夜間に起きた、もはや幾度目かも定かではない妖魔の急襲を辛くも退けた、明け方のロアーヌ南東、対四魔貴族軍のロアーヌ軍防衛線最前線。
 未だ戦火の収まる気配が全くないこの戦線に駐屯するロアーヌ侯国騎士団は、その朝、戦場に相応しく非常に厳かな年明けを迎えていた。
 例年ならば年始の幾つかの行事を宮廷内で行うのが騎士団の通例だったが、昨年からはそれも行っていない。
 何しろ昨年の今頃は、冬を前にして前ロアーヌ侯爵フランツが急逝しミカエルが新たなロアーヌ侯爵となり、年末に向けて急激に増加傾向にあった魔物の討伐のための遠征準備に明け暮れていたのだ。
 その時に『年始の国事を蔑ろにするとは何事だ』と場違いにも騒ぎ立てていた貴族院の御老体達は、直後に巻き起こったゴドウィンの変にて半数が粛清、再編された。思い返せば、あの出来事を発端に、この一年で一気に宮廷内情勢はミカエルによって纏まっていった。
 その間にも、ゴドウィンの変でも功を挙げた騎士団の紅一点が急遽宮廷を離れることになったり、また例年にはない度重なる軍事遠征があったり、そして侯爵ミカエルの最愛の妹にしてロアーヌの華と謳われた美しきモニカ姫の遭難事故という悲劇が起きたりなど、昨年を振り返れば本当に多くの激動があった。
 その上で今のこの戦線とくれば、これはもう今年の抱負は「生き残ること」あたりだろうか、などとブラッドレーは幕舎の中で苦笑いしながら、戦線の被害状況と物資の確認を卓上で思案していた。

「伝令、伝令ー!!」

 するとそこに、新年から司令官幕舎へと慌ただしく駆け込んでくる者があった。
 どうやら本国からの連絡らしい兵を幕舎で迎え入れたブラッドレーは、神妙な面持ちで駆け込んできた兵の呼吸が整うのを待った。
 連日の例に倣い昨夜もそうであったが、この苛烈極まる戦線を一望する物見の方面からは、この一ヶ月の間は引っ切りなしに妖魔襲撃の報が届いていたものの、しかし後方の首都側から急報の伝令兵が来ることは殆どなかった。
 なのでこの知らせが果たして良い知らせなのか悪い知らせなのか、どちらかと言えば常に最悪の知らせを想定している傾向のあるブラッドレーには皆目見当が付かなかったのである。

「ブ、ブラッドレー将軍・・・急報でございます・・・!」
「それはわかっている。内容を聞かせてくれ」

 駆け込んでくることに必死になりすぎたのか、やっとのことでそれだけ言いながらも息が上がったままの伝令兵に、態々ブラッドレーは水の入った杯を渡してやる。すると兵はそれを有難く頂戴し、一気に飲み干して漸くの様子で一息付いてから改めて姿勢を正した。

「ほ、本国防衛軍総司令ミカエル様より伝令です! 近く、友好国メッサーナ王国近衛軍からの物的支援が、ミュルスからこの戦線に直接送られてくる旨の伝令を承っております・・・!」
「・・・近衛軍、だと? まさか、ルートヴィッヒが動いたというのか?」

 訝しむように眉を顰めて言いつつ伝令兵が差し出してきた書簡を受け取り、封蝋が確かに近衛軍団のものである事を見定め、直ぐ様封を切り中身を確認する。
 すると確かに書簡の内容は冒頭の当たり障りない文面が多少ある以外は物的支援の条文が並んでおり、羅列されている支援物資は食料や武具、建築資材等を含めて相当の物量が記載されている。
 しかも、その輸送は既に行われている旨と、書簡発行の日付も明記されていた。
 ざっと中身を見たブラッドレーは、伝令兵に疑問符を投げかける。

「この日程だと、もう間も無く到着するような予定だが?」
「はい。ミュルス駐在軍からの連絡では、港へ物資と同時にこの書簡が届けられたそうです。即座に駐在軍から早馬にてミカエル様の元へ第一報が届き、ミカエル様はご自身宛の書簡をご確認の後、即座に輸送開始の許可をお出しになられつつ、自分を将軍の元へと寄越しました」
「そうか。ミカエル様からの書簡はあるか?」
「は、此方に」

 そう言って伝令はミカエルが持たせたであろう書簡を、ブラッドレーに手渡した。
 ブラッドレーが開いた書簡に視線を落とすと、確かにそれはミカエルの文字だ。それをみて一つ頷き、引き続きミカエルからの伝文に目を通す。
 彼ら将校は普段から偽計を看破する取り組みの一環として、ミカエルの文字は似せて書いてもそれと分かるように判別するべく訓練を行なっている。なのでこのミカエルからの書簡が無い限りは、基本的に指示を受け入れないのだ。

(・・・ミュルスについた商船の雇主は、近衛軍ではなくカタリナ・カンパニー・・・。なるほど、ミカエル様が即座に動かれたのはそういうことか。近衛軍だけが単独でこのような動きをしたとなれば、あまりのきな臭さに然しもの我が君とて即応はすまいな・・・。しかし、よりにもよって近衛軍との連動とは・・・カタリナめ、今度は一体何をしでかそうというんだ・・・?)

