永遠に続くかにも思われた灼熱の砂漠を越えたその先には、見渡す限りに広がる巨大な岩壁群が静かに佇んでいた。
周辺は視界の限り砂の海しかない場所で、これは大変に目立つようにも思えた。しかし、岩壁のある高さが砂漠の中で窪地となる部分になっており、実際は間近まで近づかないと視認するのは難しいなとエレンは感じた。
砂の斜面を流砂に乗るようにして岩壁の近くまで滑り降りていくと、岸壁はかなり切り立った構造をしていることがわかる。これは、流石に登るような類の物ではないだろうと信じたい。
幼少の頃に木の上から派手に落ちた経験があってから高所が然程得意ではないエレンは、そんな淡い期待を寄せながら、先行して岩陰の突起部に駱駝を結びつけているハリードに目を向けた。
「・・・・・・」
ハリードは、そんな彼女の視線には気付くこともない様子で、神妙な顔つきのままで押し黙っていた。
旧ゲッシアの都・・・つまり神王の塔を発ってから、大凡二日が経っていた。
ここに至るまで、ハリードは普段の軽口は何処へいってしまったのかというくらいには、口数が少なかった。
かといって、全く喋らなかったわけでもない。
むしろ言葉数自体は確かに少なかったが、彼がこの道中でエレンにぽつぽつと断片的に話した内容は、正に彼のこれまで生きてきた半生そのものであった。
十一年ほど前に、神王教団との戦によって滅んだゲッシア王朝。
今は名高き傭兵であるハリードは、元はその大国における王族の一人であったのだという。
以前に二人で旅をしていたときには全く自分の過去など語らなかったハリードだが、改めてその素性を聞いたエレンは面食らいながらも、何となく色々と合点がいったものだった。
ハリードは凄腕の傭兵として各地に悉く名が通っている程ではあるが、かと言って、よくよく傭兵から連想されがちな腕っ節一辺倒の荒くれ者、という存在でもなかった。
確かに行動はそれなりに粗野で喧嘩っ早い節もある(特に神王教団絡みの話題ではまず先制攻撃だ)が、反面で頭の回転が異様に早く、博識で弁舌にも長け、相応の場に於いては不足なく振る舞う礼節も備えている。
それは、こうして傭兵暮らしをしているだけでは、間違いなく身につかない物のはずだ。
だがその正体が一国の元王族ともなれば、納得もいくという物であった。
(・・・ハリードは・・・この場所に一体、何を求めてきたんだろう・・・)
エレンは岩山を見上げながら、ふと、そう思った。
王国が滅んでからというもの、戦禍を生き延びた彼は他のゲッシアの民のようにリブロフに落ち延びることを良しとせず、一人の傭兵として日銭を稼ぎながら世界の各地を転々としてきた。
そうして過ごす十年程の間に、単騎で動くものから部隊を動かす大仕事まで大小様々な依頼を通じ、彼の名声は傭兵界隈に知らぬ者などいないと言われるほどに高まった。
勿論、その中で辛酸を舐めたことも多々あったらしい。彼が前金に拘るのは、それらの経験が影響しているのだと、自嘲気味な笑みを浮かべながら話していた。
そして、名声と共に勝ち得た報酬の金を、彼は殆ど使わなかった。
必要最低限の備品整備と食事、そしてたまの宿。それら以外は都市部にある銀行組織へと全てを預け、ただ只管に戦いに明け暮れ続けた。
いつか、ゲッシアの国を再建する。
それが、資金収集の目的なんだそうだ。
一国を再建するのに幾ら必要なのかなんて、エレンには想像もつかない世界だ。しかし、兎に角途方もない金額が必要なんだろうな、ということだけは分かる。
何しろハリードが稼いでいる額は彼女の見た限りだけでも、例えばシノンで暮らす農夫が一生で稼ぐ金額の、既に何十倍何百倍にも上っているからだ。
それでもまだまだ全く足りないと言うのだから、それはそれは莫大な金額が必要なのだろう。
(でも・・・ハリードは、なんでかその目的を見失った)
ぼんやりと彼の背中やその周辺を見つめながら、エレンはそう頭の中で呟いた。
