松明の明かりを頼りに長い階段状の岩肌を慎重に降りていった先には、自然の洞窟とは思えぬ程、いかにも不自然に何者かによって踏み整えられたような平らな足場が広がっていた。そしてその足場に立つと同時に、酷く焼けつくように肌に纏わりついていた空気が一気に重苦しさを増していくのを、カタリナは確かに感じていた。

(・・・この重圧、まるで四魔貴族に相対するかのよう。これが世界に名高い竜の気配か・・・)

 最早この奥にグゥエインがいるであろうことは明白であり、カタリナは空間が思いの外広々としており動き易さがあることに胸を撫で下ろしながら、いざという時のための算段を頭の中にいつくか思い浮かべつつ、気配の濃くなっていく方へと進む。
 すると程なくして、これまでは松明の明かり以外に全く頼るもののなかった暗黒の視界の中に、ふと煌く光の筋がいくつか見えてきた。

「・・・奥に、何かあるわ」
「・・・そのようですね」

 小声でフェアリーと囁きあいながら慎重に光の方へと進んでいくと、やがてその光の正体は、洞窟の天井に空いた穴から差し込む陽光に照らされた大量の貴金属だということが分かった。
 そして同時に、その後ろに『在る』ものへと強制的に視線が移る。
 そこには、煌びやかに輝く膨大な量の貴金属類にて積み上げられた小高い丘の上に、陽光を浴びながら四肢で鎮座し首をもたげてカタリナ達を見つめる、一頭の雄々しき巨龍の姿が在った。
 ある種の神々しさすら纏ったその姿を、カタリナは固唾を飲みながら視界に収める。
 竜の外皮部分は如何にも頑強そうな鈍色の鱗に覆われているが、首筋から腹部へと向かう部分は仄かに燃える炎の色をしている。
 その全身はカタリナの優に数倍はあろうと思われる大きさであるものの、しかし鈍重な印象は一切受けられない。寧ろ外皮の色彩と相まって、その姿は一振りの鋭利にして巨大な剣を思わせるようだった。
 そんな感想を抱きながらカタリナが竜を見ていると、ほんの一瞬、互いに視線が交わる。
 すると竜は、まるで来訪者たちを歓迎するかのようにその両翼を大きく開いて後ろ立ちになり、そのままゆっくりとカタリナを真正面に据えるように姿勢を変えて座り直してみせた。
 広げてみれば外皮とは全く異なる美しい深紅の翼が織りなす竜の姿は、まさかこの存在が世間に忌み嫌われる悪竜であろうことなど全く信じられないかのように神々しくすら思われ、またその姿でどうしようもなく追憶の念にも駆られ、カタリナは暫しその姿に意識を奪われたのだった。
 すると言葉を紡げずにいたカタリナの前にフェアリーが先ず飛び出し、竜の頭部の真正面まで飛び上がりながら、竜へと語りかけるように見つめる。元々の予定通り、先ずはフェアリーから念話での意思疎通を図ろうとしたのだ。
 だがその行動に反応した竜は、フェアリーの言葉をかき消すように、大きく鼻息を吐いた。

『良い。人語は交わせる』

 陽光に照らされるその外皮を僅かに震わせ、竜の声が空間に響く。その声は想像していたよりも若く精力旺盛なようにも聞こえ、また老成した賢人のようにも聞こえる。人では出すことができぬであろう、不思議な声色だった。

「・・・ここまで導いてくれたのは、やっぱり貴方だったんですね」

 竜の言葉を受けて頷いたフェアリーが声を上げると、竜はそれに答えるようにして視線を細めた。

『人間だけで来ていたのならば、単に『帰れ』としか言わなかっただろうがな。我が住処に妖精族の来訪など、三百年生きてきた中でも初めての経験だ。こんな機会を逃す手はあるまい』

 竜はちらりとカタリナへ視線を投げかけると、フェアリーへと向き直ってそう言った。
 その様子からカタリナは、どうにも自分が殆ど相手にされていない様子であるを察して大変に不服に感じる。が、しかしてそんな事もあろうかとフェアリーに同行してもらったのは矢張り己の賢い選択であったと思い直した。更には相手が人語を解し操ることができることは正に僥倖であると判断し、カタリナも負けじと一歩前に出る。

「私はロアーヌの騎士、カタリナ=ラウランと申します。貴方が・・・ドーラの子グゥエイン、ですね」
『・・・如何にも。我が母はドーラであり、我こそがグゥエインだ。人間よ、妖精族を連れ、一体ここに何をしに来た。まさかその矮小な体一つでこのグゥエインを討伐し、我が財宝を奪いにでも来たか?』

