思い返せば、空を飛ぶのは人生で二度目だな、などと、ふと思う。
 一度目は、そう。南方は密林の奥にて、妖精族の長に招かれ妖精の里に向かう時に、フェアリーと共に風に乗って。
 あの時に全身で感じた浮遊感は、きっとこの先何年生きていても忘れることはないだろう。これまでの人生の中で最も心躍る瞬間の一つであることに、微塵も疑いの余地はない。
 そして満を持して訪れた人生二度目の飛行体験は、まさかの竜の背中である。
 まるで聖王記に記された伝説をそのままなぞるかの様に、巨龍ドーラの子グゥエインの背に乗り、カタリナは今、遥かな上空を飛んでいた。

(まぁ・・・これ最早飛んでいるっていうか、しがみ付いているって言うのが正しい気もするけど・・・)

 今までに体感したことがない様な、強烈な風圧。それを常に全身に受けながら身を低くして竜の背に乗るその状態は、正直に言えば姿勢を制御するのでやっとだと言っても過言ではない。

(いやこの状況で戦うって相当厳しいわ実際・・・。聖王様は一体どうやったっていうのかしら・・・。武器は剣・・・いや、槍かしら・・・。そういえばノーラさんとこのとか、聖王の槍って言うくらいだし・・・あれ、でもあれはアラケスの魔槍を鍛え直したものよね・・・確かアラケス征伐譚ってビューネイの後だった様な・・・そしたらフォルネウス征伐譚みたいにトライデントとかかしら・・・?)

 伝説とは、勿論多少なりとは誇張されている部分もあるのかもしれない。だが兎も角、聖王は竜の背に乗り戦ったのだ。ならばこの状態で戦う方法は、必ずあるはずなのである。
 それは頭ではわかっているのだが、しかしそれにしても実際この状況に置かれてみると、まるで自由の利かない状況に軽く絶望感を味わう。
 因みに、本来ならばこれに加えて地上との温度差も相当なものの様だが、それは幸いにも巨龍種の持つ朱鳥の加護の影響を自分も間近で受けているので、回避できている様だ。
 それがなかったら、風圧以前にまず凍えて何も出来ないかもしれなかった。

「ねぇグゥエイン!聖王様って、ビューネイとはなんの武器で戦っていたの!?」
『知らぬ。我が生まれた時には聖王は既に戦っていなかった』

 飛行するグゥエインに聞いてみるものの、この釣れない態度である。
 カタリナは盛大に眉間に皺を寄せながら、頭の中で必死に戦い方を模索するのであった。
 グゥエインとカタリナは、グゥエインの住処にて一戦を交えた。正確にはグゥエインによるカタリナの実力を図るための腕試しのようなものであったが、この一戦により双方の距離感は随分と縮まったのを互いに感じていた。
 世間でいう悪竜の誹りは、結果として紛れもない事実ではあるのだろう。だが、相対し剣と言葉を交えた上でのグゥエインという竜の印象は、カタリナにとっては非常に好感の持てる存在だった。
 先ず感じたのは、その精神の高潔さである。
 グゥエイン自身は世界最強の竜を自負する誇り高さからくる言動はあるが、しかしそれは、単なる傲慢とは違う。
 グゥエインには、他者と己を一々比べる様な稚拙な素振りが一切ないのだ。
 それは己の中にある確固たる誇りが為せるものだということを、カタリナは経験則から知っていた。
 グゥエインに感じるそれは、まるでカタリナ自らがその胸に刻む、武人の誇りの様なものにも思えるのだ。
 それを体現し、且つ実力を兼ね備えた存在というのは、人界において考えれば数えるほどしか存在はしないだろう。
 当然ながら人間と竜との精神構造には大きな違いがあるだろうから、彼女の感じるそれが大いに的外れである可能性も否めはしない。
 だが、それでもカタリナが非常に好感を持つには十分すぎる要素を、このグゥエインという竜は備えていた。