彼女らの居る岩壁の周囲には、人工的に削り出された岩の柱が幾つも立っている。
その半分以上は風化したのか一部は倒壊しており、ここが随分と昔からあるんだなと言う事が見て取れた。
それらの間を突っ切り、切り立つ岩壁の岩肌に触れ、ハリードは細かにその壁面を調べている。
エレンはその様を岩の間の小さな日陰から眺めつつ、改めて岩壁とその周囲に視線を向けた。
彼の様子を見る限り、どうやらここが、諸王の都という場所らしい。
都とは言うが、そこには名前から想像するような生活の営みなど全く見当たらず、ご覧の通り岩があるだけだ。
そして、それでも都と名付けられたこの岩壁の内部には、歴代のゲッシアの王族が眠っているのだと言う。つまりは、ここは王の墓なのだ。
六百年前に世界の大部分を支配下に置きナジュへと侵攻してきた魔王軍を辛くも退けたという英雄を始め、歴々の王族が眠る場所。
ここは、言わば死者の都だというわけだ。
(普通の墓地とかにしないのは、やっぱり権威とか見栄とかなのかしら)
シノンにも墓地はあったが、個々の墓印には木や石を用いた質素な物を用いた墓が不規則に並ぶだけの、実に簡素な場所だった。
南方にタフターン山を望む小高い丘にあるその墓地は、小さな頃は彼女らの遊び場の一つでもあった。
それに比べて、こんな大きな岩壁地帯をそのまま墓に仕立てるなんて、ナジュの民というのは随分と大袈裟なんだなとエレンは思う。
(あー・・・でも聖王廟も凄く立派だったし、偉い人の墓ってとりあえず大きい物なのかしら)
今度は半年ほど前に遡るランスでの日々を思い返しながら、そんなことを思う。
彼女がそうして色々と考え事をしている合間にも、ハリードは一見なんの変哲もない岩肌になにかを見つけたようで、エレンを呼び寄せた。
「見つけたぞ。ここが入り口だ」
ハリードがそう言いながら指し示す岩肌は、エレンが幾ら凝視しても、単なる岩石の壁にしか見えない。
しかしハリードがその壁に多少の助走をつけて体当たりすると、岩は砂埃を上げて周囲から凹むように押し込まれ、内部の仕掛けによって上に開いたのであった。
「おぉ、凄い!」
「・・・行くぞ」
そう言いながらハリードが松明に火を灯しつつ中に入ると、エレンは腰に装着してある戦斧の具合を手で確認しながら後に続いた。
魔王がその行方を晦ませた後、四魔貴族による無秩序の支配という、人類史上で最悪とされた時代が三百年余りの間も続いた。
その暗黒時代に於いて、最も魔貴族の支配被害を受けずに済んだのが、ゲッシア王朝だと言われている。
六百年前、魔王直々に手を下したことによって壊滅させられたという旧ゲッシアを主体とした東方諸国連合軍は、しかしその前段の戦で魔王軍の侵攻を天術の行使により食い止めてみせたという、実に輝かしい戦果を残していた。
これはつまり、連合軍は一定の抵抗力を魔族に対して示した、ということなのである。
そしてその後三百年を支配した四魔貴族は、各々が好きに振る舞うばかりで支配域の拡大や盤石化に心血を注いだと言う記録は、ない。
ナジュ砂漠は北にビューネイ、西にアウナスの居城があるという位置関係にある。だがそれらとナジュとを隔てる長大なエルブール山脈や砂漠を越えてまで、魔王軍を退けた戦果を誇る国へと態々侵攻する理由も、四魔貴族には無かったのだろう。
そのような事情から、奇しくも難を逃れたという事が幸いしたのだ。そして魔王軍との戦いで活躍した英雄によって新たな国が興され、独自文化を育みながら大いに発展し、驕り、そして内部から腐敗していった。
その結果として、遂には魔物ではなく人間との戦いによって滅んだのだという。
「永きに渡る統治の中で得た様々な財宝が、この諸王の都には副葬品として眠っている。それはゲッシアの確かな栄華の証であり、物言わぬ腐敗の証人でもある」
ゲッシアの歴史をぽつぽつと語りながら、慎重に歩を進めるハリード。そんな彼の後をついて行きつつ、エレンは松明の灯りに照らし出される壁面を見渡した。