 まるでせせら嗤うかのように口角を震わせながら、グゥエインが言葉を発する。その言葉と共にグゥエインから発せられる圧が目に見えるように上昇し、思わず体が勝手に臨戦体勢に移行しようとする。それを理性で懸命に抑え付け、カタリナは首を横に振って見せた。

「いいえ、そのような用件ではありません。私は、かつて聖王様が辿ってきたであろう道を歩み、貴方と話をする為にここまで来ました」
『・・・聖王。我が母を滅せし者の道を辿ってきたとなれば、矢張り我を滅しに来たということではないのか?』
「わた・・・!・・・いえ、聖王様は・・・決して望んでドーラを滅したわけではありません。ただ・・・今はそのような話をしに来たわけでも、ありません」

 不意に訪れた大きな感情の揺らぎに、思わずカタリナは眉間を摘むようにして頭を押さえる。今までにないほどの記憶の混濁に軽い目眩を覚えながらも、それを振り払うように軽く頭を振ってからカタリナはグゥエインへと向き直った。

「・・・私は今世界に再び訪れている未曾有の危機に対し、この世界に住む者同士として此れを共に乗り越えたいと願い、ここに馳せ参じました」

 言葉と共に自らに敵意がないことを示すかのように両手を広げて見せ、カタリナはグゥエインを見上げながら続ける。

「確かに聖王様は、貴方の母を討ちました。故に私達人間を憎む気持ちがあろうことは、理解しています。そしてまた我々人間も、数多の同胞を貴方に喰いちぎられました。故に我々の中にも貴方を忌む者がいるのも事実です。ですが・・・それでも今この時に於いては、四魔貴族という共通の敵を討ち果たす為、我々は今一度手を取り合う事が出来るのではないかと、私は信じています。どうか、貴方の言葉をお聞かせ願えませんか」

 カタリナの口上を静かに聞いていたグゥエインは、まるで何事もなかったかのように翼の付け根部分を口先で掻き、そしてカタリナに向き直った。

『・・・アビスゲートは開き始めているが、魔貴族自身が通り抜けてくるには小さすぎる。それで奴らは、おのれの影をこの世界に送りこんできている。宿命の子を見つけだし、ゲートを完全に開くつもりだ。そうなれば、ゲートを閉じることは出来なくなる。今のうちということだ』

 グゥエインの語る言葉にカタリナとフェアリーが目を瞬いていると、グゥエインはまるで人が笑うのと同じような仕草で口元を歪め、火炎混じりの息を薄っすらと吐き出した。

『・・・確かに、母ドーラは聖王と共にビューネイを倒した。そして最後には聖王に殺された。人間とは勝手なものだ。だが、それを我は特にどうとも思わぬ。竜と人とは、予めそういう宿命であると我は解している』

 グゥエインが淡々とそう語るのを聴きながら、カタリナは何故だか胸が強く締め付けられるような想いに駆られるのを感じていた。それは果たして聖王の記憶が齎す感情であるのか、それとも自分の心からくるものなのか。その判別は、彼女にはつかない。
 竜は語りを続けた。

『我は四魔貴族共がアビスゲートを開こうとも、貴様ら人間が憎しみに駆られ我を討伐しに来ようとも、何れも一向に構わぬのだ。それもまた、その者たちが持つ宿命なれば。だが・・・この世界の空に君臨するべきは、誇り高き我ら竜。ビューネイが我が物顔でこの空を飛び回るのはガマンならん。協力してやってもいいぞ』

 グゥエインのその言葉にカタリナが目を見開きながら一歩歩み出ようとするが、しかしグゥエインはそれを羽ばたく風圧で制した。

『協力はしてやってもいい。が・・・其れには先ず、貴様が我の協力者足り得るのか、その実力を試させてもらおう』

 ただそれだけ言うと、徐にグゥエインは足元の金貨を撒き散らすように力強く四肢で立ち、その圧倒的な力を示さんが如くカタリナを視線で射抜いた。
 その姿をみたカタリナは、むしろ好都合とばかりにふっと笑みを浮かべたかと思うと、ここまで抱えてきていた荷を脇に下ろして聖剣マスカレイドを抜き放つ。そして隣まで下がってきたフェアリーに控えているように伝えると、グゥエインに正面から対峙した。

