アビス、と呼ばれる世界がある。
 深淵という名を冠するその世界には、その名以外に、何もなかった。
 広がる一面の荒野は、その全てが悉く、焦土と化している。
 生けるものの気配は殆どなく、ただ生物としての仕組みを超越した強大な力を持つ魔族のみが巣食う世界。
 その深淵には、特段に強い力を持つ四つの存在があった。
 四魔貴族を称するその者たちは、基本的には互いに不干渉を貫きながらも、ある一点に於いては共通した目的を持っていた。
 その目的とは、アビスから『ゲート』を用いて繋がる、此処とは異なる世界への侵略。
 あの世界には、アビスには無いものが、有る。
 四魔貴族は皆一様に、何故かその世界に強い興味を持ち続けた。
 ゲートの向こうに、まだ見ぬ未知との飽くなき戦いを求め、様々な色形で煌びやかに燃える物を求め、流麗に姿を変える生命に溢れた海を求め、そして突き抜けた美しい青の世界を、求めた。

『・・・』

 三百年振りに訪れた、好機。
 しかし未だゲートは完全に開いておらず、彼らが通るには小さ過ぎる。
 だが自らの力の一部を幻影として送り込むことで、彼らは再びあの世界に顕現することに成功した。
 そして今、彼らの目的を脅かさんとする者たちが、ゲートの向こうにいる。
 それは、果たして三百年前のサーガの再演か。

『・・・またしても、竜と人か』

 そう呟いたのは、深淵の更なる奥底の一点に座する、何者か。
 その者は、何もない周囲と比べて異様にも見える巨大な作りの椅子に座し、肘掛けに載せた腕に軽く頬を預け、その瞳は閉じたまま微動だにしない。
 だがその者の瞼の内には、眼前に広がる無機質なアビスではない、全く別の世界が映し出されていた。
 それは己が送り出した幻影を通して見る、ゲートの向こうの世界。

『・・・』

 瞳をゆっくりと開く。
 そこに映し出されるのは、荒廃した深淵ではない、別の世界。
 アビスのそれとはまた違う姿をした『幻影』は、薄暗い中で白く鳴動するゲートだけがある空間にて、いくらも微動だにせず、中空に浮かんでいた。そこに、瞳を開いたことで意識が宿る。
 その幻影がこの世界で居城としている山は、元の世界たるアビスでの住処に酷似した作りとなっているが、実のところこの住処の主人はそれを全く好ましいとは思っていない。
 ゲートの近くは、アビスの瘴気に侵食されてそうなってしまうというだけなのだ。だからその光景は、むしろ忌々しく思う物ですらある。
 そんな主人にとって真に価値あるものは、この世界の空だけだ。
 青く、どこまでも突き抜けるこの世界の空は、只管に美しい。
 それを愉しむことを邪魔しようというのならば、四魔貴族たる力を以って障害を排除するのみ。
 勿論その幻影は、自分と同じく魔貴族に名を連ねる者たちが、既にこちらの世界での幻影の消失にまで至っていることを識っている。
 今こちらに向かっている人と竜も、その原因の一端なのだろう。
 三百年前、同じくして四魔貴族はこの世界からアビスに突き返されるという屈辱的な過去を経験している。
 だが、それでも向かい来る相手を、自らと同列になど扱わない。
 何故なら、自らは唯一無二で有る、ということを確信しているからだ。
 故に、その存在は相対する者を須く、こう呼称する。

『あわれなムシけらども』

 そう呟き、魔龍公の幻影はその邪悪なる翼を広げ、波打つような暴風を伴いながら空へと舞い上がった。







 翼を持たぬ人類には、見上げる以外に垣間見る術すら、持たされてはいない。それこそが、幾重の雲の層を突き抜けた、その先にある世界だ。
 地上からは果てしない隔たりの先にある世界へと募らせた一方的な憧憬は、人の背に翼を付けた天使という空想の産物をすら生み出し、空想の中で人は翼を得、想像上の空を舞った。
 当然それだけでは飽き足らず、想像すればするほど更に更に、まだ見ぬその世界に人は恋焦がれ続ける。
 しかし、その募る願いが成就することは、今までも、そしてこれからも、ない。
 なぜなら、人は現実には翼を持たぬからだ。
 どれだけ心から切望しようとも、翼を持たざる者には到達しようのない場所。それが、遥かな天空の世界なのである。
 だが、唯一人。人類史において唯一人だけ、そこに到達したという伝説を持つ人間がいる。
 聖王だ。
 聖王は自らが翼を持たぬ代わりに、翼を持つものと意思を通わせ騎乗し、大空を舞ったのだ。
 人類で唯一天空に到達した聖王は、果たしてその時、一体何を思ったのだろうか。
 それは勿論、聖王その人にしか分からないことなのであろう。なにしろ聖王以外にはそれを見たことのある人間がそもそも居ないのであるから、その思考を推し量ることも、当然ながら不可能なのだ。
 だから、もしそれを推し量ることができる者がいるとしたら、それは聖王と同じくして、その場所に至ることができた者だけなのであろう。
 そして今その世界に、巨竜グゥエインの背に乗り、一人の女が至っていた。

「・・・・・・美しい・・・」

 眼前に広がる圧巻の景色に、思わずカタリナは息を呑む。そして無意識のうちに、そう呟いていた。
 その場所には、青という色のみがあった。
 視界全てが太陽の光に満たされた、純粋なる蒼空。
 その光景は、カタリナが今までの人生で見てきたどんな景色よりも、突き抜けて爽快だ。
 本当の空とは、これのことを言うのか。カタリナはこれから始まるであろう死闘のことすら一瞬忘れてしまうほど、場違いにもそんな感想を抱いていた。あるいは聖王その人も、そんなありきたりな感想などを抱いたのかもしれない。
 こんなにも美しい風景を、例えば彼女が密かに趣味としている絵画にでも描くことができたなら、それはどれほどに素晴らしいことであろうか。
 だが、その願望はすぐに頭の中で打ち消されてしまう。
 何故なら、彼女が知る限りの青という名の付く画材では、到底この空を表現することはできないからだ。そして例え彼女の知らぬ未知の画材があったとしたって、この空をそのまま描くことなど不可能であろう。そう、本能が確信してしまっている。
 この空には、こうしてこの場所に至ることでしか、絶対に出会うことが叶わないものなのだ。
 空を支配する、とは正に、この蒼空をその手中に治めるということなのだろうか。

(・・・それは、もし叶うとしたらどれだけ魅力的なことなのだろう・・・。ほんの少し、気持ちがわからないでもないわね)

