僕は肋骨がない


あまりにも衝撃的な事態というのは、逆に人を冷静にさせる。
常ならばむしろ感情的に動く性質の彼であったが、今はむしろ何時も以上に理性的な思考が成り立っている。

こんなにも暗い街は初めて見た。
電灯の明かり一つない風景にそんなことを覚えた。
人よりも優れた視覚を持つ彼にはそんなことは不便にならないのだけど。

こんなにも静かな街は初めて見た。
物音一つしない風景にそんなことを覚えた。
人よりも優れた聴覚を持つ彼をしても、民家には生きた気配がなかった。

この付近に人はいないと結論付けるのに、大した時間は必要なかった。

ワイヤーに拘束され、パトカーにより搬送される最中であった筈だった。
ほんの一瞬、意識を手放した間に薄暗い広間の中に移動して。
殺しあえと宣告された。
気付けばワイヤーは外され、身体中に刻まれていた傷は嘘のように消えていた。
外科的に切り取られ、失われた肺と肋骨を除いては。

わからないことだらけなこんな時には、一人であることはむしろ有り難いことなのかもしれない。
そんなことを小さく考えた。

ほんの少し前だったら、一も二もなく飛びついただろう。
殺しただけで自由になれるなんて、天秤にかけるまでもない。
実際、そんな誘いに飛びついたのは彼の認識にしてほんの少し前の出来事だ。

今は違う。
『あんな連中の事を信じるなんて、意外とお人好しだね』
憎い”白髪犬”の言葉が耳にこびり付いている。
あんなことを言われた後では、”最後の一人になるまで殺し合え”なんて言葉に従う気なんて起きやしない。
これは実験だと言い切った、僕を”実験動物”と定義した奴の言葉なんて、今さら信じられる筈もない。
すると途端にやることがなくなってしまう。

だから、状況の意味不明さだけでなく、自分が何をしたいかすらも定められない。

なんとなしに周囲を見渡す。
誰もいない観光地に強烈な違和感を拭いきれない。

その心細さから、ゴソリと動く物音に考えなしに近づいた。
ここは街だ。人の住処だ。
こんな状況だろうと相手が人であれば、問答無用で殺し合い、なんて事態にはならないだろう。

街に熊など出るわけがないのだから。


店内は大きく荒らされていた。
在りし日の栄光は見る陰もなく、『ようこそ』と描かれた装飾は不恰好に横倒しに。
足の踏み場もないほどに棚から引きずり下ろされ、床に散乱した商品群は強盗でも現れたのかと疑わせる。

だが、そんな疑いなど一瞬で晴らすものがそこには存在した。


漂う獣臭はそれ以前に存在していた筈の空気を駆逐し、我こそが主と強く主張している。
屈みちぢこまった体躯は尚巨大であり、小さな店舗内空間をさらに控えめなものとしている。
ヒグマである。

そこには巨大な穴持たずがいた。

賢明なる読者諸氏にはとうの昔に周知のことであるとは思うが、穴持たずは巨大故に人に恐れられたのではない。
エサを求め人里に下ってきたからこそ恐れられたのだ。
故にそこに穴持たずがいたことは自然このうえない事でしかなかったのだが、そのことを彼は知らなかった。

予想外の事態に彼が取った行動は、あらん限りの悲鳴をあげながら背中を向け逃げ去る、それだけである。


運がよかったとしか言いようがない。
野生動物を無駄に刺激し、背中を向けて走り出すなど自殺行為以外の何物でもない。
それでも傷一つなく生き延びているのはいくら幸運を感謝しても足りないほどの僥倖ではあるのだが、彼はそんなことに気付かない。
彼の肉体的欠陥は、車にも迫る全力疾走と心理的動揺のツケを求めている。

「カアッハアッ!ガアアアアー!」

指が震える、全身が痙攣する、苦しさが充満する。
その爪を、唇を、紫に染めながら必死に呼吸をしようと痛烈に咳き込む。チアノーゼ(酸欠症状)だ。
支給された荷物を漁り、携帯用酸素ボンベを押し付ける。
少しずつ、呻きは小さくなり、少しずつ、自立呼吸が成り立ってくる。

弱々しい呼吸は弱気の虫をも引き寄せ、次第にそれは攻撃的な方向に表出する。

「ふざけるな、ふざけるなよ、チクショウ!」

なんで僕ばかりこんな目に合う!

