の絶望だった。
 この赤毛の殺戮機械は、メルセレラの絶望に他ならなかった。

 ――ああ、まるで、今日までの意固地な、アタシ自身みたいね……。

 その理不尽な赤毛の殺人鬼の姿に、メルセレラは今までの自分を見るかのようだった。
 斬り立てられたメルセレラの上に、そしてついに、避けようもない爪の一撃が、振り降ろされようとした。
 その時だった。
 流星のような鉄球が、メルセレラの空に希望を投げるように飛来した。


「『壊れゆく鉄球(レッキング・ボール)』!!」
「レサク(名無し)!?」


 鉄球の回転が、襲撃者の爪を弾きその腕を砕く。
 衝撃波で左の視界が消える。
 そしてあたりに紙片が舞った。

 消え残ったメルセレラの右の視界から、手負いの青年が走り来る。
 襲撃者の左側へと、いがみ合っていた時間とありったけの敬意を敬意を込めて、宮本明が腕を振り被っていたのだ。

 明の腕が螺旋を描く。向日葵の花が咲くように、彼の手は真っ直ぐにその襲撃者へと突き出される。

 ミロのヴィーナス。
 リコリスの葉。
 モナリザ。
 五芒星。
 雪の結晶。
 ひまわりの花。
 アンモナイト。
 手掌の静脈透視像。
 巨木。
 ロマネスコ。

 明の視界の全てが、黄金長方形で埋まる。
 瞬間、逆巻いた彼のジャケットが、左腕に突き刺さっていた骨の矢ごと、裏返りながら襲撃者の顔面にへばりつく。
 複雑に生えていた骨棘も逆巻き、その全てが明の腕から抜けて少女の顔面へと突き刺さった。


「おおぉ、ブレイクアウト!」


 そして晴人のレザージャケットの上からさらに、宮本明はその少女へ全身全霊で、ドリルのように回転する丸太を叩き付けていた。
 数多の吸血鬼を、邪鬼を砕いて来たその一撃で、少女は紙屑のように通路の奥へと吹き飛んでいった。


「無事だったか、美色楽女士! よくぞここまであの強敵を凌ぎ戦い続けた!」
「なんとか間に合ったな。とても気持ちが良いし素晴らしい戦いだった、シニョリーナ」
「あ、あ……」

 満身創痍だったメルセレラの体を、李徴と義弟が抱き留める。
 呆然とする彼女の目に映ったのは、失血にハァハァと息を荒げながらも力強く笑う宮本明の姿だった。


「……俺たちが生きるために、当然のことをしたまでだよ」


 涙がメルセレラの頬を伝う。
 彼の姿は紛れもない希望だった。
 見つめ合うのに耐えかねて、明は泣き笑う彼女から目を逸らし呟く。


「……ブロニーとして、俺はお前らも敬うんだからな」
「イヤイライケレ(ありがとう)……」

 明は照れ隠しのように、決意のように、強く言い放った。
 他人に認めてもらえたその言葉は、メルセレラの希望に他ならなかった。


「この娘、心(ハート)を落としていたのか……!? それで何者かに操られて……?」


 その時義弟は、吹き飛ばされ動かなくなった襲撃者の様子を確かめに、その少女の体の方に近寄っていた。
 再び敵が動き出さないか警戒しながらにじりよっていた彼の目に留まったのは、床に落ちたピンク色の可愛らしいハートだった。
 作り物のそのハート型は、その少女の現在の様子を皮肉に語っているようでもある。
 義弟はそれを拾い上げ、やるせない溜息を吐いていた。


「もう少し早く降りれていれば、この少女も助けられたのやもな……」
「ああ……、ちっとも救いがねぇし、かなりの痛手だった。せめて手がかりを……」


 追ってきた李徴が義弟に声をかけた、その瞬間だった。
 彼の視界を、閃光と高熱が埋めた。


「ぐおおおぉぉぉ!?」
「義弟さん!?」


 突然、義弟の持っていたハートが爆発したのだ。
 ウェカピポの妹の夫の右手は、携えていたデイパックごと吹き飛ばされていた。
 回転を用いて爆発の衝撃を移動させることもできず、至近距離で爆発を受けた彼は右半身を中心に血塗れになり、砕け千切れた右腕や肩に肉の色を覗かせて倒れ悶える。

 信じられないその事態に、明たちは狼狽する。


「嘘だろ!? 何が起きたんだ!?」
「ぐ……、があ……あ……」
「ア、アフガン戦争やチェチェン紛争でも使われた、玩具を模した爆弾の一種だ!
 わざと興味を引くように作られ、不用意に拾い上げた者を殺傷する……!
 この吐き気を催すえげつなさ……! 間違いなくこいつは、黒幕の尖兵だ!!」