「戦うつもりで来たわけではないけれど・・・貴方がそう言うのならば、示さぬ訳にはいかないでしょうね。私が貴方と共に戦うのに相応しいか、判断を願うわ」







 世界中が新たなる年の幕開けを間近に控えたその日、メッサーナ王国首都ピドナの新市街を見下ろすピドナ王宮内部にて開かれた各国要人を招いての年次会議は、ここ数年で最も波乱を予感させる様相を見せたのであった。
 この会議終了直後には瞬く間に様々な情報筋を通じて世界中に会議の様子が広まっていったのだが、何しろその内容というのは、まさに近年のメッサーナ界隈の政治的な均衡を一気に崩しかねない程のものとなった。
 歴史上三度目の死蝕直後に、現在までで最後のメッサーナ王となるアルバート王が崩御し、そこから十年を超えて今も続いている王国の内乱。その中で、旧アルバート王の系譜にて最大派閥であり五年前にルートヴィッヒ軍に破れる形で没落したはずのクラウディウス家。そのクラウディウス家がなんとこの度、宮廷内の中央政権に復帰するという事実が会議の冒頭で大々的に示されたのだ。
 しかもその当主には、今現在で最も市井の支持を一身に集めている、前近衛軍団長クレメンス=クラウディウスの一人娘であるミューズ=クラウディア=クラウディウスが立つことも同時に会議内で発表された。
 とはいえ、ここまでの内容は遅かれ早かれあり得ることであろうとは、既に世論の一部では囁かれ始めてもいた。
 その背景には、直近でのルートヴィッヒ政権の急激な求心力の低下がある。
 元より武力侵攻を発端とした血生臭い政変によって誕生したルートヴィッヒ政権は、リブロフ以外の殆どの各都市軍団長からその存在を受け入れられてはいなかった。しかしピドナの実効支配直後から彼が行ってきた中央集権を強固とするための様々な駆け引きや政策に他軍団長は個別に対抗する術を持たず、かといって横の繋がりも希薄な彼らは結局のところ、この五年間真綿で首を絞められ続けてきたのだ。
 それが、数ヶ月前に起こった神王教団ピドナ支部崩壊事件を発端とするルートヴィッヒ政権への不信感の上昇で、急に風向きが変わった。
 奇しくもこの事件の半年ほど前から、ピドナの名門メッサーナベント家が出資し旧クラウディウス商会所属の企業群を母体とした「カタリナカンパニー」の経済界台頭が大きく世界に報じられており、大規模な商いを行う貴族の間では事件による現政権への不信感の上昇と相まって、クラウディウスの系列が何かしらの形で復活するのではないか、とは実しやかに囁かれていたのであった。
 そして二月ほど前に起きた商都ヤーマスでのドフォーレ商会壊滅事件にて、いよいよ満を持してクラウディウス家の直系ミューズが大々的に事件解決の立役者として表舞台に立ち、これも瞬く間に世界に報じられた。
 これによりクラウディウスの復活を望む世論は、一気に過熱膨張していったのだ。
 故にクラウディウス家の政界復帰ということ自体は、ある意味で世間が望んだ通りの展開であるとも言える。
 問題なのは、復帰と共に示された今後の動きについてだった。
 曰く。

『クラウディウス家はルートヴィッヒ軍団長と歩みを共にし、今世界に訪れようとしている危機にメッサーナの総力を上げ立ち向かう所存』

 このように、会議で発表が為されたのである。
 これには各国の要人等も大きく驚愕した。これでは、まんまとクラウディウスがルートヴィッヒに飲み込まれただけの形になってしまったからだ。
 世論が待ち望んだ革命は為されず、ルートヴィッヒ一強体制が更に強化されるだけだと言うことになる。
 誰もが、そう感じた。
 だがこの事態を一層混迷極めさせる内容が、クラウディウス復活に伴っての具体的な今後の活動についてだった。
 先ず告知されたのは、復帰に伴う旧クラウディウス家領地の返還と、そして故クレメンス卿の名誉復活を意図としたであろう記念碑の市内建築。ここ迄は単にクラウディウスに気を回したかのような内容だったが、その後に行われた宮廷の活動方針説明を中心的に語ったのは、なんとルートヴィッヒではなく、ミューズだった。
 彼女の口から発表されたのは、現在ピドナの東方に位置する同盟国家ロアーヌ侯国にて展開されている、推定四魔貴族軍とロアーヌ軍の戦線への経済的支援の即時実施だった。
 これは現在の国際世論にとって最も取り扱いの難しい話題であり、迂闊にこれに触ることは一国の立場ですら、ある種のタブーであるというような空気感で扱われていた。
 なにしろ昨今のアビス勢力による蹂躙は、世界の予測を超えて多岐にわたり大きな被害をもたらしているのだ。そんな話題に対し今世間で最も求心力のあるミューズが力強く宣言した内容は、正に「アビス勢力への徹底抗戦」であった。
 この宣言には、大きな響めきが会議全体を支配した。
 そして次には、ミューズに対する抗議の声でその場は溢れかえったのだ。
 世界最大の王国メッサーナがアビスへの交戦意思を見せるとなれば、これに対するアビスからの報復は文字通り全世界に波及するとして間違いないだろう。そのような世界が確実に流血を伴う決議を正式なコングレスなく突如として宣言した新参のミューズに対し、その場に参加していた面々は当然のように声を荒げた。
 だが、その直後に発せられたミューズの言葉に、その場の全員は押し黙らざるを得なかった。