 彼は自分の同期の紅一点騎士の破天荒さに内心で苦笑を浮かべつつ、再びメッサーナからの書簡の中身を見返し、内容の熟知を行うこととした。

「よう・・・何かあったのか?」

 丁度そこへ、大きな欠伸をしながら騎士コリンズが幕舎へと入ってくる。彼は未明にあった強襲の迎撃に出ていたので今は休んでいたはずだが、物音に気がついて様子を見にきたのだろう。
 彼に限らずこの最前線で戦いを続けているロアーヌ兵は全員が大いに疲弊し、その中でいつ来るとも分からない襲撃に備え、常時神経を尖らせている。そんな疲れも取れない状況の中では、この物資支援は非常にありがたいものであった。

「ああ、丁度よかった。休んでいた所にすまないが・・・コリンズ、これを見てくれ」
「どれどれ・・・。・・・・・・・・・ふぅん、ルートヴィッヒが、ねぇ。でもミカエル様のご判断には間違いないようだな」

 コリンズもまたミカエルの筆跡を確認してから物資リストを見返し、ふむふむと唸りながらそんな感想を述べ、そして書簡をブラッドレーに返しながらふと表情を曇らせた。

「しかし、どうみるよ、これ」
「・・・ルートヴィッヒの思惑か?」

 ブラッドレーがそう返すと、コリンズは小さく頷いた。

「ああ。先ず思い当たるのは、これはロアーヌがメッサーナから大きな貸しを受けた、という事だよな。俺はその辺にあまり明るいわけじゃあないが、この物資の量は、ぶっちゃけロアーヌの国家予算で用意したら向こう二、三年は国民が貧しい暮らしを強いられる規模だと思う。これ程の支援物資を出しておいて単なる慈善だなんて、とてもじゃないがルートヴィッヒが考えるとは思えないよな」

 コリンズの予想外に鋭い意見に、ブラッドレーはこくりと頷いた。当然ながらミカエルはそう言ったことも把握の上でこれを受けているのであろうが、確かにこの物量は規格外だ。何か相応の見返りを求められることは、想像に難く無い。
 しかしブラッドレーには、これに関しては既に大凡の察しがついていた。

「そうだな。だが、それはもう決まっている様なものだろう。恐らくルートヴィッヒは・・・」

 そう続きを話そうとしたところで、今度は後衛見張からの伝令が駆け込んできた。

「将軍! ミュルスからの救援物資隊とやらが接近しており、早馬が受け入れ準備を要請して来ております!」
「もう来たのか・・・早いな。よし、妖魔の動きが鈍い日中が勝負だ。受け入れを進めてくれ。コリンズ、話はまた後で」
「了解。俺はもうちょっと寝とくわ」

 コリンズの言葉にブラッドレーはうっすらと笑いながら「そうしてくれ」と返しつつ、副官にその場を任せて物資隊の確認に向かって行った。




「ロアーヌからの見返りは既に確定している・・・?」
「ええ、そうです」

 ピドナ商業区ハンス邸のリビングにてトーマスと卓を交えていたシャールが確認するように聞き返すと、トーマスは肯定しつつ頷いた。
 近衛軍と連動してカンパニーが主導し進めていたロアーヌへの救援物資輸送手配は既に完了しており、現在はその後処理と今後の流れを確認するためにピドナ組がその場に集まっていた。

「一体その見返りってのは、何なのさ。物資リスト見せてもらったけど、ありゃピドナ商工会の決算書でも中々見ない数字だったよ。ロアーヌってのは、そんなに金持ちなのかい?」

 上品にティーカップを傾けながらノーラが首を傾げると、トーマスはそれに応えるようににこりとしながら、続いて隣に座るミューズに無言で視線を投げかけた。
 するとそれに気がついたミューズは少し怪訝そうな表情をしたかと思うと、直ぐにトーマスの意図に気がついてノーラへと向き直った。

「私からご説明します。今回の物資供給からロアーヌ侯国が求められるであろう見返りは、金銭ではありません。そもそも金銭的な見返りを要求するほどの備蓄がロアーヌ侯国にあれば、物資支援の意味自体があまりないと言えます。ですので今回メッサーナ王国が狙う見返りとは言わば・・・『戦力』としての役割です」
「戦力・・・?」

 ノーラはミューズの言葉をそのまま返しながら、変わらず理解の及んでいない表情をする。が、対するミューズはそれをよしとしつつ頷いた。

「今回メッサーナがロアーヌの戦線に自軍備蓄の大部分を支援物資として送ることを決めたのは、即ち『四魔貴族軍との全面対決』を始めるということを意味します」
「そうだね。だから年末の会議でも、お偉方が随分と紛糾したんだろう?」

