「・・・しかしこれはまた、実に煌びやかな宴席ですな」

 そこは果たしてこの世か、はたまた楽園か。
 老紳士は、見たこともないような火を使わぬ照明器具で華やかに装飾された宴会場と、その中央舞台の上で楽人もなく流れる音楽に合わせて踊る金髪の女性を眺めながら、豪奢な料理が盛られたテーブルの向かいに腰掛けるラブ=ドフォーレへと声をかけた。

「いえいえ、本来ならばバンガード全てを貸し切ってでもおもてなしを差し上げたかったところですよ、バイロン卿」

 ラブはそう答えながら、優雅にヴィンテージワインが注がれたグラスを傾けた。
 今宵の主賓であるこの老紳士は、フルブライト商会要職であると同時に商業都市国家ウィルミントンの執政議会議員を代々務める名家、バイロン家の当主だ。
 その名はウィルミントンで最も名のあるホテルに冠せられているほどで、フルブライト商会においても数代に渡り並々ならぬ功績を共に築き上げてきた家柄でもある。
 このバイロン卿を筆頭に、この日は総勢百名にも迫ろうかというほどのフルブライト商会関係者をこの会場に招いており、各々が最高級の料理と酒、そして数々の趣向を凝らした催しに興じている。
 トレードの際によく用いられるお持て成しの規模としては、間違いなく史上最大だと言えるだろう。

「あの舞台上で踊っておられるのは・・・ひょっとして、かの有名なプロフェッサーですかな?」
「流石はバイロン卿、博識でいらっしゃる。あのツヴァイク公をパトロンとして射止めたというダンスだそうで、私も初めて拝見しましたが、確かにこれは一見の価値がありますな」

 教授がダンスを踊る舞台周辺には、確かに会場にいる大半の来賓が集まっており、大変な盛り上がりを見せていた。
 それは例えば場末の酒場で見られるような、聞き慣れたフィドルやギターに合わせて舞う踊り子のそれとは、全く様相の異なったものであった。
 楽人など周辺に一人も見当たらないというのに、何処からともなく流れ出てくる複数の楽器が奏でる音楽に合わせ、時に激しく、時にムーディーに変調していく演奏に併せて一心不乱に踊り上げている。
 更に、色彩豊かに変化しながら予め敷かれた導線上を動き回る照明演出が場を盛り上げ、そのステージを、嘗てない至上のエンターテイメントへと昇華させているのだ。
 これら音響器具や照明等も教授の自前機材であるらしく、確かにその未知なる演出はこれまで見たことがないようなもの故に、ステージ周辺は異様なほどの盛り上がりを見せていた。

「この後もこの会場では様々な催しを準備しておりますが・・・実はバイロン卿には、このバンガードでしか体験できない特別な席をご用意させていただいてましてな。よろしければ今から、其方へご案内さしあげても?」
「ほう・・・それは楽しみですな」

 そう答えるバイロンに対しラブは上機嫌な様子でグラスの中身を飲み干し、ゆっくりと席から立ち上がった。

「折角ですから、そこで少し面白いお話でもさせていただきましょう。ただ、席の装飾が非常に繊細な場所でしてな。ご同伴は最小限に留めていただけると有り難いのですが」
「・・・では、私と執事のみで向かいましょう。よろしいかな?」
「ええ、もちろんですとも」

 ラブの言葉から何かの意図を察したのか、バイロンは自らの顎髭を撫でつけながら応じつつ立ち上がった。
 そのまま二人と連れの執事は盛り上がりを見せる会場を後にし、すぐ目の前の中央広場へと向かう。
 そこには大きな噴水と巨大なイルカ像が鎮座しており、すぐ近くには護衛が立つ小さな入口があった。

「・・・聖王記に記された伝説の通りに目覚めしバンガードは、この表向きの市街地ではなく、その内部こそが伝説の本懐。今宵、その最も素晴らしい眺望へと、卿をご案内しましょう」