 一方のグゥエインは、これまたカタリナという未知との遭遇による自らの思考の変化を、大変興味深く感じていた。
 本来ならば、矮小なる人という種族を軽く捻ってやろうか程度の腹積りが、今彼が背に乗せるカタリナという人間は、先の一戦に於いて全く驚くべき戦闘能力を発揮してみせた。
 今までもグゥエインの元には、数々の討伐目的と思しき人間たちが訪れてきた。それは一国の騎士団であったり、腕に覚えがある様子の冒険者風情であったりした。
 だがその悉くは、実に取るに足らない存在であった。
 グゥエインにとっては何ら工夫も凝らさぬ息の一吐き、爪の一薙ぎで、人間の体というのは直ぐに物言わぬ肉塊に成り果てる。
 グゥエインからすると人間に対する印象はそれ以上でもそれ以下でもなく、つまりは、単なる捕食対象でしかない。それはこれまでもこれからも、揺るぎない生態系として変わることはないものなのだと考えていた。
 だが、今この背に乗る人間は違った。
 人とは思えぬ驚異的な空間把握能力からくる軌道予測と俊敏さで以って、その雷気を伴う息を、鋭い爪を、岩をも噛み砕く牙を避け、恐らくは見舞えば堅牢なる我が鱗をすら断つことが出来るであろう域にまで磨き上げられた、神技の如き剣戟を振るってくる。
 何か一つでも当たればひとたまりも無い筈の此方の攻撃に全く怯む事なく斬撃を放ってくる存在など、未だ嘗てグゥエインは出会ったことがなかった。
 ことここに至るまで、グゥエインは幾度も人を喰らうその度、疑問に思っていたことが一つあった。
 何故、我が母ドーラは聖王などと言う『人間』なぞに討ち果たされたのか、ということだった。
 聖王とて、所詮は人間。そして人間がどれだけ脆く弱く小さな存在であるのかを、竜は知っている。竜と人との間には、超えることなど叶うわけもない圧倒的な力の差があるのだと、そう確信していた。
 だから、母ドーラが聖王に討たれた理由とはつまり、ともすれば己が宿命を忘れてしまった愚考の末なのではないか。
 そのようにすら、グゥエインは考えていた。
 何しろこの三百年の間でグゥエインが学んだ人間という存在はか弱過ぎて、それ以外には到底考えようがなかったのである。
 そして今、改めてグゥエインは思う。
 自分は竜たる宿命を忘れたと思しき母を、そういう意味では侮蔑していたのかもしれない、と。
 だからこそ、今ここに至りグゥエインの思考は突き抜けて晴れやかだった。
 人は、竜と居並ぶ可能性を秘めていたのだ。
 それが、先の一戦で証明された。
 であれば、母は恐らく竜の宿命を紛うことなく全うしたのではないか。その可能性が見えたのである。
 無論、それだからと言ってグゥエインの何が変わるわけでは無い。最強の竜であるグゥエインは、母ドーラがどの様な竜であったのかに関わらず、今までもこれからも只、最強の竜であるだけだ。
 しかし、自らの生みの親が誇るべきであるか否かは、思いの外、思考への影響があるようだ。
 単に、ここ百年くらいで一番と言っていいくらいには、気分が良かった。
 ただそれだけだが、それでもこの発見が今になって自らに齎されたことに、グゥエインは存外の喜び、面白みを感じていたのだ。

『・・・空での狩りは地上と違い、上下左右から獲物との交差線を軸に狙う。何、貴様なら読めるだろう』
「えー・・・つまり、すれ違いざまに叩き込めって事でいいのね!?」
『そうだ。まぁ落ちても拾ってやる。心配はしなくていいぞ』
「ほんとお願いね!?約束よ!?」

 両者がその実力を確認してからは、認め合った同士として互いの精神的な距離は非常に縮まった。
 一戦の後にはフェアリーを交えてカタリナがこれまでの経緯や世界状況などを話すと、グゥエインもまた、己の知るこの三百年の知見を二人に話して聞かせた。
 その中で互いに戦場での意思疎通に堅苦しい言葉遣いは不要にしようと意見が一致し、僭越ながらカタリナとしても大分崩した口調で話す様にした。
 因みに彼女が普段の貴族然とした口調ではなく崩して話すのは、元は騎士団の同期連中だけであった。特にコリンズやパットンといった陽気な連中と騎士候補生の時から長年の寝食を共にしていた事で、その様な口調になったのは致し方ない事だと言える。彼らとは騎士団仲間であると同時に、良き友人でもあった。
 グゥエインとそのような関係になったのかといえば無論そういうことではないのだが、これから共に強大な相手に共に戦いを挑む者同士として、種を超えた奇妙な友情のようなものがカタリナの中に芽生え始めているのは、事実であった。
 対するグゥエインに特段変わった様子はないが、ただ思いの外、この竜は饒舌であるということも分かってきた。
 三百年を生きた竜の語る知見は非常に興味深いものばかりであり、人とは異なる視点で語られる世界の変遷は、想像を超える物語ばかりだった。
 本音を言うと、敬虔なる聖王教徒であるカタリナからすればグゥエインと同じ時代を生きた聖王のことも色々と聞いてはみたいものであったが、しかし流石にこれは、親の仇の話だ。自分が訊かれたら嫌だろうなと思う事は、なるべく訊かないようにした。