 この現象にいち早く反応したのは、李徴だった。
 彼は悶える義弟の襟をくわえて、急いで通路の手前に引きさがる。
 瞠目する彼らの前で、ジャケットに覆われて倒れていた少女の肉体が、がたがたと痙攣しながら起きあがってくる。

 メルセレラを支える明は、そして唐突に理解した。


「ダメだったんだ……、このスケールじゃ……!
 紙に印刷されたまがい物の長方形じゃ、本物の黄金の回転にならなかったんだ……!!」


 印刷されたモノは、細かいインクの点でできている。
 それは無限の回転を再現しようとしているだけの、有限の大きさをもったコピーだ。
 インクの点の奥に、回転は続いていかない。
 どれほど大量の美しい黄金長方形を並べても、そのまがい物を真似している限り、明の作る回転に、敵を打ち砕ける力は籠もらなかった。

 真っ黒なボディースーツに包まれた襲撃者から晴人のジャケットが落ちると、そこにはまったく端然とした、赤毛の少女の虚ろな表情があった。


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


「うおあぁぁぁぁぁ――!!」
「ソスケ・ピラ・レラァァァ――!!」
「しっかりしろ妹夫ぅぅぅ――!!」


 地下の通路を西方へ辿っていた黒騎れいが、遠くからかすかな叫び声を聞いたのはそんな時だった。


「戦闘――!? 誰かが戦っているの!?」


 悲痛なその声に、ざわりと血液が逆流するようだった。
 急ぎ足を早めた彼女の耳に程なく、せわしない爆音や剣戟の金属音が届いてくる。
 角を曲がった彼女の目に、地に落ちた松明に遠く照らされている戦いの様子が映った。

 そこでは闇に溶けるような真っ黒なボディースーツを纏った赤毛の少女が、猛烈な勢いで両の爪を閃かせていた。
 間違いなく、人型のヒグマか何かだ。

 そしてそこに応じているのは一頭のヒグマ――李徴子と呼ばれていた者だ。
 彼の動きは、まるで少女の攻勢についていけていない。
 彼はただ、毛皮や肉の厚いところで爪を受けて、少しでも少女の攻撃のダメージを凌ごうとしているのみだ。
 彼はその背後に、人間の男女を3人も守っている。全員がひどい怪我を負っているようだった。


「うがっ……、ぐおぉ――!?」
「離れろ! 離れなさいエパタイ(馬鹿者)!!」
「チクショウ! しっかりしてくれ義弟さん!!」
「ぐ……、うう……」


 自分の身を挺して盾となっている李徴のダメージを少しでも減じようと、民族衣装の様なものを着た女性が空間に怒号とともに小爆発を起こして襲撃者の爪を弾いている。
 しかし、その抵抗も微々たるものだ。
 今にも少女の爪は李徴の骨と内臓までを抉り、その背後の男女までを切り裂きそうだった。


 ――助けるしか、ない!

 れいはそう思った時、既にその手に烏漆の弓を構えていた。
 幸いまだ、通路の先の誰にも気づかれていない。
 しかし、その弓に光の矢をつがえて、彼女は逡巡した。

 ――誰に、誰に向けて撃てばいい!?

 わからない。
 黒騎れいがその矢でできることは、射抜いた相手を強化することだ。
 ここでだれか一人を強化するだけで、この戦いを切り抜けることができるのか。
 今までれいは、自分の判断で強化した者の選択が正しかったのか、自信がもてなかった。
 これまでに放った自分の矢が、誰か一人でも救うことに繋がっただろうか?
 事態を混乱させるだけさせて、ヒグマも人も結局、自分は誰一人助けることができなかったではないか。
 果たして敵は、本当に今攻撃している少女なのか?
 救うべき相手は、本当に今抵抗しているヒグマたちなのか?
 この行為の先に、四宮ひまわりは――、自分の救うべき友は、いるのだろうか?
 何も知らぬれいは、その答えを見つけられない。

 ――ならばもはや、その指先は自分の判断にあずけるべきでない!

