ピドナからツヴァイクへと向かう船の後部甲板で少年は一人、荒々しく波打つヨルド海の水面をじっと見つめていた。

「サラ・・・」

 呟けど、その声はサラに届くはずはなく、波の合間に消えてゆく。
 少年は、まるで自分自身が波間に放り出されたような気分で、ただただ甲板の上で揺られていた。

 魔王殿最奥でサラが自分を深淵から押し出し、アビスゲートの向こうに消えた時。
 その時、少年は再び、生きる意味を失ったと感じた。
 それは束の間だけ自分にも感じられた、生きる意味、という感覚だった。
 少年にはそもそも、最初から望みなど無かった。それこそ生きるという望みすら、なかった。
 記憶にある限り、いつも少年は一人だった。何らかの理由で自分に近づいてくる人や魔物はいたが、それらは区別なく例外なく、皆死んでいった。
 このとき少年は自分が、関わる全てに死をもたらす存在なのだ、ということを理解した。
 そんな自らの宿命を前に、少年は絶望した。
 実は、なぜ絶望したのかは正直、彼自身にもよく分かっていない。
 そもそも彼は生まれてから今まで、絶たれるほどの望みなんて最初から教えられてなかったし、持ってもいないはずだったからだ。それでも彼は自らの宿命に、心から絶望した。
 そしてなぜか彼は、自ら死を選ぶことが出来なかった。望む望まないに関わらず体は意地汚く、必死に生にしがみつくことをやめなかった。自らは他者に死をもたらす存在であるというのに、これは大いなる皮肉だと感じた。
 だから生きるのに最低限必要である以外の周囲との関わりを拒絶しながら、彼は世界を宛てもなく彷徨った。
 彷徨う最中、自分に関わる生き物が次々に死んでいくのを目の当たりにし続けることで、彼は自らの宿命に徐々に心が侵されていくのを自覚していた。
 少年は、恐れていた。
 絶望が絶望でなくなった時、自分は一体どうなってしまうのか、と。
 その、いずれ訪れるであろう得体の知れない感覚を、少年は何よりも恐怖した。一人その恐怖に打ち震えながら、重く冷たく、先の見えない暗闇を這いずり続けていた。

「今なら分かる・・・あの時僕は、既に半分アビスに引き込まれていたんだ。もしずっとあのままだったなら僕はきっと、全てを終わりにするために深淵を目指したことだろう」


 ある時たどり着いた聖都ランスで、聖王の子孫だという人物と出会った。
 少年は聖王なんていう人物には欠片も興味がなかったし、世間一般的に抱くような尊敬の念も、まるで抱いていなかった。
 確かに少年が訪れた全ての街には規模の大小こそあれ必ず聖王教会があり、そこには聖王が定めた秩序が確かに息づいていて、人々は今の世の平和を聖王に感謝していた。
 だがその秩序とやらは、一度も少年を助けてくれたことはなかった。
 それでも、強引に聖王の子孫とやらは人と関わらんとする少年を家へ招き、半ば無理やり王家の指輪を少年の手に取らせた。
 その時、姿なき聖王が指輪を通じて少年に語りかけてきた。
 姿なき声に驚く少年を他所に、聖王を名乗る声は一方的にいくつかのことを彼に告げた。
 少年の宿星が死の星であること。それ故に背負う、大いなる宿命があること。しかしそれがどんな結末を齎すのかは聖王にも全く分からないらしい、ということなどを。
 どれもこれも少年を絶望から救ってくれるような内容ではなかったが、ここで漸く自分が何者であるのかを知るに至った少年は、このとき生まれて初めて、目的を持って行動しようと思った。
 別に世界がどうなろうと、少年に興味はなかった。
 自分にとって絶望しかないこの世界は、そもそも別に好きではなかったから。
 だが、なぜ自分ばかりがそんな理不尽な宿命を背負っているのか。その望まぬ宿命には、一体どんなご大層な理由があるのか。せめてそれくらいは知らなければ、気が済まないと思ったのだ。
 そうして少年は王家の指輪に導かれるまま魔王殿に向かい、騎士カタリナに出会った。
 少年は、指輪がカタリナの元へ渡らんとしていることに、すぐ気付いた。
 そう、聖王の声を自分に聞かせてきた指輪は少年を導いていたわけではなく、指輪自身が在るべき場所に在ろうとしていただけだったのだ。
 声を聞いてからここに至るまで、ひょっとして自分の宿命とは四魔貴族を討伐することなんだろうか等とも考えていた少年は、その役割が自分ではなくカタリナたちにあることを同時に悟った。
 勝手に勘違いしていた自分の行動が馬鹿らしくなって、そのままカタリナに指輪を渡し形ばかりのエールを送った少年は、再び宛てもなく世界を放浪することにした。
 自分の宿星は分かったが、結局その宿星と宿命がどんな意味を持っているのかは分からないまま。
 それでも、自分が何者なのかという事がわかっただけでも良しとすべきか。そんなことを思いながら、少年は以前と変わらず世界を彷徨う日々に戻った。
 それが半年ほども続いたあと、少年は、サラと出会った。
 この出会いを、少年は生涯忘れることはないだろう。