 アビスの主人や巨龍種がこの空を欲するのも頷ける等と思いながら、カタリナはしっかりとこの光景を脳裏に焼きつけた。これから命を懸けるのだから、せめてこのくらいの役得はあっても良いだろうと、自分を納得させながら。
 想像よりもずっと穏やかな天空の風に身を任せつつ、深く深く息を吸い、細くゆっくりと吐く。
 そうして待つこと、幾許か。
 やがて頬をすり抜ける風に微かな瘴気が混じり始めたことを敏感にカタリナは察知し、剣帯からマスカレイドを抜き放ちながら、じっと正面を見据えた。
 するとそこからは瞬く間に、肌に突き刺さる瘴気の量が爆発的に増大していく。
 目の前の空の青さは何も変わらぬはずだと言うのに、明らかに視界全体が薄暗く澱んでいくような、そんな錯覚にさえカタリナは襲われた。

「・・・来たわね・・・!!」

 カタリナがそう呟きながら身構えた直後、正面に広がる蒼空の向こうに、一点の黒が浮かび上がる。
 その黒点は見る見るうちに大きくなっていき、やがて醜悪なる異形の存在となって、ついにはグゥエインとカタリナの前に姿を現した。

「・・・・・・」

 その異形に対峙し、カタリナはマスカレイドを手にしながら、ごくりと唾を飲み込む。
 目前に居る存在が間違いなく四魔貴族であろう、ということは分かる。恐らくは王家の指輪から流れ込む記憶であろうが、彼女の脳裏にうっすらとその姿に覚えがあるのもそうだし、何よりその存在が纏う瘴気は、今まで対峙した誰よりも、深く重苦しい。
 それは言うなれば、直視することさえも憚られるほどの醜悪なる瘴気。だがカタリナは己の心を強く保つように言い聞かせながら、真っ直ぐに相手を見据える。
 一見するとその様相は、今までに対峙した四魔貴族の中では最も人間に近い姿だと思えた。
 たおやかな長い金髪を靡かせた、背筋が凍るほどに美しい、女の姿。
 女は淡い紫の布で申し訳程度にその豊満な身の一部を隠すだけの、官能的にすら見える軽装だ。そこだけを見てしまえば、まるで人間そのものだといっても誰も疑うものはいないだろう。強いて言えば、それはあまりに人間離れした美しさをしている、といったくらいか。
 だが、明らかに人間とは違う部分がある。
 女はその背に、人が欲して止まなかった翼を持っていたのだ。
 しかしそれは、人が空想したような白い羽根などではない。
 女のそれは、龍の持つような異形の翼。その背中から対になって左右に大きく広がった数本の赤黒い翼指の間には、血の如き紅さの膜が張り巡らされている。
 そして、その異形の翼を持つ女の身体を取り巻くようにしながら、地獄の底から響くような低く重苦しい唸り声をあげる、邪悪なる三頭の竜の存在があった。
 その頭部の一つは、巨大な赤子の頭部。その首から下は醜悪な瘴気を纏った竜の胴体となり、女に巻きついている。
 その頭部の一つは、巨大な怪鳥の頭部。その首から下は醜悪な瘴気を纏った竜の胴体となり、女に巻きついている。
 その頭部の一つは、巨大な狂犬の頭部。その首から下は醜悪な瘴気を纏った竜の胴体となり、女に巻きついている。
 それら異形の竜を紫の布と共に身体に纏った女は、まるで取るにも足らぬ虫けらをみるような瞳で、こちらを見つめている。

(・・・これが、魔龍公ビューネイ・・・。あんなに強大に感じたフォルネウスよりも、更に強い重圧を感じる・・・でも、負けるわけには行かない・・・!)

 そう、もう後戻りなど出来ないのだ。そう覚悟を決め、息を短く吐く。

『行くぞ』
「ええ・・・さぁいくわよ、マスカレイド!!」

 グゥエインの言葉に応じ、カタリナはマスカレイドを握る手に力を込めた。その彼女の求めに、聖剣マスカレイドは赤い閃光を発しながら長大な赤き刀身の剣へと姿を変えて応える。
 その場で対峙するように滞空していたグゥエインは、声を発するとほぼ同時に頭を前に突き出し、前傾姿勢をとった。そして相手に向かうようにしながらも単なる直線ではなく、速度を乗せるべく斜め下方へと急速に滑空する。
 そのまま下弦を描くように弓形の軌道で反転上昇しながら距離を詰め、上乗せした速度をそのまま威力に変換するようにしてビューネイへと突撃した。
 カタリナはそのすれ違いざまに渾身の斬撃を叩き込むべく姿勢を制御するが、対して先ほどまでと同じ位置に滞空するビューネイは、全く微動だにしない。

「はぁぁあああああ!!!」

 渾身の一撃を叩き込むべく雄叫びを上げながら交錯せんとした、正にその刹那だった。
 ビューネイの身体を中心に、この周辺一帯を飲み込まんとする程に馬鹿げた量の瘴気が突如として生まれた。
 それは瞬時に荒れ狂う暴風の衝撃波となり、ビューネイから全方位に向かって爆散したのである。

『!!?』

 咄嗟にグゥエインは翼を畳み身を丸くして衝撃波を受けるが、そのあまりに強烈な波動に、あろうことかグゥエインの巨体ごと錐揉み状になりながらカタリナは吹き飛ばされてしまった。
 当然のように空中へと勢いよくカタリナの体は放り出されたが、即座に体制を立て直したグゥエインが先の約束通り彼女を受け止める位置まで素早く飛んでくれたことで、辛くもその背に着地する。
 その様を、未だに滞空したまま最初の位置から全く動くことなく、ビューネイはただつまらない物を見るかのような目で眺めていた。
 そして次には少しだけ目を細めて、退屈そうにふんと一息吐いた。

『・・・翼を持たぬムシけらが、この私に触れることなど適わぬと知れ。ムシけらはムシけららしく、無様に地べたを這いつくばっているがいい』

 ビューネイがそう言い放った次の瞬間、彼女を取り巻いていた三匹の異形の竜が彼女の身体を離れ、三方向からグゥエインへと襲いかかってくる。
 グゥエインは一旦これらに対応するためにビューネイから距離を取り、その攻撃を躱すために飛び回らざるを得ない状況となった。
 本来ならば一撃でも多くビューネイへと攻撃を加えなければならない中で無駄な戦闘をせずにいきたいところであったが、しかしこの状況にグゥエインは思わず苦戦を強いられることとなった。
 何しろ、自分とほとんど変わらない大きさの異形の竜と三対一の構図だ。如何に動き回ったとしても、攻撃の全てを去なし切ることはできない。
 直撃は避けているので深傷にはならぬものの、これでは時間とともに損傷が蓄積されていくのは目に見えていた。
 その間グゥエインの背にしがみ付きながら刹那の攻撃の瞬間を伺いつつ、カタリナは兎に角、下手に動かず相手の動きを読むことに集中していた。

(・・・三匹それぞれが異なる得物・・・赤子頭は炎を吐き、鳥頭は目に見えない波動・・・おそらく音波と、あとは嘴の突撃。犬頭は単純な噛みつきか・・・。そしてビューネイ本体は今の所、さっきの衝撃波・・・。ビューネイのあの衝撃波は、フォルネウスが放ってきたアビスの渦にも匹敵する威力だった・・・。それをまさか予備動作もなしに出すなんて・・・。あれを如何にかしなければこの勝負に勝ち目はないけれど、手は今のところ全く思いつかないわ・・・なら兎に角今は、先に邪魔な三匹を屠る・・・先ずは接近できる犬頭・・・!)