(まぉ、戦い方は必要に迫られてさっき聞いてしまったけれど・・・)

 グゥエインはあまりその辺りを気にしているような雰囲気は感じられなかったが、しかし饒舌である竜の口からも聖王の話はこれまでほとんど現れなかったのは確かであった。
 本人の語るところによれば、グゥエインが生まれたのは聖王による四魔貴族征伐が終わった後とのことだ。
 聖王と共にビューネイを討伐した巨龍ドーラは、その後ビューネイに変わり天空を支配した。そしてドーラはその圧倒的な力でいくつもの人里を焼き払い、人を喰らい、財を奪ったという。
 聖王がいくら諫めようとも、ドーラがそれを止めることはなかった。
 そしてついに、聖王は巨龍ドーラを討つべくルーブ山を登った。四魔貴族を退けた英雄同士の戦いは苛烈を極め、その果てに聖王の剣が深々とドーラへと突き刺さり、ドーラは絶命した。
 これは、聖王記にも記されている物語なので、カタリナも幼い頃から教会で聞いてきたものである。
 そうするとグゥエインは生まれた直後に母を殺され、三百年という月日をあの住処で過ごしてきたということなのだろうか。
 その三百年とは、一体どれほどの時間なのであろうか。たかだか二十数年を生きているに過ぎないカタリナには、全く想像もつかない話だ。
 つまり、グゥエインが今どのような考えに至っているのかも、彼女にはおそらく全く分からないだろう。

『この辺りで降りるぞ』

 グゥエインの声で、物思いに耽っていたカタリナの意識が現実に呼び戻される。
 ルーブ山を発ってから比較的低空を飛んでいたグゥエインは、イスカル川沿いに下ってピドナのあるマイカン半島を抜け、そのままロアーヌ地方へ向けてヨルド海を渡ったところで夜を明かすことにした。
 今回は、空中戦となる。つまりは飛行時間がそのまま戦闘時間に直結するので、体力管理の側面から極力、決戦の直前に飛び立つようにしようと事前に相談をしていたのだ。竜とて、無尽蔵に飛び続けられる訳ではないのである。なので、カタリナも何ら疑問に思うことなくそれに従う。

「・・・しかしまぁ、たった二日足らずでルーブからここまで来てしまうなんて。自分の中の常識が全て覆るようだわ」

 つい数日前は世界地図上で北西の果ての山地にいたというのに、今は地図上で最も東に位置する彼女の故郷ロアーヌと地続きの陸地だ。
 しかし思わぬ形で久方ぶりに故郷の大地を踏み締めることになったカタリナだったが、今はその感慨などよりも只々、その驚異的な移動速度に素直に舌を巻いていた。
 これが普通に陸路海路を使っていれば、ルーブの山頂からこのロアーヌ領とポドールイ地方の境あたりの位置までは、どう足掻いても一ヶ月程度はかかるような旅路なのである。それが、飛行ならば二日目の午後には到達してしまうのだ。全く驚くべき話である。

『翼なき人間は、不自由なものだ。移動も遅く時間がかかり、その上寿命は短い。我はむしろ、それで良くここまで繁栄したものだなと思うがな』
「いやまぁ仰る通りとしか感じないけれどね」

 人間の寿命は、精々が五十年程度だ。しかもそれは、あくまで都市部に限った話である。これが農村地や貧困層に至っては、もっと短いとも言われている。
 対して巨龍種の寿命は人間の十倍を超えるとも言われている。数百年を生きる竜にとって、人間とは本当に小さな存在に映ることであろう。