 入口を守る護衛がラブの姿を見てゆっくりと扉を開けると、ラブは仰々しい口上を述べながら、バイロンを中へと招いた。








 ハンス邸での会議から、二週間ほどが経過していた。
 船や荷馬車の往来が殆ど無くなっていることで、以前からすれば不気味なほどに静かな日中が過ぎ、そして太陽が遠く静海の向こうへ、ゆっくり落ちていった後のピドナ市街。
 このような状況の中、それでも日々の労働を終えた市民たちで中央通りは、にわかに賑やかさを増していく。
 特に、中央通りの中でも集客の良い一等地に店舗を構える老舗パブ、ヴィン・サントには、今日も多くの市民が日中の疲れや不安を癒しに立ち寄っては、思い思いに杯を傾けていた。
 ピドナ全体が未曾有の流通危機に晒されていても、人は一時の憩いを求めてしまうものなのだろうか。

「・・・今頃、バンガードじゃ宴会とかしてる頃かなぁ。なーんかさ、こうしてトレードの結果を待つだけってのも、けっこー落ち着かないよね」

 そんな喧騒に紛れて、テーブルの一箇所に集まった、風変わりな四人の面々。
 その中でも一際奇抜な服装で且つ幼い少女・キャンディは、テーブルの上で頬杖をつきながら、言葉の通り落ち着かなげにそう言った。

「・・・まぁな。しかもその大役の実行者が、あのラブ=ドフォーレだってんだからよ・・・。まったくベントの旦那は肝が据わってるっつーかなんつーか・・・」

 キャンディの正面に座るポールはいつものように肩を竦めながらそう応えると、目の前のビアジョッキを手に取って豪快に傾ける。
 その隣で二人の会話に耳を傾けつつ、紫煙を燻らせながらウィスキーの杯を傾けていたノーラは、テーブルの上に視線を向けた。
 目の前の小さなテーブル上に並べられているのは、バンラスの悪そうな木製の皿にこれでもかというほど盛られた蒸かし芋と、塩漬け肉、鱈の塩漬け、そして芋に振りかける用の塩が少量入った、小皿。

「しっかし・・・塩、ねぇ。前に確かキャンディも言っていたけどさ、こいつが本当にそんなに大きな金を動かすものになるんだねぇ・・・」
「ま、塩がなけりゃなんもかんもすぐ腐っちまって、海に長期間出ることなんてできなかったしな。船乗りにとっちゃ、確かに死活問題だな」

 塩漬けの鱈を一切れ摘み上げて口に放り込みながら、ブラックがノーラに続く。
 それにはポールも、うんうんと頷いてみせた。

「あぁ。それこそ俺の生まれのキドラントなんざ、作物は殆ど育たない土地だからな・・・こんな感じに塩漬けした肉と鱈がなきゃ、あそこじゃ冬すら越せない。正に命の源なんだよな、塩ってのは」