 ブレスを撒きながら其々の頭を的確に牽制するグゥエインに狙いを伝えるべく、カタリナはマスカレイドで犬頭を指し示した。
 その意図を察したグゥエインは即座にブレスで牽制しながら三頭の頭上をとるように大きく旋回上昇し、上方から犬頭に狙いを定め、旋回軌道を保ちつつ急降下する。
 そして上手く軌道上に相手を捉えての巨体同士のすれ違い様、カタリナの振るったマスカレイドの一閃が犬頭の片目ごと頭部を深く切りつけた。

『グァオオオオオオオオオオッッ」
(・・・浅い!・・・今ので仕留めたかったけれど・・・矢張り、臆さずもっと思い切り振りにいかなきゃ・・・次は斬る・・・!)

 慣れぬ空中戦ということで剣の振りに一点集中しきれなかったものの、今の一撃でカタリナは確かな手応えを感じていた。空中戦における武具の扱いは、何とかなりそうだ。
 それに、どうやら三頭の竜に比べて機動力の面では、グゥエインに大きく分があるようだった。
 相手に勝る速度があるのならば、このままグゥエインのブレスで牽制しながら適時斬撃を叩き込む戦法で、この三頭の各個撃破を狙うことは十分に可能だろう。
 そこまでは、いい。

(・・・とはいえ、やはり問題は・・・)

 忙しなく空中を飛び回り、牽制しつつ少しずつ傷を増やしていくグゥエインを気遣いながら、カタリナは横目で未だ微動だにせぬビューネイ本体を睨む。
 ここまで、ビューネイ本体は腕の一本すらも動かしていない。完全にこちらの戦闘を、ただ見下すように傍観しているだけだ。

(・・・嫌な流れ・・・まるで、アラケスと戦ったあの時のようだわ・・・)

 思い出したくもない光景が、カタリナの脳裏に過ぎる。
 かつて魔王殿の地下にてアビスゲートを前にアラケスと対峙した折、カタリナはこれと同じような戦闘を強制されたのだった。かの魔神が嗾けてきた双頭の獣魔を相手にしたカタリナは、辛くもその獣魔を退けることには成功した。
 だがその間、当のアラケスは只々その戦闘を値踏みでもするように眺めていただけだったのだ。まるで、その後どのようにして遊んでやろうかと企む子供のように。
 そしてその後、カタリナは呆気なくあの強大な魔神に敗れ去ったのだ。

(・・・いえ、これは好機と捉えるべき。相手が油断しているうちに、少しでも優位を確保するのよ・・・!)

 どうしても過ってしまう嫌な思考をかき消すように軽く頭を振ったカタリナは、赤子頭が吐いてきた炎をマスカレイドの一振りで霧散させつつ、目の前の三頭に集中した。

(このままグゥエインに傷を負わせ続けていては、ジリ貧だわ・・・。次の一撃で、仕留める!)

 身を低くしてなるべく風の抵抗を受けないようにしながら、マスカレイドを強く握りしめる。それと息を同じくしてグゥエインは、三頭のうち犬頭と鳥頭の二頭が直線上に並ぶように大きく旋回移動した。手前には、先ほど片目を潰した犬頭を見据えている。
 グゥエインはそこから雷気を纏ったブレスを横薙ぎに吐きつつ、体は一直線に犬頭へと突撃する。するとその後ろにいた鳥頭の竜はブレスをなんとか避けたあとに、犬頭ごと巻き込むようにして強烈な音波を放ってきた。
 だがその音波をものともせず、グゥエインは速度に乗ったまま犬頭の喉元に齧り付く。

『グォ・・・・・・』

 碌に断末魔すらも上げさせぬまま、グゥエインはそのまま豪快に相手の頭部を胴体から咬み千切った。
 そして。

「はぁぁぁぁあああああああああ!!!」

 音波攻撃の直前、グゥエインがブレスを吐きながら突撃している際。その背から大きく前方へと跳躍していたカタリナは、その声に気がついて上空に顔を向けた鳥頭へと一直線に落下し、その頭蓋に深々とマスカレイドを突き刺した。
 こちらも殆ど断末魔の悲鳴をあげることなく力尽き、飛行能力を失って落下を始める。瞬間的にマスカレイドを小剣状態に戻して素早く引き抜き、絶命した鳥頭の額を蹴るように中空に飛び出たカタリナを、そのままグゥエインが難なく確保する。

「よし・・・残るは一頭!」

 カタリナは大きく声を張り上げながら残る赤子頭へと視線を向けると、しかし赤子頭はこちらを警戒する様子もなく、明後日の方向を向いていた。
 それは、ビューネイが佇む方角である。
 それに気がつき、自然とカタリナらもビューネイへと視線を向けた。
 結局そこから赤子頭はこちらに振り返ることもなく、ビューネイの元へと戻っていく。どうやら、これ以上は単体での交戦意思はないようだ。

「・・・いよいよ本体ってことね」
『そのようだな。先のような雑魚とは異なろう。気を引き締めていくぞ』

 カタリナとグゥエインがそう言い合った、その矢先だった。
 不意にビューネイが腕を一振りすると、彼女の近くに控えていた赤子頭の竜が、鮮血とともに跡形もなく吹き飛んでしまったのである。

「なっ・・・!?」

 カタリナが思わずその光景に目を見開いていると、身一つになったビューネイはゆっくりとグゥエインに近づいてきた。

『ムシけら風情が、よく動く。汚らわしいが、私が直々に相手をしてやる』

 その言葉とともに、なんとビューネイの背から、再び三頭の異形の竜が何事もなかったかのように生え出てきたのである。

(な・・・再生・・・。なるほどね・・・いくらこっちが叩き斬ろうが、傍観してていいってわけだ・・・。しかも、再生速度が段違いに速い・・・。フォルネウスの時よりも、明らかにアビスの瘴気が多くこの世界に流れ込んできているのだわ・・・最悪ね・・・)