『だが、その短い寿命こそが人間をここまで進化させたのかもしれん』
「うぅん、例えばどんなところにそれを感じたの?」

 いまいち想像がつかない様子のカタリナが小首を傾げながら聞くと、グゥエインはどこか眠たそうに瞳を細めながら、ふしゅう、と鼻息を漏らした。

『言わずもがな、先ずはお前のその強さだ。その強さは、貴様ら人間が様々な形で継承の術を見出し、何代にも渡り連綿と受け継がれてきたものの集大成なのだろう。そしてお前のその強さもまた、同じくして後世へ伝わっていくのだろう。それを、数十年という短い周期で行っている。それは、短命種ではない我らには、ないものだ』
「短命種、か。私たちから見たら、貴方が長命種なのだけれどね。でもまぁ、確かにそれはあるかもしれないわね。その技術の継承が五十年か五百年かという話になれば、頻度が多い方が当然改良は進むでしょうし」

 カタリナが腕を組みながらグゥエインの言葉に感想を述べていると、がさり、と遠くで物音がする。
 どうやら、ここに降りてから直ぐに食料調達用に仕掛けていた即席の罠に、何かが引っかかったようだ。
 カタリナが期待を胸にこっそり駆け寄って見てみると、兎が一羽、罠に掛かっていた。

「おぉ・・・やってみれば採れるものね。ポールに感謝しなくちゃ」

 罠の作り方や仕掛ける位置の選定などは、狩の知識があるポールの直伝である。
 丁度携帯食料も底をついていたので、空腹のままで決戦に挑まなくて済むのは非常にありがたい。なんなら一時はグゥエインにどこかの街に降りてもらおうかとも悩んだほどだが、そんなことをすればどう楽観的に予測しても街の混乱が必至なので、腹ごなしは半ば諦めかけていたところだったのだ。
 そのまま直ぐに頭を仕留めてグゥエインの元に獲物を持って戻ると、今度はグゥエインから、なにやら木陰の奥を尻尾で示された。
 カタリナが怪訝な表情をしながらそちらへ視線を向けると、竜からは無言のまま、行ってみろとばかりに尻尾を振られる。それに素直に従って木陰の奥に踏み込んでみると、そこには果たして、少々焦げた様子で横たわる猪の姿があった。

『近くにおったので軽く雷気を通しておいた。それも捌いてみるがいい』
「え、私こんなに食べられないわよ」
『我が食べるのだ。腹は我も空く。ただ、普段と同じでは詰まらぬからな。人間が行う調理とやらで食してみようと思ってな』
「えぇ・・・猪の捌き方なんて分からないわよ・・・まぁ、やってはみるけれど」

 グゥエインに手伝ってもらいながら木に吊るした獲物二頭の頭部を手際良く切り落とし、先ずは血抜きを行う。
 そこから腹部を裂き、大雑把に内臓部分を取り出した。ポールによれば内臓部分も火を通して食せる部位は有るらしいが、カタリナにはその見分けの知見はないので、今回は遠慮する事にした。グゥエインにも一応食べるか聞いてみたが、今回はカタリナに任せるとの事なので、自分と同じ方針をとることとする。
 兎は小型のナイフで切り目を入れてから皮を一気に剥ぐことができたが、猪は同じ要領では上手くいかなかったので、剣でどうにかする事にした。

『ほう、器用に皮を剥くものだな』
「お褒めに預かり光栄ね。ま、初めてやったにしては上出来でしょう」

 多少不恰好ではあるが、かなり薄く毛皮部分だけを剣で切り落としていく。これも普通に考えたら驚異的な神業の部類であろうが、生憎とその技術を精肉に活かす場面は今後はあまりなさそうだろう。
 そこからは部位ごとにざっくりと切り分け、携帯していた塩や胡椒を塗り込んで火にかける。着火をグゥエインに任せた時などは息の一吐きで瞬時に枝が燃え上がるものだから、野営で火をつけるのも竜がいると楽な物だな、などと呑気な感想を抱いた。
 あとは肉の焼き上がりを今か今かと待ち侘びながら、グゥエインと他愛のない話を続けることにする。

「ルーブでも色々聞いたけれど、貴方から見たこの三百年で、なにか大きく変わった事とかってある?」
『・・・特に大きくは変わらんな。強いて言うなら、お前達人間の数が爆発的に増えた位だ。ただ、それが我にはどうにも不自然な様相に見えるがな』
「・・・不自然に?」