「あの時のサラは・・・すごい強引だったな。エレンさんから君は引っ込み思案だって聞いたけど、僕には信じられないよ。でもそんな強引さのお陰で、僕は君が・・・サラがいるこの世界を、守りたいと思うようになったんだ」


 サラと同じ宿命を持つ少年には、たとえ世界を隔てるほどに互いが離れていても、サラの命の鼓動が、確かに伝わってくる。
 だから少年は、今この瞬間も確信しているのだ。アビスゲートの向こうでサラはまだ生きている、と。
 エレンは魔王殿から戻った後にそれを聞き、少年を連れて旅立つことを即断した。
 サラの想い、そして自分の想いとは異なるエレンの意思に、少年は大いに戸惑った。
 サラは自分が一人深淵に降りることで、次の死蝕まで続く平和を世界に齎そうとしていた。少年もまた、その役割を自分が引き受けるつもりでいた。それは、二人が旅する間にずっと抱いてきた切なる想いだ。
 だから自分が深淵に行くことが叶わなかった今は、せめてサラの望んだこの世界の平和を、静かに見守るべきなのではないか。
 そう自分に言い聞かせようと、少年は考えた。
 周りにいた人たちも、大多数がそう考えていたはずだ。自分がかつて魔王殿で王家の指輪を手渡し、その宿命に従い見事四魔貴族を討ち果たした騎士カタリナも、そう考えていたようだった。
 サラはまだ深淵で生きている。それは分かっていた。
 そして全てのアビスゲートが閉じた訳ではないということも、少年は感じていた。四魔貴族の守護するゲートは機能を停止したが、それ以外にまだゲートが在るようだということだけは、間違いなく少年には感じられていたのだ。
 ひょっとしたらそのゲートを通じて、サラを助けに行けるかも知れない。
 そんなこと、考えないわけがなかった。
 当たり前だ。少年にとって、サラはこの世界の全てだと言っても過言ではないのだから。
 だが、その行いはサラの願いを否定することに繋がってしまう。それもまた、同時に分かっていた。
 世界のどこかに在るらしい第五のゲートは、とても危険なもの。もしそれに迂闊に手を出したら、他のゲートを閉じた意味がなくなってしまう。世界は一気に聖王以前、災厄の時代へ逆戻りだ。いや、もしかしたらそれ以上の大いなる惨劇が訪れるかも分からない。少年は己の宿命ゆえに、それを確信していた。
 だから少年は、そのことを必死に皆に伝えた。
 幸いなことに周囲の人たちは、誰もが少年と同じ気持ちを抱いてくれたようだった。
 出来ることなら第五のゲートを目指し、サラを助けに行きたい。
 しかしそれは世界を再びアビスの脅威に晒し、サラの願いを踏み躙る行為。
 即ち、世界に仇なす所業である。
 そんなこと世界は望んでいないし、サラも望んでいない。
 だから、彼女が望まないことをするべきではない。この現実を受け入れ、これから先の三百年の平和をしっかりと守ること。それが、この世界に今生きる者たちの務めに他ならない。誰しもが、そう考えた。
 だけど、それを真っ向から否定した人が一人いた。
 エレンだった。
 彼女の言葉は、少年の心を大きく揺さぶった。