 集まった四者は思い思いにそんなことを言いながら、目の前のつまみと杯を交互に口に運ぶ。

 二週間ほど前にハンス邸でトーマスから明かされた、このピドナ未曾有の危機における、起死回生の為の一手。
 それこそが、カタリナカンパニーからフルブライト商会へのトレード攻勢という、正に前代未聞の超難事だった。
 これを実行に移すにあたり、前年のドフォーレとの対決で殆どの自社資金を放出してしまったカタリナカンパニーが持ち出す、この史上最大規模トレードへの、資金源。
 果たしてこれについてトーマスが提示したものこそ、正に今この食卓に並んでいる『塩』であった。
 より正確を記すならば、ドフォーレ商会所有物件の一つで、現在は一連の騒動により閉鎖しているヤーマス塩鉱から取れる岩塩の『優先取引契約権』というものである。
 全世界の食糧保存事情等に欠かすことのできない『塩』を供給するにあたり、その大規模な生産地というものは実際のところ、この世界では非常に数が少ない。
 この三百年の歴史を顧みても、独自に安定した塩の確保調達手段を保持しているのは、世界を見渡してもツヴァイクとナジュ地方くらいのもので、それ以外は海棲魔物の襲撃と隣り合わせとなり危険度が高い沿岸の塩田事業が主である。
 そんな中、死蝕直後の海運事業拡大を発端とした急成長の末にドフォーレが採掘に成功したのが、件のヤーマス塩鉱であった。
 ドフォーレはここで採れた岩塩を精製し、それを麻薬と少しずつ混ぜながら流通させることで人類を蝕んでいくという大悪行のため、利益度外視で世界中に自社製の塩を供給拡大させていった。
 加えて、元より魔物襲撃の危険性を孕んでいた世界各所の沿岸塩田を、ドフォーレは裏で魔物と組んで集中的に襲撃までしていたのだ。
 それを示す証言も、神王教団ピドナ支部の残党から取れている。
 このように塩に関わる価格操作がこの十年内で秘密裏に行われていた実態が複数判明しており、その影響により塩の供給状態や価格は近年で大きく変動していたのであった。
 ここまでが、世間に未だ秘匿されている、一連のドフォーレ買収劇の裏に潜む真相である。
 だが、仮に、だ。
 仮にドフォーレがそんな悪事を考えず、真っ当に適正価格としてこの塩鉱から出る塩を扱っていたとしたら。
 もしそうしていたならば、それこそ冗談ではなく『一国が建つ』程の、途方もない財を生み出したことであろう。
 この世界における塩鉱とはそれほどまでの、正に金脈にも等しい代物であるのだ。
 事実、現在ヤーマス塩鉱からの供給が途絶えているこの数ヶ月で、世界中の塩の価格は既に倍以上に高騰している。
 その状態にあって安定供給が見込める塩鉱となれば、正にどの商会や国も、喉から手が出るほど欲しいことであろう。

「ヤーマス塩鉱は、現在判明している塩鉱規模としては恐らく世界最大級だからな。ドフォーレはそれを別の目的で使っていたが、本来ならばもっと莫大な利益を生み出せる代物だ。本来ならカンパニーの主力産業として慎重に扱うべきだろうが・・・」
「それを、まさか代理戦争の餌に仕立てちゃうとはねー。ほんとおっそろしいよね、トーマスさんは」

 ポールの言葉にキャンディが果汁で薄めた白ワインの杯を傾けつつ返すと、それには一同が何の疑いの余地もない様子で深く頷いた。
 この塩鉱取引権をオーラム代わりにトレードのテーブルに乗せることで、フルブライトへ対抗して見せよう、というのがトーマスの狙いなのである。
 だが、これを効果的に利用するには、カタリナカンパニーとフルブライトという二社の対立だけでは、残念ながら成り立たない。
 もう一つの要素が、必要だ。
 ここでトーマスが打診をしたのは、誰あろう、世界最大国家メッサーナ王国にて実権を握る、ルートヴィッヒ軍団長その人であった。
 この時トーマスは既にルートヴィッヒへ内々で取引を持ちかけており、仮にメッサーナがこれの優先取引契約権を買った場合の仮提示額面として『十億オーラム』を一時的な条件として引き出していたのである。

「しかもこの取引の恐ろしいのは、塩鉱が麻薬工場と一緒くたになって混ぜ物を世界に流出させていたっつー証拠を、俺たちだけが握っている・・・ってところよ。こいつは、ルートヴィッヒ政権にとって最も表に出てほしくない情報だ。その証拠がこっちにある以上、まだまだ提示額は引き上げにいくことが可能だろうよ」

 腕を組み、周囲を気にしてかテーブルに乗り出すようにしてポールが小声で言うと、反対に気にした様子もなくガタンと音を立てて同じく身を乗り出したキャンディが、うんうんとそれに応えた。

「そこだよね! もし取引権を他の誰かが抑えちゃったら、そこらへんが漏れて世界に全バレする危険性があるもん。そしたらドフォーレを止められなかった今のメッサーナ王宮を、いよいよ誰も信用しなくなっちゃう。そうなんない為にどんだけお金積んでも止めにくるってのは、分かりきってるハナシだよね」
「だーばかたれ!声抑えろっつの・・・。だがまぁ、その通りだな。つまり今回のこのトレードは、カタリナカンパニーとフルブライト商会のトレードっつーより、疑似的なメッサーナとフルブライトのトレードだ。まさかドフォーレ退治の土産をここで使うとは、全く旦那には毎度、度肝を抜かれるよ・・・」