 グゥエインのその言葉に、カタリナが訝しげな表情をしながら聞き返す。
 グゥエインは、どうも気に触るのか尻尾でしきりに翼のあたりに飛び回る虫を払いながら、軽く上空を向くように視線を上げた。

『ただ増えただけ、なのだ。これを不自然と見るかどうかも、種により見解は異なるかも知れぬがな』
「随分と含みがある言い方ね。聞かせて頂戴」

 グゥエインが不自然に感じる点とは、こうだった。
 三百年の昔にグゥエインが生まれ出てから十数年もした頃には、もはや彼の竜に仇なすような生物は世界には存在していなかった。だからグゥエインは自由に空を飛び回り、世界の在り方を今日まで見続けてきたのだ。
 その間、聖王の活躍により四魔貴族という脅威から解放され爆発的に人口を増加させ一気に生活圏を広げていった人類だったが、しかしその割に種としての進化は非常に限定的に見えた、と言うのである。

『例えばお前達がバンガードと呼ぶあの島のような物は、我の目から見ても人類が作った最高峰の造形物だ。あのようなものを作り続けたのであれば、我ももう少し人間への興味が湧いたのかも知れぬな。だがこの三百年、あれに匹敵するような物は全く作られておらぬようだ。恐らくあれはお前達が魔導器と呼ぶものに属するのであろうが、その技術の積極的な応用事例が、全く他に見当たらない。お前の持つその剣も、同時期に作られた聖王の遺物だったな。それも、広義では武具というより魔導器であろう。そういったものが、この三百年は全く世に出てきていない。その技術がもっと広まればより多くの益を人類にもたらすことは間違いないだろうに、これは如何にも不自然というものではないか?』
「・・・言われてみれば確かに、それはそうね」

 竜の眼からみたこの三百年の人間の歩みは、この様に不可思議なものであったという。
 逆に変化が見てとれたものといえば先の通り人口増加と、それに伴う食糧事情の改善を元とした農耕技術の多少の発達と、今回グゥエインも気付かされたような武力の継承、と言ったくらいだ。それ以外の人間の種としての進化は、驚くほど停滞しているように見える、というのである。

『その視点で唯一目に見える変化が見えたのは、ここから北西にある森の中の家の周辺くらいだ。あそこにはついここ数年の間に、魔導器を模した不自然な造形物が幾つか現れた。だがそれも、どうやら魔導器とは少々違うもののようだが』
「ここから北西の森の中の家・・・あー、それツヴァイク辺りかしら。なら多分私もそこ知ってるわ・・・」

 そこにあるのは恐らく教授の館であろうと、カタリナは予測した。周囲と違うものがあるとなると、寧ろそれくらいしか思い当たらないのだ。確かにあれは、空から見てもさぞかし異様に映ることだろう。

「魔導器・・・の技術って、そもそも現在に正しく継承されていないみたいなのよね。その館の人も含めて私の知り合いでも何人かその研究をしているみたいだけれど、殆ど手探りみたい。でも確かに、三百年前には実際にあった技術が今はないと言うのは、不思議よね・・・。あ、そろそろいいかも」

 話している間に丁度具合良く火が通った獣肉をカタリナは火から取り出し、小型のナイフで肉に切り込みを入れて中の焼き具合を見た後、そこからは都度切り込みを入れてから噛みちぎるようにして食べる。丸ごと齧り付くのは、淑女としては流石に抵抗があるのである。一方のグゥエインは火すらお構いなしに、炙られている最中の大振りの肉の塊にそのまま齧り付いた。
 ジビエとしては冬に入る前のような獣がたっぷりと栄養を蓄えた最良の時期ではないが、それでも今は空腹が何よりのスパイスとなり、十分に美味だ。あとは出来れば渋みの利いたワインも一緒に欲しいところだが、それは流石に無いものねだりというものだろう。

『ふむ、これが胡椒とやらの味か。意外と悪くないな』

 そのまま齧り付いたあとは何だかんだしっかりと味を感じるように咀嚼しながら、竜が唸る。

『肉は強すぎぬ火で一定時間炙ることで、肉の中の脂が程よく溶け出すのだな。焦がしたりそのまま食べるより、肉質も明らかに柔らかい。普段通りそのまま食べるのも良いが、これはこれで気がむたい時にやるには悪くない』
「随分とグルメな竜ね・・・・。私の旅仲間より、余程上等な食レポよ」