「認識してください。既に、この世界はアビスによる攻撃に晒されています。これは最早、他人事ではないのです。例えば私が立ち会ったドフォーレの事件は、魔物が既に都市部の人々の暮らしにまで入り込んでいた証拠に他なりません。また、ロアーヌが狙われたのは現戦線が初めてではなく、年始にあったゴドウィンの変自体がアビスの手のものが黒幕となり、裏で糸を引いていたものでした。更に言うならば、ピドナにて春先に起きた『予兆』。これこそ皆様も聞き及んでいるはずです。私はこの予兆に、間近で立ち会いました。その時に現れた悍ましきアビスの魔物は、四魔貴族の復活を明確に示唆しました。そして先月・・・ついに本格的な魔貴族の侵攻が、西の都市、バンガードで起こったのです」

 そうしてミューズがその場に出したのは、魔術師が写したと思しき一枚の写真だった。
 そこには、大地が強引に引き裂かれたかのような様相で険しく切り立った崖と、その先の海面に浮かぶ巨大なバンガードの全景が映し出されていた。
 陸続きのバンガードしか知らぬ彼らの常識の中には一切ない、まるで天変地異でも起こったかのような異様な光景を映し出すその写真を見て大いに響めく面々を前に、ミューズは再度声を張り上げた。

「私には、勝算があります。既に聞き及んでいる方も中にはいるかも知れませんが、四魔貴族のうち、二柱をアビスへと追い返すことに我々は成功しています。バンガードを襲った魔海侯フォルネウスの討伐には、私も同行しました。この写真は、その時に起動した聖王様の作りし伝説の移動要塞バンガードのものです。そして今、魔貴族の二柱をその手で退けた英傑が、ロアーヌ南東のタフターンに巣食うとされる魔龍公ビューネイの討伐に向かっています。ロアーヌの戦線は、それが成し遂げられるまで持たせればいいのです。またロアーヌの復興を迅速に補助することで、我々には一切の隙なしとアビスに知らしめ、二次被害の拡大を防ぐこともできます。既に戦は、始まっているのです。いつどの国が巻き込まれても、おかしくないのです。ならば一刻も早く終わらせねば、被害は拡大するだけ。どうか各国の英知と勇気の、一致団結を」

 その会議に集まった参加者の一人は、後にこの時のミューズの姿についてこう語ったという。

『他の参加者に比べ年端も行かぬ娘でしかないはずのミューズ殿だが、しかし皆を導かんと力強く声を上げるその姿は、はっきりと往年のクレメンス卿を感じさせた。その場の誰もが彼女の言葉に耳を傾けその言葉を受け入れたのは、決して後ろに控えていたルートヴィッヒ卿の影響というだけではないだろう』