 ポールとキャンディが興奮を抑えられずはしゃぐように盛り上がる様子を尻目に、ノーラとブラックはそれぞれに呆れたような苦笑いをしながら酒の入った杯を傾ける。だが、彼らのいうことは確かな事実なのだ。
 つまり今回トーマスが言い出したこのトレード案は決して無謀な挑戦などではなく、しっかりとした根拠やこれまでの下準備を基にした、勝機を見据えた行動ということなのである。
 それ自体には、トーマスの説明を受けた誰もが彼の手腕に驚嘆し、この勝負への確かな希望を見出したのだ。
 しかし。
 それでも今ここに至り未だ腕を組んでどこか憮然とした表情のノーラは、咥え煙草で呟いた。

「しかしさ。そんな奥の手まで使った世紀の一大トレードだよ? それを、よりにもよってあのドフォーレに任せるってのはね・・・。あたしには、やっぱりちょっとその狙いまではわかんないけどね」

 ノーラの疑問は、最もであろう。そして、そこにブラックが口の端から煙を吐き出しながら同調した。

「まぁそいつには同感だな。それこそトレードの実行役は、発案した副社長様やポール、なんならこのキャンディ嬢ちゃんでもいい。もっと人選のしようがあったんじゃねーか?」

 根元近くまで灰になった吸い殻を椅子の下に落として踏みつけると、途切らせる様子もなく続けて新しい煙草に火を点けながらブラックは続けた。

「俺が言うのもなんだがな。悪人てのは・・・どこまで行っても悪人だ。俺は直接ラブ=ドフォーレってやつを見たことはねぇし、洗脳されてただかなんだかも知らねぇけどよ。どうであれ長く裏家業に浸かってきた奴が、そう簡単にお利口な常識ってやつに従うなんざ・・・思わねぇ方がいいぜ?」

 彼のその言葉には、その場の他の誰にも持たせることのできない、ある種の凄みのようなものが宿っている。

「まぁなんつーか・・・毒には毒を、みたいな感覚だとは思うけどな・・・」

 ブラックの言葉に、どこかいつもと違って歯切れの悪い様子で答えたポールは、フォークに刺した塩漬け肉を口の中に放り込み、エールで一気に流し込んだ。




 すっかり陽が落ち、いつにも増して辺りを通る人影が殆どない、ピドナの商業区通り。
 賑やかさを保つ中央通りとは対照的に辺りの大半を暗闇が覆う中で、煌々と明かりが灯るハンス邸の奥まった箇所にある一室。ここにも、四人が集まり杯を交わしている。

「・・・確かに、人選がドフォーレというのは、私も些か気になるところではある。フルブライトとの対決の可能性まで見えていたならば、正直あのままキャンディさんがヤーマスからウィルミントンに向かう方が良かったのではないだろうか?」

 ロビンが陶器製の杯を傾けながら、正面で同じく脚付きのグラスでワインを傾けていたトーマスに向かい、真っ直ぐな瞳で問いかける。

「・・・キャンディやポールには此方でやって欲しいことがある、とのことだったが。それにしても他に選択肢がなかったものか、と思ってしまうのは・・・私も同感だな」

 トーマスがその言葉にどう返答しようかと考えを巡らせていると、控えめな様子でシャールもロビンの言葉に同意するように口を開いた。
 ちなみにこの場でシャールが飲んでいるのは、水だ。別に彼は酒が飲めない訳でも弱い訳でもないが、水が飲めるならば水がいい、というタイプの人間である。スラム街では清潔な水自体がなかなか飲めない、というのも理由にはあるかもしれないが。
 そんな二人の様子とトーマスの表情を交互に見ながら、ミューズは暖かい紅茶にブランデーを数滴垂らしたものを静かに口に運んでいる。