 苦笑しながらグゥエインの感想に応えたカタリナは、それでも自分が捌いた肉にそのような感想を言い渡されたこと自体には悪い気はせず、上機嫌で食事を進めながら先程の話を続けた。

『我も聖王以前の時代は知らぬが、それでも見聞する限り、そこまで大きくは人も人以外も、文明の変化はないはずだ。然るに魔導器という技術の登場は恐らく人類史の中では、非常に大きな転機であろう。それが、聖王が生きていた数十年の期間以降はぱったりと途絶えてしまっている。そこに大いなる不自然さを感じるのは、ある種当然であると言えるのではないか?』
「それは確かに理解できるわ。そうなると、魔導器技術と聖王様には何らかの関係性がある、と想像するのが自然な流れだけれど・・・ただ・・・」

 グゥエインと意見を交わしながら、自分の中にある引っ掛かりがなんなのかを、カタリナは脳内で探っていく。
 彼女が今まで見聞きしてきた中で、この引っ掛かりはいったい何処から感じ取れるのだろうか。それを自らの記憶に問いかけ、振り返ってみる。
 すると、思いのほか早くにその正体は判明した。

「・・・そうだわ。聖王様に関係するもの以外にも、類似するもの、あった。四魔貴族の住処よ」
『ほう・・・そういえばお前は、既に彼奴らとの戦闘経験があるのだったな。であればその住処も見ていると言うわけか。彼奴らの居城には、魔導器があったのか?』
「魔導器・・・かどうかは分からないわ。でも、明らかに私たちが現在持ち得ていない技術が使われていたのは確かよ」

 カタリナの中で最も強く脳裏に焼き付いているのは、彼女がこの戦いに踏み込むこととなった、そのまさに始まりとも言える場所。一番最初に全く意図せず辿り着いた其処は、魔戦士公アラケスが居城とする、魔王殿の地下空間だ。
 魔炎長アウナス、魔海侯フォルネウスの住まう場所にも足を踏み入れた彼女だが、あの魔王城という場所は、彼女が見てきた中でも最も理解に苦しむような構造をしていた。
 そもそも地上部分にみえる魔王殿自体、現在の建築技術で作ることは不可能だとすら言われている。それは、以前にカタリナも伝聞で聞き齧ったことがあった。
 その表す意味は兎も角としても、随所に施された高い芸術性を備える豪奢な調度物の数々。現存する建築技術を軽く凌駕する高さを備えた、驚異的な空間設計。
 建築に従事するものであれば、学べば学ぶほど魔王殿の、その建築物としての圧倒的な造形に恐れ慄くのだという。
 そしてカタリナが辿り着いたその魔王殿の地下には、更に想像を絶する空間が広がっていた。
 紅く脈打つように鳴動する壁面。踏み入れると、全く別の場所に放り出される何らかの仕掛け。部屋の一室であるというのに、まるで夜空に浮かんでいるのではないかとすら錯覚するような、透明な床の部屋。
 思い出そうとすれば、その非常識さは枚挙に遑がない。
 そして二ヶ月程前に海上要塞バンガードの内部を見た時、確かに彼女は思ったのだ。
 水晶玉に合わせて碧く鳴動するバンガードの艦橋は、まるで魔王殿の地下のようではないか、と。
 そして魔王殿とは、聖王よりもずっと以前の、今から六百年前に遡る魔王の時代に作られたものなのだ。

『・・・そこに類似性があるとしたら、つまり魔導器という技術に関連がありそうなのは、聖王というよりは寧ろ魔王まで含めた宿命の子そのもの、というわけか』
「あくまで私の見てきたものを繋げ合わせただけの話だけれど、そこまでとんでも理論ではない・・・と思うわ。魔王と聖王様の共通点がある・・・なんて考え自体、聖王教会的にはど真ん中で禁忌も禁忌でしょうけれど」
『ふん、人間の下らん信仰なぞに興味はない。だが、魔王の恐怖支配にせよその教会を中心とした聖王の信仰支配にせよ、ある意味ではその支配によって人類と魔導器技術の意図的な断絶が図られていた、という見方も出来るであろう』

 ばりばりと肉のついた骨まで食しながらグゥエインが言うと、カタリナは己の信仰心が何やら試されているような気分に陥りながらも、強く今の意見を否定する要素も見当たらずに兎肉を噛みちぎりながら腕を組み直して唸るのであった。