 楊幹麻筋の心を以て、黒騎れいは断じた。


「草葉の陰でサボらないでよ、狛枝凪斗!!」


 れいは、狙いをつけなかった。
 そして全てを運に任せた。
 引き絞り、目をつぶって放った矢は、ヒグマになった李徴子へと飛んでいた。


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


「ああるううううううう――――」


 その瞬間、李徴の体から光が溢れた。
 迫っていた襲撃者の少女は、その光に弾かれて床に着地する。
 次の瞬間、彼女の元へ逆に襲い掛かる影があった。
 少女は、その爪を振り上げて、影を返り討ちにしようとした。
 しかしその影は少女の右手の爪を捉え、逆にその牙で微塵に砕いていた。


「今日爪牙誰敢敵――」


 その影は、虎だった。
 ヒグマほどもある巨大な体躯の、白く輝くような一頭の虎――。
 黒騎れいの視界に、襲撃者の爪を噛み砕き着地したその雄大な獣の背中が大きく映っていた。
 赤毛の少女は、その時ぱっくりと口を開いた。
 そして突然、ピンク色の閃光が、れいの視界を埋めた。


「ひっ――」


 しかしいつまでたっても、体に衝撃は来ない。
 はっとした彼女の目に映ったのは、自分の襟をくわえて壁面に爪で張り付いている一頭の虎だった。
 この虎が、襲撃者の放った巨大な光線の射線上から、一瞬にして黒騎れいを救い出していたのだ。
 虎はニヤリと笑い、彼女を背中に放り乗せると、再び襲撃者の少女に向けて走りだしていた。


「ヒグマの糞を体中に塗りたくっているのか! それで体臭を隠し、今まで完全に姿を隠していたとは……!
 礼を言うぞ姑娘(クーニャン:娘さん)。うら若き乙女なのにとは言うまい、何という覚悟と技量か!」
「したくてしてるわけじゃない……!」
「いずれにせよ我は……、お主のお陰で、戦える!!」


 黒騎れいが染みついた便臭に羞恥心を抱こうが、そんなことは些末にすぎる。
 この博学才穎たる才の非凡を窺わせる声音、烏(ああ)、聞き間違うことなどあろうか。
 この虎は、人虎は、我等が人殺しの小説家、羆と化していた社畜、隴西の李徴その人に間違いなかった!


 虎と熊の強さは、しばしば議論になるところである。
 熊の中でもヒグマの場合、往々にして虎よりも体格に優れ、その一撃の重みと、毛皮と皮下脂肪による防御力は並々ならぬものがある。
 しかし同じ食肉目でも、元来雑食の熊に対して、虎は純然たる肉食の動物だ。
 獲物に致命傷を与えるための牙の大きさと鋭さ、スナップの利く爪による多彩な攻防技法、そして瞬間最高時速80km、平均時速60kmを越える圧倒的な機動性能の優位性は揺るぎない。
 一概には甲乙つけがたい能力を持っている両者だが、もしその精神が同一のものだった場合、そしてもしその体格さえも同等だった場合――、一体どちらの肉体の方が戦いやすいだろうか。

 それは完全に、その者の内奥の本質によるだろう。
 しかし李徴の場合、自他の精神を打ちのめす尊大な羞恥心と臆病な自尊心、若くして虎榜に名を連ねる知識と構文技法、そして一瞬にして七言律詩から排律詩までを口ずさめる圧倒的な当意即妙の優位性は揺るぎなかった。
 彼の心は、防御力など持ち合わせていない。まるで鉄球のようにただ突き進み、破壊のための攻撃力と速さだけを身につけた、虎に他ならなかった。

 今までの李徴は、自分が自分でないような、そんな感覚に終始つきまとわれていた。
 歪んだ自分が、この島でさらに歪んでしまったような気持ちの悪さがあった。
 しかし今、彼の手足は、これ以上ないほどに彼の心に馴染んでいる。
 決して人間の姿ではないのに、李徴はこれこそが、自分の本来の姿だったのだろうとすら思った。
 このパロロワがヒグマ・ロワイアルと呼ばれていようがいまいが、だ。

 自分は人殺しの小説家だ。
 自分は人殺しの虎だ。
 自分は何にでもなれるのだ。
 どんな姿になっても、自分にも帰るべき流儀があったのだ。
 自分はようやく『穴持たず』となった。
 一切の瑕瑾も穴も持たない、完全なる自分となったのだ――!!

 李徴は、有らん限りの歓喜と憤怒とを込めて慟哭した。


「ゆうるいいいいいいい――――」


 高速で攻め寄る李徴に向けて、赤毛の少女もまた迎え撃たんと飛び掛かってくる。
 その迎撃を避けながら、李徴は自分の背から黒騎れいを、宮本明たちの方に放り捨てた。

「ひいっ!?」
「『晋書・桓温伝』――、『常山乃蛇勢』!!」

 そして彼は壁を蹴り、更に速度を上げて赤毛の少女に応戦した。
 まるで二頭の虎が敵を挟み討ちにしているかのような、超高速機動からの爪牙の連打が少女を打つ。
 その双爪の密なるは雨の如く、脆快なること一挂鞭の如し。
 虎の体躯から繰り出される迅速強猛な発勁の乱打は、そしてついに応じていた少女の防御をこじ開け、そのあばらに強烈な打撃を加え叩き飛ばしていた。