「・・・そうですね。今後の流れに関することなので、この面子ならば、他言無用ということでご説明しましょう。ドフォーレに任せた理由は、勿論いくつかあります」

 トーマスはテーブルに並べられたカットチーズを雑に口に放り込みながら、語り始めた。
 まず、キャンディやポールにトレードを任せなかった理由。
 これは、トレードの後に控える行動に関してどうしても彼らが必要である、というのが最大の理由だ。
 このトレードに思惑通り勝利することができたとして、そのあとはリブロフやナジュあたりの地域にアビスリーグの大凡の拠点が絞られる。そこを速やかに叩くには、どうしてもトレードの知識を備えた人員を派遣する必要があるのだ。
 カタリナカンパニーの中で言えば、現状でそれを担えるのはトーマス、キャンディ、ポールの三人くらいのものなのである。
 とはいえ流石にトーマスがここから動くわけにはいかないので、後の二人に手分けしてそれを実行してもらう、というのが彼の頭の中にある絵だ。
 なにしろフルブライトとのトレード終了からアビスリーグ補足までの猶予期間は、非常に僅かな期間であるだろうと、トーマスは踏んでいる。
 今回のトレードに勝利すれば、確かに此度の大勢は決するだろう。
 だが、ここまで事前に何も此方に悟らせずにピドナの孤立まで事を運んでみせた程の用意周到な集団が、そう簡単に尻尾を掴ませるとは、彼には考えられないでいた。
 大勢が決してから、アビスリーグが地下に潜るまでの、僅かな隙。
 ここを突いて彼らを炙り出し、ここで徹底的に叩き、壊滅させる。それが出来なければ、彼らは再び水面下で次なる企みを進める事であろう。
 何より、ここで逃してしまった後で彼らが次に手を打つとしたら、先ずは今回の解決に動いた面々を個々に暗殺等で動く可能性が非常に高くなる。
 それを阻止するには、ここで必ず仕留めなければならないのだ。
 そのためには速度が最重要で、本来ならばもっと人員がいくらでも欲しいほどである。
 ここに、サラがいてくれたなら。何度もそんなことをトーマスは頭の中で考えたものだが、しかし無い物ねだりをしても仕方がない。

「なるほど・・・ここで仕留めるには、そうするしかなかったということか。それは、理解できる。悪は根絶をしない限り、再び悪巧みをするものだからね」

 ロビンは感心したように小さく何度も頷き、腕を組みながら感想を述べる。

「キャンディとポールがそこに必要なのは分かったが、ではこのトレードの実行者にドフォーレを人選した理由はなんなのだろうか。それもやはりトレードの知識云々という点だけで、そこに人格的な選択要素はなかった、ということに・・・?」
「・・・いえ。ご指摘の通り、当然その不安要素はあります」

 続けて述べられたシャールの鋭い指摘に、トーマスは隠す様子もなく少し困ったような顔で笑いながら応えた。

「ラブ氏は、トレードに関する知識や技術的な能力は元より、今回の相手であるフルブライト商会に関する様々な情報やコネクションも備えており、この局面での配役としては最適解であると言えます。いくら此方の資金的な手札が強力であるとはいえ、それを扱う人物が素人では話になりません。此度のトレードに勝算を見出すという点では彼しか選択肢がなかった・・・というのは、正直なところです」

 そこまで言ってワイングラスの中身をトーマスが飲み干すと、すかさずロビンがやたらと手慣れた仕草でボトルからトーマスのグラスへとワインをサーブする。
 トーマスは恐縮しながらそれを見届けて礼を言い、再度グラスを手に取ってから続けた。

「そして、シャールさんやロビンさんが仰る懸念点も、当然理解しています。例えば今の彼に、ある程度の裁量を持たせた場合。その時彼は、一体どう考え、どう行動するだろうか・・・。それが、今回の采配の鍵になります」

 ラブ氏の父であるモンテロ=ドフォーレが魔物に乗っ取られる前の情報は、何もない。
 そうなると彼の人となりというものは、魔物に操られていた以降で判断するしかないのだ。これについてトーマスは、キャンディがヤーマスに滞在している間、定期的に彼の人となりについて、彼女に観察してもらった結果を手紙で受け取っていた。
 それによればラブ=ドフォーレという人物は、実に「みたまんま」である、というのがキャンディの見解であった。
 でっぷりと脂の乗った身体のあちこちに散りばめた悪趣味なほどに輝く装飾品、己の欲望に非常に忠実で終始傲慢な態度、財力や権力を盾にした人の見下し方。
 それらは魔物に操られていた時となんら変わらぬ・・・つまり、紛う事なき彼自身の性分である、と。