 事前にその辺りの話は聞いていたのか、ノーラがミューズの言葉に同意するようにそう言う。
 すると今度はモニカが後を続けるように発言した。

「つまりメッサーナは、四魔貴族軍との戦いの最前線をロアーヌに担ってもらうつもりで支援をした、と言うことでしょうか?」

 モニカの言葉に、ミューズはゆっくりと頷いた。

「はい。そもそもメッサーナ王国は物資は豊富ですが、その兵力は各都市の軍団に分かれており、更にその各都市軍団の横の繋がりが現時点で非常に希薄だという特徴があります。これはアルバート王亡き後、各都市軍団長が権力の増加を狙うことで更に顕在化しました。またルートヴィッヒ軍団長もそれを把握の上で、この五年間は単純な軍事力の増強よりも各都市の連携阻害と物資の中央集約という政策を中心にその手腕を奮ってきました。半年少々前にあったファルスとスタンレーの戦などは、正にルートヴィッヒ軍団長が目論んだ展開だったと思います」
「・・・なるほどです。確かに近衛軍団が単純な軍備増強などを行えば、それは各都市軍の危機感を煽る事になりますわ。そうなると焦った各都市が動いて横の連携という中央への脅威を生み出してしまいかねなかった、ということですわね」

 モニカがミューズの説明でそう理解を示すと、トーマスとミューズ以外の面々は成程と頷いた。

「はい。ですので今のメッサーナには国力に見合ったほどの『纏まった精強な軍』というものが、敢えて欠けているのです。そこにおいてロアーヌ侯国の騎士団は、魔王に汚染されし東の地から現れる妖魔に長年対抗し続け、ゲッシア王朝を滅した神王教団との戦にも勝利し、更には密林にある伝説の火術要塞の攻略という快挙まで成し遂げています。彼等は最早、名実ともに世界最強の騎士団だと言えます」
「つまり、支援はするから戦の一番手は任せるぞ、ってことか・・・」

 ユリアンが腕を組みながらそう応えるのを聴きながら、ミューズが続ける。

「そしてミカエル侯は、間違い無くその意図を理解しており、利用すると思います」
「お兄様ならば、必ずそうしますわ。ルートヴィッヒ軍団長に出し抜かれるようなことは、天地がひっくり返っても有り得ませんわ」

 モニカが確信めいて同意すると、トーマスとユリアンは目線を合わせてふっと微笑む。

「そして今後、最も戦が起こる可能性があるのは、このピドナです」
「魔王殿か・・・」

 ミューズの隣に座っていたシャールが、呟く。
 このままロアーヌが魔龍公ビューネイ軍との戦いに勝利したとすれば、後に残る四魔貴族はピドナ旧市街に佇む魔王殿、その奥深くに潜むと目される、魔戦士公アラケスのみだ。

「アラケスが実際どの様な行動に出るのかは、まだ分かりません。ですが先のフォルネウスや現在のビューネイ軍の様な大規模戦闘が起こる様な事になれば、屈強な軍を持たぬメッサーナは非常に分が悪いです。しかも周辺都市国家軍は、いくら共同戦線に合意したと言えども、矢張り積極的な武力提供には消極的なはずです。そうなると、メッサーナが望む見返りは、明らかだという事になります」
「素晴らしい。よく把握していますね」

 ミューズが言い終えるのを待ってトーマスがそう締め括ると、ミューズは少々悪戯っぽい笑みを浮かべながらトーマスを横目で見た。

「全てトーマス様の教えです。丁度いいアウトプットの場だとお考えになったのはすぐ分かりましたから、別に構いませんよ」

 ミューズの思わぬ反応にトーマスも苦笑していると、そこに丁度、情報収集のために外に出ていたポールとブラックが帰ってきた。

「よう、話は進んでいるかい?」
「ああ、二人ともおかえり。丁度、メッサーナとロアーヌの今後の動きについて話していたところだよ」

 二人が空いている席に座るのを見ながらトーマスが状況を告げると、早速煙草に火をつけるブラックの横でポールが軽く頷いた。

「なるほどね。こっちの報告は後のほうがいいかい?」
「いや、今言ってくれて構わないよ」

 トーマスがポールに話を促すと、新しいティーカップが目の前に用意されたところでポールが懐からメモ書きを取り出しつつ口を開こうとする。
 その時だった。
 何やら、窓の外が急激に騒がしくなったのた。

「お・・・なんだ、何かあったのか?」

 特にその場にいる意味を感じていない様子だったブラックがいち早く、すくりと椅子から立ち上がって窓から外の様子を伺う。
 すると普段は実に平和な様子であるはずの商業区通りでは多くの通行人が、慄き後退りをしながら空を見上げていたのだった。
 そして更にそこへ、この館の主人でもあるトーマスの従兄弟にあたるハンスが慌てた様子で部屋に駆け込んできた。

「大変だ、魔物がピドナの空に・・・!!」
「なんだって・・・!?」

 ハンスの言葉に反応したトーマスを皮切りに、その場の一同が即座に立ち上がって外に向かう。
 入り口の大広間を抜けて扉を抜け、慌ただしく人々が逃げ惑う商業区の大通りに飛び出したトーマスが上空を仰ぎ見ると、そこには普段と変わらぬ一面のピドナの青空がある。
 そしてその青空の僅かな一点を、強烈な存在感を放つ一体の生物が占有していた。