人工的に掘り広げられた岩壁の中は、入り口の小ささからは想像できないほどに広く、そして複雑に道が枝分かれしていた。
その道中の壁面には、ここが掘られた時代を象徴するような様々な壁画が生き生きとした様子で鮮やかに描かれている。
エレンにはその壁画の真価こそ計りかねるものの、歴史資料としては非常に価値がありそうだな等と、ハリードに感化されて一丁前に値踏みなどしてみる。
「元々は英雄アル・アワド王を祀るためだけに作られた場所だったそうだが、歴々の王やその親族が此処でお眠りになるために増改築を繰り返した結果、大きく複雑な作りになったらしい」
ハリード自身も手探りで進むようにしながら、注意深く罠を避けていく。
二人は既にいくつかの立派な石造りの棺の前を通り過ぎてきたが、その周辺には例外なく、周到に罠が張られていた。当然設置されている罠は、盗掘対策だろう。一見してなにもなさそうな通路や空洞にも幾つか設置があり、特に偉大な王が眠ると思われる専用の玄室には、幾重にも重ねられていた。
元々この諸王の都に辿り着く事自体、砂漠に慣れていて且つ、伝承の手がかりを知る者に限られるはずだ。その上でこの罠の数となれば、確かに内部が全く荒らされた形跡がないのも頷けるという物だろう。
「・・・俺も、いずれはここに眠るはずだった」
ふと、ハリードがそう呟く。
しかしエレンが黙ったままでいると、ハリードは構わず独り言のように続けた。
「・・・国が滅んだ時、いっそ俺も、ここに眠りに来ようかと考えた。だがここは最早、亡国の墓。おめおめと生き恥を晒している俺が来ていい場所では無くなったのだと、そう思い直した」
「・・・」
階段状に下がっていく通路を進みつつ、その横に設置された大きな棺を横目に眺めながら、しかしハリードは目の前の棺ではない何かを見るかのように視線を細める。
その先に、彼は何を見つめているのか。ハリードの表情には憧憬と、悲哀が混ざり込む。
「あれから、十年以上が過ぎた。この十年余り・・・俺は王国再建の為にと金を稼いできた。だが、その実は・・・単なる現実逃避を繰り返してきたのだ。俺はそもそも・・・王国の再建なんて、本当はどうでもよかったのさ」
それはまるで、冥府へと降るか如く。
只管に下層へと降りていったその先には、急にそれまでの道中に鎮座する整った棺とは違って不恰好かつ不揃いな墓石が乱雑に広がる、異様な様相の部屋に出た。
見渡す限りのそれらは恐らく王族のものではなく、この死の都の建設の中で殉じた者たちであろう。これほどの大規模な建設事業ともなれば、それは想像に難くないことだった。
「・・・俺には、愛する人がいた。名を、ファティーマ様という。王国の姫だった」
ずきり、とエレンの中で何かが疼く。
それはとても嫌な気持ちのする疼きで、そして、今まで彼女が一度も経験したことがない類のものだった。それがなんなのかを直感で理解したエレンは、それでもその場では何も口にすることなく、静かにハリードの話の続きへ耳を傾けた。
「姫は王国滅亡の混乱の最中、消息不明になった。無様に生き残った俺は兎に角、姫の痕跡を追ったさ。だが・・・いくら探しても姫の痕跡は、何処にも、これっぽっちも見つからなかった。そうして何の手掛かりもなく時間だけが過ぎる内に、遂に俺は、姫を探すことを殆どしなくなった。それからは・・・ただ王国再建という上っ面だけ装って、生ける屍のように世界を放浪していたんだ」
ハリードの言葉を聞きながら、同時にエレンは彼と出会ってからのこの一年余りを反芻する。
確かに彼は彼女の見る限り、特別何かを探すような素振りはしていることがなかった。しかし、だからと言ってこのハリードという男は、彼女には生ける屍などにも全く見えなかった。
その瞳は生気に満ち溢れていて、その言葉は彼女に常に新しい知見をもたらしてくれて、そしてその広い背中は、あの時ロアーヌの酒場で急に居場所を失ってしまった彼女を導く光明となり、こうして世界へと連れ出してくれたのだ。