 先程までの戦いは、正に相手の掌で踊っていたに過ぎないと言う事実をまざまざと見せつけられ、カタリナは内心で大きく舌打ちをしながらマスカレイドを構え直す。

「・・・何か策、ない?」

 小声で、グゥエインに声をかけた。
 正直、このまま突撃したところで先程の衝撃波を喰らえば、吹き飛ばされるだけだ。だが、グゥエインのようにブレスを吐けるわけでもないカタリナには、突撃以外の攻撃手段は全く思いつかない。
 先程の竜二頭に見舞った咄嗟の時間差連携攻撃にしても、結局衝撃波を出されてしまえば結果は同じだ。グゥエインもカタリナも、別々に吹き飛ばされるだけだろう。
 そうなると、まず単純に思いつくのは遠距離からの攻撃ということになる。
 だが、そうなるとカタリナには全く手立てがない。彼女が唯一遠距離に対して持つ有効な手立てといえば、地を這う衝撃波くらいだ。これは空中では出せない。
 そうなると、基本的にはグゥエインの吐く雷撃に頼ることになるのだが。
 当然それはグゥエインも理解しているのか、先ずはその有効性を探るべくグゥエインは大きく翼を広げた。そして大気に満ちた加護を翼から全身に集めるようにして、雷撃の一閃を放つ。
 凄まじい速度で一直線にビューネイへと向かっていったその雷撃は、しかしビューネイの纏う暴風の障壁によって、いとも簡単に止められてしまった。
 更に、そのままビューネイは徐に片手を突き出し、受け止めたグゥエインの雷撃を風の中に閉じ込めて巨大な雷球を作り出してみせた。
 そして眼前の光景に唖然とするカタリナらを尻目に、腕の一振りでその雷球を投げ返してきたのである。
 高速で飛来するそれを紙一重で翻りざまにグゥエインが避けると、ビューネイは態とらしく目を細めながら、実に詰まらなそうに呟いた。

『なんだ、玉遊びでもするのかと思ったが、違ったか。次は、どうするのだ?』

 呆気なく雷撃を防がれてしまったグゥエインは、低く唸る様に吐息を吐く。
 更にその背で成す術なくマスカレイドを構えるだけのカタリナは、一縷の望みをかけて再度、声を掛けてみた。

「・・・どんな感じよ」
『・・・現状では、有効な手立ては思いつかぬ。まだしも我が雷を避けるならば、当てる事が有効であると判断できた。だが正面から受け止められて全くの無傷となると、吐くだけこちらが消耗するのみだ』

 その返答は実に的確に、打つ手なしを彼女にも理解させてくれる。
 カタリナが先のグゥエインと同じく低く唸るように息を吐くと、今度は退屈を持て余した様子のビューネイが動きを見せた。

『終わりか。では、次は此方に付き合ってもらおう』

 言うが早いか、ビューネイは暴風を纏いながら僅かに上昇し、同時に渦巻く風の渦に乗せられた赤子頭の竜の炎が、真っ直ぐにグゥエインへと撃ち放たれた。
 それをグゥエインが旋回して回避すると、その間に彼らのすぐ上へと瞬く間に滑空したビューネイが、再度炎の渦を直上から打ち下ろす。
 それをまた、グゥエインは急反転することによって辛うじて回避をする。

『無様な踊りだな、ムシけらよ』

 もはや防戦一方で続け様の炎の渦を回避するしかないグゥエインを見下しながら、ビューネイは嘲笑った。
 だが、事実として成す術のないグゥエインとカタリナは、その言葉に返すこともなく攻撃を避けるしかない。

(・・・近接攻撃は衝撃波で弾かれるし、遠距離も同じく風の壁を突破できない。今私たちが持っている攻撃手段では、ビューネイに手傷を負わせる事は出来ない・・・。グゥエインも無限に飛べるわけではないし、ここは一度撤退して策を練るべき・・・?)

 回避をグゥエインに任せきりでやれる事がないカタリナは必死に現状分析をするが、しかし光明は見えてこない。
 まるでそれをすら見越して嘲笑うかのように、その間もビューネイの猛攻は続いている。

『ほらどこへ行く。もっと無様に踊って見せよ』

 一旦距離を取るべくグゥエインが後方旋回しようとすると、鳥頭の竜から放たれる超音波が空間振動させグゥエインの足を止める。
 そしてビューネイ自身が持つ魔眼でグゥエインは一瞬金縛りのような状態に陥り、そこに再度炎の渦が見舞われた。
 それを何とかカタリナがマスカレイドの一閃で吹き散らそうとするが、それでも完全に相殺は出来ない。

「うぐっ・・・!」

 抑えきれぬ炎で軽く腕を炙られてカタリナが苦悶の表情を見せると、ビューネイはそれを見て僅かに目尻を下げた。

『良い顔ができるではないか。もっと魅せてみるがいい』

 そう言いながらビューネイは再度グゥエインの真上へと飛来し、炎の渦を吐く。

(・・・だめだわ。ここから逃れることも儘ならない。やはり此処で勝負をかけるしかない・・・。でもどうする・・・何か・・・何か手はないの・・・?)

 最早グゥエインはビューネイの思惑通り回避に専念するしかなく、此処でカタリナが勝機を見出さねば、遠からず彼女らの死は確定するだろう。

(・・・冷静になるのよ、私。ビューネイは文字通り、私をムシけら程にしか見ていない。油断がある。だから私はこうして考えていられる。何しろ聖王様は、かつてこの魔神を打ち破ったのよ。だから私にも、必ず勝機はある・・・)

 降り注ぐように浴びせ続けられる炎と、音波と、魔眼。この調子ではグゥエインの限界は近いだろう。
 焦る気持ちを抑えるように唇を真一文字に結びながら、カタリナはビューネイを見上げた。

(・・・此方の手の内は全て風で防がれる。なら・・・その風をどうにかする方法が何かあれば・・・)

 頭の中のあらゆる記憶の引き出しを開け回るように、思考を巡らせる。
 例えば、真っ当に術式の相剋という観点から対策を考えれば、蒼龍の加護に対する事ができるのは地術、つまり白虎の加護だ。
 だが、地に触れてもいないこの空中では、それは全く現実的ではない。
 そういう意味では改めて思うが、此処は正に、ビューネイの独擅場なのだ。

(・・・ならば奴を地に引き摺り下ろす・・・ううん、それこそ現実的ではないわ。矢張り相剋の視点は使えない。そうすると、あと考えられるのは・・・例えば・・・そう、同等以上の風圧による相殺・・・?)