「あれは・・・まさか・・・」

 トーマスがその存在を視認して、小さく呟く。
 丘の上のピドナ王宮よりもさらにずっと上空を飛ぶその生物は、地上からでもその大きさが分かるほどの体躯だ。
 大きく両翼を広げ、ともすれば優雅に滑空している様にすら見えるその様は、何かの物語の一節を彷彿とさせる様な光景でもある。
 突如としてピドナの上空に姿を表したそれは、一頭の巨大な竜だった。
 そして巨龍は特に高度を下げる様子もなく、下界から見上げる限りは非常に長閑な様子でピドナの空を横切っていく。
 北西の方角の空に見えていたそれは、地上でどよめく人間に興味などまるでない様子で、そのまま北東へと抜ける様だった。

「竜と人との力によって さしもの魔龍公も敗れ ゲートの彼方へ追いやられた・・・伝え上げたる詩の具現がよもやこの目で見られようとは、聖王記詠み冥利に尽きるというものですねぇ」

 その場の全員が上空の一点に視線を奪われていたところに、妙に間の抜けた声が響く。
 聞き覚えのあるその声に反応したトーマスが振り返ると、そこにははたして、数週間前にバンガードで会った詩人が立っていたのであった。

「貴方は・・・」
「やあ、これはどうもどうも」

 相変わらず周囲の空気とはどこかずれた雰囲気を持つ詩人の唐突な登場に、漸く周囲の面々も気がついて彼に視線を向ける。
 しかして詩人は名残惜しそうに再度空を東に抜けていく竜へと視線を投げかけた後、自らの脇に置いていた旅道具を持ち上げ、何事もなかったかのようにそのまま立ち去ろうとした。

「ま、待ってください。やはりあれは、悪竜グゥエインなのですか」

 トーマスは慌てて詩人を呼び止めるようにしつつ、目の前の詩人の言葉から上空の存在についての見解を口に出す。
 だが、詩人はその言葉を聴くと真顔になって考え込むように二度三度と瞬きをし、次に目を閉じてゆっくりと頭を横に振ってみせた。

「いいえ。あれは、英雄グゥエインの勇姿。彼の竜がこれから成すであろう偉業は、人類に限らず、この世界に住まう多くの生物が大いに讃えるものとなるでしょう。たとえその後に母であるドーラと同じ道を辿る宿命であったとしても、それはその時の話です」

 詩人の言葉に今度はトーマスが目を瞬きながら無言のまま返せずにいると、詩人は首を僅かに傾げながら、薄らと笑みを浮かべた。

「ふふ、少し意地悪な回答でしたね。しかし、そういうものなのです。その時、その時代によって、ものの捉え方は大きく変わります。そう・・・例えば、あの悪名高き魔王が『魔王』と呼ばれる前までは、世界で唯一死蝕に打ち勝った『祝福の子』として讃えられていたように」

 まるでトーマス達を煙に巻くように、いつも通り妙に芝居がかったような様子で身を翻しながらそう言うと、どうやら満足したのか詩人は再び立ち去る姿勢になった。
 だが歩き出すわけでも無く、半身だけトーマスへと振り返る。

「そうそう、貴方は空を見るのもいいですが、地にも目を向けると、欲している真実が見えるかもしれませんよ。灯台下暗し、というやつです」
「・・・それは、どういう」

 トーマスが詩人の言葉に疑問符を浮かべながら答えを求めようとしたその時、またしてもトーマスの従兄弟ハンスが、今度は館の中から郵便物を手に慌てた様子で飛び出してきた。

「トム、ポール!こんな時だが、ターゲットの動向が来たぞ!」
「!!」

 ハンスの言葉にトーマスとポールが敏感に反応してハンスの元に急ぎ駆け寄り、彼の持っていた封書に食い入るように目を通す。

「・・・・・・これは・・・」
「・・・あぁ、こいつは想像以上に不味そうだな」

 封書の中に記されていた内容を見て、二人は苦々しそうに眉間に皺を寄せる。その中身に書いてある内容が、余程彼らをそんな表情にさせるようなものなのだろう。

「・・・早急に動きを決めなければ。・・・詩人殿、また出来れば今度お話を」

 そう言いながらトーマスが振り向いた時には、既に詩人はその場から忽然と姿を消してしまっていた。






 エレンが首を後ろに直角まで折り曲げんという勢いで見上げども、聳え立つその無骨な塔の先端は一向に窺えず。
 直下から見上げる神王の塔は、彼女の想像を遥かに超えて、巨大だった。
 道中、遠目で見ていた時点でその大きさには驚いたものだったが、しかしこうして真下から見上げてみると全く印象は異なる。最早エレンには、これを人が作ったものであるなどとは到底思えなかった。それこそ彼女には、まるでピドナ旧市街に佇むあの魔王殿のように、異様にして不気味なものとして目に映ったのである。