その一方で、彼がこうして過去に苛まれていたことに微塵も気が付けなかったことには、一抹の悔しさもある。だが、そんなことを一切おくびにも出さないのが、このハリードという男なのだろう。
そんなことを思いながら雑多に乱立する墓石の間を縫うようにして奥へ抜けると、二人は再び整備が行き届いた空間へと出た。
そこには途中に右へと折れる道があるが、王たちの眠る棺が置き並べられているのは真っ直ぐ奥へと続く方向だ。ハリードは迷わず奥へと進み、エレンは相変わらず無言でその後をついて行った。
「此間ピドナに戻る直前、もう二度と会うまいと思っていた男と十年振りに話す機会があった。そいつは俺と違って、そいつなりに過去と正面から向き合い己が道を定め、進んでいた。その時、そいつに聞かれたのさ・・・お前はどうするのだ、ってな。俺は、その言葉に答えられなかった。そんで今更、思い出したんだ。俺には目的など・・・もうないのだった、ということを」
連なる棺の横を通り過ぎると、奥へと続く通路の門の前に、大きな何かの獣を象った像が二体あった。それはまるで、この先を守るように配されているかのようだ。
今までと雰囲気が異なるその様子に、いよいよ最深部が近いのかも知れないとエレンは感じた。
「そこからは、正直あまり覚えちゃいない。気がついたらピドナの港にいて、こうして祖国へと足が向いていたんだ。しかし・・・お前と一緒に来ることになるとは、夢にも思っていなかったがな」
二体の像の間を通った先は、これまでの複雑な通路構造とは異なり、完全に一本道のようだった。
見渡す限りその部屋には棺はなく、恐らくは副葬品であろう財宝が収められていると思われる立派な装飾の石の箱が、部屋の中央に三つほど並べられている。
だがエレンは、それらに見向きもしなかった。
彼女がここにきた目的はここの財宝の回収だが、それよりも今はハリードの言葉に耳を傾けることこそが自分の最優先事項であるのだと確信していた。
「・・・お前、船で俺に言ったな。何か無くした顔をしている、と。癪に触るが・・・正にその通りだったのさ。つっても正しくは、とっくの昔に失くしていたっつーことを思い出しただけだがな」
財宝の間を抜けた先には、今度は上へ上へと伸びる、長大な階段が削り出された空間に出た。
入り口からここまでの中で最も広いその空間には、中央を突き抜け、恐らくここまで地中へと降った分を帳消しにするほどの高さまで続いている様子の階段。そしてその左右には、これまた夥しい数の墓石が、等間隔に規則正しく並んでいた。
「・・・どうやら、魔王軍との戦によって戦死した英霊達の墓のようだな」
墓跡に刻まれた文字を読んでハリードがそう呟くと、エレンはその膨大な数の墓石を見渡しながら思わず吐息を漏らした。
遥か昔、六百年前の出来事を確かに今に伝える、物言わぬ証人。それが何百、何千と、ここに今も眠っているのだ。
壇上を見上げるようにして階段へと視線を向けたハリードは、こちらを向くことなく階段を登り始める。
エレンは、無言でその背中を見つめるようにしながら後を歩いた。
「・・・ここに眠る英霊達を、羨ましく思う。俺はもう、此処に眠る者達のように守るべき国などないし、守るべき人も・・・もういない」
一歩一歩、二人は階段を登っていく。手元の松明に照らされて見える近くの墓石は、その一つ一つに名前はなく、同じ送り文言が刻まれているようだった。
それが均等に配列され幾百と並ぶ様は、ここまでの大きな棺とはまた違って圧巻の光景だ。
「リブロフに古くからの馴染みの店があってな。此間、久しぶりに顔を出したんだ。そしたら居合わせた古い知人がな、この死者の都にファティーマ様がいるらしい、なんて戯言を宣った。今更何言ってんだって、鼻で笑おうと思ったよ。だが・・・結局俺はおめおめと、ここに来た」