 力押し、と言う観点は本来なら人間が強力な魔物に対して選択するような手段ではない。だがこの状態では、その程度しか手段らしい手段も思いつかないのだ。
 しかし、自分は元より、グゥエインにもそこまで強い蒼龍の加護が扱えるわけでもない。

「・・・くっ!」

 再度、グゥエインが魔眼に動きを止められたところに炎の渦を見舞われる。それを先ほどと同じくマスカレイドで振り払いながら火傷を増やしたカタリナは、思考を中断されて歯を軋らせた。

「ねぇ、上を取られているの不利じゃない!? なんとか同じ目線まで行けないの!?」
『簡単に言うな。彼奴もそれを分かっている故、先程から防がれている。それに貴様ら人間は知らぬだろうが、これ以上昇ると、天の星海とこの大地の間を別ち吹き荒れる、強大な気流があるのだ。それに巻き込まれれば、この我とて身動きが自由に取れなくなる。どの道、今が真面に動ける限界高度なのだ』

 グゥエインの苦言を受け、そう言うものかと表情を顰めながらビューネイへと向き直らんとした、その最中。
 カタリナは全く根拠のない直感で、己の進むべき活路を見出した。

「グゥエイン・・・その気流っていうのにビューネイを誘い込めないかしら」
『・・・なんだと?』

 グゥエインが怪訝そうな声色で小さく返すと、カタリナは変わらず視線ではビューネイを睨みつけながら、小声で続けた。

「あの風の壁をどうにか出来れば、勝機が見える気がするの。グゥエインですら制御が効かない程の気流なら、ビューネイの障壁や衝撃波も相殺できないかしら」
『・・・確かに、可能性はあるだろう。だが今のような寒期には特に気流が強まるから、殆ど真面に飛べぬぞ。よしんば誘導出来たとしても、此方が満足に動けぬ可能性が高い』
「上等よ。どの道このままでは死ぬわ。なら、可能性がある方に賭けるまで」

 カタリナのその言い草にグゥエインは、ふしゅうと口角の間から息を漏らして応える。まるで、やれやれとでも言いたげに笑っているかのようだ。
 その仕草が妙に人間臭いものだから、カタリナも思わずにやりと口の端を吊り上げた。

『状況が状況だ、乗るしかあるまい。では、どう誘い込む。彼奴とて、好き好んで自由の効かぬ乱気流に付き合うほど馬鹿ではあるまい?』
「そうね・・・あんまりこういうの得意ではないけど、やるだけやってみるわ」

 そういうとカタリナはマスカレイドを小剣状態に戻し、屈んでいた姿勢を止め、凛と背筋を伸ばして吹き抜ける風を全身で受ける。
 その動作の変化にビューネイは軽く目を細めながら、ふと攻撃の手を止めた。それを確認したカタリナは細く長く息を吐き、そしてマスカレイドをビューネイへと向かって突きつけてみせる。

「魔龍公ビューネイ!四魔貴族では魔戦士公アラケスと並ぶ爵位の様だが、その高潔さではアラケスは愚か、魔海侯フォルネウスにも随分と劣るようだ!」
『・・・』

 突然にそう叫ぶカタリナをビューネイは、さもくだらないものを見るような瞳で上から見下ろした。
 アビスの魔神に果たして此方の安い挑発がどれだけ効くのかは全く不明だが、それでもやるだけはやるしかあるまいと、カタリナは続ける。

「貴様は確かに、ここでならば敵は居ないのだろう。戦の定石としても、自身の優位な地形で戦うということは、当然最優先にとるべき戦法!」

 ビューネイの表情は変わらない。だが、かと言って攻撃をしてくるわけではない。一応聞く耳は持ち合わせてくれているようだ。
 ならばと、カタリナは精一杯に声を張り上げた。

「ただし、それはあくまで我ら人間・・・貴様の言うところの『ムシけら』の好む定石。圧倒的な力を有するはずの魔貴族が選ぶには、あまりに姑息。先程から見ていれば、貴様は我らと同じ思考で戦うばかり。魔貴族が随分と見下げ果てたものだ。アラケスやフォルネウスは、我らの全力を真っ向から受け、それを圧倒せんとしてきた。力を持つ者の矜持が、貴様には全くないようだ。魔貴族の公とは、斯様に卑しい思考の持ち主か!」

 突きつけていたマスカレイドを真横に振り薙ぎながら、高らかにカタリナが言い放つ。
 そしてそのいい終わりに合わせ、びくり、とビューネイの目尻が僅かに動いたのを、カタリナは見た気がした。

「自らの優位に浸り、地を這うものを相手にしないのならば、せめて此の天空の凡ゆる場所でだけでも、我らを圧倒して見せるがいい!」

 そこまでを言い放ったカタリナは、再び身を屈めてグゥエインにしっかりと寄り添うように掴まった。

「・・・これで追ってこなきゃ、魔貴族の名折れよ。グゥエイン、お願い」
『ふん・・・悪くない啖呵だった。では、行くぞ』

 ふしゅうと小さく息を吐いたグゥエインは、これまでで最も大きくその両翼を広げ、大気に満ちる加護をその身に収束させる。
 次の瞬間、ビューネイを狙いの中心として、そこから円状の広い範囲を埋め尽くす程の巨大な波状ブレスを撃ち放った。
 無論このブレスでもビューネイの暴風の壁を破ることは叶わなかったが、このブレスの目的は、そこではない。
 ブレスを吐くと同時にグゥエインは大きく羽ばたき、一気に上昇していく。ブレスで目眩しをされた形のビューネイは即座にグゥエインを抑え込む行動には移れず、その隙を突くようにしてグゥエインはビューネイの上へと飛び上がってみせたのだ。

『あれと同じものはもう吐けん。いよいよ決めるしかないぞ』
「いい仕事よグゥエイン!あとはその気流とやらに、賭ける・・・・・・!!?」

 飛び上がって間もなく、明らかに今までとは異なる衝撃を体全体で受ける。
 まるで、越えてはならぬ境界を越えてしまったかのように、世界に拒絶されているかのように。
 そんな風にすら感じてしまうほどの風の奔流が、その場の全てを支配していた。
 まるで先程のビューネイの衝撃波にも近い程の暴風を常に受けているような、圧倒的なまでの気流。それを全身に叩きつけられ、瞬く間にカタリナはグゥエイン諸共に、錐揉み状になりながら成す術なく流される。
 それをグゥエインが必死になって制御せんとする様を、ビューネイは見上げていた。

『・・・ふん、ムシけらなりに考えたか。良かろう。望み通り、そこで潰してやろう』

 誰にでもなく独りそう呟くと、ビューネイはグゥエインらを追いかけるように気流へと入っていく。

「き・・・来たわね・・・!」
『その様だな。さて、此処からどうする』

 轟音と共に吹き荒れる気流の中、懸命に姿勢を保つべく両翼を小刻みに調節しながら広げるグゥエインは、自らの背で身を低くしながらビューネイを睨むカタリナへと伺いを立てた。

「様子見している余裕はないでしょうから、なんとしても一撃のチャンスを作るしかないわ・・・!」

 荒れ狂う風は吹き荒ぶ轟音以外の全てを流してしまうようで、カタリナがいくら声を張り上げても、自分にすらよく聞こえない程だ。
 だがグゥエインはそれでも聞き取ってくれたようで、軽くカタリナに視線を寄越すと、自分たちを追ってきたビューネイへと向き直った。
 すると、犇く轟音の中にあっても、カタリナらの元にはビューネイの言葉が届いてきた。