「おい、いつまでもそんな胸糞悪いものを見上げてんじゃあないぜ。とっとと宿に行くぞ」

 物珍しげな様子のエレンとは対照的に、忌々しげにその塔を一瞥だけしたハリードは一言エレンにそう声かけすると、一人さっさと歩き出してしまった。

 二人はピドナからリブロフに渡るや否や、慌ただしく翌日には神王の塔へと向かう行商人の商隊に混じって出発し、アクバー峠のバザールを越え、数日後には旧ゲッシア王朝跡に佇む、この神王の塔へと辿り着いていた。
 ハリードとしては、またしても思ってすらいなかったところまで来てしまったものだ等と内心では頭を抱えたくなる思いだった。何しろこの地には、神王教団を討ち果たしてゲッシア王朝を再建するその日まで、来るつもりなど無かったのだから。
 だが、その目的はいつの間にか彼の中で、どこか叶うことのない夢物語の様な扱いへと変貌していた。それをルートヴィッヒとの対話の中で痛感したからこそ、彼は自身の下手な拘りを捨て、十年の時を経て再びこの地に立つことができたのだとも言える。

(・・・ここまで来ちまったからには、確かめざるを得ない・・・か。まさかこの俺が、まだ目の黒いうちに歴々の王が眠る諸王の都へ行くことになるとはな・・・)

 見るのも悍しく忌々しい塔を敢えて視界に入れないように横を通り過ぎながら、ハリードは宿へと向かいつつ、そんな物思いに耽る。そうして意識を別のところに向けていても、彼の体はなんの問題もなくこの街並みを覚えている。だから彼は迷いなく、街の北西あたりにある安宿のある地区へと向かっていった。
 この神王の塔は、かつてゲッシアの宮殿があった場所に、そのまま建てられている。なので、それ以外の街の構造は、かつてのゲッシア城下町そのままなのだ。
 宮殿を中心として円状に広がっていた旧ゲッシア城下の街並みは、大きく三つの区画に分かれる。
 一つは、アクバー峠からナジュ砂漠を横断してきた者を労うかのように華やかに出迎える、都の顔ともいえる西のバザール区画だ。ここには主たるナジュの産業の中心市場の他に、酒家、渡来者向けの宿などが集合している。アクバー峠にある巨大バザールよりは規模は小さいが、アクバー峠まで流通しないような希少性の高いものも西区市場では取り扱っている。
 しかしこの西区画で売られているものは何方かと言えば富裕層や観光客向けの価格設定のものも多く、居並ぶ商人も強かなものが多い。地元事情に聡い者は、ここではあまり物を買わない。
 そんな西区画から繋がる南北の区画は、国民の居住区だ。都市の南東に位置するナジュの命の源たるハマール湖にほど近い南区画には主に富裕層が住み、反対の北部区画には平民街と、所謂貧民街が広がっている。
 貧民街はどの都市にも大抵あるものだが、特にこのゲッシアの貧民街は酷いものだとハリードは思う。
 ゲッシアには独自の聖典に基づいた絶対的な階級制度が存在しており、国民は全てその枠組みの中で識別される。その中で、聖典により定められた階級にも属することの叶わないダリットと呼ばれる民が、最北部の隔離された区画に追いやられ非常に貧しく過酷な暮らしを強いられている。その暮らしの悲壮さは、ハリードが今まで見てきたどこの国よりも過酷だと思われたものだ。この階級制度は数多くの迫害の歴史を生んでおり、ハリードの愛するゲッシアにおける、負の側面だと言える。
 そして最後の東区画は産業区画となっており、偉大なるナジュ文化をふんだんに反映させた様々な工芸品を作る工房や、ハマール湖を水源としてナツメヤシや天然ゴム、珈琲豆等の栽培を行う農耕地が広がっている。
 ちなみに西区画よりもこの東区画で生産者と直接やり取りをする方が割安で商品を入手出来るので、その辺りの知識や繋がりがある者たちは、その殆どがこの東区画で売買をするのである。
 そんな区画分けであるからして、西の中でも平民街に近い北部側には安宿が、富裕街に近い南部には高級宿が点在している訳なのである。であれば当然ハリードが目指すのは、安い方なのだ。
 懐かしき街並みを肌で感じながら移動するハリードの後ろを、対照的に物珍しそうな動きで見渡しながらエレンが付いていく。
 因みにこの地へとハリードを誘った(連行したともいえる)エレンの目的は、当然ながら失踪した彼女の妹であるサラの手がかりを求めてのことだ。
 リブロフでは運良く直ぐに聞き込みからサラの行き先に関する手がかりを得ることができ、それによれば「やけに商売のうまい少女と少年の二人組が、西に向かった。そして一月もしないうちに戻ってきたかと思うと、今度は東へと向かって行った」とのことだった。
 この証言をくれたのは、リブロフの市場で小さな商いをしている露店の商人だった。その商人はサラから幾つか商品を買ったらしく、その特徴をしっかりと覚えていたのである。
 少年と一緒の二人旅、というのが思いがけず大きく気にかかったが、しかしその商人に細かく確認した限りの少女の特徴は、全くサラと一致するものであった。なんらかの理由でサラは、その少年とやらと共に旅をしているようだ。
 まさかとは思うが、ボーイフレンドとかなのだろうか。奥手ではあるが思い切りのある性格である妹のことなので、姉としてはその辺は少しモヤモヤする。
 ちなみに聞き込みや情報収集と言えば普通は酒場だと考えられがちだが、しかしサラは酒を殆ど嗜まない。なので聴き込み先として最初から酒場ではなく市場の商人に目星をつけていたエレンの作戦が、狙い通りにはまったと言える。
 そして更にエレンは「トーマスも見つけられていないということは、そこと関わりがなさそうなところから情報を集めに行った方がいい」という鋭い直感の元、露天市場の小規模露店から聴き込みを行うことにしたのも見事に功を奏したのだった。
 街の商業ギルドには多くの商人が登録しているので確かに情報は集まりやすいが、逆にその膨大な情報量の中では、細かい話は埋れてしまいがちになる。エレンは当然そんなことを知る由もなかったが、彼女の直感はそこを見抜いたのだ。
 若しくはトーマス側の聞き込みは少女一人に的を絞ったもので、少年との二人組、という状況が災いし情報網から抜け漏れてしまったのかもしれない。
 そういう意味では、やはりピドナで待ちぼうけなどせずに自分で動いたのは正解だったとエレンは実感したものだった。
 だがリブロフでは幸先良かったものの、そこからナジュへと向かう道中に立ち寄ったアクバー峠のバザールでは、サラに関わるような情報を得られることは無かった。可能性は低かろうが念のためロアーヌ地方へと続く北門にて聴き込みも行ったが、そこでも矢張り少年少女の二人組が関を通った目撃情報もなし。
 そもそもロアーヌ地方に向かうのならばリブロフからは海路の方が早い上に安全なので、やはり東に向かったならばこのまま旧ゲッシア王都を目指すべきだろうと再確認し、彼女はここまで足を運んできたのであった。