エレンが見上げる先で前を行くハリードの背中は、いつも通り大きい。しかし、何故だかエレンにはこの時、ハリードの姿が、とても小さく細く、弱々しく見えた。
思わず後ろから抱きしめてやりたい衝動に駆られるが、軽く歯を食いしばって雑念を払い、まっすぐに進む。
「・・・そりゃ、本気で探しにきたってことはないさ。ここがどういう場所かは、分かっていたんだ。だが、微かな期待を胸に抱いたことも事実だ。それに・・・今この時になって示された行き先が、この死者の都であるということ・・・。それがまるで・・・何かを暗示しているようにも感じられた」
長く長く、永遠に続くかに思われた階段も、漸く終わりを迎える。
そうして二人が登り切った先には、それまでよりも更に巨大な空間が広がっていた。
不思議なことにそこには幾つもの仄かな灯りが灯っており、空間全体を淡く照らし出している。
そこにも、ここまで階段にあったのと同様にびっしりと墓石が円を描くように地面を埋め尽くしており、そしてその中央に広く撮られた台座の上に、一際大きな石碑が鎮座していた。
不要になった松明を亀裂が入った岩の窪みに刺し、二人は通路の中心へと向かう。
「・・・果たして俺は、何を為すべきなのか。いや・・・もうこの俺に、為すべき、などと言うようなものは無いのかもしれん。八つの光だか何だか知らないが、世界を救うなんて話に興味はないし、姫の居ない国を再建することへの意義も、見い出せない。為すべきことなど、何も思いつかないのだ。それはもう・・・死んでいるのと同じなのかもしれん」
「・・・でもハリードは今、ここに生きてるわ」
歩きつつ中央の石碑へと視線を向けながら語るハリードの言葉に、エレンは思わず立ち止まってそう言った。
それを聞いたハリードも立ち止まって少し俯きながら、自重気味に、ふっと笑う。
「ただ死んでないだけだ。それは生きているとはいえんだろう」
「生きてるわ」
ハリードの言葉を遮るように、エレンはもう一度はっきりと言い放つ。
その声量に、ハリードは少し怪訝そうな顔をしながらエレンへと振り返った。
ここまでずっと黙って彼の話を聞いてきた彼女の中には、彼女自身にも説明のしようがないほどの感情の渦が、幾つも逆巻いていた。
ハリードのこんな弱い言葉を聞きたくない。
ハリードのこんな弱い言葉が聞けて嬉しい。
自分よりも強い男のこんなにも弱る様を見たくない。
自分よりも弱い男のこんな背中が愛おしく、今すぐにでも抱きしめてやりたい。
まるで真逆の感情が、ぐるぐると彼女の中に渦巻く。
自分が彼から学んだことは、決して死者の戯れなんかじゃない。自分は、突如覆われた暗闇の中で、彼という光に確かに救い出されたのだ。
勿論、この男が抱える闇と自分が一年前に直面した暗闇とは、全く異なるものだろう。圧倒的に彼の抱えるものの方が、凡ゆる側面で深く、重たいのは明らかだ。
だから、この男はこんなこと全く望まないのだろうと思う。
だがそれでも、今度はあたしがこの男を心の牢獄から引っ張り出す光となる番なのだ。
あたしが今、そう決めたのだ。
「ハリードは生きてる。あたしがそれを知っている。ここまでだって、死人と共に旅をしてきたつもりなんて全然ないわ。あんたは死んでなんかいない。今ここで眠らせてやったりもしない。あんたは生きて、ここから帰って、そしてあたしと行くの」
「・・・・・・」
言っているうちに、なぜだかエレンは目尻にたっぷりの涙を溜め、そして静かに流していた。
それはきっと、自分の中で行き場なく砂嵐のように荒れ狂う感情が、抑えきれなくなったからだ。
それで頭の中が爆発してしまわないように、こうして涙という形をとって外に感情を吐き出そうとしている。だから、嬉しくも悲しくもないのに不思議と、こんなにも涙が出るのだ。
エレンはハリードの腕を引き、無理矢理に自分へと向き直らせた。