「うるるるああああ――――!!」
「り、李徴、お前なのか!? お前がやったのかよでかしたじゃねぇかチクショウ!」


 その姿に、宮本明の快哉が湧く。
 『羆』という漢字は、元々『網で捕らえた熊』を表す文字だ。
 その字義に照らせば、今の李徴はまさしく、己を支配していたクマの精神を凌ぎ、確固たる自分の存在の内側に捕らえた『羆』に他ならなかった。

 されど油断なく身構える白虎の李徴の視線の先で、少女はなおも立ち上がり、その左腕を弓のように開いて、そこから骨の矢を取り出していた。
 その現象を初めて目の当たりにした黒騎れいを始め、一同は畏れに歯噛みする。


「え……!? あの爪を受けて起き上がってくるの……!?」
「チクショウ! あの弓矢だ! 絶対に誰かに刺さるぞチクショウ!!」
「該死(ガイスー:死に損ないめ)! 美色楽女士、妹夫を連れて逃げるぞ!!」


 虎となった李徴でもあの襲撃者を倒しきれないのならば、この一行はもはや逃げるしかないと、そう思われた。
 李徴や宮本明が狼狽して引き下がろうとしている中で、辺りを見回していた黒騎れいの指に、触れるものがあった。
 それはつい先ほど、地上でも触れたものだった。

 布束さんの針――!

 薬剤の結晶でできたそれは、ウェカピポの妹の夫のデイパックから、ハートダイナマイトの爆発に乗じて吹き飛ばされていたものの一本である。
 この赤毛の少女が人型のヒグマならば、それは恐らく一定の効果を発揮するはずだった。
 黒騎れいは、自分の肩に狛枝凪斗の運勢が乗っているのを、確信した。


「弓矢に頼っているようじゃまだ二流――!」


 黒騎れいは身を翻しながら、少女が骨の矢を放つより早く、全身のバネを使ってその針を少女の左腕に向けて投げつける。
 そして針が突き刺さった瞬間、少女は左腕を起点として即座に脱力し、その場に膝をついていた。


「敵を倒すだけなら、烏漆の弓も粛慎の矢も要らないわ――!!」
「エパタイエパタイエパタイエパタイエパタァァァァイ――!!」


 直後、動きを鈍らせたその少女の肉体が、突然の連続爆発で吹き飛ばされる。
 今まで狙いをつける隙を虎視眈々と窺っていたメルセレラが、黒騎れいの動きに同調してその能力を行使していたのだ。
 そして彼女は、自分も満身創痍ながらも笑みをほころばせて、黒騎れいの手をとり、下水まみれなのも気にせず握手していた。


「アンタ、暫くぶりじゃない! ラマッタクペのお陰で少しは名を上げられたみたいね!」
「え……?」

 その声色と能力に、確かに黒騎れいは覚えがあった。

「穴持たず45の……、メルセレラ?」
「そう! そうよ! アンタの名前は、黒騎れいよね!? 私も覚えてるわ!」
「ええ……?」

 なぜメルセレラが人間の肉体になっているのか、れいには理解不能だったが、今それに頓着している余裕はない。
 彼女たちは既に、最も重傷であるウェカピポの妹の夫を支えて、この場から立ち去ろうと体勢を立て直しているところだった。


「もう大丈夫だ! 義弟さん、しっかりしろ!」
「レサク(名無し)! まだいけるわ! 諦めんじゃないわよ!」
「ああ……、そうだ……。いける……。オレは、壊せる……」

 しかしその渦中で、半身を血塗れにしたウェカピポの妹の夫は、逃げる方向に進まなかった。


「義弟さん……!?」
「とどめを刺す……。敵を内側から破壊する……、護衛官の最大の技法で……」


 彼は明たちの手を振り払い、熱に浮かされたような眼差しで、無事な左手に鉄球を掴んでいた。


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


「妹夫の最大技法だと!? 相手も弱っているはずだ! 今ならいけるのか!?」
「あいつを仕留められる回転があるのか!? 頼む義弟さん! 見せてくれ!!」

 李徴が、宮本明が、息を呑んだ。
 彼らの先で、襲撃して来たボディースーツの少女は、まだ微かに動いている。
 これだけ各人が攻撃を重ねても、その殺戮者に対しては、せいぜいが時間稼ぎにしかならないのだ。
 もし後顧の憂いを絶てる手段があるというのならば、使うタイミングは今しかない。

 しかしウェカピポの妹の夫は、その意識すら混濁しているように見えた。

 すきなはずだったもの――、
 てにいれたかっただけ……。
 ちからこめることなく――、
 つつみこんでいたなら……。
 オレが去ったと、言ってくれるな――、愛しているんだ――。

 彼は背後の明たちにではなく、ここにいない誰かに向けて、何か口中で呟いているようでさえあった。


「ああ……、よく見ていてくれ……。オレはこれしか……、できない男だから……」


 その懇願は決して、明たちに対する返事では、なかった。

 そして立ち上がりゆく少女の姿に向けて、義弟はその左腕を振り上げる。
 全身を使った回転が、彼の手から鉄球に伝わり、強烈な振動を生む。


「オレは鉄球のように、ただ突き進み来た――!!」


 ――もうオレには、そんな生き方しかできない。
 この手に持つ鉄球のように、突き進み挽き潰し壊すだけの生き方しか!