「この先の宿に部屋をとったら、俺は少々買い物に出る。お前は聴き込みか?」
「もち、そのつもり。ここって露店街はさっきのところだけ?」

 今しがた通り過ぎてきた西地区を振り返りながらエレンが訊くと、ハリードは軽く中空を見上げながら顎に手を当て、少し考える仕草を見せた。

「んー・・・メインは確かにあそこだが、東区画にも職人の直営店みたいなのがぽろぽろとあるな。価格はそっちの方が安いから、俺はこの後其方に行く予定だ」
「ふぅん・・・なら、あたしも先そっちいこうかな。案内してよ」

 サラならどちらに足を運ぶかを想像しつつハリードの情報を元に同行を決めたエレンは、早速ハリードが選定した激安宿エリアの中の一つの部屋に荷物を放り込むと、此方のことなどお構いなしの様子で宿を後にするハリードを追いかけた。
 普通ならこういう相手に気を使わない態度は旅の道連れとしては文句の一つも出そうなものだが、エレンはハリードのこう言った部分には最初こそ多少は面食らったものの、かといって特段不快感を抱いたことはなかった。
 一年ほど前のロアーヌからランスまでの二人旅の間に慣れてしまっていたという見方もあるが、それ以前に抑も彼女自身が、どこかハリードと似た気質をしているのが最も的確な理由なのかもしれない。
 こうして旅をする前まで、シノンの開拓村では正に自分こそがこうして周りの人間のことなどお構いなしに突き進んでいたというか、今振り返ってみれば大いに改善の余地があったのではないかと思わざるを得ないような、数々の我が道を行くっぷりを発揮していたものだった。
 別に、単にそうしたくてそうしていたかと言われると彼女的にはそうでもなく、いくつか考えることがあってのことだ。
 そもそも彼女の行動の理由は、単純だった。強くあろうとした、というだけである。
 そしてその強くあろうとした理由とは何よりも先ず、妹を守るためだ。また、引っ込み思案だったサラを導くためでもあり、その上で二人が生き抜くためであった。
 大凡、こんな理由で彼女は強くあろうとした。
 強いということは、己が先頭に立つということだ。
 先頭に立つ時に、躊躇いはあってはならない。躊躇えば、勇気が鈍り、足が竦む。だから、何かの行動を起こすときに立ち止まってまで考えたり誰かに伺いを立てたりするということを、基本的に彼女はしなかった。長く考えれば鈍るということを、彼女は経験から知っていた。
 またその一方で、率先して誰かに頼ることができるという状況を、羨ましいなと感じることもあった。
 頼ることそのものを悪いことだとは、彼女も思わない。そうしてうまくやっている者達をシノンの村でも見てきたし、この旅の中でも仲間と共に成し遂げることが増えていくことで彼女自身もその重要性は大いに学んだものだ。
 しかし、それは彼女にはできない。それができるのは、頼ることができる状況にいる人間だけだからだ。
 彼女の状況は、そうではない。彼女は、己が強くなろうとするその理由において、本当の意味で他人を頼ることなど出来はしない。
 だから、一人で強くなろうとした。
 まぁ、単にそういう動き方の方が己の性に合っている、という見方も無いわけではないが、決してそれだけなんてことはないのだ、ということを重ねて彼女は主張したいのである。
 その視点に照らし合わせると、ハリードの行動基準は彼女の見る限り、全く自分のそれと一致していた。
 彼もまた、最終的には自分以外を頼らないのである。
 動こうと思えば先ず自分が動くし、興味が湧かないことには基本的に惰性では動かない。また、自分が動くときに周囲が共に動くことを基本的に期待しないし、抑もそんな事を望みもしない。
 だから周囲には我が儘だとか冷淡に見られたりすることもあるが、かといってそんなつもりは本人には毛頭ないのだ。そういう生き方をしている、というだけなのである。
 事実、興味が湧けばハリードは実のところ結構な世話焼き気質だと感じるし、交渉などの世渡りも卒なくこなすし、必要とあらばパブリックな場所での礼儀作法も弁えている。
 だから、彼がさっさと宿を出るのは彼の目的があって、それについていくと言ったのはあくまで自分のほうであって。そこに、一々待ってもらう道理は毛ほどもない。なんなら逆の立場だったならば、自分も彼と同じようにするだろう。
 なので特にそう言うことは感じずに追いかけるわけたが、しかし追いついたら肘で小突いて「レディを待つくらいの態度は見せなさいよね」と茶化すのは忘れないのである。誰がレディだ、との返答にきっちり激昂するところまでがお約束でもあった。