そして、彼の胸ぐらを両手で掴んで彼の視線をこちらに向かせ、彼女もまたハリードの両の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「国が無くなったなんてことない女が、何言ってんだって思ってんでしょ。でもね、あたしはあたしなりに、全てを賭けてサラを守るって決めて十五年生きてきたの。だからあの子と離れるってことはその十五年の全否定だし、それはあたしの生きる意味がなくなったのと同じだと思ったわ。でも・・・そうじゃなかった」
ハリードの胸ぐらを掴む手に、ぐっと力がこもる。
「そりゃあ先のことなんて何にもわからないけど、世界はあたしを置き去りにして回っていくように見えるけど・・・それでもやっぱり、いつだって世界の在り方を決めるのは、あたし。生きるのも死ぬのも、それを決めるのは世界とか宿命とかじゃなく、あたしなの。あたしにはその自由があるんだって・・・そうやって生きる道をこの一年であたしに気づかせてくれたのは、ハリードなのよ」
ぽろぽろと、止め処なく涙が零れ落ちる。
いい年をして感情が昂って泣いてしまうなんて格好悪いし、見られるのも恥ずかしい。だから早く涙を拭いたいところだけれど、それでも今はこの男の胸ぐらを掴んだ手を、放すわけにはいかない。
「だから、あたしを世界に連れ出してそれを示したあんたが、自分だけ勝手に行く先を無くして死ぬなんて、あたしは絶対に許さない」
胸ぐらを掴んだまま、つま先立ちで背を伸ばす。
そのままエレンは、彼女の気性からは随分と大人しめに見えるほどに、とても静かな、触れるか触れないかのささやかな口付けをハリードにした。
「・・・もう一回言うわ。あんたは、あたしと行くの。死ぬにしたって、それは今じゃないし、此処じゃないわ」
そっと唇を離して、掴んでいた胸ぐらをぶっきらぼうに解きながら言った。
そして乱暴に自分の目元を袖で擦って涙を拭うと、ハリードに視線を合わせぬまま一歩後ろに下がる。
あとは暫しの沈黙が二人の間に降り、ゆらゆらとゆらめく松明の光が二人を淡く照らし出した。
「・・・・・・ふっ」
やがて小さく、吐息が漏れる音。
それに続いて先ほどまで沈黙が支配していた空間には、抑えるように小さく笑うハリードの声が響いた。
「何笑ってんのよ」
ハリードを睨みつけようとするが、どうしたことか、彼の顔を見ることができない。
今になって少し冷静になり、自分が先ほど彼に何をしたのかをじっくりと思い返すに至ったのだ。
だから恥ずかし紛れに思いっきりハリードの腹でも殴ってやろうと、右腕を振りかぶりながら一歩前に踏み出す。しかしそこで同じく一歩前に出てきたハリードに、彼女はまんまと抱き竦められてしまった。
「・・・いいだろう。その話に乗ろう」
上手く抵抗ができない。
いや、そもそも大して抵抗する気がないのか、とエレンは自問した。それに、これはこれでハリードの視線を正面から受けなくて済むので、気持ちが楽といえば楽な気もする。
エレンがハリードの腕を解くことをせずにいると、彼女の頭の上からハリードの落ち着いた声が降ってくる。
「お前が俺に生きろというのならば、今はそうしよう。今はこの身をお前に預け、共に行こう。そして俺が・・・もし再び、己の道を決める自由とやらをこの心に得るのであれば、それを以てこの依頼の達成とさせてもらおう」
そういうとハリードは、エレンを抱き寄せていた腕を解く。そして半歩後ろに下がりながら軽く身を屈め、先ほどエレンが自分にそうしたように、触れるだけのささやかな口付けを彼女にした。
「・・・前金だ。戴いておくぞ」
エレンは、しかめっ面だ。
ひどい顔をしているな、とハリードは思う。相手を殴ってやりたいが、自分から先にやった手前そういうわけにもいかずに、羞恥心が行き場をなくしている。そういう顔だ。
もう少しその顔を眺めているのも悪くないとは思ったが、しかしハリードにはこの場所で、やらねばならないことが残っている。
ハリードは屈めていた姿勢を正して中央の石碑へと視線を移すと、小さく一息ついてから石碑へと歩み寄る。