 ウェカピポ、お前だってそうだったはずだ。
 引き下がることなどできないオレとお前が、ぶつかり合うのは当然だったんだ。
 それでいい。
 それでいいんだ。
 妻を優しく抱き留める手は、オレにはもう要らない。
 王族に仇なす者を共に壊し尽くしてきたお前の力を、今この手にくれ!
 ウェカピポォォォォ――!!


 渾身の一投が少女に迫る。
 しかしその鉄球が彼女に命中する寸前で、少女はその機能をほとんど再起動させてしまっていた。
 沈み込んで鉄球を躱しながら、彼女は一気に義弟に向けて走り寄る。 
 明の口から、絶望にも似た悲鳴が上がった。


「外した!?」

 だが義弟は、さらにもう一つの鉄球を掴み、叫んでいた。


「壁を壊すための手で、オレは壊すんだ――、全てを――!!」


 ――あいつを壊してしまったこの手で、オレはこの壁を砕く。
 ――立ち塞がる敵を、障害を、しがらみを――!!


 その時、義弟に襲いかかっていた少女の背中に、重い衝撃が走る。
 外したと思われた鉄球が、研究所の壁で反射し、彼女の背中に猛烈な回転を帯びたまま突き刺さったのだ。
 それはまるで、相対していた友が、好敵手が、義弟の為に投げてくれた一球のようにすら思えた。

 衝撃に反り返り隙を晒した襲撃者の間合いに、一気に義弟が踏み込んでいた。


「壊すための(レッキング)――、鉄球(ボール)ゥゥゥ――!!」


 掴まれ回転した鉄球が、抉り込むようなパンチと共に、そのまま襲撃者の胸骨にめり込む。
 背骨と胸骨の両方から、回転しながら襲撃者の心臓を挟み込んだ2つの鉄球は、そしてついに、それの中央でぶつかり合った。

 バヅン、と、何かが弾ける痛烈な音が立った。

 骨と心臓を砕いた2つの鉄球が、その胸にもぐりこんで、内側から合計28の全ての衛星を発射していたのだ。
 体内でクレイモア地雷を爆破されたに等しいその衝撃は、襲撃者の体から真っ黒な体液を迸らせる。
 これこそ、攻撃性能に全ての技術を注いだ、王族護衛官の回転による最大威力の一撃だった。

 襲撃者の少女は、爪を振り下ろすこともできずに、ふらふらと力なく、義弟の肩にもたれながら、崩れ落ちていた。


「やった! 義弟さぁん!!」
「かつん、こぷ」


 宮本明の快哉が響く中で、次の瞬間そのまま床に倒れていたのは、しかし義弟の方だった。


「――お前の心(ハート)は……、どこにあったんだろうな……」
「義弟さん!?」


 心臓を破壊されたはずの襲撃者は、崩れ落ちた義弟の肩口から、彼の首の肉を噛み千切り、捕食していた。
 彼女の体には、最初から心臓がなかったのだった。


「また始めから……、やり直せれば……、なぁ……」


 義弟はただ、虚ろな目で呟く。
 彼女に押し倒されそうになりながら、彼の左手は最後に自身の剣を掴み、迫る少女の背中に、密着状態からのラップショットを繰り出していた。
 『切断からの続開(スタート・オール・オーバー)』の一撃が強かに彼女の背骨を打ち、その腰から下の神経を分断する。

 彼の元に急いで明と李徴が駆け寄り、下半身の機能が麻痺している襲撃者から急いで義弟の体を奪い取ってくる。
 蒼白な顔から、止め処なく真っ赤な血を零し続けている彼の目からは、急速に光が失われていった。

 明が、彼の意識を連れ戻そうと必死に叫んでいた。


「最後のレッスンをしてくれよ義弟さん!! 頼むよぉ!!」
「もうとっくに……、伝えてたよ……、オレの言葉は……」
「はぁ!? なんだよそれ!? お願いだ義弟さん! 死ぬなよぉ!!」