 彼の言葉の示した通りに、ミューズの力強い言葉を以ってその場の全員の意思は固まった。魔物の被害は既に各国間の流通にも大きく被害を与えており、遅かれ早かれ手を打たねば国が衰退することは誰もが感じていたところではあったのだ。
 この後は、大まかな今後の行動計画が示された。まず今回の作戦で実際に物資の収集や運搬等の実務を行うのはカタリナカンパニーが中心となって担い、財源や物資は近衛軍団が主に現在備蓄から提供する。なのでこの場に集まった各国代表には、これに関わるオーダーがあった際の優先的な物資融資をお願いしたい、という程度に留められ、それには反対するものはいなかった。
 そして、ここで殊更大きく世間を驚かせたのは、その財源や物資の出どころと共に、カタリナカンパニーがその存在感を大きく世界に知らしめた要因でもある『フルブライト商会同盟』の破棄をその場で宣言した事だった。
 ここに関してはカンパニーを代表して会議に出席していたトーマス=ベント副社長が議中で言及しており、世界経済の一致団結をする上で最も合理的な選択が取引の限定化を招く同盟からの独立であり、これにより同盟に囚われない多方面との連携や取引が可能となる、とのことだった。
 また同盟の破棄により特段カンパニーがピドナ王宮と密接につながる訳ではない、との見解も同時に示した。これは、どこか一部との密接な関わりこそが経済の停滞を招くのだ、というトーマスの主張を殊更に強調させる格好となった。
 更には同様の事態が今後も起こることを想定し各国各地からの多方向即時支援を可能とするため、来期に施行予定であった鉄鋼類への特定品目追徴拡大(作者注:第四章参照)の無期限見送り・・・つまり、実質的な廃止が発表された。
 この知らせには主に各地の軍団長が大いに響めき、そして大いに歓迎した。近年において最も各国軍が殺気立っていた主たる原因となる制度の施政破棄が示されたことで、殊更軍団長等はこの結果を導いたミューズに称賛を送り、勇み喜んでの協力を申し出ることとなる。

 例年であればこの会議以降は連日の宴が催されるのが通例であるものの、今回に至っては世界的な有事とのことで、不安を与えぬよう市街地でのみ通常開催とし宮廷内では明日以降の宴席は控えるように通達がなされ、本会議は解散となった。
 即座に会議での内容を行動に移すとし他国参加者に先んじて一人慌ただしくその場を後にしたトーマスは、そのまま誰と接触することもなく真っ直ぐに早足で宮廷を後にした。
 そして丁度入り口の門を潜り出たところで、衛兵と世間話をするようにしながらその場に待っていたポールと合流する。
 そしてそのまま何気ない様子で会話を交わしながら少し離れて衛兵と距離を取ったところで、トーマスは視線を鋭くしてポールに語りかける。

「・・・参加者は事前情報通り、十七人だ。名簿通りだね」
「了解。んじゃあこっちはこっちで始めるとしますかね」
「ああ、頼むよ。俺もロアーヌへの諸々支援手続きが終わったら直ぐそちらに合流する」
「畏まり。それまでに何かしらは掴んでおきますぜ、副社長」

 短く、互いにそれだけの会話を交わす。するとポールは曲がり角を曲がって衛兵から姿が見えなくなったところで、するりと路地裏に姿を消してしまった。
 それを横目に見届けたトーマスは、ふと立ち止まって宮廷の方へと振り返る。
 宮廷内に残ったミューズと護衛のシャールは、これから各国要人らと軽く懇親会が催されるのでそれに参加する予定だ。流石に一介の商売人でしかない自分がその場に居合わせるわけにも行かないので、そこでの首尾は彼女に任せるしかない。
 だが、先ほどの会議での発言の様子を見ている限り、問題はないだろうとトーマスは踏んでいた。

(年の始め頃に旧市街でお会いした時は病弱さも手伝い、まさに『深窓の令嬢』といった様子だったが・・・。この一年で彼女も、五年・・・いや、六年前の呪縛から解き放たれ、その身に背負った宿命と向き合うことで急激な成長を促されたようだ。おじいさまの言いつけがこれで果たされたのかはまだ決まったわけではないだろうが、一先ず心配はないようだな。まぁ、とは言え相手はあのルートヴィッヒ軍団長だ・・・あの方はどうも、計り知れないほどの何かを感じる。油断はせずにいかないとな・・・)

 一頻り物思いに耽った後、トーマスは気を取り直して商業地区へと姿勢を向け、深呼吸をする。この後は、彼も寝る間も惜しんで各種物資の調達計画と即実行へ向けた調整を行わなければならない。相応の気合を入れねば、対処できない物量だろう。

「さて、集中しないとな。ここからまた暫くは慌ただしくなりそうだ」

 そう自分を奮い立たせるように言い聞かせると、急ぎ足で歩き始めた。







 温暖な気候のトゥイク半島東岸に位置し、南西に広がる密林からもたらされる豊かな実りや南東のナジュ砂漠との交易を中心に栄える、交易都市リブロフ。
 多彩な気候特性からなる様々な特産品と共に西のウィルミントンにも負けず劣らず芸術文化発信地としての顔も持つこの都市では、今や世界三大商家にも数えられるラザイエフ商会を筆頭に様々な企業が集まり、またピドナのルートヴィッヒ軍団長とも比較的良好な関係値を築く事で堅実な成長を遂げていた。