 旧ゲッシア城下町の東区画は、最もハマール湖の水源に近いこともあってか農場区画がその多くを占めており、視界が非常に広々とした区画だった。この都市に辿り着くまでに延々と続いていた一面の砂漠風景とは全く打って変わって、水源の恩恵を受けていることで緑がとても豊かな様子が垣間見える。
 広大なナジュ砂漠の中に突如として現れる大きなハマール湖は、ナジュと北方のロアーヌ地方を分かつ雄大なるエルブール山脈からの雪解け水などが地下水として砂漠下に溜まり、やがて地表に湧き出たものだとされている。そのハマール湖のほとりに栄えるこの街は、まさに砂漠の中の楽園にも思える光景だった。
 エレンはロアーヌやピドナでは見たこともない不思議な形の樹木の群生を物珍しげに眺めたりしながら、ハリードと共に東区画に点在する職人たちの店の軒先を順に回る。
 そしてハリードが職人を半泣きにせんとするほど値切りに値切りながら買い物をする傍らで、エレンはリブロフと同じ要領で職人相手に聞き込みを行なっていった。
 だが今回もアクバー峠同様、思ったように情報が集まらず調査は難航することとなった。
 サラや彼女に同行する少年とやらの特徴をいろんな角度から説明してみても、そんな来客があったとは一向に聞かない。
 そうして聞き込みが連続して空振りになるにつれ、エレンの焦りは増していった。
 まさかサラは、ナジュに来ていないのだろうか。そんな最悪の予感が頭を過ぎる。
 いや、そんな悲観するのは良くないと、直ぐに思考を切り替える。それにまだ西区画での聞き込みも行っていないのだから、単に東区画側までは回ってきていない可能性だって十分にあるはずだ。
 だが、それでも心のうちに芽生えた焦りを消し去ることはできない。
 そのように焦りを募らせるエレンを他所に、ハリードは単身での砂漠越えに必要な物資を順調に買い集めていった。

「俺の用事は終わったから宿に帰るが、お前はどうする?」
「うん・・・西のバザールは・・・もう間に合わないか。あたしも今日は戻るかな」

 満足な成果を得られずにたいそう不満そうな表情のエレンを見ながら、しかしハリードは素知らぬ顔で歩き出す。
 ここまで付き合っている手前、自分にも手伝えることがあるのならば、それはやぶさかでは無いとハリードは思っている。
 だが、特に手伝えることがないのならば、生半可な慰めの言葉をかける事などはしない。場合によってはそれは嫌味にも聞こえるし、自分ならそう捉える。恐らくはエレンも、その性質だろうと思う。
 だから現時点で精々自分がしてやれるのは、酒家で愚痴を聞いてやることくらいだ。
 そう思いながら背後にエレンが付いてくるのを感じつつ宿へと戻る道すがら、ハリードはふと、何かを思い出したように目を瞬いた。

「・・・そういえば」
「なに、なんか情報!?」

 瞬間で食らい付いてくるエレンの叫び声にも似た反応を受け流しつつ、ハリードは歩みを止めずに続けた。

「まだ生きているのかは知らんが、十年前にバザール区画に情報屋がいたな。かなり抜け目ない奴だが、情報は確かだったはずだ」
「まだ居るとしたら何処に?」

 兎に角情報が欲しいエレンは、当然のように食い下がる。

「根城は西の城門近く、メインロード北沿いのマクハーだったはずだ」
「マクハー?」
「茶店の事だ。この国では本来あまり女の行く場所じゃあないが、お前なら問題ないだろ」
「わかったわ、ありがと」

 そう言うや否や、エレンは足早にハリードを追い越し、西区画への道を走っていった。
 その様子を無言で見送ったハリードは、肩に下げた荷物を持ち直して同じく西区画の宿へと向かう。

 程なくして戻った宿にて購入物に不足や問題がないかの確認を行い、それが終わると即座に宿の者を経由して砂漠の道中に連れていく駱駝の手配を行う。砂漠での荷運びに駱駝は必需品なのである。
 手際良く一通りの準備を終えたハリードは、後で文句を言われないように部屋に書き置きを残し、宿のすぐ向かいにある酒家に向かった。
 そこで、店では一種類しか扱っていないらしいアラックを飲みながら、頭の中ではゲッシア王族の間に口伝のみで伝わる唄を反芻させていた。