エレンは、その背中を黙って見送った。
「・・・ならば、あとはここでやることは、一つだけだ」
そう言いながらハリードは、ゆっくりと石碑のある台座へと上がった。
その石碑の元には、これまでの道中にあったのとは明らかに異なる様相の棺があった。その棺にも後ろの石碑にも、夥しい量の文字が刻まれている。
ハリードは石碑を見上げながら、物思いに耽るかのように目を細めた。
「・・・初代、アル・アワド王の墓だ」
その栄華は、六百年の長きに及んだ大国。その国を興した祖にして、ナジュにて最も讃えられる英雄。その亡骸が眠る墓を前に、ハリードは腰に付けているカムシーンの柄を握りしめた。
「多くのものが王の名剣カムシーンを手に入れることを望み、命を落とした。俺もカムシーンに憧れ、自らの剣をカムシーンと名付けてきた」
ハリードの言葉に呼応するかの如く、巨大な石碑から不気味な波動が空間全体へと放たれた。それはやがて彼の前に集約し、視認できる黒い霧状の何かへと変貌する。
それはほんの錯覚なのか、一瞬、女性のような人型を模したようにも見えた。
だがすぐにその形は崩れて掻き消え、瞬く間に膨れ上がって大きな塊となり渦巻いていく。
そして気がつけば、石碑とハリードの間には巨大な漆黒の龍が、忽然と姿を現していた。
「ハリード・・・!」
その突然の光景に驚いたエレンが慌てて駆け寄ろうとするが、しかし対照的にハリードは悠然としたままだった。まるでそうなることが分かっていたかのように、全く動じた様子がない。
そして慌てるエレンに振り向くこともなく、軽く右手を上げることでエレンに制止の意を示した。
黒龍はその様をじっと眺めるように、黒く美しい鱗で周囲の光を妖しくも美しく反射させながら、ゆっくりとハリードに向かって首をもたげる。
「手出しは無用。これは、俺が向き合わなきゃならんものだ。ただ・・・そこで見届けてくれると有難い」
そう言って高らかに剣帯から自らのカムシーンを抜き放ったハリードは、どこか悲しげにも見える瞳の色で黒龍を見上げ、そしてカムシーンを構えた。
「今の俺に、真のカムシーンを手に入れる力があるだろうか・・・。いや、ここで死ぬなら、俺はそれまでだったというだけ。これが生き残った俺の、一つの決着なのだ。この俺が前に進むには、この選択こそが相応しい」
その言葉に応えるかのように、黒龍のその後ろの石碑から、重苦しい声が響く。
『汝、カムシーンを受け継ぐ者か?』
「はい」
厳かなその声に、ハリードはいつになく真っ直ぐな透き通った声色で応えた。
石碑から届くその声は、男の声とも女の声とも分からぬものだ。しかし、何故かハリードはその声に強く郷愁の念を抱いた。
『汝、その証を立てるか?』
「はい」
ハリードは再び、迷いなく応える。
すると声は止み、ほんの一時、その場に静寂が訪れた。
その静寂の最中、カムシーンを構えるハリードと、彼を見つめる黒龍の視線が交錯する。
ハリードは、大きく息を吸い込んだ。
「我が名はハリード。アル・アワド王が興せし国の、最後の王族。異名はトルネード。ゲッシアの誇りたる曲刀を操る、傭兵の名。そして儀称は、エル・ヌール。この身を光と呼んだあのお方に、この試練の勝利を捧げよう」
名乗りを上げ、ハリードはカムシーンを構える体躯を低くし、重心を深く落とした。
それに呼応して空間全体を震わせるように、黒龍が強烈な咆哮を放つ。
ハリードはその咆哮の最中、迷うことなく一足飛びで黒龍へ斬り込んでいった。
巨大な黒龍が、その巨躯に全く似合わぬ俊敏さで繰り出す牙や、爪や、尾の乱撃。
それを駆け、跳び、身を捻りながら紙一重で回避しつつ曲刀による斬撃を繰り出していく、勇猛果敢なるゲッシアの戦士。
エレンはただただ両の拳を固く握り締めながら、言われた通り微動だにせず、その勇姿をじっと見守っていた。
最終更新:2021年12月31日 19:05