 微笑んだ義弟の言葉は、明に向けて語られたものなのか、それとも別の誰かに向けて放たれたものなのか、わからなかった。


 ――覚えておいてくれ。
 変わらない流儀は、機縁の中にもあったんだと。

 髪や服なんか変えられるし、考えでさえうつろうもの。
 別れも出会いもあるだろうが、流儀は変わらない。

 スタイルもジーンズも変えられるし、夢を追い飛ぶこともできる。
 哀歓の世にもあるものだ……。
 帰るべき流儀は――。


「――ああ、『海』が……、見える……」


 薄れゆく彼の意識の中に最後に過ぎったのは、生まれてからずっと一度も『海』を見た事のなかった少女と、彼とその親友が、初めてその文字の『本物』を目にした時の――。
 その広い青さだった。


【ウェカピポの妹の夫@スティール・ボール・ラン(ジョジョの奇妙な冒険) 死亡】


    ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


 彼の体が、軽くなった。
 ああ、彼はカントモシリ(天上界)に行ってしまったのだ――、と、メルセレラは遠目にもそう理解した。
 軽くなったはずの彼の体は、出血の続く宮本明には、重すぎた。
 明はずるずると、彼の体を、膝の上から零れさせることしかできなかった。
 涙が一粒、血塗れの彼の体に落ちた。


「――義弟さんがいないのに……。
 俺が回転の奥義に辿り着くなんて、『できるわけがない』じゃねぇか……」
「明……!?」


 黒騎れいはただ、何度攻撃を受けても立ち上がってくる襲撃者の恐ろしさに震えていた。
 メルセレラはただ、かつての自分が行おうとしていた殺戮の悲しさをようやく感じていた。
 李徴はただ、この期に及んで、一体どんな逃走手段があるのかと絶望しかけていた。
 その中でただ一人、宮本明だけが、腰部神経を繋いで立ち上がりつつある襲撃者に向けて、丸太を掴んだままふらふらと歩み寄っていた。


「血も足りねぇ、スケールもねぇ、あるのは丸太が一つきり……」
「ちょっとアンタ……、何しに行くつもり……?」


 メルセレラの声も聴かず、ただ宮本明は、眼を怒りに燃やして丸太を担ぎ上げる。
 動脈から血を吹き出し続ける左腕を上げ、彼は目の前の少女を指して慟哭した。


「だが許さねぇ……! お前だけは許さねぇぞチクショウ――!!」


 今の彼には、丸太しかなかった。
 それはただの、切り倒され乾燥した木の幹だ。
 だがそれは、宮本明が彼岸島で、数多の吸血鬼を打ち砕き、壊し続けてきた武器でもある。
 丸太を担いだ彼に見えるのは、渦を巻くようなその年輪のみだ。
 その年輪の一筋一筋に、この木が生きてきた歴史が見えた。
 宮本明が生き抜いてきた一戦一戦が見えた。

 彼は丸太のように、ただ突き進み来たのだ。
 そんな彼の目は、まるで漆黒の炎が燃えているように、暗く光って見えた。


「やめろ明! 死ぬぞ!?」


 李徴が叫ぶのと、立ち上がった襲撃者の口に血の色の光が灯るのは、同時だった。
 しかしその中間地点にあって、宮本明は微塵も怯まなかった。
 彼の全身には、「命に代えてでも殺す」という、そんな気迫だけがあった。


「――死ぬのは、こいつだぁぁ!!」


 巨大な光線が放たれ、そして丸太が投げられた。
 その時起きた現象を、その場の誰一人として、理解することはできなかった。

 丸太は一瞬にして、その光熱によって燃え尽きていた。
 しかしまた同時に、その丸太は光を切り裂いてもいた。
 ピンク色の光が、丸太の太さを持った巨大な渦に弾かれるように散乱し、霧散する。


 ――丸太は消し飛んでも、その回転だけが残り、らせん状に空間を歪めながら高速で直進し続けたのだ。


 そして空間に残った丸太の回転は、そのまま相対していた少女の体に突き刺さり、彼女の右半身をごっそりと削り取っていた。


「きゃ、ふ――」

 襲撃者の少女から、笛のような気息音が漏れた。
 彼女は抉られた胴体から、真っ黒な液体と金属部品を覗かせて地に倒れる。

 明はそしてそのままふらふらと、幽鬼のような姿で彼女の方へ歩み続けた。
 その彼の襟首を、虎になった李徴がすさまじい形相で銜えて差し止める。


「深追いするな明! 腕からの出血が止まっていない!!
 デイパックの丸太など取りには行かせんぞ! その前にお前が死んでしまう!!」
「あ、あ……」


 李徴が引っ張ると、宮本明は糸が切れたように、ほとんど抵抗もできず地に倒れて引き摺られた。
 大量出血している彼には、本当はもう、ほとんど力など残されていなかったのだ。
 彼は、ウェカピポの妹の夫の前にメルセレラが屈みこんで何かを施しているのを、呆然と見送ることくらいしかできなかった。