『確かにこの気流の中では、我がアースライズも真価を発揮せぬ。その剣を我が身に突き立てることができるならば、僅かな勝機はあるやも知れぬ。だが、今すでに姿勢制御すらままならぬ脆弱なムシけらが、ここで一体なんとするというのだ?』

 ビューネイの言うことは、尤もである。
 何しろグゥエインは今、姿勢を保つことで精一杯という状態だ。
 更には不味いことに、この気流に先に入ったのがグゥエインらであるからして、後を追ってきたビューネイに対して風下に位置してしまっている。
 この気流に逆らってビューネイに向かって飛ぶことが、先ず非常に困難な状況なのである。その上、ビューネイの迎撃を掻い潜って一撃を見舞おうというのであるから、これは余りに荒唐無稽な策に思えた。

(何とか風上に位置する事ができれば、それが千載一遇の勝機になるはず。でも・・・この気流に逆らうことはグゥエインでも恐らく難しい・・・)

 風の流れによって対峙する両者は激しく移動を繰り返しながら、散発的に互いを狙った攻撃を仕掛ける。
 だが、その何れもが、互いに中々当たらない。
 ビューネイの放つ火炎の渦も、グゥエインの吐く雷撃も、荒れ狂う気流によって射線が全く定まらないのだ。

(現状は、双方に決め手が欠けているわ・・・でも相手はアビスから流れ込む力があるから、恐らく体力の底はない。なら先に落ちるのは此方・・・。ビューネイは最後に、その間際を突けばいいだけだ。ならばどうする・・・?)

 風に流されながらグゥエインにしがみ付きつつ、必死に思考を巡らせる。
 残念なことに未だ起死回生の一手に辿り着いてはいないが、同時にビューネイの攻撃の精密さも失われているので、思考に集中しやすくなったのはありがたい話ではあった。
 それに彼女の身につけている聖王遺物であるブーツは、地に足をつけている時に体勢を崩されることを回避するための、風の加護が施されている。その纏う風の恩恵によって、この乱気流の中にあっても彼女はなんとか姿勢を保っていられるのだった。

『衝撃に備えろ』
「・・・え!?」

 思考に差し込まれる様に、突然グゥエインがそう呟いた。
 それにカタリナが疑問符を浮かべた次の瞬間、急速に流れの方角を変える乱気流によって、まるで全身を横殴りにでもされたかの様にグゥエインの体ごと進行方向が無理矢理に変わる。

「うわっっっ!!?」

 あまりの衝撃に一瞬グゥエインの背から手を離してしまい、落ちるどころか風を受けて浮き上がる様に中空に放り出されかけたカタリナは、間一髪でグゥエインの翼を掴んで九死に一生を得た。

『天と大地を分つこの風は、世界を巡る様に巨大な円を描いて吹いている。だが真円ではないので、今の様に急激に流れが曲がる箇所が幾つかあるのだ。気をつけねば吹き飛ばされるぞ』
「そう言うのは先に言って頂戴・・・!!」

 命からがらといった様子でグゥエインの背の定位置まで戻ったカタリナが批難するように言うが、それに応えていられるほどグゥエインも暇ではない。
 必死なカタリナらとは対照的に先の見えた戦いに余裕を見せつつ放たれる、散発的なビューネイの攻撃。グゥエインは常にこれらに気を配りながら、困難を極める姿勢制御を続けているのだ。

(・・・・・・あ・・・・・・)

 ふと、その刻。
 カタリナの頭の中に、ある考えが過ぎった。
 それは、とても馬鹿馬鹿しい考えだった。考えというより、もはや妄想と言った方が正しいかもしれない。
 余りに馬鹿げた内容であったので即座に一笑に付さんとしたが、しかしカタリナの本能が、否と呟く。
 どれだけ馬鹿げていることであっても、この決死の局面で垣間見えた己の直感を信じ、敢えて気狂いの様相でそれに賭けるべきと、瞬時に思い至ったのだった。

「・・・次の気流の曲がり角で、仕掛けるわ」

 風の中で、何とか相手に聞こえる様にだけ声量を絞る。その語り掛けにグゥエインが応える仕草を僅かに見せると、カタリナはマスカレイドを強く握り締めながら、グゥエインにというよりは、まるで自分自身に言い聞かせるかの様に言葉を続けた。

「・・・必ず戻ってくる。必ずよ。だから、どうか・・・それまで持ち堪えてね、グゥエイン」

 カタリナのその言葉の意味をグゥエインが図りかねていると、間も無く暴風の畝りが再びカタリナらに襲いかかる。

「頼んだわよ・・・!」

 まるで、暴風に下から突き上げられるように。
 カタリナはグゥエインの背から軽々と放り出され、竜や魔神に比べれば全く華奢なその体ごと、一瞬にして空高く巻き上げられていった。

『・・・・・・!!?』

 同じくして気流の変化に崩された姿勢を戻す事に苦慮していたグゥエインは、大変に驚きながら大きく見開いた竜眼でカタリナを追う。
 だが衝撃と共に風に吹き飛ばされたカタリナの姿は、瞬く間に小さな点となっていった。
 だが、即座には動けない。
 何しろ直ぐに追いかけようにも先程の空ならばともかく、この荒れ狂う乱気流の中では直線飛行がまず困難なのだ。
 それに抑も、今此処でビューネイに背を向けて追いかける仕草を見せれば、そこを狙われて命を落とすことになるだけだろう。
 思考の結果、グゥエインはカタリナを追いかける事をせず、ビューネイとの対峙を継続した。

『あはははは!!』

 その一連の光景を見て、ビューネイは心底可笑しそうに声を上げた。

『おい、羽すら持たぬムシけらが一匹飛ばされたぞ、追いかけなくて良いのか!?』

 挑発する様に音波や炎の渦を乱発しながら、同時にグゥエインに語り掛ける。
 それらを避ける様に常に動き回りながら、グゥエインは考えた。

(・・・あれは、衝撃に飛ばされたと装いながらも、明らかに自ら手を離していた。直前の言動からしても、何か考えがあったのだろう。かといって翼を持たぬ人間が中空に放たれれば、それは落ちて死ぬしかないはずだ。全く行動の意図は読めぬ・・・)

 眼前に迫った炎を雷撃で相殺し、鋭い眼でビューネイを正面から睨む。だがその視線の向こうには、去り際の言葉を放ってきたカタリナの姿を思い描いていた。

(だが・・・あれは必ず戻ると言った。それまで持ち堪えろとも言った。あれは強い生物だ。ならば信ずるに値する、か。ふん・・・ここは一つ、乗せられてやる。我が力にかけて、狙いを全うしてやろうではないか・・・!)