クマである、バケモノである、ならば”人間”の僕に勝てる訳がないじゃないか。
当たり前である。常識的であると言い変えてもいい。
そんなことを叫ばざるをえない不合理な精神性は、まさしく”人間そのもの”と形容してもいいものだろう。
実母を含め、二十三人の人間を殺害した“有害指定生物”高橋幸児はわめき散らす。

いや、そんだけ殺ってれば、大抵のことは自業自得だろうに。

仮にこの場に事情を知る”公正な一般人”などという人種が存在すれば、そんな感想を抱いたのかもしれないが。
それとも、どれだけの事をしようが”ヒグマに殺されるか、人間を殺すか、好きな方を選べ”なんて選択肢を与えられるのは理不尽であると共感するだろうか?
どちらにせよ、ここにはそんなものは存在しない。

「僕は人間だ、人間なのに、なんで……っ!」

なんであんなバケモノと同じ風に扱うんだ!

他者の目が存在しない空間で一人憤りを発散する。
利益などどこにもない、ただ感情を吐き出すためのそれは無様である。
”負け”を頭に意識した上での遠吠えとあれば尚更だ。

「僕は違うのに、あんな奴らとは違うのに……!」

勝てる訳がないのだ、それは常識ではなく、”実体験として”彼の身に刻みこまれている。
人間に負けることなんてありえなかった。僕は”世界で最強の人間なんだ”と思った。
だから、僕を”バケモノ”扱いした奴らを殺した。
そうしているうちに、本当の”バケモノ”たちがあらわれて僕を捕まえた。

思えば、あそこにも一匹クマがいた。
大きかった、速かった、強かった、手も足も出なかった。
きっとここにいるヒグマたちもああいうバケモノなんだろう。

「なんで僕だけがこんな目にあうんだ……!」

同じ筈なのに、同じ半端者の筈なのに、人でもアヤカシでもない二重雑種(ダブルブリッド)の筈なのに。

社会に受け入れられた白髪犬を思い出す。
一人ではない白髪犬を思い出す。
怒りが浮かぶ、憎しみが生まれる、殺意が強まる。

「こんなところで死んでたまるか、あんなものに殺されてたまるか……」

気付けば主催者など、どうでもよくなっていた。
ここ何年もの間、それは常態となっていたことで。
全ての憎しみは、白髪犬へと向かう。
自分と同じ筈なのに、自分の苦しみを知らない白髪犬に同じ苦しみを与えたい。

脳を斬り開かれ、内臓を抉り出される毎日の中、白髪犬への憎しみだけを生への原動力として生きてきた。
結局それはこんなところでも変わらない。ただ復讐を果たすために、彼は死ねない。

手段はまだわからないけれども、生きるのだ。
それだけは確実に、彼自身が望む意思。

【C-6街・民家/深夜】
【高橋幸児@ダブルブリッド】
状態:疲労、ちょっと右肺と右側の肋骨が無くなっている
装備:
道具:基本支給品、携帯用酸素ボンベ@現実、ランダム支給品1~2(武器ではない)
基本思考:死にたくない、白髪犬への執着

※参戦時期は二度目の捕縛後です。


ヒグマである。
ぐしゃぐしゃになった包み紙が散乱する中。土産物屋の一角で一つの区切りがつく。
目につく食べ物を全て食いつくしたのである。

途中、後方でうるさい音が聞こえた気もするが無視してまで喰らい続けた結果である。
それほどまでに穴持たずは飢えていた。

飢えに狂えば樹すらも喰らうのが熊である。
そうして樹皮を齧り取られ、その生を終えた樹木も少なくはない。

その爪は床を裂き、天井を掻き、牙は明らかに食べ物ではないものすらも噛み締め始める。
手頃な大きさであればなんでもいいと、ガジガジと手あたり次第に噛み砕く。

ガジガジと。
テーブルが破壊される。
ガジガジと。
椅子が粉砕される。
ガジガジと。
熊が鮭をくわえている木彫りの置物が咥えられる。
ガジガジと。ガジガジと。ガジガジと。ガジガジと。

その口が展示されていた木刀に向かい、ヒグマは飢えから解放された。



その木刀は、童子斬りと呼ばれていた。
それは特異遺伝因子保持生物……通常の生き物の枠組みを越えた生き物を、そうじゃない生き物が”殺す”ための兵器である。

この木刀に寄生された生き物は恩恵を受ける。
食事や睡眠を必要としなくなり、枝を土に刺して水分と養分を吸収するだけで活動できるようになる。
飢えはこうして失われた。

この木刀に寄生された生き物は支配を受ける。
少しずつ思考を奪われ、そのうちバケモノを殺す、ただそれだけの機能となる。

ウゾウゾと、足先に根を張りながらヒグマは外へと歩きだす。
目的は、バケモノの抹殺。

【C-6街・土産物屋前/深夜】
【穴持たず14】
状態:損傷なし
装備:童子斬り@ダブルブリッド
道具:無し
基本思考:バケモノを殺す


No.036:(無題1) 本編SS目次・投下順 No.038:鎖国
No.036:(無題1) 本編SS目次・時系列順 No.040:一流の仕事
高橋幸児 No.069:命名
穴持たず14 No.071:ひとりぼっちになる程度の……

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2014年12月14日 21:15