「『アプンノ・パイェ・ヤン(気をつけて行ってらっしゃい)』(さようなら)……。
 本当に、イヤイライケレ(ありがとう)、レサク(名無し)さん……」
「参加者の宮本明さんよね!? 早く、このタオルで腕を縛って!!
 メルセレラが時間を稼いでくれる! 今のうちに地下を出なきゃ!!」


 李徴の背に乗せられた明は、人心地を取り戻した黒騎れいにされるがまま、腕の傷を縛られ、彼らが降りてきたエレベーターシャフトへと連れられて行った。
 彼らの後ろで立ち上がりながら、メルセレラは、胴体を抉られながらも肩だけで這い寄ってくる少女に向けて、哀しげな視線を向けていた。


「誰の思いも認めない……、誰にも思いを認めさせない……。
 そんな悲しいハヨクペ(冑)に、一体だれがアンタを変えてしまった訳……?
 アンタのラマト(魂)を取り戻せるヤツが、いれば良かったんだけど……」

 ここでメルセレラが再び戦っても、この少女に意識を取り戻させることはおろか、完全に破壊することも恐らく敵わないだろう。
 彼女ができることは、ウェカピポの妹の夫の肉体と襲撃者の少女を後にして踵を返し、この場から立ち去ることだけだった。


「そんなアイヌ(人間)に出会えるまで……、せめて、お休みなさい」


 襲撃者の少女はそして、ウェカピポの妹の夫の遺体にまで辿り着き、彼の肉体に触れていた。


「『アペアリクロマンテ(火を焚いて人を葬送する)』」


 その瞬間、義弟の遺体は爆発していた。
 彼女が浅倉威の遺体に対しても行なった、繊細な加熱処理による死体爆弾作成技法である。
 彼の肋骨や鉄球や衛星が、爆発と共に散弾のように飛び、少女を吹き飛ばしていた。
 それはメルセレラなりの、彼に対する葬儀でもあった。

 メルセレラは振り返ることも無く、地上へと向かった李徴たちを追った。


「何だったんだ明、あの丸太の回転は……?」


 明を銜えて、黒騎れいと共にエレベーターシャフトを上がりつつ、李徴は彼に問う。
 しかし返ってくるのは、さめざめとした嗚咽ばかりだった。


「義弟……、さん……。義弟さん……」


 朦朧とする意識の中で、宮本明は、涙を止められなかった。


【E-5の地下 エレベーターシャフト/夕方】


【宮本明@彼岸島】
状態:左腕がズタズタ、大量出血、意識混濁、疲労(極大)、ハァハァ、(『できるわけがない』カウント:2)
装備:テレパシーブローチ
道具:黒騎れいのタオル
基本思考:西山の仇を取り、主催者を滅ぼして脱出する。ヒグマ全滅は……?
0:義弟さん……、義弟さん……!!
1:観柳さんたちは大丈夫なのか……?
2:信念や意志で自分を縛るのではなく、ありのまま、感じたままに動こう。
3:西山、ふがちゃん、ブロニーさん……、俺に力をくれ……!!
4:兄貴達の面目にかけて絶対に生き残る
※未来予知の能力が強化されたようです。
※ネアポリス護衛式鉄球の回転を身に着けたようです。
※ブロニーになるようです。
※『壊れゆく拳』、『壊れゆく丸太』というような技術を編み出したようです。
※首輪は外れました。


【虎になった李徴子@山月記?】
状態:健康、虎
装備:テレパシーブローチ
道具:なし
基本思考:人人人人人人人人人人
0:妹夫、お前の教えだけでも、我は無駄にしたくないのだ……!
1:我は今こそ、『穴持たず』たる自分に、帰るべき流儀に至れた!
2:小隻の才と作品を、もっと見たい。
3:フォックスには、まだまだ作品を記録していってもらいたい。
4:俺は狂人だった。羆じゃなかった。
5:小賢しくて嫉妬深い人殺しの小説家の流儀。それでいいなら、見せるよ。
6:克葡娜(ケァプーナ)小姐の方もあれはあれで、大丈夫なのだろうか……。
[備考]
※かつては人間で、今でも僅かな時間だけ人間の心が戻ります
※人間だった頃はロワ書き手で社畜でした
※黒騎れいの矢によって強化され、熊たる精神を自分自身の中に捉えた、完全なる『羆』となりました。