 グゥエインは大気にあふれる暴風を全身で受ける様に大きく翼を広げ、吹き荒れる風に乗り、まるで風車のように目まぐるしく回転しながら不規則な軌道で飛んでみせた。
 カタリナが背にいた状態では出来なかった芸当だが、その身一つであるならば、話は別だ。
 風は常に、竜と共にある。

『ビューネイよ、貴様は三百年の昔に、聖王と赤龍によって敗れたのだったな』

 流れる様な動きから矢継ぎ早に撃ち放った雷撃をビューネイが回避するのを確認しながら、グゥエインは言葉を発した。

『その時に聖王を背に乗せた赤龍こそ、我が母ドーラだ。貴様は、そのドーラの子にして最強の竜であるこのグゥエインによって今再び、敗れることになろう』

 グゥエインの言葉を聞いていたビューネイは、ふっと笑みを浮かべながら暴風の中でグゥエインへと視線を向けた。そして、まるで吹き荒れる乱気流をものともせず中空に仁王立ちでもするかの如くに構え、堂々とした様で竜に笑いかける。

『確かに我は三百年前、人間と竜に相対した。そういえばその時の竜は、紅かったかもしれぬ。それは覚えている。だが、それらに敗れた覚えはない』
『・・・何?』

 そのビューネイの言葉に、グゥエインは緩やかに旋回していた動きを止めて風に身を任せながら、一言そう返した。

『貴様の言う聖王というのは、あの時の宿命の子の事か。あれは確かに、強い力を持っていた。だがそれでも、破壊する、という点に於いて魔王の力には遠く及ばなかった』
『・・・・・・』

 ビューネイはまるで微風でも受けているかの様に流れる豊かな金髪をかき上げながら、押し黙るグゥエインを見返しつつ微笑んでみせた。

『憶えおけ。我が屈したのは、魔王ただ一人。間違っても貴様らの様なムシけらにではない』
『・・・一体、どう言うことだ?』

 天空の支配者たる魔龍公を打ち破ったのは、聖王と巨龍ドーラではない。言葉をそのままの意味で受け取るならば、そういうことになる。
 だが、それでは全く史実と噛み合わない。
 何しろ、魔王は六百年の昔に死んだ筈だ。三百年前の聖王の時代には居ない存在である。ならば、三百年前の空から魔龍公を退けたのは、一体何だというのか。
 だが、訝しむ反面でグゥエインには、不思議と確信もあった。ビューネイには、全く偽りを語っている様子がないと。
 その言葉、威風、瞳に宿す色。どれをとっても、この魔龍公は真実だけを述べているようにしか受け取れないのだ。

『・・・ならば貴様は、三百年前に何ゆえこの世界から去ったのだ?』

 そうグゥエインが問いかけるが、しかしビューネイはそれには口を開く事なく、炎の渦で応えた。
 それを翻って回避したグゥエインは、眼を細めて相手を睨み返す。
 ビューネイは腕を振り翳し、さらなる攻撃を繰り出す様子だ。どうやら、これ以上を語るつもりはないらしい。

『ふん・・・よかろう。過去が如何なものであるにせよ、今やるべきことは些かも変わらない。貴様と我の何方がこの天空に覇を唱えるのか、それを決するだけだ』

 グゥエインは、力の限りに咆哮した。
 びりびりと、荒れ狂う大気をすら震わせるほどの咆哮にビューネイの動きが一瞬止まる。
 それに合わせてグゥエインは矢継ぎ早に雷撃を吐き出しながら、翼を背後に長く伸ばす様にして風を切り、乱気流の流れの間を縫う様にしてビューネイへと急激に迫る。

『よくこの風の中で動く。もう一匹のムシけらが居ない方が、我と戯れるに相応しいようだな』

 ビューネイは接近するグゥエインを見ながら驚嘆の声を上げつつも、笑ってみせた。
 だが接近戦をそう簡単に許すつもりはないようで、従える三匹の竜が同時にビューネイの前に飛び出し、三位一体の攻撃をグゥエインに見舞った。
 堅牢な鱗を砕く様に牙を突き立てられ、炎で両翼を炙られ、嘴で首元を突き刺される。
 だが、グゥエインは怯む事なく鳥頭をその牙で噛み砕き、犬頭を強烈な尾の一薙ぎではたき落とし、赤子頭の胴を雷撃の一閃で焼き千切った。
 そして確実に絶命させた筈の三匹の竜が即座に再生を始める刹那の空白の間に、グゥエインは錐揉み状に回転しながらそれらを吹き飛ばしつつ前方へと飛び出し、遂にはビューネイの眼前へと迫って見せたのだった。

『あっははははは!!決死の覚悟で我が僕を突破したか!良いぞ!貴様程の竜なら、我が新たな僕に加えてやっても!!』

 邪悪なる両翼を目一杯に広げたビューネイは、心底楽しそうに笑い声を上げながら、グゥエインと自らの間の僅かな空間に、凄まじいまでの魔風の集約を瞬時に生み出した。

『見事これに耐えられた暁には、褒美にその身を喰らい、我が僕としてやろう!!』

 莫大な量のアビスの瘴気を収束させた邪悪なる風が、今まさにビューネイの喉元を咬み千切らんと迫るグゥエインに向かって弾ける。
 それは弾けた直後に分裂し三点に展開され、知覚など不可能だと思えるほどの神速の刃となって空間そのものを裂き、そこにあったもの全てを紙切れの様に切り刻む。

『ガァァァァァァァァアアアアアッ!!!』

 超高速で∇型を描いた風刃の斬撃が、グゥエインの強靭な外皮をいとも簡単に砕き散らし、その奥の骨肉を深く深く抉った。
 首元から両腕、そして両足付け根までに至る広範囲に、致命傷となり得る程の深い斬撃を喰らったグゥエインは、生まれて初めて感じる激痛に耐えかねる様に、悲痛に叫ぶ。
 そして急速に薄れていく意識と感覚の中でグゥエインは、最早姿勢すら保てずによろめき、ぐらついた視線のままに、ふと虚空を見つめた。
 かくして竜はそこに、あるまじき事に、一筋の勝機を見たのだ。

『・・・何!?』

 完全に決まった必殺の風刃を以って勝利を確信していたビューネイは、眼前のその光景に、思わず我が目を疑った。
 夥しい量の血を痛々しくも中空に撒き散らしながら、なんと瀕死の竜はぐるりとその場で横に一回転し、唯一無傷だった尾をビューネイに向かい渾身の力で振るってみせたのである。
 その尾の横薙ぎの一撃はビューネイの胴体をしっかりと捉え、ビューネイを右方向に僅かに弾き飛ばす。

『!!・・・ふん・・・』

 思わぬ反撃を受けた形のビューネイだったが、しかしそれでも、余裕の表情を崩す事はなかった。
 今の一撃には最早、四魔貴族たる存在に手傷を負わせる程の力は全く備わっておらず、実に無意味な最後の悪足掻きであると分かったからだ。
 とはいえ、その意気にはひどく感心させられたのも事実ではあった。

『まさかその傷でなお、我に一撃を加えようとはな。見上げた意思力よ。良かろう。約束通り、お前を我が僕としよう』

 ビューネイがそう言い放った、その直後だった。

 ドンッッ!!!