(・・・全く、ここは相変わらず呑気なものだな)

 実に十年近くぶりにこの都市の土を踏んだハリードは、自身の記憶にある十年前と殆ど変わらずの豊かな街並みを『呑気』と表現しつつ、どこか冷めた目で見回していた。

(ここも、本当はあまり来たくない場所だったがなぁ・・・)

 そんな事を自身こそ呑気に思いながら、とても見覚えのある道を歩く。
 リブロフの港に降り立ったと思えば早速情報収集に向かうと言い出したエレンと合流場所の宿だけ決めて別れたハリードは、どうしたものかと思案した後に、特に自分にはすることなどないのだということに思い至り軽い絶望を味わい、そして当てもなく歩き出したのだった。
 しかし、それがかえって良くなかった。
 こうして当てもなくゆっくりと歩き出すと、その視界に入ってくる様々なものが、彼の脳裏に眠っていた多くの過去の光景を呼び覚ますのである。
 彼にとってこのリブロフという街は、それほどに思い出が、ありすぎるのだ。
 なにしろハリードという男は、このリブロフという街に、まだ十代の若かりし頃から頻繁に通い詰めたものだった。
 ゲッシア王朝の王族の一人として生を受けたハリードは若き日の頃、有り体にいってしまえば旧態依然とした王朝の様相に、言いようのない窮屈さを感じていた。
 勘違いはしないでほしいが、彼は自身の生まれや待遇に不満があったことなどは全くなかった。
 王位継承権は下位ながらもゲッシア王族としての宮殿暮らしには一切の不自由もなく、その身近には心から愛するファティーマ姫がおり、また建国の英雄アル=アワドに憧れて始めた剣の修行も、とてもやり甲斐がある。
 つまるところ、彼はとても充実した生活を送っていたのだ。
 だがその一方で、歴史を見返せば見返すほどに建国からこの三百年の間に大きな変化のないゲッシアの日常は、若く好奇心に溢れた彼を十分に満足させるには至らなかったのも事実だった。
 そうして必然的に彼は外の世界に強い興味を持ち、当時の数少ない貿易相手である隣国リブロフへ、何かと理由をつけては出向くようになっていた。
 当時すでに貿易都市として世界的に名が知れていたリブロフでは、ピドナほどではないにせよ実に多くの文化の流通があった。それらの多くはゲッシア内部に流入してくることはなく、故国の中にいては知ることができないものばかりで、そして彼の興味を大いに引き立てるものばかりだったのだ。故に彼は自分の好奇心を大いに満たすことにすっかり夢中となり、リブロフへと足繁く通った。

(・・・彼奴に会ったのも、その時だった)

 そうして何度もリブロフへと出向いている最中で、ハリードはある時、一人の青年騎士と出会った。
 青年はルートヴィッヒという名前で、年も自分と近いこともあり、お互い直ぐに意気投合をした。
 騎士ルートヴィッヒは地元のリブロフ軍団に所属しており、元は騎士の家柄というわけでもないところから一念発起し、軍に志願したのだという。もう既にその時点で、人が生きる道の全てが生まれや血筋で決まるゲッシアからすれば考えられないような世界であり、そのような可能性に溢れる外界への興味は加速度的に増していった。

(・・・あの頃はルートヴィッヒと毎日のようにこのリブロフ中を駆け回ったものだ。彼奴をゲッシア宮殿に招いた時も、宮殿内の保守派の爺様達には随分と苦い顔をされたものだったな)

 単なる部外者を宮殿内に立ち入らせることなど、ゲッシアの常識には全く有り得ないことであった。
 故に一見そのようなことは全くの不可能のようにも思えたものだが、意地になって諦めきれなかったハリードはなんと王朝のそれまでの歴史を隈なく調べ上げ、その中で遂に類似の過去の事例を発見し、ルートヴィッヒと『義兄弟の契り』を結ぶことで半強制的に身内とし、彼の宮殿内への出入りを可能とした。
 宮殿内でルートヴィッヒはハリードの予想通りファティーマ姫とも直ぐに意気投合し、王宮ではよく三人で行動を共にしたものだった。
 あの頃はそう、彼の人生の中で、最も充実していた瞬間だったのかも知れない。

(・・・くだらん)