「・・・不安しか抱かない情報だな・・・」

 シャールがそう言うと、それにはミューズとロビンも頷いた。
 トーマスが続ける。
 キャンディが観察してきた短い期間の中でも、彼の行動基準というものが、なんとなく見えてきたのだという。
 彼は先に述べた通りの性分ではあるものの、しかし仕事は驚くほどよく行うのだ。
 現地ではキャンディが監査役を兼ねて活動していたが、その下で動くラブという人物は、実に勤勉に働いていたのである。その働きぶりは、全く他の追随を許さぬほど圧倒的なものであった。
 というより、他が働けていなさすぎる、ということにキャンディは早々に気がついた。
 それは個々の能力云々というより、仕事そのものに慣れてすらいない、といった様相なのだ。
 つまりは驚くべきことに、彼以外に商会経営というものについて尺たる知識を持つものは、ドフォーレ商会の中には一人もいなかったのである。
 それらの状況について不思議に思ったキャンディがラブに尋ねたところ、彼は臆面もなく、こう言ってのけたのだという。

『市長も含めて、この町はグズ共の集まりだ。そして俺は、グズ共のやるグズグズした作業を見ているのが一番イラつくんだよ。だから俺がやっているんだ。この町は俺がいなけりゃ、今だに小さな漁村止まりだったろうさ。それこそ、バンガードのマッキントッシュあたりに食い物にされてただろうな』

 これは、彼の行動基準を表す非常に有用な言葉であろうと、トーマスは感じた。
 彼は、間違いなく優秀だ。いくら魔物に操られていたからといって、彼にそもそも能力がなければ、ドフォーレ商会はこの短期間でここまで大きく成長などしなかった。
 だが一方で、彼は指導者としての性格に向くとは言えない。自分の右腕になるような人物を一切用意していないことが、その確固たる証左だ。しかも、彼はそれでよし、とするきらいがある。
 つまり、彼の中には自分の理想とする水準があり、それに到達するための自己努力を惜しまないという性質が垣間見える。
 強い自己顕示欲。それを事実たらしめる実績と行動力。自らに及ばぬものを見下し、歯牙にも掛けない選民思想。それらで形作られているのが、ラブ=ドフォーレという人物だ。

「私がそこから導き出した道筋は、彼が望む水準の舞台を用意すること、です。彼が踊るに値する舞台を用意すれば、彼は演者として必ずそこに立つ。私が彼にそれを示すことができるかどうかが、今回彼を采配する上での鍵というわけです。私の器が知れてしまえば、彼は此方の意図せぬ動きをするでしょう」
「それはなんとも・・・我々には想像すら難しい話だな」

 トーマスの言葉を聞きながら、シャールはすっかり眉を顰めつつ唸った。
 彼の覚えているラブとは、最初で最後、ヤーマスでの一連の騒ぎの最後の瞬間だ。それはそれは大層な情けない姿で、キャンディの前で尻餅をついている小悪党丸出しの男、というだけであった。
 それについてつい口を滑らせると、ミューズは酒が効いてきたのか少し上機嫌な様子で相槌を打った。

「だからこそ、トーマス様の狙いに沿うのかもしれませんよ、シャール。物事が自分の想定の上をいく場合には、人としての弱さをちゃんと露呈する。それは、統べる上で活用すべき、有用な特徴です」

 流石は超名門の家系といったところか。帝王学を納めたミューズのその指摘は、非常に説得力があるものであった。
 シャールは、それにこくりと頷く。

「なるほど、確かにミューズ様の仰る通りかもしれません。しかしいずれにせよ・・・私たちに今できるのは、待つことだけですね」






「強い自己顕示欲。それに見合う実力。そして、それを裏付ける実力主義と排他思想。しかし・・・君にとってはそのどれもが、真実の姿ではない。この席で改めて、そう感じ入るよ」