(諸王の都に辿り着くには、道中にあるとされるランドマークを2箇所経由する必要がある・・・。そこに辿り着くには口伝の通りなら、陽が南中を指し示す頃に出発し、南へ・・・そして陽が沈む頃に辿り着くという岩場の何処かに王家の紋が隠し彫られているから、それを目印に翌日南中より、今度は太陽を追いかけて歩き、陽が沈んだらそこからまっすぐ。その先にある岩陰のオアシスに王家の紋を見つけられれば、あとは南下した先にある・・・。王家に伝わる唄を解釈するとこんなところだな・・・)

 延々と同じ景色が続き、気温による揺らぎによって見通しの立たない砂漠は非常に迷いやすい。なので古くは太陽の動きに頼っての移動が主であったが、これは季節によっても当然ながら変わる。この唄も恐らくは夏季の唄なのだが、今は冬季だ。
 それらの対策として、ハリードは携帯型の象限儀を懐から取り出して眺めた。
 これは四分儀とも呼ばれ、地平と天体の角度などから大凡の現在位置や時刻を把握するものだ。船乗りや砂漠の民の必携道具である。
 砂漠以外ではあまり使うこともなかったが、いざ何処かで迷ってしまった時のためにと、彼は常にこれを携帯していた。

(・・・しかし、本当に行く意味など、有るのだろうか。いや・・・馬鹿げている。行く意味がないなんてことは、流石の俺も頭では分かっている。ただ、それでも行かねばならない気がすると言うだけなのか・・・)

 杯を傾けながら、ぼんやりとそんなことに思いを巡らせる。すると唐突に背後で、俄かにどよめきが起こった。
 そのどよめきの原因が彼には半ば予測がついていたが、一応確認をするように半眼で背中越しに軽く様子を見る。
 するとそこには、周囲の動揺をまるで意に介さない様子でずかずかとこちらへ向かって歩いてくるエレンの姿があった。
 予測通りである。
 今でこそゲッシアの法典はこの地から消え去り、特に外部からの来訪者を迎える西区画では大いに飲食店が繁盛し、男女関係なくナジュの食文化にも触れている。
 だが元々はこうした酒家などはゲッシアにはあまり数がなく、しかもそこへの来訪はその全てが男性に限られていたという歴史があった。
 特に今彼がいる場所はほぼ北区画に面する通りで西の観光区画中心部からは離れた場所であり、日中ですら外来者も殆ど立ち寄らない区画。どちらかと言えば、色濃くゲッシア文化が残っているような場所だ。そこにずかずかと外様の女一人で立ち入ってくるとなれば、その周囲の動揺ぶりもさもありなんといったところだろう。
 当然そんなことを知るはずもない(仮に知っていたとしても気にすることはないだろう)エレンは、カウンター席にいるハリードを見つけると足早に駆け寄った。
 そしてハリードの隣に勢いよく腰を下ろすと口早に店主へビールを頼み(因みにここにはアラックしかない)、ハリードへと視線を向けた。
 それとは別で、オーダーに戸惑った様子のまま自分に視線を向けてきた店主へ自分と同じアラックでいいと手振りで示しつつ、やや面倒くさそうな表情でハリードもエレンに視線を寄越す。
 するとエレンは開口一番に、こう宣った。

「ねぇ、あたしを諸王の都ってところに連れていって欲しい。行くんでしょ?」
「・・・・・・おい、なんでそんな話になるんだ。お前、サラを探すんだろうが」

 全く理解のできない話の進み方に流石のハリードも困惑の色を隠さず、エレンへと聞き返した。
 一方、目の前に出されたアラックに困惑していたエレンはハリードが飲んでいるのを見てそのまま一口飲み、不慣れな味に大層眉を顰めてみせながら、その表情のままハリードに向き合う。

「ハリードの言う情報屋ってのに会ってきたわ。でね、そいつに言われたの。神王教団のローブを一万オーラムで買うか、諸王の都に眠る財宝を何か一つ持ってきたら情報を売るって。そいつ、サラのこと見た感じだった。特徴知ってたもの。正直その場で締め上げようかと思ったけど、そういえばハリードが行くとか言ってたの思い出したの」
「・・・お前なぁ・・・完全に必死さにつけ込まれただけだろうそれは・・・」

 思わず軽い頭痛を覚えて米神に指を当てながら、ハリードは絞り出すようにそう言った。
 単なる直感ではあるが、恐らくこれは、偶然などではない。自分がこのエレンと共にこの街に帰ってきたことを、情報屋は知っていたと見るべきだろう。だからこそ、普通なら冗談にもならないような注文をつけてきたのだ。
 今更何のつもりで情報屋がそんなことを言い出したのかは、彼にも全くわからない。だが、確かに諸王の都は古ゲッシアを知る者の中ではエルドラド・・・つまりは黄金郷とされており、そこに眠る王家の財には相応の価値があると見るのもわかる。
 とはいえ、自分がそこに行くためにここに戻ってきたことなど知る由もないはずだと言うのに、何とも不可思議な話ではあった。どうにも、今考えたところで答えが出そうにもない。
 なのでそこについて考えることは一旦やめ、ハリードは目の前の杯を一気に飲み干すと、立ち上がった。

「ここで話すようなことではない。部屋に戻るぞ」











最終更新:2021年07月11日 21:18