 いくつもの街の光景から思い起こされる様々な望郷の念を振り払うようにしながら、しかしハリードはそれでも自然と彼の知る場所へと足を向けてしまう。彼の体が、彼の向かう場所を覚えているのだ。
 中央の大通りを城門のある南に下り、突き当たったところを大街道へ続く城門がある西方面とは反対の南東に向かって伸びる小道に入り、道の両側にうず高く積み上げられた色とりどりの煉瓦で作られた細く緩い階段を下っていく。
 世間的にはかなりの高身長であるハリードであっても空しか見えないその階段道を暫く下っていくと、やがて突如として視界が開け、開放感のある小さな展望広場にたどり着く。
 そこは切り立った小さな崖に作られた場所で、晴れた日にはそこから南東のアクバー峠を一望できる隠れた絶景の名所なのだ。
 その展望広場には、シェヘラザーデという名の小さな店がある。そこはナジュの血を引く女主人が切り盛りする酒家で、彼女の語る古いナジュ地方の物語を夜毎客が杯を傾けながら静かに聞き入る、これも地元ではひっそりと名の知れた場所だ。
 彼がここに通い詰めたのも十年以上も前のことだが、こうして無意識のうちに足を向けると矢張りそこには、その馴染みの店が十年前と変わらぬ姿のままあった。在りし日から変わらぬ懐かしい光景にハリードは思わずうっすらと笑みを浮かべながら、カランと鈴の音を立てて店の戸をくぐる。
 ナジュ名産の織物を基調として作られた六席程度の小さなカウンターと二人掛けのテーブル席が二つほどあるだけの小ぢんまりとした店内の様子も、カウンターの中でゆっくりと水煙草を蒸している女主人の有様も、その水煙草独特の心地よい香りで満たされた店内も、まるで十年前そのままだ。
 思わずハリードは、ここは時が止まっているのではないかと勘違いをしてしまうところだった。
 店内にはカウンター席に客が一人いるだけで、他には女主人だけ。まず女主人と視線が絡み、彼女はハリードのことを見ると、ほんの少しだけ視線を細めた。その瞳は怪訝な様子のそれではなく、どこか愛おしみ、慈しむような光を奥に宿している。
 そして次に、他の来店客が物珍しげでもあるかの様子でカウンターから此方へと視線を遣した客の男が、ハリードの顔を見たことで見る見るうちに驚きの表情へと変わり、遂にはガタリと席から立ち上がった。
 そして驚いた表情を崩さずそのままに、大きく口を開く。

「ハリード様!」

 男は、これまた特徴的な砂漠の民の格好をしていた。年の頃は五十あたりに差し掛かろうかというところか。その顔に深く刻まれた皺が、強烈な日差しの中で生きる砂漠民特有の年輪を感じさせた。
 そして何よりその男の顔を見た瞬間に、ハリードも思わず破顔する。
 彼は、まだゲッシア王朝が存在していた時に宮殿によく出入りしていた、王国のお抱え商人だったのだ。十年の時が過ぎたことで多少は老け込んだようにも見えるが、それでもこの顔は忘れない。何しろハリードが外の世界に興味を持つきっかけを与えてくれたのは、彼が宮殿内に齎す様々な異国の品だったからだ。

「おお、久しぶりだな。元気にしているか?」
「はい。ハリード様もお元気そうで何よりです」

 そのままハリードもカウンター席へと腰掛けると、女主人は無言で彼の前に木製の杯を出し、陶器に入った酒と水を順番に注ぐ。すると単体では透明だった酒が水と混ざることで白濁し、独特の色合いを示す。
 これはアラックと呼ばれるナジュ地方で古くから作られる蒸留酒で、この店には基本的にこのアラックしか酒は置いていない。最も、このアラックにもしっかりと等級があり、この店で出されるアラックは品質が良い。均等な白濁は、品質の良いアラックでしか見られないのである。
 続いて突き出されるメゼと呼ばれる前菜も、この店ではおなじみのくるみと唐辛子のペーストだ。思えばハリードはこれにどハマりして、足繁くここに通い始めたのだった。
 この店は、本当に十年前となにも変わっていないのだなとハリードは思う。そうして杯を傾けメゼを摘み、久しぶりに再開した商人の男とこの十年のことなどを語り合った。
 そうして幾度か杯を空にしたところで、ふと会話が途切れたところに男は、思い出したかのようにハリードに語りかけた。