 『あたしはサラを探す。生きてるなら必ず探し出して、絶対に連れ戻す』

 サラの望み。
 世界の望み。
 その為に集い戦った人々の宿命。
 少年の話を聞いたエレンは、それらをこれっぽっちも意に介さず、即座にそう言い切ったのだ。
 少年はその言葉に頭を強く殴られたような思いで、そして静かに涙した。

「僕も君も・・・死の星を背負い、世界のために死の星に命運を委ねる宿命だ。でも・・・その宿命だけが絶対なら、僕には心なんて要らなかったはずだよ。だからこれは・・・心を僕に与えた誰かが悪いんだと思う」

 少年は、己の中に生まれた本当の望みを、もう絶対に手放さないと決めた。

「サラ、ごめんね。僕は世界中を敵に回して・・・そして君に嫌われても。それでも・・・君を助けにいく。もう、そう決めたんだ」






 そこは世界を構成するもの全てが、深淵そのもの。
 見渡す限り上下左右全てが、仄暗い深淵に覆われた場所。
 どこまでも続くその深淵の中、ある一点だけが唐突に、どこからか漏れ出す淡い光で、ゆらゆらと儚げにゆらめいている。
 そのゆらめきの周囲は、まるで時の流れが止まったように静かだった。

 ゆらめきの中心には、一人の少女が居た。
 少女は目を瞑り、僅かな身動き一つすらせず、呼吸をしているのかどうかさえも定かではない。
 だが、少女は生きている。少女の身の内から溢れ出る強烈な生命の輝きと奔流こそが、この深淵をすら侵食せしめんとするゆらめきの源なのだ。
 少女は、世界を隔てる扉そのもの。つまりここに少女の存在がある限り、深淵と扉の先にある世界とは交わることなく、分かたれたままだ。
 当然、いずれ少女の命は尽きるだろう。今は輝かんばかりに溢れ出る生命の奔流とて、無限ではないのだから。
 そして少女の生命の輝きが失われた後、数百年後に再び訪れるであろう時を静かに待つことになる。

 少女とそのゆらめきをじっと見上げる、四つの影があった。

『三百年前とも、六百年前とも異なる、新たなる宿命を背負った子・・・か』
『定めを背負うものが、二人。そのようなことは今まで有り得なかったことじゃ。となればこの娘の定めとは、このまま命を終えるようなものではあるまい』
『二人同時に現れた宿命の子、我々の知らない第五のゲートの存在・・・。今回は、明らかにこれまでと異なるね』
『あぁ・・・そして我らの幻影を滅ぼした、あの不遜な虫けらの存在。あのようなものが宿命の子と別に現れたことも、此度の事態と無関係だとは思えぬ』

 四つの影は、少女を見上げながら口々に語る。

『もしかしたら魔王は、こうなることを狙っていたのかも知れんな』
『・・・是非もないことじゃ。例えそうであったとしても、我らの目的は変わらぬ』
『その通り。魔王や人間がどのような目的を持っているにしても、もう我々とは関係ない』
『左様。我らはただ、ゲートの向こうを目指すのみ』

 四つの影は語り、そしてその場から音もなく消えていく。
 そうして何者も居なくなったその場には、変わらず揺らめく淡い光と、その中心にいる少女だけが残った。

 少女は、感じていた。
 この深淵に在る、触れてはならぬものの存在を。
 きっと自分は、ここに来てこの存在を抑えることが本来の宿命だったのだろう、と。
 少女は、願っていた。
 自分が宿命を全うすることで、愛する人達が平穏に暮らすことの出来る、これからの素晴らしい三百年を。
 少女は、望まないと決めていた。
 望んでしまったら、全てを破壊することになる。それが分かっていたから。







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最終更新:2024年04月07日 11:10