【メルセレラ@二期ヒグマ】
状態:魔法少女化、疲労(大)、負傷(中)
装備:『メルセレラ・ヌプル(煌めく風の霊力)』のソウルジェム(濁り:大)、アイヌ風の魔法少女衣装
道具:テレパシーブローチ
基本思考:メルセレラというアタシを、認めて欲しい。
0:イヤイライケレ(ありがとう)、レサク(名無し)さん……。
1:見た目が人間だろうがヒグマだろうが関係ないわ。アタシの魂は、アタシのものだもの。
2:今はきっと、ケレプノエは他の者に見ていてもらった方が、いいんだわ……。
3:アイヌって、アタシたちが思っているより、ずっとすごい生き物なんじゃない?
4:態度のでかい馬鹿者は、むしろアタシのことだったのかもね……。
5:あのモシリシンナイサムのヒグマは……、大丈夫なのかしら、色々と。
[備考]
※場の空気を温める能力を持っています。
※島内に充満する地脈の魔力を吸収することで、その加温速度は、急激な空気の膨張で爆発を起こせるまでになっています。
※魔法少女になりました。
※願いは『アイヌになりたい』です。
※固有武器・魔法は後続の方にお任せします。
※ソウルジェムはオレンジ色の球体。タマサイ(ネックレス)のシトキ(飾り玉)になって、着ている丈の短いチカルカルペ(刺繍衣)の前にさがっています。
※その他、マタンプシ(鉢巻き)、マンタリ(前掛け)などを身に着けています。


【黒騎れい@ビビッドレッド・オペレーション】
状態:軽度の出血(止血済)、制服がかなり破れている、首輪に銀紙を巻いている、全身がヒグマの糞と下水にまみれている
装備:光の矢(4/8)
道具:基本支給品(タオルを宮本明に渡している)、ワイヤーアンカー@ビビッドレッド・オペレーション、『家の鍵』、リボルバー拳銃(4/6)@スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園、HIGUMA特異的吸収性麻酔針×2本、穴持たず58のハチミツ壺
[思考・状況]
基本思考:ゲームを成立させて元の世界を取り戻す……?
0:何なのあの人型のヒグマは……! あんなのが地下には跋扈してたの!?
1:杏子、カズマ、劉さん、白井さん、どうか、無事で――。
2:四宮ひまわり探しは……、ひとまず出直さなきゃ……!
3:私一人の望みのために、これ以上他の人を犠牲にしたり、できない……!
4:どんな卑怯な手を使ってでも、自分と他の人を、救う……!
[備考]
※アローンを強化する光の矢をヒグマに当てると野生化させたり魔改造したり出来るようです
※ジョーカーですが、有富が死んだことをようやく知りました。


    @@@@@@@@@@


 義弟の元に戻っていた鉄球と衛星は、メルセレラの起こした爆発の衝撃で、再び微かな回転を帯びていた。
 半身を失っていた少女に当たったその回転は、どす黒い体液に浸かっていた状態から半ば解放されていた彼女の大脳に、ほんのわずかに刺激を与えていた。


「あ、あ……」


 その少女――相田マナ――の、失調しているはずの左目から、涙が零れ落ちていた。
 爆発したウェカピポの妹の夫の遺体の上ににじり寄り、彼女は嗚咽を漏らした。


「……誰か、私のドキドキを、取り戻して……」


 呟かれたその言葉は、誰にも聞かれることはなく。
 潤んでいた彼女の左目も、回転の効果が消える数秒後には、右眼と同じく光の無い澱んだものに戻ってしまっていた。


「かつん、ぞぶん。ちゃぷ。ちゃぷ。こぷ」


 そしてまた『H』は、何の感慨も無く、ただ欠損した自分の肉体を修復するために、目の前の死肉を喰らうのだった。


【E-5の地下 研究所/夕方】


【『H』(相田マナ)@ドキドキ!プリキュア、ヒグマ・ロワイアル】
状態:半機械化、洗脳
装備:ボディースーツ、オートヒグマータの技術
道具:なし
[思考・状況]
基本行動方針:江ノ島盾子の命令に従う
0:江ノ島盾子受肉までの時間を稼ぐ。
1:弱っている者から優先的に殺害し、島中を攪乱する。
2:自分の身が危うくなる場合は直ちに逃走し、最大多数に最大損害を与える。
[備考]
※相田マナの死体が江ノ島盾子に蘇生・改造されてしまいました。
※恐らく、最低でも通常のプリキュア程度から、死亡寸前のヒグマ状態だったあの程度までの身体機能を有していると思われます。
※緩衝作用に優れた金属骨格を持っています。
※体内のHIGUMA細胞と、基幹となっている電子回路を同時に完全に破壊しない限り、相互に体内で損傷の修復が行なわれ続けます。
※マイスイートハートのようなビーム吐き、プリキュアハートシュートのような骨の矢、ハートダイナマイトのような爆発性の投網、といった武装を有しているようです。

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最終更新:2017年05月02日 15:47