「そういえばハリード様、ファティーマ様が生きているという噂をご存じですか?」
「・・・!?」

 突然のその言葉に、ハリードは思わず杯を傾ける手を止めて目を見開く。そして、直ぐにそのような反応をした己を蔑むように口の端を吊り上げて笑い、杯の中身を一気に飲み干す。

「噂ではファティーマ様が諸王の都にいるというのです。ハリード様は諸王の都の場所をご存じのはず。もしも、噂が本当なら・・・」

 続いて発せられた男のその言葉を聞いて、ハリードはもう一度口の端を吊り上げ、もう一杯を女主人に催促する仕草をしながら男に語り返した。

「あそこは生きている者の行く所ではない。ただの噂だ」

 諸王の都とは、ゲッシアの英雄アル=アワドを初代とした歴々の王族たちの眠る、神聖なるゲッシア王族の墓所・・・所謂ネクロポリスだ。歴代の王が愛用した多くの品々なども共に眠ることから盗掘の被害を警戒し、その場所はゲッシア宮殿のなかでも直系の王族と、王族に近しい極一部のものしか場所を知らない。
 ハリードは王族故に確かにその場所を知ってはいるが、しかしナジュ砂漠の中心地である旧ゲッシア王朝首都にして現在は神王の塔が立つハマール湖の辺りからある特定の時間帯の陽の光を目標に出発することで導かれる諸王の都には、その過酷さから相応の準備をせねば辿り着くことが抑も困難を極める上に、その近くには真面な水源もなく、辿り着いても帰ることがまた困難なのだ。
 それでもそこにゲッシアの王族が命がけで向かうのは、同じく王族の誰かが没し、その身を埋葬する時のみ。
 文字通り、生きている者のいく所ではないのだ。
 それを知っているからこそ、ハリードは目の前の男の話を笑い飛ばす。だが目の前の男も歳のせいか涙脆くなっているようで、昔の話をしてはその栄華を懐かしみ、今はもう無き故郷を思って瞳を潤ませる。そして、一頻り話した後に男は、こういうのだった。

「仮に居ないのならばそれはそれ。ですがこの噂を確かめられるのも、今はもうハリード様だけなのです。ぜひ、諸王の都へ!」
「全く、酔いすぎだぞ。昔よりも酒が弱くなったのではないか?」

 ハリードはどうやら同じ話を繰り返すようになってきた男を宥める様にしながら、自分の杯の中身を飲み干して女主人に勘定を渡した。

「すまないな、今日は王妃の昔語りを聞くほど時間がない。連れがいるものでな。また寄らせてもらおう」

 女主人にそういってから男にも別れの挨拶をし、懐かしの店を後にする。
 外に出ると、もうすっかり陽が落ちていた。どうやらそれなりの時間、この店に居た様だ。
 展望広場で軽く風に当たると、直ぐにきた道を戻って中央通りへ向かう。
 それなりの時間シェヘラザーデに居たので酒の量もそこそこ飲んだはずなのだが、どういうわけか全く酔えないでいる。それもこれも、きっと商人の男がつまらない話をするからだ。

「姫が‥‥生きている‥‥」

 ハリードは自分でも気付かぬ間の無意識にそう呟き、次にはそんなことを言ったことすら忘れた様子で、あとは無言で道を戻っていった。

 やがてどの程度の時間を歩いていたのかも定かではないうちに、気がつけば彼は本日の宿泊場所であるホテルリブロフへと辿り着いていた。ちなみにこのリブロフには同じ名前の宿が何箇所かあるのだが、その中でもハリードが選んだのは最も質素な、あわや民家かと思うほどの規模のものである。
 そしてその宿の入り口の前では、これ以上にないほど分かりやすく憤慨の表情を浮かべたエレンが仁王立ちしながら、歩いてきたハリードを睨みつけていたのだ。

「ちょっと!随分と遅かったじゃないの!」
「ん、ああ、すまんな」

 時間の感覚があまり無かったのかハリードはそんなに悪いとも思っていない様子で、一言そう言った。それは普段ならばたっぷりとエレンの怒りの火に油を注ぐ言動のはずだが、しかしどうしたことかエレンは額に青筋を立ててはいるものの、それ以上の追求をする様子はなかった。
 その代わりエレンはつかつかとハリードの前まで歩み寄ると、至近距離からハリードの顔を見上げる。
 そして、唐突にこう言い放つのであった。

「ハリード、あたしをあんたの故郷まで連れていって。嫌とは言わせないわ」









最終更新:2021年03月12日 17:19