 地上の宴とは打って変わり、静寂に満たされた、海の中。
 その中にあって、うっすらと青白い光に満たされ、分厚い硝子の壁の向こうから仄暗い海の中を泳ぐ魚たちが、しきりに中の様子を伺うように周辺を遊泳している。
 移動要塞バンガードの海中艦橋に特別に用意された、この世でただ一箇所と言っていいであろう景色を堪能できる、至高の宴席。
 その席について実に満足そうな表情を浮かべたバイロンは、テーブルの向かいに座るラブに向かい、なんでもない様子でそう言った。
 バイロンの言葉を受け、ラブは咥えた葉巻から鼻腔を通じて大量の煙を吐き出し、実に鋭い視線を相手に向けながら口の端を吊り上げる。

「・・・バイロン卿。お察しの通り私はね、こんな下らんトレードなぞに興味はないのです。カタリナカンパニーはヤーマス塩鉱を餌にメッサーナの近衛軍団から資金を巻き上げるつもりだが、それで結果フルブライトに勝ったとしても、私にはなんの関係もない」
「心中、お察ししましょう。此の期に及んで今更メッサーナの犬というのは、些かドフォーレのご子息には不釣り合いだとは感じていたところです。そのお姿には亡き父上もさぞ、お嘆きでしょう」

 バイロンが眉ひとつ動かさずにラブを見返しながらそう言ってのけると、ラブは今度は上機嫌そうに笑い、そして葉巻を蒸した。

「はっはっはっは。流石はバイロン卿、矢張りフルブライトで話すならば貴方様ですな。それでは・・・そろそろ本題に入りましょうか」

 そう言ってラブが左手を軽く上げると、側に控えていた執事が一礼をしながらその場を立ち去っていく。それを見たバイロンもまた、側に控えさせていた執事を艦橋の外へと下がらせた。
 それを横目に見届けたラブは、テーブルの上に両腕を乗り出すように乗せて両の指を組み合わせ、微動だにせぬバイロンへと向かって語りかけた。

「貴方がフルブライトを手中にし、私は再びヤーマスをこの手にする。私は今宵の宴を、そのための門出の宴にしたいと考えているのです」

 ラブが、まるで確認でもするかのように静かにそう語りかける。
 すると、よく動いていた表情筋と違って一度も感情らしきものを示していなかったバイロンの瞳が、ここで微かに色めきたった。

「・・・私がフルブライトを手中に・・・とは、また酔狂なことを。既にフルブライト二十三世様が、社を率いておられますよ」
「バイロン卿。ここでそんな寝言はもう、無しにしましょうよ」

 テーブルに乗せた両肘を支点にしながらさらに身を乗り出すようにしながら、ラブはバイロンの瞳を覗き込む。

「カタリナカンパニーの連中は、大きな勘違いをしている。そもそも、アビスリーグと我々ドフォーレが・・・繋がっていないわけがない」

 ラブのその言葉に、バイロンの瞳は殊更に大きく揺らいでみせた。

「屈辱でしたよ・・・奴らの元で、一時とはいえ道化を演じるのはね。だが、その甲斐あって私はこうしてここに来た。今日この場を皮切りに、愚かな我が父では成し得なかった、完全なる経済の混沌と支配・・・それを私は、この手で成し遂げる」

 バイロンの瞳を射るように見ながら一気にそう捲し立てたラブは、そこで一息つくように身体を椅子の背に預けるように引き下げた。
 そしてうっすらと青い光が差し込んで怪しく赤紫に変色して見えるワイングラスを掲げ、一気に飲み干す。
 その様子を無言で見つめていたバイロンは、うっすらと目を細めるばかりだ。その視線は、いかにもラブを値踏みしている様子である。

「・・・アビスリーグ参画者は、その大いなる意志によって動いており、相互になんら連絡をとっているわけでもない。ただ、目的が同じだからこそ、行き着く先も必ず同じ。だからこそ私には分かるんですよ、バイロン卿」

 火の消えていた葉巻を再び蒸すように数度火元で空気を通し、そしてゆっくりとその煙を鼻腔に通した後、ラブはぐにゃりと悪虐しく口を歪ませた。

「いや・・・我らがアビスリーグ同志、バイロン殿。そうお呼びするべきですかな」

 ラブの言葉に呼応し、バイロンは僅かに口を歪ませ、その瞳を一層怪しく光らせた。







最終更新:2022年10月16日 19:13