『!!!!??』

 唐突に背中へ衝撃を受けたビューネイは、いったい何が起きたのかと驚く。
 それはどうやら、なにやら突然に、自分の死角である背中に何かが当たったようだった。
 なにしろビューネイの目の前には瀕死のグゥエインしかいなかったし、他には確かに何もなかった。それは、間違いないはずだ。
 だと言うのに何故か、前を向くビューネイの視線の先には、突如として真紅の刀身が現れていたのである。
 そしてその刀身は、なんと自らの胸部から生えていた。

『ぐぅ・・・!!?』

 自らの体を背後から貫いている真紅の刃の存在を認知したビューネイは、途端に広がる激痛と共に体の中に満ちていた力の喪失感に襲われ、堪らず苦悶の声を上げた。
 そして自らを貫く紅い刀身に確かに見覚えがあったビューネイは、それがどれだけ有り得ない事であるのかということを理解しているが故に、大いに驚愕の表情を浮かべながら、背後にいるであろう存在に向かい呪詛を吐く。

『ムシけらが・・・この我によくも・・・!』

 憎悪を込めて、自らを貫く真紅の刀身を見下ろす。
 ビューネイを背後から刺し貫いていたのは、まさしく聖剣マスカレイドであった。そしてその聖剣を手にしていたのは、誰あろうカタリナだ。
 しかしそれが誰かは兎も角として、何が起こったのか、を全く分かっていない様子のビューネイは、急速に体内の力が失われていくことだけを感じとり、混乱した。
 気流にき飛ばされたはずのムシけらが、一体何をどうしてこうなったのだというのか。
 だが、その混乱も直ぐに収まった。何故ならば最早この傷が、再生には至らないということを感じ取ったからだ。この幻影は、もう間も無く消失する。
 なんという不覚であろうか。
 しかしながらビューネイはこの状況にあって、何故か唐突に、いいようのない面白みを感じ、ふっと笑みを零した。
 よもや魔貴族の公たる自らが、魔王以外を相手にして、この天空に於いて敗れるなどということがあろうとは。
 しかもそれを成したのは、強大な力と強靭な意思で眼前まで迫った雄々しき竜ではなく、全くその存在を歯牙にも掛けなかった、小さき人間であったのだ。
 ビューネイはその事実にこそ最も驚くと同時に、自らの持つ知見から、この驚愕の結果に至ったと思われる一つの推論を最後に立ててみた。

『・・・そう、か。あの宿命の子の役目は、これだったか・・・。ふふふ、まさか三百年の後になって・・・敗れるとはな・・・』

 誰にでもなくそう呟くと、自嘲の笑みを浮かべた魔龍公ビューネイの姿は霞み、そして瞬く間に霧散していった。

「うわっ」

 ビューネイが消えたことで支えを失ったカタリナがそのまま暴風に飛ばされかけたところを、血塗れのグゥエインが辛くも受け止める。

「ありがとう・・・って凄い怪我じゃないの・・・!?」

 グゥエインの傷を見て驚くカタリナを尻目に、苦悶の表情を浮かべながらグゥエインは風に身を任せるようにしつつ急いで降下を始めた。この気流の中で姿勢制御を続けるほど、もう体力は残っていなかったのだ。
 そして間も無く乱気流から抜け出すまで下降したところで、グゥエインは吹き抜ける穏やかな風を身に受けて漸く一息つくように、僅かに息を吐く。

『・・・確かに深傷だが、心配するな。これしきで死にはしない。まぁ・・・死ぬほど痛むがな』

 緩やかに下降していくグゥエインのその言葉に、カタリナは一先ず安心したのか、こちらも小さく息を吐く。

「そう・・・それならよかったわ。そして・・・ありがとう。よく信じて耐えてくれたわね」
『半信半疑ではあったがな。しかし貴様・・・一体なにをしたというのだ?』

 タフターン山を目掛けて下降しながらグゥエインが単刀直入にそう尋ねると、カタリナは懐から高級傷薬を取り出してグゥエインの傷口にかけつつ、ぽつぽつと語った。

「まぁ・・・うまくいったのは完全に運が良かっただけだろうけれど。まぁあの気流を、ちょっと利用したのよ」

 カタリナが言うには、こうだった。
 自分の重量では落ちるどころか巻き上げられるほどの強大な気流であったこと、聖王ブーツの力で多少の風への干渉が行えたこと、そして天と地を分つということはつまり、上に行けば気流には終わりがあると予測できたこと、だ。
 これらを前提に考えた時、彼女はこう思った。
 気流に乗って一気に上昇し、その気流層を抜け出せば再び風の流れが緩い空間に出て速度も落ち、自由落下を始めるのではないか。
 するとその間に激しい気流の中にいるビューネイらが自分を追い抜き、上手くすればその背後へと回ることが可能なのではないか、と。
 このように想像した、というのだ。

「正直どれくらいの高さまで行けばいいのかも全然わからなかったし、聖王様の残してくれた靴でどこまで位置とか下り方向の調整ができるのかも不透明だったし、わりと死ぬ覚悟だったんだけどね・・・」

 カタリナのとんでもない作戦内容の暴露には、さしものグゥエインも思わず唸るしかなかった。全くこれは、命知らずにも程があるというような話でしかない。

「っていうか、何よりキツかったのは気温ね。結果大した時間ではなかったけれど、ほんと凍え死ぬかと思ったわ。竜が持つ朱鳥の加護って大事ね」

 そう言いながらカタリナは、グゥエインの背中に抱きつくようにして暖を取る。

『・・・全く呆れて物も言えない所だが、現実に貴様はその奇策でビューネイを討った。その事実は変わらんのだから、これ以上どうこう言っても仕方がないな』

 これ以上何を言うのも馬鹿らしくなったという様子のグゥエインは、まるで苦笑いするかのように小さく炎の息を吐き出しながらそう呟いた。
 そうこうしているうちに、やがてタフターン山の山頂が眼下にくっきりと見えてくる。
 自ずと、アビスの瘴気が天空に向かい漏れ出している地点も肌で感じられるほどに、はっきりとわかった。

『ゲートはあそこだな。降りるぞ』
「ええ、お願い」

 今ではすっかりグゥエインの背での姿勢の保ち方にも慣れた様子のカタリナは、全身に心地よい風を受けながら、故郷ロアーヌを脅かす元凶たるゲートの元へと降り立っていった。










最終更新:2021年09月03日 02:35