『さて、腹も満たされた。我は明日に備える』
「ううん・・・私もそうするわ。なんだか考えすぎちゃって頭も疲れたし」

 一足先に頭を前足に乗せて眠りについたグゥエインを横目に焚き火を消して簡易的に後始末を終えると、カタリナも満腹感の中で横になった。
 時期的にはまだ寒気の中での野宿だが、巨龍種の持つ加護によって周辺の気温は上がっている。これなら凍える心配は全くないだろう。

(・・・聖王様と魔王の共通点、か。今まで考えもしなかったけれど・・・人智を超越しているという意味でも、確かに似ている。そしてそれが『宿命の子』の特性として時代に顕現するのだとしたら、今の時代にもそれは言えるということになる。うーん・・・だめだめ、こんなの私が考えても仕方ないわ。今は明日の戦いに集中しなきゃ・・・)

 頭が冴えてしまって中々寝れないかと思ったが、慣れない飛行体験でしっかり体は疲労を感じていたようで、そう間を置かずにカタリナもゆっくりと眠りに落ちていった。
 だが、彼女の中に生まれた疑問は、眠りに落ちても消えることはなかった。










「・・・風が」

 ふと気配を感じて少年が見上げたのは、鬱蒼と生え茂る薄暗い樹々の間から僅かに見える空。
 そこは、真面な生物が住む場所とは到底思えないほどの濃い瘴気が渦巻く、地獄。その地獄に満たされる邪悪な瘴気をたっぷりと吸い込んだ歪な樹々の中に、少年と少女の二人はいた。
 しかし少年少女の周囲だけは、まるで一切の瘴気が掻き消えたかのように清廉としている。
 呟いた少年の言葉と動きに合わせて、一歩先を歩いていた少女もまた、空を見上げた。
 見上げる先で『風』が通り過ぎる様子を確かに感覚で捉えながら、また一歩、時が近づこうとしていることを少女も悟った。

「・・・私達がアウナスの幻影を退けてから、一気に動き出しているみたいだね。これは、予定変更しないとダメかもしれないね」
「・・・そうだね。ごめんよ、僕が鈍間だから」

 少年が自虐するようにそう呟くと、少女は「違うよ」と言いながら首を横に振った。すると後ろで結ばれた長い彼女の癖っ毛が、動きに合わせてふわりと舞い動く。

「私達がこうして動いているから、世界がそれに応えているだけよ。うーん・・・まぁ玄室は調べてみたかったけれど、これはもう向かった方がいいかな」
「そうだね・・・」

 やはり浮かない表情をして俯いている少年に振り返りながら、少女は微笑んだ。

「そんなに落ち込まないの。こっちにきた意味は、十分あったじゃない。貴方のことを知る人に出会えたのだから」
「・・・そう、だね。僕と関わって死んでいない人と出会えたのは、確かに嬉しいことだと思うよ」
「うん、その通り。私たちはきっと、そのためにこっちにきたの。この辺はきっとそう・・・シナリオ通りなのよ。だから、気にしない気にしない」

 それは少年のためを思って努めて明るく、などと言うわけではない。少女は恐らく本心から素直にそう感じていて、その思うままに言葉を紡いでいるのだろう。少年には、そのことが何故かとてもよくわかる。だから、その言葉に素直に元気付けられようと思えるのだ。

「わかったよ、サラ。じゃあ、行こう。えっとそしたら・・・こっちかな?」

 少年はうっすらと笑顔を少女に向け、そしてそれまでとは異なる方角へと視線を向けた。

「うん、そっちだと思うわ。ここを抜けたら街に寄って食材買って、なにか美味しいものを作りましょう。この辺には、食べられるものが全然ないんだもの」

 少女は、そうと決まれば意気揚々とした様子で少年の指し示した方へと歩き始めた。
 少年は、そんな少女の後について歩き出す。
 少年は知っている。その一歩一歩が、終わりに向かう一歩であることを。
 それは、もちろん来てほしくないなんて考えも頭の片隅を過ぎることがある。
 ただそれでも、その時が来たなら彼女のために自分にできることがあるのなら、それはとても素晴らしいことなのかもしれないな、と少年は思っていた。










最終更新:2021年07月11日 21:17